森 信三先生年譜 | |||||
この年表は森信三先生がそれぞれの年代において、どんな方々に影響を受けたかについて、主な方々を列挙してみた。(臂 繁二) | |||||
未見の師 | 咫尺の師 | 西暦 | 年齢 | ||
1896 | 明治29年 | 1才 | 9月23日出生。父端山俊太郎。母はつ。男3人兄弟の末子。(中の兄は生後まもなく死亡。 | ||
1897 | 明治30年 | 2才 | 実母実家へ帰る。 | ||
1898 | 明治31年 | 3才 | 森家へ養子として出される。父は森種吉、母は、はる。 | ||
1899 | 明治32年 | 4才 | |||
1900 | 明治33年 | 5才 | |||
1901 | 明治34年 | 6才 | |||
1902 | 明治35年 | 7才 | |||
1903 | 明治36年 | 8才 | 岩滑小学校尋常科入学、複式科に学ぶ。 | ||
松井立身 | 1904 | 明治37年 | 9才 | 旧苅谷藩士の松井立身先生に深き感化を受ける。小学1、2年の幼童に涙を浮かべつつ楠公の話をされ、「これでも昔は二本差していたので他人事とは思えない…と」。 | |
1905 | 明治38年 | 10才 | |||
1906 | 明治39年 | 11才 | |||
日比 格・さい 石川唯一 |
1907 | 明治40年 | 12才 | 岩滑小学校卒業。半田小学校高等科へ入学。当時の校長日比格は、第1回奏任校長にして、実家側の叔母の夫。高等小学1年(今の五年生)の担任は石川唯一先生。漢学の造詣の深い先生であった。 | |
端山忠左衛門 | 1908 | 明治41年 | 13才 | 正月元日、実家の祖父より、頼山陽の「立志之詩」を教えられ、これが生涯のタネ蒔きとなる。このころ将来教師になりたいという志望を抱く。12月、日比の叔父より中学受験の断念の他ないことを言い渡され、初めて人生の挫折を味わう。 | |
1909 | 明治42年 | 14才 | |||
1910 | 明治43年 | 15才 | |||
岡田虎二郎 | 1911 | 明治44年 | 16才 | 高等小学校卒業。母校の給仕となり、校長(叔父)室の片隅に席をあたえられる。このころ叔父の導きにて、岡田式清坐法の祖、岡田虎二郎先生の偉容に接す。知多半島の内海における準教員講習会(4ヶ月間)を受講。生まれて初めて親の元を離れ、友人3人と自炊生活をする。 | |
三浦渡世平 | 1912 | 大正元年 | 17才 | 4月より半年、半田小学校にて代用教員。10月名古屋第1師範に入学。寄宿舎生活を始める。当時の校長の三浦渡世平先生は、中村正直(西国立志篇の名訳あり)の高弟にして旧幕臣であった。その卓然たる風格は終生消えることがなかった。実家の兄、端山民平(19才、以下すべて数え年)チフスで死亡。それ以後、日記の表紙裏に「誓って亡き兄の分と二人分の仕事をする」と記す。 | |
1913 | 大正2年 | 18才 | |||
1914 | 大正3年 | 19才 | |||
1915 | 大正4年 | 20才 | この夏、親友の榊原源吉君と衣浦湾を泳いでの横断を計画実施したが、途中溺れそうになり危うくたすかる。9月21日師範3年の時、祖父端山忠左ヱ門71才にて逝く。 | ||
八木幸太郎 三浦修吾 西 晋一郎 |
1916 | 大正5年 | 21才 | 師範4年、チフスにて入院。10月15日師範卒業。卒業前に「師範教育革新論」を地元の新聞に投稿し、舎監より厳戒される。卒業の際、八木幸太郎先生の奨めにより、卒業記念として「日本倫理彙編」(全10巻)を読む。(徳川時代の代表的学者の選集)10月17日愛知県幡豆郡横須賀小学校に赴任。高等科1年生を担任。赴任の直後、三浦修吾先生の名著「学校教師論」を読んで甚大な感銘を受け、生涯の方向を決定づけられる。 | |
1917 | 大正6年 | 22才 | 「日本評論」新年号の懸賞小説に一等当選。選者は小川未明。題名は「黎明」農村における水争いがテーマ。 | ||
新井奥邃 | 福島政雄 | 1918 | 大正7年 | 23才 | 横須賀生活(1年半)を終えて、4月広島高師の英語科に入学。前半2年間の学費は、母方の従兄弟の山口精一氏より受ける。 |
ペスタロッチ | 1919 | 大正8年 | 24才 | 広島高師2年の時、はじめて福島政雄先生接す。親友松本重行、松本義懿の両君とともに、福島先生を中心とする「ペスタロッチ研究会」をはじめる。のち、柳川・松本・玖村の3君と雑誌「揮沌」を発行し、わが國のペスタロッチ運動の中心的機関誌となる。 | |
西晋一郎 | 1920 | 大正9年 | 25才 | 広島高師3年生のとき、はじめて西晋一郎先生の講義を受ける。夏休みに福島先生と阿蘇登山。3年生の4月より匿名の篤志家(サントリーの鳥井信冶郎氏)に卒業かで学資を受ける。 | |
1921 | 大正10年 | 26才 | 広島高師4年のとき福島先生宅に寄宿。「松本文子」知り、小日向定次郎先生の高配で婚約。卒業論文「人及び詩人としてのホイットマン」を書く。 | ||
1922 | 大正11年 | 27才 | 広島高師卒業。大阪府立阿倍野高等女学校に英語教師として赴任。 | ||
西田幾多郎 岡本大無 |
1923 | 大正12年 | 28才 | 京大哲学科に入学。学費は四日市の実業家小菅剣之助氏に仰ぐ。恩師西晋一郎先生の「倫理学の根本問題」が刊行され貪り読む。当時哲学科の主任教授は西田幾多郎先生、爾来昭和6年3月末まで8年間、先生の講義を聴講。 | |
清沢満之 | 福田武雄夫妻 伊藤証信 沢木興道 |
1924 | 大正13年 | 29才 | 西三河、西端の地に「無我愛」の行者伊藤証信氏を訪ねる。このころ友人の紹介にて沢木興道和尚を知り、その提唱を聴く。なお京都在住の福田武雄夫妻と相知り、その道縁により「野の思想家」の重要性を痛感。 |
宮崎童安 | 1925 | 大正14年 | 30才 | ||
1926 | 昭和元年(大正15年) | 31才 | 京大哲学科(本科3カ年)卒業。卒業論文は「プロチノスの“太一”について」。大学卒業と同時に結婚。北白川に住む。大学院に席をおきつつ、4月、大阪天王寺師範と女子師範の専攻科講師となる。テキストとして西田先生の「善の研究」、西先生の「倫理哲学講話」を併用、3年続く。 | ||
1927 | 昭和2年 | 32才 | 伊藤証信師毎週3日京都に来られ二人で西洋哲学と仏教の交換購読をする。5年半におよぶ。 | ||
二宮尊徳 | 1928 | 昭和3年 | 33才 | 天王寺師範での教え子の、山本正雄氏より旅のおみやげとして二宮尊徳の「報徳記」および「二宮翁夜話」を贈られ、「夜話」の巻頭のことば「天地不書の経文を読め」の一句に、学問的な開眼を得る。 | |
1929 | 昭和4年 | 34才 | 教え子山本正雄、野仲護ら有志と大阪平野の大念仏寺にて「文莫読書会」を始め、西晋一郎先生の「実践哲学概論」を講読。 | ||
1930 | 昭和5年 | 35才 | |||
新井奥遂 | 1931 | 昭和6年 | 36才 | 大学院5カ年の課程を終え、天王寺師範の専任教諭となる。広島高師の学生時代求めにもとめた「新井奥遂先生の「奥遂広録」(全5巻)を、京都の福田武雄氏の書棚で発見し、歓喜。我が国最深の「隠者」の感化は終生をつらぬく。7月8年に渡って住み慣れた京都を離れ、大阪市南部の田辺西之町に転居。天地の間にただ一人起つとの感慨を強く感じる。 | |
作田荘一 江渡狄嶺 |
1932 | 昭和7年 | 37才 | 実母の姉の山口せき女の逝去により、帰郷。葬儀に列して人生の寂寥を痛感。これが発端となり、処女作「哲学序説」の執筆開始(11月8日)、翌年3月稿了。 | |
金原省吾 芦田恵之助 |
1933 | 昭和8年 | 38才 | 天王寺師範で本科一部生の修身科を教えることになり、この講義筆記が後に「修身教授録」となる。10月より翌年3月まで、国民精神文化研究所第1回研究生として上京。その間金原省吾氏を訪ね、初対面にもかかわらず「哲学序説」刊行の斡旋の好意を受ける。また野の思想家江渡狄嶺氏を何回も訪ねる。ついに同氏宅にて越年。 | |
1934 | 昭和9年 | 39才 | 卒業生の有志と「斯道会」を設立し、西晋一郎、福島正雄の両先生を講師に毎夏お迎えする。 | ||
宗 不旱 | 1935 | 昭和10年 | 40才 | 西晋一郎先生に学位論文の執筆をすすめられる。夏休みに「恩の形而上學」を一気に書き上げる。しかし、論文の様式に添わぬとの評価に、再び論文は書かなかった。 | |
1936 | 昭和11年 | 41才 | |||
1937 | 昭和12年 | 42才 | 夏休みに「学問方法論」の下稿なる。はじめて芦田恵之助先生に遇う。先生の懇情により、「修身教授録」(全5巻)が同志同行社から刊行され、版を重ね10万部余出る。 | ||
1938 | 昭和13年 | 43才 | 1月より、旧満州国に「建国大学」が開学。秋頃、建大へ赴任をすすめられ、決意。 | ||
1939 | 昭和14年 | 44才 | 渡満のため、出雲の稲佐の浜で禊ぎして、対面の岩場まで泳ぐに危うく一命を取り留める。4月5日大阪を出発、多数の見送りを受ける。4月7日単身建大へ赴任。夏休みに帰国、家族と再び渡満。爾来夏冬の休みには帰国し、斯道会等の講演会にのぞむ。 | ||
1940 | 昭和15年 | 45才 | |||
1941 | 昭和16年 | 46才 | 建大の塾頭を拝命。 | ||
1942 | 昭和17年 | 47才 | |||
1943 | 昭和18年 | 48才 | |||
1944 | 昭和19年 | 49才 | 建大の学務課長に就任。作田荘一先生、学生の事件で副総長を辞任引退。少年義勇隊の教本、東京にて灰燼に帰す。 | ||
1945 | 昭和20年 | 50才 | 7月学生募集のため朝鮮へ出発、8月15日平壌にて敗戦の放送を聞く。8月17日辛うじて奉天に帰還、勤労動員中の長男に出合う。12月14日ソ連軍に拉致され、白系ロシア人の元教え子の懇情により、釈放。12月27日、旧塾生の金森君とともに新京を脱出。夕方辛うじて奉天着。12月30日源田家の食客となる。 | ||
毎田周一 | 1946 | 昭和21年 | 51才 | 源田君、発疹チフスにて死亡。よって2月中旬源田家を去る。折しも厳寒零下27度、半壊の空き家にて一夜を明かす。凍餓死を覚悟も隣家の厚意により救われる。三畳の間に厄介になり、大道易者として辛うじて生計を立てる。5月上旬難民第2号として引き揚げが決まり奉天より錦州へ。約20日間同地滞留。6月7日胡慮島からバイカル号で舞鶴港へ。國やぶれて山河ありとの感慨深し。妻の実家の上甲子園を訪うと、図らず妻子と再会。引き揚げ後、しばらく体力回復と作歌三昧。後日歌集「國あらたまる」として刊行。各地より講演の依頼相次ぐ。10月21日島根県阿井村の加藤歓一郎氏に招かれ一週間奥出雲の山中を巡講。 | |
永海佐一郎 | 1947 | 昭和22年 | 52才 | 2月5日個人誌「開顕」を創刊。芦田恵之助先生の「低平」誌によって紹介され、全国各地から誌友の申し込みを受ける。三千近し。このころ食糧難、交通難のさなかを各地の読書会や座談会に出席。9月開顕社にて、明和印刷出版の「子どもと科学」の取り次ぎを開始。 | |
1948 | 昭和23年 | 53才 | 4月、叢書「國と共に歩むもの」(全5巻)の刊行を計画、予約受付開始。6月父母の小雑誌「親と子」を創刊。8月、教え子、端山護氏教職を辞めて開顕社の事業を手伝う。やがて社へ殉じる。11月妻文子の引き揚げ記「脱出行」刊行。 | ||
1949 | 昭和24年 | 54才 | |||
1950 | 昭和25年 | 55才 | 6月昭和印刷より独立し、「少年科学」を創刊。7月山陰地方へ講演行脚の旅。9月姫路江州方面へ講演の旅、負債のため財政次第に困窮に陥り、ついに開顕社没落。死を決意するまでに至る。甲子園の家屋敷を売却し返済に充てる。(昭和54年現在で負債額1億円余か) | ||
1951 | 昭和26年 | 56才 | 10月兵庫県篠山農大へ英語講師として勤務。12月神戸市楠ヶ丘へ転居。12月9日芦田恵之助先生ご逝去。「開顕」55号を追悼号とする。 | ||
1952 | 昭和27年 | 57才 | 8月1日から8日まで第1回夏季研修会を京都府下の胡麻小学校で開催、ヂューイの「民主主義と教育」を講了。また12月25日より28日まで冬季読書会を三河の幡豆学園にて開催。 | ||
1953 | 昭和28年 | 58才 | 4月塩尻公明氏の推挙により神戸大学教育学部に教授に就任。8月第2回夏期研修会を比叡山の宿坊にて開催。12月冬季研修会を丹波の法楽寺で開催。 | ||
(永海佐一郎) | 1954 | 昭和29年 | 59才 | 8月夏期研修会を西宮甲子園小学校にて開催。 12月冬季研修会を城崎町の温泉寺で開催。 | |
1955 | 昭和30年 | 60才 | 8月夏期研修会を尼崎市開明小学校にて開催。12月29日西宮市上野町へ転居。妻文子過労のためノイローゼになり入院。 | ||
1956 | 昭和31年 | 61才 | 1月冬期研修会を知多郡内海町内海館で開催。4月「開顕」誌を「実践人」と改名。7月還暦記念として「教育的世界」を刊行。8月第3回夏季研修会を高野山蓮華院で開催。11月西宮市神呪町へ転居。12月「教育的実践の諸問題」を刊行。 | ||
1957 | 昭和32年 | 62才 | 1月冬期研修会を静岡県舞坂町弁天島の白砂亭で開催。5月「日本の方向」(二宮尊徳と毛沢東)を刊行。7月「回想の芦田恵之助」を実践社より刊行。8月第4回夏季研修会を高野山蓮華院で開催。11月「学問の再建」を刊行。12月冬季研修会を玉造温泉「長生閣」で開催。 | ||
1958 | 昭和33年 | 63才 | 旅から旅へ講演行脚に明け暮れる。6月「道徳教育論」刊行。8月15日啓蒙講演1000回を発願。8月夏期研修会を宝塚遊園地宝塚小劇場で開催。12月「道徳教育実践のために(上・下)刊行。 | ||
1959 | 昭和34年 | 64才 | 7月「教育者の生涯」を刊行。8月夏期研修会を愛知県南設楽郡鳳来寺町鳳来寺宿院で開催。12月講演集「国民教育者のために」を刊行。 | ||
1960 | 昭和35年 | 65才 | 1月冬期研修会を和歌山県勝浦の湯川温泉で開催。3月17日神戸大学定年退職。「私の歩んで来た道」と題して、退官訣別講演を実施。3月31日かねて用意の「五輪の塔」を退官記念として大学へ寄贈。5月より旅から旅へ講演行脚が続く。8月「第二の開国」刊行。第5回夏期研修会を青森県津軽の大鰐中学校で開催。12月「理想の小学校教師像」を刊行。 | ||
宮沢賢治 | 1961 | 昭和36年 | 66才 | 1月冬季研修会を別府市豊泉荘で開催。8月夏期研修会を長野県湯田中の沓館で開催。9月田中正造遺跡を歴訪。10月「学校を生かし動かす者」を刊行。11月講演筆記「中学生諸君に」の小冊子を刊行。12月24日左足を捻挫。疼痛やまねど冬期研修会・島根県東伯郡三朝温泉(厚生寮)に参加。 | |
柳田国男 青木此君楼 |
1962 | 昭和37年 | 67才 | 1月6日帰宅後病院で左足くるぶしの骨折と判明。ギブスをはめる。そのままで旅また旅。3月3日教育講演1000回達成。8月夏期研修会を越前の吉峯寺で開催。9月20日花巻温泉で宮沢賢治祭の前夜祭で「知られざる人宮沢賢治」で講演。11月「教育的実践の基本問題」刊行。12月冬期研修会を京都妙心寺の霊雲院で開催。この年も旅から旅への講演行脚が続き、その間寸暇をさいて執筆補訂に没頭。 | |
1963 | 昭和38年 | 68才 | 旅から旅へ。文字通り東奔西走。3月「女教師のために」を刊行。4月より神経痛に堪えながら、多忙の旅程続く。8月夏期研修会を静岡県引左町奥山半僧坊で開催。9月東北の旅の途中、15日間盛岡に滞在。神経痛の治療をする。著書「人生二度なし」(文理書院)を刊行。つづいて「人間形成の論理」刊行。11月10日広島大学にて、故西晋一郎先生の20周忌法要の後、記念講演。演題は「西博士と西田博士」。12月2日吹田市佐竹台3ー12−7に転居。 | ||
1964 | 昭和39年 | 69才 | 1月8日より教育行脚に旅立ちて東奔西走。3月14日より月末まで生口島の渡辺君三氏宅に滞在。「即物論的世界観」の執筆に没頭。さらに補訂に及ぶ。5月「人間の思考と教育」刊行。5月4日三男迪彦、信州赤沢嶽で遭難。危うく一命を取り留める。7月「宗教的世界」の執筆着手。10日で下稿完了。8月個人誌「実践人」100号に達す。はじめて「森信三続全集」刊行の発願を発表。夏季研修会を豊川市の豊川閣で開催。9月「学校づくりの夢」刊行。 | ||
1965 | 昭和40年 | 70才 | 例年のごとく、旅から旅へ。3月18日信州の沓の館に止宿。「宗教的世界」の補訂に没頭。4月1日より全く自宅に閉居。執筆三昧にて「森信三全集」の編集に二取り組み、以後200日に及ぶ。4月神戸海星女子学院大学教授として迎えられる。5月「全集」の最終〆。申し込み1200部に達す。8月夏期研修会を比叡山上延暦寺の僧坊で開催。10月「歴史の刑而上學」の執筆。10日間で下稿完了。12月吹田市教育委員に就任。 | ||
1966 | 昭和41年 | 71才 | 3月「盲精薄児を守る会」の会長となる。4月「実践人」誌創刊10周年を迎えて120号に達す。「開顕」誌から通算すれば213号となる。8月夏期研修会を隠岐島の文化センターで開催。永見佐一郎博士の講演あり。参加者一同、博士の長い廊下にある実験室を参観。10月「一人雑誌」の提唱に応じる同志次第に増加。11月「全集20巻」を5巻増やし、25巻をもって完結の決意をする。 | ||
1967 | 昭和42年 | 72才 | 1月明治100年を迎えるにあたり、「実践人」誌に「奠都論」を発表。4月「森信三全集8巻」の刊行を発表。8月夏期研修会を岡山県備前町の閑谷学校で開催。9月15日阪本勝氏(兵庫県知事)の招きにより、上村秀男先生と共に有馬山荘に一夜。 | ||
1968 | 昭和43年 | 73才 | 3月「隠者の幻」の下稿完了。6月「全集25巻」の編集完了。着手してから実に満三年三ヶ月を要す。8月夏期研修会を静岡県御殿場の東山荘で開催。「全集完成の記念に「契縁録」の刊行の趣意を発表。8月25日「森信三全集」25巻の最終配本を完了。かくてまた東北の旅へ。 | ||
1969 | 昭和44年 | 74才 | 3月「契縁録」の仕事に没頭。同志の小自伝の一大集成たり。5、6、7月と旅から旅への講演行脚。8月夏期研修会を長野県戸隠村の久山旅館で開催。11月「契縁録」刊行。12月冬季研修会を大阪府市文化会館で開催。 | ||
1970 | 昭和45年 | 75才 | 1月中旬から旅から旅。4月1日より「幻の講話」(全5巻)の執筆に着手。5、6月旅から旅。6月19日神戸西の郊外の塩屋山中にある、洗心山坊で阪本勝氏ほか4人と一夜。8月、第31回夏期研修会を伊勢市の神宮会館で開催。病気の奥様が重体になられ、やむなく欠席。8月21日ご夫人ご逝去(67才)。12月冬季研修会を大阪府勤労青年の家で開催。 | ||
1971 | 昭和46年 | 76才 | 3月「全集」および「選集」申し込みの機を逸した方々のために「森信三選集」(全10巻)の刊行企画発表。8月夏期研修会を松山市の護国神社の境内にある遺族会館で開催。講師は大山澄太、坂村真民山上次郎の諸氏。9月大阪読書会・神戸読書会の他、東は岡崎に西は倉敷にも参加すべき読書会を設けられる。10月26日肺炎で住友病院へ入院。3週間におよぶ。11月語録「不尽片言」(寺田一清編)刊行。12月25日野本三吉氏を自宅へ迎え、神戸県民会館での1泊研修へ参加。 | ||
1972 | 昭和47年 | 77才 | 3月名著「人間ー幻像と世界」の著者山縣三千雄氏を、野本三吉氏を同道の上訪問。7月学制発布記念事業の一つとして、実践社から芦田恵之助先生の「三部作」の再版刊行なる。8月1日高石市羽衣の寺田一清氏の別宅へ転居。独居自炊の生活に入る。8月夏期研修会を伊勢市内宮前の神宮会館で開催。8月30日長男惟彦氏急逝(41才)。10月「幻の講話」全5巻刊行寄金が全国の同志より寄せられる。11月3日文化の日を期し、尼崎市の未解放部落の立ち退き跡の空き家へ単身入居。爾来独居自炊の生活。12月10日部落内で再転居。12月冬期研修会を京都、山科の一灯園で開催。 | ||
1973 | 昭和48年 | 78才 | 3月20日再転居100日を迎える。その間尼崎在住の同志相集い「みそ汁会」や「とろろ会」が開かれる。8月20日宿命の書ともいうべき「幻の講話」の第1巻ついに刊行。5年前の昭和43年の秋執筆開始以来、5年の歳月を要す。その間夫人、長男の死など、人生の幾転変により中絶遮断のとき多し。8月夏期研修会を六甲山「自然の家」で開催。参加者250名を越え、初参加者も4割近し。11月3日「今北部落」への転居一周年を迎え、独居自炊の生活もほぼ軌道に乗る。12月アラブ諸国による「石油問題」が起こり、全世界が空前の一大衝撃を受ける。これに関し、「謹んで神意の進展を観んとす」一文を草す。12月冬期研修会を六甲山頂の「自然の家」で開催。 | ||
1974 | 昭和49年 | 79才 | 7月「教育者の生涯」を刊行。8月夏期研修会を愛知県南設楽郡鳳来寺町鳳来寺宿院で開催。12月講演集「国民教育者のために」を刊行。「実践人の家」建設につき趣意書発送。山縣三千雄著「日本人と思想」が刊行され、なかに「森信三の日本的正気の心実学と教育的実践」の一論あり。現存の人物としては唯一人なり。8月夏期研修会を修養園の伊勢青少年センターで開催。12月19日「実践人の家」建設の用地を川端氏より購入(自己負担)。登記を済ます。12月冬期研修会を岡崎市の「愛知県野外教育センター」で開催。12月30日佐竹台の家から地蔵尊を運び、実践人の家建設地内に安置。12月末、「実践人の家」建設寄金2000万円を超える。最終的には2400万円。2月23日の夕方、突然三ノ宮の一洋服店で霜降りのオーバーを購入、爾来若者の身につけるような服を買う。服装革命から老境の回転がはじまった。 | ||
1975 | 昭和50年 | 80才 | 3月16日「実践人の家」地鎮祭、同志の神官上村秀男氏によって執行される。4月6日「実践人の家」の上棟式挙行。5月1日「幻の講話」第5巻最終巻刊行。7月6日「実践人の家」落成式施行される。来賓から祝辞、会員も各地より120名余り参集。この日より端山護氏出勤し事業を助ける。のち社団法人「実践人お家」の常務理事となる。12月「実践人の家」の支持会員を募る。12月冬期研修会を岡崎市の愛知県野外教育センターで開催。 | ||
1976 | 昭和51年 | 81才 | 3月21日から「ある隠者の一生」の執筆に着手。4月6日下稿完了。4月19日「創造の形而上學」の執筆に着手。5月6日下稿完了。まる18日間専心没頭。7月「実践人」誌6,7月号を福島正雄先生追悼号として発行。7月9日実践人の家が社団法人として認可さる。7月12日「全一的人間学」の下稿なる。7月13日から19日ハワイへの旅。川端正和氏の懇情により、同氏および足立英二氏ご夫妻も同行。8月夏期研修会を国立淡路青年の家で開催。9月2日「全一的教育学」の下稿なる。9月23日満80才。 | ||
1977 | 昭和52年 | 82才 | 1月5日信州「無名会」に招かれ講演。6月15日尼崎の上村秀男氏ご逝去。「実践人」9月号に上村秀男著作集全3巻の刊行発表。7月「全一学精要」を完稿。一代の思想の体系的梗概となる。8月1日語録「一日一語(寺田一清編)刊行。8月夏期研修会を三重県の日生学園で開催。「実践人」11月号に東井義雄氏の「培其根」の頒布発表。 | ||
1978 | 昭和53年 | 83才 | 新年号に「八十才を境にして」の一文を草し、「生」の根本的な転回を発表。3月「全一学にたどりつくまで」の講演速記の補訂を終え「“全孝”の学と全一学」(藤樹先生生誕370年記念号として、所懐の一端を草す。4月1日より、「偉人に学ぶ人間の生き方」の執筆に着手。6月1日笹村草家人氏の甲斐山中幽棲の旧居を訪う。8月不尽叢書第3巻「女人開眼抄」刊行。8月夏期研修会伊勢青少年研修センターで開催。10月6,7日故暁鳥敏氏25回忌記念講演会に招かれ、遺弟ならびに同朋200余名に講話、感慨深し。 | ||
1979 | 昭和54年 | 84才 | 3月不尽叢書第4巻「全一学ノート」6月徳永康起氏逝く。8月不尽叢書第5巻「不尽片言」刊行。「家庭教育21ヶ条」刊行。12月冬季研修会を「岡崎市少年自然の家」で開催。 | ||
1980 | 昭和55年 | 85才 | 「長島先生・回想と遺稿」刊行。8月夏期研修会を「日生学園」で開催。10月「徳永先生の人と教育」刊行。12月冬期研修会を岡崎市少年自然の家で開催。 | ||
1981 | 昭和56年 | 86才 | 7月「徳永康起先生遺文集」全3巻刊行。8月夏期研修会を神戸市立国民宿舎須磨荘で開催。「天なれやこの世の生のいや涯にいのちの甦へり賜びし畏しこさ」を黒板に書かれた。12月冬期研修会を神戸三宮のビジネスホテル北上で開催。 | ||
1982 | 昭和57年 | 87才 | 4月枕頭の書「十善法語抄」刊行。5月「森信三続全集」第1巻配本開始。3月清水毅氏の紹介により、八尾の甲田光雄先生にはじめて病状を看ていただく。8月夏期研修会神戸市の関西地区大学セミナーハウスで開催。8月新全集の第1回(第3巻)配本開始。12月冬期研修会を神戸のタワーサイドホテルで開催。 | ||
1983 | 昭和58年 | 88才 | 6月地域的な研修会の開催機運が高まる。8月全国数カ所で研修会が開かれる。10月実践人の家の新理事長に安田善四郎氏が決まる。12月冬期研修会を神戸のタワーサイドホテルで開催。 | ||
1984 | 昭和59年 | 89才 | 「続全集」8巻完結。1月各地読書会の気運高まり発会相次ぐ。2月腎盂炎のため再入院。八月「続全集」完結記念大会を関西地区大学セミナーハウスで開催。「契縁録」(第2巻)の刊行。十二月地方研修会各地で開かれる。 | ||
1985 | 昭和60年 | 90才 | 8月神戸箕谷グリーンスポーツホテルで夏季研修会開催。12月ひょうご共済会館で冬季研修会開催。 | ||
1986 | 昭和61年 | 91才 | 7月不尽先生の歌碑建立。8月夏期研修会に車イスで参加。 | ||
1987 | 昭和62年 | 92才 | 2月「森信三講演集」(全2巻)の刊行。 | ||
1988 | 昭和63年 | 93才 | 7月「不尽先生墨蹟集」の刊行。 | ||
1989 | 昭和64年 | 94才 | 「現代の覚者たち」(竹井出版)に登場。 | ||
1990 | 平成2年 | 95才 | 3月「修身教授録」(竹井出版)の復刊。1月「幻の講話」(全5巻)復刊。 | ||
1991 | 平成3年 | 96才 | 軽い脳梗塞。自宅にて昏倒。微熱続く。 | ||
1992 | 平成4年 | 97才 | 「契縁録」「余香録」刊行。昏睡状態続く。この年11月21日神戸市中央区の東極楽寺で告別の葬儀執行。 | ||
1993 | 平成5年 | ||||
1994 | 平成6年 | 愛知県半田市の名誉市民に推挙される。 | |||
森信三全集第23・25巻続全集第8巻等参考に調整(臂 繁二) |