南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
Since December 23, 2015

< 江戸後期-II Latter Half of Edo II >

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江戸後期-II Latter Half of Edo II. 1720-1800

1700年代享保の改革から寛政の改革まで。儒教教育が充実し徳川幕府が安定した時期。各地の産品は廻船で消費地へ運搬された。富豪の商人も出て書画の文化も栄えた。円山応挙、池大雅、与謝蕪村の巨匠。呉春、曽我蕭白、石田幽汀、市川君圭、紀楳亭(紀梅亭)、勝野范古、山口素絢、山本守礼、奥文鳴、吉田元陳、藤波季忠、池玉瀾、高井丹崖など京都の画家。鼎春嶽、林閬苑、十時梅厓、木村蒹葭堂、桂宗信、福原五岳、大岡春川、林幽篤、浜田杏堂は大坂の画家。中山高陽、高嵩谷、高嵩渓、英一川、加藤文麗、渡辺溱水、司馬江漢、金子金陵、高田円乗、河島雪亭、狩野梅笑師信、鈴木鄰松は江戸で活躍。五十嵐浚明、釧雲泉、黒田綾山、丹羽嘉言、彭城百川、木村探元、祇園南海、月僊、建部凌岱、鏑木梅渓、熊斐文、藤堂巴陵、渡会文流斎、雲谷等村、島崎雲圃、伊藤長秋、長谷川雪洞、岡岷山、山県鶴江、石里洞秀初代、林十江は各地の画家。交代寄合の松平義著。上田秋成、加藤千蔭、伴蒿蹊、本居宣長、牧野鎮成、風早公雄、芝山持豊、香川黄中、小沢蘆庵、如魚、松木宗美、豊岡尚資、梨木祐為、村田泰足、冷泉為泰、石野基棟、中里常守は和歌。
大島何戎坊、野村白寿坊、溝口素丸、横井也有、高桑闌更、大島完来、松尾塊亭、桃林、井上士朗、井上重厚、凡玉、其雷、豆花、鈴木道彦、寺村百池、笹丘高、五雄、西村定雅、帰一坊、建部巣兆、嗽石は俳句。鹿都部真顔、有桃斎仙柳は狂歌。儒者、書家では伊藤華岡、関思恭、沢田東江、龍草盧、関其寧、松下烏石、三井親和、中井竹山、柴野栗山、趙陶斎、韓天寿、亀井南冥、高橋道斎、細井平洲、蒔田暢斎、宮崎筠圃、安原貞平、関明霞、三枝斐子(土屋斐子)、細井九皐、斎必簡(斎静斎)、永田観鵞、石原徽、秦良選、上柳四明、望月武然、岡田新川(岡田挺之)、宮川龍、萩原大麓、古屋昔陽、三宅嘯山。ほかは池田宗政、秋月種徳、細川重賢、林子平、僧の寂厳、池田治政、柳沢信鴻。茶人の堀内宗心不寂斎、医師の服部宗賢、茶人の藪内紹智六代の書状、高天白雲は大和の書家、不明の臥竜葛等渓、夢藻風老人。

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。上下と左右の動作の1MBの大作。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これは2階から1階へ段々降りてきてポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション カンが回転しながら左右を移動
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

 

 音楽は地歌で音量はクリックで調節。

●中里常守 Tsunemori Nakazato ?-? active ca. 1738-1765
伊勢松坂に住した国学者。和歌、地歴の考証に長じた。著作に「中里常守詠百首歌(1738年)」、「伊勢名所参考抄」がある。 中里常岳(1760-1813)という伊勢松坂の富商で本居宣長に入門した国学者がいるが親類である。作品は和歌の短冊。庭の花薄(すすき)に露や風になれて秋を過ごせとの内容。 Tsunemori Nakazato was a scholar of old Japan related to shinto. He was active at Matsuzaka, Ise.

●野村白寿坊 Shirasubo Nomura 1738-1817
徳川幕府の御家人で美濃以哉派七世を嗣いだ俳人、野村白寿坊の4作目。友人の俳人蘆風との俳句の書。蘆風が発句で白寿坊が付合の句である。付合(つけあい)とは俳諧で5・7・5の発句に対して7・7の短句を添えたもの。作品は味のある内容である。時期は1807年頃白寿坊が70歳頃である。蘆風は不明の人だが、白寿坊とは親密な友人である。この下方に白寿坊より蘆風への手紙を掲載。 This is the fourth presentation of Shirasubo Nomura. He is enjoying the haiku with his friend, Rofu.

●林十江 Jikko Hayashi 1777-1813
水戸の酒造の豪商の家で生まれた。別号に水城俠客。1790年(12歳)頃立原翠軒(1744-1823、水戸藩士の儒者)に出入りし画に才能を示した。また篆刻にも巧みだった。総じてこの人の画は大胆な構図の略筆でユニークである。1812年(36歳)水戸で評価は高まり、江戸に出て谷文晁にも認められた。しかし病にて帰郷。翌年37歳で歿。作品は落款はなし、印は水城侠客。水城は水戸のことで「水城十江」の印もあるので「水城」の語を好んだ。侠客は本来勇敢な武士の意味であるが本邦では通常無頼の徒を指す。画は蝦蟇が竜巻を起している、蝦蟇仙人はやや狂人風の顔貌。 Jikko Hayashi was a painter who was active at Mito.

●梨木祐為 Suketame Nasinoki 1740-1801
京都下鴨社神官で和歌で名を成した梨木祐為の2作目。様々な季節の歌6首を詠んでいる。古い和歌で使われている語を熟知している事が判る。雁の略字、厂(がんだれ)が下の夢藻風老人の作品にもみられる。雁はがんとも読む。 This is the second presentation of Suketame Nasinoki. He was very good at waka.

●夢藻風老人 Musofurojin ?-?
不明の茶人、夢藻風老人の「茶海録」のその3。様々な茶の銘を伊勢物語、源氏物語などに照らして論じている。鴨長明については語句を大きく引用した。以上で茶海録は終了である。

●夢藻風老人 Musofurojin ?-?
不明の茶人、夢藻風老人の「茶海録」のその2。様々な茶の銘を挙げて和歌、源氏物語に照らして論じている、博識な人である。 

●夢藻風老人 Musofurojin ?-?
夢藻風老人は不明の人。作品は茶海録という自筆本である。様々な茶の銘を挙げて論じている。特に関連の和歌を参照する。由来は古今集、伊勢物語、源氏物語が主である。かなが得意で国学や和歌をよく知る人に違いない。印は梅府空晁と読める、家に梅の木がありそうだ。関連の和歌を記載したが和歌全体の意味の記載は省略した。  Musofurojin is an unknown man who was good at waka. 

●池田宗政 Munemasa Ikeda 1727-1764
池田宗政の3作目。聡明で美男子。号に恒岳、流霞楼。1752年(26歳)第4代備前岡山藩主になる。画、俳句もよくした。38歳で歿。作品は落款はなし、印は宗政之章、流霞楼、恒岳。松と満月の画に「松間明月長如此」と添える。親しい人との別れ極に画いた作品だろうと思う。語句は唐の宋之問(656-712)の「下山歌」という詩の一節である。岩波文庫の唐詩選に掲載される日中で有名な詩である。比較的若い年で逝去した人で詩の意味と共に寂しい悲しい気分にさせられる作品である。  This is the third presentation of Munemasa Ikeda. He was a governor of Bizen and was good at paintings. 

●柳沢信鴻 Nobutoki Yanagisawa 1724-1792
大和国郡山藩主(15万石)の子。号は香山、伯鸞。1745年(22歳)2代郡山藩主となる。書画、和歌を能くした。1773年(50歳)隠居。以後江戸の六義園で閑適生活を楽しんだ。長崎派宋紫石に画を学んだ。著書「宴遊日記」は有名。69歳で歿。作品は落款は香山書、印は信鴻之章、字曰伯嵐、耕寛閑埜釣寂寞浜。「趙氏連城璧 由来天下伝 送君還旧府 明月満前川」。題「夜送趙縦」の楊烱の有名な詩である。字は細い筆で直線的に書く行書、大変ユニークな形である。唐様で漢詩に似合っている。画に比べ書の作品は少ないと思う。 Nobutoki Yanagisawa was a governor of Koriyama, Yamato. He was good at paintings.

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●嗽石 Soseki ?-? active ca. 1794-1796
嗽石は不明の俳人。作品は短冊、落款は嗽石。長い前文が大変面白いものである。他のえらい俳人の間に挟まれて恐縮するのを箸で挟まれた蚯蚓(みみず)に例えている。俳句とは別で呼応しないと思う。寛政年頃「嗽石」というユーモアのある俳人が関東に居たことは確かである。明治の文豪夏目漱石は俳人でもあったが落款は明らかに異なる。他の作品が出れば郷土誌や古文書などからもっと詳細が判るかもしれない。 Soseki is an unknown haiku maker who was active at Kanto.

●無記名 Anonymous ?-?
歌人は不明。和歌を曙水鶏の題で3首、岡夏草の題で4首記して撰者に渡した。撰者は一部手直しを加えている。題の「水鶏(くひな)」、「夏草」は和歌の題として典型的なものでこれに「曙」、「岡」をそれぞれに加えた和歌である。最後に宜しく直して下さいと記す。語句からは古い和歌をよく知る公家の作で時代は江戸時代後期と思う。作品には京都の地名の掲載がある。屏風の中張りに使われた紙である。

●三宅嘯山 Shouzan Miyake 1718-1801
京都の生まれ。別号に滄浪居、字は之元。俳人、漢学者で質屋であった。望月宋屋(1688-1766、京都の俳人)に俳諧を学ぶ。炭太祇、与謝蕪村と交際。漢学者としても優れ、俳句評に漢詩を使いまた程赤城と漢詩の応酬をしている。84歳で歿。「俳諧古選」「嘯山詩集」など多数。作品は落款は滄浪居書、印は之元、嘯山父、升高自下陟遐自迩。書は「碧雲暮散蒼梧野」と古い漢詩の語句が巧妙に使用される。また印の意味も教訓的である。漢文に精通した人であったが書もなかなかよい。ウェブ検索では俳句は出るが漢文の書は出ない。参考論文、大阪大学、藤田真一氏「俳諧師嘯山」、京都大学、大野圭介氏「蒼梧考」。 Shouzan Miyake was a haiku maker who was active at Kyoto. He was also good at kanshi.

●古屋昔陽  Sekiyo Furuya 1734-1806
熊本の生まれ。名は鬲(かなえ)。儒者で書家。秋山玉山(1702-1764、昌平黌で学んだ儒者で熊本藩教授)に師事する。1770年(37歳)江戸で私塾を開き、細井平洲と並ぶ評判で名声を得る。書家でも有名であった。儒者として極めて誠実であった。1791年(58歳)会津藩主松平容頌の侍講となる。1798年(65歳)兄の儒官を継ぎ熊本へ帰る。73歳で歿。著書「古今学変考」「童子訓」など。作品は落款は古鬲、印は古鬲之印。「鬲」の名を大変好んだ。「古」は古屋の姓のことでこの時代は中国風の呼名が流行った。「不明乎善不誠乎身矣」と書く。出典は儒教の「中庸」の一節である。中庸とは「誠」を柱に据える古い儒教の本であり、解釈は控える。非常に誠実を旨とした儒者の古屋昔陽らしい文である。名の「鬲」=鼎(かなえ)であり、また隔に通じて「孤高、節制」の意味も含む。「古鬲」の落款、印の作品が熊本県立図書館にある。 Sekiyo Furuya was a jukyo scholar who was active at Edo and Kumamoto.

●浜田杏堂 Kyodo Hamada 1766-1815
大坂の生まれ。漢方医で画家。名は世憲。儒医の浜田家の養子となり、長じて名医と評された。福原五岳(1730-1799、岡熊岳、鼎春岳、黒田綾山など大坂で画家を育てた)に画を学ぶ、また中国画を学習した。木村蒹葭堂、森川竹窓、篠崎小竹、十時梅厓ら大坂の文人や谷文晁と交流している。49歳で歿。著作に「江邨銷夏録」。作品は落款は杏堂浜世憲、印は世憲、杏堂。菊が大きく高く延びて、蟹、ざくろ、びわが添えられる。款記の「忘憂延寿」が高い菊のまた上に書かれる。憂愁を忘れ長寿を願った画を描いたが、自分への願いも籠められたと思う。しかし杏堂は50歳に達する前の逝去だった。なお忘憂は萱草、延寿は菊の別名である。参考論文、関西大学中谷伸夫氏「浜田杏堂の画帳」。 Kyodo Hamada was a doctor who was active at Osaka. He was good at paintings and was a pupil of Gogaku Fukuhara who was a famous painter at Osaka.

●高桑闌更 Ranko Takakuwa 1726-1798
加賀金沢生まれの俳人。1779年(54歳)に京都に住み俳諧を業とした。蕉風隆盛に努め、また「花供養」で地方の俳人の句集を長く編集し出版した。門人に成田蒼虬。73歳で歿。作品は高桑闌更より信濃国の俳人佐藤魚淵への手紙。差出人には闌更に加えて玄化と記される。玄化は別名吉田九郎右衛門という京都の俳人兼書肆刊行の人である。一世と二世がいて両者共に高桑闌更の俳句集を刊行して深い交際があった。手紙には佐藤魚淵の句を冊子に加え出版するとあり一世かと思う。3首の俳句の内三首目「鶏の よこれ来にけり 春の水」は高桑闌更の句として検索で出る有名な句である。参考論文、関西大学竹内千代子氏「玄化堂甫尺(吉田九郎右衛門)の俳諧活動」。 Ranko Takakuwa was a famous haiku maker who was active at Kyoto. This is a letter from Ranko to Nabuchi Sato. In this letter, there are three haiku, one of which is well-known today.

●萩原大麓 Dairoku Hagiwara 1752-1811
上野国緑野郡藤岡町(群馬県藤岡市)の生まれ。名萬世、字休卿。幼少より才知が優れた。1770年(19歳)江戸に出て片山兼山(1730-1782、上野出身の人で熊本秋山玉山の弟子)の門人になる。師の歿後江戸で開講。陸奥国二本松侯丹羽氏、浜松侯井上氏など多くの門人を集めた。また谷文晁、沢田東江らと親しく交際した。著書に「礼記正文」など。60歳で歿。作品は落款は大麓萩万世、印は萩萬世印、字休卿、白鶴堂。白鶴堂は塾名だろうか。内容は積極的な字句が並び関羽を賞賛した漢文である、字形も活発で元気の出る書ですごく良い。頼山陽に似るが山陽は大麓の書を参考にしたのかも知れない。墓は師の片山兼山の側にと遺言したが現在もその通りにある(東京都港区明福寺)。子2人萩原楽亭、萩原緑野も儒者。作品は意外に少ない。下に岡山藩主池田治政の関羽の画。「江戸後期-I」勝山琢眼に関羽、劉備の画、「江戸後期-I」菅野縉斎に関羽の綺麗な彩色の画。 Dairoku Hagiwara was a jukyo scholar who was active at Edo.

●建部巣兆 Soucho Takebe 1761-1814
江戸の書家の子。加舎白雄(1738-1791、江戸の俳人)に俳諧を学ぶ。鈴木道彦は兄弟弟子。1788年(28歳)より俳人、俳画で有名となり、義兄亀田鵬斎、酒井抱一、谷文晁、井上士朗、一茶らと交際。江戸千住に住んだ。54歳で歿。作品は俳画で落款は巣兆画題。「隅田川にて: しらうをの 爰等て孕む 桜かな」。この俳句は弟子の国村が巣兆死後の1817年に編集した発句集「曽波可理」に掲載されていた。「の」と「桜」は難字である。画は軽快な筆使いである。 Soucho Takebe was a haiku maker who was active at Edo.

●石野基棟 Motomune Iwano 1720-1793
公家石野家の生まれ。自身も当主で正二位権中納言。藤原道長の次男の流れ持明院家より枝分かれし石野基顕(1670-1741)を祖とする。74歳で歿。作品は和歌懐紙で裏書に石野基棟の書と示す。歌は古今集の中の人気のある在原滋春(850年頃の人)の和歌。「藤原三善の六十賀によめる」「つる亀も 千とせの後は しらなくに あかぬこころに まかせはててむ」。人間いくつになっても人生に飽きてしまったから往生してもよいのだ、とはならず人生に飽かず「まだまだ」とそのままで往生までゆく、そういうものだと思う。この和歌は元気の出る歌で長く人気があるのがよくわかる。平安時代には40歳が賀の始まりで60歳はかなりな高齢(寿)であった、現代とは感覚が異なる。 Motomune Iwano was a kuge who belonged to the royals. This is a calligraphy of a waka song originally sung by Shigeharu Arihara.

●冷泉為泰 Tameyasu Reizei 1735-1816
公家上冷泉家の当主の子で自身第16代当主。正二位権大納言。1799年=寛政11年(65歳)に落飾(貴人が仏門になること)、法名は等覚。門弟に屋代弘賢。82歳で歿。作品は和歌懐紙で落款は等覚。「緑そふ ときはの松の 言の葉に つまは千年の 色をこそしれ」。自分が長寿であることを人々が言うのに感謝して。これは自分を健康に保ってくれた妻のおかげであり感謝すると詠む。大変微笑ましい気持ちよい和歌である。「等覚」で「長寿」より70歳以後の1804年より1816年の間の作であろうと思う。この頃の上冷泉家当主の和歌の筆跡は定家流から派生した特徴的なものである。 Tameyasu Reizei was a kuge who belonged to the royals. He was good at waka.

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●村田泰足 Yasutari Murata 1749-1823
彦根藩士の孫で彦根藩士を継ぐ。同藩士で国学者大菅中養父(1710-1778)に学ぶ。後本居宣長に学ぶ。1799年(51歳)彦根藩校稽古館の和学教授となった。75歳で歿。著作に「凝烟舎詠草」。作品は知恵ある人への返事で萩の花についての和歌を末尾に1首書く。知恵ある人にうまくそそのかされて作ったとしている。「御元へ参らず」とあるので来訪を望まれていたが行かないようだ。大方読めても意味の解釈がやや困難な箇所がある。1800年頃の国学の教授の文である。 Yasutari Murata was a scholar of old Japan related to shinto. He was good at waka.

●梨木祐為 Suketame Nasinoki 1740-1801
京都下鴨社祠官で鴨祐為とも称す。和歌を冷泉為村(1712-1774)に学ぶ、小沢蘆庵とは兄弟弟子である。多作で生涯に10万首を詠じたとされる。画にも通じた。62歳で歿。作品は和歌懐紙で落款は祐為、1799年=寛政11年、60歳の作品である。「老の数 ともにかそへて ことのはの 花の林の かけにあそはむ」。友人の永政と同じ60歳になった新春を祝う和歌で、これからも言の葉(和歌)を一緒に楽しもうという微笑ましい作品である。同じ年齢の「永政」は不明である。水島永政(1791-?)という「陵墓考」(1853)や「式社考」を著した国学者がいるがこの人の祖父かもしれない。字は定家流が窺われ冷泉家に学んだのが納得できる。 Suketame Nasinoki was a Shinto priest who was very good at waka.

●豊岡尚資 Naosuke Toyooka 1739-1809
公家の生まれで豊岡家5代目。権中納言従二位まで進む。六十賀詩歌短冊手鑑という公家の歌を編集した本に和歌掲載。71歳で歿。落款は尚資。「子日祝言」の題の和歌2首の懐紙である。1首目「散うせぬ 千世のためしに けふ引て ねのひをいはふ 松の言のは」。下に解説。歌の通りにこの豊岡尚資の和歌と懐紙は1000年にはまだならないが200年後の今の世には散り失せないで残った、尚資さんおめでとう。一方の同じ日に引いて朝廷に持ち帰った小松は今の世に生きて高く育っているのだろうか。2首目「ことのはのつきぬ例の 春いくよ けふを子日の 松にちきらむ」は「春いくよ」は単に新春の正月で1首目と同様の意味のようだ。 Naosuke Toyooka was a kuge who belonged to the royals.

●松木宗美 Muneyoshi Matsunoki 1740-1788
中御門家26代の公家。藤原道長の次男、藤原頼宗の子孫を中御門家と称し松木家(室町時代以後に「松木」を名乗る)は嫡流にあたる。1768年(29歳)右大弁となり、同年に中納言に昇進。49歳で歿。作品は落款は右大弁宰相宗美。「長閑にも 園生に匂ふ さくらはな いく春毎の 成りをそみん」。1768年29歳の作である。すっきりときれいな歌だけどやや枯れた味があり29歳作には見えない。この時代は長寿の人は多くないからまあ理解できる。 Muneyoshi Matsunoki was a kuge who belonged to the royals. This waka was written at 29 years of age.

●宮川龍 Ryu Miyagawa ?-? active ca. 1799
宮川龍は漢文を得意とした美濃の人。おそらく尾張藩藩校、明倫堂で先生をしていたと思われる。また林伯英(1778-1796、美濃の漢詩人)の遺稿集、「伯英遺稿」に序文などを記している。他には記載がない人である。作品は高橋尚絅(しょうけい)氏に渡した漢文の通知である。落款は宮川龍頓首、印は宮龍之印、子瑞。内容は難解な所があるが要約は理解できた。要するに高橋氏が侍童を介してある上人の書を宮川氏に贈った、これは署名も印もないし書は粗い反古紙のようであったとの内容である。下に伯英遺稿の一部を引用、別号は霊甫と判る。尾張藩侍医を嗣ぐ高橋氏の所持した明倫堂の教授秦鼎(江戸後期-I)、校長岡田新川(江戸後期-II)の文書と同時に入手したものであること、「高橋賢契」の宛名書き、文の内容より高橋氏を生徒として対応すること。以上より宮川龍は明倫堂の漢文の教師であったと思う。美濃の漢文教師であった宮川龍、号に子瑞、霊甫の人の詳細がウェブに掲載されることを願っている。 Ryu Miyagawa was a teacher of Chinese literature. He was supposed to be a teacher of the Meirindo school at Nagoya.

●如魚 Jogyo ?-?
如魚は不明の歌人。下の仙柳と同様に1800年前後の人であろう。こちらは皮肉な味がなく短歌に近い。「百々夜とは 少々の事 我か恋は 鶴の齢ひの 千代もかよわん」。あなたの所に千夜も通うよという判りやすい恋歌である。 Jogyo was an unknown uta maker.

●有桃斎仙柳 Yutosai Senryu ?-?
有桃斎仙柳は不明の歌人。柄井川柳(1718-1790、無名庵川柳)という川柳の人を意識した人に違いない。和歌と川柳の中間のような狂歌といえる作品。安倍仲麻呂の和歌を返した歌である。ここの「ふりたる」は「雨の降りたる」の意味であろう。「奈」の字は古風か、遠目が効くはおもしろい表現。狂歌の人は1800年前後活躍、明治以後衰えたので無名の人が多いようだ。 Yutosai Senryu was an unknown kyoka maker.

●岡田新川 Shinsen Okada 1737-1799
尾張藩士の子。字は挺之(ちょうし)。松平君山(1697-1783、尾張藩士の儒者)に指導を受けた。1783年(47歳)明倫堂(尾張藩の藩校)開講と同時に教授になる。1792年(56歳)2代督学=校長となる。初代は細井平洲。幼少より神童といわれ、大変博学の人とされた。63歳で歿。作品は落款は岡田挺之、印は岡田廷之、尾張大学。「高橋秀才」に与えた漢詩の懐紙。内容は隠退した自分の事を前半に記し、学問に熱中する高橋秀才を後半で賞賛する。丁子=挺之と自分のことを書く、隠退近い頃の作品である。高橋秀才は後に高橋玄仙という尾張藩の有名な医師を嗣ぐ人である、なぜならこの作品は秦鼎「江戸後期-I」の手紙と同時に入手したものだから。明倫堂の校長にこの書を貰い賞賛を受けたことは高橋生徒にとって大変名誉あることであったから作品は現代まで残った。作品には「挺之」が3箇所にあり挺之の字を大変好んだ。 Shinsen Okada was a famous Jukyo scholar in Nagoya, Qwari. This Chinese poem was given to Mr. Takahashi who was a pupil of a Meirinkan Jukyo school. He became a famous Nagoya physician.

●帰一坊 Kiitsubo ?-? active ca. 1817
越前福井の美濃派の俳人。駒屋善右衛門という福井城下で藩札発行や両替商をした商人で日本長者集に掲載される豪商であった。俳句は美濃派の祐阿(1719-1799、福井の商人大坂屋)の門人。「雁の行先」1817年刊。作品は落款は南越帰一坊。「鶴の声も 端居に聞けよ とはたのし」。端居:縁側の端先に居て。前文に切通なる鶴巣雅亭において詠んだ句である。南越は越前に違いない。切通は現岐阜市切通で岐阜城の南側である。「頭陀を預け」より仏門に帰依した後の作である。 Kiitsubo was a haiku maker who was active at Echizen.

●藤波季忠 Suetada Fujinami 1739-1813
公家藤波季忠の2作目。都林泉名勝図会(1799年=寛政11年刊、南竹所蔵本)の序文である。肉筆ではない。文末の水竹居主人は季忠の号である。教養豊かな人のかな中心の文で言葉遣い、かな、単語が大変勉強になる。序文の次に掲載の漢詩とその作者も掲載した。林泉とは庭のこと、本文は秋里籬島が京都の庭の名勝を著述した本である。下に藤波季忠の肉筆作品あり。 Suetada Fujunami was a kuge who belonged to Royal.

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●鹿都部真顔 Shikatsubeno Magao 1753-1829
江戸の狂歌師、汁粉屋の鹿都部真顔の2作目。狂歌の作品は落款は真顔。「ほとときす さ月を声の盛場の 江戸へ出てきて 田長下賤」。ほととぎすは別名田長(たおさ)または下賤の田長。田長:田の主、農夫の長。旧暦5月の田植えの時に現れて鳴くので田長と命名された。「ほととぎすが5月に鳴いて盛場の江戸へ出てきた、田舎の下賤であるなあ」。江戸で鳴くほととぎすと誰か江戸に来た田舎人を「田長下賤」として懸けているようだ。 This is the second presentation of Shikatsubeno Magao. He was a kyouka maker who was active at Edo.

●西村定雅 Teiga Nishimura 1744-1826
京都の人。号は俳仙堂。俳人で小説家(西村粋川子)また針問屋であった。池大雅の庵のあった洛東真葛原に住した。俳諧は蕪村の門人で成田蒼虬、高井几董、寺村百池らと交際、江戸の滝沢馬琴とも交流があった。平安人物誌に掲載。83歳で歿。洒落本「つれづれ睟か川」など多数。作品は落款は定雅、印は俳仙堂。「みたれ落て 定る死守の 来まかな」。死守:しにかみ=死神。駆け落ちとは死神と隣り合わせであることを示しているようだ。この人は茶屋遊びにも熱心な粋人であった。兄、美角も俳人。参考論文:湘北短期大学川辺菜穂子氏「定雅の号と移居」、「つれづれ睟か川について」。 Teiga Nishimura was a novelist and haiku maker who was active at Kyoto.

●臥竜葛等渓 Garyukatsu Tokei ?-?
臥竜葛等渓は不明の人。作品は落款は八十八歳筆、印は臥竜葛、等渓印。大きな字で「壽」。「ありかたく 八十八の寐覚の 初日かな」。寐覚:ねざめ。数えで88歳の米寿の正月に促されて書いた。明るい初日の出を拝めた純真な喜びにあふれた素直な一句と大きな「壽」である。みているこちらまで元気な気分になる作品である。詳細不明ながら検索で出るので実在した人であり神職か大工ではないかと思う。 Garyukatsu Tokei was an unknown calligrapher. He made this calligraphy at eighty-seven years of age.

●望月武然 Buzen Mochizuki 1720-1803
京都の人。字は知常、源明、号は方壺山人。書家、篆刻、俳人。書を細井広沢に俳句は望月宋屋(1688-1766)に学ぶ。俳号は雪下庵、京都で蕪村、炭大祗と交わった。博学の人であった。平安人物志には1768年から1782年まで書家で掲載。84歳で歿。俳句集「春慶引」1770年刊。作品は落款は源明、印は知常父、方壺山人、如南山之寿。「仙家鳥逕分」。人里離れた仙境の家に鳥の棲む険しい径。逕=径:けい、こみち。杜荀鶴(846-904)の「遊茅山」という詩の一節。本邦ではあまり知られていない詩である。京都の街中に住んだ書家が人里離れた仙境の雄大な自然を描写した詩の一節を丁寧に書いているのが興味深い。印の如南山之寿は南山のように高い寿命の意味。よってこの書は70歳を過ぎてから書かれたと思う。 Buzen Mochizuki was a calligrapher who was active at Kyoto. He was also good at haiku.

●五雄 Goyuu ?-? active ca. 1803-1811
尾張名古屋生まれ。俳人で錺師(かざり師、金属を細工して飾り金具などを作る人)。名古屋の有名な俳人井上士朗(1742-1812、江戸後期-IIに作品)の門人。士朗の批把園句集に句が掲載あり。1803年五雄は方明(三河田原藩士、俳人、1822 年歿)と士朗の「秋風紀行」を共編した。1811年には鶴田卓池(1768-1846、三河岡崎の俳人)と共に士朗の古希祝いに訪問し句を吟じている。五雄は文政年間(1818-1829)に歿。作品は落款は五雄。「紫陽花や けふは空ゆく 鴉の子」。鴉:からす。あじさい(紫陽花)の季語は仲夏、旧暦5月新暦6月の時期である。子鴉がなかなか飛び立てなかったのが今日ついに空を飛んだ、その喜びを鴉と共に自分も共有し愛情を示す、また紫陽花の薄紫と色の対照を表す、微笑ましい句である。五雄は他に名古屋俳壇の岳輅(1821年歿)、桂五(1812年歿)、秋挙(1826年歿)、伊勢の徳田椿堂(1825年歿、江戸後期-Iに作品)らと交際があった。士朗から五雄への書簡もあり。今日web検索で作品は出ない。下に枇杷園七部集の一部を掲載させていただいた。参考論文、日本福祉大学青木美智男氏「一茶と尾張、三河の俳諧師」。 Goyuu was a haiku maker who was active at Nagoya. He was a pupil of Shiro Inoue who was a famous haiku maker in Nagoya.

●笹丘高  Kyukou Sasa 1756-1817
伊勢山田の医師の子。俳人で伊勢派の神風館13世。師は三浦樗良(みうらちょら、1729-1780、伊勢の俳人)。1777年(22歳)頃より活躍し、後一家を成し和歌もよくした。1812年(57歳)伊勢派の神風館の名号を継承。62歳で歿。著書に「木枯庵歳旦」など。俳諧流伊勢派:足代弘氏を初代とし神風館の名号、分明な作風を特色とし、同様の美濃派と連携し、また伊勢神宮の御師連の力もあって勢力を拡大した。62歳で歿。作品は落款は丘高。「鶯は 帰る雪みも なかりけり」。筆跡は下の美濃派野村白寿坊に似る。暖かな初春になり雪見がもうできない寂しさを鶯を自分に重ねて表す。あっさりした句である。購入当初「高」が読めなかったが、「高」に違いないと思う。伊勢では有名な人だがweb検索でこの人の短冊などの作品は出ない。しかし落款集には掲載があって全国的に名は広まっていたようだ。参考ブログ:「三重県文学ブログ」。 Kyukou Sasa was a haiku maker who was active at Iseyamada.

●野村白寿坊 Shirasubo Nomura 1738-1817
美濃以哉派の俳人、野村白寿坊の3作目。落款は白寿坊、印は白寿坊、信我、山高水長。「連ひとり ほしいつし道や 夕のくれ」。連:つれ。夕暮れの暗くなりかける時は寂しく人恋しくなることがあるね。赤い夕日が美しい時は特にそう思う。 This is the third presentation of Shirasubo Nomura who was a samurai haiku maker. He was a head of a Mino-Isai group.

●加藤千蔭 Chikaga Kato 1735-1808
江戸の国学者、歌人で名声高かった加藤千蔭の4作目。これは神主を戯画風に描いたものである。この落款は千陰と花押のように連続で書いたもので彼の落款として各所に掲載されている。 This is the fourth presentation of Chikage Kato. This is his sumi painting.

●藪内紹智六代 Jouchi Yabunouchi 1727-1800 寺村百池 Hyakuchi Teramura 1748-1836
京都の茶人、藪内紹智より寺村百池への手紙3作目。「段々春の鳥がやかましい季節です。いよいよ御安泰で起居され御目出度いです。過日は御珍蔵の御香合、御茶器を拝借しました。御門主も殊外にそれらに感心されました。拙家に大きく尽くされそれに過ぎるものはないです。今日返上しますので御入手して下さい。なお後刻川瀬へ同席の時万端改めて御礼申します。後は筆略します。乱筆御免ください。不尽」。喧:かまびすしい。不尽:手紙の結語。茶道では茶碗、香合(芳香を聞く)、掛軸などを茶とともに鑑賞して楽しむものである。ここでは藪内紹智六代が大寺の御門室を招待して茶会を行った。そこで寺村百池の所持、珍蔵する香合や茶器を拝借したわけである。御門室とは醍醐寺の門主のように高位の公家の出身か皇族である。門室が香合や茶器に感心するのをみて藪内紹智は余程嬉しかった。丁寧な礼状を出した。寺村百池は河原町四条の裕福な糸物問屋兼煙管屋の息子で高価な茶器を持っていたであろう。 This is the third presentation of Jouchi Yabunouchi who was a famous teacher of the tea ceremony. This is a letter from Jouchi to Hyakuchi Teramura showing the gratitude for borrowing the tea ceremony ceramics from Hyakuchi.

●藪内紹智六代 Jouchi Yabunouchi 1727-1800 寺村百池 Hyakuchi Teramura 1748-1836
京都の茶人、藪内紹智六代より寺村百池への手紙の2通目。宛名は「寺三右衛門様 やふ紹智」と書く。「華開き薫緑の時。残暑いよいよ増しています。お揃で御堅固なされよいです。仲衆のために金200疋、素麺数十把を御芳恵下さり忝いです。受納しました。盆中に伺いの御使いを申上ます」。寺村百池からの中元の贈り物、金と素麺への礼状である。短い文章で的確に要点を著述している。1700年代後半の茶人への贈答品がわかる資料でもある。金200疋は金2分=金0.5両である。仲衆:ここは藪内紹智の所で住み込んで働く人々だと思う。 This is the second presentation of Jouchi Yabunouchi who was a famous teacher of the tea ceremony. This is a letter from Jouchi to Hyakuchi Teramura. Jouchi shows the gratitude for receiving a gift from Hyakuchi.

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●藪内紹智六代 Jouchi Yabunouchi 1727-1800 寺村百池 Hyakuchi Teramura 1748-1836
京都の茶人。号に竹陰。茶人安富常通に学び、五代の養子となり藪内家を嗣ぐ。書、画、和歌、作陶と広く文雅に通じた。門人に俳人の寺村百池(紹賀)。74歳で歿。作品は藪内紹智より寺村百池への手紙である。「梅雨で欝とうしいです。お揃で御安康でよろしいです。今日は御釜日ですが越後の本間氏が尋ねられます。何卒一服の御振舞をお願いします。土屋御家中の宿に来られると存じます。後に参上しお礼申上ます」。本間氏は佐渡の豪族であった家で子孫が越後に住み、藪内紹智とは茶道で交際していたと思われる。ここで寺村百池は茶道でも活躍していたことがわかり、藪内紹智六代と寺村百池の交際はよく知られているがこの手紙もそれを支持するものである。 Jouchi Yabunouchi was a famous teacher of the tea ceremony. This is a letter from jouchi to Hyakuchi Teramura who was a haiku maker in kyoto.

●上柳四明 Shimei Uwayanagi 1711-1790
京都の生まれ。儒者、漢詩人。名は啓、別号に士明。朱子学者向井滄洲(1666-1731)に学ぶ。豊前小倉藩の儒者となり1758年(48歳)同藩校の助教となる。平安人物誌に1768年より1782年迄学者として掲載、よって京都住。性格は恬淡(名誉に執着無し)、寡欲(少い欲望)で自娯(自分で趣味を楽しむ)。80歳で歿。著作に「蘊古堂詩稿」。作品は落款は四明老人啓題、印は明、号士明、清處日来。甲辰=1784年=天明4年春孟、74歳の作。春孟:旧暦1月、新暦2月。「早春雑興十首」で10首の漢詩を書く。第一首「暮寒惨々透衣衾 夢裡探春情更深 楊柳晴烟李花雨 歳時酬得此霄心」。日が暮れて厳しい寒さが着物と布団を透って入る。夢の中で春の情感を探す事更に深し。楊柳に春霞に雨中の李花。時に酒を応酬するとここに天国の気分になる。惨:厳しい。衾:布団。裡=裏:中に。晴烟:せいえん、晴れの中の霞。李:すもも。李花雨:雨中の李花は大変きれいとされてきた。酬:杯に酒を注ぎ合う、応酬。霄:しょう、空、天国。未だ寒い早春の感情を巧みに表現した。自作であるが、漢詩に見られる単語は多い。 Shimei Uwayanagi was a Jukyo scholar who was active at Kyoto. He was good at kanshi.

●作者不明 unknown calligrapher ?-?
下の高井丹崖の画の長い痛快な賛である。落款は辯(?)世子、印は尚古、O胤。辯:是非を論ずる。尚古:古い時代の文化を尊ぶこと。「狐は罠にかかり粋人は川へはまる。自分は(化けて)変ったと思っていても狐の好物の焼鼠の臭いを嗅ぐと花魁の色に迷ってついに尾を出して正体を現す。初回が3回、次回も次回もとなって皆後悔の涙を5升(9リットル)も流す。もし罠にかからない狐と川へはまらない粋人がいたら昆布山椒によい茶を御持参しよう。昆布、山椒、茶ばかりばかり」。和歌1句「色里は 狐の罠よ 友達も ひとつ穴にて みな待れけり」。色里とは狐にとって罠だよ、友達も皆(色里の)穴で(罠に)かかるのを待たれているよ。聞く:匂いをかぐ、例文:香を聞く。焼鼠:狐の大好物。粋が川へはまる:優れた人が失敗する。狐が尾を出す:見えなかった正体が現れる、ここは固そうな人が色里に入り浸りになる。昆布はよろこぶで、山椒を茶に混ぜたものは福茶と言われる。昆布+福茶で盛大なお慶びをする意味、ここでは色里に何回か通って罠に掛らず入り浸りにならないのだったら稀なことでその時は昆布+福茶で大祝いをしてあげようとの意味。おちさん:御持参。作者に迫ろうと画像処理もしたが不明である。関防印の「尚古」はこの人の名や号ではない。内容は警世的でかな文を得意としていて和歌が一句あるので小説家か国学者ではないだろうか。O胤の名も国学者らしい名である。名は現代に残っていない人のようだ。警世的な内容をユーモアを交えて興味深く洒落た作文をして記している。特に「後悔の泪が五升」や「狐の罠、焼鼠」、「昆布、山椒、茶」は巧い。 This calligraphy was written by an unknown calligrapher. He seems to be a scholar of old Japan related to shinto.

●高井丹崖 Tangai Takai ?-? active ca. 1804-1818
京都の人。名は麟、字は秋澗、号は丹崖。四条派の画家。円山応挙、松村呉春の風を慕い花鳥画を画く。文化年に活躍し古画備考に掲載。作品は落款はなし、印は高麟之印、秋澗。この人の作品である。花魁と遊ぶ粋人と焼鼠を嗅ぐ花魁を画いた。焼鼠は上の賛者参照。 Tangai Takai was a painter who belonged to Shijo school.

●小沢蘆庵 Roan Ozawa 1723-1801
大坂生まれ。歌人。冷泉為村の門人。大坂で育ち、18歳以前より京都に住み、伴蒿蹊、上田秋成と交わる。香川景樹を指導した。歌の技巧より人の感情を重視した作風を作った。この作風は香川景樹、太田垣蓮月に受け継がれた。79才で歿。著書に「六帖詠藻」。作品は落款は蘆庵。2句書く。第一句「海上霞 かきりなき あをうなはらに たちわたる 春のかすみや あまのうきはし」。見渡すかぎりの青い海そこに現れた春霞はまさに天の浮橋だよ。天の浮橋:春と神代と関連して読まれる、「明治以後」の東久世通禧に詳しく記載。第二句「山家夕 さひしきは 折端の松に のこる日も ややかくれ行 山かけのくれ」。山の端の松に日が沈みゆくのがさびしい山里の日暮れであるなあ。折端の松:山の形の先端の松。端=end。山かけ:「住む人の稀な山里」の意味で和歌によく読まれている。連歌と折端を下に解説した。 Roan Ozawa was a waka maker who was active at Kyoto.  

●大島完来 Kanrai Oshima 1748-1817
伊勢津藩士の俳人、雪中庵四世で江戸住の大島完来の2作目。「ほととぎす あらおもしろの 四月やな」。おもしろし:興味深い、趣あり、珍しい。感動の「あら」がよく効いた俳句である。「あらおもしろの」も意外に珍しい表現。最後の「やな」は「かな」に比較して俳句での使用は稀であるが当りが柔らかく口語調になる、ここでは「あら」に呼応して大変よい。全体として口語調の言い回しでひょうきんさを出しており親近感が強く面白い句となった。 This is the second presentation of Kanrai Oshima who was a haiku-maker. He was active at Edo.  

●石里洞秀初代 Doushu Ishisato 1709-1785
筑前福岡藩の画師。名は美章。駿河台狩野家の狩野元仙に師事。師の没後、師の子狩野洞春美信(1747-1797)を教育し駿河台狩野の名跡を嗣がせた。法橋となる。77歳で歿。墓所は駿河台狩野家内にある。作品は落款七十翁洞秀画、印は法橋。愉快な表情の鯉の墨絵である。初代の養子の石里洞秀2代目も筑前福岡藩の画師で法橋になり活躍しており紛らわしい。下に落款、印を集めて検討したが鑑別できることが判明した。 Doushu Ishisato was a painter who belonged to a governor of Fukuoka. He was taught by Gensen Kano who was a head of Surugadai Kano school.  

●池田治政 Harumasa Ikeda 1750-1819
備前岡山藩主5代目。父は4代目池田宗政で江戸藩邸で生誕。老中松平定信の寛政の改革に従わず「越中(定信)に越されぬ山が二つある。京の中山(中山愛親)に備前岡山」と歌われた。文人として書、絵画、俳諧に作品を残す。儒教を重視した閑谷学校を再興。69歳で歿。作品は落款はなし、印は治政、一以貫之。大名の作品は一般的に落款を入れないものが多い。印の「一以貫之」は論語の孔子の言葉で有名。一で以って之を貫く。儒教を重んじたこの人らしい言葉。画の関羽は関帝廟=武廟と祭られ、孔子廟=文廟と並ぶ。作品は文武両道を重視している。下に父の池田宗政の作品。 Harumasa Ikeda was a governor of Bizen. He was good at calligraphies and paintings.  

●鈴木道彦 Michihiko Suzuki 1757-1819
仙台の医者の子。俳人。加舎白雄(1738-1791、江戸の俳人)に入門。1788年(32歳)頃江戸に出る、以後医業と俳人で活躍。建部巣兆、夏目成美と共に江戸俳壇の三大家とされた。井上士朗、亀田鵬斎、小林一茶らと親交した。応々は妻で俳人。62歳で歿。作品は落款はみち彦。上の「み」が平たく、「ち」と「彦」が一連で書かれる。「筑波根や 暮るる霞は 野からたつ」。筑波山の暮れ時の霞は山頂ではなく山裾の野から現れてくる。きれいな景色をそのまま詠んだ。筑波山は霞がよくかかるようだ。 Michihiko Suzuki was a haiku maker who was famous at Edo.  

●高天白雲 Takamanohakuun ?-?
高天白雲は不明の人。下の鈴木鄰松の寒山拾得の双幅に賛を入れた。落款は行年六十翁高天白雲しるす、印は葛城O士、一号陸間、筆硯精良人生一楽。筆、硯、書が好きな人。長い賛をかな主体で書いた。「なんと寒山は衣服は松葉色での仕丁(?)に似ているが文殊菩薩の生まれ替りである。また拾得は俳諧僧の羽織でもない、普賢菩薩の生まれ替りである。すいな道士たちが持つ巻物はくだを巻くためではない、竹箒はちりを掃いて応対するためである。ふたりはいつも仲のよい二幅対である。掛物は古いのも古法眼家の宝のこれも千金の価値である」。なんて:なんと。誹諧沙=俳諧の僧。すいな道士:推拿(すいな、中国のマッサージ)を行う仙力の士。くだを巻く:わずらわしくしゃべる。ここはわずらわしく議論する。くだくだしい:わずらわしい。洒掃:さいそう、水を撒いて箒で掃く。洒:水を撒く。二幅対:2本で1つの掛物。この掛軸も二幅対である。古法眼:狩野元信(1476-1559)、狩野派画師家の祖。この作品は勿論狩野元信の作ではないが同様に値千金と讃えている。さてこの高天白雲、葛城(印)は高天彦神社(たかまひこ、奈良県御所市)に深い関連がある人に違いない。高天彦神社:古代豪族葛城氏の守護神で天孫降臨の高天原といわれた、社殿背後に白雲岳(標高694m)がある。また文に「しるす」などかなを好んで使う。この画は江戸で鈴木鄰松に画かれ、関西に渡って大和の高天白雲が大きな字で賛を入れた、結果は大変よくなった。 Takamanohakuun is unknown today. He is probably related to shinto.  

栞170 

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●鈴木鄰松 Rinsho Suzuki 1732-1803
京都の生まれ。名は茂銀。小十人組(将軍外出の護衛役)の武士。画を狩野栄川に学ぶ。同世代の加藤文麗、高田円乗と並び江戸の練達の画家とされた。群蝶画英(英一蝶の画をまとめた画集)1778年発刊。72歳で歿。作品は落款は鄰松茂銀画。寒山と拾得の双幅画である。衣の線に非常に太い濃い墨線を使うのは1700年代後半によくみられる。ふたりの顔貌はやや狂人風だね、下の山県鶴江の作ほどではないが。この人の作には人物画が多い。賛は高天白雲で上に解説。 Rinsho Suzuki was a samurai painter who was active at Edo. He was good at the figure paintings.  

●伴蒿蹊 Kokei Ban 1733-1806
近江八幡の商家生まれの国学者、伴蒿蹊の3作目。作品は伴蒿蹊から有沢宗意への申上事。「あらたまの春とは続かないだろう、年と続けるものと為家卿がおっしゃられたことがある。この理(ことわり)を言われたが、近代の大家も和歌に春と続けているように見える。またいにしえはあらたまの月日と続く歌もある。ここに使っても罪は許されるのではないか。唐様の書のことは唐でも本邦でも書式は流行にて転ずることはよくある。書を究めて将来を楽しむべきものでしょうか」。の給う:おっしゃる。弄ぶ:もてあそぶ、楽しむ。和歌会の席で蒿蹊が「あらたまの春」の短歌を作った。そこで宗意が「あらたまの年」ではないかと意見した。それに対しこの申上書を書き送った。「春」は他の大家も使っている、いにしえには「月日」と続くのもある、だから「春」でも罪にはならないと。最後の2行は書道の唐様と御家流のことである。唐様も御家流(大和流)も変化するものだから自分の書を究めて書を楽しめばよい、納得できる見解だね。有沢宗意:?-?、出雲松江藩家老で石州不昧流茶人、藩主松平不昧(1751-1818)に優遇され、茶室明々庵(1779年)、菅田庵(1792年)を造営される。藤原為家:1198-1275、公卿、藤原定家の子で歌道家を嗣ぐ、続古今和歌集を撰す。 This is the third presentation of Kokei Ban. This is a letter comment which was sent to Soi Arisawa who was a karo of Matsue. The content is related to a word "aratamano".  

●香川黄中 Kochu Kagawa 1732-1821
京都生まれ。香川家の歌人で梅月堂4世。名は景柄。徳大寺家に仕え、香川景樹、香川景嗣を指導。平安人物誌に常に掲載。90歳で歿。家集に「黄中詠藻」。作品は和歌懐紙で落款は黄中。「氷解 うくひすの涙のつらら いかならん 谷の流は けさきこゆ也」。氷解ける:鶯の涙のつららはどうなっているのだろう、山は雪溶けで谷では水の流が聞こえるのだが。「涙」と「つらら」がやや読みづらい。過去の和歌集には鶯、涙、氷、つららを含む歌は多い。山の雪解けの水の流れと鶯の氷った涙を対比させる歌は他になく新趣向で大変巧い。この人は「黄中」の落款が多くてこの号を大変好んでいたようだ。黄中の養子香川景嗣刊の「黄中詠藻」には黄中の膨大な数の和歌があるが、鶯の2首を掲載させていただいた。また香川家の歌人を掲載。 Kochu Kagawa was a waka maker who was active at Kyoto.  

●芝山持豊 Mochitoyo Shibayama 1742-1815
公家の子。自身も権大納言正二位で歌人。天皇への伝奏の役を務めた。本居宣長を慕う。門下に糟屋磯丸ら。74才で歿。作品は落款は前参議持豊。「除夜:小夜ふけて かけのとかなる 灯の 花にもあすの 春はみしけり」。除夜の夜が更けて月明かりが穏やかである。参拝の人の灯の花がたくさんあるが、明日は新春であるなあと観える(見える)。月影:月明かり。小夜:夜。のどか:穏やか。最後は目に見えて観える(理解する)の意味。この人は公家だが歌は花、月、影を詠んだものが多く天皇、神道礼賛の歌はむしろ少ないようだ。 Mochitoyo Shibayama was a kuge who belonged to the royals. He was good at waka.  

●豆花 Toka ?-? active ca. 1744
尾張国愛知郡前津小林村(現名古屋市)の人。別号は栄延。太田巴静(1678-1744)の門人。編集「南無如月」1744刊、師の追善の句集。作品は同世代の名古屋の俳人横井也有との合作である。落款は栄延。栄延の左は「春画」で男女の画の意味と思う。画の女性は刀を差していて強そう、そして後の男性が男郎花であろう。洒落た軽妙な画である。「南無如月」から1句引用させていただいた、誠に師に対する敬慕にあふれた句集である、序文がすばらしい。 Toka was a haiku maker who was active at Nagoya. He painted the picture.  

●横井也有 Yayu Yokoi 1702-1783
尾張藩の重臣で俳人の横井也有の2作目は豆花(上に記載)との合作。暮水は別号。作品は落款は八十叟也有、印は暮水。「むらさきに 咲て猶よし 男郎花」。男郎花:おとこえし、白い多数の花が咲く。男郎花が「むらさきに咲く」とはどんな意味だろうか。むらさきは人同士の縁があることを表すが、細かく考えず俳句の語感を味わえばよい。画は豆花の作で太田巴静の門人。太田巴静(1678-1744)は横井也有の先生でもあった。 This is the second presentation of Yayu Yokoi who was a haiku maker in Nagoya.  

●井上士朗 Shiro Inoue 1742-1812
名古屋で活躍した俳人井上士朗の2作目。二つの鳥の俳句である。「鶯は よき友よ日に 二度三度」。うぐいす(鶯)は季節は初春。次に来る閑古鳥の句と並べて、鶯は寂しい庵に日に2度か3度来るよい友人という。「庵のもの 分て喰らうそ 閑古鳥」。閑古鳥は郭公のことで季節は初夏。閑古鳥で人が少ない寂しい庵と鳥の郭公を懸けている。閑古鳥は庵へ来て庭の虫などを食べる、一方住人の士朗も庭にできる野菜などを食べる。まさに分けて(share)食べている。どちらも鳥への愛情を感じる俳句だね。 ますます士朗ファンになってきた。 This is the second presentation of Shiro Inoue. He was a haiku maker who was active at Nagoya.  

●鏑木梅渓 Baikei Kaburagi 1749-1803
長崎の画家、鏑木梅渓の2作目。名は世胤又は世融。作品は落款は瓊浦梅渓山人、印は世融之印、子和。淡彩のすっきりした山水画で輪郭の線は細く丁寧で名古屋の画家の山水画のようである。子和は別号のようで他作品の印にもみえる。 This is the second presentation of Baikei Kaburagi. He hes been famous for the Nagasaki style of paintings.  

●秦良選 Ryosen Hata ?-? active ca. 1797-1813
京都の人。号は嘯風亭、別号雄選。字は択甫。画扇屋を営む。池大雅に師事する。1797年に清水寺で新書画展観を開催した。1813年の平安人物誌に掲載。作品は落款は嘯風書、印は択甫、雄選之印、不破産人。先祖は不破氏かもしれない。「九霄迥賞幽万壑通」。霄:しょう、大空。九霄:大空の高い所、九天。迥:はるか。壑:がく、深い谷。「大空がはるかかなたに広がり、地は無数の幽谷が一望に広がりすばらしい」。唐の李白の詩の一節である。作品の字は朴訥な印象で池大雅の字によく似ている。師の池大雅も画扇屋で扇絵を販売していた。下に1797年書画展覧会の作品の1部を挙げた。 Ryosen Hata was a pupil of Ikeno Taiga. He was active at Kyoto.  

●河島雪亭 Setutei Kawashima ?-? active ca.1789-1833
美濃岐阜の人。別号は尚明、字子文、通称は助次郎。1740年前後の生まれで寛政より天保(1789-1833)に江戸四谷から市ヶ谷に住み田安家に仕えた画家である。交際の人は木曽代官で書家の山村蘇門や江戸麻布の漢詩人内田鵜洲と1740年前後の生まれである。また雪舟の末裔で名手とされた。81歳以上の長寿であった。作品は落款は雪亭尚明、印は号雪亭、尚明字子文。牛飼いと牛の草体画である。この人は落款や印に「尚明」を多用しておりこの号を大変好んだ。田安家とは8代将軍徳川吉宗の次男を祖とし10万石の御三卿(将軍の後嗣の資格)で江戸城田安門の内に住。名家お抱えの画家だが各種画家本には記載がない。しかし作品は時々目にする。杉本欣久氏の論文がなければこの人の事跡は全く不明であった。下に少々まとめた。参考論文:黒川古文化研究所杉本欣久氏「江戸中期の漢詩文にみる画人関係資料」。 Setutei Kawashima was a painter who was active at Edo. 

栞160 

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●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
伊予大洲藩主の子加藤文麗の7作目。落款は文麗都、印は豫斎。寒山が崖下で筆をとり壁に文を書く、近くに拾得が見て居るはずである。このような古典的題材の墨絵の略画は1700年代に多く画かれた。衣に滲みを巧みに使う。 This is the seventh presentation of Bunrei Kato. This painting depicts Kanzan writing on the rock with a brush.

●服部宗賢 Soken Hattori 1752-1820
大和国高市郡越村(現奈良県高市郡明日香村越)の生まれ。家は代々医業である。15歳で京都へ行き畑黄山(天皇の侍医)、小野蘭山(本草学者)に学ぶ。のち大和高取藩主の侍医となり、年間1500人の患者を診療した。1812年(61歳)江戸に出て名声を博した。69歳で歿。著書に「内外治療諸家秘方」。作品は服部宗賢から森村庄左衛門への手紙。「一筆啓上します。暖和の時節皆様お揃で御壮健で恭賀します。御同苗庄三郎様日柄よく御婚礼の祝儀万端整い御目出度いです。軽少のものですが扇子とお酒一荷進上します。皆様へ歓びお伝えください。私の家族のものもご祝詞申上げるようとのことです」。御同苗:同じ苗字の。麁酒:あらざけ、粗末な酒、謙譲語。一荷:天秤棒の両端にかけて、肩に担う荷物、2樽。孰も様:いずれも様、皆様。森村庄左衛門は大和国高市郡醍醐村(現橿原市醍醐町)の人で近辺諸村を含めた大庄屋であった1791年頃の人。森村庄三郎は養子。典型的な婚礼祝いの手紙。この時分は服部宗賢は自宅で医業をしていた時で森村庄左衛門とは知遇であったことがわかる。字は丁寧で読み易くかっちりした性格の人のようだ。参考論文:二松学舎大学、町泉寿郎氏、「服部宗賢文書の研究」。 Soken Hattori was a doctor who was active at Asuka, Yamato.

●石原徽 Ki Ishihara 1758-1814
讃岐琴平阿波町生まれ。琴平の名家(醸造)である牧氏の分家。字は后琴。1773年(15歳)京都に出て皆川淇園に学び詩、書を得意とした。「淇園文集(1799年刊)」に掲載。1806年(49歳)菅茶山と交際。57歳で歿。作品は落款は石原徽、印は石原徽、后琴氏。徽:美しい、善良、静か。「青松多寿色 白石恒夜明」。唐の詩人、孟郊(751-814)の「西上経霊宝観」という詩の一節。青い松は長寿の色、白い石は夜の月明かりの色。「青松多寿色」は「江戸後期-I」の秦星塢にもあるわかり易い文だが、「白石恒夜明」まで書いたものは少ないようだ。だけど生き生きとした松の緑に対して静かな月夜に白石の白を置くのはすごくよいね。心与月倶静:心と月倶に(ともに)静かなり。今日この人の作品は出ない。 Ki Ishihara was a Jukyo scholar who was active at Sanuki. He was good at kanshi and calligraphy. The meaning of the poem is as follows. "The blue-green color of a pine tree is the symbol of a long life. The white color of a white stone is the symbol of moonlight calm."

●加藤千蔭 Chikaga Kato 1735-1808、喜多武清 Busei Kita 1776-1857
江戸の国学者、歌人で名声高かった加藤千蔭の3作目。「山桜いつの春より 咲そめて ひとのこころを 花になれしむ」。この山桜はいつの春から咲き始め、人の心を花になれ親しめてきたことだろうか。山桜:古くからの野生の桜で和歌にも数多く詠まれる。きれいな素直な表現の和歌。この作品の所持者は短冊を中央に貼り、周囲に山桜の画を添えるよう依頼した。しかも江戸の谷文晁門下の大和絵の巧者喜多武清である。結果清楚な合作ができた。 This is the third presentation of Chikage Kato. Chikage Kato was a famous scholar of old Japan related to shinto. His calligraphies and waka were very popular among Edo people. The meaning of this waka is as follows. "When did this cherry tree begin blooming? The cherry blossoms has been loved by people since then."

●風早公雄 Kimio Kazahaya 1721-1787
京都出身の公家。父も風早家の当主。1779年(59歳)権中納言、1782年(62歳)正二位となる。威儀をただし、人に面接する時烏帽子に袴という正装をくずさなかったという。67歳にて歿。作品は表装された和歌2首。「えならすに うへし砌に さまさまの 色をつくして にほふ八重菊」。えならず:すばらしく。砌:みぎり、時節。八重菊が色と匂いをつくして盛りですばらしいことだ。「世にはいまた ふりせぬ 菊と五十鈴川 名さへはなさへ たくひなくして」。たぐいない:比類なくすばらしい。ふる:旧る、古くなる。ふりせぬ:廃れない。菊と伊勢の五十鈴川は名前も花も類まれで廃れることはない。和歌で五十鈴川はしばしば"清い"と合わせて使用される。世襲の公家で御所付近での生活に明け暮れし、威儀正しい人である。和歌はさすがに真面目でこの人にぴったりだ。 Kimio Kazahaya was a kuge who belonged to the royals. This poem praises the Royal and shinto.

●其雷 Kirai ?-1771
其雷は京都の島原俳壇「不夜庵」に属する人で別名かたばみ屋藤右衛門。揚屋主人で管鳥の父として知られる。管鳥(?ー1818):京都の島原揚屋百花楼主人で俳人、炭太祇の門人、几董「其雪影」、蕪村「夜半楽」に登場。島原俳壇:炭太祇(蕪村の親友)が花街島原で揚屋の亭主たちに俳諧を教授した連中で「不夜庵」と称した京都俳壇の一勢力、句会で蕪村や高井几董と親しく交流。几董発句全集には「1777年高井几董が管鳥の父其雷の7回忌(満6年後)に追悼句を手向ける」とあり、其雷の死亡年は1771年と知られる。落款は其雷。「手向: 槁玉や けふころさかりの 手向草」。手向:たむけ、死者の霊に物を供えること。手向草:たむけ草、桜の別称、古くは桜を死者に供えた。槁玉:こうぎょく、白い玉。槁:こう、かれる、枯れて白くなった、死んだの意味もある。「こ」=故を使う。「白い玉のような白い蕾が今日を盛りの手向草(桜)だなあ、死んだ魂には盛りの桜を手向けに持たせよう」。寒枝清槁玉粼粼:寒い季節の枝の槁玉(梅花)が清く粼粼としている。粼粼:りんりん、白い石が清流に見える様。西行は「願わくは 花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」。昔の人は桜に死を連想した。島原揚屋の俳人にしてはきれいな俳句。今日其雷の名はほぼ忘れ去られている。参考書:几董発句全集、淺見美智子氏編集、1997年八木書店発刊。

●堀内宗心不寂斎 Horinouchi Soushin Hujakusai 1719-1767
1700年代の茶人。号は不寂斎。表千家流の茶家の堀内家初代仙鶴の養子で同家2代目となった。表千家7代の千宗左に茶道を学んだ。49歳で歿。不寂斎が茶の湯を語ったことを門弟がまとめた書、「不寂斎聞書」がある。堀内家は千家に極めて近い茶家とされる。作品は堀内宗心から上醍醐寺慈心院への書状。「上の醍醐 知心院」とあるがこれは慈心院のことであり、時代は1750年前後のものである。「手紙を啓上します。余寒強い時ですが御平坦になされ大悦です。さて毎度御苦労ですがそちらより上米が着くはずが米の車が着きません。何とぞ院主様より蔵元金預かりに早く米が京に登るよう御指示下さい。私は油小路竹屋町上るの三谷吉之助の借宅へ移ります」。平湛=平坦。湛:水を湛(たた)えた。堀内宗心は上醍醐寺慈心院の院主や奉行に茶道の指導をしていたようだ。その指導料が未着なので早く送るよう催促の手紙である。堀内宗心不寂斎の筆跡は現存していないのではないか。この書状は慈心院で一旦廃棄され、屏風の中張りに使われたものである、そして近年屏風から剥がされて世に現出した。醍醐寺には三宝院などのある下醍醐寺と上醍醐寺とがある。慈心院は標高450mの醍醐山頂付近にあり、上醍醐寺の実務の場所だったが今はない。なお堀内家4代目と最近の12代目も「堀内宗心」と名乗っている。慈心院関連の他の文書はホームページに掲載。 Horinouchi Soushin was a teacher of the Omotesenke tea celemony. This is a letter from Horinouchi Soushin to Kamidaigo Jishinin temple which was written around 1740. Soushin is asking a head of Jishinin to send a tuition fee quickly.

●凡玉 Bongyoku ?-?
凡玉は不明の俳人。おそらく野沢凡兆(1640-1714、芭蕉の弟子)の門人か信奉する俳人だろう。「西行庵にて: 其縁は 今も清水に すみれ草」。その縁の廻り合わせは今も清水がありすみれ草が咲いている。大和国の吉野山に西行庵がありここで西行(1118-1190)が清水の句を詠んだ。またここには芭蕉も訪問して句を詠んでいる。芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」(野ざらし紀行、大津にて)は大変有名。凡玉は西行庵に来て湧き出る清水と近くに咲いたすみれ草をみて西行と芭蕉という二人の和歌俳句の巨匠との廻り合わせを思い俳句を詠んだ。 Bongyoku is an unknown haiku maker. He came to the Yamato Saigyoan which Saigyu dwelled at. He saw a spring and the sumireso. Thereafter he felt as if he met Saigyo and Basho there. The spring was a symbol of Saigyo, while the sumireso was a symbol of Basho.

●大岡春川 Shunsen Ooka 1719-1773
播磨出身。名は甫政(ほせい)。大坂で活躍。大岡春卜に学び養子となる。1764年(46歳)法橋になる。仙洞御所の障壁画を画いた。55歳で歿。著作に「絵本福寿草」:1737年、国会図書デジタルにあり。作品は落款はなし、印は甫政之印。ほていさんが大きな荷をどっこいしょと置いて手とお腹をを大きく伸ばす。魅力的な明るい画である。この人が義父の大岡春卜と製作した絵本福寿草は後世の画家への草花のよい手本となった。大岡春川が跋文を書いているが謙虚な素晴しい文である。「この福寿草の本は私の筆だが私の筆ではない。往古より伝わった写本に基づいたものであり見る人は古人に逢ったに似ている。だが(私は)未煉の筆なので写違いが多くあろう。その悪きを捨て、宜しきを拾ってもらい好士の一興となればと思う」。未煉:いまだ鍛錬されていない。栄多:「はへばへ(栄々)」とかなを打っている、写し誤りが栄々と(目立って)多いとの謙譲の意味。好士:立派な人。一興:一つの楽しみ。義父大岡春卜の作品は「江戸前期」に掲載。 Shunsen Ooka was a painter who was active at Osaka. His father in law was a famous painter whose name was Shunboku Ooka.

●関思恭 Shikyo Seki 1697-1766
常陸土浦藩の書家、関思恭の5作目。作品は落款は関思恭、印は関思恭印、本姓伊藤。よく使用されている印である。「梅花帯雪香」。梅の花は雪を帯びて香りを散じる。きれいな情景が浮かんで来る。作品の依頼者の趣向で福原五岳の作品と合せて表装された。帯が縦に大きく書かれてバランスがよい。この作は好きである。 This is the fifth presentation of Shikyo Seki. "Ume blossomes give us sweet-smellings on a snowy day."

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●福原五岳 Gogaku Fukuhara 1730-1799
備後尾道の生まれ。号は玉峰、名は元素、字は子絢。池大雅に入門し活躍し大雅門の俊英とされた。大坂に移り林閬苑、岡熊嶽、鼎春嶽、黒田綾山など著名な多くの画家を指導した。70歳で歿。作品は常陸土浦藩の書家関思恭の作と合わせるが、紙質が異なり同時のものではないと観る。だがこの梅の略画風の墨画は「梅花帯雪香」の5字にぴったり合う。画商が依頼者のために合わせて作ったものだろう。依頼者は地味な作品が好きな上位の武士だと思う。この人には度肝を抜くような作品はないが手堅い明るい画が多い。多くの弟子に好かれた穏やかな性格の人物であったに違いない。 Gogaku Fukuhara was a painter who belonged to Taiga Ike. He had taught many famous painters in Osaka.

●井上重厚 Juko Inoue 1738-1804
京都の生まれ。天台宗の僧で俳人。五升庵蝶夢の門人。1770年(33歳)京都嵯峨野に落柿舎(向井去来の舎)を再興して住む。1786年(49歳)江戸に住み奥羽地方にも活躍。1792年(55歳)近江粟津の義仲寺住職となる。67歳で歿。編著「たわらの口」など。五升庵蝶夢:1732-1796、浄土宗の僧で京都岡崎に住み多くの門人を育てた。作品は落款は重厚。「友喰の 犬も眠らす ほととぎす」。友喰する獰猛な犬も眠らせるほどのほととぎすの美声。比較的若い時の作品ではないだろうか。なおこの作品の個性ある縦長の落款は落款集に掲載があった。参考論文、竹内千代子氏:「重厚の江戸移住」。 Juko Inoue was a haiku maker who was active at Kyoto, Edo and Oomi. "Even a brutal dog becomes sleepy after hearing the cute voices of little cuckoos."

●山県鶴江 Kakuko Yamagata 1754-1803、風月魯衲 Hugetsu Ronou ?-?
山県鶴江は周防国吉敷郡生まれ。長州萩藩士。字は子粲、別号に県英、臥遊亭。吉敷毛利家に仕え書画を学ぶ。1788年(35歳)長州藩主毛利重就に士籍に徴された。以後独自の画風を確立。書、篆刻、俳句もよくした。49歳で歿。作品は落款は長塵(?)縣英寫、印は子粲、臥遊亭主人。壬子=1792年=寛政4年冬、39歳の作である。粲:さん、光輝く。ここの寒山、拾得は賛にあるように目つきからは明らかに狂人のようだ。寒山、拾得はかわいい子供に画かれることも多いが、古い絵は狂人風が多い。拾得は国清寺で箒をもって作務をし、友人寒山は巻紙に筆をもつ、この絵は寒山が月を指し月の光のもとに2人が歓喜饒舌する。賛の風月魯衲は不明の僧。落款は風月魯衲拝題、印は文章経国之大業不朽之晟事、承壁魯頑慧文杜多、O海。晟:せい、日が成る、明るい。杜多:ずだ、修行僧。「国清寺の裏で2人の顛狂が月に嘯ぶき、風にうめく。歳は不定。豊干が来て2人の饒舌を見て俄に足を移動させ自分の房に入った」。顛狂=癲狂:てんきょう、狂人。嘯:口をすぼめてしゃべる。吟:うめくようにしゃべる。歳章:歳の区切り。饒舌:おしゃべり。俄に:にわかに。豊干:ぶかん、唐の禅僧、天台山国清寺に住し,奇行の僧で虎に乗る。四睡図:豊干、虎、寒山、拾得が仲良く眠る画でやすらか、「江戸後期-II」に月僊の四睡図の作品あり。 Kakuko Yamagata was a samurai painter who was active at Choshu. This painting depicts Kanzan and Jittoku.

●井上士朗 Shiro Inoue 1742-1812
名古屋近郊の守山生まれ。号を朱樹叟。叔父で医師井上安清の養子となり医術を仕事とした。絵画を勝野范古(「江戸後期-II」に作品)、俳句は久村暁台(尾張俳壇の重鎮)に学ぶ。鈴木道彦、江森月居と共に寛政の三大家のひとり。71歳で歿。句集に「枇杷園句集」、「麻刈集」。作品は落款は士朗、印は朱樹。「朱樹」印は彼の多くの作品がこの印でお好みだったようだ。味のある俳画である。「月と日の間に澄めり 不尽の山」。不尽の山:富士山。日没の夕焼けの時、裾野広く富士山が右に月、左に日を見て、中央にくっきり澄んでいる。雄大だね。蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」が有名だが、士朗の方がよいと思う。 Shiro Inoue was a haiku maker who was active at Nagoya. The meaning of the haiku is as follows. A sun on the left and a moon on the right are seen at a time of sundown. Mount Fuji is standing so clearly at the center.

●永田観鵞 Kanga Nagata 1738-1792
京都の生まれ。名は黎祁道人。中国の李北海の書を学び、江村北海、服部蘇門に儒学を学ぶ。性格は温厚で平安一等人物とも云われ、書の門人は1000人を超えた。伴蒿蹊(「江戸後期-II」に作品)著の近世畸人伝に掲載、豆腐を好み糠漬けを大変嫌った。55歳で歿。著作に「観鵞堂詩集」など。作品は落款は拝観鵞堂、印はO黎栗、天道无明染。書は「鶴舞千年樹」。千年の寿命の松の樹の上で鶴は舞う。おめでたい言葉で長寿を祝う時に頻用された。拝とあるので長寿の誰かを祝って書かれた。梁田蛻巖の作が「江戸前期」に掲載。鶴の篆書体がきれい。字は丸く御家流に近い。この人には「東山三絶図」という円山応挙、僧六如との合作がある(奈良市大和文華館所蔵)。3者はそろって京都の文化人で交流していた。篆書体は1700年代後半に流行した。関其寧、小橋道寧、関思恭などがある。三井親和も有名。 Kanga Nagata was a calligrapher who was active at Kyoto. He had a thousand of pupils. He was an intimate friend of Okyo Maruyama. "Cranes are dancing on a tree of one thousand years of age." This tree is a pine tree.

●斎必簡 Hitukan Itsuki 1729-1778
安芸国沼田郡中調子村(現広島市)生まれ。号は静斎。庄屋の子だが服部南郭、宇野明霞に学ぶ。儒学のほか医学、神道にも通じ、京都で門弟数千人に講説した。摂津尼崎藩、伊予松山藩、出羽山形藩など諸侯で講説を聴く者が多く、人気は高かった。また有栖川宮より「文憲先生」の諡号を賜わる。平安人物誌には1768年ー1775年掲載。50歳で歿。著書「傷寒論特解」、「繋辞伝釈」など多数。作品は落款は斎必簡書、印は必簡、文春徳之華也。「古瓦研記」、多字の書であるが、内容は興味深いので部分を拡大して掲載。1尺5寸=45cm。研:とぐ、みがく。焚:焼ける。入手した東大寺の古瓦の由来を年記を交えて書いている。そしてこの瓦は神ではないが、悪魔から私を守る「善」のお守りとみなしている。この年記より1765年=明和2年、37歳の作。この文中で1700年代末には天皇を皇帝と呼んだことがわかる。「帝」=みかどなので「帝」の字は違和感はない。だが「皇帝」にはナポレオンなどのように胸に多数の勲章を飾り、サーベルを持って威圧的というニュアンスがある。日本では明治天皇より前の天皇の肖像に武威を強調する絵画はなくむしろ和歌を嗜む文人の印象がある、「皇帝」にはやや違和感を感じる。早稲田大学所蔵の東大寺の瓦の拓本を掲載、これが斎必簡の所蔵した現物かどうかは不明。弟子に馬淵嵐山(「江戸後期-I」に掲載)。この人の著書の多くが国会図書館にあるが、デジタル公開されていない。 Hitsukan Itsuki was a Jukyo scholar who was active at Kyoto. He had published a lot of books. The meaning of this calligraphy is as follows. He has a ceramic fragment(45cm) of the ancient roof tile. The roof tile was made for a lecture building of Todaiji temple at around A.D.736. The building was burnt down at 1185 and was reconstructed afterwards. The fragment was collected at 1635 when the building was burnt down again. The present emperor polished the fragment at three years ago, 1762 when the origin of the fragment was known. My uncle told me the story and said that the fragment is a very precious material. I thought that the fragment was an useless dirty material. Now I have and watch the fragment in 1765. I think this must be a piece that protects me from a devil.

●桂宗信 Munenobu Katsura 1735-1790
大坂の生まれ。月岡雪鼎の門人。字は宗信。明和から天明1764ー1789年、非常に多くの読本、狂歌本の挿絵や肉筆浮世絵を描く。法橋に叙せられる。代表作に「狂歌両節東街道」。56歳で歿。弟子に桂みき女。桂みき女:大坂に住み、天明から享和に滑稽本の挿絵や肉筆浮世絵で活躍。作品は落款はなし、印は法橋、宗信。「宗信」白文方印は他の作品にもみられる。達磨が葦の葉にのって揚子江を渡る図のようだ。やさしそうな達磨さんだね。衣の太い墨線は1700年代後半の人物画によくみられる。下の石田幽汀や高田敬輔の作品を参照。 Munenobu Katsura was a painter who was active at Osaka. He was good at the illustrations of the books. This painting depicts Daruma. The very thick brush lines are a character of the paintings made in the late 18th century.

●五十嵐浚明 Shunmei Igarashi 1700-1781
越後新潟の画家、五十嵐浚明の3作目。作品は落款は法眼浚明写、時齢七十二。印は浚明。もう1つの印は越人のようだ。文字通り越(こし)の人、越は越前、加賀、能登、越中、越後の北陸地方を指す。さてこの画は前作の山水画よりやや無骨な印象、前面の岩が目立つ。72歳の1771年の作。 This is the third presentation of Shunmei Igarashi. This sansuiga was made in 1771 at seventy-two years of age.

●細井九皐 Kyuko Hosoi 1711-1782
江戸の生まれ。字は天錫。名は知文。細井広澤の子。家学を継いで書を善くし、幕府に仕えるが後に退けられる。松江藩主松平不昧公の書の師。72歳で歿。「竒勝堂印譜」は父広澤と自身の印を掲載したもの。作品は落款は九皐文書、印は字天錫、僊禽、乙未歳六十五。「九皐文書」の「文」は自身の名「知文」のことである。3つの印は早稲田大学所蔵の竒勝堂印譜に自作の印として掲載されている。「賢者高顕」:賢者は高く目立つようになる。この賢の字の上半が「忠臣」であり独特の発想の書である。忠臣蔵をはじめとして儒教教育の中で忠義を重んじる「忠臣」は武士に大変に好まれた言葉であった。印より乙未=1775年=安永4年、65歳の作品である。名家手簡にも掲載があり、往時は門人が多かったようだ。「竒勝堂印譜」には自作の印が非常に多数掲載があり、そのすべてがすばらしく刻印に大変に長じた名人である。 Kyuko Hosoi was a calligrapher who taught a lot of pupils. His father was also a famous calligrapher, Kotaku Hosoi. He was also good at engraving seals. The meaning of this calligraphy is as follows. "A noble and faithful man becomes outstandingly famous." The work was made at sixty-four years of age in 1775.

●岡岷山 Minzan Oka 1734-1806
安芸広島藩士で同藩御用絵師。名は煥、字は君章。同藩絵師の勝田幽渓、宋紫石に学ぶ。画業に秀で、歩行侍から侍士に昇進。藩主浅野重晟に絵の教授。73歳で歿。作品は落款は岷山岡煥写。煥:火の光が四方に輝く。大藩の御用絵師の雪山山水画であるが全く狩野派風ではなく南画風である。後の山の下向きのこぶは岩だろうが面白い。愛嬌があって個性的で同世代の蕪村の冬山水画に似る。松の木や岸辺の草の反復画きは池大雅に少し似る。1700年代後期の南画的山水画の特色を持った画である。他方花鳥画はこれとは全く異なり、緻密な長崎派の画を画く。 Minzan Oka was a samurai painter who belonged to a governor of Hiroshima. He was good at the paintings of birds and flowers. Here, this sansuiga shows a similarlity to the paintings of Buson and Taiga. The rocks on the back mountains are so funny. The bottom is a Buson's painting.

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●石田幽汀 Yutei Ishida 1721-1786
播磨国明石郡西岡村生まれ。名は守直。狩野探幽の門人で京都住の鶴澤探山の子、鶴澤探鯨に学ぶ。禁裏の御用絵師となり、1757年(37歳)法橋、1777年(56歳)法眼になる。66歳で歿。円山応挙の師として有名。作品は落款は法橋幽汀書福、印は守直之印。法橋の作で1757年から1777年の間に画かれた。「書福」は福禄寿を書いたの意味。この画は狩野派的な福禄寿の墨絵だが衣の極めて太い墨線が特徴的。高田敬輔(1674-1756)の福禄寿によく似る(江戸前期に掲載)。高田敬輔の画の方が古い。曾我蕭白にも衣装の線が極めて太い作品がある。この筆法は1700年代中期-後期に流行していたようだ。なおこの人は山水画は狩野派、人物画は大和絵と狩野派、花鳥は南蘋派と御用絵師の中でも画の幅は広い。Boston museumの作品の一部を掲載した。円山応挙の作品とは総じてつながりが薄いようだが、応挙がそれだけ個性があって画期的な画家であったのである。 Yutei Ishida was a painter who was a pupil of a Tsurusawa school. He was active at Kyoto and was acknowledged as a royal painter. His paintings show wide variety. This is a sumie painting depicting Fukurokuju(福禄寿). He was a teacher of Okyo Maruyama who was a very famous painter.

●中井竹山 Chikuzan Nakai 1730-1804
大坂の官許の学問所懐徳堂(1726-1869年)の生まれ。学主中井甃庵の子。名は積善。号は竹山、渫翁。和漢の学を幅広く学習。1758年(29歳)懐徳堂の経営担当。1782年(53歳)第4代学主。特に大坂商人の子も多く懐徳堂は繁盛する。1788年(59歳)老中松平定信の来阪で対談し「草茅危言」を定信に献上した。草茅危言:民間(草茅=草むら)からの幕府への危言(険しい言葉)、5巻の大著。松平定信は幕府随一の賢者と江戸表で評されていた。この後竹山の名声は全国に拡がり、大名や旗本の招きが増加。大坂城代堀田正順の召し抱えの儒者となる。1792年(63歳)大火で懐徳堂は全焼。4年後再建。1797年(68歳)隠居し号を渫翁とする。75歳で歿。門下に佐藤一斎。作品は落款は渫翁、印は井深老人、積善印記。渫:せつ、川底の土砂を除くこと。「踏氷伺漏何 如酣夢煙霞」。伺:うかがう、御上をたずねる。漏:ろう、もれる。酣:かん、盛り。酣夢:熟睡の夢。例に荘子の胡蝶の夢を「酣夢」とする。煙霞:けむりとかすみ(湯気)、もやっとして儚いもの。堅い氷(=幕府の為政者)を踏んで何が漏れるか伺ったが、熟睡で見る夢や煙や霞のように儚(はかな)いものだった。作品は渫翁と称した1797から1804年の間に書かれたので寛政の改革(1787-1793)の4年以上後である。1788年に「草茅危言」を定信に献上後に寛政の改革などで幕府から出て来たものを酣夢、煙霞と評して晩年回想していると思う。 Chikuzan Nakai was a Jukyo scholar who was active at Osaka.

●関思恭 Shikyo Seki 1697-1766
関思恭の4作目。作品は落款は関思恭、印は関思恭印、本姓伊藤。「自対天心處」。自分は天心の所に対座する。この「対」は対になる、寄り添う、つれあうの意味、英語の”stand by”がぴったりくる。さて天心とは天=自然が与えてくれた本来の心。名誉とか地位とかにこだわった人心ではない。老荘思想の隠者や桃源郷の人の心。この語句はかなり好きである。 This is the fourth presentation of Shikyo Seki. "I will stand by my natural mind."

●関思恭 Shikyo Seki 1697-1766
関思恭の3作目。作品は落款は関思恭、印は思恭之印、墨指生。「慎言節飲食」。紀元前千年頃の書の「周易」の頤卦の項に「君子以慎言語節飲食」があり。さらに500年頃の中国南北朝時代、文選に「慎言節飲食」が再掲載。人口の85%の百姓が節約と無言でしっかり農業をやれば徳川は安泰である。儒教教育の中で好まれた言葉だろう。「江戸後期-I」の青野太笻に「ものいへば 唇寒し 秋の風」:芭蕉の句。江戸時代の価値観であるが私はこの語句はあまり好きではないね。頤(あご)卦の八卦はものを噛んでいるように見えるね。 This is the third presentation of Shikyo Seki. The content of the calligraphy is not difficult to be read. "A gentleman does not talk too much and controls eating and drinking."

●松下烏石 Useki Matsushita 1698-1779
松下烏石の2作目。作品は落款、印ともに辰。己卯=1759年=宝暦9年7月、62歳の作。「有親則可久 有功則可大」。漢の時代に成立した易経の繋辞伝に掲載の句で中国でも多様に解釈の句。「親切(徳)則可以長久 成功(業)則可做強大」としている。做:成す。親切と優しさは長く久しいのがよい、成功と業績は強大なのがよい。 This is the second presentation of Useki Matsushita. "Virtue should be persistent for a long time, while success should be big and strong."

●牧野鎮成 Yasunari Makino ?-? active ca. 1750
牧野鎮成は仙台藩士で藩主伊達吉村の親しい腹心の家来。和歌をよくする。吉村著作の和歌集「隣松集」の筆記を担当し、1750年=寛延3年吉村より褒美を賜る。伊達吉村:Yoshimura Date 1680-1752、仙台藩第5代藩主で和歌は堪能また「仙台藩中興の英主」と呼ばれた。作品は鎮成の名の入った和歌2首。「つかはすは いかてやは見む 音にのみ 聞しうるまの人のすかたを」。うるまの島、うるま:沖縄県の雅称で宇流麻と当て字される。いかてやは:どのようにして。つかはす:遣はす。「かしこしな うるまの嶋の こころまて なびく大和の国のおきてを」。かしこし:おそれ多い。あふしみよ:仰し見よ。琉球の人が朝貢に江戸に来たことを和歌にしたようだ。琉球国慶賀使は1717年(享保3年)、1748年(延享5年)、1752年(宝暦2年)に来邦している。吉村が腹心の部下たちと和歌を楽しんでいる光景が浮かぶ。2番目の和歌に添えられた添削の字は伊達吉村の記したものかもしれない。参考論文:五十嵐金三郎氏「伊達吉村家集『隣松集』及び『続隣松集』について」。この論文が検索で出なければ、下の和歌の書かれた1片の紙の意義は全く不明であったことです。 Yasunari Makino was a samurai waka maker who was an intimate staff of Yoshimura Date, a governor of Sendai. Two wakas are written here with his signature.

●大島何戎坊 Kajubo Oshima 1719-1797
大島何戎坊の2作目。前作(下)と同時に購入の手紙。手紙の署名は何戎と花押。宛先は其音。其音(きおん、1731-1818):竹奥舎其音、別名羽仁寛、長門萩藩士、美濃以哉派の大野是什坊の門人、菊舎が1781年長門を出発の時大野是什坊宛の添文を書いた人。これらの手紙から大島何戎坊や野村白寿坊の美濃以哉派江戸連と其音、菊舎ら長門俳壇との深い結びつきがわかる。2000石の知行地をもつ旗本というとかなりの上級武士だが長門萩藩士其音への手紙は2通とも丁寧でえらぶっていない。菊舎よりみると白寿坊は14歳上、其音は21歳上、是什坊は26歳上、何戎坊は34歳上であるが、皆菊舎を暖かく包み見守っている。菊舎は明るく積極性がありしゃきしゃきとした魅力があったに違いない。内容は不明の箇所もあるが、正月の祝いの進上と挨拶である。風流:ここは俳句のことだろう。社中:俳句仲間連中。九春:春90日。可得面慮:対面すべく考慮。可祝:かしく、手紙の結語。俳句は未解読。 This is a letter from Kikoan Kajubo to Kion. Kion was a samurai haiku maker in Choshu. He was a friend of Kikusha. This is a letter with New Year's day greetings.

●大島何戎坊 Kajubo Oshima 1719-1797
別名大島雲四郎義苗、希古庵何戎坊。美濃国席田郡、加茂郡に知行地を持つ2000石の旗本。4世田中五竹坊の門弟で美濃以哉派江戸連衆の指導的俳人。以哉坊、是什坊が江戸滞在中は自藩邸で世話をした。年下の野村白寿坊の親友。79歳で歿。著作に何戎坊編「芭蕉門歳旦三物」1782年。野村白寿坊編「文月影集」は何戎坊の一周忌追善集。美濃派は1世芭蕉、2世各務支考、3世仙石廬元坊、4世田中五竹坊と続くが、5世は安田以哉坊の以哉派と河村再和坊の再和派に分裂。以後美濃以哉派には6世大野是什坊、7世野村白寿坊(下に作品)。作品は同格の俳人への手紙。暮春:陰暦3月、陽暦4月。興味深いのは田上菊舎(1753-1825)の記載である。菊舎尼、帰郷、手物(てのもの)の語がある。手物は美濃以哉派の中の者の意味だろう。菊舎は1781年長門から美濃(是什坊に入門)その後江戸に滞在。1784年(天明4年)江戸から帰郷の旅に出る。この手紙はその節に多分長門の其音宛に書かれたものであろう。何戎坊は66歳、其音は53歳。なお江戸での菊舎の発句集「師の前に」(1783年)、「初日の出」(1784年)、「初手水」(1784年)に何戎坊は登場している。手紙全体と春奥と題された俳句は未解読。この手紙は初め署名を以哉と見たが、何戎であった。参考書:上野さち子著、「田上菊舎全集」、和泉書院刊2000年。参考論文:鹿島美千代氏「美濃派俳書の版元について」。
この後菊舎の部分の解読が大体できたので以下記載、「扨菊舎尼事帰郷之存 被行此元にても手物間義 帰らじろと餘り御座延引 御察も如何と早々と申述候」。”さて菊舎尼は帰郷のため行かれた。ここもとではすでに同じ仲間であり、帰られるなとあまり引き延ばし申すのも本人のお察し(御考え)のことがあるのでいかがかと思い(帰郷されたらどうかと)早くに申し述べた。” Kikoan Kajubo was a haiku maker who was a top of the Mino-Isai group in Edo. This letter was probably written to Kion in Nagato in 1784. It was informed that Kikusha had left Edo and would came back to home, Nagato soon.

●野村白寿坊 Shirasubo Nomura 1738-1817
野村白寿坊の2作目。蘆風への手紙。文中より白寿坊は古稀(70歳)である。従って文化4年=1807年師走17日の手紙。最後に「冬奥」と題した俳句2首。「をいとれて 孝行知たりや 冬こもり」。"年老いて孝行を受けているか冬篭りのとき”。「いははれて 我もいはふと 詰としに」。"古稀で祝われて自分も祝うと年の詰む終わりに"。つむとしは詰む年と積む年を懸けている。蘆風は不明の人だが、2つの俳句に素直に年老いた自分の気持ちを表現している点、親密な友人に違いない。全体は未解読。一部誤読の可能性あり。独特のみみず文字は難読である。 This is the second presentation of Shirasubo Nomura. Probably he was 70 years of age when he wrote this letter.

●野村白寿坊 Shirasubo Nomura 1738-1817
徳川幕府の御家人で俳人。江戸下谷徒士町に住む。美濃以哉(いさい)派七世を嗣ぐ。美濃派:芭蕉門の各務支考が美濃に興した派。62歳で美濃へ行脚。田上菊舎の兄弟子で菊舎が江戸に在住時交際。80歳で歿。作品は落款は白寿坊。みみずが這ったような特異な字。「春の日を 何いそくらふ 乙鳥かな」。乙鳥:つばめ。春のゆったりした日に何をそんなに急ぐのだろう、つばめは。忙しくえさを探しては巣に戻って雛を養うつばめに愛情を注ぐ。 Shirasubo Nomura was a samurai haiku maker who belonged to Tokugawa Shogun. He was a head of the Mino-Isai group. "On a relaxed spring day, how busy parent swallows are carrying foods for the child birds."

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●松尾塊亭 Kaitei Matsuo 1727-1815
紀伊藩士で俳人。別号は風悟。美濃派4世田中五竹坊に師事。紀州で多くの門人を指導。素人風の軽妙な俳画が得意。89歳で歿。著作「俳諧百画賛」。作品は落款は吹上の頑翁塊亭賛、印は塊亭、風悟。吹上は和歌山市の中心で城に近接した地名。三聖嘗酸図:孔子、老子、釈迦の三君が大甕の酢を嘗(な)める図。「酢ならは一嘗めに済めるならは 指つおさえつ埒はあく(?)まひ」。差しつ押さえつ:他人の杯に酒をついだり、他人の酌を押さえたり。埒:らち。囲い。次に芭蕉の挿話を記す。「確に芭蕉の翁 月雪花の三字に三聖の賛を尽されをれり 今更に句なし 句なきとてゆるさねは三十一もしに所を替てかくなん」。三十一文字:みそひともじ。仮名31字で短歌のこと。芭蕉が主人に月雪花の三字を三聖の賛とした詩を書いた。しかし主人はまだ句を書けという。「もう句はできない。別の時に所を替えて短歌を書こう。」と芭蕉は言った。芭蕉は「月雪花」の短歌にあこがれていた。この作品は癸亥=1803年=享和3年5月、三右衛門が表装と軸に記載、この時松尾塊亭77歳であった。美濃派の俳人は三賢老人の軸を好み句会で懸けた。私は美濃派の俳人と縁がある。 Kaitei Matsuo was a samurai haiku maker who was active at KIshu. He belonged to the Mino group.

●無記名 Anonymous ?-?
枕屏風で下の作品と対のもの。少し年長の子供たちで獅子舞(左半分)と「子をとろ子とろ」(右半分)。子をとろ子とろ:親の子の後ろに帯を掴んで子ども達が列になって、鬼の子が一番後ろの子を捕まえる遊び。左下の赤い着物の子が鬼ですね。下に早稲田大学の作品など江戸時代の画。私は「子をとろ子とろ」の名も知っていました。子供の時(昭和30年代)遊んだ覚えがあり。なつかしい方も多いでしょう。 This is a pair work with the one under this. Right half of the picture shows "Kootoro kotoro". A boy at bottom-left is trying to capture a boy at the rear of the children's line. This Kootoro kotoro was still popular in 1950-1960 of my childhood. Kootoro kotoro means "capture the child, capture the child".

●無記名 Anonymous ?-?
枕屏風で高さ38cm。無落款である。かわいい唐子たちが闘鶏で遊んでいる。お気に入りで常に飾っている。土佐派や狩野派の屏風のように洗練された顔ではないが、各子供の顔に個性が出てむしろ好ましい。町中の画師さんの画だろう。丁寧に描かれている。 This is an anonymous painting used for a small byobu. Chinese children(唐子) are so cute. This is a fight of cocks. Children's play.

●高嵩渓 Sukei Ko 1760-1817
江戸生まれ。字は睡雲子。高嵩谷の門人。嵩谷の婿養子。寛政から文化の頃に活躍し名手といわれた。58歳で歿。作品は落款は睡雲子高嵩渓図、印は山水居。富士山の前にある点々の入った小さな山と山裾の鳥の群れがこのページにある高嵩谷の山水画に同じ。富士山に稲が実って穂が垂れた田は日本だね。British Museumに富士山の画があるが、この人の画は比較的少ないようだ。 Sukei Ko was a painter who was a pupil of Sukoku Ko. This painting depicts Mount Fuji and rice fields.

●本居宣長 Norinaga Motoori 1730-1801、禰菱 Neryo ?-?
伊勢国松坂の生まれ。木綿商の子。幼少より習字、漢籍、執筆を学ぶ。1744年(15歳)江戸に出る。1751年(22歳)京都で医学、儒学、国学を学ぶ。古典及び国学を熱心に研究。1758年(29歳)松坂で医師を開業。1763年(34歳)国学者賀茂真淵に入門。「古事記伝」を著した(1797年完成)。門人への教授も広く行う。72歳で歿。作品は落款は宣長。「影清み 田面の末に 高見して ともし火くらき 秋の夜の月」。影:月影、月の光が照った情景。田面:たづら、田の面。高見:高い所で見る。田の近くの高所で秋の夜の月影の清さをみて、家の灯火は薄暗い。優雅な情景である。画を画いた禰菱は不明の人。おそらく神官だろう。左は田毎の月の写真。 Norinaga Motoori was a scholar of old Japan related to shinto. He wrote a famous book, Kojikiden. ”Sitting beside the rice field, I am serene under the moonlight and there are only weak lights in the houses."

●溝口素丸 Somaru Mizoguchi 1713-1795
江戸の生まれ。幕臣の旗本。別号に天地庵。蕉門江戸葛飾派の其日庵三世。門人に小林一茶など多数。1785年(73歳)其日庵を譲り、渭浜庵と名乗る。著書に「素丸発句集」など。83歳で歿。作品は俳画で印は天地庵。「貰はれて 名の廣かるや 菊の花」。大変読みやすい俳句と字である。美濃派の田上菊舎(1753-1825)が俳諧の旅で1784年江戸を離れ、有名になって行く頃である。「菊」は菊舎の事と思う。1800年以前の俳画で菊の花も美しいが色はgreyishで落ち着いている。溝口素丸賛で鳥文斎栄之画の早稲田大学の作品あり(右)。 Somaru Mizoguchi was a samurai haiku maker who was a head of the Katsushika group in Edo. He was a teacher of Issa Kobayashi.

●高田円乗 Enjo Takada ?-1809
江戸の生まれ。加藤文麗の門人。1809年歿。菊池容斎の師として有名。作品は落款は円乗画、印は圓乗。越前の汐越の松を画いた。和歌は「夜もすがら あらしに波を はこばせて 月をたれたる 塩こしの松 西行」。西行(1118-1190)の作とされた和歌。夜を通し嵐が波を運び、月を垂れた汐越の松。日没宵の時、風で波が高い、松の根は海に浸り、下がった松の枝先から月が雫のように垂れた景色が想像できる。福井県坂井郡浜坂浦にあったが、現在は碑と残骸。しかし周りに別の松の木が生える。画はほとんど潮に浸った状態の松を画くが、月はない。 Enjo Takada was a pupil of Bunrei Kato and a teacher of Yosai Kikuchi. This pine tree was called Shiokoshinomatsu(汐越の松) and was located on Echizen. Saigyo read a famous Wake here. The base of the pine tree is soaked by sea water.

●関思恭 Shikyo Seki 1697-1766
関思恭の2作目。作品は双幅で落款は関思恭、印は思恭字孚粛。狂草という極端にくずした草書。未解読。この人は様々な型の書がすべて巧い。 This is the second presentation of Shikyo Seki. This style of calligraphy is called a Kyoso style(狂草). This style is characterized by extreme change of Kanji. Therefore it is difficult to read the content.

●金子金陵 Kinryo Kaneko ?-1817
江戸の画家で花鳥画を得意とした。名は允圭。谷文晁または諸葛監から学ぶ。渡辺崋山の師である。作品は落款は金陵、印は允圭、金陵。鶴の親子、若松を描く。きれいに画いている。 Kinryo Kaneko was a painter who was active at Edo. He was good at birds and flowers.

●鏑木梅渓 Baikei Kaburagi 1749-1803
長崎の生まれ。本姓が平氏。名は世胤、字は君冑。唐絵目利の荒木元融に師事し、沈南蘋の画風を学ぶ。大村藩の御用絵師となり江戸に移住。55歳で歿。作品は落款は梅渓、印は平世胤印、君冑。丁寧に画かれた南画的山水画でこの人には稀な画。 Baikei Kaburagi was a painter who was active at Edo. He was good at birds and flowers of Nagasaki style. This is a nanga sansuiga which is rare for him.

栞120 

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●安原貞平 Sadahira Yasuhara 1698-1780
近江南市村(高島市安曇川町南市)の生まれ。号は霖寰。霖:りん、長雨。寰:かん、天子直轄の地域=畿内。字は伯亨。京都で伊藤東涯に学ぶ。1732年(35歳)信濃上田藩に仕えた。83歳で歿。著作に「霖寰詩文集」など。作品は落款は霖寰貞平七十六歳書、印は安原貞平之印、伯亨父。1773年の作品。如南山之寿。南山のように高い寿命。一見僧の書のようにみえる御家流。 Sadahira Yasuhara was a Jukyo scholar who was active at Ueda, Shinano. This calligraphy was written in 1773. "Long life like Nanzan."

●関明霞 Meika Seki 1747-1819
越前の生まれ。眼科医、書家。名は攀竜。字は子雲。家は代々福井藩に仕えた。73歳で歿。作品は子雲、攀龍との記載、印は攀龍、明霞。この人の作品である。全文は未解読。最後の部分は「自字曰子雲具意不亦復哉 予愛生甚故言攀龍之寿如此」。"我が字は子雲、この「子雲」の具体的意味は不明、予は生をはなはだ愛す、故に言う攀龍の寿この如し"。龍の寿命は長いとされている。この時代は古希70歳が長寿なので、73歳の寿命は長い。味のある字だが、この人の作品は今日に伝わっていないようだ。 Meika Seki was a calligrapher and an eye doctor who was active at Fukui, Echizen.

●龍公美 Kimiyoshi Ryu 1715-1792
山城伏見の生まれ。号は草盧。宇野明霞に師事した彦根藩の儒者。書に秀れた。78歳で歿。作品は落款は草盧、印は公美。「如此雨與雲 其形之謂興」。この如きの雨と雲、その形をこれ興と謂う。興;盛んな様。雨と雲の画を見ながら書いた書だろう。丸い御家流である。すっきりしてよいね。龍の印はかわいいね。 Kimiyoshi Ryu was a Jukyo scholar who belonged to a governor of Hikone, Oumi. He was good at calligraphy. This is Oieryu style.

●柴野栗山 Ritsuzan Shibano 1736-1807
柴野栗山の2作目。落款は風後栗山、印は芝邦彦。「風後栗山」は病気から回復後の栗山の意味。款記に「大青砥左衛門賛」。夜に落とした10文を松明で照らして川で探させた青砥藤綱への賛。内容は未解読。この字は元気があってよい。 This is the second presentation of Ritsuzan Shibano. This calligraphy is powerful and was written after recovery from a severe disease.

●柴野栗山 Ritsuzan Shibano 1736-1807
讚岐の生まれ。字は彦輔。昌平黌に学び、阿波藩に仕官。のち松平定信に召されて幕府昌平黌教授に任官。72歳で歿。作品は落款は栗山彦、印は芝彦輔。「躍翻萬里滄活水 浴出一輪紅日光」。滄:青々した海。萬里まで広がる躍り翻る活き活きした波の青い海、一輪の紅い日がその海から出てきた。雄大な色彩豊かな詩。自作詩のようだ。素晴しい。 Ritsuzan Shibano was a Jukyo scholar and a calligrapher who was a top of a Jukyo school supported by Tokugawa Bakufu. "Wide blue sea with dancing waves, a red sun come out from the sea."

●呉春 Goshun 1752-1811
呉春の2作目。作品は落款は呉春、印は呉春之印。穏やかな表情の仲のよい老夫婦だね。軽快な筆運び。 This is the second presentation of Goshun. A couple of an aged man and a woman shows intimacy and calm faces.

●勝野范古 Hanko Katsuno ?-? active ca. 1751-1772
長崎生まれ。字子今。別号は長崎范古。南蘋派だが京都で活躍。墨画が得意。彩色の花鳥画も画く。平安人物誌掲載(明和5年)。井上士朗の画の師。作品は落款は瓊浦范古、印は子今、范古之印。瓊浦は長崎のこと。己丑=1769年=明和4年春の作。墨梅が大変美しい作品である。好きな作品。 Hanko Katsuno was a painter of Nagasaki group but was active at Kyoto. He was good at sumie like this work which was painted in 1769. This is an ume tree.

●勝野范古 Hanko Katsuno ?-? active ca. 1751-1772
勝野范古の2作目。作品は落款は瓊浦散人、印は範古。「瓊浦」は上の作品に同じ筆跡。「範」は「范」と異なるが、他の作に車偏の「範」の落款(右)。甲戌=1754年=宝暦4年仲夏の席上画。仲夏:陰暦の5月、陽暦の6月。上の作の15年前。範古は若年の号と観る。蘭石の画である。長崎歴史博物館には15点作品があり。池大雅との合作もある。こういう墨絵はよいね、好きだ。 This is the second presentation of Hanko Katsuno. This sumie of a rock and orchids was painted in 1754.

●奥文鳴 Bunmei Oku ?-1813
京都生まれ。円山応挙に学ぶ。応挙門十哲の一人。落款、印共に文鳴。すこし怒った表情の漁師さん。今日は魚が釣れなかったので機嫌が悪いのだろう。 Bunmei Oku was a painter who was a pupil of Okyo Maruyama. This fisherman is annoyed because he could get no fishes today.

●彭城百川 Hyakusen Sakaki 1697-1752
名古屋の薬種商の生まれ。号に八僊。1827年(31歳)京都で『芥子園画伝』など中国画および俳画を独学。山水画は北宗漢画的で人物を細かく画くようだ。56歳で歿。作品は落款は八僊、印は字曰百川。老人に付き添った子供がかわいい。 Hyakusen Sakaki was a painter who was active at Kyoto. He was good at sansuiga paintings resembling those of northern China in early 18th century. The child is cute here.

栞110 

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●三井親和 Shinna Mitsui 1699-1782
江戸深川の生まれ。信州高島藩士の子。細井広澤の門人。篆書体の名手。84歳で歿。作品は落款は八十一歳親和書、印は深川、親和之印。1779年の作。字は「華暖香牛臥」。字は暖かい庶民的な好感の持てる書。 Shinna Mitsui was a calligrapher who was loved by people in Edo. "Spring has come; Floowers are flourishing and cows are lying on the ground."

●松下烏石 Useki Matsushita 1698-1779
江戸の幕臣の生まれ。細井廣澤、服部南郭に学んだ。晩年は京都に住んだ。82歳で歿。作品は落款は烏石、印は辰。春雪曦薫花。曦:ぎ、ひかり。春雪は光り、花は薫る。梅花の香る初春の景。さわやかな句。唐様とされるが、この作は丸い御家流に近い。 Useki Matsushita was a calligrapher who was a pupil of Kotaku Hosoi. "Snow in early spring is bright, ume flowers release comfortable fragrance.

●熊斐文 Yu Hibun ?-? active ca. 1781-1788
別名、熊代繍山(Shuzan Kumasiro)。熊代熊斐の子。名は章。長崎派の画家。天明頃活躍。作品は落款は崎陽繍山熊章寫、印は斐文、繍山、画禅。崎陽は長崎のこと。彩色はごく一部で墨画に近い。この点は他の作品にも見られ、父など他の長崎派の画家と異なる。建部凌岱(熊代熊斐の門人)も無彩色の花鳥画が多いが、同じ傾向だね。私は好きだ。 Yu Hibun was a painter who was active at Nagasaki. He was good at birds and flowers of sumie like this painting.

●市川君圭 Kunkei Ichikawa 1736-1803
市川君圭の3作目。落款は君圭写、印は君圭。印は他の作品に同じ。きれいな花鳥画である。 This is the third presentation of Kunkei Ichikawa. This picture beautifully depicts the birds and flowers.

●市川君圭 Kunkei Ichikawa 1736-1803
市川君圭の2作目。在葦業平とあるが、在原業平であろう。これも下絵であるが、涼しそうな顔でよいね、男前。よく画いている。 This is the second presentation of Kunkei Ichikawa. This depicts Narihira Arisawa, who was a poem maker in the Heian period.

●市川君圭 Kunkei Ichikawa 1736-1803
近江坂田郡醒井村生まれ。元・明代の名画を研究し京都で活躍。68歳で歿。張月樵の師。作品は印が君圭でこの人の印。屋嶋鵯越地採。源平合戦の屏風の下絵。坂を降りてくるのが源氏の侍。 Kunkei Ichikawa was a painter who was active at Kyoto. This picture depicts the battle of Genji and Heike at Hiyodorigoe.

●横井也有 Yayu Yokoi 1702-1783
尾張藩の重臣、俳人。武芸、儒学に優れ、大番頭、寺社奉行など要職を歴任。その居を蘿隠と称す。1754年(53歳)隠居。82歳で歿。「鶉衣」は大田南畝により刊行。作品は落款は也有、印は蘿隠。たぶん画もこの人の作。右に他所の俳画。俳句は未解読。 Yayu Yokoi was a haiku maker who was active at Nagoya.

●林幽篤 Yutoku Hayashi ?-1819
大坂の生まれ。林幽甫(狩野派鶴沢探山の門人)の子。浪華人物誌に掲載。作品は落款は法橋幽篤筆。狩野派的な獅子である。 Yutoku Hayashi was a painter who was actve in Osaka. He studied the painting skill of a Kano school from his father.

●無記名 Anonymous ?-?
対の鷹の画。鷹は非常に写実的な一方、木は太い筆で画いた墨絵。円山應挙や伊藤若冲に近い人で無彩色の鷹の依頼を受けて画いたのだろう。鷹の顔はやさしそうで穏やかな性格の画家。 A couple of pictures depicts the hawks in detail and was probably painted by an artist related to a Maruyama school. Faces of the hawks are not so aggressive here.

●山口素絢 Soken Yamaguchi 1759-1818
京都の呉服商の子。号は山斎。円山応挙の弟子で評価高し。美人画が得意。60歳で歿。作品は落款は素絢、印は山斎。砧を打つ美人画である。 Soken Yamaguchi was a painter who was a pupil of Okyo Maruyama. He was good at the pictures of beauties.

栞100 

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●奥田士尚 Shisho Okuda ?-?、狩野伴信 Tomonobu Kano ?-?
不明の人。伊藤東涯(1670ー1736)の弟子に奥田士享(三角)がいる。奥田士尚は奥田士享の親族であろう。落款は奥田士尚、印は士尚、字孟友、心如水。内容は未確認。炎帝=神農についての伊藤東涯の漢詩を写した。画は狩野伴信。不明の人。落款はなく、印は伴信、探鳳(?)。この神農は恐さはない。伴信は探幽の系統、鍛冶橋狩野の門人だろう。 Shisho Okuda was an unknown Jukyo scholar who was probably be a pupil of Togai Ito. Tomonobu Kano painted this picture of Shinno. He is also unknown today and probably studied at a Kano school.

●英一川 Issen Hanabusa ?-1778
英一舟(英一蝶の養子)の子。東都の画家、名は信祐、宗沢又松下庵。作品は落款は英一川。すずめがかわいい。 Issen Hanabusa was a painter who belonged to a Hanabusa school and lived at Edo. The sparrows are so cute.

●木村蒹葭堂 Kenkado Kimura 1736-1802、頼山陽 Sanyo Rai 1780-1832
木村蒹葭堂:大坂の豪商の子。文人画家、収集家。名は孔恭、巽斎。収蔵品参観のため浦上玉堂、頼山陽、谷文晁など諸国の文化人が訪れた。画の師は池大雅。67歳で歿。作品は落款は木孔恭、印は蒹葭堂、孔恭、巽斎。白描画の蘭の画はきれい。山陽の賛は癸酉=1813年=文化10年で山陽34歳、浦上玉堂69歳(1745-1820)。款記の右2行は省略。左2行を解説(下右の4行に拡大して掲載)。「癸酉の歳、紀玉堂(=浦上玉堂)先生の居を訪れた。先生は偶々壁の間に掲げる所の蒹葭堂の蘭石画に題するよう予(山陽)に命じられた。故に不遜を顧ずにちびた(兀)筆を弄び書いた 頼襄」。つまりこの掛軸は浦上玉堂が所持していたもので、1813年(蒹葭堂の死後11年後)に玉堂が山陽に賛を要請したもの。自分が蒹葭堂の画に賛を書くのは不遜(傲慢)という言葉に山陽の蒹葭堂に対する深い尊敬がある。山陽は総じて傲慢な人と言われるがそうでもないようだ。なおこの掛軸はその後おそらく江戸に渡った。所有者は椿椿山(1801-1854)に賛を要請した。賛は下左端。内容は省略。 Kenkado Kimura was a collector and a painter whose teacher was Ike Taiga. This Kenkado's painting was posessed by Gyokudo Uragami who asked Sanyo Rai to write a poem. Sanyo wrote the poem at 1813.

●高嵩谷 Sukoku Ko 1730-1804
高嵩谷の3作目。作品は落款は楽只斎嵩谷画、印は楽只斎。行年七十一齢。1800年の作。松花堂躰(体)と松花堂昭乗の画法で画いた。寿老人は楽しそうに太鼓を叩いて踊る。 This is the third presentation of Sukoku Ko. Juroujin is dancing and drumming a taiko. This picture was painted in 1800 according to the painting skills of Shokado Shojo.

●長谷川雪洞 Setsudo Hasegawa ?-1780
江戸の画家。等運と号す。古画備考には掲載。「雪舟遠孫長谷川雪洞」と落款する長谷川派の系統の人。作品は落款は雪洞、印は等運。太い竹の後ににわとり。にわとりはかわいい。ユニークな画題。 Setsudo Hasegawa was a painter who lived at Edo. He belonged to a Hasegawa school. This cock is cute.

●無記名 Anonymous ?-?
中央の女神は歳徳神(としとくじん)。その年の福徳を司る神である。この作品は諸神を表情豊に画いている。 This is anonymous. A central female god is Toshitokujin who is a symbol of good fortune.

●山本守礼 Shurei Yamamoto 1751-1790
京都の商家の生まれ。円山応挙に学ぶ。1787年(37歳)香美町大乗寺で応挙と共に障壁画を描く。40歳で歿。作品は落款は守禮、印は守禮之印。巳亥=1779年=安永8年冬、29歳の作。誠に穏やかな寿老人。 Shurei Yamamoto was a painter who was a pupil of Okyo Maruyama. He was good at the picture of man. This Jurojin is so happy with no worries. This work was painted in 1779.

●無記名 Anonymous ?-?
これは多数まとめて購入した中の一本。横が50cm位あり、字の太さが10cmある。極めて太い筆で書いた字。「君子」。このような大きな二文字の書は1700年代によく見られる。僧の書はもっと豪快にうねったり不器用な印象を与えるが、これは骨格は唐様で固く節度のある字。儒者の屏風の書だと思う。時に掛けて楽しんでいる。 This calligraphy was written with a brush of 10cm wide and was probably produced at around 1750. "Gentleman(君子)"

●中山高陽 Kouyo Nakayama 1717-1780
土佐国堺町の商家の子。名は象先、延沖。藩儒富永惟安、関鳳岡に儒学、書を学ぶ。画は彭城百川に師事。1758年(42歳)江戸に出る。画家として成功し、士文、苗字帯刀。1772年(56歳)奥州に旅立。64歳で歿。「画潭鶏肋」の著作。江戸南画の祖とされる。作品は落款は高陽山人延沖并詩、印は仲象先印。月は向こうで水面に映る月を掬う所作ではないようだ。不明だけど自信に満ちた顔つきだ。 Kouyo Nakayama was a painter who was active at Edo. What is he doing here with a confident face?

栞90 

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●渡会文流斎 Watarai Bunryusai ?-1816
長州狩野派の画家。別名は林美彦。1803年藩主毛利元義に女流俳人田上菊舎とともに招待される。古画備考に掲載。菊舎(長州出身)と交際があった。また若宮養徳という伊予大洲藩御用絵師が弟子にいた。作品の落款は文流斎、印は林美彦。素気ないけど豪快な松の木。人が手を伸ばしたような枝である。 Watarai Bunryusai was a painter who belonged to a governor of Choshu, Mouri. This is a pine tree. The branch looks like a hand.

●高嵩谷 Sukoku Ko 1730-1804
高嵩谷の2作目。溌墨の技法を使用した狩野派的な山水画。この人がこういう画を画くのは意外だけど、雄大な景色で成功している。いいね。 This is the second presentation of Sukoku Ko. This is a sansuiga painted according to a Kano style.

●司馬江漢 Kokan Shiba 1747-1818
江戸の生まれ。洋画、浮世絵が得意。本名は安藤峻。1873年(25歳)宋紫石の門人になり、花鳥図を習熟。1783年(35歳)洋風画、銅版画に習熟。1788年(42歳)長崎への旅。江漢西遊日記によればこの時画家としての名声は高い。油画に興味を持つ。72歳で歿。作品は落款は江漢司馬峻、印はなし。即興で画いたのものと想われる。山姥と金太郎。動物の相撲は図柄が鳥獣戯画のようだ。さるの表情が面白い。 Kokan Shiba was a painter who lived at Edo. He was good at the paintings of Western style. A Sumo wrestling of animals is so cute.

●伴蒿蹊 Kokei Ban 1733-1806、呉春 Goshun 1752-1811
画は呉春。賛は伴蒿蹊。伴蒿蹊は近江八幡の商家生まれの国学者、文筆家。和歌など京都で活躍。58歳に刊行の「近世畸人伝」は有名。ほかに「伴蒿蹊集」。74歳で歿。「ことしさ(?)の 竹にいくよの行末を ちきりしめてか 亀あそふらむ 蒿蹊書」。少しわかりにくい。竹のそばで亀が遊ぶ。 Kokei Ban was a waka maker and a novelist who was active at Kyoto. This picture was painted by Goshun.

●伴蒿蹊 Kokei Ban 1733-1806、呉春 Goshun 1752-1811
画は呉春、賛は伴蒿蹊のコンビの2作目。落款は蒿蹊陳人題。「かすむ夜の月かけ かかふ河岸に もゆるらなにも 見ててのとけき」。のどけし:心がゆったりする。なんとなくわかったような感じ。ゆったりするね。 This is the second presentation of a poem of Kokei Ban associated with Goshun's painting.

●与謝蕪村 Buson Yosa 1716-1784
摂津国東成郡毛馬村生まれ。俳人、画家。俳号は夜半亭。1735年(20歳)江戸の早野巴人に師事。1742年(27歳)師が没した後、敬う松尾芭蕉の行脚生活の足跡を辿る。絵を宿代とし奥羽を周遊。1757年(42歳)京都に居を構える。画は順調に評価高し。1770年(55歳)夜半亭となる。68歳で歿。作品は蕪村が芭蕉像を画いて、芭蕉の有名な俳句を筆記したもの。安永己亥=安永8年=1779年、64歳の作。落款は夜半亭蕪村拝写。印は春星、長庚。類似の作が江東区芭蕉記念館にある(右下)。かなを本から引用比較したものを下左に示す。蕪村の作品は本物は少ない。 Buson Yosa has been a famous haiku maker and a painter who lived at Kyoto. His paintings have been highly evaluated by a lot of people. This picture shows the statue of Basho Matsuo who is the most famous haiku maker today.

●發生 Hossho ?-?
不明の人。發(発)は江戸後期は「ほつ」と読んでいた。骨董市で画と印が気に入り購入。落款なし、印は發生。妖しい雰囲気の画。宝珠を持って魔法をかける寿老人は長い爪。亀は耳と尖った口、歯、長い尾があり怪獣ガメラである。 Hossho is unknown. This Juroujin is doing magic on the Hoju. The turtle has ears, a big mouth, and tooth like a monster.

●秋月種徳 Tanenori Akizuki 1763-1808、竹田定夫 Sadao Takeda ?-? active ca. 1808-1840
日向高鍋藩の第8代藩主。官位は従五位下。1788年(26歳)父の隠居により跡を継ぐ。生来から病弱で45歳で歿。作品は落款は種徳図、印は大蔵姓、種徳。「大蔵氏の祖、春実は941年藤原純友を討つ。その功で征西将軍、筑前に所領。後に秋月・原田・高橋・田尻・三原などの諸家が分かれた。」高鍋藩主秋月氏が大蔵姓の印を押したのは以上の理由。賛は筑前藩士竹田定夫で第3代修猷館総受持(1808年-1840年の間)が記す。賛の年号は文政庚寅=1830年=文政13年。種徳の死後22年。「この画は種徳の父祖大蔵氏の領地の筑前国夜須郡(やすぐん)下淵村の鼓岳を画いた。」下淵村は現在は朝倉市である。賛でこの画の意味が理解された。なお秋月氏は秀吉の島津征伐の後に日向高鍋に移封された。 Tanenori Akizuki was a governor of Takanabe, Hyuga. This painting shows Mount Tsudumi, Chikuzen. His ancestors settled around the mountain.

●鼎春嶽 Shungaku Kanae 1766-1811
大坂の画家。字を世宝。池大雅の門人の福原五岳に師事。岡田米山人らと交流。画の鑑定に巧み。46歳で歿。作品は落款は春嶽写意、印は世寳。縦長の印は上下逆で風外水雲。寿老人が大変かわいい。池大雅の人物画に似る。誠に穏やかな顔ですきだなあ。春嶽さんも穏やかな人と思う。 Shungaku Kanae was a painter who lived at Osaka. He was a pupil of Gogaku Fukuhara. This Juroujin looks so cute. I love this so much.

●五十嵐浚明 Shunmei Igarashi 1700-1781 
五十嵐浚明の2作目。落款は法眼呉浚明、印は浚明、越人。これは岸壁に立つ老人だが、顔は穏やかですこし笑っている。 This is the second presentation of Shunmei Igarashi. An old man is standing at the shore but is smiling a little.

栞80 

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●黒田綾山 Ryozan Kuroda 1755-1814 
讃岐高松の生まれ。1775年(21歳)福原五岳に入門。林閬苑と親友。1785年(31歳)備中玉島に定住。次第に画業の名声が高まる。門弟に岡本豊彦。60歳で歿。作品は落款は南海綾山寫、印は綾山、太平逸民。東方朔が西王母から三千年に一度しかならない桃の実を3つ盗み、やったやったと喜んでいる。 Ryozan Kuroda was a painter who lived at Tamashima, Bitchu. This is Tohosaku who took three precious peaches from Seioubo. Smiling so much.

●宮崎筠圃 Inpo Miyazaki 1717-1775 
尾張国海西郡鳥池村生まれの儒者。字は子常。1734年(18歳)両親と京に到る。伊藤東涯、伊藤蘭嵎に師事。学成って多数の門人が入門。詩画は人々に求められた。58歳で歿。作品は落款は宮崎書、印は子常。内容は未解読。 Inpo Miyazaki was a Jukyo scholar who was active at Kyoto. His calligraphies and paintings have been favored by people.

●藤堂巴陵 Haryo Todou 1722-1797 
漢学者、画家。伊賀候に仕える。狙徠門下の入江南溟に従学。76歳で歿。作品は落款は巴陵、印は巴陵、山高水長。戊戌=1778年=安永7年刊冬、57歳の作。仿南田翁と惲寿平に倣って画いた。古い作品なので白い胡粉が剥げているが、それも味がある。 Haryo Todo was a Jukyo scholar and a painter who belonged to a governor of Iga. This painting and the one shown below are a pair produced at 1778.

●藤堂巴陵 Haryo Todou 1722-1797 
上記の作の対の作品。款記の王志庵は中国の作品にも「仿王志庵」と記載の作があるが、今日さほど有名な人ではない。 This is the second presentation of Haryo Todou.

●曾我蕭白 Shohaku Soga 1730-1781 
京都の染物屋の生まれ。17歳で両親を失い孤独となる。高田敬輔、曽我蛇足を師として画を学習。20-40歳伊勢、播磨地方に滞在し作品を多数制作。1772年(42歳)以後京都住。1774年(44歳)平安人物志に掲載。奇怪な画が多いが、42歳以後は穏やかな画風に近くなる。池大雅と親友。52歳で歿。作品は無落款、印もなし。横25cmの小品で無表装(剥がし)であった。画題や足の表現は蕭白に矛盾しない。奇怪さも程々。手をかざして蝦蟇に魔法をかける若い仙人。亀を持つ仙人は鼻筋が通って虹彩を白く抜く。迫力の画。 Shohaku Soga is a very famous artist who lived at Kyoto. His paintings are very unique and bizarre and are highly evaluated nowadays. Although this work is not so peculiar, this is probably attributable to Shohaku or one of his pupils.

●作者不明 unknown artist ?-? 
落款は木O篆、印は雄夫か雄而。篆は篆書体で書いたことを示す。丁酉=1777年=安永6年初夏の作。「寿山千古翠」。寿命も山も千年の昔から翠で若々しい。この5字はよいね。字から関思恭の落款(右)に似る。参考に三井親和の篆書体を右に示す。 This calligraphy was written in a Tenshotai(篆書体) style。”My life and the mountain are vivid and green since long time ago."

●吉田元陳 Genchin Yoshida 1727-1795  
京都の豪商の縁者、鶴沢探鯨の門人。諱は守清。1757年(31歳)法橋、1777年(51歳)法眼になる。画名高い。寛政度禁裏御所の障壁画制作に参加。69歳で歿。作品は落款は法眼元陳筆、印は守清。山鳩の画。「たにかけや 木ふかきかたに(耳) わく路へて あめをもよほす やま鳩の(農)こゑ(衛)」。谷崖:切りたった深い谷。わく路へて=わけ入る路をへて。和歌もこの人の作だろう。 Gentin Yoshida was a painter who lived at Kyoto. He joined a group of painters who produced paintings in the royal palace.

●丹羽嘉言 Yoshinobu Niwa 1742-1786 
尾張藩士の子。字は彰甫。幼年期より画を好む。20歳前後で京都に遊学。帰郷後明和期に真景富士山図を描き、名声を確立。1776年(35歳)隠棲し画業に専念。独自の山水画を確立し、尾張南画の創始者といわれる。45歳で歿。落款は嘉言、印は嘉言、彰甫。甲辰=1784年=天明4年正月、43歳の作。穏やかな、細い線の尾張山水画の典型。款記の與別傳斎は別傳斎と共に画いたの意味。この人は不明。 Yoshinobu Niwa was a samurai painter who lived at Nagoya, Owari. He is now considered as an origin of Nagoya Bunjinga, which is characterized by narrow and constant lines. This is a gentle sansuiga having the typical style of Nagoya.

●趙陶斎 Choutosai 1713-1785 
長崎生まれの書家。名は養、息心居士。趙淞陽(清国人)と花魁の間に生まれた。帰化僧竺庵浄印について11歳で僧となる。1734年(22歳)竺庵浄印が宇治萬福寺の堂頭、一緒に京都へ。28歳還俗して儒者となり諸国を遊歴。32歳頃に江戸、46歳頃に大坂。書家として名声あがる。門弟に頼春水、十時梅厓。58歳に堺。74歳で歿。作品は落款は陶斎、印は息心居士、趙養、我思古人。乙酉=1765年=明和2年、53歳作。早春(1月)23日、観山楼に到り、偶寫与偶游。たまたま遊んでたまたま画を画いた。 Choutosai was a calligrapher who was born in Nagasaki. He was a son of a Chinese man and a Japanese woman. His works are favored as a typical Karayo(Chinese) style today.

●竹沢養渓 Yokei Takezawa ?-1808 
木挽町狩野惟信の門人。名は惟房。古画鑑定にもすぐれた。松平定信(1759-1829)に仕えた。文化5年死去。松平定信指示で「新考平家物語図巻」(現存せず)を画く。その図巻の下絵がNewYorkに存在。落款は養渓、印は惟房之印。神官がわかめを刈っている。好きな画だ。賛の疋田宇隆は下記。 Yokei Takezawa was a painter who studied paintings at a Kano school. He seems to be good at a yamatoe style like this work. A man is cutting sea weeds(wakame).

栞70 

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●疋田宇隆 Uryu Hikita ?-? active ca. 1822-1838 
京都の画家、国学者。平安人物志の1822-1838年掲載。本居宣長の長男、春庭(1763~1828)の肖像を画く(1822年)。本居宣長記念館に八々鳥図あり(右)。作品は上の竹沢養渓の画の賛。落款は宇隆で八々鳥図の落款に一致。「和布かり すと神の宮つこ いそくらし くれ行(ゆく)年も はやともの浦」。関門海峡にある早鞆神社の神事「和布刈」のこと。元旦の未明に神職がわかめを刈る。 Uryu Hikita was a painter and probably was a scholar studying old Japan related to shinto.

●蒔田暢斎 Chosai Makita 1738-1801 
伊勢山田の書家。名は器、字は必器。書を韓天寿・沢田東江に学ぶ。唐宋などの古體文字を好んだ。当時の名士、皆川淇園、月僊らと交遊した。64歳で歿。作品は落款は暢斎器、田器之印、必器氏。確かに中国の古體文字に似る。沢田東江や韓天寿には似ていない。内容は未解読。作品は少ない。 Chosai Makita was a calligrapher who lived at Ise. His teacher was Toko Sawada who was a famous calligrapher.

●亀井南冥 Nanmei Kamei 1743-1814 
筑前国姪浜の村医の子。諱は魯、字は道載。永富独嘯庵(医師)の門下。1762年(20歳)には私塾を開き、多くの門人を集めた。1778年(36歳)福岡藩主黒田治之は南冥を儒医として採用。1784年(42歳)甘棠館の学長に就任。1790年(48歳)に寛政異学の禁。1792年(50歳)南冥は失脚し蟄居禁足処分。のち亀井塾は再開され、南冥も指導にあたった。南冥・昭陽父子の下からは廣瀬淡窓など優れた人々が育った。1814年(72歳)死去。鎮西の大文豪と称された儒者。著書に『南冥問答』『肥後物語』『論語語由』。作品は無落款。印は亀井魯印、道載、白髪書生。印よりこの人の作。「富潤屋徳潤身」。富は家屋を潤し、徳は身体を潤す。古い筆による味のある字。 Nanmei Kamei was a Jukyo scholar who has been highly respected by people. "A wealth contributes to the surroundings of the body, while a virtue contributes to the body itself."

●林子平 Shihei Hayashi 1738-1793 
江戸生まれ。仙台藩士として生活。全国を行脚し長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周と交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』など著す。56歳で歿。落款は林子平書、印は林印。「勤挙人善莫己掩悪」。勤めて人の善を挙げて、己の悪を掩う莫れ。 Shihei Hayashi was a man who wrote a book insisting the defence of the sea shores surrounding Japan islands.

●藤波季忠 Suetada Fujunami 1739-1813、千種有政 Arimasa Chigusa 1743-1812 
藤波季忠は公卿、茶人。冷泉宗家の次男。藤波和忠の後伊勢神宮祭主を嗣ぐ。絵画にもすぐれた。75歳で歿。印は季。千種有政は公卿。正二位大納言。70歳で歿。印は源有政章。「汲得上春水 清冷自可憐」。すがすがしい詩だね。画も軽快ですばらしい。 Suetada Fujunami was a kuge who belonged to the royals. He was good at paintings. This sumie lightly depicts a man who is carrying waters from a well.

●林閬苑 Roen Hayashi ?-? active ca. 1770-1780 
大坂の人。福原五岳に学ぶ。名は又新。別号に筆飛将軍。相国寺や堺の豪商の明・清画を研究。大坂で唐画師として活躍。黒田綾山、東東洋、木村蒹葭堂、維明周奎と交友。天明(1781ー89)ごろ40歳未満で死去。作品は落款は閬苑、印は筆飛将軍。独特の松と華の図だが、暗い雰囲気がある。他作品でも李可染のような暗さがある。心身が不健全だったと思うが如何。最近注目されている画家。 Roen Hayshi was a painter who was active at Osaka. He died before 40 years of age. This picture depicts a pine tree and flowers and shows a dark image.

●林閬苑 Roen Hayashi ?-? active ca. 1770-1780 
林閬苑の2作目。中国の山水画のような画。ここには暗さがないので、若書きか。落款は林又新。印は読めない。丁寧に画いている。 The second presentation of Roen Hayashi. This sansuiga was probably painted in his younger age.

●松平義著 Yoshiaki Matsudaira ?-1790 
竹谷松平家12代当主。通称は主水。三河国宝飯郡竹谷に五千石を持つ交代寄合(大名格)の上級旗本。作品は落款なし。印は中央が主水、右が松平、左が義著。印より確定。特に画家としての記述は見られない。太い筆で堂々と画いており狩野派などから学習している。鐘馗様は好き。ほぼ捕まった鬼が「鐘馗さん、そんなに睨まないでよ」と言っているようだ。 Yoshiaki Matsudaira was a samurai governor of Takeya, Mikawa. His name is not known today as a painter. This is a Shoukisan who has just caught a demon. The demon is saying that you do not look at me with such eyes.

●無記名 Anonymous ?-? 
これはいわゆる民画で、町の絵師さんが画いたもの。狩野派などで訓練を受けた人ではないが、独自の味がある。この鐘馗さんいいでしょう。 This picture depicting a Shokisan is anonymous. One of many unknown paniters might have painted this picture.

●狩野梅笑師信 Baisho-Moronobu Kano 1728-1807 
表絵師の深川水場町狩野家の画家。東東洋が娘婿。中越の豪商の星名家の支持を受ける。藤原玉元と同じ人。事情は下に記す。作品は寛政8年=1796年、69歳の作。落款は狩野梅笑行年六十九歳画、印は狩野。画題は不明。勇ましい侍が川の中を馬で駆ける。馬はいなないている。 Baisho-Moronobu Kano was a head of a Hukagawamizubacho-Kano school which was supported by Tokugawa Bakufu. A samurai is passing a river with a horse and the horse gives neighs.

栞60 

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●十時梅厓 Baigai Totoki 1749-1804 
大坂生まれ。伊藤東所、趙陶斎から書法、儒学を学ぶ。1775年(27歳)浪華郷友録に儒家、書家で記載。1784年(36歳)伊勢長島藩に出仕。1790年(42歳)泉州佐野の豪商宅に滞在。書画会や煎茶会に参加し、池大雅、木村蒹葭堂と交流。56歳で没。作品は豪快な山水画で大坂らしさ満点。大雅に似た所もある米法山水。庚申=1800年=寛政12年立春の一日後、52歳の作。 Baigai Totoki was a Jukyo scholar born in Osaka. He was good at paintings and calligraphy. This type of a rough and strong sansuiga is called an "Osaka style".

●十時梅厓 Baigai Totoki 1749-1804 
十時梅厓の2作目。落款は梅厓逸史、印は時賜之印。乙卯=1795年=寛政7年3月、47歳の作。隷書で虚心高節。濃墨と淡墨できれいに竹を画いている。すがすがしいね。 This is the second presentation of Baigai Totoki. The picture of bamboos is beautiful so much.

●紀楳亭 Kino Baitei 1734-1810 
京都生まれ。与謝蕪村に学ぶ。近江に住し、湖南九老と称す。山水画が多いが、俳画や人物画なども元気な画が多い。77歳で歿。作品は落款は湖南九老、印は梅亭。大変個性的な山水画である。山や木のひょろ長い線は独特。人物も愉快。偶々墨と紙の相性で滲んだのが幸いし面白い味がでた。 Kino Baitei was a painter and a haiku maker who studied painting skills from Buson Yosa. He was good at a nanga sansuiga. Very long lines used to depict mountains and trees are so unique in this picture.

●紀楳亭 Kino Baitei 1734-1810 
紀梅亭の2作目。天保九如図は、山、阜、岡、陵、川、月、日、南山、松柏の九つの瑞祥を画いたもの。作品は72歳、1805年=文化2年作。池大雅の点描のような画。遠景の山もユニーク。いいね。 The second presentaton of Baitei. This is a sansuiga painted by Kino Baitei in 1805. Just beautiful!

●上田秋成 Akinari Ueda 1734-1809 
大坂曾根崎生まれの読本作者、歌人。号は無腸。「雨月物語」の作者。紙油商嶋屋、上田茂助の養子。1751年(18歳)和歌、俳諧、戯作を耽読。1766年(33歳)「諸道聴耳世間猿」上梓。国学者、加藤宇万伎に師事。1768年(35歳)「雨月物語」初稿。その後国学、著作など活躍。76歳で歿。作品は和歌。印のみで無腸。「ゆ(遊)きてみぬ 心つからや うつし絵の ふ(布)さはおぼろの 月の夜さくら」。心つから=心のまま。うつし絵=現実の絵。うつし心=移りゆく心。 Akinari Ueda was a famous novelist who was also good at waka. The meaning of this waka is as follows; coming to see Sakura blossoms under a hazy moon, I know my mind is also hazy and not clear.

●五十嵐浚明 Shunmei Igarashi 1700-1781 
越後新潟生まれの画家。狩野良信(浜町狩野家)門下。池大雅の親友。のち梁楷を慕い、人物画に一派を開く。82才で歿。作品は落款は法眼呉浚明写、時年七十二。印は浚明、越人。1771年の作。この人の山水画は室町の水墨画の趣がある。すごく上品で周文や雪舟のようだね。山口雪渓に似ている。無彩色の古風な山水画を画く人はこの後は絶え、南画、写生画が主流となる。 Shunmei Igarashi was a painter who lived at Niigata. He was good at sansuiga similar to the painting of Muromachi. His sansuiga is usually colorless sumie like this picture.

●釧雲泉 Unsen Kushiro 1759-1811 
肥前島原藩士の子。号は雲泉。名を就。幼少時父に従い長崎で清人に画を学ぶ。32歳頃西日本を遊歴。各文人と交わる。1802年(44歳)江戸に出る。1806年(48歳)信越に赴き以後越後で画家として生活。亀田鵬斎と親友。53歳で歿。画は高く評価された。作品は落款は雲泉、印は釧就之印。中景に霧の立つ深遠な森が綺麗である。この特色は他の作にもみられる。筆は南画らしくない丁寧なものだ。たぶん晩期の作だろう。 Unsen Kushiro was a nanga painter whose paintings were favored by people. A foggy air in the forest is so beautiful. He was good at this style of pictures.

●高橋道斎 Dousai Takahashi 1718-1794 
上野國下仁田生まれの書家。高頤斎から書を学ぶ。同じ門人に澤田東江(弟弟子)。多胡碑(群馬県吉井町)の摸刻を出版。弟子に市河寛斎(市河米庵の父)。落款は活如居士。印は青霞山房、渤海高氏、九峰山人。渤海高氏は高天漪、高頤斎、高克明(高橋道斎)と続く書家のこと。乙酉=1789年=寛政元年、72歳の書。師の書(右)に似る。渤海高氏の書式を継承しているが丸く御家流に近い。未解読。多胡碑で有名な人だが、作品は右の下仁田町の1点しか出ない。肖像画を掲載(右)。 Dousai Takahashi was a calligrapher who belonged to a group of Bokkai-Kousi style. This way of brush dancing is specific to the works of this group. Dousai's works are rarely seen now.

●沢田東江 Toko Sawada 1732-1796 
江戸両国生まれの書家。20代前半高頤斎に入門、井上蘭台に儒学を学ぶ。また吉原で「柳橋の美少年」と騒がれた。明の書より魏晋の書体(王羲之・王献之)を重視した東江流という一派を成し、多くの弟子を育てた。門弟に蒔田必器・韓天寿など。66歳で歿。作品の落款は東江源鱗書、印は源鱗之印、字文龍、来禽。癸卯=1783年=天明3年冬、52歳作。落款、印は矛盾なし。「濁酒一杯 清琴数美 誠足楽也」。攀桂楼という料理屋で楽しそうな場面。韓天寿に似た所があるね。 Toko Sawada was a famous calligrapher who belonged to a Bokkai-Kousi group. Later he made his own school of calligraphy and taught a lot of pupils.

●沢田東江 Toko Sawada 1732-1796 
沢田東江の2作目。落款は東江老人書。花押は確認できないが、書体はこの人である。この書は流暢で高橋道斎よりさらに御家流に近い。また筆が左右に散らなくなっている。 This is the second presentation of Toko Sawada.

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●細井平洲 Heishu Hosoi 1728-1801 
尾張国知多郡平島村(東海市)出身の儒者。本姓は紀氏。諱は徳民。字は世馨。16歳尾張藩の中西淡淵に師事。1745年(18歳)長崎に遊学。1751年(24歳)江戸で嚶鳴館(私塾)を開き、学問を広めた。中庸的で温厚な道徳家として著名となる。1763年(36歳)米沢藩上杉治憲の師。1764年(37歳)嚶鳴館詩集発刊。1780年(53歳)尾張藩の明倫館総裁。74歳死去。落款は徳民、印は世馨、紀。「山花雪散尽湖瀾(なみ) 何處春風O水O 天女閣支体吊古 琵琶一曲丈人寒」。丈人:年寄りを敬っていう語。初春を詠んでいるようです。徳民の名は温厚なこの人らしい名。 Heishu Hosoi was a Jukyo scholar who was favored by people. He belonged to a governor of Owari, Tokugawa. This Chinese poem writes about a scenary of early spring.

●大島完来 Kanrai Oshima 1748-1817 
伊勢津藩士、俳人。大島蓼太に学び養子となる。1787年(39歳)雪中庵4代。雪中庵は一世嵐雪、二世桜井吏登、三世大島蓼太、四世大島完来と続く。70歳で死去。著書「江の島まうで」「藤衣」。落款は雪中空華斎、印は雪中庵と完来。「雪ふらぬ日は 紫を山わすれ」。山は雪の日はうす紫に美しく見えるのだろう。雪中庵だから「雪」には特に思い入れあり。綺麗な俳句だね。 Kanrai Oshima was a haiku maker who belonged to a governor of Tsu, Ise. "On a day with no snowing, the mountain forgets showing a purple color. I love a purple color of the mountain. "

●高嵩谷 Sukoku Ko 1730-1804 
江戸生まれの町絵師。佐脇嵩之(英一蝶の門人)に学ぶ。英一蝶に似た人物画が得意。落款は高嵩谷。花押があり、席画とみる。ほていさんと子供。衣装の太い線は英一蝶とは少し違いあり。やさしそうだね。 Sukoku Ko was a painter who belonged to a school related to Itcho Hanabusa. This Hotei looks happy associated with a child.

●関思恭 Shikyo Seki 1697-1766 
水戸生まれの書家。1712年(16歳)江戸で細井広澤に入門。27歳で儒者、書家を以て土浦藩に仕える。書家として資質に恵まれ、評判は高く門弟5千人という。関派の基礎を築く。享年69歳。落款は関思恭。「弛」ゆるむ。心の働きが鈍い。「三日不読書 語言無味」 三日読書をしなければ、語言に味が無くなる。 Shikyo Seki was a famous calligrapher who was a pupil of Kotaku Hosoi. His school was very prosperous having five thousand pupils. His son, Kinei Seki was also a calligrapher. "Leaving reading books for three days, you lose the taste of your speaking words.

●関其寧 Kinei Seki 1733-1800 
関思恭の養子で書家。号は南楼。常陸土浦藩に出仕。関派二代目。68歳で死去。これは「寒」の篆書体と隷書。寒雲暁散千峯雪 暖雨晴開一径華。落款は関其寧、印は南楼、関其寧。 Kinei Seki was a son of Shikyo Seki and a calligrapher who belonged to a governor of Tsuchiura, Hitachi. This is a Reisho style, which has been favored in China. "There come a spring shower and a flower while snow is still seen on the mountains at a cold morning.

●関其寧 Kinei Seki 1733-1800 
関其寧の2作目です。流暢な御家流的な大小に差のある書ですね。落款は関其寧、印は其寧之印、字曰子永。内容は未解読。 This is the second presentation of Kinei Seki. This is Oieryu and a fluent brush work.

●寂厳 Jakugon 1702-1771 
真言宗の僧。備中宝島寺に住んだ。書は夏目漱石などに高く評価されている。私も大好き。 落款はこれで僧厳。印は松石主人、處山。「山峰頂未雪 梅花開盤中」。山峰には未だ雪を頂く。梅花が盤の中に開いた。 可憐、最高。右は落款など。 Jakugon was a Shingon monk who lived at Kurashiki, Bichu. His calligraphy was favored by many people. I love it so much. The meaning of the poem is as follows; still there is snow on a mountain top, ume blossoms come to open on the plate."

●伊藤華岡 Kako Ito 1709-1777
伊勢の生まれ。江戸に住み細井広澤、関思恭に師事した。68歳で歿。華岡藤益道書の落款。印は藤益道印、 字曰子行。「掃雲時光峰」。このような迫力の書は僧の書で見慣れた方も多いであろう。 だがこの人の方がオリジナルであった可能性がある。右は池大雅からの手紙。ご覧のように大雅が華岡伊藤大先生と宛名を書いている。多くの人から尊敬を受けていた書家であったことが窺える。 Kako Ito was a calligrapher who lived at Edo. This type of strong calligraphy may be his original idea. His portrait, a calligraphy of other site and a letter from Taiga Ike are shown on the right. Taiga Ike shows so much respect to Kako Ito, here.

●円山応挙 Okyo Maruyama 1733-1795
右は手紙などの落款。圓山主水。 下は東京国立博物館の「臥牛図」。これらの画は彩色ゆたかで写実的、緻密な画を見慣れた方には奇異に映るだろう。これらは席画で宴会などで即興に画かれたと思う。彼には即興の墨絵に対応できる画力があったことを示す。なお圓山主水の落款は晩年でも手紙で使用している。 He has been a very famous artist. His signatures of letters and other paintings are shown on the right side. "Picture of Bull" shown on the bottom is a picture owned by Tokyo National Museum. This picture of a horse was quickly painted at a banquet. Although his paintings generally depict things in detail, he could draw sumie paintings quickly.

●円山応挙 Okyo Maruyama 1733-1795
続いて円山応挙の作である。皆さんこの應挙の落款 は見慣れていると思う。甲辰=天明4年=1784年の作である。数えで52歳の作になる。右にその3年後丁未=天明7年=1787年の本の落款を示す。相違なし。鯉は円山派の得意で、右下にFeinberg collectionに掲載の画を示す。無表情な鯉が写生的である。 The second presentaton of Okyo Maruyama. This picture was painted in 1784 and shows carps having less emotions. He was 52 years of age. Signature and seals are consistent with his own. A picture of carps owned by a museum is shown on the right.

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●円山応挙 Okyo Maruyama 1733-1795
亀が懸命に岩場に付いている小品です。かわいいなあ。落款はなし。2つの印、應挙之印と仲選がある。下の亀の図は別の美術館所蔵の作品で同じ形、印は本に記載のものと比較して矛盾なしとみた。 The third presentaton of Okyo. A cute turtle is clinging to a rock tightly. This has no signature. Two seals are consistent with his own seals. A picture of turtles owned by a museum is shown on the bottom.

●池田宗政 Munemasa Ikeda 1727-1764
江戸生まれ。聡明で美男子。1752年(26歳)第4代備前岡山藩主になる。流霞楼の号。画、俳句もよくした。38歳で歿。印は宗政之章。  Munemasa Ikeda was a governor of Bizen. Chu(忠)means obedience. He might have demanded for an obedience of other samurai.

●池田宗政 Munemasa Ikeda 1727-1764
印は流霞楼。これは池田宗政の和歌と画である。高貴の和歌は癖がなく読めることもある。「なはしろに  こころのたねを まきそへて なくやかはずの やまとことのは」画は備前の田園風景。  This picture is the second presentaton of Munemasa Ikeda. waka is a little longer form of a haiku. But the meaning of the contents are usually different from a haiku. The waka made in the 18th and 19th centuries is often related to adore shinto or the royals.

●木村探元 Tangen kimura 1679-1767
大弐法橋探元斎守廣の落款。薩摩の人。江戸で狩野探信に師事。薩摩藩の御用絵師。 画才は非常に優れ,彼の絵を評して「見事探元」とよばれた。右は他の作品の落款。 He was born in Satsuma and belonged to a governor of Satsuma. He was called "migoto-Tangen", which means beautiful Tangen. This picture depicts Daruma. His signatures of other paintings are shown on the right.

●木村探元 Tangen kimura 1679-1767
印は法橋探元。落款はないが2つの印は木村探元が作者であることを示す。 猿回しの猿への愛情がこもった微笑ましい作品。 This is the second presentaton of Tangen Kimura. Two seals are consistent with his own seals. This is an old showman who shows performances with a well-trained monkey. His love for the monkey is so much here.

●祇園南海 Nankai Gion 1676-1751
江戸時代、紀州藩の儒者、漢詩人、日本文人画の祖とされる。落款は南海阮瑜。 印は阮瑜之印、白玉氏。 He was a Jukyo scholar in Kishu. He has been considered as one of the earliest scholars who had a painting skill. He was good at birds and flowers. His signatures are shown on the right.

●池大雅 Taiga Ike 1723-1776
文人画の大家。落款は霞樵。印は池無名印、三岳道者。右は別作品の落款。これは款記の字も典型的。書でも高く評価されている。私は彼のファンである。  Taiga Ike has been a very famous artist. Signature, seals, handwriting and the style of the picture are all typically compatible with him. His calligraphy was also favored by people. I love his works so much.

●池大雅 Taiga Ike 1723-1776
印は池無名印、三岳道者。落款の霞樵はよい。隠れたところに樵が画かれている。 The second presentation of Taiga. A woodcutter is shown in the wood.

●池大雅 Taiga Ike 1723-1776
この落款の霞樵もよいもの。印もよい。右は落款集に掲載のもの。 This is the third presentation of Taiga. Related seals and a signature are shown on the right.

●池大雅 Taiga Ike 1723-1776
これは大雅の卓越した点描画。木の葉の繰り返し模様が特徴的である。霞樵も印もよい。 This is the fourth presentaton of Taiga.

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●池大雅 Taiga Ike 1723-1776
これは上の作品と対のもの。印は掲載あるもの。山をこの様に米法山水の手法で描いている。美しい。市場には「大雅の作品」はよくみかける。しかし本物は少なく10%以下である。だが鑑別はさほど難しくない。落款の良い物は画もたいていよい。画も似せようとして大雅の手法をことさら強調しようとするが天才的、個性的な画だから難しい。大雅の画は専門家の間でも意見が合致しないといわれる。それは大雅には細密画より粗略的の画も多いから、そういう粗略な画を除く人と含む人との違いと思う。私は粗略な画(例えば3番目の画)も含める方に賛成。扇などは特にそうだ。 This one and the one shown above are one of a pair. This is the fifth presentation of Taiga. A handwriting, seals and the style of the picture are all compatible with him. A picture copied from a book and a portrait of Taiga Ike are shown on the bottom.

●池玉瀾 Gyokuran Ike 1727-1784
祇園社門前の茶店の娘で池大雅の妻となった。大雅に学び、女流画家しても名をなす。右に参考作品と落款を示す。 Gyokuran Ike was a cafe waitress at Kyoto Gion. She became a wife of Taiga Ike and also painted pictures. She was favored and supported by many people. Her signatures and a pictere are shown on the right for reference. She was good at the paintings depicting willows.

●韓天寿 Tenju Kan 1727-1795
韓天寿は伊勢に生まれ、京で活躍した書家。池大雅の親友であった。落款は韓天寿書、 印は韓大年、韓天寿。関防印(書の右上の印)」は任性逍遥。端正な字だが丸い。私はこの感じが大変好き。 大雅の字に似るが多分大雅が真似た。下は本などの落款。 Tenju Kan was an intimate friend of Taiga Ike. He was born in Ise. This kaishotai calligraphy was well-constructed but smooth. I love his calligraphies so much.

●韓天寿 Tenju Kan 1727-1795
韓天寿の山水画である。現代の我々からみれば、ありふれた幕末ー明治前半にみられる 典型的山水画である。だが韓天寿は1700年代の人であり、山水画も各自で多様な時代の人である。 この款記に「伊孚九筆に倣う」とあり渡来清人の伊孚九にならったものである。 親友の大雅の画には全然似ていない。本にも右の如く同様の画が記載されている。 おそらくこの型の山水画がおだやかで安心できるため、商家、武家などで人気があり、 その後の浦上春琴や岡田半江、田能村竹田、直入などを経て標準的になっていったと思う。 Wikiには「伊孚九と池大雅の山水画を縮小して模刻した『伊孚九・池大雅山水画譜』を製作」とあり、 これを裏づける。この人は一般に山水画の人とはみられていないが、もっと評価されるべきである。 This is the second presentaton of Tenju. This sansuiga looks like the one painted at the Meiji period. I believe that he may be a pioneer settling a typical form of sansuia pictures. We should evaluate his works more.

●無記名 anonymous ?-?
無記名の作である。人物の着物は釘状に打ち込みのある線で画かれ、狩野派の作を示す。画題は自由なもので、隠棲の尼さん様の女性と茶道を嗜んだ後の客の帰宅している場面が画かれる。ほのぼのとした画からは久隅守景かその周辺の作を思わせる。将軍や大名の屋敷をかざる狩野派定番の画もよいが、こういうのは私好みである。 This is anonymous. This work was probably painted by an artist belonging to a Kano school. A lady living apart from people is sitting along the window. The visitors are coming back to home after a tea ceremony. A scene of an usual day was depicted here. I love this so much.

●月僊 Gessen 1741-1809
これは四睡図で豊干、寒山、拾得、虎共に睡る姿。箒を投げ出して眠る拾得、肘杖の寒山、虎と安らかに眠る。月僊は名古屋生まれの浄土宗の僧。圓山應挙に師事して画を学ぶ。伊勢の寂照寺に生涯住んだ。画は多くは成人男性を描き、その表情は個性があり魅力あり。作品は大変多い。中には明らかな偽作も混じるが、本物も多い。 This is a work of Gessen who was a joudoshu-monk. He studied painting skills at a Maruyama school and was very good at painting adult male persons. This painting depicts three monks and a tiger sleeping togeather. This is called a Shizuizu, which means four sleeping guys.

●月僊 Gessen 1741-1809
これは酔李白図で酔った李白を童子2人が支える図である。印は寂照主人、月僊。 This is the second presentaton of Gessen. This picture shows a drunk man, Rihaku supported by two boys.

●月僊 Gessen 1741-1809
この長老は菊を手に持っている。この図は菊と長寿との関連を示しているようだ。 This is the third presentaton of Gessen. This picture shows an old man holding a bunch of chrysanthemum. The flower was considered as a symbol of a long life.

●月僊 Gessen 1741-1809
この4人の老人と童子の画は格調高いが、それはこの賛の漢文によるところが大きい。賛者はかなり有名な女史であったので下に記す。 This is the fourth presentaton of Gessen. This picture showing four old men and a boy looks great due to a kanji poem. The poem was written by an intelligent lady.

●三枝斐子 Ayako Saigusa 1759-1830 or later
上記の月僊の画に漢文で賛を入れたのはなんと大変な才媛であった。落款は 清風枝氏題。印は子章、三枝斐。この漢詩が記されたのは癸亥=1803年=享和3年で本人45歳の書。この人の記載を以下に引用する。「旗本三枝守保の娘。堺奉行土屋廉直紀伊守の妻。字は子章、茅淵。清風と号した。和漢の学に通じた。夫が堺奉行に任ぜられ、江戸から堺に行くのに従った道中紀行を『旅の命毛』といい、堺に在住の日記を『和泉日記』、ほかに『曹太家女論語解』、『烈女伝拾遺』、『枝氏家訓』など」。かっこいいねえ。別名は土屋斐子。ここでは本人の落款の「枝氏」、印の「三枝斐」を尊重して表題は三枝斐子とした。 This poem was written by Ayako Saigusa in 1803. She was a wife of a governor of Sakai and was a very active woman in cultures. She had published five books in her life.

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●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
蘆雁図、岸辺の蘆と雁を描く。落款は文麗都、印は泰都。伊予大洲藩主の六男で三千石の家督があり。子は大洲藩主となった。谷文晁の師。本来狩野派だが、小品も多く、伸び伸びとした画である。 A wild goose is coming back to a waterside, where a reed is growing. Bunrei Kato was a son of a governor of Osu, Iyo. He was a teacher of Buncho Tani, who became a very famous artist. He painted a lot of small pictures like this.

●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
落款は従五位下伊豫守入道藤文麗都画、印は雲山。神農は医薬と農業を司る神で頭に短い角があり、本邦でもよく描かれた。文麗のおっとりした人柄からか、この神農は手に薬草を持ってやさしそう。 This is the second presentaton of Bunrei. Shinno is a god of herb and agriculture having two short horns. Here, Shinno painted by Bunrei Kato looks so warm-hearted.

●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
落款は藤文麗都画、印は豫斎。この作品は溌墨山水様の墨をぶちまけたような岸壁が特徴。この手法は後に谷文晁もよく用いた。夕日がきれいだね。 This is the third presentaton of Bunrei. The sea shore written by a style of hatsuboku sansui is outstanding here. The sunset is beautiful.

●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
落款は文麗都、印は豫斎都。これは俳画。「豊なる 國とや鶏も くるの秋」。 This is the fourth presentaton of Bunrei. This is Haiga, a combination of a haiku and a painting. "Harvesting crops at late autumn. A cock comes to eat."

●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
加藤文麗の5作目。落款は文麗都、印は豫斎。この老人は穏やかな顔だね。この人らしい。 This is the fifth presentation of Bunrei. This old man shows a calm face like Bunrei himself.

●加藤文麗 Bunrei Kato 1706-1782
加藤文麗の6作目。落款は藤文麗都画、印は太都之印。月に柳はわかるけど下の方は土盛りかな?石ではないようだし。 This is the sixth presentation of Bunrei. A moon and a willow. What is there at the bottom? A small mound?

●細川重賢 Shigekata Hosokawa 1721-1785
肥後熊本藩第6代藩主。細川重賢は文芸に秀で、俳号を華裡雨と称する俳人であった。落款は華裡雨。「華裡雨」検索で一発で出る。他のサイトに俳句あり(右)。「ウ」の次に句がある。「船頭の Oに御城や 水車」。大藩の殿様にしてはこの字は軽く流暢なので俳句好きの気さくな人柄だったと看る。現在も名君として評判はよい。 Shigekata Hosokawa was a governor of Kumamoto, Higo. He was good at a haiku. As his handwritings are light and fluent, he might be an easygoing person. He has been favored by many people until today.

●伊藤長秋 Nagaaki Ito ?-1787
江戸日本橋に住んだ書画家。筑後柳河藩士。松山天姥(書家)に師事。落款は長秋酔墨、富貴自在図。囲炉裏の自在(鉤)とふき(蕗)を画いて富貴自在図とは洒落ている。この絵柄は商家などで好かれただろう。印は伊藤長秋章。賛は鹿都部眞顔で下に記載。右下にふきの写真。 Nagaaki Ito was a samurai painter who belonged to a governor of Yanagawa, Chikugo. Fuki, yakan and a hook were painted after drinking Sake. This combination means that a richness is present in my house.

●鹿都部真顔 Shikatsubeno Magao 1753-1829
江戸後期の狂歌師・戯作者。別号に狂歌堂。家業は江戸の汁粉屋。天明年間に四方赤良に入門。頭角を出し、宿屋飯盛と狂歌界を二分した。黄表紙、狂歌撰集など九十数冊の著作。辞世の句「味く喰ひ暖かく着て何不足七十なゝつ南無阿弥陀仏」。作品は落款は狂歌堂、印は眞顔。「徳ありて冥加あらたまの福(ふき)葉かな」。冥加は神仏の加護。幸運が改まって来るようなふきだな。味がある狂歌だね。 Shikatsubeno Magao was a kyoka maker. The kyoka is similar to a haiku. But the contents of kyoka is cynical. The meaning is as follows; "A god blesses the fuki and your fortune."

●加藤千蔭 Chikaga Kato 1735-1808
国学者・歌人。賀茂真淵に学ぶ。歌道に貢献し、千蔭流和様の書も人気。『うけらが花』『万葉集略解』等の著書あり。だるまの画と「不対(対面せず)」。款記は「応求千蔭物題并画賛して友人におくる」。意味は「求めに応じて千蔭が題を物し(作り)画を奉る。友人にすすめて贈る」。私は略画も好き。意味が解ると大変好きになる。 Chikage Kato was a famous scholar of old Japan related to shinto. This Daruma is Hutsui(不対) which means looking away. This work was presented to a Chikage's friend.

栞10 

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●加藤千蔭 Chikaga Kato 1735-1808
「秋のよの 月のひかりに みがかれて 心さへかわ(?) すみわたりけれ」。これは和歌と略画です。 This is the second presentaton of Chikage. This work is a waka associated with an abstract painting. "The moon light in autumn is beautiful and makes my soul serene."

●島﨑雲圃 Unpo Shimazaki 1731-1805
日野生まれの酒、醤油の近江商人。同じ日野出の高田敬輔の指導で絵画に習熟。出店のある下野で小泉斐を指導。これはまとめて購入した中にあった画。印は雲圃、湖東間人。日野は琵琶湖の東で湖東。印からこの人と想定する。葉の周囲は没骨で葉脈は乱雑に黒で画く絵はやや珍しい。滲んだ色がきれいだね。 Unpo Shimazaki was a merchant who was also good at paintings. The leaves are clearly demarcated by thick sumi lines. This way of painting the leaves has been relatively rare in Japanese paintings.

●雲谷等村 Toson Unkoku 1760-1810
長州萩藩の画家。雲谷等顔、等益に連なる雲谷派の絵師で法橋となる。51才歿。印は法橋等邨(村)、落款は等村。上の雲圃の作品同様、葉の周囲は没骨で葉脈は乱雑に黒で画く。右側だけ見ると西洋画の様。きれいだね。 Toson Unkoku was a painter who belonged to a governor of Choshu, Mouri. This work looks like a Western drawing picture.

●渡辺溱水 Shinsui Watanabe 1720-1767
江戸麻布生まれ。名は従。長崎で画を学ぶ。鈴木芙蓉の師。渡辺玄対は養子。「辺氏画譜」あり。落款は溱水邊従写。印は邊従、一字O文。中国画のような見事な山水画。この人の肉筆作品は現在ほとんど見られないようだ。この人は近来「湊水」とされるが、「溱水」が正しいと私は観る。 Shinsui Watanabe was a painter born in Edo. He was good at a sansuiga resembling Chinese paintings like this.

●渡辺溱水 Shinsui Watanabe 1720-1767
これは木版画。この画は立命館大学所蔵の辺氏画譜第一帖に記載の「蟠桃」と同じであった。辺氏画譜は渡辺溱水の画を子の渡辺玄対が寛政11年=己未=1799年に出版したもの。印の有無と字の形に加え、画も細部が異なる。私の作品は出版前の試し刷りでこのあと更に版刻し修正したのであろう。この人は近年、渡辺湊水(そうすい)とされている。溱水の養子の玄対の寛政11年の発刊本である辺氏画譜の字、印は「溱水(しんすい)」である。他に日本南画史ー梅沢精一著、1919年(大正8年)出版でも溱水(しんすい)。以上の他にも溱水(しんすい)の本あり。古画備考(国会デジタル)は溱、湊両字を使用。 This work was produced with a technique of woodblock print. This picture appears in Henshi gafu(辺氏画譜) published by Gentai Watanabe (a son of Shinsui) in 1799. Because the details of the picture and a signature are different, this one was a product for the test printing.

●桃林 Torin ?-? active ca. 1765
江戸の俳人。建部綾足門人。1765年(明和2年)に序文を「片歌百夜問答」に書く(右)。ほか「発句題林集」(右)。作品は「謙かわけといふは罪なり秋の水」。"喧嘩をして引き分けしても罪だ。秋の水は冷たい"。喧嘩の理非を問わず、双方とも処罰する喧嘩両成敗を批判しているようだ。芭蕉の句に「ものいへばくちびる寒し秋の風」:余計なことを言うと災いを招く。この句を意識して作った対句だと思う。 Torin was a haiku maker. He was a pupil of Ayatari Takebe. In the Edo period, if there is a big quarrel, Edo bakufu punished both sides. This haiku probably take a position against the rule.

●建部凌岱 Ryotai Takebe 1719-1774
俳人、画家。別号に綾足、あやたり、寒葉斎。名は孟喬。弘前藩の家老の子。20歳弘前を出奔。諸国を漫遊して、俳句、日本画に精進。1747年(29歳)江戸に『吸露庵』を構え、俳諧の弟子を持つ。1753年(35歳)中津藩主奥平昌敦の画師。1762年(44歳)寒葉斎画譜を刊行。1763年(45歳)京都に住み、綾足の号を用いた。56歳で歿。これは俳画。印は凌岱、孟喬。落款はあやたり。「ゆふされば 小舟のけふり きしになつそふ」。夕方だから(されば)小舟からの煙が岸や水辺に浮かぶ。なづさふ:水上にうかぶ。舟で何かを炊いているのだろう。その煙が岸や水辺に漂っている。こんな意味かな。 Ryotai Takebe was a haiku maker and a painter born in Hirosaki, Mutsu. He was successful in both. This is a painting associated with a haiku(俳画).

●建部凌岱 Ryotai Takebe 1719-1774
建部凌岱の画。落款は建凌岱写於寒葉斎。印は凌岱、孟喬。この人の画は彩色のない斯様な花鳥画が多い。地味だけど飽きが来ない。いいね。 This is the second presentation of Ryotai Takebe. He was good at flowers and birds with a colorless style like this.

●無記名 anonymous ?-?
金剛力士像です。寺院内に敵が入り込むことを防ぐ守護神。日本画では意外に見かけない。この衣の線や体の太い線は画師による筆を示す。これは頬骨や眉が突出していないので人間的な顔である。落款、印なし。 This is anonymous. This painting of a sumo wrestler is defending the house from enemy monsters.

栞 最後 

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●呉春 Goshun 1752-1811
京都で生まれで四条派の始祖。1773年(22歳)に与謝蕪村の内弟子。南画を学ぶ。1783年(32歳)蕪村が死去。1787年(36歳)円山応挙の門人、写実的な作風へと転進。1795年(44歳)応挙が亡くなると京都画壇の中心となる。1811年60歳で没。この作品は墨絵である。落款は呉春、印は呉春之印。松は大きく、梅に竹は小さく画く。 Goshun was a famous painter born in Kyoto. This picture is a sumie showing the trees of pine, ume and bamboo.

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