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セアカゴケグモ事件と旅行記
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公務員時代
記録
公務員時代(環境衛生監視員)36年間の記録
大阪府への採用
最初の移動
本庁への移動
浄化槽行政担当
二つの出会い
花博開催保健所
環境衛生第一係
係長拝命
生活衛生室へ
企画課長補佐
東大阪市へ
最後の勤務地
華やかな公務員時代・・今は亡き公務員時代
〜No6 花博開催の保健所に〜
11 環境衛生課から花博開催の保健所に
大阪府の環境、食品、薬事の監視系技術職員は、異動を3年のサイクルとするとの暗黙の取り決めがある。
環境衛生第二係勤務の本庁4年目に頃に入ると、外からも内からもそろそろ保健所に出るのではと私の耳に聞こえてくる。
その頃の本庁業務は係員行政で、担当の係員が府下の環境衛生業務を取り仕切っていた。
その分、仕事はやり甲斐があり、創作し開拓していくビル管理や浄化槽行政は苦労以上に成し遂げた後の満足できる大きな楽しみがあった。
そんな充実した環境衛生第二係8年目の冬、上村課長に一人誘われ、酔いが回った頃に、「君は今年異動対象になっている。」と聞かされた。
恐れていた異動で、悪酔いしたのか帰宅後の真夜中に、環境衛生監視員の人事を差配している白石参事宅に電話をして、「何故今年、私を保健所に出すのか。」と怒りを込めて抗議した。入庁後最初の大失態であり、翌日、当然ながら上村課長から大目玉をいただいた。そんなことがありながらその年も乗り切り、9年間、環境衛生課の環境衛生第二係に在席した。
翌、入庁通算15年目の3月、上村課長後任の清水課長から主査昇格と守口保健所転勤の内示が言い渡された。
昇格後は異動がつきもので、この時は喜んで保健所異動を受け入れた。
異動先の守口保健所には、新規に採用された福飯女史と一緒に赴任した。
福飯さんとは3年間、先輩後輩の関係で公私にわたり付き合ったが、十分な世話が出来なかったことに後悔が残っている。福飯さんは、数年後、異動先の尾崎保健所で知り合った事務職員と結婚したが、新婚旅行の途中で福飯さんの異性関係で喧嘩し、結婚詐欺に追い込まれて府庁も退職した。
守口で待ってイベントは「花と緑の国際博覧会」で、会場面積の半分が守口保健所管内と他の半分は大阪市に属した。この博覧会会場の環境・食品の許認可と指導監視は大阪府と大阪市の共同で行われた。この時の大阪市の環境衛生担当が、旧知の三木氏で、彼との親密な友人関係がここでも役に立った。
泉佐野で決めた異動地3年間に何かを残す守口でのテーマは、花博会場を抱え苦もなく想定できた。大きなテーマは、「花博会場の環境衛生対策」の取りまとめで、他に公衆衛生研究所の応援を求め、密閉されたパビリオン内の浮遊細菌、真菌調査の調査と水景施設のレジオネラ調査を手がけた。
また花博期間中の6ヶ月間は、環境の土井先輩と福飯さんの3人で暑い夏に守口市部分の会場内を闊歩し指導と監視を繰り返した。
守口保健所の衛生課長は代々食品衛生出身の監視員で、3年の間に、食品で将来を嘱望された梅田氏と井ノ上氏の2人に仕えた。梅田氏は、当時の藤本食品衛生課長に可愛がられ、次の古川課長のその次を継ぐと噂されていたが、後任には指名されなかった。
守口保健所の人間関係での思い出は少ないが、東大阪市のそば屋に嫁いでいた栄養士の田中さんは小柄で控えめで可愛い笑顔が印象に残っている。
また、検査技師の高柳さん、事務の笹江さん、看護士の小林さんとは、卓球で遊び職場旅行でも楽しい時を一緒に過ごした。
昭和63年の主査昇格者は、河合氏、第二係で席を並べた井上氏、産業廃棄物担当の永野氏が同期で、5月の主査研修にラフォーレ琵琶湖で2泊同宿した。
この研修に、井上、永野と3人でゴルフクラブを隠し持ち、泊まりの翌朝、講義までの時間に近くのゴルフ場でラウンドした。いつの時からか昇格者の宿泊研修は無くなり、こんな不謹慎な研修態度は厳しく処分される時代で、今は過去に反省をしている。
守口保健所では、余裕の勤務時間を「環境衛生業務の将来構想」の作成に当てた。この将来構想は、環友会の検討結果として環境衛生課に提出し、平成7年に行われた生活衛生業務全般の組織改革の意義付けに寄与した。
環境衛生監視員で組織する職能団体の環友会は、毎年5月の環境衛生関係職員全体研修会のあと、夕刻4時頃から総会と役員改選が行われる。守口保健所時代に、通常は競争にならない環友会会長に井上氏が立候補し、大城氏を一票差で破り会長に就任した。この時、河合氏と私が副会長を務め、私は次年度に環境衛生課に異動となったことから自動的に役職を降ろされ、河合氏は、井上氏の後に会長を2期務めた。
12 保健所から再び本庁へ
守口保健所3年間の任期が過ぎたあと、白石参事の人事で再び本庁に帰ることとなり、環境衛生課営業係の配属辞令を受けた。
営業係は、旅館、公衆浴場、興行場、理容美容所、クリーニング所の営業施設と理容師・美容師・クリーニング師の試験研修や生活衛生同業組合の関係団体を所掌し、業界の派手さでは部内随一で、事務的な業務が多いことから、事務職の係長を筆頭に4人の係員のうち私だけが技術職であった。
営業係の一大行事は、春先から夏にかけての公衆浴場入浴料金審議会の準備と数回にわたる審議会と小委員会で、公衆浴場1千5百施設の収益状況を集計する審議会用の資料作りを手作業で行い、春先から夏にかけて大変な人的労力を要した。
営業係配属後は、入浴人員等集計作業をコンピュータで処理するシステムを開発し、膨大な資料作りの効率化に取り組み、また、一部の職員の裁量に任され閉鎖的な業務全般を分かりやすく解説する営業マニュアルの作成を手がけ、2年間の営業係在籍中二つの課題を成し遂げた。
課題の業務は順調にこなせたが、陰湿な村田係長といかにコミュニケーションを図るかが難題であった。村田係長の朝の出勤は遅く、昼間も行き先を告げずに度々席を外し、夜は朝まで飲み歩く毎日で、感情極まって衝突することもあった。
難物は係長に留まらず、加藤氏、前ノ防氏、橋本氏と個性豊かな係員が多く、寝首をかかれないよう細心な注意を払った。
中でも悩まされたのは、母性本能をくすぐるタイプの橋本氏で、仕事はまともにこなし、係長と浴場組合の女性軍には可愛がられたが、金銭と時間にルーズで無断欠勤を繰り返した。公金の一部無断使用には目を瞑り、一週間続いた無断欠勤では、奈良県平群町の自宅まで村田係長と行き、家族に会って公金の返済と出勤を促した。橋本氏は、次の異動先で退職し、一時期、公衆浴場同業組合の事務局長として職を世話されたが、結局立ち直れず、その後の所在は明らかでない。
36年の公務員生活では、担当した浄化槽協会と浴場組合の2団体で不祥事があり、共に事務局長による使途不明金が発覚し、刑事事件にはならずに解雇ですまされた。両事務局長とも酒席を共にした親しい間柄であったが、いずれも発覚時は私の担当時期から外れ、飛び火は免れた。村田係長とは喧嘩後急速に接近し、度々飲む場に付き合わされ、スナックに寝泊まりしてそのまま一緒に出勤するなど、営業2年目の後半には関係が改善された。
13 労働組合への関与
過去から大阪府の衛生部や病院などでは、共産系の職員労働組合が実権を握ってきたが、自治労系と衛生部幹部が連携し、主導権確保を目指す動きが平成5年頃に出てきた。
自治労系の強い商工部、労働部の組合が後押しする形で、衛生部から役員選挙に対立候補を立て執行委員を確保するとの戦術であった。
元々共産系の強い保健所職場で人間関係を築いてきたことから、立候補の打診があった時には大いに悩んだが、結局、関係者の強い要請を受けて自治労系候補の一人として名を連ねた。
この立候補を知った泉佐野時代の友人藤本氏からは翌年の年賀状で絶縁を宣告された。
立候補した最初の年は、私と食品から小林氏が執行委員として選出され、共産系役員の松本委員長、小林幹事長、他の執行委員と月1回から2回の執行委員会で席を並べ、表面上は仲良く組合活動に取り組んだ。その後、一年ごとに順繰りで環境、食品、薬事から自治労系執行委員が送り込まれたが、数年後、自治労系と共産系の組合が分裂し役割は終わった。私と共に最初の執行委員となった食品の小林氏は、岐阜大学獣医学部の卒業で、体格が良く弁も立ち、仕事もできる人物で、独自の人脈を作りながら課長級に昇格した。
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