岡山 |
文化遺産データベース |
参考Photo |
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参考リンク |
鑑賞日記 |
岡山県立博物館 | 赤韋威鎧(兜、大袖付)(岡山県立博物館) | ![]() |
本鎧はかつて備中国赤木家に伝来したもので、兜の眉庇の染韋や金銅据文金物など、一部に鎌倉時代の改変が加えられているものの、総体に製作当初の姿をそのままに伝え、かつ大型三ツ目札を用いる点、草摺を前後四段、左右五段下がりとし、前の裾を分割しない点、菱襷に撫子、桜草、獅子の丸文などの染韋、粒の粗い星を有する小振りな兜鉢など、平安時代後期の大鎧に共通する古様な形制を随所に示す | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
林原美術館 | 短刀 無銘正宗(名物九鬼正宗)(林原美術館) | ![]() |
生ぶ茎無銘の正宗の短刀。正宗の作には有銘のものが少なく、他に数口の有銘の短刀がある。本短刀は同作中特に出来が優れ、かつ健全である。もと九鬼長門守の所持であったことから本号があり、享保名物帳に所載がある | 岡山県 | |
林原美術館 | 太刀 銘吉房(林原美術館) | No Image | 備前国・福岡一文字派の刀工の中で、最も華やかな丁子乱(ちょうじみだれ)。名工と言えば吉房、則房(のりふさ)、助真(すけざね)の三者がいる。その中でも、吉房銘の作は比較的に多いが、この吉房は特に刃文が華やかで変化がある。中心(なかご)(手で持つ部分)もほとんど生(う)ぶで、これに加えて地刃とも頗る健全である点から、作者も出来も福岡一文字を代表した優品となっている。名刀を多く所蔵した紀州家の分家である西条松平家伝来 | 林原美術館 | |
林原美術館 | 太刀 銘備前国長船住左近将監長光造(林原美術館) | ![]() |
刃長78.7cm、反り2.7cm、鎬造、庵棟。鍛えは小板目肌がよく詰み、乱映りが立つ。刃文は丁字に互の目が交わる。鎌倉中期の初代長光の作で、抜群のできばえを示した一口である | 岡山県 | |
旧閑谷学校 | 旧閑谷学校講堂 (所有者:岡山県) | ![]() |
閑谷学校は寛文六年(一六六六)岡山藩主池田光政が領内庶民子弟教育のためはじめたもので、光政自身巡検でこの地の閑静を愛で、津田永忠に命じて同八年手習所を設けて発足した | - | 20171102 旧閑谷学校 |
吉備津神社 | 吉備津神社本殿及び拝殿(1棟) | 吉備津神社は,古代以来の吉備地方の鎮護として名高い。現在の社殿は足利義満の命により応永32年(1425)に再建された。本殿の平面は三間社の周囲に庇を二重に廻した形式をとり,内部に向かって次第に床と天井を高めている。屋根は前後二つの入母屋造を連結した比翼入母屋造と呼ばれる特異な外観を見せる。本殿前には妻入りの拝殿が接続し,本殿と同様に大仏様の手法を示す。 | 岡山県 | 20080307 吉備津神社 | |
広島 | |||||
ふくやま美術館 | 太刀 銘吉房(ふくやま美術館) | ![]() |
一文字派最盛期における代表的刀工の一人である吉房の作。出来が優れ、生ぶ茎で、総じて健全である。長大な太刀であるが、磨り上げられずに生ぶの姿をした堂々たるものである。寛文七年に島津綱貴が将軍家綱から拝領したもので、島津家伝来である。 | 九州国立博物館 | |
ふくやま美術館 | 太刀 銘筑州住左(江雪左文字)(東京・法人蔵) | 本太刀は、初代左文字の傑作。同工は、短刀を得意としており、有銘の太刀は稀有であるが、短刀に比べても遜色がない。もと北条氏家臣岡部江雪斎嗣成秘蔵の愛刀であったことから、江雪左文字と号す。後に徳川家康の料となり、紀州頼宣へ与えられた。 | - | ||
ふくやま美術館 | 短刀 銘左 筑州住(東京・法人蔵) | No Image | 初代左文字の最も代表的な出来で、地刃が健全である。相州伝の作風を示し、鍛に地景が細かに現れ、刃文は沸匂が深く、特に明るく冴えたのたれを焼き、帽子の刃文は鋭く突き上げて特色がある。地刃共に極めて明るく晴れ晴れとした名作である。 | - | 20171107 国宝展V |
ふくやま美術館 | 短刀 銘国光(名物会津新藤五)(東京・法人蔵) | No Image | 本短刀は『享保名物帳』に所載されるもので、国光の代表作といえる。会津領主蒲生氏郷の愛刀であったことから「会津新藤五」の号がある。 | - | 20171101 ふくやま美術館 |
ふくやま美術館 | 太刀 銘則房(東京・法人蔵) | No Image | 片山一文字則房の作。磨り上げてはいるが、一文字派最盛期の華麗で豪壮な作風をよく示した大作。現存する在銘の作の中でも白眉で地刃健全である。徳川将軍家伝来。 | - | 20171101 ふくやま美術館 |
ふくやま美術館 | 太刀 銘吉房(東京・法人蔵) | No Image | 福岡一文字吉房の作である。身幅が広く猪首鋒の堂々とした太刀で、鍛は福岡一文字によく見られるやや肌立つ小板目に映りがよく現れ、刃文も大房丁子や袋丁子などを交えた吉房の典型的なものである。鎌倉時代中期の一文字派最盛期における作風で、地刃健全である。 | - | 20171101 ふくやま美術館 |
ふくやま美術館 | 太刀 銘国宗(東京・法人蔵) | No Image | 備前三郎国宗の作で、僅かに磨り上げてはいるが、同作中の傑作であり、健全無類のものである。 | - | |
ふくやま美術館 | 太刀 銘正恒(東京・法人蔵) | No Image | 古備前正恒の作。腰反りの高い優雅な姿の太刀で、正恒作刀中で作風・銘など最も古調で最高の出来と評される。蜂須賀家伝来。 | - | |
厳島神社 | 厳島神社 摂社客神社本殿、幣殿、拝殿 | ![]() |
古来より神聖視された宮島にあり、海上鎮護の神として崇敬された。現在は仁治2年(1241)再建の社殿が基本であるが、平清盛の厚い庇護を受けて整えられた平安末期の構成を踏襲している。北の入り江に建ち、南奥の本社本殿と東の客社本殿は両流造形式で、拝殿や祓殿などの諸建築を回廊で連続した景観は、寝殿造の大邸宅を思わせる。 | ウィキペディア | |
厳島神社 | 厳島神社 本社祓殿 | ![]() |
古来より神聖視された宮島にあり、海上鎮護の神として崇敬された。 | ウィキペディア | |
厳島神社 | 厳島神社 摂社客神社本殿、幣殿、拝殿 | ![]() |
現在は仁治2年(1241)再建の社殿が基本であるが、平清盛の厚い庇護を受けて整えられた平安末期の構成を踏襲している。 | ウィキペディア | |
厳島神社 | 厳島神社 摂社客神社祓殿 | ![]() |
北の入り江に建ち、南奥の本社本殿と東の客社本殿は両流造形式で、拝殿や祓殿などの諸建築を回廊で連続した景観は、寝殿造の大邸宅を思わせる。 | ウィキペディア | |
厳島神社 |
折曲り延長四十五間、一重、切妻造、檜皮葺 1棟 |
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北の入り江に建ち、南奥の本社本殿と東の客社本殿は両流造形式で、拝殿や祓殿などの諸建築を回廊で連続した景観は、寝殿造の大邸宅を思わせる。 | ウィキペディア | |
厳島神社 |
折曲り延長六十二間、一重、東端切妻造、西端唐破風造、檜皮葺 1棟 |
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北の入り江に建ち、南奥の本社本殿と東の客社本殿は両流造形式で、拝殿や祓殿などの諸建築を回廊で連続した景観は、寝殿造の大邸宅を思わせる。 | ウィキペディア | |
厳島神社
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平家納経(法華経等33巻、金銀荘雲龍文銅製経箱、蔦蒔絵唐櫃)(厳島神社) | ![]() |
平安時代後期の長寛2年(1164)9月,平清盛をはじめ,子息重盛,弟経盛・教盛・頼盛など平家一門の人々が一巻ずつ結縁(けちえん)書写して厳島神社に奉納した経典群。各巻とも金銀の優美な金具で飾られた表紙に,経の大意を描いた美しい見返し絵をつけ,料紙は表裏とも金銀の切りはくをまき,野毛あるいは,あし手を散らすなど意匠をこらしてある。また,水晶の軸に金銀の装飾金具をつけ,螺鈿(らでん)をするなど当時の工芸技法の粋をつくしている。平安時代(794〜1191)に流行した装飾経の最高峰をなすものであり,大和絵(やまとえ)の史料としても貴重である。 | 広島県 |
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厳島神社 | 金銅密教法具 一具(5点)(厳島神社) | ![]() |
三種の杵と五鈷鈴、金剛版の皆具。当初の一具と見られ、その形姿は温雅優麗の中にも鋭く、繊細ながらも技巧に流れず、鎌倉時代の製作にかかる和様密教法具の最高峰をなす貴重な遺品 | 広島県 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
厳島神社 | 小桜韋黄返威鎧(兜、大袖付)(厳島神社) | 本鎧は、古来源為朝奉納と伝える著名な一領である。小札の幅が著しく広く、威毛もまた太く、一枚張筋伏せの厳しい星兜の形状と併せて、総体に豪壮の趣がある鎧である。脇楯、鳩尾板などを欠失するものの、総体の形状はよく原形を留める | 広島県 | ||
厳島神社 | 浅黄綾威鎧(兜、大袖付)(厳島神社) | 本鎧を鎌倉前期のものと比較すると、小札は細く精緻になり、胴の裾開きの形状が上下同幅ないし裾絞りの傾向を示している。また、金具廻りが大きく、栴檀、鳩尾板が狭小となって障子板の前後が長い。兜においても頂辺の孔が縮小して間数が多く、星が小さく繁くなるなど、豪壮さに代わって端正な形姿となり、鎌倉時代後期の特色が著しい | 広島県 | ||
厳島神社 | 紺絲威鎧(兜、大袖付)(厳島神社) | 同社の小桜黄返威鎧や、御嶽神社の赤糸威鎧などとは趣を異にし、総じて手法が精緻であるが、金具廻りの狭小な点、染韋の文様、兜の形状や胴の仕立などには相通じる趣致があり、上掲二領と時代の隔たりはほぼないと見られる。原形をほぼ存しており、稀有の一領である。平重盛奉納の社伝がある | 広島県 | 20171017 国宝展U | |
厳島神社 | 黒韋威胴丸(兜、大袖付)(厳島神社) | 鎌倉時代末頃から軽快な胴丸が次第に合理性を備え、武将もこれを着用することにより、鎧の装飾性が加えられ変化発展した。本胴丸は、一部補修があるが、ほぼ原形をとどめ、仕立が精緻で雄大な趣のある形姿の典型的な優品である | 広島県 | ||
厳島神社 | 厳島神社古神宝類 一括(厳島神社) | 従来安徳天皇の所用とされてきたものであるが、宮司野坂家に伝わる文書によると、承安、安元、治承の約十年間に後白河法皇、高倉上皇が参詣されるにあたり、その都度神宝が奉進されたことが知られる。なかでも、承安四年には公家装束一式が奉納されることが見える。 | 広島県 | ||
厳島神社 | 彩絵桧扇(厳島神社) | 檜扇は本来は公卿が儀式次第を覚え書きするため素木のまま用いられたが、平安時代以降、婦女の盛装時に彩絵を施し飾り糸をつけた檜扇を持つようになった。檜扇の古例は当社伝来の古神宝に含まれるものや佐太神社に伝わるものがあるが、本檜扇の特徴として歌絵が描かれていることが挙げられる | 広島県 | ||
厳島神社 | 太刀 銘友成作(厳島神社) | ![]() |
古備前友成の作。友成は永延の頃から鎌倉時代にかけて同名数工あったと思われる。本太刀は刃文が古備前の特徴である小乱れではなく、直刃を主調として匂口がやや締まった出来であり、友成の中ではやや時代が下がるものと考えられる | - | |
厳島神社 | 梨子地桐文螺鈿腰刀(中身に友成作と銘がある)(厳島神社) | 金梨子地(きんなしじ)に五七桐を青貝螺鈿(あおがいらでん)にし付描をしたもので,小品ながら製作がすぐれ,完存する南北朝時代(1333〜1392)の合口拵腰刀(あいくちこしらえこしがたな)としての資料的価値は高い。中身は,平造,内反りの小振りの短刀で,庵棟,鍛えは小板目(こいため),刃文は細直刃でほとんど欠け出し,匂口(においくち)うるむ,彫り物は表に巧みな素剣がある。目釘孔の下に「友成作」の三字銘がある。中身が傷んで完全でないのは惜しまれるが,平安時代(794〜1191)の銘がある短刀はほとんど他に例がない。足利尊氏の所用という。 | 広島県 | ||
厳島神社 | 紺紙金字法華経(平清盛・頼盛合筆)8巻(厳島神社) | 嘉応2年(1170)9月から承安2年(1172)4月,平頼盛が兄の清盛と結縁合志のもとに書写供養した経典。各巻のはじめ何行かを清盛が書き,後を弟頼盛が書きついだいわゆる両筆経である。もと10巻あったが巻四と無量寿経は古く社外に出,後者の断簡は「厳島切(いつくしまぎれ)」と称せられ流布している。各巻宝相華文(ほうそうげもん)の紺表紙で,見返しに金泥(きんでい)で釈迦説法図などを描いた当代金泥経の一典型である。 | 広島県 | ||
厳島神社 | 観普賢経(平清盛・頼盛合筆)8巻(厳島神社) | 嘉応2年(1170)9月から承安2年(1172)4月,平頼盛が兄の清盛と結縁合志のもとに書写供養した経典。各巻のはじめ何行かを清盛が書き,後を弟頼盛が書きついだいわゆる両筆経である。もと10巻あったが巻四と無量寿経は古く社外に出,後者の断簡は「厳島切(いつくしまぎれ)」と称せられ流布している。各巻宝相華文(ほうそうげもん)の紺表紙で,見返しに金泥(きんでい)で釈迦説法図などを描いた当代金泥経の一典型である。 | 広島県 | ||
浄土寺 | 浄土寺本堂 | ![]() |
本堂は正中二年の火災後貞和元年に再建された建物で和様を基調として唐様、天竺様を混用したいわゆる折衷様式に属し、瀬戸内海沿岸諸地方に存するこの種建築の代表的なものである。又年代の確証あるものとしては最古の例に属する | 広島県 | 20161114 浄土寺 本堂と多宝塔 |
浄土寺 | 浄土寺多宝塔 | 鎌倉時代末期,嘉暦3年(1328)建立。大日如来及び脇侍(わきじ)(尾道市重要文化財)を安置し,内部には彩色が施され,壁面には真言宗の名僧を描いた真言八祖像がある。多宝塔としては,規模が大きい上に全体のつりあいがよく,高野山金剛三昧院や石山寺の多塔宝と並ぶすぐれた塔である。牡丹・唐草に蝶の透かし彫りをした蟇股(かえるまた)など,華麗な装飾に富み,その整った容姿および手法によって,鎌倉時代末期の代表的な建築とされる。昭和11年の解体修理で,屋根の上の相輪(そうりん)の中から経巻など多くの納入品が発見された。 | 広島県 | 20161114 浄土寺 本堂と多宝塔 | |
明王院 | 明王院本堂 | ![]() |
元応三年(一三二一)に建立された堂である。鎌倉時代本堂の優作のひとつであって、その様式が和様に唐様(禅宗建築の様式)を混じている古い例であって、様式混合の時期を示す基準となる作である | 広島県 | 20161115 明王院 本堂と五重塔 |
明王院 | 明王院五重塔 | ![]() |
南北朝時代の貞和4年(1348)住持頼秀のとき,一文勧進小資(いちもんかんじんしょうし)を積んで造られた五重塔。純粋の和様でよく整った外観と雄大な手法によって,南北朝時代を代表する建築の一つと言われている。内部は一重目中央に壇が設けられ,心柱が二重目から立ち上がる特異な構造である。壇周囲の壁板に真言八祖行状図,四天柱には金剛界三十七尊,なげし天井などには,唐草文・花鳥・飛天などが描かれているが,当初の彩色をこれほどよく残した塔は他に類例がない。なお,中世の港町・市場町の遺跡である草戸千軒町遺跡(くさどせんげんちょういせき)は,この明王院の東側山麓を流れる芦田川の中州にあった。 | 広島県 | 20161115 明王院 本堂と五重塔 |
向上寺 | 向上寺三重塔 | ![]() |
向上寺は尾道より船で一時間半程の海上にある生口島にあり、三重塔は永享四年(一四三二)の建立である。禅宗寺院の塔婆として貴重な遺構であるとともに、唐様の手法が濃厚で、細部も特色ある意匠がみられる。建立年代が明らかであり、部材がほとんど当初材のみと思われることもめづらしい | 広島県 | 20161113 向上寺三重塔 |
不動院 | 不動院金堂 | ![]() |
広島市郊外の真言宗不動院の金堂であるが、天正年間に安国寺恵瓊が山口より移建した。もとは戦国大名の大内義隆が創建した禅宗寺院香積寺の仏殿で、天井絵の銘文より天文9年(1540)の建立とわかる | 広島県 | 20171101 不動院金堂 |
持光寺 | 普賢延命像 (持光寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
普賢延命菩薩は、普賢延命法の本尊として請召される。延命法は人の寿命にかかわる修法だけに切実なこととして平安時代の貴紳の間で盛んに行なわれ、造像も相当数にのぼり遺例も多い。修理に際し画絹裏の最下辺に「延命像〈 仁平三年四月廿一日供養/〉」の墨書が発見され、平安時代仏画の数少ない在銘像としてまた当代の基準作としてその価値を一層高からしむることとなった | 広島県 | |
山口 | |||||
毛利博物館 | 史記 呂后本記第九(防府毛利報公会蔵・毛利博物館保管) | ![]() |
本書は「史記」の写本の中で書写の年代が明らかな最古のものである。毛利氏の祖である大江氏に伝わったもの | 防府市 | 20130814 毛利氏庭園 |
毛利博物館 | 四季山水図 雪舟筆 (防府毛利報公会蔵・毛利博物館保管 紙本墨画 1巻 1486年) | ![]() |
四季山水図は、雪舟芸術の中で最高傑作といわれ、一般には「山水長巻(さんすいちょうかん)」の名で知られている | 防府市 | |
毛利博物館 | 古今和歌集 巻第八(高野切本)(防府毛利報公会蔵・毛利博物館保管) | ![]() |
縦26.4cm、全長414.7cm。延喜(えんぎ)5年(905)、醍醐(だいご)天皇の命により編纂された日本最初の勅撰(ちょくせん)和歌集である「古今和歌集」の最古の写本で、11世紀ころの成立と推定されている。 | 防府市 | 20130814 毛利氏庭園 |
吉川報效会 | 太刀 銘為次(狐ヶ崎)(山口・吉川報效会) | ![]() |
古青江為次の作。保存が非常によく健全で、作中第一の名作でもある。腰反りが高く堂々とした姿、鍛えも落ち着きのある作風を示す。 岩国の吉川家に伝来し、当家の祖駿河国吉香小次郎友兼が正治二年に駿河国狐ヶ崎で、梶原景時一統を討伐した時の佩刀と伝えられることから「狐ヶ崎」の号がある。 |
山口県 | |
防府毛利報公会 | 菊造腰刀(刀身無銘伝当麻)(防府毛利報公会) | ![]() |
鎌倉時代末の作とみられ、中世の軍記物などに散見する筒金入りの腰刀がこれにあたる。遺品が少なく、現存するこの種のもののうちで優品である。また、中身は、大和物に多い冠落造り、鍛えが柾目、沸出来の直刃を焼く。当麻作と伝えられ、鎌倉時代末期の典型的な大和物で健全である | 防府市 | |
阿弥陀寺 | 鉄宝塔(水晶五輪塔共)(山口・阿弥陀寺) | ![]() |
本塔は金工史上の優作であり、当時の鋳造技術を駆使して造られており、鋳銅とは異なる鋳鉄の困難を克服した様子がうかがえる。 兵火で罹災した東大寺を再興すべく、後鳥羽天皇の勅命で諸国を勧進し、各地に別所を建て、舎利を奉安した重源の本願によることが銘文から分かることから、歴史的意義も極めて深い |
山口県 | 20130814 阿弥陀寺 |
功山寺 | 功山寺仏殿 | ![]() |
寺伝に嘉歴2年(1327)創建、仏殿南側来迎柱の上部に「此堂元応2年(1320)卯月5日柱立」とあり、鎌倉時代末期に建立された典型的な唐様建築(禅宗様)です。 | 功山寺 | 20171031 功山寺 |
瑠璃光寺 |
瑠璃光寺五重塔 | ![]() |
瑠璃光寺五重塔は、山口を本拠地として活躍した室町時代の守護大名・大内義弘(1356-1399)の死後、その弟の盛見が兄の菩提を弔って建立したと伝わり、大正4年に行われた解体修理の際に、嘉吉2年(1442)の墨書がみつかり、建築年代が明らかとなった | 山口市 | 20130814 瑠璃光寺 |
住吉神社 | 住吉神社本殿 | 『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。本殿は応安3年(1370年)に大内弘世により造営されたもので、昭和28年(1953年)国宝に指定されている。5つの千鳥破風付き一間社を合の間とともに一列に連ねた九間社流造 | ウィキペディア | 20090814 長門国一宮 住吉神社 | |
鳥取 | |||||
三仏寺 | 三仏寺奥院(投入堂) | ![]() |
投入堂(なげいれどう)は、鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の奥院。山の断崖の窪みに建造された平安時代の懸造り (かけづくり)木製堂で、三仏寺の開祖とされる役小角が蔵王権現などを祀った仏堂を法力で山に投げ入れたという言い伝えから「投入堂」と呼ばれる[1]。平安密教建築の数少ない遺構であり[1]、国宝に指定されている | ウィキペディア | 20171026 三仏寺投入堂 |
豊乗寺 | 普賢菩薩像 (豊乗寺 絹本著色 1幀)(東京国立博物館寄託) | ![]() |
法華信仰を背景に平安時代に描かれた仏教画。東京国立博物館の作品と並び称される普賢菩薩像の傑作である。守護する法華信仰者の前に現前した姿は,金銀箔を糸のように切って貼り付ける切金の技法により華やかにかつ繊細に荘厳されている | ウィキペディア | |
倭文神社 | 伯耆一宮経塚出土品 (倭文神社 1103年) | 大正4年(1915)、伯耆一宮経塚から銅経筒、金銅仏、銅鏡、檜扇、短刀、刀子、玉類、銅銭、漆器などが出土した。このうち、経筒の筒身の全面に、15行236文字にわたり願文が刻まれており、康和5年(1103)の銘がある。金銅観音菩薩立像(全高21.5cm)も優品である。これらから、経塚がこの時期極楽往生、現世利益の祈願を目的としていたことがよくうかがわれ、平安後期の埋納供養を考察する上で貴重である。 | 鳥取県 | 20180503 東京国立博物館 | |
島根 | |||||
古代出雲歴史博物館 | 島根県荒神谷遺跡出土品 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管) | ![]() |
本件は、島根県簸川郡斐川町神庭に所在する荒神谷遺跡から出土した青銅器の一括である。銅剣は三五八口を西側から三四口、一一一口、一二〇口、九三口の四列に分け、整然と刃を立てた状態で並べられていた。銅矛一六口は斜面に平行方向に刃を立てた状態で、かつそれぞれの切先と基部を交互にして埋置されていた。銅鐸は銅矛の西側に接し、三口ずつが鈕を向かい合わせるように二列にして、かつ鰭を立てた状態で埋置されていた | 出雲市 | |
古代出雲歴史博物館 | 島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管) | ![]() |
本件は、島根県加茂岩倉遺跡から一括出土した銅鐸39口である。銅鐸の型式は外縁付鈕1式が19口、外縁付鈕2式が9口、外縁付鈕2式〜扁平鈕1式が2口、扁平鈕2式が6口、扁平鈕2式〜突線鈕1式が3口である | 島根県 | |
松江城 |
松江城天守1棟(島根・松江市所有) | ![]() |
松江城天守は、平成27年5月15日の国の文化審議会において、国宝に指定するよう文部科学大臣に答申がなされていましたが、同年7月8日の官報告示により、正式に国宝に指定されました | 松江市 | 20171026 松江城 |
出雲大社 | 出雲大社本殿 | ![]() |
『日本書紀』や『古事記』に起源説話をもつ古社である。伊勢神宮のような式年造替制が明確でないが、数多くの造営が行われ、現本殿は延享元年(1744)に建てられたもので、正方形平面・切妻造・妻入の大社造である。規模の大きさ、高い床、太い部材など現本殿も相当に雄大であるが、史料や伝承によれば、古代にはさらに高大であった。 | 出雲大社 | |
出雲大社 |
秋野鹿蒔絵手箱(出雲大社) | ![]() |
総体に平安時代の作風を伝えて優雅繊麗の趣に満ちている。一方で、器形において蓋の甲盛が高く、胴が張り、図様が緻密となり、技法も又各種の粉蒔を施して変化の妙を尽くしているところに鎌倉時代の蒔絵の特色がうかがわれる。 | 出雲大社 | |
日御碕神社 |
白絲威鎧(兜、大袖付)(島根・日御碕神社) | ![]() |
本鎧は極めて精緻な製作で、ほぼ完存しており、形状や意匠からは鎌倉時代末のものと考えられる優品である。文化二年に松江城主松平不昧公が甲冑師寺本喜市に命じて修補させたが、陶磁の残片および修補仕様明細書を存し、新補部分を明瞭にするなど、その修理もまた巧妙で後世の範とすべきものがある | 出雲市 | |
神魂神社 | 神魂神社本殿 | ![]() |
神魂神社のある大庭という土地は、古く出雲国造の住んだところであった。この神社の本殿は天正11年(1583)の再建であって、出雲国(島根県東半部)にのみ分布する大社造のなかの最古の遺構である。出雲大社本殿によく似ているが、梁行に対して桁行がやや長く、また規模に比して柱が太く、大社造の古い形式を伝えるものと考えられる。 | 神魂神社本殿 | 20171026 神魂(かもす)神社 |
香川 | |||||
香川県立ミュージアム | 藤原佐理筆詩懐紙(香川県立ミュージアム) | ![]() |
太政大臣であった祖父の実頼(さねより)が催した詩会の席で漢詩を詠んだのだ。二つに折りたたんで懐(ふところ)に納まるほどの大きさの紙に書かれたので「詩懐紙(しかいし)」と呼ばれる。詩会は安和2年(969)旧暦の3月14日、お題は水辺に咲く花と春の陽光のコラボレーションを詠う、というものだった | - | 20171115 国宝展W |
善通寺 | 金銅錫杖頭(善通寺) | ![]() |
金銅製で輪の中に二組の阿弥陀三尊と四天王を背中合せに鋳出し、製作は精緻で優れている。中国の唐の作で、古く日本に伝来し、錫杖のみならずわが国の金工技術にも影響を及ぼしたものとして意義深い。極めて類品の少ないもので、錫杖の代表作である。弘法大師将来の寺伝がある。 | 善通寺 | |
善通寺 | 一字一仏法華経序品(善通寺) | ![]() |
全長21.2mの巻物に、法華経序品の1字ずつを弘法大師が書き、その行間に菩薩を1体ずつ弘法大師の母・玉依御前(たまよりごぜん)が描いたといわれています。 | 善通寺 | |
本山寺 | 本山寺本堂 | ![]() |
本山寺(もとやまじ)は香川県三豊市にある高野山真言宗の寺院。山号は七宝山(しっぽうざん)。正安二年(一三〇〇)の建立で、密ヘ本堂の好例で、意匠面白く、内部厨子も優秀である。 | ウィキペディア | 20160211 第70番 本山寺 |
神谷神社 | 神谷神社本殿 | ![]() |
坂出市東部、五色台の一峰・白峰山の麓に鎮座する。「神谷」と呼ばれる谷間に位置し、境内の北方を神谷川が流れる。本殿は造営年代が明らかな流造社殿の中では最古のもので[1]、国宝に指定されている。国宝の社殿を持つ神社ではあるが、境内は比較的小さい。そのほか、重要文化財の木造随身立像などの神宝を現在に伝えている。 | ウィキペディア | |
個人蔵 | 肥前国風土記(香川・個人蔵) | ![]() |
肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つ。成立年代については郷里制が行政区域として採用されていること、軍事面(城(き)・烽(とぶひ))に関する記事についても詳細に記されていることから、天平4年(732年)の節度使設置以後、同12年(740年)の郷里制廃止以前に限定する見解が有力とされているが、確証はない。 | ウィキペディア | |
愛媛 | |||||
大山祇神社 | 禽獣葡萄鏡(大山祇神社) | ![]() |
鋳上がりもよく、整然と連続した葡萄唐草と、軽快な動きを見せる鳥獣とがよく調和し、全体に端麗な印象を与えている。香取神宮のものと共に伝存する海獣葡萄鏡の代表作である。 | ||
大山祇神社 |
沢瀉威鎧(兜、大袖付)(大山祇神社) 澤瀉 | ![]() |
幅の狭い三手組糸をもって縦取りに威した手法は、古墳出土の挂甲残闕、正倉院伝来の挂甲残闕にも共通点があるが、平安時代の遺品としては、法隆寺伝来の澤潟威鎧雛形と本鎧があるだけで、現存鎧中最古のものである。当社では延喜の鎧と伝えているが、天慶の乱以後、前九年の役の間に作られたものと推定されている。 | 愛媛県 | |
大山祇神社 |
赤絲威鎧(大袖付)(大山祇神社) | ![]() |
本鎧は兜を欠くが、大袖、栴檀・鳩尾板を具え、障子板および逆板、弦走があり、鎧の制を具備している。一方で、胴は一続きで、右脇に前後の引き合わせがあり、草摺が七間に分かれているのは胴丸の形状であり、鎧と胴丸の特色を兼備した特殊な形状である。 この種の鎧は、平治合戦絵巻や後三年合戦絵巻などに見られるものであるが、遺品としては本一領のみである。 |
愛媛県 | |
大山祇神社 |
紫綾威鎧(大袖付)(大山祇神社) | ![]() |
綾威鎧の類品は、厳島神社の浅黄綾威鎧、当社の萌黄綾褄取威鎧と本鎧が知られているに過ぎず、稀少の遺品である。就中この鎧は最も古く、染韋の意匠や文金物、小札、金具大廻の形状などから鎌倉初期と考えられる。兜はなく、部分的に後補があるが、総体によく原形を残し、豪壮華麗な趣がうかがえる。 | 愛媛県 | |
大山祇神社 |
紺絲威鎧(兜、大袖付)(大山祇神社) | ![]() |
一部に補修があるが、総体に原形を止め、平安時代末期鎧の特色がうかがえる。現存する同様式の鎧遺品は数少なく、また本鎧では麻糸威しであることが注目される。社伝では、源頼朝の武将河野通信奉納と伝える。 | 愛媛県 | |
大山祇神社 |
大太刀 銘貞治五年丙午千手院長吉(大山祇神社) | ![]() |
南北朝時代に流行した野太刀と呼ばれる大太刀の代表作。これほど長大な太刀を破綻無く、かつ地刃健全に造り上げた技術は見事である。後村上天皇が当社に奉納したものと伝えている。 | - | |
大山祇神社 |
大太刀 無銘伝豊後友行(大山祇神社) | ![]() |
伝大森彦七(楠木正成を討った武将)奉納。刃長180cm、反り5.4cm | 愛媛県 | |
大山祇神社 |
牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵(大山祇神社) | ![]() |
伝護良親王奉納。鎌倉時代。 | 愛媛県 | |
玉川近代美術館 | 伊予国奈良原山経塚出土品 (所有者:奈良原神社、管理団体:今治市、玉川近代美術館保管 平安時代) | ![]() |
この出土品は、1934(昭和9)年に、玉川町楢原山山頂の奈良原山神社境内で雨乞い祈祷のため清掃中、偶然発見された経塚からの出土品です。1937(昭和12)年「国宝保存法」により国宝に指定され、1950(昭和31)年に再度「国宝」に指定されました。銅宝塔や銅経筒、扇やみごとな装飾が施された鏡など、種類が豊富で状態がよかったことなどから、出土品は一括で国宝に指定されています。 | 愛媛県 | |
石手寺 | 石手寺二王門 | ![]() |
石手寺は真言宗豊山派の古刹で、四国八十八か所51番札所である。寺伝によれば聖武天皇の神亀5年(728)年に勅宣によって大領・越智玉澄が伽藍を創建したという。 この二王門は、『伊予古蹟志』に、河野通継が文保2年(1318年)に建立したとの記事が見られる。三間一戸楼門、屋根は入母屋造、二軒ふたのき、本瓦葺で、二階の床は張らない。建築様式は和様で、円柱上の三手先の腰組で回縁を支え、中備なかぞなえとして正・背面には蟇股かえるまたを、側面には間斗束けんとづかを置く。軒も同様に三手先で受けられるが、この中備はすべて間斗束となる。軒の反りや張りをはじめ、建物全体の均整はよく、全国の楼門の中でも屈指の優れた作品と評価され、なかんずくその蟇股は、鎌倉期の特徴を備えた傑作との名声を博している。 |
松山市 | 20150316 第51番 石手寺 |
太山寺 | 太山寺本堂 | ![]() |
太山寺は真言宗寺院で、草創が不明だが、本尊等は平安時代の作である。本堂は蟇股の墨書銘より、嘉元3年(1305)の建立と判る。中世には全国各地にこうした床張の仏堂が数多く建てられたが、この本堂は内陣を二重の外陣・脇陣・後陣で囲んだ雄大な規模を持ち、内陣の厨子も含め、和様でまとめられた意匠も優秀である。 | 愛媛県 | 20160209 第52番 太山寺 |
大宝寺 | 大宝寺本堂 | ![]() |
建立年代は不明であるが、形式手法は平安時代末期頃の特貭を現している。円柱に隅のみ舟肘木を用い勾配のゆるい軒及び垂木割のないことなどよく時代の特徴を示している。四國地方に於ては既に國宝に指定された知県豊樂寺藥師堂に次ぐ古い建築である。 | 愛媛県 | |
高知 |
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土佐山内家宝物資料館 |
古今和歌集 巻第廿(高野切本)(高知県蔵・土佐山内家宝物資料館保管) | ![]() |
その一部が高野山に伝来したことから「高野切」と呼ばれる、古今和歌集書写本の第二十巻。高野切は古今集の写本としては現存最古であり、かつ平安時代の仮名書の完成形を示す書跡として古来より名高い。紀貫之(?-九四六)筆と伝承されてきたが、実際には三種の書風が混在し、十一世紀中頃の寄合書と推定されている。山内家伝来の巻第廿は「第一種」と呼ばれる書風を示す。抑制のきいた端正な書きぶりは、高野切の筆者三名の中で、もっとも格の高い人物の手になるものとされる | 土佐山内家宝物資料館保管 | |
小村神社 | 金銅荘環頭大刀拵・大刀身(高知・小村神社) | ![]() |
環頭大刀の中で本品のように外環が扁平な素環となり、双龍の表現が著しく文様化され、板金透彫となったものは、倒卵形の鐔と併せて、大陸の様式が次第に受容されたものと見え、恐らく古墳時代末頃の製作と考えられている。この大刀は社殿の奥に秘められたきた伝世品であることも貴重。 | 日高村 | |
豊楽寺 | 豊楽寺薬師堂 | ![]() |
豊樂寺は聖武天皇の勅願によって行基菩薩の開基と伝える。今の藥師堂の建立年次は明らかでないが、様式手法上より藤原時代の建立と思われる。変った平面を持っているが当初からこうした計画であったようである。比較的太い疎垂木に大きい小舞の軒廻り、内陣の佛壇及び勾欄等よく時代の特徴を示している。この堂は四国地方最古の建築として貴重である。 | 大豊町 | |
九州国立博物館 | 周茂叔愛蓮図 狩野正信筆 (九州国立博物館 紙本墨画淡彩 1幅 室町時代) | ![]() |
狩野派の初代・正信による唯一の国宝であり、室町時代に京都で隆盛した東山文化の水墨画を代表する優品である。旧伊達家伝来品 | e国宝 | 20171107 国宝展V |
九州国立博物館 | 太刀 銘来国光(九州国立博物館) | ![]() |
来国光は来国次と並んで、鎌倉末期における来派の名工であり、この太刀はその一作風を代表する名作である。豪壮雄大の作は他を圧するものがある。地刃の出来は国光の工の高さを示し、磨り上げながらも健全無比の完全さである。 | e国宝 | |
九州国立博物館 | 栄花物語 17帖(九州国立博物館) | ![]() |
藤原道長の栄華を中心に描いた歴史物語『栄花物語』最古の写本。もと三条西家に伝来したもので、大型本10帖、枡型本7帖の2種を取り合わせて1部としている。両方とも奥書はないが、前者は鎌倉中期、後者は鎌倉初期の書写とみられる。 | e国宝 | 20171115 国宝展W |
福岡市博物館 | 金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館) | ![]() |
『漢委奴國王』と刻まれた金製鋳造のこの印は、1784年(天明4)2月23日、筑前国那珂郡志賀村叶ノ崎(福岡市東区志賀島)で農夫甚兵衛によって田の溝の修理中大石の下から発見された。金印の印面には、漢隷で「漢/委奴/國王」の3行5字の文字がほられている。 | 福岡県 | 20171107 国宝展V |
福岡市博物館 | 刀 金象嵌銘長谷部国重本阿花押 黒田筑前守(名物へし切)(福岡市博物館) | ![]() |
本阿弥光徳が長谷部国重の作と極めて金象嵌銘を施した刀である。身幅が広く、大鋒の姿から、南北朝時代に活躍し、一説に鎌倉の名工五郎入道正宗十哲のうちの一人といわれた国重の作と見られる。 | 福岡市博物館 | |
福岡市博物館 |
太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(福岡市博物館) | ![]() |
『享保名物帳』所載の「日光一文字」が本太刀にあたり、もとは日光権現社に奉納されていたものを北条早雲が手に入れ、同家の重宝としたが、豊臣秀吉の小田原攻めの折に、和睦仲介の労を謝して、北条氏直から黒田孝高に贈り、以後黒田家に伝来した。 | 福岡市博物館 | |
伊都国歴史博物館 | 福岡県平原方形周溝墓出土品 (文化庁、伊都国歴史博物館保管 弥生時代〜古墳時代) | ![]() |
本件は、福岡県前原市に所在する史跡曽根遺跡群のうち、平原遺跡の一号墓にあたる方形周溝墓からの出土品一括である。副葬品のうち、銅鏡は合計四〇面という、一遺構からの発見では他を凌駕した数量である。平原遺跡は、方形周溝墓1、円形周溝墓2、土坑墓で構成される。昭和40年(1965)、開墾中に偶然発見され発掘調査が行われた。 方形周溝墓の被葬者は女性と推測されており、『魏志倭人伝』に「世有王」(代々王あり)とあるうちの一人であると考えられている。 銅鏡40面という一遺構からの発見は他を凌駕する副葬で、我が国最大の面径(46.5cm)の内行花文鏡が含まれる。 | 福岡県 | 20171107 国宝展V |
求菩提資料館 |
銅板法華経 (所有者:国玉神社、管理団体:福岡県、求菩提資料館保管 1142年) | ![]() |
平安時代の資料。方形の鋳銅板の両面に、法華経と梵文の般若心経を線刻したいわゆる銅板経とそれを納める金銅の筥(総高22.5?)である。 | 福岡県 | |
求菩提資料館 | 銅筥 (所有者:国玉神社、管理団体:福岡県、求菩提資料館保管 1142年) | ![]() |
平安時代の資料。方形の鋳銅板の両面に、法華経と梵文の般若心経を線刻したいわゆる銅板経とそれを納める金銅の筥(総高22.5?)である。 | 福岡県 | |
石橋美術館 |
禅機図断簡(丹霞焼仏図) 因陀羅筆 (石橋美術館(石橋財団) 1幅 紙本墨画 元時代) | ![]() |
画面左手、たき火に手をかざすのが、中国唐代の禅僧丹霞。右手に指さしながら別の僧侶が現れたのは、たき火の燃料が仏像であったため。その結末は、左手二行の漢文に記されているのですが、振り返った丹霞の表情にも、読み取ることができます。14世紀に制作され、間もなく日本に伝来した際には、画巻だったと考えられる作品です | 石橋美術館 | 20171017 国宝展U |
宮地嶽神社 | 筑前国宮地嶽神社境内出土骨蔵器 (宮地嶽神社 奈良時代) | ![]() |
昭和13年2月、社殿裏山の奥の院(横穴式石室の円墳、通称大塚)の北東凡そ40m、地表下凡そ80?のところから発見された。出土時、瑠璃(るり)(ガラス)壺を納めた銅壺は陶質容器の破片に埋まった状態、つまり三重の入れ子のかたちであった由である。 奈良時代の火葬墓遺品で、このようなガラス製骨蔵器は、ほかに文弥麻呂(ふみのねまろ)墓出土品(707年の墓誌(ぼし)を伴う、国宝)があるくらいで、貴重この上もない。 被蓋造り(かぶせぶたづくり)の瑠璃壺(蓋共高11?)は緑色鉛ガラス製、成形は吹きガラスの技法によると思われる。底裏はやや中凹み。表面は風化して真珠色であるが、一部剥離して緑色を呈す。火葬骨の直接の容器である。被蓋造りの銅壺(蓋共高20?)は胴の張り、蓋の程よい甲盛(こうもり)そしてその縁近くでの軽妙な反りに作者の手ぎわが窺われる。内底に瑠璃壺の剥離片や布片が付着する。大小2口の陶質鉢は、先年、破片を接合して原形に復した。小さい方(口径27.8?)に銅壺を納め、大きい方(口径31?)を蓋にしたものであるが、この時代の器としては異種の趣が深く、検討を要する。九州国立博物館に委託 | 福岡県 | 20180503 東京国立博物館 |
宮地嶽神社 | 宮地嶽古墳出土品 (宮地嶽神社 古墳時代) | ![]() |
宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳が発見されたのは、260年以上まえの事です。古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、どれも第一級のすばらしいものであり、そのうち十数点は国の指定物件として国宝に指定されています。 | 宮地嶽神社 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
宗像大社 | 福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 (宗像大社 古墳時代〜平安時代) | ![]() |
玄海灘に浮ぶ沖ノ島からの出土品である。鏡、人形、武器類、唐三彩、金銅龍頭など、その内容は多彩である。これらは神宝、幣帛を奉献し、祈請されてきたもので、古墳時代以降、平安時代に至るまでの上代祭祀の状況をよく伝えており、他の祭祀遺物と比較してもきわめて異彩を放っている。(古墳時代〜平安時代) | - | 20171028 宗像大社 |
宗像大社 | 伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 (宗像大社 古墳時代〜平安時代) | ![]() |
玄海灘に浮ぶ沖ノ島からの出土品である。鏡、人形、武器類、唐三彩、金銅龍頭など、その内容は多彩である。これらは神宝、幣帛を奉献し、祈請されてきたもので、古墳時代以降、平安時代に至るまでの上代祭祀の状況をよく伝えており、他の祭祀遺物と比較してもきわめて異彩を放っている。(古墳時代〜平安時代) | - | 20171028 宗像大社 |
誓願寺 | 誓願寺盂蘭盆縁起(栄西筆、治承二年(1178年)7月15日)(誓願寺) | ![]() |
臨済宗開祖明庵栄西が、筑前国今津誓願寺の盂蘭盆のため法華経を書写勧進した由来を自筆で認めた縁起 | 福岡市博物館 | |
観世音寺 | 梵鐘(観世音寺) | ![]() |
上下帯の文様を除いて鐘身は妙心寺鐘とほとんど同寸で、竜頭は同趣ながらさらに雄渾である。上下帯の文様もまた力強いが、恐らく妙心寺鐘と相前後して同じ鋳物場で製作されたものであろうとされている。 | 太宰府観光協会 | 20171029 観世音寺 |
西光寺 | 梵鐘 承和六年、伯耆国金石寺鐘在銘(福岡・西光寺) | ![]() |
紀年銘のある梵鐘の中でも古鐘で、竜頭の意匠は他に例を見ない。鋳技が優れて、形状、文様など総体に平安初期の特徴を良く表す貴重な遺品である。西光寺に存する本鐘の由来書によると、永禄二年山中鹿之助が出雲国神門郡多福寺に寄附したのを、同寺の衰退により明治22年に売却した由が知られる。 | 福岡市 | 20171028 西光寺 |
太宰府天満宮 | 翰苑 巻第丗(太宰府天満宮) | ![]() |
翰苑」は大宰府天満宮に伝世されたもので、唐の張楚金の撰、雍公叡の注です。失われてこれ以外は存在しないという貴重な書で、国宝に指定されています。 | 太宰府天満宮 | 20171029 太宰府天満宮 |
佐賀 |
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鍋島報效会 |
催馬楽譜(鍋島報效会) | ![]() |
催馬楽とは宮廷歌謡のひとつで、日本古来の歌謡を唐楽の拍子・旋律に合わせて編曲したものである。13世紀以降、催馬楽の演奏は衰退し応仁の乱の後には廃絶したが、17世紀に入り古譜に基づいて復興された。 | 徴古館 | |
長崎 | |||||
崇福寺 | 崇福寺大雄宝殿 | ![]() |
崇福寺はェ永六年支那僧超然の創建にかゝり、大雄宝殿はその本堂で正保三年に建立された。上の重は元禄時代に附加され和様の手法が濃厚である。 | 長崎市 | |
崇福寺 | 崇福寺第一峰門 | ![]() |
第一峰門もまた同時頃の建立で、大雄宝殿の初重と共に江戸時代初めに輸入された明末清初建築の影響著しいものとして文化史上重要である。 | 長崎市 | |
大浦天主堂 | 大浦天主堂 (所有者:カトリック長崎大司教区) | ![]() |
元治元年(1864)に完成した堂を改造して明治8年に造り直したもので,外国人宣教師の指導の下に我が国の大工棟梁がその建設を手がけた。ヴォールト天井や尖頭式アーチ形の窓をもつ本格的な洋風建築で,我が国の工匠が洋風建築を手がけた最初期の例として貴重 | 長崎市 | 20130812 大浦天主堂 |
大分 | |||||
宇佐神宮 | 宇佐神宮本殿 3棟 | 宇佐神宮の建築様式は八幡造(はちまんづくり)とよばれています。この八幡造は、二棟の切妻造平入の建物が前後に接続した形で、両殿の間に一間の相の間(馬道)がつき、その上の両軒に接するところに大きな金の雨樋(あまどい)が渡されています。桧皮葺(ひはだぶき)で白壁朱漆塗柱の華麗な建物が、横一列に並んでいます。奥殿を「内院」・前殿を「外院」といいます。内院には御帳台があり、外院には御椅子が置かれ、いずれも御神座となっています。御帳台は神様の夜のご座所であり、椅子は昼のご座所と考えられています。神様が昼は前殿、夜は奥殿に移動することが八幡造の特徴です。また、八幡造のもととなったのは、二之御殿の脇殿・北辰神社の建物ではないかといわれています。一之御殿が神亀2年(725)、二之御殿が天平5年(733)、三之御殿が弘仁14年(823) にそれぞれ建てられました。 | 宇佐神宮 | 20100228 宇佐神宮 | |
宇佐神宮 | 孔雀文磬(弥勒寺金堂承元三?八月五日奉鋳法印祐清在銘)(所有:個人、管理団体:宇佐神宮) | ![]() |
荘重な形姿で、文様や銘文などは篦押技法の粋を示す。肉取りが厚く重厚で、中央の弧に比べて左右の弧が縮まっているなど、様式的には鎌倉時代の特色をよく示す。製作時期や由来が明かな基準作として貴重である。 | 大分県 | |
臼杵石仏
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臼杵磨崖仏 27躯(臼杵市) | 臼杵石仏は、豊後地方に集中して存在する平安時代の磨崖仏のなかで最大の規模を誇り、かつ出来ばえが最も優れた石仏群として広く知られている。 | 臼杵石仏 | ||
富貴寺 | 富貴寺大堂 | 富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。中でも阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されています。 | 豊後高田市 | 20111001 富貴寺 | |
熊本 |
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青井阿蘇神社 |
青井阿蘇神社 本殿 | ![]() |
青井阿蘇神社は、中世以降、領主相良氏の崇敬を受けた。 | 青井阿蘇神社 | 20110429 青井阿蘇神社 |
青井阿蘇神社 | 青井阿蘇神社 廊 | ![]() |
現在の社殿は慶長15年(1610)より同18年に建てられ、境内の奥に本殿から拝殿が連続して建ち、前方に楼門が建つ。 | 青井阿蘇神社 | 20110429 青井阿蘇神社 |
青井阿蘇神社 | 青井阿蘇神社 幣殿 | ![]() |
社殿は黒漆塗を基本とし、本殿と幣殿は、随所に優れた彫刻や錺金具などが配される。また楼門は本格的な禅宗様式である。 | 青井阿蘇神社 | 20110429 青井阿蘇神社 |
青井阿蘇神社 | 青井阿蘇神社 拝殿 | ![]() |
青井阿蘇神社の社殿は、中世球磨地方に展開した独自性の強い意匠を継承しつつ、桃山期の華やかな意匠を機敏に摂取しており、完成度も高く、近世球磨地方における社寺造営の規範となっている。 | 青井阿蘇神社 | 20110429 青井阿蘇神社 |
青井阿蘇神社 | 青井阿蘇神社 楼門 | ![]() |
また、彫刻技法や特異な幣拝殿形式などは、広く南九州地方にその影響が認められるもので、わが国の近世神社建築の発展において重要な位置を占め、文化史上、深い意義をもつ社殿である。 | 青井阿蘇神社 | 20110429 青井阿蘇神社 |
鹿児島 |
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照国神社 |
太刀 銘国宗(鹿児島・照国神社) | ![]() |
鎌倉時代の備前派の刀工国宗の作刀には、日光東照宮にも国宝があるが、これはそれと並ぶ最優秀作で、堂々とした形姿に加えて保存もきわめて良い。終戦直後、その行方が不明であったが、偶然にも海外で日本刀愛好者の米人コンプトン氏の手にはいり、同氏の好意で昭和38年春に返還された。 | 照国神社 | |
沖縄 |
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那覇市 | 玉陵(たまうどぅん) | ![]() |
玉陵は,首里城の西側に位置する 琉 球第二 尚王統の王陵で,三代 尚真王 により 1501 年に築造された。ほぼ長方形の平面に廻らす石牆の奥に3棟の墓室を連立させ,前方に祭祀のための広い前庭を設ける。墓室は,自然の洞穴を利用しながら前面に石灰岩の切石を 精緻に積み上げて切妻造の墓室を築造した,いわゆる破風墓の形式を持つ。中室には洗骨前の遺体を安置し,洗骨後に,東室に王と王妃を,西室に王族を納骨したと考えられる。 玉陵は現存最古かつ最大の破風墓を中心とする規模壮大な王陵であり,琉球の葬送慣習 を伝えるとともに,被葬者に応じて墓室を区分する王陵ならではの特殊性も有している。 グスクと共通性のある空間構造を持ち,建築的特徴の顕著な墓室や高欄の精緻な造形など も独特で,意匠的にも優れており,東アジアにおいて独自の文化的発展を遂げた琉球地方 における,建築文化と葬墓制を象徴する極めて完成度の高い 陵 りょう 墓 ぼ として,深い文化史的意 義を有している・ | 文化財答申 | |
那覇市歴史博物館 |
琉球国王尚家関係資料 (那覇市歴史博物館) | ![]() |
本件は尚家が代々継承してきたもので、工芸品八五点、文書・記録類一一六六点からなる。工芸品は王家での諸儀式等に用いられたものが主となり、一六世紀から一九世紀に及ぶ。工芸品のなかには王装束があり、琉球国王の王装束では唯一現存するものである。これらは琉球工芸を代表する作品が広くまとまって遺存する唯一の資料であり、琉球文化を理解するうえで貴重な伝来品であるとして、平成十四年に工芸品部門で重要文化財「琉球王尚家伝来品」として指定された。 | 那覇市歴史博物館 |