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セアカゴケグモ事件と旅行記

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公務員時代記録

   公務員時代(環境衛生監視員)36年間の記録  
 大阪府への採用  最初の移動  本庁への移動
 浄化槽行政担当  二つの出会い  花博開催保健所
 環境衛生第一係  係長拝命  生活衛生室へ
 企画課長補佐  東大阪市へ  最後の勤務地
 華やかな公務員時代・・今は亡き公務員時代

〜No5 二つの出会い〜  
9 毎日が酒の日々(古川氏との出会い)
 昭和の時代から平成10年頃までは、まだ府民の眼も温和しく、出先の所内や本庁の課内の冷蔵庫にはビールが冷やされ、残業で19時を過ぎると夜食の注文が回ってきた。
 また、業務の節目には、時間外に応接で課長を真ん中に課員が囲み、ビールとスナック菓子で懇談することも多かった。
 団塊の世代が大量に入庁した昭和50年前後に環境衛生課で一際目立っていた環境衛生係長の古川氏は、将来、環境衛生監視員のトップになり環境衛生課を引っ張ってくれる人物と誰もが期待していた。
後に環境を離れ、食品分野で活躍するその古川氏と私の歴史は長い。
 きっかけは、私が環境衛生課に異動になった直後、小澤課長代理から声をかけられ「お前に紹介したい人物がいる。付き合え。」と誘われた先が天王寺の居酒屋「なる」で、そこに同席したのが、環境衛生課から布施保健所へ異動したばかりの古川衛生課長であった。
 その最初の日は悲惨で、個性豊かな小澤課長代理から本庁での心構えを諭されたり、言動をこっぴどく非難され意気消沈した。
 ただその日から以後30年近く、公務員生活の強い後ろ盾となっていただいた古川氏との出会いを演出していただいた小澤氏には感謝しきれない思いがある。
 古川氏は大叔父が国会議員で、叔父が府会議員、父は将来を嘱望され若くして亡くなられた大阪府の幹部職員で、富田林市の旧家に育った。
 獣医師の資格を持つ古川氏は、布施保健所在職中に当時の藤本食品衛生課長に請われ、次の異動で食品衛生課の獣医務係長に就いた。獣医務係長は、次期食品衛生課長になるための登竜門で、ここでの実績が将来の出世を大きく左右する席であった。
 古川氏が布施保健所衛生課長と獣医務係長の時期、決まって午後5時前後の終業時間前に電話で誘いがかかり、天王寺の「なる」や「明治屋」で飲み、スナック「たなか」に流れ、時には南のスナックを転々とし、最後は天王寺の近鉄百貨店近くの屋台のラーメン店「日本一」でビールとラーメンの仕上げの日課が続いた。
 当時の妻のカレンダーには、1年365日の私の夜の帰宅時間が記されていたが、出勤日に早く家に帰った日は一日も無く、二人の娘の子育ては妻が全て一人で行った。
 この頃の古川氏は、環境から食品に職種替えしたばかりで、慣れない食品衛生や獣医関連業務の悩みが多く、それを癒やし励ます役割が私だったような気がする。
 そんな古川氏は、藤本課長の後を引き継いで、50代前半の若さで獣医務主幹兼係長から食品衛生課長に抜擢された。
 就任後は、独特の感性で議会を味方に付け、食品行政を自らの信念で引っ張り、全国食品衛生協議会の会長を務めるなど厚生省との繋がりも築き、10年もの長い期間、次長級昇任後も食品衛生課長の職を勤めた。
 課長就任後も古川氏は、私との距離を遠ざけること無く、一層の親密さを増していった。
 酒に誘われる回数も減ることが無く、課長就任後は一軒目の居酒屋が府庁界隈に移り、行きつけのスナックが道頓堀の店に変わった。
 古川氏の人脈は広く、衛生部次長から特別職の水道技術管理者、副知事を経て参議院に立候補し、2期国会議員を務めた谷川氏とも親交が深かった。
 古川氏がまだ課長就任前のこと、環友会(大阪府環境衛生職員協議会の通称)新年会に、当時の谷川衛生部次長が夜9時過ぎに遅れて着いた宴会場「美園」で事件が起きた。待てど到着しない谷川次長にしびれがきれた環境衛生課の広済課長、清水参事、中田主幹などが座を離れ、エレベーターを降りようとした一階で谷川次長と鉢合わせしたが、彼らはそのまま麻雀に行き、古川氏、植村第二係長などが谷川次長を宴会場でもてなした。
 谷川次長は、課長以下幹部が帰るのは何事だと怒りが収まらず、古川氏、植村氏と私の3人が同席したその後の3次会の席で、週明けに環境衛生課幹部職員を次長室に呼びつけることを決めた。翌週の月曜日、部の総務係長から次長室に環境衛生課の清水参事以下幹部数人が呼ばれ、4階のフロアー全室に叱責の怒声が響き渡った。
 谷川議員は兵庫県尼崎のお寺の住職で、次長時代の正月には、衛生部の幹部職員をお寺の自宅に招き新年会が催された。
 その会には、古川氏から誘われ毎年新年の2日に出席し、尼崎の帰りには河内長野市に戻り、古川氏が親しかった寺西副出納長宅にも一緒に連れていかれた。
 古川氏とはお酒だけでなく、ゴルフも共に遊んだ。古川氏がゴルフを始めたきっかけは藤本課長から「付き合いの幅を広げるためにマージャンとゴルフを始めたら」とのアドバイスだったが、麻雀は肌に合わなかったのか早々に諦め、ゴルフは本格的に凝った。
 こんな古川氏には、当時富山県で生コン会社の社長をしていた私の父親を頼り、7月上旬の盛夏前に1泊2日のゴルフツアーをセットした。
 最初の年は、石川県の千里浜カントリーで遊んだが、その年、赤ワイン事件が起き、石川県のホテルから課員に対策の指示を出した。その後も7年間、環境や食品のメンバーを募って古川氏を囲むツアーを組み、富山県のゴルフ場で格安プレーを楽しんだ。
 古川氏が大阪府を退職する際の送別会は盛大で、梅田の高級ホテルに府現役職員200名以上が集まり、業績と人柄を称え卒業を祝った。
 この送別会に参加した、元衛生部人事係長の吉澤氏から私に、「古川氏は、毎年人事異動の時期になると人事係を訪れ、君を本庁に残すことと昇格を頼みにきた。」と宴会場で耳打ちされた。始めて聞いた古川氏の私への思いやりに嬉しくもあり感謝した。
 その後ろ盾もあってか、最初の環境衛生課には9年間在籍した。
古川氏は、大阪府を退職後、藤本前課長の後を継いで社団法人大阪食品衛生協会の専務理事に就任し、任期後も同協会の副会長として今なお食品衛生業界の重鎮として活躍している。

10 パソコンとの出会い
 昭和50年代後半には、日本版NECのパソコンが徐々に出回り、PC−8801MarkUの出荷はパソコン普及の一大ブームを起こした。
 この頃、初代女性監視員の古川澄子さんが退職記念にワープロを環境衛生課に寄贈し、課では備品購入費をやり繰りし公費でPC−8801MarkUを購入した。
 このパソコンを使うソフトの購入費が捻出できず、庁内の知り合いの好意で、ワープロの一太郎Ver3や表計算ソフトのロータス123などを揃えた。
 また、Basic言語を使って計算ソフトを自作した。
 パソコンには私が熱心で、課内で使うだけではもの足りず、豊田のカローラを売って出始めたばかりの16ビットPC−9801Eを大塚商会から購入し自宅に置いた。
 構成は、外付けの将来の規格品と言われた8インチフロピーディスクと白黒のディスプレイ、プリンターを揃え総額100万円以上かかった。
 今と比べ、パソコン用ソフトは高額で、自前のPCも知人に頼り、コピーツールを使って桐、一太郎、Basic言語、dBaseV、ロータスなどを使用した。
 職場ではこの違法コピーが事件を引き起こした。
 職場のPCにコピーした一太郎で文章作成していたところ、申請に訪れた業者にのぞき見られ、高知のジャストシステム本社に通報された。
 翌日、通報の業者立ち会いのもとに本社職員が事情徴収に訪れ、私は正直に非を認め陳謝した。幸いに、ジャストシステム本社は大きな問題とせず、購入を条件に不問とされ、庁内の処分は口頭注意で済まされた。
 その頃、全庁的な電子府庁化に向けたプロジェクトチームが立ち上がり、人事の推薦を受け、衛生部代表で2年間メンバーの一員として参画した。
 また、最初にPCを購入したNECを扱う大塚商会の営業マンと親しくなり、当時としては格安の定価7掛けの値段で新型のパソコンを購入し続けた。
 数年後、日本独自のNECパソコン全盛期が過ぎ、DOS/VパソコンとWindowOSが主流となり大塚商会とは縁が切れたが、それまでの間、Basicによるデータ集計システムやdBaceV、Wによる許認可台帳管理システムの開発を手がけ、業務の合間を縫って業務の電子化に趣味としての時間を費やしてきた。
 さらに、環境衛生許認可台帳管理の電算化に向けては、木村氏、小野木氏と作業チームを組み、富士通のSEとシステムを作り上げた。
 私のパソコン好きはさらに妻にも伝授し、パソナの資格を取り寝屋川駅前にパソコン教室を開塾した。一時は30人を越える生徒を抱え、資格講習会受講者のデータ入力を請け負うなど順調な経営を続けたが、妻の意向により3年後に閉塾した。
 将来、所有のマンションを使って「パソコン教室」をもう一度立ち上げたいと思っている。


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