滋賀 |
文化遺産データベース |
参考Photo |
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参考リンク |
鑑賞日記 |
彦根市 | 風俗図(彦根屏風)六曲屏風 (彦根市 紙本金地著色 1隻) | ![]() |
代々彦根藩主であった井伊家に伝わったため「彦根屏風」の名がある、江戸時代寛永期(1624〜44)の風俗図における代表的な名作です。本図の筆者は不明ですが、画中画の山水図や見事な画面構成から、かなりの筆力を持った狩野派(かのうは)の人物であることがうかがわれます。 | 彦根市 | 20171017 国宝展U |
彦根城 | 彦根城天守、附櫓及び多聞櫓 2棟 (所有者:彦根市) | ![]() |
井伊直政が慶長八年(1603)に佐和山城より居城を移して以来の井伊家代々の居城。天守隅木の墨書や文書から少なくとも慶長十一年(1606)には完成していたと考えられる。壁、軒裏、破風を漆喰で塗り込め、金箔を押した飾り金具や黒漆を多用するなど華麗な意匠が特徴。 | 近江建物探訪 | |
佐川美術館 | 梵鐘 延暦寺西宝幢院鐘、天安二年八月九日鋳在銘(佐川急便蔵・佐川美術館保管) | ![]() |
長身簡素な形姿と内面の優雅な左文字銘文とから著名な鐘である。西寶幢院とあるのは、叡山西塔中の寶幢院で、文徳天皇の御願により慧亮和尚が嘉祥年中より天安年中にかけて西塔中に建立したものという。 | 佐川美術館 | |
園城寺(三井寺) | 円城寺新羅善神堂 | ![]() |
新羅善神堂は 足利尊氏による再興の伝えをもつ社殿で、貞和三年頃の造立とされています。桧皮葺の流れるように軽快な屋根のカーブが美しく、 また、欄間に緻密な透彫を施すほかは、目立った装飾を取り入れずに、 簡素さの中に整った上品さを表しています。近江には、この種、三間社流造の古建築が多く伝わっていますが、 その中でも最も形の整ったものの一つとして極めて高い評価を受けています。 | 三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 園城寺金堂 | ![]() |
現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたもので、 三井寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。 内部は外陣・中陣・後陣に別れ、 中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設けています。内陣以外の床は全て板敷とするのに対して、 内陣は土間のままとしており、伝統的な天台系本堂の形式をよく伝えています。 | 三井寺 | 20070311 西国第14番 三井寺 |
園城寺(三井寺) | 不動明王像 (園城寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
三井寺の黄不動は日本三不動の一つに数えられています。三善清行撰の「天台宗延暦寺座主円珍伝」によると、
承和五年(838)冬、山中にて修行中の円珍の目前に「魁偉奇妙(かいいきみょう)」な「金人(きんじん)」が出現し、
円珍は直ちに画工に命じて写し取らせたといわれています。これにちなむ黄不動画像はいくつか伝えられていますが、
三井寺の最古本はその原本とされています。 画像は、弘化四年(1847)に冷泉為恭が原本を忠実に模写したもの。 ※実際の金色不動明王画像とは異なります。 |
三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 勧学院客殿 (所有者:園城寺) | ![]() |
勧学院は学問所として、延応元年(1239)に創立されたと記録されています。 その後、火災や秀吉の破却にあいますが、慶長五年に再建され現在に至ります。 | 三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 光浄院客殿 (所有者:園城寺) | ![]() |
光浄院は、室町時代山岡氏によって建立されました。 現在の光浄院客殿は秀吉の闕所後、かつて光浄院住持を務めていた山岡道阿弥が 慶長六年に再興したものです。 | 三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 智証大師関係文書典籍 46種(園城寺) | ![]() |
園城寺に伝わった、智証大師円珍に関する文書・典籍類。円珍の系図や僧位に関する「俗姓并僧位関係」六種、入唐中の平穏祈願や往来に関する「入唐関係文書」五種、唐で入手した経典類の目録である「求法目録」五種、帰朝後の伝法に関る「伝法関係」十種、唐から将来した経典類をまとめた「将来経典等」八種、円珍の自筆になる「自筆本」三種、「付法印信関係其他」九種の、合計四十六種からなり、円珍の事跡を伝える根本史料である。 | ||
園城寺(三井寺) | 五部心観 (園城寺 紙本墨画 2巻 唐時代・平安時代) | ![]() |
智証大師自筆の奥書があり、それによると大師が入唐中の大中九年(855)、 唐の都長安で、伝法阿闍梨法全の所持していたものを、法全自らが 円珍に授けた事がわかります | 三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 木造智証大師坐像(中尊大師)(園城寺) | ![]() |
唐院大師堂の二体の大師像の一体で、仏壇中央の厨子内に安置されることから 中尊大師と呼ばれています。 | 三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 木造智証大師坐像(御骨大師)(園城寺) | ![]() |
「寺門伝記補録」によると、智証大師の臨終に際しての命により、 門人達が大師入滅後、その姿を模刻し、像内に遺骨を納め、 三井寺唐坊に安置したのがこの像で、それ故に御骨大師と呼ばれています。 | 三井寺 | |
園城寺(三井寺) | 木造新羅明神坐像(新羅善神堂安置)(園城寺) | ![]() |
新羅明神は三井寺の守護神として祀られています。「園城寺龍華会縁起」によると、円珍が唐からの帰途、 老翁が船中に現れて自ら新羅明神と名のり、教法加護を約したといわれています。 | ||
石山寺 | 石山寺本堂 | ![]() |
石山寺は、天平19年(747年)に聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。平安時代に入って真言宗となった。寺名は、境内全体が硅灰石(ケイカイセキ 天然記念物)の岩盤の上に建つことに由来する。 | 近江建物探訪 | 20060204 石山寺 |
石山寺 | 石山寺多宝塔 | ![]() |
源頼朝の寄進と伝わる多宝塔は、建久5年(1194年)に建立され、建築年代が明確な多宝塔のなかで最古のものである。 | 近江建物探訪 | 20060204 石山寺 |
石山寺 | 越中国官倉納穀交替記残巻(石山寺) | No Images | 越中国礪波郡内の川上村・意斐村(現富山県小矢部市)と他の一カ村(三カ村との説もある)の、正倉に収納した稲穀や潁稲の記録 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻(石山寺) | No Images | 紙継目裏に「周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍公文」の墨書があり、現在の山口県玖珂郡玖珂町付近の延喜8年(908)の戸籍の一部である。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 釈摩訶衍論(石山寺) | No Images | 『大乗起信論』の注釈書で竜樹の著とされる『釈摩訶衍論』全十巻は、真言宗では根本経典の一つとして重要視された。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 淳祐内供筆聖教(薫聖教)(石山寺) | No Images | 石山寺第三代座主で、悉曇学者として知られる淳祐の自筆になる聖教類。「薫聖教」と呼ばれ、石山寺でも座主以外は見ることが許されていなかった。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 延暦交替式(石山寺) | No Images | 『延暦交替式』は、延暦22年(803)2月25日付で、勘解由使長官菅野真道などにより選定・奉上された。内容は、和銅元年(708)から延暦22年までの国司の交替に関する詔勅・官符・官奏などを、全四十一条にまとめたものである。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 史記巻第九十六、九十七残巻(石山寺) | No Images | 本書は、『史記』の内の第九十六巻「張丞相列伝」の途中から、第九十七巻の最後までをおさめている。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 春秋経伝集解 巻第廿六残巻(石山寺) | No Images | 孔子の著になり中国の魯を中心に列国の変遷を記した『春秋』に、左丘明が注を加えたのが『春秋左氏伝』で、『春秋経伝集解』はこれに中国・晋の杜預がさらに注を加えたものである。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 春秋経伝集解 巻第廿九残巻(石山寺) | No Images | 全部で三十巻からなるが、石山寺には第廿六の残巻と第廿九の残巻が伝えられている。 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 漢書 高帝紀下、列伝第四残巻 2巻(石山寺) | No Images | 『漢書』は『史記』に次いで編纂された中国の歴史書。本書は、中国・唐の儒学者顔師古が注釈を加えた「高帝紀」下の一部と「列伝」第四の一部からなる奈良時代の古写本 | 大津市歴史博物館 | |
石山寺 | 玉篇 巻第廿七(後半)(石山寺) | No Images | 『玉篇』は中国・梁の顧野王が大同9年(543)に編纂した、全三十巻からなる漢字の部首引の字書。中国では、後に増補・改訂がなされたため原形が失われたが、日本には何種類かの古写本が伝わっている。石山寺本は巻第二十七の後半部分 | 大津市歴史博物館 | |
延暦寺 | 延暦寺根本中堂 | ![]() |
根本中堂は延暦寺創立と共に建てられたが、現在の建物はェ永十七年に再建されたものである。堂々たる堂宇で、内部は外陣を礼堂として板敷であるのに対し内陣は土間としている。これは密教建築の基本的形式を殘すもので文化史上重要な遺構である。 | 近江建物探訪 | 20071118 延暦寺 |
延暦寺 | 天台法華宗年分縁起(伝教大師筆)(延暦寺) | ![]() |
唐から天台宗を伝えた伝教大師最澄は、天台宗からも毎年二名の年分度者(得度者)が認められるよう朝廷に請願したが、『天台法華宗年分縁起』は延暦25年(806)から弘仁9年(818)までの年分度者に関する六通の文書を、最澄自らが書写したもの。 | 大津市歴史博物館 | |
延暦寺 | 伝教大師将来目録(貞元二十一年(805年)5月13日、明州剌史鄭審則跋)(延暦寺) | ![]() |
伝教大師最澄は、延暦23年(804)から翌年にかけて唐に渡り、天台山・越州竜興寺などで修行に勤め、多くの経典を書写した。この目録は、最澄が明州刺史に書写した経典を日本に持ち帰るための許可を申請した書類 | 大津市歴史博物館 | 20171017 国宝展U |
延暦寺 | 羯磨金剛目録(伝教大師筆、弘仁二年(811年)7月17日)(延暦寺) | ![]() |
弘仁2年(811)伝教大師最澄が唐から将来した品々を比叡山に納めた時の最澄自筆の目録。巻首・巻尾が失われているが、三種類の奉納品が記され、最後にいずれも「弘仁二年七月十七日最澄永納」と記されている。 | 大津市歴史博物館 | |
延暦寺 | 伝教大師入唐牒(延暦寺) | ![]() |
延暦23年(804)遣唐船に乗って中国に渡った伝教大師最澄が、明州・台州を通過するために作成された証明書である | 大津市歴史博物館 | |
延暦寺 | 嵯峨天皇宸翰光定戒牒(弘仁十四年(823年)4月14日〉(延暦寺) | ![]() |
本文は嵯峨天皇の筆になり、末尾に申請者光定と戒師などの署名があり、本文に三顆、末尾四行に八顆の「太政官印」が押されている。 | 大津市歴史博物館 | |
延暦寺 | 金銅経箱(叡山横川如法堂埋納)(延暦寺) | ![]() |
大正12年(1923)比叡山横川如法堂跡に如法塔を再建するための基礎工事にかかったところ、出土した経箱。銅鍛製金銀鍍金で、角丸長方形の印籠蓋造。蓋の上面と側面に宝相華唐草文を毛彫であらわし、全体を鍍銀、宝相華の文様は鍍金とし、上面中央に「妙法蓮華経」の五文字を線刻している。 | 大津市歴史博物館 | 20171107 国宝展V |
延暦寺 | 宝相華蒔絵経箱(延暦寺) | ![]() |
唐草文様ながら流麗な筆致に富み、その構成も優れており、平安時代における代表的な蒔絵経箱である。 | 大津市歴史博物館 | 20171107 国宝展V |
延暦寺 | 七条刺納袈裟・刺納衣(伝教大師将来)(延暦寺) | ![]() |
中国の天台宗第六祖・荊溪【けいけい】大師所用と記され、古くより伝教大師が唐より請来したと伝えられている。いわばさしこの七条の袈裟と僧衣のことである。 | 大津市歴史博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
延暦寺 | 六祖恵能伝(延暦寺) | No Images | 中国禅宗の興隆につとめ、六祖大師とも呼ばれて崇敬を集めた恵能の伝記。伝記は先天2年(713)恵能没後数十年をして成立したと伝えられ、本書の巻末に貞元十九年(803)二月十三日の奥書があるところから、伝記成立後間もない古写本であることがわかる。延暦寺を開いた最澄が唐から将来したもので、『伝教大師将来目録』の中に書名が見られる | 大津市歴史博物館 | |
宝厳寺 |
宝厳寺唐門 | ![]() |
船着き場から急な石段を上り、途中で右に入った位置に建ち、観音堂に接続している。この門は慶長7年(1602年)に豊国廟(京都の東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の唐門(極楽門)を移築したものであることが、『梵舜日記』にみえる。極彩色の彫刻と飾金具で飾った華麗な門で、桃山時代の雰囲気を伝えている。 | ウィキペディア | 20070813 西国第30番 宝厳寺 |
宝厳寺 | 法華経序品(竹生島経)(宝厳寺) | ![]() |
金銀泥で草花、鳥などの下絵を描いた用紙に法華経を書写する。この種「装飾経」の早い時期の作例で、11世紀の作品 | ウィキペディア | |
都久夫須麻神社 |
都久夫須麻神社本殿 | ![]() |
現在の本殿は永禄十年再建されたものに、慶長七年豊臣秀ョが伏見城の建物を寄進して組合せたものである。方三間の身舍部分が伏見城の遺構で漆塗、金蒔絵、彫刻、極彩色に鍍金金具を以って装飾し極めて豪華富麗であり且つ手法の優秀なこと桃山時代の代表的建築と云える。 | 近江建物探訪 | 20070813 西国第30番 宝厳寺 |
日吉大社 | 日吉大社西本宮本殿 | 日吉大社は、比叡山を神体山とする神社で、延暦寺が開かれてからは、その守護神として発展した。全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮である。本殿は、織田信長の焼き討ちの後、天正14年(1586年)に復興された。 | 近江建物探訪 | 20080810 日吉大社 西本宮 | |
日吉大社 | 日吉大社東本宮本殿 | 織田信長の焼き討ちにあったため、文禄4年(1595)に再建された。平安時代以来の様式を伝えているといわれる、特殊な日吉造り(ヒエヅクリ)で建てられてる。 | 近江建物探訪 | 20080810 日吉大社 東本宮 | |
常楽寺 | 常楽寺本堂 | 常楽寺は延暦寺に属する天台宗寺院。本堂の完成年代は明らかではないが、延文5年(1360年)の火災後まもなく復興された。その後まもなく、外陣の天井形式を変更するなどの大改造が行われ、現在の姿となった。 | 近江建物探訪 | 20170827 常楽寺 | |
常楽寺 | 常楽寺三重塔 | 三重塔は本堂後方左手の一段高いところに建つもので、建立年代については応永五年(一三九八)の勧進状が残っているほか、瓦に同七年の箆書をもつものがあって明らかである。 | 近江建物探訪 | 20170827 常楽寺 | |
向源寺 | 木造十一面観音立像(渡岸寺観音堂安置)(向源寺) | ![]() |
向源寺に属する観音堂(渡岸寺観音堂)に安置されていた像。均整のとれた体躯、胸部や大腿部の豊かな肉取り、腰を捻り片脚を遊ばせた体勢などにインドや西域の風が伺われる。文学作品や映画などにも取り上げられた、日本における観音像の代表作として著名な作品である。 | ウィキペディア | |
常明寺 | 大般若経(和銅五年長屋王願経)27帖(滋賀・常明寺) | ![]() |
書写年次の明らかなわが国最古の『大般若波羅蜜多経』(以下『大般若経』と略称)として知られる。当初の600巻のうち、常明寺に27巻が伝存 | 文化遺産オンライン | |
神照寺 | 金銀鍍透彫華籠 16枚(滋賀・神照寺) | ![]() |
華籠は法会の際に散華を盛る器で、竹や乾漆製のものもある。本華籠は、銅の円板を皿形に打って、その全面に宝相華唐草文を地透かしにし、鍍金、鍍銀を施したものである。自在に鏨を駆使して優婉な趣を発揮しており、彫金工芸の遺品の中でも屈指の優品といえる。 | 京都国立博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
太平寺 | 大般若経(和銅五年長屋王願経)142帖(滋賀・太平寺) | ![]() |
書写年次の明らかなわが国最古の『大般若波羅蜜多経』(以下『大般若経』と略称)として知られる。当初の600巻のうち滋賀・天平寺に142巻が伝存 | 文化遺産オンライン | |
近江神宮 | 崇福寺塔心礎納置品 (近江神宮 奈良時代) | ![]() |
昭和13年(1938)崇福寺跡の調査において、三重塔跡の塔心礎に穿たれた小孔から発見された。四方に格狭間のある台を付けた金銅製の外箱、銀製の中箱、内側に瑠璃壺を安置するための受花をもつ金製の内箱と、その中に金の蓋をした高さ3.0cm、口径1.7cmの球形の瑠璃壺と三粒の舎利が納められていた。奈良時代の舎利の奉安状態が知られる貴重な遺品である。 | 大津市歴史博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
金剛輪寺 | 金剛輪寺本堂 | ![]() |
湖東三山の一つで、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。本堂は、様式などから室町時代前期の建立と考えられている。桁行七間、梁間七間、入母屋造りで、正面には蔀戸(シトミド)を入れるなど全体は伝統的な和様建築であるが、内部の組物の一部に、13世紀に伝来した禅宗様式の拳鼻がついている。 | 近江建物探訪 | 20170730 金剛輪寺 |
御上神社 | 御上神社本殿 | 御上神社は『延喜式』に式内社明神大社、月次に新嘗の官幣社として記載がある古社で、野洲川の流域、三上山の西麓に鎮座する。 本殿は様式手法上より鎌倉時代の建立と推定される。方三間屋根入母屋造で隅にのみ舟肘木をつけた比較的單純なものであるが、神社建築のうちでは古い遺構の一つで入母屋造であるのも比較的類例の少ない点文化史的意義が深い。 |
近江建物探訪 | 20080810 御上神社 | |
聖衆来迎寺 | 六道絵 (聖衆来迎寺 絹本著色 15幅) | ![]() |
鎌倉時代の作。源信の『往生要集』に説く六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)のありさまを絵画化したもので、全15幅からなる。15幅は東京・京都・奈良の各国立博物館、大阪市立美術館、琵琶湖文化館に分割寄託されている。 | ウィキペディア | 20170728 源信展 |
西明寺 | 西明寺本堂 | ![]() |
滋賀県内の鎌倉時代の代表的な建造物で、本堂は国宝第一号に指定されている。「日本の100の古寺」にも選ばれており、金剛輪寺・百済寺とともに[湖東三山」と呼ばれ親しまれている。延暦寺を本山とする天台宗寺院である。 | 近江建物探訪 | 20170730 西明寺 |
西明寺 | 西明寺三重塔 | ![]() |
三重塔は、様式手法からみて鎌倉時代後期の建立と推定される。初重内部は中央四天柱内に須弥壇を設け大日如来をまつる。各部ともよく整い、全体の調和が優れ、実に美しい姿をもつ三重塔である。 | 近江建物探訪 | 20170730 西明寺 |
善水寺 | 善水寺本堂 | 善水寺は長寿寺、常楽寺とあわせて「湖南三山」と呼ばれ、寺伝によると、和銅年間(708年〜715年)に元明天皇が国家鎮護のために草創した和銅寺を前身とし、延暦年間(782年〜806年)に善水寺と寺名を改め、天台寺院となったという。 | 近江建物探訪 | ||
大笹原神社 | 大笹原神社本殿 | 応永二十一年(一四一四)の建立である。 小規模な神社本殿であるが、細部手法が特に優秀で、欄間や戸などの意匠も美しい。中世の神社建築としてもっとも傑作の一である。 | 近江建物探訪 | 20170827 大笹原神社 | |
長寿寺 | 長寿寺本堂 | 長寿寺は良辨僧正の創立するところと伝える。本堂の建立年代は明らかでないが、様式手法より鎌倉初期とみられる。鎌倉時代初期に於ける純和様の本堂として意匠的に優れているばかりでなく、小屋組までよく古様を伝えていることは技術史的にも価値がい。 | 近江建物探訪 | 20170827 長寿寺 | |
苗村神社 | 苗村神社西本殿 | 社伝によると平安時代の草創という。三間社流造りの庇に建具を設けて前室とし更に向拝をつける、滋賀県の中世本殿に類例が多い形式である。棟札によれば建保5年(1217年)に建てられた旧本殿に替わって、徳治3年(1308年)に再建された。 | 近江建物探訪 | 20170827 苗村神社 | |
須賀神社 |
菅浦文書(千二百八十一通) 六十五冊、菅浦与大浦下庄堺絵図一幅 | ![]() |
菅浦は,琵琶湖の北岸から突き出た岬にある村落で,中世から自らの掟を持つなど,村落の自治が発 達していた。堺絵図は,隣庄の大浦と境界を争った ことにより作成したもの。中世村落史研究上,我が 国で群を抜いて著名な史料群である。(鎌倉時代〜江 戸時代) | H30文化財答申 | 20180503 東京国立博物館 |
伊勢神宮 | 玉篇 巻第廿二(三重・神宮) | ![]() |
玉篇(ぎょくへん、ごくへん)は、中国、南北朝時代、梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典。字書としては『説文解字』・『字林』(現存せず)の次に古い。原本系玉篇は部分的にしか現存しない。原本玉篇は中国では滅んでしまい、日本にいくつか残巻が残る。これらの残巻は国宝になっている。現存するテキストは巻八・九・十八・十九・二十二・二十四・二十七の一部で、親字は全部あわせて約2,100字であり、全体の約 12% にあたる。 | ウィキペディア | |
専修寺 | 専修寺御影堂 | ![]() |
我が国寺院建築の発展を示す壮大かつ壮麗な大型仏堂。専修寺御影堂は津藩主藤堂家の庇護のもと寛文6年 (1666)に建立された,我が国に現存する近世建 築において屈指の規模を有する大型仏堂である。壮大な堂内は,建登柱や組 物などを, その構造特性や意匠性に配慮して効率的かつ効果的に配置し,優れた大空間を実現してい る。また多彩な装飾を施した荘厳な内陣など,各所に壮麗な信仰の空間を創出する。 専修寺御影堂は,阿弥陀信仰の広がりの中で独自の発展を遂げた高田派の仏堂の特徴を明瞭に示し,近世仏堂の大型化や多様化の指標となる大規模建築として,深い文化史的意 義を有している。 | 文化財答申 | |
専修寺 | 専修寺如来堂 | ![]() |
門信徒の寄進で建てられた,我が国最大級の近世禅宗様仏堂。専修寺如来堂は門信徒からの寄進により建立され,発願から 25 年後の延享元年(1744)に上棟された。御影堂と並び建ち,両堂により壮大な本山伽藍の中枢をなしている。外観を禅宗様とする一重裳階付形式の仏堂として我が国で現存最大級の規模をもち,和様を基調とする御影堂と明瞭な対比をみせる。一方で,内部の平面構成は真宗本堂に一般的な形式を保持しており,巧妙な軸部構成により独創的で斬新な内部空間を構築している。 専修寺如来堂は,門信徒の篤い信仰に応ずる雄大な仏堂の実現のため,近世に進展した様々な大規模木造建築技術が遺憾なく発揮されており,我が国の近世寺院建築における到達点を示す貴重な遺構として,深い文化史的意義を有している。 |
文化財答申 | |
専修寺 | 西方指南抄(親鸞筆)6冊(三重・専修寺) | ![]() |
親鸞聖人が師匠である法然上人の法語・消息・行状記などを、収集した書物で、上中下の3巻あり | 専修寺 | |
専修寺 | 三帖和讃(親鸞筆)3冊(三重・専修寺) | ![]() |
「浄土和讃」「浄土高僧和讃」「正像末法和讃」の3帖からなっており、日本の言葉で佛菩薩や高僧の徳をたたえた讃歌 | 専修寺 | |
金剛證寺 | 朝熊山経ヶ峯頂にある。約40基。山石で小石室を築き、遺物は平安時代末の紀年銘があるものや、工芸的にもすぐれたものが多く、代表的な経塚である | ウィキペディア | |||
大阪 | |||||
藤田美術館 | 両部大経感得図 伝藤原宗弘筆 (藤田美術館 絹本著色 2面) | ![]() |
奈良の内山永久寺(廃寺)にあった障子絵。両部とは密教で特に重要な『大日経』と『金剛頂経』のことで、これら経典を手に入れる物語を描いたもの | 20170502 藤田美術館 | |
藤田美術館 | 玄奘三蔵絵 (藤田美術館 紙本著色 12巻) | ![]() |
唐時代の僧 玄奘三蔵の一生を描いた全12巻の絵巻で、絵の様式から宮廷絵所預高階隆兼が関わったと考えられます。かつて奈良興福寺大乗院が所蔵し、門主交代の時のみ新門主が閲覧を許されたと伝わる特別な絵巻でした。実際に見ることが叶わない異国の風景を、美しい彩色で想像力豊かに表現した数々の場面は観る人を圧倒します | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 紫式部日記絵巻 (藤田美術館 紙本著色 1巻) | ![]() |
紫式部が11世紀初めに書いた日記を基に作られた絵巻。藤原道長が栄華を極めた頃の豪華絢爛な雰囲気が巧みに表現されています。絵巻は幾つかに分断され、本巻の他、五島美術館など数ヶ所に所蔵されます | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 柴門新月図 (藤田美術館 紙本墨画 室町時代 1幅) | ![]() |
題材を同じくする水墨画と漢詩を組み合わせた詩画軸です。序文から書かれた年月が分かり、現存する最古の詩画軸として知られます。仲間との別れに際し、杜甫の詩の一節を引用して送別を主題とした水墨画に、十八人の禅僧が漢詩を寄せています | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 曜変天目茶碗(藤田美術館) | ![]() |
もとは水戸徳川家に伝わった天目茶碗。静嘉堂、龍光院の曜変天目茶碗と並んで曜変中の三絶とされている。曜変は稲葉天目ほど鮮やかではないが、内外両面に美しい曜変のあるのは本茶碗だけで、大名物として古来とくに珍重されたものである | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 仏功徳蒔絵経箱(藤田美術館) | ![]() |
平安時代において、現世利益や女人成仏を説く法華経の信仰は貴族社会に広がり、装飾経が制作されたが、そのような経を納める経箱についても経典の内容を表した絵が描かれた。本経箱の蓋甲の回旋的な文様表現は奈良時代に多く見られるものに近似し、その海賦描写は国宝・海賦蒔絵袈裟箱から一歩進み、未だ粗い金銀粉を使いながらも複雑な蒔絵技法を見せている。意匠技法ともにすぐれた平安時代前期の格調高い遺例の一つである | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 花蝶蒔絵挾軾(藤田美術館) | ![]() |
平安時代(9世紀) 挾軾は体の前に置いて使う座具。天板側面や脚に金と錫の粉を用いて、 花、蝶、連珠文が表されています。奈良の薬師寺内に祀られていた八幡宮の神宝であったと伝えられています | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 大般若経(薬師寺経)387巻(藤田美術館) | ![]() |
巻首に「薬師寺」の朱円印二顆が捺され、「薬師寺経」として著名な奈良時代の代表的写経である。藤田美術館には大般若経六百巻中の過半数を蔵し、大部分が褐色表紙に白蜜陀撥軸の原装もしくはそれに近い姿を伝える点も貴重である | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
藤田美術館 | 深窓秘抄(百一首)(藤田美術館) | ![]() |
百一首からなる和歌集を書写したもので、「後拾遺和歌集」序文から藤原公任が和歌を選んだと考えられています。良い具合に配され流れるように書かれた歌や、優美な姿の文字は、最も極められた仮名として尊重され、現在でも手本とされます | 藤田美術館 | 20170502 藤田美術館 |
武田科学振興財団 | 説文木部残巻(武田科学振興財団) | ![]() |
唐の元和15年(820年)に書写されたと推定される。北宋の徐鉉・徐?兄弟が校定する前のテキストを伝える貴重な写本である。木部の一部6葉188字を収め、篆書部文には懸針体という書体が使われている。跋や蔵書印から分かることは、南宋の宮廷に所蔵されていたものだが、清末には莫友之に所蔵され、やがて日本の内藤湖南の手に渡った。内藤湖南の死後、杏雨書屋が所蔵し現在に至っている。 | ウィキペディア | |
武田科学振興財団 | 宋刊本史記集解 11冊(武田科学振興財団) | ![]() |
史記集解(しきしっかい)は、南朝宋の裴?による『史記』の注釈書。史記三家注のひとつ。80巻。徐広『史記音義』をもとにして、経書や諸史の記述や孔安国・馬融・鄭玄・服虔・賈逵らの説を引用している | ウィキペディア | |
武田科学振興財団 | 宋版毛詩正義(紹興九年刊)(金沢文庫本)17冊(武田科学振興財団) | ![]() |
『詩経』は、中国最古の詩篇。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる |
ウィキペディア | |
和泉市久保惣記念美術館 | 青磁鳳凰耳花生 銘万声(和泉市久保惣記念美術館) | ![]() |
南宋時代浙江省竜泉窯で焼成され、舶載された作とみられる。室町時代にはすでに名器として珍重されたことがうかがえ、三代将軍家光の時、東福門院に贈られ、のちに公弁法親王に遺贈された。万声とは後西院が「月千声又万声」の詩句によって名付けられたもので、近衛家に伝わった鳳凰耳花生を「千声」、これを「万声」としたものとの伝来が添状および『槐記』にある。鳳凰耳花生のなかでも、とりわけ作調が丁寧で、堂々とした風格を備えた優品である。 | − |
20090117 京都国立博物館 「京都御所ゆかりの至宝展」 |
和泉市久保惣記念美術館 | 歌仙歌合(和泉市久保惣記念美術館) | ![]() |
歌仙歌合(かせんうたあわせ)は、藤原公任原撰・具平親王改撰と推定される三十人撰の唯一の古写本。巻子本、1巻。書写年代は11世紀中頃か。伝称筆者は藤原行成。国宝。和泉市久保惣記念美術館蔵 | ウィキペディア | |
正木美術館 | 小野道風筆三体白氏詩巻(正木美術館) | ![]() |
唐の詩人「白居易(白楽天)」の詩を小野道風が3種の書体(楷書、行書、草書)で書き分けたものとのこと | 正木美術館 | 20171115 国宝展W |
正木美術館 | 藤原行成筆白氏詩巻(正木美術館) | ![]() |
唐の詩人「白居易(白楽天)」の詩21種を藤原行成が書き上げたものです | 正木美術館 | 20171115 国宝展W |
正木美術館 | 大燈国師墨蹟(渓林、南嶽偈)2幅(正木美術館) | ![]() |
正木美術館 | ||
大阪市立東洋陶磁美術館 | 油滴天目茶碗(大阪市立東洋陶磁美術館) | ![]() |
黒褐色の素地、漆黒の天目釉、器形、作風に建盞の特徴がよく現れている。内外全面に俗に油滴とよんでいる粒状の斑文が散布し、その部分だけ金属的な光沢を放っている。本碗は、雲州松平家の油滴とともに油滴の双璧とされている。結晶が大柄で、内外全面にぴっちりとある油滴が実に見事である。縁に金覆輪をめぐらし、漆の天目台を三箇伴っている | 20171107 国宝展V | |
大阪市立東洋陶磁美術館 | 飛青磁花生(大阪市立東洋陶磁美術館) | 飛青磁は古くから茶人が珍重しているもので、釉面に点々と鉄斑文のある青磁をいう。本花生は飛青磁を代表する傑作として最も名高い。器形、作風から南宋〜元代と見られ、古く日本に運ばれて伝世したと推定されている。江戸時代以降、大阪鴻池家に伝わり、飛青磁の随一として著名であった | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | ||
大阪市歴史博物館 | 金銅石川年足墓誌 (個人蔵 762年)大阪市歴史博物館 | ![]() |
江戸時代に現在の高槻市で見つかった奈良時代の貴族・石川年足(762没)の墓誌です。長さ29.7cmの金銅板に年足の系譜など130字の銘文が刻まれています。『続日本紀』にも記録のある人物の墓誌として貴重な例です | ||
大阪青山学園 | 土左日記(大阪青山学園) | ![]() |
わが国最初の仮名日記として著名な『土左日記』の写本である本書は、藤原為家(一一九八−一二七五年)が嘉禎二年(一二三六)に、紀貫之(八六八−九四六年)の自筆原本を、仮名の字体や文章の表記等を含めて忠実に書写したものである | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
日本刀剣博物技術研究財団 | 太刀
銘熊野三所権現長光( |
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長船長光の一作風を示す同作中の優品で、刃文が締まっているが刃中よく働き、僅かに茎を伏せているが、生ぶ茎で健全である。銘文に熊野三所権現とあるのは、刀工の熊野進行を語る一資料である。 | 日本刀剣博物技術研究財団 | |
金剛寺 | 木造大日如来坐像 | ![]() |
真言僧阿観が八条院の帰依を得て建立した河内金剛寺金堂の本尊像で,3メートルを越える巨大な大日如来像を中尊とする三尊像である。中尊は金剛寺の草創 期である1180年前後の作で,大きさ,できばえともにこの時代の大日如来像 を代表する作例と言え,光背・台座に弘法大師空海に由来する図像的な特色を示 す点でも注目される。 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
金剛寺 | 木造不動明王座像 | ![]() |
不動・降三世明王は最近の保存修理で銘文が確認され,仏 師快慶の弟子,行快が天福2年(1234)に造ったことが判明した。三尊としての構成は智証大師円珍が中国よりもたらしたとされる尊勝曼荼羅に依拠しており,この図像になる唯一の遺品としても貴重である。 | H29文化財答申 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
金剛寺 | 木造降三世明王座像 | ![]() |
保存修理に伴い,この度,初めて本格的な調査が実施された結果,この三尊像 がおよそ半世紀をかけて造られ,以後おおむねその状態をとどめて今日まで伝え られてきたことが明らかになった。これを受けて国宝に指定する。 (平安時代・鎌倉時代) | H29文化財答申 | 20170728 源信展 |
金剛寺 | 剣(無銘)(大阪・金剛寺) | 姿と鍛が最も秀でた古剣で、この型のものは極めて少なく、焼落とした刃文や地刃の特色から平安時代を下らないものと判断される。寺伝には中興開山阿観上人の持物といわれている | 河内長野市 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
金剛寺 | 延喜式 巻第十二残巻、第十四、第十六 3巻(金剛寺) | ![]() |
金剛寺にのこる延喜式は平安時代の末の1127年(大治2)に書き写されたものです。延喜式の写本のなかでは最古のものと言えます。 | 河内長野市 | |
金剛寺 | 延喜式神名帳(金剛寺) | ![]() |
平安時代には、法律のことを書いた書物がいくつか作られました。この延喜式もそのひとつで、延喜5年(905)から延長5年(927)にかけて作られました。しかし原本はすべて失われており、金剛寺にのこる延喜式は平安時代の末の1127年(大治2)に書き写されたものです。延喜式の写本のなかでは最古のものと言えます。 | 河内長野市 | |
金剛寺 | 紙本著色日月四季山水図 六曲屏風 一双 | ![]() |
荒海を囲む山並みに四季の循環を表し,空には日月を配した室町時代のやまと 絵屏風。動感あふれる構成に大らかな加飾と鮮やかな色彩が共鳴して独特の迫力 びょうぶ を生み出している。我が国の絵画の特質が顕著な優品である。(室町時代) | H30文化財答申 | 20180503 東京国立博物館 |
観心寺 | 観心寺金堂 | ![]() |
この建物が建てられた室町時代には、それまでの伝統的な建築方法から発展した「和様」と呼ばれる建築様式、新しく中国から入ってきた「禅宗様」・「大仏様」と呼ばれる建築様式があり、その後、それらの様式をあわせた「折衷様」と呼ばれる新しい様式が成立しました。この金堂は、全体的な形は「和様」で貫かれていますが、細部や構築方法に「禅宗様」を巧みに取り入れており、当時の「折衷様」を代表する建築物となっています。 | 河内長野市 | |
観心寺 | 観心寺縁起資財帳(観心寺) | ![]() |
観心寺縁起資財帳は、平安時代(883年)に作成された文書です。今から1000年以上前に紙にかかれた文書が現代までのこっていることは、大変に珍しく国宝に指定されています | 河内長野市 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
観心寺 | 木造如意輪観音坐像(観心寺) | 本像の制作は承和年間(834〜848)と推定される。造像には実恵(じちえ)の弟子・真紹(しんじょう)がかかわったとみられ、願主には、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)が有力視される。カヤの一本作り | 河内長野市 | ||
四天王寺 | 金銅威奈大村骨蔵器 (四天王寺 707年) | ![]() |
江戸時代の明和年間に発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝える。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形である | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
四天王寺 | 扇面法華経冊子 (四天王寺 紙本著色 5帖 平安時代) | 大阪市・四天王寺に伝来した装飾経の遺品。扇形に切った料紙(扇面)に絵を描いて2つに折り、折り目で貼り合わせて冊子とし、そこに法華経・無量義経・観普賢経の経典の経文を書写したものである | 20171107 国宝展V | ||
四天王寺 | 懸守 7懸 | ![]() |
懸守は、婦女子が外出する際に頸から懸けて胸に垂らす御守である。四天王寺に伝わる懸守は、意匠がそれぞれ異なるが、同工同趣のもので、当代貴族の寄進によりものと推察されている。この種の遺品は稀有であり、当代服飾、織技等、染織史上極めて貴重である。 | 20171107 国宝展V | |
四天王寺 | 七星剣(四天王寺) | ![]() |
丙子椒林剣と共に聖徳太子の剣と伝えられる。星文を象嵌したものは、ほかに正倉院御物中、法隆寺献納宝物中に有る以外には遺例のない貴重な大刀である。上古刀中稀有の優品であり、保存も良好である | ||
四天王寺 | 丙子椒林剣(四天王寺) | ![]() |
寺伝では聖徳太子の剣という。わが国に伝世する上古刀として、これほど優れた出来であり、しかも完存していることは稀有である | ||
四天王寺 | 四天王寺縁起(根本本・後醍醐天皇宸翰本)2巻(四天王寺) | ![]() |
「四天王寺縁起」は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとする。後醍醐天皇は上述の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している。これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている | ||
住吉大社 | 住吉大社本殿 第一殿 | ![]() |
住吉大社本殿は四棟すべて海に向かって西面し、西から第三殿、第二殿、第一殿の順に縦に並び、第三殿の南に第四殿が建つ。 | 20090102 住吉大社 | |
住吉大社 | 住吉大社本殿
第 |
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住吉大社本殿の式年遷宮は17世紀始めに再興され、今の本殿は文化7年(1810)の造替時のものである。 |
20090102 住吉大社 | |
住吉大社 | 住吉大社本殿 第三殿 | ![]() |
本殿は切妻造、妻入で、柱はすべて丸柱で礎石上に立ち、正面および前後二室の中間に大きな板扉を開き、他は板壁である。 | 20090102 住吉大社 | |
住吉大社 | 住吉大社本殿 第四殿 | ![]() |
前後二室からなる独特の平面をもち、この形式を住吉造といい、四棟すべて同形式同規模でつくられる。 | 20090102 住吉大社 | |
水無瀬神宮 | 後鳥羽天皇宸翰御手印置文(暦仁二年(1239年)2月9日〉(水無瀬神宮) | ![]() |
「宸翰」は天皇直筆の意。「置文」は遺言とほぼ同意。暦仁2年(1239年)、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が崩御の13日前に書いた自筆の遺言状。文面には上皇の手印(手形)が鮮明に付されている。歴史上著名な天皇の宸翰としてきわめて貴重な史料である。 |
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20171115 国宝展W |
水無瀬神宮 | 後鳥羽天皇像 伝藤原信実筆 (水無瀬神宮 紙本著色 1幅) | ![]() |
鎌倉時代の似絵の代表作。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐に配流される前に、絵師藤原信実に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に見え、その絵にあたるものという | ||
誉田八幡宮 |
金銅透彫鞍金具 (誉田八幡宮 古墳時代) | ![]() |
嘉永元年(1848)8月、応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘されたもので、2具の鞍金具と、金銅轡鏡板、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などの一括品がある。金銅透彫鞍金具は竜の文様が唐草ふうに透彫りされており、それぞれの竜が中央に向かう形で連続して配列されて鞍橋の表面全体をおおっている。製法手法の精巧さ意匠の壮麗な点で古代美術工芸の面からも欠くことのできない貴重な資料である | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
誉田八幡宮 | 塵地螺鈿金銅装神輿(大阪・誉田八幡宮) | ![]() |
建久年中、源頼朝寄進と伝える。屋上に鳳凰を頂く木製の方輿。漆塗り、梨子地に螺鈿をほどこし、屋蓋ほかの要所を金銅製金具で補強する。軒先からは宝相華文透かし彫りのある幡を垂れ、軒下には同文の帽額並びに八花形の鏡をはめこんだ透かし彫りの花鬘12枚を垂れる。輿の四周に下げた布地も当代の錦織で遺例の極めて少ないものである。建築・漆工・金工・染織と鎌倉期美術工芸の粋を集めて作られた神輿でまことに貴重な資料である | ||
道明寺天満宮 | 牙笏(伝菅公遺品)(道明寺天満宮) | ![]() |
六種の遺物は中国唐から舶載したものと、本邦製作によるものとがあるが、いずれも中国、唐時代の様式を伝える遺例の少ないものである。これらは、菅原道真が薨じた後、氏寺である土師寺の住職であった姨覚寿尼に伝えた遺品といわれ、土師寺の後身である道明寺天満宮に伝えられた。牙笏は象牙製。頭部に丸みを付けた直頭の牙笏で、正倉院御物以外に類例がない。 | 道明寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
道明寺天満宮 | 青白磁円硯(伝菅公遺品)(道明寺天満宮) | ![]() |
中央がへこんだ円形の硯で、池を周囲に造り、二十本の脚を胴に付しているが、古くからその下部を欠失する。器地は純白に近い堅い磁質で、外周には白釉がかかっている | 道明寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
道明寺天満宮 | 玳瑁装牙櫛(伝菅公遺品)(道明寺天満宮) | ![]() |
象牙製。蒲鉾型の駆使で、幅細長く、雄柱を太めに作る。峯および棟幅の部分両面に花文を表す | 道明寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
道明寺天満宮 | 犀角柄刀子(伝菅公遺品)(道明寺天満宮) | ![]() |
柄は犀角で作られ、縁金具は銀製。柄頭にも銀装の飾金具を被せてあったとみられるが、現在はその留鋲のみを存する。鞘は亡失 | 道明寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
道明寺天満宮 | 銀装革帯(伝菅公遺品)(道明寺天満宮) | ![]() |
銅製鍍銀のホ具・鉈尾および巡方十五個を着装した革帯で、ホ具を止める三カ所の孔にも猪目形の飾り金具を付している | 道明寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
道明寺天満宮 | 伯牙弾琴鏡(伝菅公遺品)(道明寺天満宮) | ![]() |
銅製八花形で、鈕は荷葉に乗る亀を表し、上部に雲、山、鳥を、下部に蓮池を描き、その間左右に鳳凰、竹林、人物などを図している。いわゆる伯牙弾琴の様を表した唐式鏡である | 道明寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
道明寺 | 木造十一面観音立像(道明寺) | ![]() |
道真が九州の太宰府(だざいふ)に左遷される時に、伯母に別れを告げるために土師寺に立ち寄ったと伝えられます。この時、一本の檜を材料として道真自ら彫って寺に残したと伝えられるのが、道明寺本尊の国宝 「十一面観音菩薩立像 |
道明寺 | |
葛井寺 | 乾漆千手観音坐像(葛井寺) | ![]() |
葛井寺の千手観音像は、乾漆像の中でも保存状態も良好で、大阪府下唯一の天平仏として、昭和13年に国宝に指定されました。頭上には、十一面を頂き、文字どおり千本の手をあたかも光背のように形造っています。お顔の輪郭は豊満で、理知的な表情を写実的に表現しています。誇張のない体躯は、比例がよく整っていて堂々としており、お顔とよく調和しています。衣紋の隆起は高く、写実的な手法が一貫しており、天平時代の円熟しきった技巧手法がよく発揮された作品に仕上がっています | 葛井寺 | 20170501葛井寺 |
獅子窟寺 | 木造薬師如来坐像(獅子窟寺) | ![]() |
本尊薬師如来座像は 弘仁期(平安時代、西暦900年頃)のものとされ国宝である。この尊像は行基菩薩が一刀三礼のもとに三年と三ヶ月を費やして刻まれた像で、授乳の霊験が著しいと伝えられている。榧の木(かやのき)の一本刻りで高さ92cm、相貌の眉、切目、口唇的に漂う特徴と衣文の鋭い翻波様式は平安の初期の代表作である。 | 交野市 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
大念仏寺 | 毛詩鄭箋残巻(大阪・大念仏寺) | ![]() |
毛詩(もうし)とは中国最古の詩集である詩経のことで、漢代の毛享(もうきょう)が伝えた書が唯一の完本であるところから毛詩といわれる。鄭箋(ていせん)とは鄭玄之(ていげんし)がつけた注釈のこと。風・雅・頌の三部のうち風の一部 | 大念仏寺 | |
孝恩寺 | 孝恩寺観音堂 | ![]() |
観音堂は、「釘無堂」とも呼ばれ、様式的には鎌倉時代の建築と認められる大阪府下で最古の木造建造物です | ||
桜井神社 | 桜井神社拝殿 | ![]() |
この拝殿は、建築様式やその技法から鎌倉時代中期に建てられたと考えられる建物で、現存する拝殿建築のなかでも最も古いもののうちのひとつです | 堺市 | |
慈眼院 | 慈眼院多宝塔 | ![]() |
石山寺、高野山金剛三昧院の塔と並ぶ日本三名塔の一つで、 鎌倉時代に建立されました。その高さは10メートル余、我が国最小の塔とされており泉佐野市では唯一の国宝とされています | ||
和歌山 | |||||
金剛峯寺 | 金剛三昧院多宝塔 | ![]() |
貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立した。石山寺塔に次ぎ日本で2番目に古い多宝塔 | 20170312 金剛三昧院 | |
金剛峯寺 | 金剛峯寺不動堂 | ![]() |
建久8年(1197年)ないしは建久9年(1198年)の建立。当初は高野山内の五の室院谷(一心院谷)にあり、1908年(明治41年)に現在地に移築された。桧皮葺(ひわだぶき)、入母屋造の住宅風仏堂である | 20170312 壇上伽藍 | |
金剛峯寺 | 仏涅槃図 (金剛峯寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
釈尊が沙羅双樹の下にて入滅する情景を描くもので、古来より涅槃会の本尊として用いられてきた。本図は応徳三年(1086年)の墨書銘があり、多くの涅槃図の中で現存最古の作である。またその優雅で気品あふれる表現は、日本仏画の最高傑作と呼ぶに相応しい | ||
金剛峯寺 | 善女竜王像 定智筆 (金剛峯寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
善女龍王の姿は、雲に乗って冠を戴き、中国の衣服をまとう男性の姿で描かれる国宝・善女龍王像が有名で、本像は多くの写本が遺っています。よく見ると衣の裾から尾が出ており、「龍」であることをうかがわせます。平安時代末期に活躍した絵仏師定智(じょうち)の筆と判明する貴重な作品です | ||
金剛峯寺 | 宝簡集(54巻)(金剛峯寺) | ![]() |
宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集は、高野山に伝来する最重要な古文書類を巻子本や冊子装として編纂したもので、高野山史はもとより日本史にも欠くことが出来ない古文書群。 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
金剛峯寺 | 続宝簡集(58巻18冊)(金剛峯寺) | ![]() |
写真は建治元年(1275年)10月28日付けで、阿弖河庄(現、和歌山県有田郡清水町)の農民が、地頭(湯浅とその一族)の非道を十三箇条にしたためて荘園領主(円満院と寂楽寺)に訴訟した書状 | ||
金剛峯寺 | 又続宝簡集(113巻30冊)(金剛峯寺) | ![]() |
写真は義経が高野山の訴えに対して、認めた自筆の書状。平氏が西海に没しようとする時期のこと、高野山の所領であった阿弖河庄源義経自筆書状が横領される事件が起った。この一件に対し、都にて代官を務めていた義経が、高野山側の訴えを認めた時のもの | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
金剛峯寺 | 伝船中湧現観音像 (竜光院 絹本著色 1幅)高野山 | ![]() |
弘法大師の乗船した遣唐使船が嵐に見舞われたとき,船中に湧き現れた観音を描いたものと伝えられる | ||
金剛峯寺 | 阿弥陀三尊像 (蓮華三昧院 絹本著色 1幅) | ![]() |
背後にたなびく雲の様子からみて阿弥陀来迎図の一種とも考えられてきたが、この真正面向きの三尊像には来迎図特有の動きが全くなく、下辺に蓮池を配する点からも、極楽浄土(阿弥陀如来の住む世界)の一部を取り出して構成しているようにみられる | ||
金剛峯寺 | 勤操僧正像 (普門院 絹本著色 1幅) | ![]() |
勤操大徳は天平勝宝六年(754年)、大和国高市に生まれ、弘法大師の師として知られている | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
金剛峯寺 | 金銀字一切経(中尊寺経)4296巻(金剛峯寺) | ![]() |
天治三年(1126年)三月二十四日の藤原清衡の中尊寺建立願文には「奉納金銀泥一切経一部」とあり、これに相当する一切経が現在、国宝となって金剛峯寺に伝わっている | 20170728 源信展 | |
金剛峯寺 | 木造八大童子立像(恵光、恵喜、烏倶婆?、清浄比丘、矜羯羅、制多伽)6躯(所在不動堂)(金剛峯寺) | ![]() ![]() |
もと不動堂に安置されていた。八大童子は不動明王の眷属。8体のうち6体が:鎌倉時代の作で、作風等から運慶一門の作と推定される。残りの2体(阿耨達童子、指徳童子)は時代が下り、附(つけたり)指定となっている | ||
金剛峯寺 | 木造諸尊仏龕(金剛峯寺) | ![]() |
弘法大師空海が中国から請来されたと伝えるもので、七世紀頃の作。香木(白檀材)を三分割し、それぞれを蝶番でつなぎ、釈迦如来を中心にして諸菩薩などを細かく彫刻する。両扉となる龕を閉じれば、携帯できるように工夫されており、枕本尊とも呼ばれている | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
金剛峯寺 | 澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(金剛峯寺) | ![]() |
平安時代後期の作で、蒔絵技法を駆使した唐櫃として名高い。全体を黒漆塗とし、各種の金粉を蒔き分け研ぎ出して、沢に遊ぶ千鳥の文様を表している。もともと経巻を納入していたものと思われる | ||
金剛峯寺 | 法華経 巻第六(色紙)(金剛峯寺) | ![]() |
色変わりの華麗な用紙に書かれた写経。12世紀の作 | 20171115 国宝展W | |
金剛峯寺 | 聾瞽指帰(弘法大師筆)(金剛峯寺) | ![]() |
弘法大師の著作で、本巻はその自筆本である。内容は儒、道、仏三教について三人の仮托人物に論ぜしめたもので、儒教をべつ毛先生、道教を虚亡隠士、仏教は仮名乞児が語り、儒道仏三教の優劣を論じ、仏教の妙理を説いている。大師が発心出家の意を親戚知己の間に表明したものという | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
金剛峯寺 | 山水人物図 池大雅筆 (遍照光院 紙本淡彩 10面 江戸時代) | ![]() |
江戸期の制作になるものとしては高野山で唯一の国宝指定 | 20180412 池大雅展 | |
高野山霊宝館 | 五大力菩薩像 (有志八幡講十八箇院 絹本著色 3幅)高野山霊宝館 | ![]() |
鎮護国家を祈る仁王会の本尊として祀られ、もとは五幅揃いであったが、明治21年(1888年)の大火で二幅が焼失し、現在、三幅が伝えられている。制作年代は平安時代中期までさかのぼるものと思われる | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
高野山霊宝館 | 阿弥陀聖衆来迎図 (有志八幡講十八箇院 絹本著色 3幅) | ![]() |
阿弥陀如来を中心に諸聖衆が楽器を奏でながら、往生者を迎えにくる情景を三幅からなる大画面に描いた来迎図の傑作として殊に有名である | 20170728 源信展 | |
正智院 | 文館詞林残巻 12巻(和歌山・正智院) | ![]() |
文館詞林(ぶんかんしりん)は、中国、唐代の勅撰漢詩文集。漢から唐初までの詩文をおさめ、『文選』につぐ最古の総集である。もと1000巻あったが、唐以降散逸し、今は数十巻が残るのみである。中国では早く滅び、日本にのみ残る佚存書であり、高野山にある正智院蔵の残巻12巻と宝寿院の残巻1巻は日本の国宝に指定されている | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
宝寿院 | 文館詞林残巻 1巻(和歌山・宝寿院) | ![]() |
文館詞林(ぶんかんしりん)は、中国、唐代の勅撰漢詩文集。漢から唐初までの詩文をおさめ、『文選』につぐ最古の総集である。もと1000巻あったが、唐以降散逸し、今は数十巻が残るのみである。中国では早く滅び、日本にのみ残る佚存書であり、高野山にある正智院蔵の残巻12巻と宝寿院の残巻1巻は日本の国宝に指定されている | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
三宝院 | 不空羂索神変真言経(和歌山・三宝院) | No images | 奈良時代の写経、不空羂索観音の真言陀羅尼、念誦法、曼荼羅、功徳などを説く |
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20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
龍光院 | 紫紙金字金光明最勝王経 10巻(和歌山・龍光院) | ![]() |
聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を建てて、国分寺の七重塔ごとに金字の「金光明最勝王経」を安置することを命じた。今に伝えられるものは多くはないが、奈良国立博物館と高野山竜光院(和歌山県)にはそれぞれ十巻一組が完存していて、ともに国宝に指定されている |
20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
龍光院 | 大字法華経(第三巻欠)(明算自点本)(和歌山・龍光院) | No images |
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龍光院 | 細字金光明最勝王経 2巻(和歌山・龍光院) | No images |
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20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
慈尊院 | 木造弥勒仏坐像(慈尊院) | ![]() |
当院のご本尊「木造弥勒仏坐像」は、弘法大師空海母公の廟内、弥勒堂(世界遺産)に安置されています。仏身、大きい円光背、八重蓮華座は、ほぼ完全な形で伝えられ、両膝前までを含んで桧の一木づくり、後頭部、躰部に内刳りを施し、背後をあてた彩色形であるが、雄偉な体軀をあらわす衣褶の明快な堀り口と頬から顎、大きい耳朶にかけての張りなど、平安時代の他の作例の中で異相の表現がされているといわれているに安置されています。 | ||
長保寺 | 長保寺本堂 | ![]() |
本堂は延慶四年の建立で、柱及び組物など唐様の手法をとりながら細部に和様の手法を混用し、よく二つの様式を融和している | 海南市 | |
長保寺 | 長保寺多宝塔 | ![]() |
多宝塔は純和様を採用し、一重と二重との釣合よく安定した形態をなし、その細部も現存多宝塔中の傑作の一つである。但し内部須弥壇は唐様様色になる | 海南市 | |
長保寺 | 長保寺大門 | ![]() |
大門は嘉慶二年の建立で、形態のよく整った代表的な楼門の一つである。和様を基調としたその細部は室町時代初期の特色を持っている | 海南市 | |
道成寺 | 木造千手観音立像(道成寺) | ![]() |
道成寺の本尊千手観音像と、その脇侍として伝えられた二菩薩像である。かつては本堂の造付けの厨子三基にそれぞれ安置されていたが、現在では収蔵庫(大宝殿)に移されている。 | ||
道成寺 | 木造菩薩立像2躯(伝日光・月光菩薩)(道成寺) | ![]() |
道成寺の本尊千手観音像と、その脇侍として伝えられた二菩薩像である。かつては本堂の造付けの厨子三基にそれぞれ安置されていたが、現在では収蔵庫(大宝殿)に移されている。 | ||
根来寺 | 根来寺多宝塔(大塔) | ![]() |
高さ40メートル、幅15メートルの日本最大の多宝塔。「多宝塔」とは二層一階建ての塔で、通例、初層(裳階)の平面が方形、上層が円形に造られる。この塔も、初層の外見は方形だが、初層内部には円形の内陣が造られており、円筒形の塔身の周囲に庇を付した、多宝塔本来の形式をとどめている | 20170404 根来寺 | |
善福院 | 善福院釈迦堂 | ![]() |
鎌倉時代後期の禅宗様式の典型的な建築として、鎌倉円覚寺舎利殿、山口功山寺仏殿などと共に有名である | ||
粉河寺 | 粉河寺縁起 (粉河寺 紙本著色 1巻) | ![]() |
紀伊の観音霊場粉河寺の本尊にまつわる縁起を描くもので、前半(二段)は、猟師の発願によって千手観音堂が建立された由来、後半(三段)は観音の化身が河内の長者の娘の病を癒し、それに感謝して一族皆出家して、粉河の別当となったという霊験物語を描く。 | 20160505 奈良国立博物館 「信貴山縁起絵巻展」 | |
熊野速玉大社 |
木造熊野速玉大神坐像・木造夫須美大神坐像・木造家津御子大神坐像・木造国常立命坐像(熊野速玉大社) | ![]() ![]() ![]() ![]() |
熊野三所とされる熊野速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三神に国常立命を加えた四神で、いずれも平安時代前期の作である。男女神である前二像は等身を超える大型、後二像は等身の大きさとなる。当社のこのほかの諸神像は平安時代後期および鎌倉時代に下る作であり像高もさらに小さいので、神格により製作時期に違いがあり、大きさにも差がつけられていることがわかる | 20130420 熊野速玉大社 | |
熊野速玉大社 |
古神宝類 一括(熊野速玉大社) | ![]() |
神宝目録などから、明徳年間に調進された神宝類が一部含まれることが分かるが、等しく室町時代の工芸各分野にわたる代表的な作例として、また類品がほとんどない貴重な品目を網羅し、その種類の豊かさと美術的価値のみならず中世風俗を伺い得る資料の集大成としても非常に意義深い一群である | 20130420 熊野速玉大社 | |
丹生都比売神社 | 銀銅蛭巻太刀拵(丹生都比売神社) | ![]() ![]() |
平肉の薄い太刀に銀銅を蛭巻にして堅牢にし、金具は金銅の亀甲文を飾った華麗豪奢なもので、金具はもとより全体の製作が最も優れている。この種の太刀拵の現存するものは極めて少なく、かつこれ程に完成されているものは他に類を見ない | ||
鞆淵八幡神社 | 沃懸地螺鈿金銅装神輿(和歌山・鞆淵八幡神社) | ![]() |
沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)は、平安後期の傑作で後堀川天皇の勅により石清水八幡宮勧請の際に奉送されたと伝えられている。国宝に指定され、歴史的・美術史的価値も高く評価されている。鞆渕八幡神社内に保存されている | ||
兵庫 | |||||
神戸市立博物館 | 桜ヶ丘町出土銅鐸・銅戈 (神戸市立博物館) | ![]() |
昭和39年(1964)12月10日、六甲山南斜面の標高約240m付近の、尾根の東斜面で発見された。 14個の銅鐸のうち1〜3号銅鐸は流水文(りゅうすいもん)銅鐸で、1号銅鐸は身の中央よりやや上に影絵風の絵画文で飾った横帯があり、2号銅鐸は身の中央にシカの列を線描で鋳出している。4〜14号銅鐸は袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸で、4〜5号銅鐸は身の両面の4区内にいずれも線描の絵が鋳出されている。6号銅鐸が最も大きく、高さ64.2cm、最小は14号銅鐸で21.4cm。銅戈7本は長さ27.2〜29.0cmでほぼ大きさがそろっており、樋(ひ)を複合鋸歯(きょし)文で飾った大阪湾型銅戈である | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
神戸市立博物館 | 絵画銅鐸(桜ヶ丘4号銅鐸) (神戸市立博物館) | ![]() |
全国で銅鐸は 500個近く発見されているが、銅鐸の両面を桜ヶ丘 4・5号銅鐸のような絵画で飾った例はこれまで数例しか発見されていない。4号銅鐸のA面には右上に魚をくわえた水鳥、左上に水を飲んでいるような動物とアメンボウ、左下には工字状器具をもつ人物、右下に弓を持ちシカを捕らえている人物が描かれている。B面にはクモまたはアメンボウ、カマキリ、トンボ、イモリまたはトカゲ、スッポンまたはカメが描かれ、両面とも裾(すそ)にシカの親子が描かれている。こうした線描の絵画は、同時代の土器に描かれたものと共通し、わが国絵画史の第1ページを飾る作品である | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
神戸市立博物館 | 絵画銅鐸(桜ヶ丘 |
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5号銅鐸B面は右上にトカゲまたはイモリと 2匹のトンボ、左上に工字状器具をもつ人物と魚、左下に魚をくわえた水鳥とスッポンまたはカメ、右下に脱穀する2人の人物がみえる。A面にも、カエル、カマキリ、クモまたはアメンボウ、カエルをくわえた蛇とそれを追う人物、争っている 3人の人物、弓をもちシカを捕らえる人物が描かれている。こうした絵画をどう解釈するかについては諸説があるが、狩猟・漁労のいわば弱肉強食の世界から、農耕を主要な生産手段とする社会への転換をたたえる農耕讃歌だという説が有力である。なお、4個の絵画銅鐸は、同一工人または同一工人集団の手になったものである | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
神戸市立博物館 | 桜ヶ丘町出土銅戈 (神戸市立博物館) | ![]() |
14個の銅鐸とともに出土した銅戈である。本資料の特徴は、樋(身にある二本の溝)に平行斜線のある三角形の文様が鋸の歯の様に並ぶ二つの文様帯を、向かい合わせに組合せた複雑な文様(複合鋸歯文(ふくごうきょしもん))を鋳出している。また、2号と4号銅戈の茎(内)には矢印のような模様が鋳出されている。この種の銅戈は、大阪湾沿岸地域を中心に近畿地方以東に分布することから、大阪湾型銅戈と呼ばれている | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 | |
黒川古文化研究所 | 短刀 銘来国俊(黒川古文化研究所) | ![]() |
二字國俊の子、来國俊の作で、太刀短刀共に得意とするなかで、短刀は特に上手である。本短刀は同作中出来が優れ、その健全さにおいて右に出るものがない |
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黒川古文化研究所 | 短刀 銘貞宗 本阿花押(名物伏見貞宗)(黒川古文化研究所) | ![]() |
相州正宗の子、貞宗の作で同工の一作風を代表する傑作。穏やかなのたれに小互の目を交え匂口の明るく冴えた刃文は、父正宗を思わせる。『享保名物帳』に所載する伏見定宗がこれで、もと江州水口加藤家に伝来のものであるが、その号の由来は不明である。朱銘は本阿弥光室が入れたものである | ||
白鶴美術館 | 賢愚経残巻(大聖武)2巻(白鶴美術館) | ![]() |
賢愚経【けんぐさよう】は賢愚因縁経ともいわれ、種々の譬喩因縁を収集して六十二品より成る。いま国宝に指定されているその残巻に、東大寺(一巻、四六七行)、前田育徳会(三巻、四一九行、一四六行、一八行)、東京国立博物館(一巻、二六二行)、のものがあるが、これはその分量(甲巻四六一行、乙巻五〇三行)、保存状態において、それらにまさるものである |
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白鶴美術館 | 大般涅槃経集解(白鶴美術館) | ![]() |
唐時代の書写と思われる古写経五十四巻を中心に、平安、鎌倉、江戸各時代に補写された十七巻を加え、七十一巻完存のもので、早くから奈良の西大寺に伝えられ、涅般経研究の重要なテキストとして知られる。その大部分に平安、鎌倉の古訓点があり、国語学上にも貴重な資料である |
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姫路城 | 姫路城大天守 (所有者:国、管理団体:姫路市) | ![]() |
南面を正面とし5重6階地下1階。各重の千鳥破風・唐破風と軒隅の反転(てり)の巧みな配合が白漆喰総塗籠造の白壁と目地漆喰塗りの屋根瓦とあいまって大天守外観の壮観で均整のとれた美しさをつくりだしている |
20060603
姫路城
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姫路城
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姫路城乾小天守 | ![]() |
大天守の西北に位置し3重4階地下1階。東面は「ロの渡櫓」に、南面は「ハの渡櫓」に接続する。1重の西面に軒唐破風を設け、3重の南面と西面に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2所ずつ設けており、西面を中心に意匠を凝らしている | 姫路市 | 20060603 姫路城 |
姫路城 | 姫路城西小天守 | ![]() |
大天守の西南に位置し3重3階地下2階。東面は「ニの渡櫓」に、北面は「ハの渡櫓」に接続し、地階東面に「水六門」を備えて出入口とする。南面は中央に軒唐破風を設け、3重に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2所設け意匠を凝らしている | 姫路市 | 20060603 姫路城 |
姫路城
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姫路城東小天守 | ![]() |
大天守の北に位置し3重3階地下1階。南面は「イの渡櫓」に、西面は「ロの渡櫓」に接続している。西小天守・乾小天守と同じく2重の櫓部の上に望楼部をのせるかたちだが、外観上は完全に一体化しており、唐破風や火灯窓を備えていない | 姫路市 | 20060603 姫路城 |
姫路城 | 姫路城イ、ロ、ハ、ニの渡櫓 4棟 (イの渡櫓) | ![]() |
「イの渡櫓」は南面で大天守に、北面で東小天守に接続し、建物の高さ9.03m、高さ8.88mの石垣の上に位置する | 姫路市 | 20060603 姫路城 |
姫路城
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姫路城イ、ロ、ハ、ニの渡櫓 4棟 (ロの渡櫓) | ![]() |
「ロの渡櫓」は東面で東小天守に、西面で南端間が乾小天守に接続し、建物の高さ9.03m、高さ8.3mの石垣の上に位置する | 姫路市 | 20060603 姫路城 |
姫路城 | 姫路城イ、ロ、ハ、ニの渡櫓 4棟 (ハの渡櫓) | ![]() |
「ハの渡櫓」は南面で西小天守に、北面で乾小天守に接続し、建物の高さ9.167m、高さ10.061mの石垣の上に位置する | 姫路市 | 20060603 姫路城 |
姫路城
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姫路城イ、ロ、ハ、ニの渡櫓 4棟 (ニの渡櫓) | ![]() |
「ニの渡櫓」は東面で大天守に、西面で西小天守に接続し、建物の高さ9.679m、建物面積56.784平方メートル(17.177坪)。1階に水五門を設ける。水五門や1階の材が大天守と西小天守の石垣にとりつく状態から、天守群の中で最後につくられたものと考えられる。 「台所」は大天守西北隅の北方に位置し、東面南方に下屋を設けて大天守に、北面はロの渡櫓に接続する。1重2階入母屋造・本瓦葺 |
姫路市 | 20060603 姫路城 |
一乗寺 | 一乗寺三重塔 | ![]() |
兵庫県下に現存する最古の塔婆である。建立年代は、相輪伏鉢(そうりんふくはち)に承安元年(1171)の刻銘があって、平安時代に遡ることが知られ、年次ともに勧進隆西の名と、時の住持であろうか仁西の名をも録している | 20070610 西国第26番 一乗寺 | |
一乗寺 | 聖徳太子及天台高僧像 (一乗寺 絹本著色 10幅) | No images | 平安時代、11世紀の作。各図とも縦128.8 cm、横75.8 cm。龍樹、善無畏(以上インド)、慧文、慧思(南岳大師)、智(天台大師)、灌頂、湛然(以上中国)、最澄、円仁(以上日本)の高僧像に聖徳太子像を加えて10幅としたもの。聖徳太子は天台宗で重視する法華経の信奉者であったことに加え、慧思(南岳大師)の生まれ変わりとする伝承があることから、加えられたものとみられる | ||
浄土寺 | 浄土寺浄土堂(阿弥陀堂) | ![]() |
浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」とも言う)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている | 20171008 浄土寺 浄土堂(阿弥陀堂) | |
浄土寺 | 木造阿弥陀如来及両脇侍立像(浄土堂安置)(浄土寺) | ![]() |
中尊は五メートルをこえ、両脇侍も四メートルに近い巨像で、鎌倉初期の彫刻の中で最もすぐれたものの一つである | 20171008 浄土寺 浄土堂(阿弥陀堂) | |
太山寺 | 太山寺本堂 | ![]() |
弘安八年(一二八四)焼失後まもなく再建されたもので、規模大きく、密ヘ本堂の優秀な作品 | ||
朝光寺 | 朝光寺本堂 | ![]() |
朝光寺は、法道仙人の創立と伝えられ、元は北にある権現山にありましたが、平安末期1189年(文治5年)に現在の地に移転したと言われています。桁行7間、梁間7間の単層寄棟造り本瓦葺の朝光寺の本堂は、1413年(応永20年)に建立されたと伝えられており、内部は密教寺院本堂の典型を示しています | 20171008 朝光寺本堂 | |
鶴林寺 | 鶴林寺太子堂 | ![]() |
方三間、一重、宝形造りの建物の前に一間の縋破風をかけ、奥行き一間の礼堂をつけたもので四方を縁ではりめぐらしています。全体として藤原建築の美点を遺憾なく発揮しバランスの富んだ建物です | 20171102 鶴林寺 | |
鶴林寺 | 鶴林寺本堂 | ![]() |
鶴林寺最大の建物で内陣厨子の棟札に応永4年(1397)の銘がある。入母屋造り、本瓦葺。日本の仏寺建築は、和様の時代から鎌倉の初期には大仏様・禅宗様が輸入され、和様との折衷様式が流行し始める。鶴林寺本堂は大阪府河内長野市の観心寺本堂と並ぶ、折衷様式の代表例とされる | 20171102 鶴林寺 |