静岡 |
文化遺産データベース |
参考Photo |
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参考リンク |
鑑賞日記 |
佐野美術館 | 薙刀 銘備前国長船住人長光造(佐野美術館) | ![]() |
備前長船初代長光の作である。この工に限らず、現存する鎌倉時代の薙刀は極めて少ない。また、本薙刀に見られるような地刃の出来が優れ、かつ健全で、生ぶ茎有銘の作は稀有である。 | 佐野美術館 | |
佐野美術館 | 太刀
銘一(佐野美術館 |
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鎌倉中期の一文字でいわゆる福岡に属する物であろう、福岡時代の一文字には本太刀のような沸出来は稀である。総体に至極健全である。 | 佐野美術館 | |
MOA美術館 | 手鑑「翰墨城」(三百十一葉)(世界救世教蔵・MOA美術館保管) | ![]() |
手鑑「翰墨城」は、「藻塩草」(京都国立博物館蔵)「見ぬ世の友」(出光美術館蔵)とともに、古筆三大手鑑の一つとして夙に名高い。手鑑の中でも早い時期に成立したと考えられ、鑑定の基本台帳として古筆家別家の古筆了仲(1655〜1736)に所伝し、のちに益田鈍翁(1847〜1938)が旧蔵した。「翰墨城」の名は、翰(筆)と墨によって築かれた城という意味で、まさに名筆の宝庫に相応しい名称といえよう。 | MOA美術館 | |
MOA美術館 | 紅白梅図 尾形光琳筆 (世界救世教蔵・MOA美術館保管 二曲一双 江戸時代) | ![]() |
光琳が宗達に私淑し、その画蹟に啓発されながら、独自の画風を築き上げたことはよく知られている。水流を伴う紅梅・白梅の画題や二曲一双の左右隻に画材をおさめる構成のやり方がそれである。しかし、白梅の樹幹の大部分を画面外にかくし、紅梅は画面いっぱいに描いて左右に対照の妙をみせ、中央に水流をおいて末広がりの微妙な曲面をつくり上げた構図は、光琳の独創ということができよう。 | MOA美術館 | |
MOA美術館 | 色絵藤花文茶壺 仁清作(世界救世教蔵・MOA美術館保管) | ![]() |
野々村仁清(生没年不詳)は丹波国桑田郡野々村(現、京都府南丹市美山町)の出で、本名を清右衛門という。瀬戸で轆轤の修業を積み、洛西の仁和寺門前に御室窯を開いた。「仁清」という号は、仁和寺の仁と清右衛門の清を合わせたもので、仁和寺を中心とする貴顕たちと交流を深め、それらの人々の求めに応じて華麗で典雅な作品を数多く残している。 | MOA美術館 | |
三嶋大社 | 梅蒔絵手箱(三嶋大社) | ![]() |
北条政子奉納と伝える蒔絵手箱。鎌倉時代の漆工芸品を代表する優品で、入念に漆を塗り重ね、金粉を濃密に蒔きつける沃懸地(いかけじ)の技法により豪華に仕上げられています。蒔絵の基本技法(平蒔絵・研出蒔絵・高蒔絵)の完成を示す作品としても知られます。 | 三嶋大社 | 20171107 国宝展V |
鉄舟寺 | 法華経(久能寺経)19巻(鉄舟寺) | ![]() |
現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託。永治2年(1142年)待賢門院の出家に際して、鳥羽法皇や美福門院をはじめ、近臣や女房らが加わった、逆修供養のために結縁書写された。 | ウィキペディア | 20171115 国宝展W |
久能山東照宮 | 久能山東照宮本殿・石の間・拝殿(1棟) | ![]() |
久能山東照宮は、徳川家康を祀る霊廟として創建され、元和3年(1617)に建立された本殿、石の間、拝殿は、いわゆる権現造の形式をもつ複合社殿で、中井大和守正清によって造営された。 社殿は、伝統様式である和様を基調とし、複雑な構成になる立面や軒廻りなどを巧みにまとめており、細部も整った意匠をもっている。また、要所に彫刻や錺金具などを用いて荘厳化をはかり、江戸幕府草創期における質の高い建築技術や工芸技術を伝えている。 |
久能山東照宮 | 20090719 久能山東照宮 |
久能山東照宮 | 太刀 銘真恒(久能山東照宮) | ![]() |
真恒は古備前はの刀匠と伝えるが、このような勇大豪壮な太刀は、名物大包平、重要文化財の利恒と共に、平安時代後期における一形態を代表するものである。元和三年の遷宮時に将軍秀忠が当社に寄進したもの。金梨地桐紋蒔絵の鞘に赤銅魚々子地金色絵桐紋散らし総金具の糸巻太刀拵が付属する。 | 久能山東照宮 | |
平田寺 | 聖武天皇勅書(天平感宝元年(749年)閏5月20日)(静岡・平田寺) | ![]() |
聖武天皇の自筆として確実なものは、他に静岡・平田寺の『聖武天皇勅書』(国宝)中の「勅」の1字のみである。 | ウィキペディア | |
願成就院 | 木造阿弥陀如来坐像・木造不動明王二童子立像・木造毘沙門天立像 運慶作 5躯(静岡・願成就院) | ![]() |
仏像の胎内から発見された銘札から、制作年は文治2年(1186年)、施主は北条時政であることが判明。願成就院は、頼朝の奥州討伐を祈願して北条時政により建立されたとされ、建立に併せて諸像が作られたことが伺えます。運慶の優れた彫技を伝えるとともに、近年の運慶にかかわる研究の進展の中で、当作品が「運慶様式」ひいては、鎌倉彫刻様式の成立を示すものであることが明らかになり、国宝に格上げされました。 | 伊豆の国市 | |
愛知 |
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徳川美術館 | 婚礼調度類 一括(徳川光友夫人千代姫所用)(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
寛永十六年(一六三九)九月二十一日、三代将軍徳川家光の長女千代姫が、二歳六か月の年齢で尾張徳川家二代藩主である光友に嫁いだ際に携えた婚礼調度類の一群である。 | ウィキペディア | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
徳川美術館 | 短刀 銘吉光(名物後藤藤四郎)(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
粟田口派の名工藤四郎吉光の作で、同作中比較的に大振りである。華やかな乱れの出来で、帽子の火焔も見事である。『享保名物帳』に所載する後藤藤四郎が本短刀で、金銀座の元締後藤庄三郎の所持によりこの号がある。 | ウィキペディア | |
徳川美術館 | 太刀 銘来孫太郎作(花押)正応五□辰八月十三日以下不明(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
来孫太郎は来国俊の俗称と伝えているが、来孫太郎と銘したものは他に例がない。正応五年の年紀と同工のものと思われる花押があることも貴重である。 | ウィキペディア | |
徳川美術館 | 短刀 無銘正宗(名物庖丁正宗)(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
総体に穏やかな出来で、刀身に施された剣の透かし彫りは技巧的で他に例を見ない。『享保名物帳』に所載する包丁正宗三口の内の一つである。 | ウィキペディア | |
徳川美術館 | 太刀 銘正恒(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
古備前派の正恒の作で、同名は数工あるが、この銘振のものは最も古雅である。やや小振りで姿は美しく、鍛えは同じ古備前の友成よりも綺麗につみ、刃文は焼幅の広い小乱れを焼いてやや技巧的であり、沸くがよくついて匂口が明るいなど、正恒の作風をよく示している。 延享二年(1745)十月十九日に将軍綱吉が隠居の挨拶として尾張徳川家に贈ったもの。 |
ウィキペディア | |
徳川美術館 | 太刀 銘光忠(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
光忠は鎌倉時代中期に備前長船に住して一派をなした長船派の祖である。その太刀は身幅が広く猪首鋒の豪壮な姿のものと、やや細見で中鋒の穏やかな姿の二様があり、鍛えは良くつんで晴れやかで鮮やかな乱れ映りが立ち、刃文は丁子乱れを主に互の目を交えるもので、同時代の一文字、畠田、国宗に比して地鉄が澄んで綺麗である。本太刀は数少ない在銘作の一口。 | ウィキペディア | |
徳川美術館 | 太刀 銘長光(名物遠江長光)(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
光忠の子、長光の作で、僅かに磨り上げているが、出来華やかである。地刃共に健全で、同作中華やかさにおいては大般若長光に並び、健全さにおいてはこれに勝る。『享保名物帳』に記載される遠江長光が本太刀で、元来織田信長の愛刀であったが、明智光秀が押収し、その家老の一人津田遠江守重久に授けたことから号がある。 | ウィキペディア | |
徳川美術館 | 太刀 銘国宗(徳川黎明会蔵・徳川美術館保管) | ![]() |
備前から相州へ移住したと伝える備前三郎国宗の作で、僅かに磨り上げてはいるが、丁子乱れを主体に互の目を交えた、同工の得意の作風を最もよく発揮した出来である。 | ウィキペディア | |
徳川美術館 | 源氏物語絵巻 (徳川黎明会 紙本著色 絵15面詞28面) | ![]() |
本絵巻で現存するのは絵巻全体の一部分のみである。名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面が所蔵され、それぞれ国宝に指定されている。 | ウィキペディア | 20171107 国宝展V |
斉年寺 | 慧可断臂図 雪舟筆 (斉年寺 紙本墨画 1幅 1496年) | ![]() |
宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、恵可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。リアルにあらわされた面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地がここにあらわれているとみるべきであろうか。 | 京都国立博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
金蓮寺 | 金蓮寺弥陀堂 | ![]() |
平面は平安期の阿弥陀堂の形式を基礎にしつつ、外観は蔀や疎垂木などに住宅風の意匠が用いられた特徴的な建築で、東海地方有数の古建築として貴重である。 | ウィキペディア | 20180419 金蓮寺 |
犬山城 | 犬山城天守 (所有者:犬山城白帝文庫) | ![]() |
犬山城は、現在は天守のみが現存し、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつである。天守が国宝指定された5城のうちの一つ。他は姫路城、松本城、彦根城、松江城 | ウィキペディア | 20150813 犬山城 |
如庵 | 如庵 (所有者:名古屋鉄道) | ![]() |
織田信長の実弟、有楽の作。大坂夏の陣の後に隠居所とした京都建仁寺内に建てられ、近代に入って二度の移築を経て現在地に移築された。二畳半台目と呼ばれる平面を持ち、にじり口脇の意匠なども斬新な趣向を凝らしている。 | ウィキペディア | |
熱田神宮 | 短刀 銘来国俊 正和五年十一月日(熱田神宮) | ![]() |
銘より来国俊76歳の作と考えられる。常の作と異なり、身の長さに比べて身幅が広く、重ねが厚く頑丈な造り込みであるが、地沸のよくついた地鉄と、沸出来の直刃には同工の特色がよく示される。 | 熱田神宮 | |
宝生院 | 漢書 食貨志第四(宝生院) | ![]() |
本書は唐の『顔師古(がんしこ)』の注釈本。『漢書食貨志』上巻のみであるが、『経籍訪古志』、『古逸叢書』に収められている有名なものであり前漢時代の社会経済を記録した歴史書である。 | 文化財ナビ愛知 | |
宝生院 | 古事記(賢瑜筆)3帖(宝生院) | ![]() |
巻末の糊継目に宝生院の僧賢瑜書写の記がある。真福寺第二代信瑜の命令によって賢瑜が書写したものと考えられている。『古事記』の古写本として最も古く有名な典籍である。 | 文化財ナビ愛知 | |
宝生院 | 琱玉集 巻第十二、第十四(宝生院) | ![]() |
『ちょう玉集』は撰者を明らかにしないが、手引となるように主題別に編纂された事典の一種であり、唐代の蒙求の先駆をなすものと思われる。 | 文化財ナビ愛知 | |
宝生院 | 翰林学士詩集(宝生院) | ![]() |
国宝翰林学士詩集(こくほうかんりんがくしゅう)は、縦28p 長さ6m43pの巻子本。巻末尾題に「集巻第二誌一」とあり、唐太宗以下 遂良、揚師道等唐初大家の四言詩・五言詩など60首を収めている。書風から、唐鈔本であると推定される。 | 文化財ナビ愛知 | |
久遠寺 | 夏景山水図 伝徽宗筆 (久遠寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
中国北宋画のなかでも品位の特に高い画。京都南禅寺塔頭金地院が所蔵する秋景山水図、冬景山水図と並ぶものである。筆者は北宋末(約880年前)の徽宗皇帝と考えられている。 | 山梨県 | 20171017 国宝展U |
向嶽寺 | 達磨図 (向嶽寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
南宋画の影響を強く受けた日本人画家が描いたもので、わが国における南宋画様式の早期受容の一端を示す貴重な文化財。法衣が朱であることから、「朱達磨」と呼ばれる。上方の賛は、建長寺開山であり、本県甲府市東光寺、韮崎市永岳寺等の開山でもある蘭渓道隆が、朗然居士という人物のためにつけたもの。 | 山梨県 | |
菅田天神社 | 小桜韋威鎧(兜、大袖付)(山梨・菅田天神社) |
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菅田天神社の宝庫に保管される国宝「小桜韋威鎧 兜、大袖付」は、重厚さや霊験から、矢・刀を防ぐのに楯は不要という意味で「楯無鎧」とも呼ばれている。この鎧は、甲斐源氏の祖、新羅三郎義満から武田氏に伝えられ、御旗(日本最初の日章旗)とともに武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。 | 山梨県 | |
清白寺 | 清白寺仏殿 |
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清白寺は、足利尊氏が夢窓疎石(国師)を開山とし、正慶2年(1333)に創立したと伝えられる臨済宗の寺院です。仏殿の建立は、組物に墨書が発見され、応永22年(1415)と判明しました。天和2年(1682)の寺院火災にも災いをまぬがれ貴重な遺構となっています。 | 清白寺仏殿 | 20180418 青白寺 |
大善寺 | 大善寺本堂 |
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本堂の中に、薬師三尊像を安置していますので「薬師堂」とも呼ばれます。この薬師堂には、弘安9年3月16日(AD1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建てられ、築730年以上にもなります。勿論山梨県では一番古い建物です。大きさは24m四方で、5間の正面は、中側の3間は両開きの扉が付き、両外側は、上部が縦桟の連雀格子になっています。両側面の正面寄りと、裏面中央には、出入り口があります。また幅広の縁側が四周を取り巻いています。上を見ると流麗な線を 持つ檜皮葺きの屋根は、落ち着きを見せ、鎌倉時代の建築の力強さをよく現しています | 大善寺 | 20180418 大善寺 |
岐阜 |
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護国之寺 | 金銅獅子唐草文鉢(岐阜・護国之寺) | ![]() |
銅を打ち出し獅子(ライオン)を四方に配し 宝相華(唐草)文様 連珠紋 魚々子地等を彫金で埋め尽くしたものに塗金したもので 東大寺大仏落慶法要にお供物を入れた佛餉器であろうと言われており 奈良時代の特徴が顕れている | 護国之寺 | |
安国寺 | 安国寺経蔵 | ![]() |
応永15年(1408年)の建築。入母屋造、杮葺。柱間正面・側面とも1間の身舎(もや)の周囲に裳階(もこし)を付した禅宗様建築。身舎の柱間は外見からは正側面とも3間に見えるが、内側の2本は柱ではなく束(つか)である。 | ウィキペディア | |
永保寺 | 永保寺開山堂 | ![]() |
入母屋造檜皮葺き。南北朝時代。永保寺開創の夢窓国師および開山仏徳禅師の頂相が安置されている。方一間(間口、奥行ともに柱間が1間)裳階付きの祠堂の前に方三間の昭堂(外陣、礼堂)が建ち、これらを相の間でつないで1棟とする特異な形式である。 | ウィキペディア | 20180419 永保寺 |
永保寺 | 永保寺観音堂 | ![]() |
一重裳階(もこし)付き、入母屋造檜皮葺きの仏殿。南北朝時代。「水月場」とも称し、本尊の聖観世音菩薩坐像が安置されている。身舎は方三間(間口、奥行ともに柱間が3間)で、その周囲に裳階を設ける。 | ウィキペディア | 20180419 永保寺 |
来振寺 | 五大尊像 (来振寺 絹本著色 5幅) | ![]() |
智証大師請来様の五大尊として、不動明王、降三世明王、軍茶利夜叉明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の5幅が完存している唯一のものであり、図像的にも非常に貴重な作例である。 | 岐阜県 | |
法人蔵 | 太刀 銘康次(岐阜・法人蔵) | ![]() |
室町幕府15代将軍・足利義昭(1537〜1597)が、薩摩の大守(たいしゅ)・島津義久(1533〜1611)に贈ったものと伝えられている。江戸時代になって島津家の家紋入り糸巻太刀拵が付けられ、儀式の際に使われた。 | 岐阜県 | |
法人蔵 | 入唐求法巡礼行記(円仁記、兼胤筆)(岐阜・法人蔵) | ![]() |
9世紀の日本人僧で、最後の遣唐使(承和)における入唐請益僧である円仁の旅行記である。その記述内容は、円仁がちょうど遭遇してしまった、武宗による会昌の廃仏の状況を記録した同時代史料として注目される。また、正史には見られない、9世紀の中国の社会・風習についての記述も多く、晩唐の歴史研究をする上での貴重な史料として高く評価される。円仁は最澄に師事した天台僧で、のちに山門派の祖となる。 | ウィキペディア | |
長野 |
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尖石縄文考古館 | 土偶 (茅野市尖石縄文考古館) | ![]() |
全体像は下方に重心がある安定した立像形で、全長は27センチ、重量は2.14キロあります。顔はハート形のお面を被ったような形をしています。切れ長のつり上がった目や、尖った鼻に針で刺したような小さな穴、小さなおちょぼ口などは、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の土偶に特有の顔をもっています。腕は左右に広げられて手などは省略されています。また、胸は小さくつまみ出されたようにつけられているだけですが、その下に続くお腹とお尻は大きく張り出しており、妊娠した女性の様子をよく表しています。 | 茅野市 | 20170702尖石縄文考古館 |
尖石縄文考古館 | 土偶 長野県中ッ原遺跡出土 1箇(長野・茅野市) | ![]() |
「仮面の女神」の愛称をもつこの土偶は、茅野市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶です。全長は34センチ、重量は2.7キロあります。顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。 | 茅野市 | 20170702尖石縄文考古館 |
サンリツ服部美術館 | 楽焼白片身変茶碗 銘不二山 光悦作(サンリツ服部美術館) | ![]() |
不二山は、光悦作の楽茶碗の中でも最も有名で、品格特に高く、光悦五種、七種、十種にはいづれもこれを挙げている。光悦の娘が嫁ぐ際に、先方の懇望によって、本茶碗を振袖に包んで持参したと伝えられ、一名には振袖茶碗とも呼ばれている。また、光悦筆の共箱を伴うものは極めて稀である。天保九年に比喜多権兵衛から酒井雅楽頭忠学の蔵となり、同家に伝来した。光悦茶碗の代表作としてのみならず、和物茶碗中の白眉と称しても過言ではない名碗である。 | サンリツ服部美術館 | |
安楽寺 | 安楽寺八角三重塔 | ![]() |
別所温泉の安楽寺といえば、長野県はもちろん、全国的にも有名な寺です。鎌倉時代に中国から渡って来て、たいへん盛んとなった仏教に禅宗という流れがありますが、安楽寺はその禅宗としては、鎌倉の建長寺などと並んで日本では最も古い臨済禅宗寺院の一つです。天正十六年(1588)ころ、高山順京が曹洞宗に改めました。その安楽寺にある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定されました。 | 上田市 | 20180415 上田へ. |
松本城 | 松本城天守 5棟(天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓)長野県(所有者:国、管理団体:松本市) | ![]() |
文禄(1593〜1594)年間に建てられた五重六階の天守としては日本最古です。幾たびかの存続の危機を、市民の情熱により乗り越え、四百余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの天守が保存されています。明治の大改修後の昭和11年、国宝に指定されました(昭和27年再指定)。別名深志城とも呼ばれています。姫路城、彦根城、犬山城とともに四つの国宝城郭のひとつです。 | 松本市 | 20120408 松本城 |
仁科神明宮 | 仁科神明宮本殿・中門(前殿) 2棟 | ![]() |
このお宮は、平安時代の終わりごろ、伊勢神宮領仁科御厨(伊勢神宮の庄園)を守るために、この地方の支配者である仁科氏により祭られました。以来、1000年以上にわたり20年に1度の遷宮が行われてきました。わが国古来の「神明宮」の様式を正確に伝えています。 | 大町市 | 20180415 上田へ. |
善光寺 | 善光寺本堂 | ![]() |
本堂は、間口23.89メートル、高さ25.82メートル、奥行き53.67メートルの規模をもつ江戸時代中期仏教建築を代表する大伽藍です。敷地面積では、国宝建造物の中では、東大寺大仏殿、三十三間堂に次いで3番目の大きさを誇っています。通常のお寺に比べ、間口に対して極端に奥行きが長くなっているのが信州長野善光寺の本堂の特徴です。 | 善光寺 | 20070630 善光寺 |
大法寺 | 大法寺三重塔 | ![]() |
惣門から参道を登ると正面に観音堂があり、西北の小高い丘に三間四方の檜皮葺「三重塔」が中空に舞う鶴の羽のような優雅な姿をみせます。東山道を旅する人々は「見返りの塔」といい塔の姿があまりにも美しいので、思わずふり返るほどであるという意から、つけられたであろうと言われています。 | 青木村 | 20180415 上田へ. |
十日町市博物館 |
新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器 57点 (十日町市博物館) | ![]() |
「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」とは、有名な火焔型(かえんがた)土器を含む928点の出土品で構成されている国宝の正式名称です。火焔型土器は、立体的な装飾に富み、優れた原始造形美を有する土器です。その独特な形や文様は、近隣各地の土器様式の影響のもと、今から約5300年前に信濃川中流域で成立し、同地域において約500年間にわたり継続、発展したと推定されています。 | 十日町市博物館 | 20170705十日町市博物館 |
富山 |
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瑞龍寺 |
瑞龍寺仏殿・法堂・山門 3棟 富山県 |
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加賀藩2代藩主前田利長の菩提を弔うために建立された曹洞宗の寺院。慶長14年(1609)利長が高岡に城を築いた際、富山から招いた法圓寺を前身としている。利長がなくなった慶長19年(1614)、利長の法名にちなんで瑞龍寺と改められた。3代藩主利常は兄利長の遺徳をたたえるため、33回忌にあたる正保3年(1645)を契機として伽藍整備を行い、50回忌にあたる寛文3年(1663)頃には完了した。総門、仏殿、法堂がこの当時の建築物である。 | 高岡市 | 20180414 瑞龍寺 |
石 |
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石川県立美術館 | 色絵雉香炉 仁清作(石川県立美術館) | ![]() |
ほぼ等身大の雉の香炉で、京焼の祖といわれる仁清の彫塑的な作品のうちでも特にすぐれている。上下二つに分かれ、蓋に4個の煙出し孔がうがたれ、胎土はわずかに黄色味をおびている。緑、紺青、赤などの絵具と金彩で、羽毛などを美しく彩った豪華な作品で、尾を水平に保って造形、焼成するなど至難な技が駆使され、緊張感あふれる作となっている。 | 石川県立美術館 | |
白山比盗_社 | 剣 銘吉光(白山比盗_社) | ![]() |
吉光は山城国粟田口派の刀工で、短刀の名手として知られています。形状は両鎬(りょうしのぎ)造り(=両刃)で極めて優れ、小振りですが品位があります。この剣は、徳川家光の養女阿智子が加賀藩4代藩主前田光高に嫁いだ際の持参品で、その死後に5代藩主綱紀が母の冥福を祈念して奉納したものです。 | 白山比盗_社 | |
福井 |
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永平寺 | 普勧坐禅儀(道元筆)(永平寺) | ![]() |
普勧坐禅儀は、曹洞宗の開祖である道元禅師が、宋での修業を終えて帰国した嘉禄3年(1227)に、禅の奥儀を選んで記述した書で、永平寺に伝わる本巻は、帰国から6年後の天福元年(1233)に禅師が自ら書いたものである。 | 福井県 | |
常宮神社 | 朝鮮鐘 太和七年三月日菁州蓮池寺鐘在銘(福井・常宮神社) | ![]() |
この鐘は、中国や我が国のものと異なり、鐘身に縦横の紐をもたず、鐘の上の肩帯・下の口帯には海磯文様を連続させる。下方には八葉蓮弁の撞座と、天衣を翻す飛天二体を、胴の四囲に交互に配する。銘文には「太和七年三月日菁州蓮池寺」とあり、大和7年(833)に菁州の蓮池寺の鐘として造られたものである。社伝によると、慶長2年(1597)に大谷吉継が豊臣秀吉の命を受けて奉納したものであるという。我が国に渡来する朝鮮鐘のうちでは、製作年代が最も古く、文様も巧みに鋳出されている。 | 福井県 | 20171024 常宮神社 |
瀧谷寺 | 金銅宝相華文磬(福井・瀧谷寺) | ![]() |
磬は中国起源の打楽器で、日本では銅・鉄製で主に声明の合図に用いられた。滝谷寺の磬は鋳銅渡金で、肩幅23.8cm、高さ9.5cm。表裏面ともに、中央に蓮華の撞座を、その左右に宝相華文を線刻し、隙間に魚々子が打たれている。その様式は古風で、平安時代後期の制作と考えられる。 | 福井県 | |
劔神社 | 梵鐘 銘劔御子寺鐘神護景雲四年九月十一日(福井・劔神社) | ![]() |
この梵鐘は、「劔御子寺鐘 神護景雲四 年九月十一日」という銘文をもち、劔神社の神宮寺であった劔御子寺の梵鐘であったことが分かる。高さ110.0cm、口径74.0cm鐘の高さに比して口径が大いなど、すべてに古式を示す。奈良時代の鐘で紀年銘を有するものは、妙心寺鐘、興福寺鐘と本鐘の3点である。 | 福井県 | 20091010 剱神社 |
明通寺 | 明通寺三重塔 | ![]() |
明通寺は、大同元年(806)、征夷大将軍坂上田村麻呂の創建と伝えられる真言宗の寺院である。 三重塔は、初層平面方3間(4.18m)、高さ約22m檜皮葺の建物である。上層にゆくにしたがって寸法を減らしていくことで、均等のとれた美しい姿が作り出されている。寺の縁起では文永7年(1270)の建立とされる。様式的にもよく整った和様でおさめられており、優美で落ち着いた建物である。 | 福井県 | 20171025 明通寺 |
明通寺 | 明通寺本堂 | ![]() |
本堂は、正面5間(14.72m)側面6間(14.87m)、入母屋造檜皮葺の建物である。寺の縁起では正嘉2年(1258)の建立とされ、県内最古の木造建築である。 | 福井県 | 20171025 明通寺 |