八郎のホームページ
貴重な時間を無駄に過ごさないように。
Don't waste time over trifles.

人生の楽園を捜し求めて
 
Looking for the Garden of Eden.
 
 
 
 

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H30年8月31日(金)
奈良女子大学の校舎
本当に綺麗な校舎でしょう、約束どおり今日のブログに載せておきます、
 
平成21年に創立100周年記念式典が行われ、当時は女子高等師範学校と呼ばれていました、私たちは「女高師」と呼んでいました、向かいの我が母校は奈良師範付属中学と呼ばれ通称「付属」と呼んでいました、
 
女子大には国産の最古のピアノが置いてあり、建物は分かりませんが守衛室が重要文化財に指定されています、
多分この建物も立派なものなので何かの文化財に指定されているかも知れません年、
 
今度奈良に行ったときには是非とも綺麗なところを撮らせていただきたいものです、
付属の行く先も探索します。それが◎本命でしょう。
 
先日の付属の一級下の級友の連絡先が見つかりました、最近は電話帳が無いので個人的に調べられないが、104に電話すると何の疑いも無く電話番号を教えてくれました、秘密保持のため拒否されるかなあと思っていたのですが、
同じ苗字の家が9件あり、まずはじめに2軒を教えていただきました、分からなかったら順番に9件の番号を聞けばいいと思って、第一発目を聞けば本人のお姉さんの家にどんぴたり、驚きました、
早速送ることにしました、遠い親戚にあたり88歳のご高齢、お元気で驚きました、4軒の借家を持ち、農家、野菜を作り朝市でご商売、本当に頭が下がります、
私たちの12人兄弟のことをすべてご存知、姉と女学校が一緒だったとか、昔話に1時間以上喋っていました、
 
郵便局に走り簡易封筒を仕入れ、写真を少し引き伸ばしてお手紙と一緒にアルバムを送りました、
 
さてどんな反応が?
お楽しみ、
また本命の私の活動の写真を送るのを忘れてしまい、別便で。本当にあほやな。
 
 
 
H30年8月30日(木)
古(いにしえ)の通学路
スポーツ自転車の右ハンドルにバックミラーをつけるためにイオンの自転車屋さんに相談に行くも今は在庫が無く、新しくつけるにしてもグリップが邪魔になって付けられないとのこと、本当に欲しいのだがあきらめた、
 
奈良町に向かって走る、今日もまだ暑い、35度、自動販売機にお世話になることが多い、東向き南町で写真を沢山撮り、近鉄駅前の小山の噴水が懐かしい、此処で下車し記念撮影、東向き北町に入る。
 
雰囲気ががらりと代わり、南町は観光客で一杯、北町は静かである、此処まで観光客はあまり足を運ばないようだ、
 
途中昔懐かしい本屋さんを見つける、
豊住書店である、本当に懐かしい、中学、高校と通った本屋さんである、もう70年になるかなあ。本当に懐かしい。
 
店長は私と同じようなお年、何故私がここへ来たかを話すると、同じ付属中学校、高校も勿論○○高校、驚き。残念ながら一級下、
大学は京都大学工学部、いまだに忙しく働きまわっておられる、
買った本は
   
   侮日(日本をあなどる)
「韓国人」はなぜ日本を憎むのか」
     呉 善花
 
まだいち分読んだだけなので感想はかけませんが、少しはすっきりした。
 
突き当たると奈良女子大があり、本当に綺麗な搭のある校舎、昔と少しも変わらない、懐かしく70年前に戻った感じがした、
今男女共学の話が出ているが、孫娘5年生に聞くと「女性だけの学校はいやや。」そんな時代になっているんだなあ、
 
70年前なら近所から通っている女学生と会うと一言も喋らずに追い越してしまった時代とえらい違うなあと感じている。
 
機会があれば奈良女子大の校舎を写してみたいと思う、
 
 
 
女学生の憧れの的、奈良女子大がある、その前に通っていた付属があったのだが、今は放送大学に変わっている、
 
 
 
H30年8月29日(水)
ラミネーター
写真には必ずラミネーターフィルムを焼き付けています、こうすると何十年も色あせせず長持ちします。
A4,2L,はがき、L版
 
遂に古いラミネーターも動かなくなり、メーカーに連絡すると、12年前に製造中止、修理は出来ませんとのつれない返事、
しかし考えてみると15年以上この製品を使っていることになる、一度も故障無く。
さすがMADE IN JAPAN、
 
さっそくJOSHINに行き購入する、
また驚き、たった5,000円なり、
プリンターのインク6本入りだけでも8,000円以上、毎月これ以上のインクをつかっている。
ラミネーターのフィルムも必要だがまあたいしたことが無い、
人に良く写真を上げるがやはりラミネーター処理の写真は喜ばれる、
H30年8月28日(火)
明魂(めいこん)
引き出しからこのような素晴らしい小冊子が見つかりました、
 
     明 魂  
 
月ゆかむるにあらず、
波騒ぐなり、
静水に映る月をみよ、
波立心に映える万丈わ真の姿を表わさず。
    ーーーーーーーーーーーーー
 
冒頭の言葉なれど、一部省絡させていただき、最後の言葉を表示させていただきました。
有難きお言葉、身に染み入ります。
 
近畿明魂修練会
       会長 吉村 勲
 
 
実は二月堂の深夜の修練をされておられるときに、家内のお百度のけなげなと言うより命を懸けて祈っているすがたを垣間見て助命していただいた高僧である。
 
もうあれから30数年を経て、私も何かと大変な時を過しましたが、兄弟,姉妹、長男、次男、長女の各家族そして親戚と家内と孫たち、友人、知人の家族的な愛に育まれこのように元気な時を過ごしています。
ありがとうございます。
H30年8月27日(月)
イオンモールへ
久しぶりに手紙を友人からいただいたのですが、ほんとうに綺麗な文字、崩しもせず教科書の楷書文字、
返事を書かなくっちゃと毛筆用の便箋を探すも、分からない、早速イオンモールへ約3km、自転車でお買い物、文房具屋さんの係員の名札を見て見てびっくり、○谷君、私の実家の次の村、この名前が多いところです、これではっきりした、
 
遠い親戚に当たる。
私は奈良市内の中学校を1951年に卒業、綺麗なアルバムもある、何故だか我が家に1952年のアルバムもある、いつかは彼に返さねばと思いつつ66年が経ってしまった。
自転車で1時間近く、生駒駅から電車で30分、奈良駅に着き、奈良女子大学の前にある、約2時間の通学時間。
全校生徒600人、
 
本当に懐かしい、当時の奥田知事さんの息子さんも同じクラス。そこそこの学校かなあ?
 
明後日もう一度イオンモールに行くので彼に会えたら「こんな名前のおじいちゃん、おられる?」、と聞いてみよう。
 
私が何処にいるかわかりますか?
前列左から二人目。こんなかわいらしかったのですよ?今はどうにもならないおじいちゃん。卒業写真です。
 
 
 
H30年8月26日(日)
昨日の続き?
さて誰でしょう?
 
そうなんです、上田市長と県会議員さん、
おチョカぶりを発揮して楽しそう、
これで次の選挙も大丈夫、
安倍さんもいかがですか?
 
残念ながら太閤秀吉公は足を悪くしてこの激しい踊りにはついていけません。
お疲れさんでした。
 
  −−−−−−−−−−−−−
 
◎ 8月26日(日)の予想気温は38度、
家内と娘に自転車の外出は禁じられています、
終日昨日の阿波踊りの写真の整理です、
立派なアルバムが出来ました。
H30年8月25日(土)
平和コムニテイ祭り
隣町の平和南町で夏祭りが行われました。
メインは夜店。カラ揚げ、焼そば、みたらし、綿菓子、カキ氷、金魚すくい、ヨーヨー釣りなど、ゲームはストライクアウト、吹き矢など。????
余は余りの暑さにカキ氷2杯で暑さに耐えました、これほど美味しいものはありませんね、たった100円とは?
 
今回は特別に阿波踊り、あの有名な「踊るあほうに見るあほう、どうせあほなら踊るらにゅそんそん」
5:00と6:30分の二回、櫓の周りを綺麗どころが踊って愉しませてくれました、
6:30分からの第2回目の阿波踊りもますます興に入り。市民を交えて、今日の本番、郡山上田市長を初め県会議員さん、町内の老若男女の演出、この暑さをぶっ飛ばすほどの、熱演、この小さな町であの壮大な阿波踊りがみられ、踊れるとはこの世の天国、上田市長も羽目を外して関西弁で「チョカ」ぶりを発揮して3周も踊っておられました、こんな交わりもいいものですね、
余は心の中で踊っていました?
 
久しぶりに市長さんとお会いし、「やあ、秀吉!」
その昔郡山時代祭りで大阪城甲冑隊と筒井順慶時代行列を思い浮かべ声をかけていただいたのですね。
今日は残念ながら阿波踊りの衣装ではなかったのですみません、
 
実は先日あの派手な自転車のサイクリスト姿で奈良の奈良町で今日の阿波踊りの奈良地区の大佛連の会長さんとお会いし意気投合し今日のお披露目会の招待を受けたのです。
 
薩長土肥が徳川幕府を転覆し、明治維新を成し遂げたのですが、阿波は徳川方、
現在はこのように敵味方も無く仲良く遊んでいます、
 
昔は60名近く、いまは若者の参加が無く20数名、阿波出身の奈良県在住の方々のお揃いです、
 
私から見れば市長さんをはじめ皆さん方お若く、まだまだ盛んなり。
 
 
H30年8月24日(金)
診察
3ヶ月ごとに診察と投薬があり、無事終了しました、
 
経過も良く2ヵ月後検体の検査、脳波、MRIによる検査があり、無事何事もないことを祈ります、
その後1ヵ月後に診察があり、結果が報告されます、
 
終了試験であってほしいです、
 
正面玄関に薬局があり、薬局の先生にお話をすると不思議なことに我輩の後輩との事。驚き、握手をしてお互い検討を祈る。
H30年8月23日(木)
違法駐車
郡山市の三の丸図書館に行くついでに近鉄駅前に交番を見つけ、いつも気になっている違法駐車のことで立ち寄ってみた。
我が家の東のほうに軽四が四台塀際に並んでいるので、相談してみた。警官が外出中で女性職員が一人、事情を話すと区域外でJRのほうの交番との事、連絡を取っていただきました、
 
ついでに市役所により、道路課を訪問、お昼休みで各事務所は真っ黒け、節電しているのである、驚き、そこまでせんでもいいのにと、係員に相談、一市民で或ることをいい、我が家の東のほうの道が下つ道とし拡張され通行も便利になった、この道路が県道ならば、奈良市の県庁まで行かねばと思っていたのだが、運よく市道との事、実は立派な歩道雅ついているがその東側がおきな駐車場で大きなトラックが出入りしており、折角の歩道が大きな広い穴ぼこ、私の早朝の散歩道でもあり、車道は車が頻繁、相談すると若い元気な職員が早速現場に行く、との事、地図も立派な立体のカラー版、人目で場所が分かる、
十数台駐車しているトラックターミナル、風が吹けば砂嵐が吹いてくるターミナル、是は別問題だが、
「工事中トラックの出入り中止ですね」と言ったら「そこまでしなくてもいですよ」とおっしゃる、「はいしゃさんのセメント詰めみたいなもんですね」といったら笑っておられた。
何かにつけ役所への陳情は難しいと思っていたのだが、「即見に行」くと言っていただいたのには驚いた、矢張りこんなおじいちゃんに気を遣わすのにはかわいそうと、思っておられたのかもしれない、
 
三の丸図書館に行き、時間を費やし、池上啓さんの面白い本を少し読んで、いい時間になったのでJR横の交番に自転車で走る、警察官がお二人、近鉄のほうから連絡があったと、待機していてくれたのである、
 
道路ではない空き地での駐車は私たちが考えているほど簡単なものではなく、とりあえず迷惑駐車のビラを貼りましょう、と言っていただいた、手際が良いので矢張りこのおじいちゃんがこの暑いなか、自転車を漕いで来てくれたとの同情かなあ、
家に着くと丁度警察官二人がパトロールカーで来ていただいた、
余りの速さに驚き、その後各車に写真のようなビラを貼っていただいていた、
 
近所の方に聞いたところ、証拠写真のためにプロの腕前の職業写真を持参し、県警の写真の仕事をしていたにもかかわらず、「写真はどうにでもなる」との返事で私の場合と違っていやになって帰った、とのこと。こんな場合もあるんですね、
 
今日の3件とも優しく親切に応対していただいたので有難いです、
「またきてください」そんなことばを後にして帰りました、
 
H30年8月22日(水)
無花果(いちじく)
庭に沢山なイチジクの実が成りました。
8月から10月までが収穫期でまだまだこれからです。
スーパーで売っている立派な実ではありませんが、取立てなので本当に美味しく甘いですよ、
 
カルシウム、鉄分、ビタミンが豊富に含まれていて、実も葉も薬効と栄養価が高く美容と健康にも良い果物です、
 
イチジクの花言葉は子宝に恵まれ、裕福等で結婚、妊娠した人に是非とも贈りたい意味を持っています、
 
花が咲かずに実をつける果物で、花が実の中になるという特殊な形です、
 
原産地はアラビア南部で無花果は漢語です。
 
毎日沢山食べてこの猛暑を乗り切りたいものです、
 
◎ 花が実の中にあるということで何かにたとえられているそうです。
H30年8月21日(火)
内科医先生へのお見舞い
大変お世話になった内科医の先生が入院との噂を聞き、お見舞いに飛んでいきました。
会社の近くの医院で会社を辞めてから20年近くなります、
 
とりあえず橿原神宮まで行き、と思い近鉄郡山駅まで自転車、駅員に駐輪場を聞き、あずけました。
駅にて切符を買わなければと切符売り機の前に立ったのはいいが、どうしていいかわからない、ご存知のように頭の記憶がこんな状態、金額の400円は分かったのだが何処を押せばいいのか分からない、頭がこんがらがってきた、適当にボタンを押すと反応なし、置くからこの様子を見ていた駅員が飛んできてくれた、図面が出るからその中の400を押せばいいのだ。
是でやっと切符が手に入った。知能指数が0に近くなっているんだね、
 
丁度良く橿原神宮駅行きの急行電車が入ってきた、30分ほどで到着、
駅から歩いて先生の自宅に直行、奥さんに病院の名前を聞けばいいと思い自宅の玄関のベルを押せども反応なし、
さて困ったものだ。近所の方に聞けばと思い、ベルを押せども反応なし、最近は年寄りだけの家が多く、その上留守勝ち、2〜3軒回れども反応なし、最後に綺麗な着物やさんに聞いたがわからない、しかし事情を話せば親切に応対していただいた、適当に病院の名前を言えば確かと言って病名を教えていただいた、外へ出るとタクシーやさんがあり、病院名を言えば、「歩いて、タクシーで」と怪訝な顔、また間違ったらほかの病院を探さねばならないので、とりあえずタクシーにのる、
5分ぐらいで到着、
 
受付で聞くと先生が入院中、良かった、良かった、しかし面会時間は2時から、是は大変、しかし患者さんからOKが出たので即面会できました、
 
先生は91歳、5年前まで診察をしておられたらしい、日に焼けることが無く真っ白、お元気そうで耳も遠くなく昔話に花が咲いた、足が悪く何度も入退院とのこと、
先生には大変お世話になり、海外旅行も一緒に行ったり、写真術も教わった、
 
この写真は郡山築城400年祭・親子祭り協賛「写真コンテスト」に応募し築城400年、推進委員会賞に選ばれました。
賞状一枚ではなくこんな立派な盾をいただいたのです。
丁度このとき左足の複雑骨折のリハビリ中で近くの駐車場の3階から撮ったものです。健康ならば決して許されるものではありませんが石の下にもぐりこんでアップで石の偉大さをカメラに収めたかったのですが、矢張り日展作家のこの先生にお伺いを立て選んでいただいた作品が特選に選ばれたのです、そんな事情でこの先生には本当にお世話になっていたのです、
ビルがあり、電線があり、大衆がうようよしている作品なんて素人目にして誰が選ぶでしょうか。
 
作品は1985年12月15日から25日まで「三の丸会館」にて展示されました。
 
私の一生の宝物です。先生、有難う御座いました。
 
先生には私の入院中、池上君は「上、にぎりが好きやったね、」といっておいしい御寿司を頂き、不思議なもので落ち込んでいた私も急に元気になり、退院も早くなりました、
病院の殆ど前が橿原神宮駅、880円も払ってタクシーに乗っていたのです。矢張りおじいさんに見えたのですね。
 
帰りはスムーズに切符も買え無事郡山駅に着きました、
ところが駐輪場に着くと、あの高価な自転車が無いのです、また頭が狂ったのかなあ、と思いましたが、係りの方があの自転車は此処とは違います、一般の方に移しておきましたとのこと、やれやれ安心、此処はあの飛行機で有名な奈良高専さんの駐輪場でした、
 
こうして家内から離れて一人旅、なにかとチョンボが多いですがこうして頭を使い、「大人」になっていきます。
 
本当にすみません、これもあたまのリハビリです、頑張ります、
「いきっぱなし」になると要注意ですね。
 
 
H30年8月20日(月)
斑鳩町めぐり、
法隆寺ー法輪寺ー法起寺ー慈光院
 
先日訪問した時の写真が出来上がったので法隆寺の観光協会に持参しました、
メンバーが代わっていましたが喜んでいただきました、
 
メンバーが60人と聞いていましたのでほんの一部でしたが、今日はまた一人の新しい外国人のガイドの方にお会いしました、
 
元気なお方なのでお年を聞いてみると私より一歳下、余りのお元気には驚きました、
何かと話が合い、手足の黒さの比較、この暑さで手足が真っ黒、しかし彼の手足のほうがもっと黒い、なぜならば、
テニスの選手で全日本に参加、出場されたつわもの、それは黒いはずだよ、
何かと話が合い、玄関のアニメの大きな看板、余りにもきれいなので聞いてみると募集した原画を修正して今のこの看板を製作したとのこと、驚かされる、また自転車にも造詣が深く自転車談義、帰路追っかけてきて自分の世界で一台しかない手製の高級車、ロードレーサーを見せて頂いた。
素晴らしい、今のこの足では一緒にサイクリングを楽しめないのが残念、
早く元気になって昔みたいに、ハワイや鈴鹿ほど出ないがやはり目標にしたい、
 
次は素晴らしい仏像のある法起寺、法輪寺、詳しいことを書きたいが余りにも書くこととが多くなるので皆さまの御拝観に期待します、近くなので是非おいでください。
 
 
◎ 最後は今まで訪問したことが無い「慈光院」、禅のお寺である。
当地の大名であった片桐石見の守(石州)が大徳寺百八十五世玉舟宗播を開山に迎え、父貞隆の菩提寺として自分の領地内に建立した臨済宗大徳寺派の寺院である。
 
まず驚いたのはさつき一種類の丸い刈り込みと数十種類の木々の寄せ植えにした刈り込みを用い、境内の中だけを独立した庭園とするのではなく、周囲の風景・景観と調和するように構成されている。不思議なことに庭石が見当たらないのでかたさが無く心をやわらいでくれる。
 
茶席の庭として季節ごとの風情を楽しめるように設計されている。
 
私ははじめてこの慈光院を訪れこのお庭には驚かされる。丸く刈り込まれたさつき、
そよ風が吹き、数多くの畳の和室、シネラマみたいにお庭を見渡される、
 
お茶を嗜みながらこの庭を一望して、観光地ではない静かな環境の中でこんなすばらしい静かな時を過せる空間があるとはこの世のものとは思われない、
 
これが天国だろうか?
 
こんな環境の中で一服のお茶を頂くのだが、もったいなくてこの寺院の奥様に手ほどきを甘えてしまった、
滅多に正しい教えを受けたことが無い作道、いい機会であった、
 
その後、現実に戻り、優しい奥様と世間話、わたしも羽目を外してつまらぬ話をしてしまった。
かたぐるしい茶道を抜きにして美味しくいただくのもいいかもしれないが矢張り、大和魂、日本人として規律のある「道」も大切である。
 
この猛暑の中、大きな広間の和室、そよかせが吹き、自然のさわやかさ、
よい一日を過させていただいた、
 
ほんとうにありがとうございました。
 
 
 
H30年8月19日(日)
郡山ー橿原神宮 往復56km
新幹線にまたがって大阪ー東京に行った夢を見ました、?
足が悪いのでその反動だろうか?
 
 
実は平端(ひらはた)にあるプール公園です、
多くの子供たちがプールに泳ぎに来ていました、海のない奈良県、海水浴場キブンですね、
海水浴場と共に新幹線の通らない奈良県、いま郡山では新幹線超特急の誘致に県を上げて頑張っておられなすが是非実現して欲しいですね、
 
こんな立派な新幹線がこんな大きな公園一周を走ってくれているんです、
約5分間、風を切って猛スピードで走るその雄姿、前と後ろを持たないと重心が取れず危なく、酔いそうになりました、
病上がりの我輩には少し無理だったかなあ、
子供たちのほうが前のロープを持つだけで楽しんでいました。
この新幹線の運転手が私の行っている英会話のある南部公民館で一刀彫を教えている先生とは驚き、世間は何かとつながりがあるものですね。
 
自転車道路も探索しながらやっと橿原神宮に着きました、
矢張り長いです、自転車に乗り始めて約往復20kmが限度だったが今日は無理をしすぎました、
まず最初に行ったところは私の奈良勤務時代にお世話になった20年ぐらい前、内科の先生、私の入院中奥様と「池上君は上握りが好きやったなあ」と、お見舞いに来ていたただいたのを思い出し訪問したのです、
ベルを押し出てこられたのは奥様、こんな格好で大先輩を訪れるのは大変失礼かなあと思ったのですが、
奥様は心良くお迎えいただき感激、残念ながら先生は入院中、私より一回り大きく、90歳を越えておられる、5年前まで診察をしておられたのこと、頭は冴えておられるが、足が大変だそうです、
今日はお会いできなかったが、日を改めてお会いしたいと思います、
 
次は美味しいお昼ご飯をいただいた津田食堂、神宮前もかなり変わっており、探すのが大変、勿論私の記憶もいい加減、
やっと探し出し、知らぬ存ぜぬの一見の客として入ったのですが、もうすでにご存知、びっくりしました、
 
なぜならばこんな格好を見たことがないご夫婦、然しながら前を通る人をTVカメラで一瞬私を見つけたらしいです。驚き、ものすごい記憶力、私もこんな記憶を持ちたいものです、
 
昔は良くカツ丼をいただいていたのですがいまは冷やしうどん、家のものとは違ったみばえ、味付け、ご馳走様、
 
丁度お昼のお客さんが帰った後でしたのでい2間近くご夫婦とお喋り、まだまだ続きそうでしたが一応お開き、私と同じ新聞を読んでおられるので話が良くあい同じ昔人間なので話が尽きない。奥様は薩摩の南の島のご出身、大変な美人で少しもふけておられない、
ご馳走様でした、上手く自転車を昔並みに乗れるようになれば何度でもお昼ご飯を食べに来たいです、
 
近くの橿原神宮に参拝、わが国発祥の地なので懐かしく、また奈良の会社も同じくこの地がスタート、本社は金沢、工場は富山、懐かしい一日でした、
 
帰りは途中まで自転車専用道路でしたが、郡山の近くになって迷子、田んぼの道をとおりちょっと無茶をしたが、また逆り、時間がかかり矢張りやんちゃはいけませんね。
 
 
 
H30年8月18日(土)
初めての自転車通学、
今日は家内の送迎がありませんでしたので、一人でお母さんの電気自転車を借りて、南部公民館の英会話教室に参りました。
 
ジョシュ先生をはじめ友人である生徒たちから驚きの目を持って歓迎されました。
片道3,8kmですが土曜日の休日にもかかわらず交通量が多く、出来るだけ車の通行が途切れた時に、乗るようにしました、
歩道は余り広くなく、この身体では安定せず矢張りロードレーサーの方が身についています、
脚力が余り要りませんが、やはり慣れですね、
ちょっとつかれました、
 
お盆休みで英会話の生徒も昔のOB4人、帰りは皆さんが自動車で誘導してあげると、のたまい、かなり年寄りに見られているんですね。
 
勘と根性で帰るといったら皆さんが笑っておられました、
頑張ります、
 
こんな飛行機があったら助かるのになあ?
奈良高専に鎮座まします飛行機です、
残念ながら零戦ではありません。
H30年8月17日(金)
世界三大微笑
13日に法隆寺に参拝に行き、東にある中宮寺にお参りに行きました。
そこには世界三大美女と言われる
如意輪観世音菩薩が鎮座ましておられました、
神々しくその上あでやかな美しさが極めておられました。
 
世界三大微笑とは
@ エジプトのスフィンクス。
A レオナルドダビンチのモナリザ
B 中宮寺の如意輪観音、
 
 
H30年8月16日(木)
売太(めた)神社の阿礼祭
第89回古事記で有名な稗田の売太神社の阿礼(あれ)祭が10時から行われました。
 
祭典執行
  @ 稗田の舞
       写真のように綺麗な高尚なあでやかな舞が奉納されました、
巫女舞と申しまして今年は 宮中で厳かに舞っておられました権禰宜の方にご指導いただきました。この舞には来年我が孫娘が参加さあせていただきます。
 
A やまとかたり奉納、
     古事記の暗誦を奉納されます、
 
B 阿礼さま音頭
     多くの子供たちが「あれさま音頭」の踊りを奉納させていただきました、我が孫娘の二人も参加させていただきました。
 
C 阿礼さま新踊り音頭
 
鎮守の社のお話フェステイバル。
 
子供みこし渡御
古事記輪読会
 
秋祭りも稗田地区の皆さまに支えられ、無事終了いたしました。
また来年もよろしくね。
 
 
 
 
 
 
 
H30年8月15日(水)
大和民族博物館ほか
家内と娘家族3人で民族博物館と大和民族公園を訪れました、
@ やまとの暮らし、
   奈良盆地、(奈良盆地の稲作)
   大和高原(茶業)
   吉野山地(林業)に大きく分かれる、
 
A 民族公園の民家。
    江戸時代に建てられた民家が15棟、「町や」「国中」「宇田・東山」「吉野」
   藁葺きの豪華な家が復元されている。
 
B 大和民族公園、
    自然と人との共存の場として「里山」の環境を生かしつつ、「みんぱく梅林」  「菖蒲園」ほか四季折々の草花を愉しんでいけます。
 
明治、大正、昭和初期の生活を再現し、家具や道具、農業や茶業、林業のあらゆる道具を陳列している、私はもういい年なので殆どを承知しており、懐かしい経験をさせていただいた、
 
しかし機織(はたおり)だけは我が家には無く、きれいな写真の作品が撮れました、
この影絵は最高ですね。
このあと各地で紡績会社が立ち上げられ中学卒業の女性たちは金の卵として重宝されたのである、今はその陰もなし、
 
一部のコーナーで、戦争展が「遺品が語る平和へのメッセージ」として戦時中の生活が陳列され、赤紙一枚で召集された当時の赤い紙の召集令状が飾ってあった、
悲しい思い出である、
 
平成30年度夏季特別企画展であった。
 
私の小学生低学年時代をを思い出し、一緒に行って孫娘も不思議そうな態度で、
見学しておりました、
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 
帰路奈良高専の横を通った時に実物大の戦闘機が公園の中に安置されており、守衛さんに許可をもらい、写真撮影、てっきり零戦だと思って飛び上がって喜んだが実は米国の練習機、12,000機製造されそのうちの一機だそうである、
ノースアメリカン社製で2,000機が装備が近代化されT-6Gとなり世界各国で広く使用された、
 
この飛行機は郊外の人たちにも強い印象を与え大和郡山市の飛行機のある学校として有名になり、奈良高専のPRに一役かっている、
是非身に来てください。
 
ゼロ戦は貴重すぎて滅多に入手不可能、
 
楽しい一日であった、
 
H30年8月14日(火)
稗田の阿礼祭の予行練習
8月16日に行われる売太神社の稗田の阿礼祭りの子供たちによる舞踊のリハーサルが午後8時から行われました、
 
照明が暗いのではっきりは写っていませんが古式豊かに厳かに執り行われました。
 
古事記は皆さまご存知のように
和銅5年(712年)太安万侶が稗田の阿礼が暗記していた古事記を清書し天皇に奏上したといわれている、
阿礼の記憶力は素晴らしいものですね。
 
我が孫娘は来年のお祭りには参加することになっています。
じじ、ばば、馬鹿が今から愉しみにしています。
 
H30年8月13日(月)
法隆寺にお参りに
二日間にわたる奈良市内観光も賑々しく終了し沢山な楽しい写真を撮ることが出来ました、やはり大仏さんはすばらしいですね。
 
今日は法隆寺に足を運びましたが可也この炎暑には勝てず、とりあえず法隆寺の観光案内所に入り、避暑をお願いしました、気持ちよく男性のガイドの職員さんが受け入れてくれました、
ほっとしました、ところが突然、若い女性が私の顔を見て驚き、名前は言われなかったが私をお思いだしてくれたのです。
私のこの病気により過去のことはすべて忘却の彼方へ、事務所の建物、内部の配置、昔と代わっていないと思うが記憶に無い、
退職して13年、その後直ぐボランテイアーで法隆寺の外国人のガイド。5年間で150人のガイド、こんな英語で一人2時間のガイドが良く務まったなあ、今の私では到底考えられない、
しかし勤め上げたのには間違いない。
その上自転車の半そで、半パンツの派手な制服の格好、こんな格好では私を判別できないと思うのだが、女性の直感は素晴らしい、
男性のガイドさん二人、「私らの先輩だなあ。年から言うとそうなるんだなあ、しかし、今は会員60名だとか、英語力も可也進歩しているに違いない。
 
法隆寺の境内の
@ 南大門
A 中門及び廻廊
B 金堂
C 五重塔
D 大講堂
E 経蔵
F 鐘楼
G 大宝蔵院
H 百済観音像
I 夢殿
 
国宝なので仏像の写真は撮れなかったので残念でした。しかし全てに圧倒されました。
 
帰りに中宮寺に周り、如意輪観世音菩薩に対面、
この仏像は、
@ エジプトのスフィンクス
A レオナルドダビンチのモナリザ
B 如意輪観音
三大微笑像と言われている。
本当に綺麗ですよ。
 
どの建物にも石段があり、夢殿の石段は勢いをつけて登れたのだが、やはり下りは難しい、下手にひっくり返ったら大変なのでそばにおられたガイドさんに「ちょっとかたをかしてください」というと何を勘違いされたのか「おんぶしてあげよう」と、
本当におじいさんに見えているんですね。
 
勿論肩をお借りして無事降りました、
有難う御座いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
H30年8月12日(日)
アメリカ大陸を空襲した男
仰天!奇跡体験
以前に録画しておいた奇跡体験、アンビリーボーを見ました、
今まで考えていた戦争と言うものを根底からひっくり返させられるほどの衝撃を受けました、終始涙と感激で拍手、若し機会があれば是非私の作成したDVDを見ていただきたいと思います、
 
日本がアメリカと戦争した?ぜったいまけるにきまってるや?72年も経つと歴史がなくなってしまう時代、
本当に考えさせられる事実です、
 
日本で始めての特攻隊の隊長に任じられた藤田信雄大尉、突然軍部に呼びだされ潜水艦一隻でこの飛行機一機を積んで部下一名と太平洋を渡り、対岸の小さな町、ブルッキング市を攻撃せよとの特秘を命令される、しかし直接市民を殺傷することは国際法禁止、それを避けるため、山林を攻撃し、その火の勢いで街を焼き払うと言う戦術、攻撃は成功し、国内の新聞には大々的に報告されました、日本人としては始めてのアメリカ大陸への攻撃、大いに日本軍部に影響を与えました、
 
数年後まだ戦後処理が行われている最中に攻撃したブルッキング市から外務省を通して招待状が福井さんに届きました、いわゆる被害を与えた敵からの招待、政府としては責任は持てないから個人で判断して言ってくれとのつたない返事、福井さんは自分の隊員が特攻隊で沢山な犠牲を払っているので奥様方が反対するにもかかわらず家族で渡米することに決めました、
 
相手方は戦争もおわり、市を挙げての世界的な行事を考えていたので、この敵方の藤田さんにその勇気を称え白羽の矢が立ったのです、
しかし市民の多くは反対、これで散会かなあと思われたのでしたが、一人の傷痍軍人が立ち上がり、是非藤田さんを迎えて欲しいと提案、彼はフイリッピンで日本軍の捕虜になり厳しい捕虜生活、右足には傷跡が生々しく、杖なしでは歩けません、
彼は言いました
 
「この戦争は藤田君が起こした戦争ですか?決してそうではないはずです。戦争が起こしたのです、」
 
反対していた市民も同意し招待が決定されたのです、
彼は杖をついて会場を後にしました、「何処に行くの」と問えば彼は一ドル紙幣を持ってこれから寄付金を集めに」
なんと心の温かいお人ではありませんか?
 
本当にそうです、事実は被害は大きな木が一本焼けたのみ、前日雨が降り山全体が湿っていて山火事にはならなかったとの事、日本で大々的に報道されたのと大いに違うのです、
 
 
しかし藤田さんは現地について緊張の時間に追われていたのですが大いに歓迎されてお互い心が通じ合い素晴らしい時間を過ごしたのです、
このようにお互いが話し合えば戦争なんか起きないのにと、今までの戦争はなんだったのかと。
藤田さんは日本人の魂である日本刀をプレゼントに送呈し、必ず若い皆様を日本に歓迎すると約束しブルッキング市を去りました、
日米友好の火ぶたが切られたのです、
彼は決して率のよい航空関係の仕事にはあえて就かず、金物の行商をして資金をため、金物の会社を興しました、しかし子息に譲った会社も倒産し、大変なことになりました、すっからかんになったのです。
 
彼は生き残った部下に電話をし、頭を下げ仕事をあたえてもらったのです、給料は最低の120,000円、そのうち26,000円を貯蓄していました、
或る日娘が彼の部屋を訪ね殺風景な住まいに驚き家に帰るように進めましたが下着以外買うことも無く作業着で過ごしていたのです、
 
23年経ち彼は奥様に通帳を渡しました、
中をあけてみると100万円の大金、是で3人は日本に招待できるかなあと言ったので家族は驚き、「お父さん、まだそんなこと覚えていたの」
 
科学万博に学生さん3人をを日本に招待し、学校にも招待し若い学生たちの交流を薦めました。
ブルックリン市もまさか覚えてくれているとは思っていなく、驚いた様子でした。
 
藤田さんもその後3回渡米し、寄付金を募集し、チェトコバ公立図書館を寄贈いたしました、
ニューヨークタイムスも大きく彼の業績を称えました、
市長も藤田さんに会いにこられたのですが彼は85歳の人生を終えました、
 
ブルッキング市では彼を名誉市民に称え「日米の架け橋」を達成しました、
 
彼に日記にはこのために人生を全うしたと記録されていました、
 
次に世代には良き跡継ぎをきたいして藤田さんは若き高校生3名を日本に招いたのでした、
 
素晴らしいメッセージが沢山載せられていますが此処には書ききれませんので、DVDを必ずみてくださいね、
 
かなしいことにこの記事は日本では地方紙の片隅にちょこっと記載されただけだったようです、????
 
今日はこの辺で、
 
米 この軍刀は私の魂です。
  片時も放さず、もちろん、オレゴン州出撃の時も身につけておりました。
  しかしわたしには必要ありません、
  これを貴市に寄贈させていただきます。
 
   宗教、人種、異国すべてを話し合いで解決する世の中が早くくる事を期待する。
 
 
 
 
H30年8月11日(土)
東大寺大仏様
昨日に引き続き奈良観光、昨日は曇りがちの天候で余り暑さを感じなかったが、今日は昔のコースを見つけたとはいえ3kmごとに冷たい水補給、5kmで充分の水分補給でよかったのに、大変な暑さ、
 
猿沢池で暑さをしのぎ東大寺へと急ぐ、
さすが
国宝、
@ 大仏殿(高さ48,74m、奥行き50,48m、間口50,48m)
A ル舎那大仏(15m)
B 八角灯楼(4,62m)
 
大仏様は奈良時代の中頃、聖武天皇の発願により創建された。
ル舎那佛が本尊、華厳経の教主とされ、別名は釈迦如来である、
世界を照らし、光輝くほとけである、
さすがこの大きな仏像は多くの観光客を全て飲み込んでしまいそうな迫力があり、我々を全て抱きかかえてくれそうな自愛に満ちたほとけさまである、
学生時代にこの仏様の写真を撮ったのであるが露出不足で何にも写っていなかった。今回はカメラの性能も良くなり、写真のように手相まで綺麗に写っている、驚きである、
これからも我々を末永くお導きの程を、
 
是より東にあの有名な二月堂があり、あの長い階段を上り、広い長いデッキがあり、奈良平野を見渡される。
 
私が46歳の時、網膜剥離の大病にかかり6ヶ月の治療にもかかわらず、両岸失明、
手術も上手くいかず、不成功、
高校生、中学生、幼稚園の娘をかかえ、その上、家のローンも返済中、会社の勤務もむずかしく、それらを考えると生きていくのが大変、落ち込むのが早く、手術をした先生をあやめて、家内と二人で病院のビルの上から飛び落ちることまで考えていました。夜間勤務の看護師さんが毛布を持っていつでも対処出来るように見回っておられたそうです、
 
私の体重も65kgから40kgまで落ちこみ、意識もうろう、廃人同様でした、
会社の社員も「もう、これはだめだ。」と判断して会社に飛んで帰りました。
 
家内は一念発起して、家族が寝静まった夜中、単車でこの二月堂までお参りに馳せさんじました、我が家から10km在ります。
お堂の長さ一周100m、これを毎日100回、合計一万メートル、お百度参り、です、
 
厳冬の中、滝のツララも凍り、気温は零下数度、身も凍える滝で身を清め、その上気力で回っていた最初のお百度参りも、深夜の荒仕事、冷たい石畳も撒かれた水が凍り、すってんころり、足から血が出ている。
 
早朝帰宅しても主人の生命、子供たちの養育と考えると精神的に体力が衰え寝る時間もなくなりました、
 
幼稚園の娘も是を察してお母さんと一緒に寝る時間を惜しまず、お母さんと二人で100回るのが私の分を引くと助かるでしょうと、涙ながらに助けを申し出たのでした、
 
幼稚園の子供がこんなことを言うでしょうか、もうお母さんの様子を見ていられなかったのでしょう、
 
次男も一緒に助けてくれたこともあったと聞きました。
 
或る日のこと、「交通事故で私を轢いてくれたらいいのに。」
お百度は毎日なので100日続ける荒修行、「気が遠くなってこのまま。」と思うことがしばしば、
 
深夜の寒い日、是を見ていたお寺のお坊さんが「奥さん、そんなことをしていたら死んでしまう」
はじめお百度参りを旦那さんの年だけ回ればいいんですよ」と言って、滑らないように草履まで貸してくれた方が、今度は「即、止めなさい。悪霊が乗り移ってしまう。」と手を差し伸べてくれました。
 
その後病院も代わり当時、高度な手術であった、片目に人工水晶体を挿入し、手術は成功、その目が40年近く、私を助けてくれています、
天理の奥田先生です。名前を書かせていただきます。
 
一年近くの欠勤、会社も何かと大変だったようですが本社を説得して好意的に喜んで私を受け入れていただき、69歳まで在職させていただき感謝しております、
 
復帰後、最初は机一つ、電話一台、一日に通話が一人、家内からの電話でした。
 
一日が本当に長く感じ、居つらかったのですが、段々とお手伝いできるようになり、社員のお心遣い感謝しております、
 
助けていただいたお寺のお坊様と主人はその後このやさしいお坊様と、仏様のお掃除とか仏さまの顔を和紙に移す「写佛」(拓本)に精を出し安らぎを求めていました。
子供たちも成長しいまは独立して親孝行の道を進んでおります、
 
こんなことを考えながらこの猛暑を耐えしのぎお百度参りならぬ一日参りを終えました、
偶然にも奈良町に行く道をこの自転車で思い出し、お坊さんの家の前を通ってこの二日間通っています、
 
記憶喪失の身ながら、ささいなことでも思い出し、最近の日記も内容が自己中心な文章になり、皆さまにご迷惑をおかけしておりますが、私にとっては今まで家内に頼りっきりおり、少しでも独り立ちしなければと頑張っております、
どうかお許しを、
 
 
 
 
 
H30年8月10日(金)
記憶を思い出す。
中学、高校と奈良に通っていたので奈良市内のことは良く覚えていなければならないのに良く分からない、しかし今日は一念発起、我が家から奈良町へ突撃、
昔お世話になったお坊さんの家の前に出て、驚き、是で自信がつき奈良町を訪れる、自転車も一日ずつ慣れてきて要領も分かってきた、しかしまだ足が悪いので力が入らなく慎重に両足を使って降りる、
 
奈良町で写真撮影をお願いしたお方が同じGIANTを乗り、同じ趣味で話が弾み、琵琶湖一周も2日で走破、可也の腕前ではなく足前。風車村もご存知で驚き、
名刺交換、お互い気が合いそう、二人とも年より若く見え、先が楽しみ、
 
奈良町物語館でツーショット、此処でお別れし再会を約す、
菊岡の漢方薬やさんで写真を撮らせていただく、美味しい冷たい薬の入ったお茶をいただく、観光客に無料でサービス、ご馳走様、
 
無料で見学できる骨董屋さん、間口が狭いが奥行きが広い、20間ぐらいあり各部屋が昔の豪華なお店屋さんらしく、全てに想像以上の置物等が飾ってあり、写真を沢山撮らせていただく、
 
やはり天下一のお部屋のつくり、日本の昔を思い出す、
 
是を通り抜けると念願の猿沢池、池の周りの建物がすっかり代わってしまい、時代を感じる、
やっと記憶も蘇り、楽しさが増す、
興福寺や有名な五重塔も外国人の観光客で賑わっている、東南アジアに旅しているような雰囲気、今日は此処まで、
 
明日は二月堂や東大寺、春日神社とあとはお楽しみ、
沢山写真が取れるのが楽しい、そして昔のサイクリスト姿で10年以上の想い出を蘇えらせている。
今日の走行距離は20km、
 
良く此処まで自転車でこられるようになったので驚き、昔の人生の繰り返し、こんなことってあるもんだなあ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
H30年8月9日(木)
国連事務総長の挨拶。
余り評判の良くなかった韓国のハンキブン事務総長に変り、ポルトガル人のアントニオ・グテレス国連事務総長の挨拶の要旨は次のとおりです。
 
長崎原爆平和祈念式典にて、
 
「1945年8月6日に、この長崎で原子爆弾の攻撃で亡くなった全ての方々の御霊に、国連事務総長として哀悼の意を捧げます、
原爆の犠牲者と生存者の皆さまに、深い尊敬の念を表します。
 
長崎は希望と強さの道しるべで、不屈の精神の金字塔です。何万もの人々を殺傷した原爆も、あなたがたの精神を砕くことは出来ませんでした。
 
被爆者は世界中で平和と核軍縮を先導して来ました。全人類のために上げた声に、耳を傾けなければなりません。新たな被爆地、被爆者を容認することはできません。
 
原爆投下から73年の今も、核戦争の恐怖が存在します。核保有国は核の近代化に巨額の資金を費やし、軍縮プロセスは失速し停止しそうです。
 
多くの国が昨年、核兵器禁止条約を採択し不満の意を示しました。軍縮は喫緊の課題です。
 
核廃絶は国連の最優先課題です。ここ長崎からすべての国に全ての国に、すぐに軍縮に取り組み、目に見えるように進展させることを求めます。核保有国には特別な責任があります。
 
平和は連帯、思いやり、尊敬などの心で構築できます。長崎を核の惨禍で苦しんだ地球上の最後の場所にしましょう。私はあなた方とともにその目的のためにとりくみます。」
 
良く是だけのことを述べていただき感謝です、世界に発信して二度とわが国のように壊滅的な被害が無いように努力を期待したいものです。
 
 
H30年8月8日(水)
平和への誓い
人間は美しいものをつくることができます。
人々を助け、笑顔にすることができます。
しかし恐ろしいものをつくってしまうのもにんげんです。
昭和20年8(1945年)8月6日午前8時15分
原子爆弾の投下によって,街は焼け、たくさんな命が奪われました。
「助けて」と泣き叫びながら倒れているこども、
「うちの息子はどこ」と、探し続けるおとうさんやお母さん、
「骨をもいでください」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉がない姿でした。広島は赤と黒だけの世界になったのです。
73年がたち、私たちに残されたのは、
血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。
そして今もなお、遺骨の無いお墓の前で静かに手を合わせる人。
広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、
今、私たちは、強く平和を願います。
平和とは、自然に笑顔になれること、
平和とは、人も自分も幸せであること。
平和とは、夢や希望をもてる未来があること、
苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと、懸命に生きてきた広島の人々、
その平和への思いをつないでいく私たち、
平和を作ることは難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴にこめて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。
 
平成30年(2018年)8月6日
 
こども代表 
広島市牛田小学校6年 新開美織
 
広島市五日市東小学校6年 米広優陽
 
H30年8月7日(火)
初めてのクロスバイクによる平城京へサイクリング
今朝は朝から曇りがちですずしく、いつものとおりウオーキング、45分、
朝食後大河ドラマ マッサンを見る、
 
今朝は体の調子もよく、気温も暑くなく風が少し吹いている、
初めての奈良は平城京にこのクロスバイクであでやかなTシャツに着替え出発する、
途中から自転車専用道路が行方不明、尋ね尋ねて到着する、矢張りお世話になったあの歴史ある黄色いGIANT、是でなくっちゃ様にならない、途中静かなところで休憩、冷たい水を飲み一息入れる。
 
北の端の大極殿、古代の伝統的建築技術を参考に建築され只今第2次大極殿が建築中、
南の端が朱楽殿、その前に海の王者遣唐使が鎮座まします、陸の王者GIANTが是をバックに羽を広げている、本当に最高の構図である。事情を話して自転車を中に入れてくれたのである、係員がわしが責任を持つから入りなさいと、何と良くできたお方だろう、遣唐使もGIANTも抱き合って喜んでいることでしょう。
 
我輩まだまだ昔の自転車乗りには遠いがこの秋には昔に戻りたいと思っています、
今日は自転車を押して安全を期しているところが多くありましたが、之が大事、
 
朝8時半に我が家を出発、12時半に無事帰宅いたしました、約20km。
H30年8月6日(月)
原爆の日 安倍首相の挨拶
         −−−−−−−−−−−
 
「一発の原子爆弾が街を一瞬にして破壊し、十数万とも言われる貴い命を奪いました。
あれから73年、一命をとりとめた方々にも筆舌に尽くしがたい苦難の日々をもたらしました。
 
犠牲となられた方々のみ霊に対し謹んで哀悼の誠を捧げます、
そして今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞い申し上げます。
広島、長崎の悲劇を再び繰り返してはならない、唯一の戦争被爆国として、「核兵器の無い世界」の実現に向けて、粘り強く努力を重ねていくことは、わが国の指名です。
 
近年、核軍縮の進め方について、各国の考えかたの違いが顕在化しています。
真に「核兵器の無い世界」を実現するためには、被爆の実相の正確な理解を出発点として、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要です。わが国は、非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意です。
 
その具体的な取り組みとして昨年、核軍縮に関する「賢人会議」を、広島で開催しました。核拡散防止条約発効50周年となる2020年のNTP運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献します、
 
またその非人道性を、後世に、また世界に、伝え続ける勤めが我々にあります。
若い世代が被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取り組みを推し進めます。
 
被爆者の方々への援護施設は、保険、医療、福祉にわたる支援の必要性を受け止め、総合的に推進します。
特に、原爆症の認定について、出来る限り迅速な審査を行います。
 
結びに「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます、」
 
           −−−−−−−−−−−−
 
 
安倍総理大臣の素晴らしい原爆の日のご挨拶でした、
良く此処まで申されましたね。
明日の米国大統領のメッセージが楽しみです、
 
是だけの歴史的な事件に対して何も無いと言うことはトランプ大統領にとって大きなマイナスになるとおもいますが。
 
まさか安倍首相の挨拶が米国向けに都合の悪いところが書き直されていると言うことは無いでしょうね。
 
従軍慰安婦のように朝日新聞は国内では謝っているが、英語版では5年前のある首相の言葉そのままいまだに訂正されずに記載されているらしい、
英語が分かる人が朝日新聞社には一人もいないようだ。????
H30年8月5日(日)
原爆体験記
PCのブログからこの貴重な原爆体験記を見つけ出し印刷し即製本いたしました。
A4版22ページの貴重な記録体験記です。
綺麗な和封じの本です。
 
ひとりでも多くの方に読んでいただければ幸いとの但し書きが書いてありました、
参考までに複製可とのことで
HP 原爆「言の葉」のアドレスを併記いたします、
 
http:ohimikazako.wixsite.com/kotonoha/blank・17
 
私の父、山本信雄は旧制広島第二中学校の英語の、教師でしたが1945年8月6日、一年生の生徒を引率して爆心地ちかくで勤労奉仕中に被爆、生徒321人と教師4人全員がなくなりました。父たちと一緒に被爆した一年生・西村正照さんの兄で、同じ二中の二年生だった利信さんは、ご自身も被爆してやけどをを負いながら、6日の夕方、一年生が作業をしていた現地に弟の正照さんを発見して自宅に連れて帰られましたが,介抱の可斐なく、正照さんは自宅でお亡くなりになりました。
 
この手記は原爆投下後4年後の1949年書かれたものであり、GHQの厳しい統制のもと原爆に対する報道はいっさい禁じられてました。
没収廃棄されたのです。
そうしたなかで西村利信さんの手記が奇跡的にも生き残りました。
 
決して許されることが無い原子爆弾を使用し、その武器を軍人で無い20万人の市民女子供を一瞬にして無差別に殺傷するとは何たることでしょう。
 
この罪は世界史上永久に消えることなく、記録されることでしょう、
是が騎士道と言えるものでしょうか?
 
 
H30年8月4日(土)
静かなる街
我が家の玄関の棚にはこんな可愛いヨーロッパの街並みが並んでいる、
 
地震、豪雨、台風が嘘のように、
 
災害地の皆さまには申し訳なく、一日も早く復興されますようにお祈りいたします。
 
H30年8月3日(金)
本当にそのとおり。
現マレーシア首相が我々日本人のお尻をたたいてくれている、彼は93歳である。
 
少し読みにくいが読んでみてください、
「もりかけそば」を食べて「花園」に育っている日本人、余りにも幸せすぎる、従って悪事が日曜茶飯事のごとく新聞を賑わしている。目標を持ってピシッとしなければ。
私は戦前の育ち、彼は私より11歳年上である。昔の日本を良く知っている、
 
本当の日本人はこんなものではない、
もう一度胸に手を当てて考えようではありませんか?
 
H30年8月2日(木)
ウッドデッキの塗装
早朝散歩を取りやめ5時に起き、2時間かかってウッドデッキのペンキの塗装をやり遂げました、
長い間の病気のため何かと手抜きをしておりましたが、気にかかっていたデッキも綺麗になりました、
 
椅子に座ったり扇風機に当たったり腰を曲げるのを避け、膝を曲げるのも避けての作業、何とか綺麗に塗れました、
 
二匹(夫婦)の鹿さんも居心地が良くなったでしょう。
汗びっしょりでしたが涼しい間の作業、疲れも出なくシャワーを浴びてすっきりしました。
 
午後孫娘たちとスーパーめぐり。
やはり早朝のペンキ塗りのためか、猛暑のためか疲れが出て来ました、
 
先日の自転車の保険に加入し、これでサイクリングも9月1日から安心して走れます、お守りみたいなものです。
 
この保険の名は ”BiSPA"
”一般社団法人自転車安全利用促進協会”です。
H30年8月1日(水)
自転車乗りへの保険
サイクリストへの保険が発売されました。
いま少し自転車のレーサーを乗りかけていますが以前のようにスピードを上げて走ることが出来ないので要注意、
イオンの「ビスパサイクル」保険が発売されました。
毎月一ヶ月500円、
 
人にぶっつかってしまった。
転んで怪我運転できない、
パンクして動かない、
自転車が壊れた、
緊急通報サービスでロードサービス現場駆けつけ、自転車を搬送してくれます、
 
丁度我輩向け、生協の保険と今検討中です。便利な世の中になりましたね。

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