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セアカゴケグモ事件と旅行記
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公務員時代
記録
公務員時代(環境衛生監視員)36年間の記録
大阪府への採用
最初の移動
本庁への移動
浄化槽行政担当
二つの出会い
花博開催保健所
環境衛生第一係
係長拝命
生活衛生室へ
企画課長補佐
東大阪市へ
最後の勤務地
華やかな公務員時代・・今は亡き公務員時代
〜No1 大阪府への採用 〜
1 北海道から大阪へ(大阪府の採用試験)
北海道の江別市野幌にある酪農学園大学を卒業間近にした昭和49年3月、大阪府警に勤務する叔父から農林技術センター職員の採用試験を受けないかとの進めにより上阪したが、名古屋大学大学院卒業の競争相手に採用一人枠を取得できる訳が無く、その後就職を諦め、大学に残って教職員取得課程の受講を続け教員採用を目指していた。
同年5月、再び叔父から食品衛生監視員の中途採用試験があるが受けないかとの誘いに乗り、二度目の大阪府採用試験を受験した。
この時の受験者は12名で、私を含めて6人が合格、そのうち一人は食品衛生監視員として、あとの5人は環境衛生監視員の職に回された。
採用時の同期は年長者順に、永野、湯浅、深井、中川、佐藤と私であったが、佐藤は研修期間中に南国の県庁の採用試験を受け、府を辞めて県水産部局職員として結婚を約した奥さんの地元に戻った。もともと水産学部の卒業で、船乗りの好男子、併せて頭脳明晰、人付き合いも良く、残っていれば一番親しくなりまた一番出世もした人物と惜しまれた。東京都の環境衛生監視員から大阪府に移ってきた湯浅は歯科女医と結婚したが、病気がちで早くに府を退職した。
永野、中川両氏は、昭和52年の機構改革の際、本人の異動希望により公害対策部局の産廃専門担当として本庁勤務となり保健所を離れた。
中川は、近畿大学農学部卒業で、昆虫に詳しく、クワガタに関しては全国有数の知識を持ち、環境衛生監視員として保健所に残っていれば「ねずみ衛生害虫」の専門家として重宝されたに違いない。
2 採用後3ヶ月間の研修
5月は、上旬に採用試験、下旬に北海道から叔父宅への引っ越し、翌月1日からの出勤に向けての背広の準備など慌ただしい日が過ぎた。
6月1日の初出勤から3ヶ月間は、環境衛生課に仮配属され、退屈かつほとんど無意味な各係の業務レクを受け、夏の暑い時期を大阪城周辺で同期のメンバーと過ごした。
入庁後最初の驚きは、給料より先に支給された月給半月分のボーナスで、6月15日に庶務から手渡しで初めての賃金を受け取った。
研修期間中の環境衛生課の毎日は、渡された法律集を開き、眠気を我慢する日々であったが、公衆衛生研究所の実地研修3週間は息抜きの期間で楽しませてもらった。
特に汚水の部屋を仕切る大森主任研究員は独特のキャラで、採用間もない山本研究員と一緒に、浄化槽の調査研究に没頭し、夕刻の暇な時間は花札に興じた。
公務員生活の晩年、公衆衛生研究所と深く関わることになるが、その素地を植え付けたのはこの研修期間であった。国立感染症予防研究所に比し「西の予研」と呼ばれた公衆衛生研究所は、研究レベルの高さと併せ自由奔放な雰囲気があり、午後4時を過ぎると早々に退屈な新人研修を切り上げ、自身の業務も中断して談話に興じ、また時には早い時間から自宅待機となり放免された。その大森氏は、浄化槽の研究実績が認められ、厚生省が認可した団体に引き抜かれて大阪府を辞めた。その後を引き継いだ山本氏は、技術士の資格を得て、浄化槽の構造や汚水処理の知識を生かし、定年まで建設省や厚生省の専門委員として活躍した。
さて、当時の環境衛生課は、水道、環境保健、医療、防疫、下水道、公害、家庭用品、ビル衛生管理、再生資源、衛生害虫などを所管する府庁内でも類を見ない大きな課であった。その環境衛生課から昭和40年代後半以降、医療、防疫、下水、公害の各部門が独立し、それぞれ単独の課になりまた部になり環境衛生課の組織は縮小されてきたが、課名は、戦後から平成の今まで変わっていない数少ない府組織の一つとして存続してきた。
研修期間中の環境衛生課には、後に条例が廃止される再生資源班に、府の最高齢者が在籍し、毎年の退職勧告にも応じず、80歳代まで大阪府正規職員として勤めた。
この班には他にも60歳代と70歳代の高齢者が配属されていたが、数年後の定年制の実施で60歳を超える職員は一掃された。
3 最初の保健所への配属
私を含む5名の同期採用者に、研修期間の3ヶ月が切れる直前の8月末、環境衛生課長からそれぞれの配属先が内示された。
永野は守口、中川は吹田、湯浅は四条畷、私は和歌山に近い泉佐野と各保健所への勤務先が告げられ、同期で唯一食品の深井は本庁の食品衛生課に残された。
私が配属された保健所は、南海本線泉佐野駅から徒歩7分の泉佐野漁港近くに位置し、2階建てのゆったりした雰囲気と明るくのんびりとした人間環境に囲まれていた。
関心の給料は、毎月8日に実費の交通費と一律の金額が上積みされ支給された。
また保健所勤務の翌年には、人事院勧告による4月に遡った差額手当が数十万円支給され給料も倍増した。今思えば夢のような所得倍増の数年であった。
最初の勤務地、泉佐野での最初の出会いは、事務職の藤本氏である。
岸和田市の山手、河合町の農家から車で通勤し、腰痛持ちでありながらスポーツ万能で酒も強く、勤務時間後毎日のように一緒に過ごした。
遊びでは、お姉さん格の松下さん、次女役の藤原さん、末妹役の林さんの3人娘が明るく楽しく、夏の海水浴、盆踊り、岸和田の「だんじり」など、男性陣の藤本氏、木原氏、菅野氏、上林氏などと一緒に遊んだ。林さんは心斎橋の時計屋の娘で、付き合い直前までいったが、同僚の先輩栄養士と合わず、泉佐野保健所を退職したあと九州に嫁いだ。
検査補助の松下さんは、保母の資格を得て府を退職し保育園に勤めた。事務職で給料の担当だった藤原さんは、名前が「真知子」からあだ名を「まっちゃん」と呼ばれ、闊達で運動神経に優れ、姉御肌で仕事もこなし人気者であり、次の異動先保健所で知り合った食品衛生監視員の獣医と結婚した。
当時の保健所は府下で26箇所あり、保健所間のバレーボール、卓球、ソフトボールの大会が年1回から2回開催されていた。
泉佐野はいずれのスポーツも盛んで、いずれの大会でも成績は上位を占めていた。練習が熱心で、昼休みは公用車に分乗し漁港近くの公園に行き、1軍と2軍の対抗戦での練習、卓球は勤務時間後2階の講堂で2時間の練習、バレーボールは大会前に佐野高校の体育館を借りて練習した。私もそれなりにこなすが、いずれのスポーツも2軍から3軍に甘んじ、大会本戦に出されることは少なかった。
さて仕事、環境衛生監視員4人で振り分けた私の業務は「産業廃棄物対策行政」の主担で、本庁の産業廃棄物を所管する課と合同での事業所立ち入りが連日組まれた。
本庁環境整備課からは、今泉、坂本の両氏が訪れ、時折、ペアが粟国係長と入れ替わり、保健所は私と先輩の岸守氏が産廃排出事業所に同行した。入庁一年先輩の岸本氏は、国立大学の出身で、保健所近くの熊取町の民家に下宿し、余暇は勉学に勤しんでいた。
泉佐野市、熊取町、田尻町を所管する泉佐野保健所で3年間をかけて取り組んだ作業は、管内の産廃マップの作成で、田尻町の紡績工場、泉佐野市山手と熊取町の染色工場、泉佐野市中部の伸線工場、港の食品コンビナートをブロック化しそれぞれの特色を記し、実態を整理した。以降、3年のサイクルで異動となる保健所や本庁の職場で、最低一つの記憶に残る仕事の成果を築くことを決めた。
当時の本庁と保健所勤務の差別意識は上下関係にも似た位置感覚があり、産廃排出事業所の立入検査も本庁主導で行われ、保健所の監視員は付き添い的な立場に置かれた。
本庁には楯を突かない!保健所に来たら持てなしをする!!過去には昼食や宴会のセットも用意され、費用は公費で賄われた。この悪しき習慣は長く続いた。
私の専門職としての環境衛生関係業務は幅が広く、なかでも旅館、公衆浴場、興行場、理容所、美容所、クリーニング所の営業関係業務は、古参のベテランが担当することが習わしであった。
採用初年度は大先輩の門田氏がその営業を担当し、冬場の公衆浴場浴槽水の採水検査に連れて行かれた。風呂水の採取は、夕刻の5時と7時の2回、公衆浴場10カ所一斉に行われた。先輩の門田氏は男女浴槽とも平等に採水するとの方針で、白衣を着て初めて女風呂に入らされ、浴槽に浸かる女性に採水瓶を渡し浴湯を汲んでもらった。若き日の一回限りのワクワクした体験であった。
泉佐野保健所2年目の4月、定期異動で府最初の女性監視員の古川さんを保健所に着任された。独身で立ち振る舞いは大物風で、古参の環境衛生監視員として営業を担当した。
その古川さんが定年で退職される際、本庁の環境衛生課に、まだ普及前の定価100万円のワープロを寄贈された。
直接の業務とは違うが、春先と秋の年2回、開業獣医と市町村職員を連れた出前で行う狂犬病集合予防注射に、衛生課員全員がかり出された。桜の花の咲く春先と紅葉色づく秋、肌寒い両時期の屋外での受付は身に堪え、また獣医が受け取る報酬の多さに「行政が何故民間獣医のお手伝いを」との疑問を感じながら保健所の年中行事として繰り返された。
その後、犬の登録と併せて予防注射業務は市町村に移行し、保健所が立ち会わされることも獣医のお手伝いをすることも無くなった。
泉佐野は漁港に近いことから、6月の「しゃこ漁」の最盛期、バケツ一杯の「しゃこ」を購入し、事務室裏の畳部屋に夕刻から職員が集まって「しゃこ祭り」が催された。
普段からその畳部屋には、手の空いた職員が入れ替わり訪れ、談話や将棋に興じたが、まだ、世間の目が優しい時代のどこでも見られた保健所風景であった。
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