京都 |
文化遺産データベース |
参考Photo |
|
参考リンク |
鑑賞日記 |
京都国立博物館 | 釈迦金棺出現図 (京都国立博物館 絹本著色 1幅) | ![]() |
釈迦如来が涅槃に入った直後,摩耶夫人は天から駆けつけ,釈迦の金の棺に取りすがって嘆き悲しんだ。ときに,釈迦は神通力をもって棺の中から身を起こし,母のために説法したという,仏教説話を絵画化したもの。本図はこの主題を大画面に劇的に構成した平安時代後期の作品で,日本の仏教絵画を代表する傑作の一つといえる。 | e国宝 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
京都国立博物館 | 十二天像 (京都国立博物館 絹本著色 12幅) | ![]() |
平安時代の宮中では、毎年正月に国家の安泰、天皇の安穏、五穀豊穣を祈る後七日御修法という密教儀礼が行われていた。これは、そのときに用いられたもので、もと東寺の伝来である。十二天とは密教の儀礼空間を守る方位の神々で、四方四維と上下の二方、それに日月からなる。 | e国宝 | 20090117 京都国立博物館 「京都御所ゆかりの至宝展」 |
京都国立博物館 | 山越阿弥陀図 (京都国立博物館 絹本著色 1幅) | ![]() |
いま臨終しようとする信仰者の前に、阿弥陀如来と菩薩たちが西方極楽浄土から迎えに来た場面を描いている。本作品は山の向こう側に阿弥陀たち が半身を現すという図様になっており、こうした一群はとくに「山越阿弥陀図」と呼ばれている。中央の山あいからひときわ大きな上半身を現してい るのが阿弥陀如来で、頭に後光を戴き、両手は来迎印という印相を結んでいる。 | e国宝 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
京都国立博物館 | 山水屏風 (京都国立博物館 絹本著色 6曲1隻 平安時代) | ![]() |
中国的風俗を描いたいわゆる唐絵(からえ)の山水屏風で、かつて東寺に伝来したもの。もともとは宮中や貴族の邸宅の室内調度として作られたと思われる。平安時代の屏風絵としては唯一の遺品である。 | e国宝 | 20171115 国宝展W |
京都国立博物館 | 白描絵料紙金光明経(巻第三) (京都国立博物館 紙本著色 1巻 建久3年(1192年)) | ![]() |
この写経は、下絵のある料紙を用いて、『金光明経』4巻と『理趣経』1巻を書写したもので、平安時代後期に盛んに制作された装飾経の一例に数えられる。 | e国宝 | 20171107 国宝展V |
京都国立博物館 | 病草紙 (京都国立博物館 紙本著色 10面 平安時代) | ![]() |
様々な奇病を集めて絵巻物にしたてたもので、寛政期の模本によれば、名古屋の歌人大館高門のもとに15図1巻の形で所蔵されていたが、現在このうちの9図が国有となり、それ以前に断簡となって逸出した図が諸家に分蔵されている。 | 京都国立博物館 | 20170728 源信展 |
京都国立博物館 | 餓鬼草紙 (京都国立博物館 紙本著色 1巻 平安時代) | ![]() |
1巻の絵巻に収められている詞(ことば)・絵とも7段の餓鬼の物語のうちの1つで、墓に手向けられた水のしたたりをなめて、わずかに命を保つ食水餓鬼を描く。平安時代後期に流行した一連の六道絵巻の1つである。 | 京都国立博物館 | 20170728 源信展 |
京都国立博物館 | 藤原忠通筆書状案(京都国立博物館) | ![]() |
藤原忠通(1097〜1164)は、藤原忠実の子。摂政・関白を務め、太政大臣にまで昇った。和漢の学に通じ、詩集に『法性寺殿御集』、歌集に『多田民治集』がある。 | e国宝 | 20171115 国宝展W |
京都国立博物館 | 手鑑「藻塩草」(二百四十二葉)(京都国立博物館) | ![]() |
手鑑は経巻や歌書・消息などの巻子本や冊子装からその一部を切り取って収集し、帖に編集したもので、古筆切の筆者の定め方、古筆の種類や、その配列の次第などから古筆鑑賞の推移をうかがうことができる。 この手鑑は奈良時代から室町時代までの242葉のすぐれた古筆切を収めたもので、江戸時代を通じて筆跡鑑定の中心的存在となっていた古筆家の台帖として代々伝わった由緒深いものである。 | e国宝 | |
京都国立博物館 | 一品経懐紙(西行、寂蓮等十四枚)(京都国立博物館) | ![]() |
寂蓮・西行をはじめ平安時代末期を代表する歌人や名筆たちが、法華経二十八品の一品ずつを首題として詠んだ和歌懐紙。各人の位署書から、治承四年(一一八〇)から寿永二年(一一八三)までのものと推定される | e国宝 | |
京都国立博物館 | 天橋立図 雪舟筆 (京都国立博物館 紙本墨画淡彩 1幅 室町時代) | ![]() |
雪舟(1420〜1506頃)筆とみなされている作品である。 図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。 | e国宝 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
京都国立博物館 | 蓮池水禽図 俵屋宗達筆 (京都国立博物館 紙本墨画 1幅 江戸時代) | ![]() |
池中の蓮花とかいつぶりを描いたこの絵では水墨画の日本化が見事に達成されており、日本的感性によって創造された宗達のすぐれた画境に感嘆せざるを得ない。画中「伊年」の円印があるだけで落款はないが、その鋭い自然観照、適確な表現、巧みな技法などからみて、この絵の作者は宗達をおいて他に求められない。彼を代表する作品の一つであるとともに、江戸時代の絵画全体の中でも意義深い一作といえる。 | e国宝 | |
京都国立博物館 | 古神宝類 一括(阿須賀神社伝来)(京都国立博物館) | ![]() |
阿須賀神社は、熊野速玉大社の摂社である。装束、神宝、調度があり、その内容品を含めて、手箱などの調度類は殆ど目録通り完存し、御神宝中石帯や冠、袍、表袴などが目録員数通り各一口宛、さほどの損傷もなく現存していることは非常に意義深い。 | e国宝 | 20171107 国宝展V |
京都国立博物館 | 太刀 銘則国(京都国立博物館) | ![]() |
後鳥羽上皇の御番鍛冶と伝える国友・久国・国安の三兄弟からはじまり、則国(のりくに)は国友の子とされる。鎌倉時代も早い時期の京刀の特色をよく示している。 | e国宝 | |
京都国立博物館 | 太刀 銘安家(京都国立博物館) | ![]() |
安家は、平安時代末期、平治年間(1159〜1160)を前後する時期に活動した刀工で、伯耆鍛冶の祖、安綱の一門といわれる。本品は、黒田家に伝来したもので、安家の作刀であることが確実な唯一の作品として著名なものである。 | e国宝 | |
京都国立博物館 | 浄名玄論(京都国立博物館) | ![]() |
『浄名玄論』全8巻は、中国の三論宗の教学を大成した嘉祥大師吉蔵(549〜623)が著した『維摩詰所説経』(姚秦時代の鳩摩羅什訳)の綱要書である | e国宝 | 20171107 国宝展V |
京都国立博物館 | 千手千眼陀羅尼経残巻(天平十三年七月十五日玄ム願経)(京都国立博物館) | ![]() |
僧正玄ム(?〜746)が天平13年(741)7月15日の盂蘭盆会(うらぼんえ)の日に聖武天皇・元正太上天皇・光明皇后の聖寿無窮と皇太子ならびに諸親王、文武百官、天下兆民の忠孝と三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に沈淪する衆生の救済を願って『千手千眼陀羅尼経』1000巻を書写せしめたうちの1巻であり、現存するのはこの1巻のみである。 | e国宝 | |
京都国立博物館 | 金剛般若経開題残巻(弘法大師筆)(六十三行)(京都国立博物館) | ![]() |
弘法大師空海(774〜835)が著した『能断金剛般若波羅蜜経』(唐、義浄訳)の開題で、空海自身の筆になるものである | e国宝 | |
京都国立博物館 | 万葉集 巻第九残巻(藍紙本)(京都国立博物館) | ![]() |
藍で漉染めした料紙に書かれていることから「藍紙本」の名で呼ばれる『万葉集』の古写本。全紙にわたり銀の揉み箔を撒(ま)く。筆者は藤原行成の孫、藤原伊房(1030〜1096)とする説が有力 | e国宝 | 20171115 国宝展図録より |
京都国立博物館 | 古今和歌集 巻第十二残巻(本阿弥切本)(京都国立博物館) | ![]() |
雲母で夾竹桃の文様を摺り出した優美な唐紙に『古今和歌集』巻第十二を書写する。巻頭から49首(132行)を収める。料紙の大きさはきわめて小さく、一紙の縦が16.7cm、横が26.6cm。文字も小さいが、運筆は巧みで筆線も弾力に富む。筆者は小野道風(894〜966)と伝えるが、もとより伝承にとどまる。 | e国宝 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
京都国立博物館 | 明恵上人歌集(高信筆)(京都国立博物館) | ![]() |
わが国において華厳宗を確立した明恵(高弁、1173〜1232)の歌を集めた歌集。明恵の弟子高信が編集したもの | e国宝 | |
京都国立博物館 | 芦手絵和漢朗詠抄(藤原伊行筆)(京都国立博物館) | ![]() |
2巻の和漢朗詠集には、1紙ごとに完結した芦手絵が描かれるが、それらはすべて文中の詩歌をキーワードにした謎かけを解くことで解説できる図柄となっており、平安貴族の優美な遊び心が込められた芦手絵といえる | e国宝 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
京都国立博物館 | 日本書紀 巻第二十二、第二十四(京都国立博物館) | ![]() |
わが国最古の勅撰の歴史書『日本書紀』の古写本。「推古天皇紀」(巻第二十二)と「皇極天皇紀」(巻第二十四)の2巻が残り、かつて岩崎家(旧三菱財閥本家)が所蔵していたことから「岩崎本」の名で呼ばれる。 | e国宝 | 20171107 国宝展V |
京都国立博物館 | 日本書紀神代巻(上下)(吉田本)(京都国立博物館) | ![]() |
諸国の神社に仕えて卜占(ぼくせん:占い)を家業とした卜部家に伝来した『日本書紀』の古写本。卜部家は鎌倉時代末より吉田姓を名乗っており、この2巻を「吉田本」と呼ぶのはこのため。 | e国宝 | |
京都国立博物館 | 稿本北山抄(巻第十)(京都国立博物館) | ![]() |
『北山抄』は、巻第一、二、五、八の4巻がまず長和年間(1012〜1017)に、次いで残りの6巻が寛仁年間(1017〜1021)に作られたといわれる。よって本巻は長和年間以前に成立したことになる。10巻の形に仕立てられたのは後世になってからのこと | e国宝 | |
京都国立博物館 | 新撰類林抄 巻第四残巻(京都国立博物館) | ![]() |
中国唐代(618〜907)の詩人の作を類別聚集した詩集『新撰類林抄』の巻第四残巻。王維・銭起・王昌齢・李白・賀知章ら唐代を代表する詩人21人の作40首を収める | e国宝 | |
京都国立博物館 | 世説新書 巻第六残巻(京都国立博物館) | ![]() |
『世説新書』は、筆記小説集の一種で、中国六朝時代の南朝宋の文学者で臨川王劉義慶(403〜444)が著したものである。その内容は後漢末から東晋にかけての名士の言行や逸事を38部門に分けて採録したもの | e国宝 | |
京都国立博物館 | 絹本著色阿弥陀三尊像 普悦筆 3幅(京都・清浄華院蔵、京都国立博物館寄託) | ![]() |
数少ない現存する中国南宋仏画の中でも白眉とされる作品。身にまとう衣の筆線や、おぼろげな光背の表現など、独特の魅力に満ちています。絵そのものの魅力もさることながら、東アジア圏の仏教文化に大きな影響を与えた中国寧波(にんぽー)から輸入されたもので、仏教を通した東アジアの文化交流を考える上でも貴重な作品です。 | 清浄華院 | 20171115 国宝展W |
京都国立博物館 | 漢書楊雄伝第五十七 | ![]() |
揚雄(よう ゆう、紀元前53年(宣帝の甘露元年) - 18年(王莽の天鳳五年))は、中国前漢時代末期の文人、学者。現在の四川省に当たる蜀郡成都の人。字は子雲。また楊雄とも表記する。 | - | 20171107 国宝展V |
京都国立博物館 | 紺紙金字大宝積経巻第三十二(高麗国金字大蔵経) 一巻 |
![]() |
世界で現存するうちで最古の高麗写 経で,藍染した紺色の紙に金字で写経する。高麗王妃であり,王母でもある千秋王太后が寵臣の金致陽とともに願主として作成させた大蔵経のうちの一巻。南北朝時代以前に日本へ伝来した。 (高麗時代) | H30文化財答申 | 20180503 東京国立博物館 |
京都府立総合資料館 | 東寺百合文書(24,067通)(京都府立総合資料館) | ![]() |
東寺百合文書は教王護国寺の宝蔵、御影堂に伝来した寺院文書で、奈良時代から江戸時代初期までの全二四、〇六七通に及ぶ膨大な史料群 | ウィキペディア | |
京都大学 | 山科西野山古墳出土品 (京都大学 奈良〜平安時代) | ![]() |
西野山古墓は、8世紀後期から9世紀前期と見られ、大正8年に墓穴が見つかり、内部から、武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土 |
- | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
京都大学 | 今昔物語集 9冊(京都大学) | ![]() |
『今昔物語集』はわが国最大の説話集で、その成立は十二世紀前半と考えられている。
この京都大学図書館所蔵になる鈴鹿本は、現存『今昔物語集』諸写本の祖本として著明な古写本で、巻第二・五・七・九・十・十二・十七・廿七・廿九の九巻分を存する。 |
京都大学附属図書館 | 20171107 国宝展V |
龍谷大学 | 類聚古集(龍谷大学) | No Images | 「類聚」とは、同じ種類のものをそれぞれ一つに聚める意味で、雑纂(一定の配列を設けずに集めること)や年代順などに対比していう、書物の編纂方法の一つである。 「古集」はこの書が編まれた平安時代からみて古い歌集である『万葉集』をいう。そういう書名からわかるように、『類聚古集』は全体としての一定の配列方法の見つけにくい『万葉集』の歌を、大きくは長歌・短歌・旋頭歌という歌体別にまとめ、さらにそれぞれを、春・夏・秋・冬・天地・山水などの題材によって分類し、また、春では春の風物や行事の推移の順序に従って配列するというように編集し直したものである | 龍谷大学 | |
陽明文庫 | 後二条殿記(藤原師通、自筆本1巻、古写本29巻)(陽明文庫) | No Images | 後二条師通記は、平安時代後期に活躍した藤原師通の記した日記。原本は一条家に伝来していた。後二条関白記、後二条殿記とも。永保3年(1083年)から康和元年(1099年)まで書かれたらしいが、うち数年分が欠ける。寛治7年(1093年)分の一部の自筆本が伝わる。この自筆本と、後に藤原頼長が書写させた古写本が、陽明文庫に伝わり、ともに国宝に指定されている。また、宮内庁書陵部にも古写本よりも時代が下ると見られる新写本が伝えられている | ウィキペディア_ | |
陽明文庫 | 御堂関白記(藤原道長、自筆本14巻、写本12巻)(陽明文庫) | ![]() |
平安時代に摂関政治の全盛期を築いた藤原道長の日記。自筆の日記としては世界最古。長徳元年(995)より治安元年(1021)までの記録が断続的に伝わる。自筆本14巻、古写本12巻が現存。寛弘六年下巻には、道長の外孫である皇子敦良(後に即位して後朱雀天皇となる)の誕生について記している | 九州国立博物館 | 20171107 国宝展V |
陽明文庫 | 大手鑑(第一帖百三十九葉、第二帖百六十八葉)(陽明文庫) | ![]() |
奈良〜室町時代の天皇・皇族・摂関や能筆家などの名筆の断片を集めた古筆手鑑のなかでも質量ともに充実した珠玉の名品。なかでも冒頭を飾る伝聖武天皇筆の「賢愚経断簡」(けんぐきょうだんかん)(大聖武)は20行にわたる破格の大きさを誇る。近衞家Xが伝家の古筆切を集成したもので、五摂家筆頭の家格に相応しい | 九州国立博物館 | |
陽明文庫 | 歌合 巻第六(十巻本)(陽明文庫) | ![]() |
十巻本歌合(じっかんぼんうたあわせ)は、平安時代中期に編纂された、日本最初の歌合集成。仁和年間から天喜4年に至る約170年間の46度の歌合を収める。企画は藤原頼通で、源経信が編纂に関わったか。全46度の歌合のうち、38が完存、6が部分的に残り、2が散逸した。前田育徳会(巻第一・二・三・八及び巻第十の内9度(国宝))、陽明文庫(巻第六(国宝)、総目録(重要文化財)、巻第十の内1度)、東京国立博物館(寛平御時后宮歌合(国宝))ほか諸家に分蔵。現存するのは草稿本であり、未完に終わったと見られる | ウィキペディア_ | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
陽明文庫 | 類聚歌合 19巻(陽明文庫) | ![]() |
大治元年(一一二六)までの平安朝における歌合を主催者別に編纂した「類聚歌合」、いわゆる「二十巻本歌合」である。内大臣藤原雅実(一〇五九―一一二七)は、頼通の十巻本を模範として、さらに大きな歌合の編纂を決意し、その後能書としても著名な内大臣藤原忠通(一〇九七〜一一六四)もこの編纂事業に加わった | − | |
陽明文庫 | 神楽和琴秘譜(陽明文庫) | No Images | 国宝神楽和琴秘譜は、神前で奏された歌謡で、横幅28cmの和紙に、万葉仮名で歌詞が記されている。行間に◎や、の注が付いているが、歌声の長短や拍子を表しているらしい | − | |
陽明文庫 | 倭漢抄下巻(彩牋)2巻(陽明文庫) | ![]() |
平安時代に愛唱された詩歌から朗詠に適したものを選び出した『倭漢朗詠集』下巻の写本。格調高く温雅な筆致が美麗な料紙と調和する。行成様を示すが、藤原公経(1051以前〜99)の筆とする説が有力 | 九州国立博物館 | |
陽明文庫 | 熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰、藤原家隆・寂蓮筆)3幅(陽明文庫) | ![]() |
後鳥羽上皇は熊野三山に熱心に参詣し、その道中では和歌会が催された。この作品は和歌会で詠まれた歌を上皇が記したもの。あらわな筆の勢いとメリハリのきいた線が特徴の書で、後鳥羽上皇ならではの激しい性格を暗示している | 九州国立博物館 | |
冷泉家時雨亭文庫 | 明月記(藤原定家自筆本)58巻、1幅(冷泉家時雨亭文庫) | ![]() |
冷泉家に伝来した藤原定家の日記『明月記』の原本で、日次記五六巻、一幅、本記の抄出記【しゅうしゅつき】と思われる建久九年十二月十日臨時祭記一巻、および年未詳断簡一巻からなる | 朝日新聞 | |
冷泉家時雨亭文庫 | 古今和歌集(藤原定家筆)(冷泉家時雨亭文庫) | ![]() |
藤原定家(一一六二〜一二四一)が嘉禄二年(一二二六)に書写した『古今和歌集』(二十巻)で、中世以降の『古今集』研究に多大の影響を与えたいわゆる「嘉禄本古今集」の原本である | 朝日新聞 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
冷泉家時雨亭文庫 | 後撰和歌集(藤原定家筆)(冷泉家時雨亭文庫) | ![]() |
藤原定家が天福二年(一二三四)に書写した『後撰和歌集』(二十巻)である。定家は『後撰和歌集』も10回近く書写したが、現存はこの一冊のみ | 朝日新聞 | |
冷泉家時雨亭文庫 | 拾遺愚草 上中下(自筆本)3帖(冷泉家時雨亭文庫) | ![]() |
藤原定家自筆 鎌倉時代前期 定家の自撰歌集で、歌数は2885首 | 朝日新聞 | |
冷泉家時雨亭文庫 | 古来風躰抄 上下(初撰本)自筆本)(冷泉家時雨亭文庫) | ![]() |
『古来風躰抄』は、歌人として有名な藤原俊成(一一一四〜一二〇四)が、建久八年(一一九七)、八十四歳の時に著わした歌論書で,和歌の風躰のあり方とその変遷を明らかにし、俊成の和歌論を集大成した著述として,わが国文学史上に重視されている。俊成の著した歌学書で、84歳の時の書写。 著者自筆本でこれほど古いものは世界的にも稀といわれている | 朝日新聞 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
泉屋博古館 | 秋野牧牛図 (泉屋博古館 絹本著色 1幅) | ![]() |
紅葉した大樹の陰で親子の水牛が寝そべり、また一頭が逍遥する。堂々とした構図、背景の微妙なグラデーション、牧童の衣の継ぎ目まで気をぬかない細密描写、いずれも宮廷画にふさわしい風格と叙情性をそなえている。 | 泉屋博古館 | 20171107 国宝展V |
泉屋博古館 | 線刻釈迦三尊等鏡像(泉屋博古館) | ![]() |
大小九体の仏像を巧みに配し、精緻かつ流麗な線刻で表現している。鏡背の文様も鋳上がりよく、鏡像の中でも稀に見る優品である。 | 泉屋博古館 | |
京都鳩居堂 | 伝藤原行成筆仮名消息(十二通)(京都鳩居堂) | ![]() |
能書家として三蹟の一人にあげられ、書道・世尊寺流の祖。当代きっての能書家で、この書は「カナ文字」の手本とされている。 | 20171115 国宝展W | |
安祥寺 | 木造五智如 来坐像 五躯(安祥寺) | ![]() ![]() |
真言宗の入唐僧、恵運が仁明天皇の女御、藤原順子を檀越(施主)として開いた安祥寺に伝わる金剛界五智如来像。重厚で単純化された造形に当代密教彫刻の特徴をよく示 す。製作年代や安置場所について諸説あったが、近年の研究や寺地調査の進展により、 山上に造営された上寺伽藍の中心堂宇、礼仏堂の像として、仁寿元年(851)から貞観元年(859)までの間に造られたという見解が有力となっている。初期密教彫刻の 最重要作例の一つである。 (平安時代) | − | |
石清水八幡宮 | 石清水八幡宮本社10棟(京都・石清水八幡宮) | ![]() |
平成28年2月9日付。石清水八幡宮本社10棟(本殿・摂社武内社本殿・瑞籬・幣殿及び舞殿・楼門・東門・西門・廻廊3棟)及び附(つけたり)・棟札3枚を国宝に指定、同法第28条第1項の規定に基づき告示されました。 | 石清水八幡宮 | 20150522 石清水八幡宮 |
宇治上神社 | 宇治上神社拝殿 | ![]() |
拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。 | ウィキペディア | 20110227 宇治上神社 |
宇治上神社 | 宇治上神社本殿 | ![]() |
宇治川を挟んだ平等院の対岸にある。創始は明らかでないが、平等院鳳凰堂の完成後、宇治に来訪する貴族の信仰も厚かった。本殿は外観が特異であるが、規模の違う一間社流造の内殿三棟を覆屋で囲んだ形式で、内殿は全国に普及した流造の典型。建立年代は細部の手法から12世紀前期と推定され、神社建築として最古の遺構である。 | ウィキペディア | 20110227 宇治上神社 |
海住山寺 | 海住山寺五重塔 | ![]() |
この塔の特徴は初層の屋根の下に裳階(もこし)と呼ぶ庇を設ける点である。裳階をもつ五重塔としては法隆寺五重塔の例があるが、現存する平安 - 鎌倉時代の五重塔では海住山寺塔のみである。 | ウィキペディア | 20120310 海住山寺 |
蟹満寺 | 銅造釈迦如来坐像(蟹満寺) | ![]() |
像高240.0p。本来は鍍金がほどこされていたが、頬のあたりに鍍金の痕跡を残すのみで像表面は黒色を呈する。右手は胸の辺に上げ第一指と第二指で輪をつくり、左手は掌を上にして膝上に置き、第三指を軽く曲げる。材質、像高、前述の両手の印相などの図像的特色を含め、奈良・薬師寺金堂薬師三尊の中尊薬師如来像との類似が指摘される。様式的には興福寺仏頭と薬師寺像の中間に蟹満寺像を位置付けるのが通例であるが、天平期(8世紀)に入っての作とみなす説もある。 | ウィキペディア | 20121022 蟹満寺 |
上賀茂神社 | 賀茂別雷神社本殿 | ![]() |
賀茂別雷神社(上賀茂神社)にある江戸時代末期文久3年(1863)造替の建造物で平安時代の建築様式を残す。三間社の流造り、屋根は桧皮葺で、流造の代表建造物 | 京都観光Navi | 20180314 上賀茂神社 |
上賀茂神社 | 賀茂別雷神社権殿 | ![]() |
賀茂別雷神社(上賀茂神社)にある江戸時代造替の国宝建造物。本殿と同じく、文久3年(1863)に造替された三間社の流造。権殿は本殿が非常の場合に神儀を遷す御殿で、調度品まで本殿に準じている。 | 京都観光Navi | 20180314 上賀茂神社 |
願徳寺 | 木造菩薩半跏像(伝如意輪観音)(宝菩提院願徳寺) | ![]() |
肉体とそれを覆う衣、そこにできる皺(しわ)を完璧にとらえた一木彫の名作です。瞳に黒い珠を嵌め、二重瞼で切れ長な眼の表情は異国的で、中国・唐代彫刻との強い関連性がうかがえるでしょう。宝菩提院願徳寺はかつて長岡京の北域(向日市寺戸町)にありました。後に荒廃したため、この像をはじめとする諸仏は花の寺として知られる勝持寺(京都市西京区大原野所在)に一時移動安置されていましたが、近年、勝持寺の近くに復興されています | - | |
観音寺
|
木心乾漆十一面観音立像(観音寺) | ![]() |
天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。 一木式木心乾漆造(いちぼくしきもくしんかんしつづくり)、漆箔(しっぱく)(下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工)仕上げ。 立像は度重なる修理によって形を変えていた部分もあったが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられた | 京田辺観光協会 | 20121022 観音寺 |
北野天満宮 |
北野天満宮本殿・石の間・拝殿・楽の間(1棟) | ![]() |
北野天満宮の今の建物は慶長十二年(一六〇六)豊臣秀ョが造営したもので、拝殿と本殿を石の間で連絡した権現造になる。 拝殿の東西に楽の間を、本殿の西に脇殿を附属している。 内部石の間の構架は雄大な手法をあらわし屋根も変化に富んでいて、所謂八棟造の形式になる。 近世初期神社建築の代表的な遺構である | ウィキペディア | 20080106 北野天満宮 |
北野天満宮 | 北野天神縁起 (北野天満宮 紙本著色 8巻) | ![]() |
天神縁起を題材とした鎌倉時代の絵巻。詞書序文によれば鎌倉時代の承久年間の製作で、「根本縁起」または「承久本」と通称される。天神縁起絵巻は菅原道真の栄華と左遷、道真の怨霊による都における変異と北野天神の利生記で構成され、天神信仰の成立に伴い数多く製作された | ウィキペディア | |
清水寺 | 清水寺本堂 | 本堂は寛永六年焼失後同十年竣工したものである。堂は竣崖によって建てられたい舞台造で、複雑な平面及び屋根の構成は変化に富んだ意匠をしている。京都地方に於ける江戸時代初期の優れた復古建築の一つである | 清水寺 | 20070105 西国第16番 清水寺 | |
教王護国寺(東寺) | 教王護国寺 金堂 | ![]() |
東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。 | 20130504 東寺(教王護国寺) | |
教王護国寺(東寺) | 教王護国寺 五重塔 | 東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手にはじまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。 | 20130504 東寺(教王護国寺) | ||
教王護国寺(東寺) | 教王護国寺 大師堂(西院御影堂) | ![]() |
かつて空海が住房としていた、境内西北部の「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。昭和33年(1958年)の国宝指定時の名称は「大師堂」であるが、寺では主に「御影堂」の名称を用いている。 | 20130504 東寺(教王護国寺) | |
教王護国寺(東寺) | 教王護国寺 蓮花門 | ![]() |
鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側、壬生通りに面して建つ | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 | |
教王護国寺(東寺) | 観智院 客殿 | ![]() |
鎌倉時代、後宇多法皇によって東寺の寺僧の住房が計画され、南北朝時代の延文4年、1359年頃に杲宝が創建しました。杲宝の弟子、賢宝は、本尊の五大虚空蔵菩薩を安置しました。 ここで杲宝や賢宝は、東寺に伝わる数多くの文書類を編纂。杲宝や賢宝が集めた密教の聖教類は1万5千件以上あり、その数もさることながら質的水準も高く、わが国における貴重な文化遺産となっています。 |
20180615 東寺 | |
教王護国寺(東寺) | 弘法大師請来目録(伝教大師筆)(教王護国寺) | ![]() |
空海が唐から持ち帰った品の目録、筆者は最澄 | ||
教王護国寺(東寺) | 両界曼荼羅図 (教王護国寺 絹本著色 2幅) | ![]() |
日本に伝わる両界曼荼羅のうち、もっとも著名なもの。鮮烈な色彩とインド風の濃い諸仏の官能的な肢体が特色。「西院曼荼羅」とも称する。平安初期、9世紀の作 | ||
教王護国寺(東寺) | 五大尊像 (教王護国寺 絹本著色 5幅) | 宮中で正月の8日から14日までの間行われた後七日御修法(ごしちにちのみしほ:天皇の健康を祈る密教の修法)の際に道場に掛けられた仏画。平安後期の作 |
|
||
教王護国寺(東寺) | 十二天屏風 (教王護国寺 絹本著色 六曲一双) | ![]() |
建久2年、1191年に絵仏師の託間勝賀(たくま しょうが)が描いたもので、平安時代の灌頂儀式で行われていた十二天の行列の代わりに用いられました。明確な輪郭線と鮮やかな色彩で描かれた動きのある十二天の姿には、かつて儀式の際に行われた行列の様子を彷彿とさせるものがあり、宋画の画法を全面的に活用した鎌倉仏画の幕開けを告げる作品としても重要です。 | ||
教王護国寺(東寺) | 後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(教王護国寺) | ![]() |
「宸翰」は「天皇の自筆」の意。弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の翌年に東寺の発展を願って書き記したもの | ||
教王護国寺(東寺) | 弘法大師筆尺牘三通(風信帖)(教王護国寺) | ![]() |
「尺牘」とは漢文体の手紙のこと。空海自筆の手紙3通を巻物に仕立てたもので、日本書道史上きわめて貴重な作品である。1通目の手紙(最澄あて)の冒頭の「風信雲書」という句にちなんで「風信帖」と通称される。 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
教王護国寺(東寺) | 真言七祖像 (教王護国寺 絹本著色 7幅) | ![]() |
真言宗の祖師7人の肖像画。7幅のうち5幅は空海が唐から持ち帰ったもので、損傷甚大とはいえ、唐時代絵画の数少ない遺品としてきわめて貴重 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | |
教王護国寺(東寺) | 木造五大菩薩坐像 4躯(中尊像を除く、講堂安置)(教王護国寺) | ![]() |
金剛波羅蜜菩薩(金剛波羅蜜多菩薩とも)を中心に、周囲に金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩埵の各像を配す。中尊の金剛波羅蜜菩薩像は江戸時代の作。他の4体は後世の補修が多いが、当初像である。一木造に乾漆を併用し、作風・技法ともに奈良時代風が強い。金剛波羅蜜像を除く4躯が「木造五大菩薩坐像 4躯」として国宝に指定され、金剛波羅蜜像は国宝の附(つけたり)指定とされている |
|
|
教王護国寺(東寺) | 木造五大明王像(講堂安置)(教王護国寺) | ![]() |
不動明王像を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王像を配す。東寺御影堂の不動明王像とともに、明王像としては日本最古の作例である。 | ||
教王護国寺(東寺) | 木造梵天坐像・帝釈天半跏像(講堂安置)(教王護国寺) | ![]() |
梵天像は法隆寺などにある奈良時代の像と異なり、4面4臂の密教像であり、4羽の鵞鳥が支える蓮華座上に坐す。帝釈天像は甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。 | ||
教王護国寺(東寺) | 木造四天王立像(講堂安置)(教王護国寺) | ![]() |
4体のうち持国天像は表情に怒りをあらわにし、激しい動きを見せるが、他の3体(増長天、広目天、多聞天)の表現は抑制されている。多聞天像は後補部分が多いが、修理の際に後世の彩色を除去したところ、面部などは当初部分が良好に保存されていることが確認された | ||
教王護国寺(東寺) | 木造弘法大師坐像(康勝作、御影堂安置)(教王護国寺) | ![]() |
東寺の親厳の依頼により、天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したもので、空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。 | ウィキペディア | 20180615 東寺 |
教王護国寺(東寺) | 木造不動明王坐像(御影堂安置)・木造天蓋(教王護国寺) | ![]() |
大師堂(御影堂)安置 |
ウィキペディア | |
教王護国寺(東寺) | 木造僧形八幡神坐像一・木造女神坐像二 3躯(教王護国寺) | ![]() ![]() |
鎮守八幡宮安置。平安初期の作。日本の神像の最古作の1つ | ウィキペディア | |
教王護国寺(東寺) | 木造兜跋毘沙門天立像(教王護国寺) | ![]() |
像高189.4cm。もと平安京の羅城門楼上に安置されていた像。天元3年(980年)羅城門が倒壊したとき、何者かによって、瓦礫の中から掘りだされ、東寺に運ばれたという。使われている木は、中国産の魏氏桜桃である。中国・唐時代の作。宝物館に安置。 | ウィキペディア | |
教王護国寺(東寺) | 密教法具 一具(伝弘法大師将来)(教王護国寺) | ![]() |
弘法大師請来目録(大同元年10月23日)に記載があるもので、『東宝記』によると永久六年後七日御修法道具目録にも記されている。その後唐櫃に納め伝え、弘法大師請来依頼、真言密教根本の修法道具として相承してきたものである。本来は九種あったものであるが、再々の盗難などによって紛失、補充されたりしたが、本五鈷鈴、五鈷杵、金剛盤は請来当初のもので、その様相が極めて力強い。 | ||
教王護国寺(東寺) | 海賦蒔絵袈裟箱(教王護国寺) | 空海将来と伝える犍陀穀糸袈裟を納めていた箱で、『養和二年後七日御修法記』に「蒔絵文海賦箱一合 同付封納 軋陀穀子袈裟一帖」の記載があり、養和二年(1182)には犍陀穀糸袈裟を納めていたことが分かる。黒漆地に金粉を淡く蒔き、波は銀で、飛鳥や魚は金の研出蒔絵で表している。平安時代の蒔絵を知る上で重要な遺品である。 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 | ||
教王護国寺(東寺) | 紫檀塗螺鈿金銅装舎利輦(教王護国寺) | ![]() |
舎利会(しゃりえ:仏陀の遺骨をたたえる年中行事)で用いるもので、神社の神輿に似ている。「紫檀塗螺鈿金銅荘」とは、黒漆塗に朱漆で木目を描き(紫檀塗)、螺鈿(貝殻を用いた装飾)と金銅(銅に金メッキしたもの)で飾ったという意味である。 | ウィキペディア | |
教王護国寺(東寺) | 犍陀穀糸袈裟・横被(教王護国寺) | ![]() |
空海が入唐中に青竜寺の恵果(けいか)阿闍梨から授けられたと伝える袈裟で、『御請来目録』中にもその名が見える。 | ||
教王護国寺(東寺) | 木造天蓋 | ![]() |
平安時代前期(9世紀)の「天蓋」(国宝)は、八葉蓮華、外縁吹き返し蓮弁に宝相華文などがある。西院御影堂、不動明王像上に飾られていた | 東寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
教王護国寺(東寺) | 東宝記 12巻1冊(教王護国寺) | ![]() |
東寺学衆杲宝(ごうほう)の編纂した東寺の歴史。仏宝,法宝,僧宝の3編8巻にわけ,東寺の歴史,堂塔,仏像,法具,聖教,法会,僧職について,文書・記録等を豊富に引用しつつ明らかにする。1352年(正平7‖文和1)杲宝が編した草稿本は6巻であったが,南北朝末期から室町初期にかけてその弟子賢宝が増補を加えた。草稿本・清書本12巻1冊が現存し,国宝に指定されている。 | ウィキペディア | |
鞍馬寺 | 鞍馬寺経塚遺物 (鞍馬寺 平安 - 鎌倉時代) | ![]() |
花背別所経塚(はなせべっしょきょうづか)のある場所は鞍馬寺の門前からさらに山道をのぼり花背峠を越えた北側、標高(ひょうこう)700m付近の尾根筋(おねすじ)にあたります。ここに経塚がつくられたのは平安(へいあん)時代のおわり、12世紀中頃のことでした。 | 京都国立博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
鞍馬寺 | 木造毘沙門天及吉祥天・善膩師童子立像(鞍馬寺) | ![]() |
本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊はいずれも秘仏であり60年に一度丙寅の年のみ開帳されるが、秘仏厨子の前に「お前立ち」と称する代わりの像が常時安置されている。 | ウィキペディア | 20180314 鞍馬寺 |
高山寺 | 高山寺石水院(五所堂) | ![]() |
右京区栂尾高山寺にある鎌倉時代建築の国宝建造物。五所堂ともいい、貞応3年(1224)、後鳥羽上皇の賀茂の別院を賜ったものと伝えられる。 | ウィキペディア | |
高山寺 | 仏眼仏母像 (高山寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
仏眼仏母(ぶつげんぶつも)は三世諸仏能生(さんぜしょぶつのうしょう)の母とされ、仏智を表す。白身、白衣に獅子冠を戴き、大白蓮に座す姿は瑜経(ゆぎきょう)に基づく。画上に明恵自筆の賛があり、和歌「もろともにあはれとおぼせわ仏よきみよりほかにしる人もなし」(原文片仮名)が添えられる。賛に「无耳法師之母御前也(みみなしほうしのははごぜんなり)」とあるように、8歳で父母を失った明恵は、生涯、釈迦を父、仏眼仏母を母として慕った。 | 高山寺 | |
高山寺 | 明恵上人像 伝(恵日坊成忍筆 (高山寺 紙本著色 1幅) | ![]() |
明恵は貞応元年(1222)に栂尾へ還住し、最晩年を過ごす。高山寺の後山、楞伽山には、上人坐禅の遺跡(華宮殿〈けきゅうでん〉、羅婆坊〈らばぼう〉、縄床樹〈じょうしょうじゅ〉など)が今も残る。華宮殿の西に二股に分かれた一株の松があった。縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。図上の賛によれば、この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。明恵の近侍、恵日坊成忍(じょうにん)の筆といわれ、明恵の人となりをよく伝える。 | 高山寺 | |
高山寺 | 華厳宗祖師絵伝 伝恵日坊成忍筆 (高山寺 紙本著色 7巻) | ![]() |
華厳縁起とも称する。もと義湘(ぎしょう)絵4巻、元暁(げんぎょう・がんぎょう)絵2巻からなり、別筆である。その後損失、錯簡のある各3巻の形態で長く伝えられたが、平成8年(1996)の修理で、義湘絵4巻、元暁絵3巻に改められた。義湘と元暁は新羅華厳宗の祖師である。義湘絵は女人善妙との物語を、元暁絵は王妃治癒の物語を中心に展開する。高僧伝絵の最初期を飾る優品 | 高山寺 | |
高山寺 | 鳥獣人物戯画 (高山寺 紙本墨画 4巻) | ![]() |
高山寺を代表する宝物である。現状は甲乙丙丁4巻からなる。甲巻は擬人化された動物を描き、乙巻は実在・空想上を合わせた動物図譜となっている。丙巻は前半が人間風俗画、後半が動物戯画、丁巻は勝負事を中心に人物を描く。甲巻が白眉とされ、動物たちの遊戯を躍動感あふれる筆致で描く。甲乙巻が平安時代後期の成立、丙丁巻は鎌倉時代の制作と考えられる。 | 高山寺 | |
高山寺 | 篆隷万象名義 6冊(高山寺) | ![]() |
現存最古の日本製辞書である。弘法大師空海の撰。前半部(1〜4帖)と後半部(5・6帖)に分かれる。前半は冒頭に「東大寺沙門大僧都空海撰」とあり、830年頃に空海が編んだもの。後半は別人による続撰。高山寺本が唯一の古写本である。 | 高山寺 | |
高山寺 | 玉篇 巻第廿七(前半)(高山寺) | ![]() |
玉篇(ぎょくへん)は六朝期に編まれた中国古代を代表する字書である(全30巻、梁・顧野王編、543年成立)。部首分類体をとり、見出字に対して音と意味を注する。注には先行諸書からの豊富な引用が見られる。学びの根底をなす書物であり、日本の学芸に与えた影響は計り知れない。その写本は中国ではやくに亡び、日本にのみ伝わる。 | 高山寺 | |
高山寺 | 冥報記 3巻(高山寺) | ![]() |
7世紀半ばに編まれた中国の仏教説話集。吏部(りぶ)尚書唐臨撰。因果応報にまつわる説話を収録して、広く世に行われたが、中国では後に散逸し、日本にのみ残存する。高山寺本は現存最古の写本であり、53の説話をおさめる。 | 高山寺 | |
高桐院 | 山水図 伝李唐筆、高桐院 絹本著色 1幅) | ![]() |
高桐院の開創以来伝わる2幅の山水画で、南宋の宮廷画院の画家であった李唐(りとう)の作品である。2幅のうち1幅に描かれた樹木の部分に「李唐画」の隠し落款(サイン)があることが確認されている | ウィキペディア | 20171017 国宝展U |
光明寺 | 光明寺二王門 | 現存する二王門は、棟札の記載によれば仁治3年(1242年)から建長5年(1253年)にかけて建立されたものである。棟札によれば、門の再興には延暦寺西塔院の僧・覚承が関わっており、この頃は天台系寺院であったことが伺われる。 | ウィキペディア | 20171025 光明寺 | |
広隆寺 | 広隆寺桂宮院本堂 | ![]() |
桂宮院本堂(国宝)−境内の西側、塀で囲まれた一画にある。聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年)、中観上人澄禅による当堂建立のための勧進帳があることから、おおむねその頃の建立と推定される。堂内の八角形の厨子も堂と同時代のもので、国宝の附(つけたり)として指定されている。本尊の聖徳太子半跏像(鎌倉時代、重要文化財)は霊宝殿に移されている。建物は原則として非公開。 | ウィキペディア | |
広隆寺 | 広隆寺縁起資財帳(広隆寺) | 寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(ともに国宝)が伝わり、9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。 | ウィキペディア | ||
広隆寺 | 広隆寺資財交替実録帳(広隆寺) | 『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数年後に点検し、異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが、『実録帳』の記載によってその欠落部分を補うことができる。 | ウィキペディア | ||
広隆寺 | 木造弥勒菩薩半跏像(広隆寺) | 広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。 | ウィキペディア | 20130526 広隆寺 | |
広隆寺 | 木造阿弥陀如来坐像(講堂安置)(広隆寺) | ![]() |
講堂本尊。像高261.5センチメートル。両手を胸前に上げ、説法印を結ぶ。『資財帳』及び『実録帳』の講堂の項に「故尚蔵永原御息所願」とある像に該当し、承和年間(840年頃)の作とみられる。巨大なヒノキの一材から頭・体の根幹部を彫出し、像表面には厚く木屎漆を盛り上げて整形している。二重円相の光背と裳懸座は一部に後補があるものの、当初のものを残している。[ | ウィキペディア | 20130526 広隆寺 |
広隆寺 | 木造不空羂索観音立像(広隆寺) | 像高313.6センチメートル。霊宝殿に安置。奈良時代末〜平安時代初期(8世紀末〜9世紀初)の作。『実録帳』の金堂の項に「本自所奉安置」(弘仁9年・818年の広隆寺の火災以前から安置されていた、の意)として7体の仏像が列挙されているが、そのうちの「不空羂索菩薩檀像」とあるものに該当する。 | ウィキペディア | 20130526 広隆寺 | |
広隆寺 | 木造千手観音立像(広隆寺) | ![]() |
像高266.0センチメートル。もと講堂に安置され、現在は霊宝殿に安置。平安時代初期、9世紀の作。 | ウィキペディア | 20130526 広隆寺 |
広隆寺 | 木造十二神将立像(広隆寺) | ![]() |
像高は113 - 123センチメートル。霊宝殿に安置。『広隆寺来由記』によれば、康平7年(1064年)、仏師長勢の作。長勢は定朝の弟子にあたる。12体の作風はいくつかのグループに分かれ、12体すべてが長勢の作とはみなしがたい。片目をつぶり、矢の調整をしているさまを巧みに表現した安底羅大将像など数体が長勢の作に帰されている。 | ウィキペディア | 20130526 広隆寺 |
籠神社 | 海部氏系図(京都・個人蔵)宮津市 籠神社の社家、海部氏蔵 | ![]() |
丹後宮津の籠【この】神社の宮司家海部氏に歴代相承の秘巻として伝来した籠名神社祝部氏系図である。海部氏系図は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻とからなる。ともに古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、昭和50年(1975年)6月に重要文化財、翌51年(1976年)6月に国宝の指定を受けた。 | ウィキペディア_ | |
金地院 | 溪陰小築図 (金地院 紙本墨画 1幅 室町時代) | ![]() |
南禅寺の僧、子璞(しはく)のために、友人が子璞の心の中の書斎を描き、多くの高僧が詩と序文を書き添えて、応永20年(1413)にこの作品は成立した。室町時代の五山(ご ざん)派の禅院では、本図のように多数の漢詩文を備える掛軸(詩画軸しがじく)が盛んに制作された。本図は詩画軸の全盛期に、しかもその流行の中心地である南禅寺で作られており、詩画軸の代表作とされる。 | - | 20171107 国宝展V |
金地院 | 秋景・冬景山水図 伝徽宗筆 (金地院 絹本著色 2幅) | ![]() |
本図は室町幕府三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)が所有して以来、中国絵画の傑作として名高く、その詩情のゆたかさと品格の高さゆえに、わが国に伝来した宋画(そうが)の中でも名品中の名品とされる。 | - | 20171017 国宝展U |
建仁寺 | 風神雷神図 俵屋宗達筆 (建仁寺 紙本金地著色 二曲一双 江戸時代) | ![]() |
款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、さらにそのあとの酒井抱一も、これを模倣した作品を制作しているのは、彼らもまた、この屏風が宗達筆であることを微塵も疑っていなかったからである。ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある | 京都国立博物館 |
|
孤篷庵 | 井戸茶碗 銘・喜左衛門 | ![]() |
朝鮮王朝時代(15 - 16世紀)の作。「井戸茶碗」は朝鮮半島では日用雑器として作られた茶碗を日本の茶人が茶器に見たてたもの。この「喜左衛門井戸」は、井戸茶碗と称される一群の茶碗の中でも古来名品と称され、江戸時代から著名なものである。 | ウィキペディア | 20171107 国宝展V |
三千院 | 木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(往生極楽院阿弥陀堂安置)(三千院) | ![]() |
往生極楽院の本尊。脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年(久安4年)の作とわかる。阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定 | ウィキペディア | |
三宝院 | 三宝院表書院 | ![]() |
庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間があります。下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。 | 醍醐寺 | 20170519 醍醐寺三宝院 |
三宝院 | 三宝院唐門 | ![]() |
門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門(勅使門)が唐門です。創建時は、門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年7月、約1年半をかけ、往時の壮麗な姿に修復されました。 | 醍醐寺 | 20070503 上醍醐 |
下鴨神社 | 賀茂御祖神社東本殿 | ![]() |
いわゆる下鴨神社であって、すでに二十四棟が一括指定されているが、いずれも本社関係建物のみであるので、楼門以内に存在する叉蔵(校倉)、摂社出雲井於神社本殿、摂社三井神社本殿(三棟)、同拝殿、同棟門、同東西廊下の九棟を追加した。いずれも既指定建物と同じく寛永六年(一六二九)の造営になるものである。 | 京都観光Navi | 20080706 下鴨神社 |
下鴨神社 | 賀茂御祖神社西本殿 | ![]() |
いわゆる下鴨神社であって、すでに二十四棟が一括指定されているが、いずれも本社関係建物のみであるので、楼門以内に存在する叉蔵(校倉)、摂社出雲井於神社本殿、摂社三井神社本殿(三棟)、同拝殿、同棟門、同東西廊下の九棟を追加した。いずれも既指定建物と同じく寛永六年(一六二九)の造営になるものである。 | 京都観光Navi | 20080706 下鴨神社 |
聚光院 | 聚光院障壁画 狩野松栄・狩野永徳筆 (聚光院 紙本墨画 38面) | ![]() |
方丈障壁画 38面(附8面) - 狩野永徳とその父狩野松栄の作。聚光院創建時の永禄9年(1566年)の作とされる。同年の作とすれば永徳24歳の作である。障壁画のオリジナルは保存のため京都国立博物館に寄託され、方丈にはデジタル技術による高精度の複製が設置されている | ウィキペディア_ | 20171107 国宝展V |
上品蓮台寺 | 絵因果経 (上品蓮台寺 紙本著色 1巻) | ![]() |
このお経は、「絵因果経」と呼ばれているもので、紙の下半分にはお経が書き写されていますが、上半分には下のお経にある代表的な場面を絵で表したものなのです。そのお経の正しい名前は、『過去現在因果経』といって、お釈迦さまの前世の修行物語から始まり、お釈迦さまがどのような原因で人間の根源的な苦しみや迷いから開放されて、仏さまという悟りの結果を得たのかということを物語風に説いたものです。いえば、お釈迦さまの伝記のようなお経です | 20171017 国宝展U | |
浄瑠璃寺 |
浄瑠璃寺本堂(九体寺本堂) | ![]() |
堂内は板敷きで、身舎の奥寄りに横長の須弥壇を設け、9体の阿弥陀如来坐像を横一列に安置する。天井は身舎、庇とも、天井板を張らず、垂木などの構造材を見せる「化粧屋根裏」とする。安置する9体の阿弥陀如来像のうち、中尊は他の8体より像高が大きく、中尊を安置する堂中央部分の柱間は他の柱間より2倍近く広くなっている | 20120310 浄瑠璃寺 | |
浄瑠璃寺 |
浄瑠璃寺三重塔(九体寺三重塔) | ![]() |
三重塔(国宝)は、『浄瑠璃寺流記事』によると1178年(治承2年)、京都の一条大宮から移建したとするが、もともとどこの寺院にあったものか不明である。構造上の特色は、初層内部には柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。浄瑠璃寺に移築された後、初層内部に仏壇を置きその上に薬師如来像(重文、秘仏)が安置された。初層内部の壁面には十六羅漢像などの壁画が描かれている | ウィキペディア | 20120310 浄瑠璃寺 |
浄瑠璃寺 |
木造阿弥陀如来坐像 9躯(本堂安置)(浄瑠璃寺) | ![]() |
阿弥陀如来像を9体安置するのは、『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づくもので、藤原道長建立の無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)をはじめとして、記録に残るものは多数あるが、平安時代の作品で現存するものは浄瑠璃寺像のみである | ウィキペディア | 20120310 浄瑠璃寺 |
浄瑠璃寺 |
木造四天王立像(浄瑠璃寺) | 平安時代後期の作。当初の彩色と截金文様がよく残っている。4体のうち広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託。他2体(持国天、増長天)は本堂内に安置 | ウィキペディア | 20120310 浄瑠璃寺 | |
神護寺
|
両界曼荼羅図 (神護寺 紫綾金銀泥絵 2幅) | ![]() |
現存最古の両界曼荼羅図。淳和天皇の御願により、空海の指導のもと、天長6年(829)から天長10年(833)の間に、大同元年(806)に空海が唐から請来した原本あるいは弘仁12年(821)の第一転写本を手本として彩色を金銀泥に置き換え、神護寺の灌頂堂用として制作された曼荼羅です。空海請来本の様式をほぼそのまま伝えるものとして古くから重要視されています | 神護寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
神護寺 | 伝源頼朝像(神護寺三像) (神護寺 絹本著色 3幅) | ![]() |
所有者は神護寺。伝頼朝像、伝重盛像は京都国立博物館、伝光能像は東京国立博物館にそれぞれ寄託されている。毎年5月1日から5日に開かれる神護寺の曝涼(虫干し)展では、伝頼朝像、伝重盛像の2像は神護寺に里帰りし一般公開される(有料)。伝光能像も、東博の常設展などで定期的に公開される | 神護寺 | 20171107 国宝展V |
神護寺 | 伝平重盛像(神護寺三像) (神護寺 絹本著色 3幅) | ![]() |
日本では特に、像主の強い意志と剛健さが感じられる伝源頼朝像の評価が高い。伝平重盛像は、アンドレ・マルローによって紹介されたことでヨーロッパで高評価を受けており、ルーブル美術館で展示されたこともある。伝藤原光能像は、前二像と比べると人物表現などの面で明瞭な差異がある | 神護寺 | 20171107 国宝展V |
神護寺 | 伝藤原光能像(神護寺三像) (神護寺 絹本著色 3幅) | ![]() |
作者は藤原隆信と伝えられている。一見して共通性の高い像だが、研究の進展により三像には描法や裏彩色などに違いがある。画風は大和絵に宋画の手法を加味したものと評され、ひげ、眉、睫毛、髪の生え際などは細かく線を重ねる丁寧な墨描きで表現され、伝頼朝像の面部にはごく淡い朱色の隈取りをほどこして立体感を表出している。伝重盛像は面部などの画面に損傷が多く、上畳の前方のへりの文様はほとんど消失している。伝光能像は他の2像より少し遅れた時期に作られ、やや作風が劣ると評されている | 神護寺 | 20171107 国宝展V |
神護寺 | 山水屏風 (神護寺 絹本著色 6曲1隻) | ![]() |
真言密教の寺院において灌頂の儀式のときに用いられる屏風で、もともとは貴族の邸宅の調度品であった。それが、貴族の加持祈祷が行われるようになって、寺院用として制作されるようになった。東寺旧蔵の山水屏風が大和絵の中に唐装の人物を描くのに対して、神護寺本では風景も建物も人物も大和絵になりきっている | 神護寺 | |
神護寺 | 釈迦如来像 (神護寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
神護寺では、高雄山寺時代から法華会を開いており、高雄の法華会はのちのちまで神護寺の名高い行事であった。この釈迦如来像も、おそらく法華会に用いるために製作されたのであろう。肉身は金色とし、朱衣には七宝つなぎの截金文様に彩色の円花文を散らしている。朱衣の周辺は、反暈または照暈といって、白くぼかされている。仏画の最盛期である院政時代の趣向を反映した優婉な作品 | 神護寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
神護寺 | 灌頂歴名(弘法大師 筆)(神護寺) | ![]() |
空海が密教の入門儀式である結縁灌頂を行った手控えで、弘仁三年(812)十一月、十二月、翌年三月の三回分の記録。結縁者の筆頭に最澄の名が記されているのも印象的である | 神護寺 | |
神護寺 | 文覚四十五箇条起請文(藤原忠親筆)(神護寺) | ![]() |
神護寺を中興した文覚上人が、元暦二年(1185)正月十九日に定めた四十五箇條にわたる起請文である。はじめ後白河法皇や源頼朝の助けによって神護寺が復興した経緯を述べ、「寺僧は一味同心の事」よりはじめて、専学修業・寺務の粛正・寺領の維持経営など寺内の者が遵守すべき規律を、微に入り細を穿ち列記している | 神護寺 | |
神護寺 | 木造薬師如来立像(金堂安置)(神護寺) | ![]() |
見据えるような鋭いまなざし、太い鼻筋と肉付きよい小鼻、思い切って突き出しへの字に引き締めた唇。拝するものに畏怖の念を起こさせるこのような異相は禁欲的な山岳修行者の存在が生み出したものかもしれない。高雄山神護寺国宝薬師如来立像 唐招提寺薬師如来像とくらべて胸と腹が小さく、腰以下が強調されて圧倒的な重量感を印象付ける | 神護寺 | 20140102 神護寺 |
神護寺 | 木造五大虚空蔵菩薩坐像(多宝塔安置)(神護寺) | ![]() |
本像は五体とも像高90センチメートルあまり。ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる。 肉身の色は中尊の法界虚空蔵が白色、東方尊金剛虚空蔵は黄色、南方尊宝光虚空蔵は緑色、西方尊蓮華虚空蔵は赤色、北方尊業用虚空蔵は黒色に塗り分けられている |
神護寺 | |
神護寺 | 梵鐘 貞観十七年八月二十三日冶工志賀部海継在銘(神護寺) | ![]() |
本鐘は、「三絶の鐘」と称して名高いものである。三絶とは、則ち銘文序を橘広相、菅原是善の選、藤原敏行の書という、当代一流の名家の手になることによる | - | 20140102 神護寺 |
真珠庵 | 大燈国師墨蹟(看読真詮榜)(真珠庵) | No Images | 看読真詮榜、俗に看経榜とも呼ぶ。内容は、7月の盂蘭盆会や正月の修正絵などの際に、経や呪の名を列挙して読み上げることを衆僧に指示する通知 | − | |
真宗大谷派 | 教行信証(親鸞筆)(坂東本)(真宗大谷派) | ![]() |
正式名称は『顕浄土真実教行証文類』という。浄土真宗の教義の綱格と念仏往生の真義を明かした根本聖典である。現存諸本のうち唯一の親鸞真筆本で、全篇に残された記号や朱筆、校合・推敲の筆からは、親鸞の思索の跡をうかがうことができる。坂東報恩寺(現 東京都台東区)に伝来したため「坂東本」とも称される | 朝日新聞 | |
真正極楽寺 | 法華経 自巻第二至巻第七(寿永二年運慶願経)(真正極楽寺) | ![]() |
仏師として名高い運慶[?〜1223]が寿永2年[1183]に発願し書写せしめた『法華経』。この巻第八の奥書から、一定の法式に則って写経が行われた様子が詳細に知られる。また軸木には、治承4年[1180]平重衝によって焼かれた東大寺の柱の残木を使っており、仏師運慶の事績を知る上でも重要な経巻となっている | - | |
崇道神社 |
金銅小野毛人墓誌 (崇道神社 奈良時代) | ![]() |
慶長18年(1613)に今の京都市左京区上高野で古い墓が掘られ、石室の中から1枚の「位牌」が見つけられた。これが小野毛人の墓誌であった | 京都国立博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
清凉寺 | 十六羅漢像 (清凉寺 絹本著色 16幅) | ![]() |
「羅漢」とは「阿羅漢」の略称で、古代インドで「尊敬に値する人」を意味するサンスクリット語を音写したことばです。仏教では、修行を終えて悟りを開いたにもかかわらず、現世の人びとに寄り添って幸福をもたらす超人とされ、とくに中国で厚い信仰を集めました | 京都国立博物館 | 20171115 国宝展W |
清凉寺 | 木造釈迦如来立像(張延皎并張延襲作 「然将来 本堂安置)(清凉寺) | ![]() |
清凉寺(嵯峨釈迦堂)にある北宋代の国宝彫刻。本堂内に安置される像高さ162cmの本尊で、「嵯峨の釈迦」と呼ばれる。「然上人が寛和元年(985)、宋で模刻させ日本に持ち帰ったもので、胎内には模刻された時に納入されていた絹の五臓六腑が入っていた。異国的な姿が特徴的である | - | 20121014 清凉寺 |
清凉寺 | 像内納入品一切(清凉寺) | ![]() |
清涼寺の釈迦如来像は、内臓を内臓した釈迦如来像。他にも、胎内から、造像にまつわる文書、「然の遺品、仏教版画…などなど “小さな正倉院” とも呼ばれている | - | 20121014 清凉寺 |
清凉寺 | 木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(棲霞寺旧本尊)(清凉寺) | ![]() |
藤原時代作の国宝(平成3年6月21日)彫刻。旧棲霞寺阿弥陀堂の本尊で現在は、霊宝館に収蔵されている。三尊の中央の阿弥陀如来坐像は、源融が生前に造立発願したもので、脇侍の観音・勢至両菩薩像は湛(たたう)と昇の遺子が亡父の遺志をついで完成したもの。いづれも、木造、漆箔、重厚味に富んだ像で、藤原時代初期の様式をあらわしている | - | 20121014 清凉寺 |
青蓮院 | 不動明王二童子像 (青蓮院 絹本著色 1幅) | ![]() |
激しく燃え盛る焔を背にした青不動明王が、濃茶褐色の画絹に描かれた「絹本着色 青不動明王二童子像」。青不動明王の性格にふさわしい威厳と荘厳さを持つ、大変迫力のあるこの画像は、日本三不動画の一つとして平安時代からたいへん篤く信仰されてきています。 | 青蓮院 | 20091220 青蓮院青不動 |
泉涌寺 | 泉涌寺勧縁疏(俊?筆、承久元年(1219年)十月日)(泉涌寺) | ![]() |
承久元年(一二一九)十月、寺院再興の造営費用として人々の喜捨を募るための趣意書として、揮毫したものである。白や薄紅などの色変わりの紙に、鴛鴦や鳳凰にのる天女などの文様を摺り出した美しい舶載の蠟箋五紙を継いだ料紙を用いる | - | |
泉涌寺 | 附法状(俊?筆、嘉禄三年(1227年)3月22日)(泉涌寺) | No Images | 附法状とは、教法の伝承を師匠から弟子に授けて、後世に伝えさせる書状 | − | |
禅林寺 | 山越阿弥陀図 (禅林寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
なだらかな稜線のつづく山々の向こうから、転法輪印を結んだ阿弥陀如来が、正面を向いて上半身をあらわしている。阿弥陀如来の背後には、穏やかな海が果てしなく広がる。観音菩薩と勢至菩薩は踏みわり蓮華に立ち、白い雲に乗って山を越え、往生人に向かって今まさに来迎せんとする様子が描かれている | 禅林寺 | |
禅林寺 | 金銅蓮花文磬(京都・禅林寺) | ![]() |
鋳銅。低平横長の形で、弧の曲線はやや特異な形を示している。総体に厚手なつくりで、全面に肉取自在に蓮唐草文を鋳出して間に魚子をまき、表裏同文として鍍金している。意匠、形姿とも優れており、鋳技仕上げも美しい。平安時代の華麗な趣味を遺憾なく発揮している | 東京国立博物館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
相国寺 | 玳玻天目茶碗(相国寺) | ![]() |
玳玻天目は中国出土のものがあるが、古くから伝世したものはほとんどなく、特に本茶碗のように文様が整い、釉薬が美しいものは非常に珍しいため、古来より名碗として著名である。江戸時代中期頃には、大阪の上田三郎右衛門が所持していたものを松平不昧公が入手し、大名物として愛玩したと言われる | - | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
相国寺 | 無学祖元墨蹟(与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日)4幅(相国寺) | ![]() |
「墨蹟」とは、本来、書蹟・筆蹟などと同義語で、紙や絹などに墨筆で書かれたもののことですが、日本においては特に禅宗の高僧の書を意味します。 鎌倉時代に中国の禅宗社会との交流が盛んになると、中国・日本両国の高僧たちが遺した書は師から弟子へと仏の教えを伝える証として尊重され、「墨蹟」と呼んで伝承されるようになりました | 大阪市立美術館 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
大覚寺 | 後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺) | ![]() |
後宇多天皇が元亨元年(1321年)に大覚寺が再興された経緯、大覚寺と真言密教が永く興隆をすることを願って定めた遺誡21箇条を記した書 | ウィキペディア | 20171017 国宝展U |
大覚寺 | 後宇多天皇宸翰弘法大師伝(絹本)(大覚寺) | No Images | 唯一の真跡であり、寛元四年(1246)に書かれたもの | − | |
醍醐寺 | 醍醐寺清滝宮拝殿 | ![]() |
永享6年(1434年)に再建、清滝宮は弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社 | ウィキペディア | 20070503 上醍醐 |
醍醐寺 | 醍醐寺金堂 | ![]() |
入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶 | ウィキペディア | 20170519 西国11番 醍醐寺 |
醍醐寺 | 醍醐寺五重塔 | ![]() |
天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、代明親王の死去(937年)などの影響で工事は停滞し、発願の20年後に完成した。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める。屋根の逓減率が大きく[1]、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションにはならない。創建以来修理を重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597年)に修理が完成している | ウィキペディア | 20170519 西国11番 醍醐寺 |
醍醐寺 | 醍醐寺薬師堂 | ![]() |
薬師堂は醍醐寺山上伽藍の主要堂宇で、保安二年(1121)に再建されたのが現在の堂である。 簡素な意匠であるが、蟇股や組物など平安時代の特色をあらわす。 この時代の数少ない遺構の一として貴重なものである | ウィキペディア | 20070503 上醍醐 |
醍醐寺 | 五重塔初重壁画(醍醐寺 板絵著色 18面) | ![]() |
醍醐寺五重塔壁画は、天暦五年(九五一)十月塔の竣工と共に成ったもので、平安時代における壁画として平等院鳳凰堂のそれに並び最も重要な遺例にあげられる。壁画は塔初重内部の心柱覆板、四天柱、連子窓及び腰羽目板に両界曼荼羅の諸尊と真言八祖(善無畏を欠く)をきわめて効果的、立体的に配置し、絵の描写は平安前期以降の密教絵画の伝統にねざしながらも優美かつおおらかな藤原新様式の萠芽を窺わせ、新旧両様式の交錯する十世紀の基準作としてその価値は甚だ高い | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 文殊渡海図 (醍醐寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
鎌倉時代の作品。獅子に乗る文殊菩薩と眷属が雲に乗り大海原を渡る景を描く | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 五大尊像 (醍醐寺 絹本著色 5幅) | ![]() |
鎌倉時代の作品。五大明王は、仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王のうち、中心的役割を担う5名の明王を組み合わせたもの。本来は別個の尊格として起こった明王たちが、中心となる不動明王を元にして配置されたものである | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 閻魔天像 (醍醐寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
鎌倉時代の作品。焔摩天(えんまてん)または閻摩天・閻魔天は、インド神話のヤーマ(Yama)が仏教に取り入れられ、天部となったもの。忿怒の形相の閻魔大王が、鎌倉時代以降に彫像・図像ともに数多く作られたのに比べ、真言宗系の曼荼羅の焔摩天は、インド風の服を着た姿(いわゆる菩薩形)で、温和な表情をしている場合が多い[ | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 訶梨帝母像 (醍醐寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
鎌倉時代の作品。京都醍醐寺三宝院に所蔵されている国宝絹本着色 訶梨帝母像は、天女の姿をした母親である訶梨帝母が 二人の子どもと共に描かれ、母子の愛情が豊かに表現 される仏画である。訶梨帝母とは、ガンダーラを起源とし、多産・豊穣の 神ハーリティーのことである。日本には九世紀に唐から もたらされ、訶梨帝母、鬼子母神などと呼ばれ、安産の神、護法善神として信仰された | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 狸毛筆奉献表(伝弘法大師 筆)(醍醐寺) | ![]() |
弘法大師・空海が、 中国で筆の製法を習いそれによって造った狸毛の筆四管を嵯峨天皇に献上した時の書付で、 空海の真筆とされています。 それによれば、 真書 (楷書) 用・行書用・草書用・写書 (写経) 用の四本の筆を献上したことがわかります | 醍醐寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
醍醐寺 | 絵因果経 (醍醐寺 紙本著色 1巻) | ![]() |
絵因果経は仏伝経典の代表的なものの1つである『過去現在因果経』の写本の一種で、巻子本の下段に経文を書写し、上段に経文の内容を説明した絵画を描いたもので、日本において平安時代以降盛行する絵巻物の原初的形態とみなされている | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 木造薬師如来及両脇侍像(醍醐寺) | ![]() |
上醍醐薬師堂の本尊。半丈六の大きさの薬師如来坐像に、等身よりひとまわり小ぶりの日光・月光菩薩立像が随侍する。薬師堂は醍醐天皇の勅願によって延喜7年(907)に開山聖宝が建立したと伝える。現在の薬師堂は保安2年(1121)の再建だが、三尊像は創建当初のものが伝わったと考えられる | 醍醐寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
醍醐寺 | 木造虚空蔵菩薩立像(京都・醍醐寺) | ![]() |
2015年(平成27年)国宝指定
醍醐寺山内の子院・菩提寺に虚空蔵菩薩として伝えられた像で、台座蓮肉及び天衣垂下部を含み榧の一材より彫出する。作風より九世紀前半の製作とみられる。複雑に交錯する衣文を深く克明に刻み出す彫技は見事で、平安前期檀像の代表作の一つである。 |
醍醐寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
醍醐寺 | 大日経開題(弘法大師筆)(醍醐寺) | ![]() |
真言七祖の一人である一行が著した「大日経疏(だいにちきょうしょ)」(大日経の教えを要約したもの)を、空海が自身の勉強のために抜き書きした自筆の抄録 | 醍醐寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
醍醐寺 | 後醍醐天皇宸翰天長印信(醍醐寺) | ![]() |
この書を書いたのは後醍醐上皇が崩御するわずか2カ月前であるというが、崇敬する空海の書である「天長印信」を書写したこの書は、空海への深い追慕を感じさせる | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 理源大師筆処分状(延喜七年(907年)6月2日)(醍醐寺) | ![]() |
醍醐寺は理源大師を開基として創建。『理源大師筆処分状』は理源大師自筆の書 | 醍醐寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
醍醐寺 | 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(3通)(醍醐寺) | ![]() |
後宇多上皇は出家を果たして法皇となりました。そして徳治三年(1307)二月以降三度にわたり、醍醐寺僧である憲淳から三宝院流の秘法相承を懇望する書状を出しています。それが国宝「後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡」(醍醐寺所蔵)とよばれる、後宇多法皇が憲淳に宛てた三通の書状の総称で、現在はこれらが巻子装一巻に装丁されています。 | 醍醐寺 | |
醍醐寺 | 醍醐寺文書聖教 69,378点(京都・醍醐寺) | ![]() |
醍醐寺にまとまって伝来する聖教類と文書の内容は、醍醐寺の歴史を反映して多岐にわたっている。質量ともに、我が国の寺院に伝来する聖教類、文書中屈指のものであり、宗教史上のみならず、国文学、歴史学上にも学術的価値の高いものである | 醍醐寺 | 20160505 奈良国立博物館 「信貴山縁起絵巻展」 |
醍醐寺 | 宋版一切経 六千百二帖 | ![]() |
本一切経は,南宋初期に印刷刊行さ れたもので,当時の姿を留めるととも にほぼ完存する一切経の代表的な遺品 として貴重である。中には北宋の能書 家である蘇軾(1036〜1101)が書写した経典をそのままに印刻した ものも含まれている。 経箱には慶元四年(1198)銘が確認され,経巻・経箱ともに南宋時代の製作になることが判明した。 (南宋時代) | H29文化財答申 | |
大仙院 | 大仙院本堂 | 大仙院は大コ寺の一塔頭で、本堂は永正十年に建立された方丈である。背面一部に改変のあともあるが、それを除けば、各部の木割細部の手法などに室町時代の特徴がよくみられ、意匠整然として風格もく中世の方丈建築で現存するものが少い今日貴重な遺構ということが出來る | 大仙院 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 | |
大仙院 | 大燈国師墨蹟(元徳二年五月十三日 与宗悟大姉法語)(大仙院) | No Images | 3枚の料紙をつないでおり、一行10字×26行に角ばった文字が丁寧に並んでいる。冒頭に「要越出生死・・・」とあり、悟りの道を示したもののよう。末尾には、「天徳二年五月十三日宗峰写書」とあり、1330年、鎌倉時代のものだとわかる。 | − | |
大徳寺 |
大徳寺方丈及び玄関 | ![]() |
方丈はェ永十三年再建したもので、八室からなる特殊な規模をもち、これに雲門庵が附属している。 各部の意匠手法は簡素明快で、よくまとまっており近世初期における禅宗方丈の一例ということが出來る | ウィキペディア | |
大徳寺 | 大徳寺唐門 | ![]() |
近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する | ウィキペディア | |
大徳寺 | 大燈国師像 (大徳寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
大燈国師、京都の大徳寺の開山。 南北朝時代の作品 | ウィキペディア | |
大徳寺 | 後醍醐天皇宸翰御置文(元弘三年(1333年)8月24日)(大徳寺) | No Images | 後醍醐天皇(1283-1339)元弘の変で隠岐島に流罪となるが、名和一族の働きで隠岐島から脱出し再び挙兵する。足利高氏が天皇方に味方するなどして北条氏を滅亡させる。建武の新政を開始するが、武家を排除した公家中心の政権運営が各方面、特に武士勢力の不満を呼び離反した足利軍に敗北し吉野にて南朝を開く | − | |
大徳寺 | 観音猿鶴図 牧谿筆 (大徳寺 紙本墨画 3幅) | 観音猿鶴図(大徳寺蔵) 三幅対 絹本墨画淡彩 | ウィキペディア | 20171107 国宝展V | |
大徳寺 | 虚堂智愚墨蹟(達磨忌拈香語)(大徳寺) | No Images | 虚堂 智愚(きどう ちぐ、1185年 - 1269年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は智愚、息耕(そくこう)・息耕叟と号し、俗姓は陳。象山の人。運庵普巌の法嗣、門下に霊石如芝、日本僧では南浦紹明らがいる。南浦紹明の弟子が大徳寺の開山・宗峰妙超であるが、大徳寺は茶道と縁が深く、茶道において宗峰の師としての虚堂の墨跡は鎌倉時代から特に重んじられた | − | |
退蔵院 | 瓢鮎図 如拙筆 (退蔵院 紙本墨画 1幅) | ![]() |
奇妙な図柄といい、こうした詩の多さといい、この作品がかなり特殊なものであることは容易に想像できることでしょう | 京都国立博物館 | 20171107 国宝展V |
大報恩寺 | 大報恩寺本堂(千本釈迦堂) | ![]() |
千本釈迦堂大報恩寺は今から約800年前、鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺です。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護を受け、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されています | 大報恩寺 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 |
知恩院 | 知恩院三門 | 三門は,徳川秀忠が元和5年(1619)に建立を発意し,元和7年(1621)に完成し,造営に中井家支配の棟梁があたったことが知られる。形式は五間三戸二階二重門で,左右に山廊が付く。構造細部は禅宗様を基調とし,二階内部は極彩色を施す | 知恩院 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 | |
知恩院 | 知恩院本堂(御影堂) | ![]() |
本堂(御影堂)は,寛永10年(1633)焼失後,徳川家光によって寛永16年(1639)に建立された。桁行11間,梁間9間,入母屋造,本瓦葺の建物である。全体として外観は和様でまとめ,内部は禅宗様の巧みな技法を駆使して柱が林立した空間をつくり,浄土宗本堂の建築的特徴を最大限にあらわしている | 知恩院 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 |
知恩院 | 阿弥陀二十五菩薩来迎図 (知恩院 絹本著色 1幅) | ![]() |
高くそびえ立つ山岳を越え、観音菩薩・勢至菩薩を先頭に阿弥陀如来と諸仏が念仏行者のいる館に来迎する様が描かれています | 知恩院 | |
知恩院 | 法然上人絵伝 (知恩院 紙本著色 48巻) | ![]() |
元祖法然上人の生涯を描いた絵伝ですが、その誕生から入寂に至る行状のほか、法語、消息、著述などの思想もあらわし、さらには門弟の列伝、帰依者(天皇、公家、武家)の事蹟までをも含んで四十八巻に構成されています | 知恩院 | 20170728 源信展 |
知恩院 | 菩薩処胎経 5帖(知恩院) | ![]() |
仏陀の入涅槃の前後を題材とし、母胎内に於いて10ヶ月間説法をするという経典です | 知恩院 | |
知恩院 | 大楼炭経 巻第三(知恩院) | ![]() |
大楼炭経には天上地上の全世界の生起を記した経典。その大楼炭経が唐時代に写経されたもの | ウィキペディア | |
知恩院 | 上宮聖徳法王帝説(知恩院) | ![]() |
聖徳太子の伝記で、5つの部分から構成され、その最も古い成立は、大宝・慶雲(701-707)以前にまでさかのぼるといわれています。太子伝としては最古のもの | 知恩院 | |
智積院 |
智積院障壁画 長谷川等伯・長谷川久蔵筆 (智積院 紙本金地著色 25面 桃山時代) |
金箔をふんだんに使った絢爛豪華な色彩を背景に、力強い桜の大木を描き、そして絵の具を盛り上げる手法を用い、桜の花びらの一枚一枚を大胆に表現しています。まさに花びらの中から、長谷川等伯の子・久蔵の若さ溢れる情熱が眼前に迫ってくるかのようです。久蔵が二十五歳の時の作といわれています。しかし、残念なことに久蔵はこの翌年亡くなりました | 20111008 智積院 | ||
智積院 |
智積院障壁画 長谷川等伯・長谷川久蔵筆 (智積院 紙本金地著色 25面 桃山時代) |
楓図![]() |
「桜図」の完成の翌年に亡くなった息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけましたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、楓図を描き上げたといわれます。桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっばいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されています。 息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる等伯五十五歳の時の作品です |
20111008 智積院 | |
智積院 |
智積院障壁画 長谷川等伯・長谷川久蔵筆 (智積院 紙本金地著色 25面 桃山時代) |
No Images |
智積院の宝物館は、この金碧障壁画が国宝に指定されたことを受けて造られたもので、言わば「障壁画のための宝物館」 | 20111008 智積院 | |
智積院 |
智積院障壁画 長谷川等伯・長谷川久蔵筆 (智積院 紙本金地著色 25面 桃山時代) |
No Images | 智積院に残されている長谷川一門の金碧障壁画は、『楓図』『桜図』のほか、『松に秋草図』『松に黄蜀葵(とろろあおい)図』(いずれも国宝)、そして『松に梅図』『雪松図』『松に立葵図』などがあります | 20111008 智積院 | |
智積院 | 松に草花図 長谷川等伯筆 (智積院 紙本金地著色 二曲屏風一隻 桃山時代) | ![]() |
桃山時代の最高傑作ともよばれるこれらの障壁画。元は智積院の前身、祥雲寺が建てられた際、その重閣造り(二階建て)の本堂や客殿などの内部を飾るために描かれたものです | 20111008 智積院 | |
智積院 | 松に草花図 長谷川等伯筆 (智積院 紙本金地著色 二曲屏風一隻 桃山時代) | ![]() |
現在智積院に残されている祥雲寺時代の遺構は、大書院の「利休好みの庭」の一部と、この障壁画のみだそうで、その点でも希少な存在だといえるでしょう | 20111008 智積院 | |
智積院 | 金剛経(張即之筆)(智積院) | ![]() |
南宋時代の書家・張即之の筆。禅に造詣が深く、 張即之の書風は禅僧の間で流行し、日本には入宋の禅僧らによって早くから伝わった。とくに大楷を得意として注目されたといわれる | - | 20171017 国宝展U |
長福寺 | 花園天皇像 豪信筆 (長福寺 紙本墨画 1幅) | ![]() |
延慶元年(1308年)11月、大覚寺統の後二条天皇の崩御に伴い12歳で即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を敷いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位 | ウィキペディア | |
長福寺 | 古林清茂墨蹟(月林道号 泰定四年三月望日)(京都・長福寺) | ![]() |
『月林道号』(げつりん どうごう)は、泰定4年(1327年)3月、古林が月林道皎に書き与えた「月林」の道号。号のあとに七言絶句一首の偈がある | ウィキペディア | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
東福寺 | 東福寺三門 | ![]() |
応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のもの | ウィキペディア | |
東福寺 | 禅院額字并牌字(東福寺) | ![]() |
東福寺開山円尓が博多に承天寺を建てるに際して、師に当る南宋の高僧無準師範が径山から送った禅院の額字、牌字である。のち、円尓が東福寺に移って同寺に伝来した。十九幅のうち額字二幅、牌字五幅は無準師範の筆、額字十二幅は宋代の名筆張即之】の筆になり、南宋禅林の大字墨蹟の代表として、また禅宗寺院の額字、牌字のまとまった遺品として特に貴重である | ウィキペディア | |
東福寺 | 無準師範墨蹟(円爾印可状 丁酉歳十月)(絹本)(東福寺) | ![]() |
「墨蹟」は禅宗高僧の筆跡を指す用語。これも円爾が修行の証しとして師から与えられたものである。南宋時代1237年の筆 | ウィキペディア | |
東福寺 | 宋版太平御覧 103冊(東福寺) | ![]() |
『太平御覧』は、中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される | ウィキペディア | |
東福寺 | 宋刊本義楚六帖 12冊(東福寺) | ![]() |
義楚六帖は後周の義楚によって編纂された仏教類書。 類書とは、多くの書物から類似の事項を集めて分類し、まとめた百科事典形式の書物のこと | 国文学研究資料館 | |
東福寺 | 無準師範像 (東福寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
無準師範(ぶしゅんしばん)は開山円爾の師にあたる宋の高僧。禅宗では、弟子に師匠の肖像画を与えることは、修行が完了したことの印であり、この肖像画も円爾が師から与えられたものである。嘉熙二年の自賛があり、南宋時代1238年の作 | ウィキペディア | 20171115 国宝展W |
豊国神社 | 豊国神社唐門 | ![]() |
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている | 京都観光Navi | |
南禅寺 | 南禅寺方丈 | ![]() |
南禅寺の方丈は大方丈とその背後に接続した小方丈からなっています。大方丈は内陣、御昼の間、鳴滝の間、麝香の間、鶴の間、西の間、柳の間、六畳、狭屋の間、広縁より成る入母屋造、杮(こけら)葺です。また小方丈は虎の間、三室(九畳、六畳、二十畳)広縁よりなり、背面切妻造、前面大方丈に接続、杮葺となっており、昭和28年国宝に指定されました | 南禅寺 | |
南禅寺 | 亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案(永仁七年(1299年)3月5日)(南禅寺) | ![]() |
「南禅寺開創にあたり、亀山法皇が御真筆で書き残された起願文 | 南禅寺 | |
二条城 |
二条城二の丸御殿(遠侍及び車寄)京都府(所有者:京都市) | ![]() |
江戸時代の武家風書院造りの代表的なもので,車寄(くるまよせ)に続いて遠侍(とおざむらい),式台(しきだい),大広間(おおひろま),蘇鉄の間(そてつのま),黒書院(くろしょいん),白書院(しろしょいん)の6棟が東南から北西にかけて雁行に立ち並んでいます。 | 二条城 | 20171107二条城 |
二条城 |
二条城二の丸御殿(式台)京都府(所有者:京都市) | ![]() |
参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところです。将軍への献上品はこの部屋で取次がされました | 二条城 | 20171107二条城 |
二条城 |
二条城二の丸御殿(大広間)京都府(所有者:京都市) | ![]() |
一の間は広さ48畳,二の間は44畳となっています。将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。この部屋で慶応3年(1867年)10月,15代将軍慶喜(よしのぶ)が諸藩の重臣を集め,大政奉還(たいせいほうかん)を発表した歴史的な部屋です | 二条城 | 20171107二条城 |
二条城 |
二条城二の丸御殿(蘇鉄之間)京都府(所有者:京都市) | ![]() |
蘇鉄の間と呼ばれる場所から、蘇鉄が見えます。現存する蘇鉄が当時のものかどうかは不明ですが、幕末古写真には写っていることから、少なくとも150年以上の樹齢が経過していると思われます | 二条城 | 20171107二条城 |
二条城 |
二条城二の丸御殿(黒書院(小広間))京都府(所有者:京都市) | ![]() |
将軍と親藩大名・譜代大名の内輪(うちわ)の対面所です。大広間より若干規模は小さいのですが部屋飾りはより技巧的です。襖絵は探幽の弟,尚信(なおのぶ)の作品です | 二条城 | 20171107二条城 |
二条城 |
二条城二の丸御殿(白書院(御座の間))京都府(所有者:京都市) | ![]() |
将軍の居間・寝室だったところです。内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なっています。絵画は狩野興以(かのうこうい)または長信(ながのぶ)の作で,居間にふさわしい水墨山水画となっています | 二条城 | 20171107二条城 |
仁和寺 | 仁和寺金堂 | ![]() |
慶長十六年(一六一一)造営の御所の紫宸殿をェ永二十年に移建したもので、近世における紫宸殿唯一の遺構として重要なものである | ウィキペディア | 20140102 仁和寺 |
仁和寺 | 高倉天皇宸翰御消息(仁和寺) | ![]() |
「宸翰」は天皇の直筆、「消息」は手紙の意。若くして崩御した高倉天皇の18歳の筆で、同天皇の現存唯一の遺筆 | ウィキペディア | 20090117 京都国立博物館 「京都御所ゆかりの至宝展」 |
仁和寺 | 後嵯峨天皇宸翰御消息(仁和寺) | ![]() |
後嵯峨天皇の確証ある遺筆としては唯一のもの | ウィキペディア | |
仁和寺 | 仁和寺御室御物実録(仁和寺) | ![]() |
931(承平1)に宇多法皇が仁和寺円堂院に収めた宝物の目録。950(天暦4),村上天皇の勅により作成。1巻。10世紀の美術工芸品を知る重要史料 | 国立国会図書館 | |
仁和寺 | 孔雀明王像 (仁和寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
重層的な彩雲を背景に、明王が孔雀に坐した姿をあらわすこの像は、日本の例に多い一面四臂ではなく、三面六臂で描かれています。また寒色系や白色主体の色調は、平安仏画とは異なり清新で知的な印象を与えます。 さらに顔容描写などに見られる写実性のある表現や、細部に至るまでの緻密な描写は、日本絵画の追随を許さない宋仏画の名品といえます |
仁和寺 | 20171115 国宝展W |
仁和寺 | 木造阿弥陀如来及両脇侍像(仁和寺) | ![]() |
仁和4年(888年)、仁和寺創建時の金堂本尊。一木造で、像のかもしだす和らいだ雰囲気は、平安時代の彫刻が次第に和様式への道をたどる出発点の造形と言われています | 仁和寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
仁和寺 | 木造薬師如来坐像 円勢、長円作(北院旧本尊)(仁和寺) | ![]() |
白河天皇の皇子覚行法親王が自坊北院の本尊として造立した薬師如来像で、仏師法印円勢と長円が康和五年(一一〇三)の四月一日から五月四日まで日参し、製作に当たったことが知られる | − | 20171107 国宝展V |
仁和寺 | 宝相華蒔絵宝珠箱(仁和寺) | ![]() |
内に如意宝珠を納めた箱で、宝珠を護る板絵の四天王像が共に伝わる。寛平天皇所持の寺伝があるが。奈良時代に流行した文様構成やそく(土塞)の技法を踏襲しているなど、寺伝にいう平安前期を首肯しうる数少ない蒔絵の優品の一つである | 仁和寺 | 20110722 国立博物館 「空海と密教美術展」 |
仁和寺 | 三十帖冊子(仁和寺) | ![]() |
弘法大師空海が入唐中に青龍寺の恵果和尚らから修得した密教経典・儀軌などを書写し持ち帰ったもの。空海以外に、同時に入唐した橘逸勢、唐の写経生らが書写しています。また、第14帖の空海自筆の総目録によれば、本来38帖あったと記されていますが、現存は30帖のため三十帖冊子と呼ばれています | 仁和寺 | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
仁和寺 | 宝相華迦陵頻伽蒔絵䆵冊子箱(仁和寺) | ![]() |
蓋中央の2行の銘文「納真言根本阿闍梨空海 入唐求得法文冊子之筥」により、弘法大師空海が、唐で書き留め持ち帰った『三十帖冊子』を納めるために製作された箱であることがわかる | 京都国立博物館 | |
仁和寺 | 御室相承記 6巻(仁和寺) | ![]() |
仁和寺の歴代法親王の記録。鎌倉時代 | − | |
仁和寺 | 医心方 第一、第五、第七、第九、第十残巻 5帖(仁和寺) | ![]() |
医博士であった丹波康頼(912〜995)が、永観2年(984)に朝廷へ献上した、随・唐の医書を底本として撰述した医学書で、本書は現存する最古の写本。全30巻の内、5冊が伝存しています。『医心方』の写本は仁和寺本と半井家本が知られていますが、仁和寺本は書込みや註が比較的少なく、原本により近い形態を保っていると考えられています | 仁和寺 | |
仁和寺 | 黄帝内経明堂 巻第一 2巻(仁和寺) | ![]() |
中国の伝説上の皇帝である黄帝が名医岐伯らとの、問答形式で記述された医書。『皇帝内経』の注釈書。『明堂』は臨床の実験を『太素』は医の理論について記す | ウィキペディア | |
仁和寺 | 黄帝内経太素 24巻(仁和寺) | ![]() |
中国の伝説上の皇帝である黄帝が名医岐伯らとの、問答形式で記述された医書。『皇帝内経』の注釈書。『明堂』は臨床の実験を『太素』は医の理論について記す | ウィキペディア | |
仁和寺 | 新修本草 巻第四、第五、第十二、第十七、第十九(仁和寺) | ![]() |
国宝に指定されている医薬書は計五点ある。うち文化庁所蔵の半井本『医心方』以外の四点はみな京都・仁和寺の所蔵で、仁和寺本の『黄帝内経太素』『黄帝内経明堂』『医心方』と、『新修本草』がそれである | - | |
法界寺 | 法界寺阿弥陀堂 | ![]() |
法界寺にある平安時代建築の国宝建造物。藤原時代に起こった浄土教の流行や、末法思想等の影響で各地に建てられた典型的な阿弥陀堂建築の一つ | 京都観光Navi | 20170519 法界寺 |
法界寺 | 木造阿弥陀如来坐像(阿弥陀堂安置)(法界寺) | ![]() |
法界寺にある平安時代作の国宝彫刻で、阿弥陀堂に安置されている。平等院鳳凰堂ご本尊に最も近い定朝様式の典型的な優れた仏像で、寄木造、漆箔、八角九重の蓮華座の上に飛天光を背にして坐る。丈六、上品上生(弥陀定印)の像で、穏やかな慈容に流れるような衣文をたたんで薄い衣をまとい、円満豊麗な藤原時代阿弥陀仏を代表するものである | 京都観光Navi | 20170519 法界寺 |
法性寺 | 木造千手観音立像(法性寺) | 千手観音は、像高110cmばかり。まるいお顔に、つむっているような目、ちいさめな口は、愛らしささえ漂い、どこか日本の様式とは雰囲気の異なる仏さまです。ご尊顔を拝するには、予約が必要です | ウィキペディア | ||
平等院 | 平等院鳳凰堂 中堂 | ![]() |
鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
平等院 | 平等院鳳凰堂 両翼廊(南) | ![]() |
鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
平等院 | 平等院鳳凰堂 両翼楼(北) | ![]() |
鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
平等院 | 平等院鳳凰堂 尾楼 | ![]() |
鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
平等院 | 鳳凰堂中堂壁扉画 (平等院 板絵著色 14面) | 鳳凰堂は、藤原頼通によって天喜元年(一〇五三)三月完成され、盛大に供養された。その内部を飾る壁扉画も当時一流の画家の手によったと思われ、観無量寿経の所説によって九品来迎【くほんらいどう】、日想観などが描かれている。いずれもやまと絵山水の景観の中に、聖衆【しようじゆ】の来迎のさまを見事にあらわし、平安時代絵画屈指の傑作として貴重である。すでに建造物で国宝に指定されているが、その重要性を考慮して、今回二重指定となったものである | ウィキペディア | 20110227 平等院 | |
平等院 | 木造阿弥陀如来坐像(定朝作、鳳凰堂安置)(平等院) | ![]() |
鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像は、日本の仏像作家を代表する仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものです。その構造技法は日本独自の寄木造りの完成した技法を示します。また表現の上でも日本独自の様式、いわゆる和様の完成を見せる点がたいへんに重要です | 平等院 | 20110227 平等院 |
平等院 | 木造雲中供養菩薩像 52躯(所在鳳凰堂)(平等院) | ![]() |
鳳凰堂中堂内部の長押(なげし)上の小壁(こかべ)に懸けならべられている52躯の菩薩像。この群像も定朝工房で天喜元年(1053)に制作されたものです。 南北コの字形に阿弥陀如来を囲んでならんでいます。南北半数ずつに分けて懸けられ、各像には南北1から26までの番号をつけています | 平等院 | |
平等院 | 木造天蓋(所在鳳凰堂)(平等院) | ![]() |
本尊阿弥陀如来像の頭上に吊られた木造天蓋で、像とは別個に、彫刻部門の国宝に指定されている。折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾されている | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
平等院 | 梵鐘(平等院) | ![]() |
鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平等院」と謳われ、神護寺、園城寺(三井寺)の鐘と共に、「天下の三名鐘」に数えられている | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
平等院 | 金銅鳳凰 一対(鳳凰堂中堂旧棟飾)(平等院) | ![]() |
鋳銅鍍金。胸を張り、翼尾を大きく広げて立つ姿の鳳凰である。三部に別鋳して組み合わせている | ウィキペディア | 20110227 平等院 |
本願寺 | 本願寺唐門 | ![]() |
桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚門で、伏見城の遺構とも伝わります。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮らし門」とも呼ばれています | 本願寺 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 |
本願寺 | 本願寺黒書院及び伝廊 2棟 黒書院 | ![]() |
黒書院は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとられた所。一の間(門主室)二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがあります。幾何学絞様の欄間や、狩野探幽筆の襖・貼附の墨絵等は清楚な趣きを漂わせ、一の間の床・違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされています。江戸 初期の数奇屋風代表的書院です | 本願寺 | |
本願寺 | 本願寺黒書院及び伝廊 2棟 伝廊 | 黒書院に至る伝廊の透し彫り扉。この中が伝廊 | 本願寺 | ||
本願寺 | 本願寺書院(対面所及び白書院)(1棟)
対面所 |
![]() |
203畳敷きの大広間。上下段の境の欄間に雲中飛鴻の彫刻があるので鴻の間ともいいます。上段の床には張良が四賢人を率いて恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれています。この障壁画は狩野派の渡辺了慶筆。華麗で重厚な趣が深い間です | 本願寺 | |
本願寺 | 本願寺書院(対面所及び白書院)(1棟)
白書院 |
![]() |
対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院。一の間、二の間、三の間からなります。一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分 かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜に関する故事が描かれています。また、三の間は華麗な孔雀を描き、「孔雀の間」ともいわれています。 畳を取り除くと能が演ぜられるよう工夫されています | 本願寺 | |
本願寺 | 本願寺飛雲閣 | ![]() |
金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つ。秀吉が建てた聚楽第の一部ともいわれており、三層からなる楼閣建築です | 本願寺 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 |
本願寺 | 本願寺北能舞台 | ![]() |
白書院前の北能舞台は、懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)の 墨書紙片があり、日本最古の能舞台とされています | 本願寺 | |
本願寺 | 本願寺阿弥陀堂 1棟(京都・本願寺) | ![]() |
本願寺阿弥陀堂は阿弥陀如来像を安置する堂で現在の建物は宝暦10年(1760)に建て替えられたものである。元和4年(1618)建立の旧堂に比較してはるかに大規模となった | 本願寺 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 |
本願寺 | 本願寺御影堂 1棟(京都・本願寺) | ![]() |
本願寺御影堂は,小規模な道場から出発し広壮な仏堂に到達した真宗本堂の頂点に位置づけられる建築である。多数の門徒により支えられ,社会に絶大な影響を及ぼした真宗本山の象徴として,文化史的に大きな意義を有している | 本願寺 | 20170530 京都 西国札所と国宝拝観 |
本願寺 | 親鸞聖人像 専阿弥陀仏筆 (本願寺 紙本墨画 1幅) | ![]() |
親鸞の肖像画の中でも特に傑作といわれる作品。顔は繊細な線描で克明に、衣服はラフな描線でデッサン風に描かれている。作者は似絵(肖像画)の名手・藤原信実の弟子の専阿弥陀 | 京都市美術館 | |
本願寺 | 熊野懐紙(後鳥羽天皇宸翰以下十一通)(本願寺) | ![]() |
後鳥羽上皇は熊野三山に熱心に参詣し、その道中では和歌会が催された。この作品は和歌会で詠まれた歌を上皇が記したもの。あらわな筆の勢いとメリハリのきいた線が特徴の書で、後鳥羽上皇ならではの激しい性格を暗示している | 九州国立博物館 | |
本願寺 | 観無量寿経註(親鸞筆)(本願寺) | 「觀無量壽經註」は、浄土教の根本聖典のひとつである『観無量寿経』に親鸞聖人自身が註釈を施したものとされています。余白に余すところなく書き込まれたその筆致からは、親鸞聖人の教学に対する真摯な熱情を深く感じ取ることが出来ます | 深草図書館 | ||
本願寺 | 阿弥陀経註(親鸞筆)(本願寺) | ![]() |
画像は親鸞聖人が吉水の法然上人のみもとでお念仏のみ教えの研鑽を積んでおられた頃のノート「観無量寿経註、阿弥陀経註」の「阿弥陀経註」の最初の部分です。このご真筆の両経の註は昭和18年に本願寺の収蔵庫から発見され、昭和27年に国宝に指定されされているご真蹟で、聖人の最も若い時代(30代前半の)のご真筆であると云われています | 万福寺 | |
本願寺 | 三十六人家集 37帖(本願寺) | ![]() |
西本願寺本三十六人家集は、三十六歌仙の和歌を集めた平安時代末期の装飾写本である。三十六人家集のまとまった写本としては最古のもので、国宝に指定されている | ウィキペディア_ | |
本能寺 | 伝藤原行成筆書巻(本能寺) | ![]() |
平安時代後期、11世紀の古筆の遺品で、「本能寺切」(ほんのうじぎれ)と称して珍重される。料紙4枚を継いだ巻紙に小野篁、菅原道真、紀長谷雄(きのはせお)の3名の文章(漢文)を和様書法で書いた調度手本である | ウィキペディア_ | 20171115 国宝展W |
松尾寺 | 普賢延命像 (松尾寺 絹本著色 1幅) | ![]() |
美福門院の持念仏と伝えられる | ||
曼殊院 | 不動明王像 (曼殊院 絹本著色 1幅) | ![]() |
絹本著色不動明王像(黄不動) - 滋賀・園城寺(三井寺)に秘蔵される、黄不動像(平安時代前期)を元に制作された画像の1つであり、平安時代末期、12世紀頃の制作と推定されている。京都国立博物館に寄託 | ウィキペディア_ | 20171107 国宝展V |
曼殊院 | 古今和歌集(色紙)(曼殊院本)(曼殊院) | ![]() |
色変わりの染紙に優美な和様書体で書写された古今和歌集の写本で、11世紀に遡る遺品である。高野切本古今和歌集などと並び、平安時代の仮名の名品として知られる。京都国立博物館に寄託 | ウィキペディア_ | 20171004 京都国立博物館「国宝展」 |
妙喜庵 | 妙喜庵茶室(待庵) | ![]() |
待庵は、日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休が作ったと信じうる唯一の現存している茶室 | 山崎観光案内所 | |
妙心寺 | 梵鐘 戊戌年四月十三日在銘(妙心寺) | ![]() |
わが国最古の紀年名を有することで著名な鐘であり、銘文中の戊戌年は文武天皇即位二年(698)に当たると考えられ、糟屋評は現福岡県にあった郡銘である。高さに比べて口径が小さく、胴張りの少ない長身瀟洒な鐘である。撞座の蓮華文、上下帯の唐草文など肉取りよく、駒の爪は二条の紐を回らせたもので古式であり、端正な形姿に典麗な装飾を施した名鐘である | 京都観光Navi | |
妙心寺 | 大燈国師墨蹟(印可状 元徳二年仲夏上澣)(妙心寺) | ![]() |
『与関山慧玄印可状』(かんざんえげんにあたう いんかじょう)は、元徳2年(1330年)、宗峰が関山慧玄に書き与えた印可状。妙心寺蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(印可状 元徳二年仲夏上澣)) | ウィキペディア_ | |
妙心寺 | 大燈国師墨蹟(関山字号 嘉暦己巳仲春)(妙心寺) | ![]() |
『関山字号』(かんざん じごう)は、嘉暦4年(1329年)、宗峰が関山慧玄に書き与えた「関山」の字号。現在は字号の下に七言偈が書かれているが、もとは字号の横に偈が書かれた巻子になっていた。妙心寺蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(関山字号 嘉暦己巳仲春)) | ウィキペディア_ | |
妙法院 | ポルトガル国印度副王信書(京都・妙法院) | ![]() |
1588年(日本の天正16年)、インド半島西岸に位置するポルトガル領ゴアのインド副王ドゥアルテ・デ・メネーゼスから豊臣秀吉に宛てた外交文書。羊皮紙製で寸法は縦60.6センチメートル、横76.4センチメートル。豊臣秀吉を祀る豊国廟が破却された際、妙法院に移管された品の1つ | ウィキペディア_ | 20171107 国宝展V |
妙法院 |
蓮華王院本堂(三十三間堂) 京都府(所有者:妙法院) | ![]() |
正式名は、蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています | ウィキペディア_ | 20111008 蓮華王院(三十三間堂) |
妙法院 |
木造千手観音坐像(湛慶作 蓮華王院本堂安置)(妙法院) | 本像は保存状態がよく、後世に補作されることの多い台座、光背、天蓋も、本像の場合は当初のものが残っている。光背は宝相華文透彫の上に、観音三十三応現身を表したものである。三十三応現身とは、法華経観世音菩薩普門品に説くもので、観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう | ウィキペディア_ | 20111008 蓮華王院(三十三間堂) | |
妙法院 |
木造風神・雷神像(所在蓮華王院本堂)(妙法院) | ![]() |
鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂像が最古のものである | ウィキペディア_ | 20111008 蓮華王院(三十三間堂) |
妙法院 |
木造二十八部衆立像(所在蓮華王院本堂)(妙法院) | ![]() |
二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった | ウィキペディア_ | 20111008 蓮華王院(三十三間堂) |
妙法院 | 木造千手観音立像(蓮華王院本堂安置) 一千一体 | ![]() |
三十三間堂の通称で知られる蓮華王院本堂に安置される千手観音の大群像。 れんげおういんほんどう 長寛2年(1164)創建時のものが124.のこり,残りは室町時代の補作1 ちょうかんく .を除きすべて鎌倉時代の再建時の製作である。王朝文化の華やかさと,壮大な 規模を伝える記念碑的作例であるこの群像を,45年に及ぶ保存修理が終了した のを契機として国宝に指定する。(平安時代・鎌倉時代) | H30文化財答申 | 20180412 三十三間堂 |
妙法院 | 妙法院庫裏 | ![]() |
妙法院庫裏は秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養を行ったときの遺構と伝えているが、建立年代は明らかでない。 内部小屋組のすぐれた構架その他の意匠に桃山時代の宏壯な気風をよくあらわしている | ウィキペディア_ | 20180412 妙法院 |
有鄰館 | 春秋経伝集解 巻第二残巻(藤井斉成会有鄰館) | 藤井斉成会有鄰館(ふじいさいせいかい
ゆうりんかん)は、京都市左京区岡崎にある、中国の古美術が中心の私立美術館。日本の私立美術館としては草分けの1つである。
『春秋』は儒教経典のひとつ。多くの註釈書が作られたが、著名な『春秋左氏伝』に中国・西晋の学者杜預がさらに注解を加えたものが『春秋経伝集解』である。唐代には春秋学の国定教科書となり、日本においても奈良時代より広く読まれた |
ウィキペディア_ | ||
来迎院 | 伝教大師度縁案並僧綱牒(3通)(京都・来迎院) | ![]() |
最澄(伝教大師)の得度や受戒に関わる文書類3点を一巻としたもので、最澄の伝記資料としてきわめて貴重なもの。東京国立博物館に寄託。宝亀11年(780年)近江国府牒案、延暦2年(783年)最澄度縁案、延暦4年(785年)僧綱牒の3通の文書からなる | 大津 |
|
来迎院 | 日本霊異記(中下)(京都・来迎院) | ![]() |
平安時代後期にさかのぼる日本霊異記の古写本で、同書の中・下巻の現存最古本として、日本文学史上貴重なものである。『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)、来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)、前田家本(下巻、重要文化財)、金剛三昧院(高野山本、上中下巻)などがあり、興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い。写真は興福寺本 | 参考:京都大学 | |
龍光院 | 龍光院書院 | No Images | この書院は寛永年間(一六二四−一六四三)に建立されたもので、その一室は茶室になっていて、密庵席と名づけられている。この席は小堀遠州の好みと伝えられ、四畳半台目のやゝ書院風の茶室であって、床の間が二つあり、その一つに密庵咸傑の書、他に利休の添状をかける。茶室の代表的作品である | − | |
龍光院 | 曜変天目茶碗(京都・龍光院) | ![]() |
静嘉堂、藤田美術館の曜変天目茶碗と共に、大名物として著名な茶碗である。星紋の粒が小さく、青光も細く短くて、稲葉天目のような華麗さはないが、深い趣や格調がある | − | 20171017 国宝展U |
龍光院 | 大覚禅師筆金剛経(京都・龍光院) | ![]() |
署名はないが、書風から大覚禅師・蘭渓道隆の自筆とされる。金剛経とは鳩摩羅什が漢訳した金剛般若羅蜜経のこと | − | 20171017 国宝展U |
龍光院 | 竺仙梵僊墨蹟(明叟斉哲開堂諸山疏)(絹本)2幅(京都・龍光院) | ![]() |
およそ20年間にわたり日本禅林の振興に力を注ぎ、後の五山文学(鎌倉末期〜室町時代の京都五山の禅僧の手になる漢詩文)興隆の基礎を築いた中国・元の禅僧である竺仙梵僊の墨蹟である。現存する竺仙梵僊の墨蹟中で大字・大幅であり、彼の闊達な書法を示す代表作といえる | − | 20171017 国宝展U |
龍光院 | 密庵咸傑墨蹟(法語 淳熙己亥仲秋日)(綾本)(京都・龍光院) | ![]() |
淳熙6年(1179年)8月、密庵に随従した璋禅人という人物の求めに応じて、禅の要旨を書き与えた法語(印可状とも見られる)。27行・290文字を異例ともいうべき綾絹の上に行書で濃淡自由に書いている。密庵は書法に長じたが、その墨跡は稀でこの法語が唯一とされる。これを秘蔵する龍光院には、この墨跡以外は掛けないという「密庵床」と称する床が特設され、その茶席を「密庵席」と称している | ウィキペディア_ | |
龍吟庵 | 龍吟庵方丈 | 竜吟庵は東福寺の塔頭の一で、この方丈は嘉慶元年(一三八七)に建てられた。現存最古のの方丈。中央前面の間(室中)正面を壁とし仏壇を設けないなど,近世の標準的な方丈形式に達する前の古式を伝えている。前面に蔀戸を用い,側面にも扉を開くなど寝殿造りにも通じる構成も方丈の古い形式と考えられ,貴重である | 京都観光Navi | ||
六波羅蜜寺 | 木造十一面観音立像(本堂安置)(六波羅蜜寺) | ![]() |
六波羅蜜寺の本堂(国宝)の本尊である。左手を屈臂し掌を前に向け、右手は垂下し掌を前に向け、両手とも第一・三指を相捻じ、第二・五指を伸ばし、第四指を軽く屈する。条帛、天衣を懸け、裙(折返し一段)、腰布を着け、腰をわずか左方に捻り、右膝を軽く曲げ前に出して立つ十一面観音像である | − | |
廬山寺 | 慈恵大師自筆遺告(天禄三年(972年)5月)(廬山寺) | ![]() |
天台宗中興の祖である元三大師(慈恵大師良源)が、その高弟尋禅に残した自筆の遺言状。良源61歳の筆。その内容は延暦寺の東塔・西塔・横川に散在する堂舎や、諸国の荘園、あるいは顕密の法文や道具などの譲与に関して、弟子に対する教えを含めて指示しているという。さらに没後の葬送、追福の方法について詳しく記し、随所に具体的な訂正を加えるなど苦心の跡が見て取れ、良源の人柄がにじみ出る。巻末の奥書で当時病床にあって4日を費やして全文を書き終えたことが知られている。良源はそれから十三年後の985年、正月三日に74歳で没し、その忌日にちなんで世に元三大師と称されることになる。その遺告の一部です | − | 20170728 源信展 |