南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 加賀橋立北前船主文書,Documents of Kitamaesen Owners >

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加賀橋立北前船主文書,Documents of Kitamaesen Owners

ここは幕末から明治中期に栄えた北前船主、特に増田又右衛門及び大家屋又右衛門の文書です。特に順番はありません。ゆっくり楽しんで下さい。
Here are documents of Kiamaesen owners. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで自由に使用は許可されている、感謝して使用させていただいた。古い雑誌の表紙は美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#726. 竹皮綱の子の覚にて御座候
越前(福井県)敦賀の塩屋仁兵衛が北前船主の増田家または大家家に請求した覚。竹の皮で編んだ綱で綱の子と呼ぶらしい。これは船を繋ぎ留めるのに使われた綱らしい。「竹皮縄竹の皮によって作った縄」との記載がある。「挺(ちょう)」は細長い商品の単位、弐挺五丸がどんな形かは不明。なお金1両=銀64匁であった。

●#629. 布壱反五匁 金銀の両替は七一弐にて御座候
京甚より北前船の大家屋与市に布1反を銀5匁で売った覚。記載内容、つりの計算より交換率を計算した。金1両は銀71.2匁、銀1匁は銭93.8文と標準的であった。やや銀が弱いので幕末に近い頃である。金1両=銭6679文で金が強くやはり幕末に合う。「甚」と「忠」は人名によく使われ似ている。京甚は当初金2朱を7.9匁と書いたが、訂正して8.9匁と正した。しくじり行為は深層心理を表していたか?

●#620. 椹三五大作屋へ早速掛合候趣 最早右椹は大家屋へ売附申候様申居候
北前船で出張の手下からオーナーへの文書である。椹、杉の材木のことなどが書かれる。なかなか商売もうまく行っていないようだ。#473にも椹の材木の事が書かれる。

●#566. 縄俵で〆銀八匁四分 此金弐朱と銅六十五文にて御座候
京屋嘉助より通力丸の又四郎への覚。通力丸は加賀橋立増田又右衛門の所持する北前船である。商品は縄12貫(45kg)と俵5枚である。合計銀8.4匁。交換率は金1両=銀62匁、銀1匁=銭100文と判る。これは標準的で嘉永5年(1852)より以前のものである。#101に縄の覚、#136、#372、#388に通力丸の文書あり。

●#563. 油大下落にて致方なく米と替事参り候 融通方甚た不都合に候
加賀大聖寺別所屋仁右衛門から加賀橋立北前船の大家屋又右衛門への返事の手紙。仁右衛門は又右衛門の傘下で出帆中である。決算して収益金を渡すよう使いを出すといわれたが今は難しい。油を売っていたが値が大下落して米と交換した。米を売るがこの損は補えず困った。そこで新茶を買入れようとするも手持ちの銀がなくなって難儀している。決算は当面利足分のみ払うことで願います。なお金1両=69匁の所に裸手形で69.5匁にてすぐにお渡しできますので金を渡してもらえれば差上げます。以上北前船での商売がうまく行っていないという手紙である、この裸手形は大丈夫なのだろうか。大聖寺と橋立は同じ加賀南部で近い距離。

●#530. 半蔵私同様手前札にて出入存候様 御役頭衆より御門守へ御願書
友左衛門より北前船主増田又左衛門への手紙。荷を積むために半蔵と「御門」へ行った所、願書を出すように御引役衆にいわれて書いて出した。御門守にも出した。以後毎度願書を出すのは双方大変なので半蔵も私のように「手前札」にするようにいわれた。ついてはその願書を御役頭衆(貴方)より御門守と御引役衆に書いてほしい。以上の内容である。御門守とは門番役の人であろう。荷を積むため門に入ったとき半蔵は新入りなので門番に呼び止められたのである。

●#493. 布五拾四反也 御銀〆七百八拾弐匁四分也
下に続いていとや忠蔵より加賀橋立北前船主大家屋又七への覚。4品目合計布54反を銀782.4匁で売った。荷造りに入用は代銀1匁8分である。支払いがあったので入帳した。細かい字の「かへ」は1反当りの値段である。計算は示さないが正しい。量が多いのでこれは北前船の航行の先で売り捌くための仕入れなのだろう。

●#492. 布拾三反也 御銀〆百九拾六匁五分也
いとや忠蔵より加賀橋立北前船主大家屋又七への覚。合計布13反を銀196.5匁で売った。支払いがあったので入帳した。布1反:幅37.5cm、長さ10.1mで着物1着分。細かい字は未解読である。大家屋又七は大家屋又右衛門の息子と思われる。

●#462. 慥成便無之候に付 手紙而已差上置候段恐入奉存候
北前船回航中の伊右衛門より加賀橋立船主増田又右衛門への手紙。健康の挨拶のあと、黒崎村の理助の勘定の残り金は確かなる便がなく手紙のみ差上げること、塩谷村の買い置きで兵次郎殿へ45円差上げたのでこれを受取ください。以上の内容である。黒崎村は橋立村の西隣の村で現加賀市黒崎町。塩谷村は現小樽市西部で北前船の活躍した場所である。明治初期の文書である。

●#438. 鰊笹目伊丹屋にて掛合漸々に売払仕候
倅又五郎から加賀橋立北前船主増田又右衛門への手紙。商売の様子を詳しく報告している。やや不明の所があるが、又五郎は権七と北前船に乗って鰊、笹目など魚肥料を搭載して大坂方面に来ている。そこの伊丹屋で手配してこれらを売り払った。権七は船主らしいが舟に滞在していて販売を自分に頼んだ。自分は手配して漸々に売り払った。弟の又七に大豆を売った。また又右衛門が注文していた品々を買い求めてゆく。以上の内容である。

●#55. 船荷の送り状 目形改慥積入荷送 A note of shipping Konbus, salted fishes and silver.
辛未=1871年=明治4年8月の送り状。大家屋又右衛門は加賀国橋立の船主で富豪として知られる。能登国福浦村の浅次郎が荷を確認して又印をつけて加賀国橋立の大家屋又右衛門に送った。箱入りの荷は銀ではないかと思う。切込はぶつ切りの魚を塩漬けにしたもの、黒のり、江差出荷の花折昆布など13品。重さの1貫は3.75kg。慥:たしかに。文書はこの前が6品目分欠けている。途中で荷が盗まれたりしないよう慎重である。船は加賀国白尾村の大三郎所持の永福丸。橋立は大聖寺藩前田家の外港であった。

●#69. 鱒荷商内新登に御座候 下野関置米案居申候 I am shipping trouts as a main cargo to Osaka.
函館出航の北前船の船主が大坂に着いた別の船主に宛てた手紙。「無難に登られて御気張りでしょう。当方は箱館を出航し漸く当地へ無難に着きました。肴は各地切れた様子を承て鱒荷商売で登って参ります。他の商品も申送りをします。さて当夏に私が下関に置いた米は如何成ましたか。案じています。その地(大坂から下関辺)の米相場人気を考慮ください。当地東通辺(日本海航路の東北辺の港)では米人気は宜しい。津軽(青森県西部)、南部(青森県東部から盛岡辺り、#11に地図)も不作、仙台辺は水害で5、6分の出来。米相場は一段上がると存じます。宿の清七郎様や御衆中にも伝言ください」。北前船とは大坂から下関、さらに加賀など日本海沿岸で商売しながら箱館や松前に至る航路。船主は越前、加賀、能登出身が多かった。米、魚、昆布が大坂への登り、衣服、塩などの日用雑貨品を北の各地へ運ぶ。ここではこれから登る船主が鱒荷商売を中心にすると大坂にいる船主に手紙。そして夏にこの船主が下関に置いた米を心配している。この秋は津軽、南部、仙台が不作なので米相場が上がるので北へ積み下すことの考慮を促す。御機嫌克:ごきげんよく。日柄:ひがら、株相場が落ち着くまでの日数、ここでは箱館から入港までの日数。商内:あきない。最後が1行切れている。#55では能登から加賀橋立への船荷として昆布、のり、塩漬け魚が配送されている。

●#94. 木の販売は銀壱匁で以て購買出来る重量が単位にて御座候 A timber merchant sells the woods to a ship owner. The unit price was the wood weight per a monme(3.75g) silver in the late Edo period.
名前はないが他の文書などより、北前船の船主に木の販売をした計算書である。北前船は大坂から下関、さらに加賀など日本海沿岸で商売しながら箱館や松前に至る航路。船主は越前、加賀、能登出身が多かった。米、魚、昆布が大坂への登り、衣服、塩などの日用雑貨品を北の各地へ運ぶ。船の修理に木材と船大工は欠かせないものであった。 #69、#76、#78も参照。割出:木から材木を挽出すこと。浅木:節の多い粗末な材木。木の販売は銀1匁当りで購買できる木の重量で示す。上割出は5.7貫、浅木は7.5貫であった。数字が大きい程安い価額の商品である。浅木の総重量の貫以下の数「五」は貫の下にそのまま書く。両替は金1両=銀64.5匁であった。一般に1両=60匁とされるが、幕末は金が高値となる。漢字「卅」:三十は実際の文書では見るのは稀。この木の販売覚書での計算は極めて正確である。

●#101. 太縄之壱貫は銀七分三厘にて御座候 This is a report of selling ropes to a ship owner.
京弥さんが大家屋又四郎さんに太縄と不明の商品を販売した覚である。2種の商品はどちらも1貫が0.73匁(銀7分3厘)であった。両替は金1両=銀64匁であった。大家屋は幕末から明治中期に活躍した加賀橋立(現石川県)の北前船の船主で豪商であった。印より京弥は兵庫津(現神戸の中心三宮より少し西)の商人。計算は正確である。加賀橋立の地理は#55に記載。

●#111. 北前船荷物味噌七拾貫百 弐百六拾九匁六分也 An invoice of miso, ropes, woods and wages of the sailors.
津軽青森の藤林源右衛門さんから加賀橋立の増田六三郎さんへの費用の覚である。水主:かこ、船の乗員、船乗り。賄料:船乗りの食事代。御役方:青森港を管轄する役人(武士)。増田家は幕末から明治中期に活躍した加賀橋立(現石川県)の北前船の船主で豪商。青森港では味噌を大量に仕入れて日本海を大坂に上るようだ。縄、割木は北前船には不可欠のものであった。水夫は松前か箱館から青森までの船員で青森付近在住の者だろう。計算は正確である。印の屋号「父二」は藤林のふじである。源右衛門さんの「四」はくるくると丸めたユニークな面白いものであり、この人の「五」とは区別できるが、一般の「五」と紛らわしい。両替は金1両=銀104匁で幕末から明治に入る頃である。#101、#94、#69、#55に北前船関連文書がある。

●#115. 松前表出帆仕候 筵包四箇安宅米屋殿え差送 We are shipping the straw mats from Matsumae to Ataka, Kaga.
北前船朝日丸の船主より橋立の増田又右衛門への手紙。「冷気の砌。御尊家様益々御機嫌克くされ恐悦です。私共舟中も別条無く松前を出港し、当地に着きましたのでご安心ください。増田又左衛門様買付け筵包4個安宅米屋弥三兵衛殿へ差送中です。また樽2つ別家又三郎様の分も差送り中です。これら御承引ください」。克:よく。朝日丸は増田又右衛門配下に違いない。増田又左衛門や増田又三郎は別家で支店である。米屋弥三兵衛の加賀国能美郡安宅村(現石川県小松市安宅町)は橋立村に極めて近い。ここも安宅湊で港である。このような手紙は他にもみられ、北前船の親方は強い力を持っていたことがわかる。#76に朝日丸与市が苫の筵を購入した覚がある。よってここの手紙は最後が切れているが与市が出したものと思う。

●#116. 江指表大出火蔵三つ落 松前烈風破船数多 There was a big fire in Esashi. Three warehouses were burned down.
寅寄丸の又助より増田祖父様への手紙。増田祖父は橋立の豪商増田又右衛門である。「寒冷の砌、皆様御揃で御壮健にて恐賀奉ます。私も船中無事で当所へ到着しました。御安心ください。さて御兄様早々に江指表を出立の筈でしたが、江指で大火事があり丸二印様の蔵3つ類焼で落ちました。気の毒千万です。兄様の銀子も延引でしたが、近日漸く発送です。御承引下さい。なお当月3-4日烈風で松前にて難船、破船多数。山ユ印様の船通保丸が破船で驚き、また気の毒です。それでも荷物半分ばかり取揚ましたが格別の損をされました。当方は災難がなく大慶でした」。倍:ますます。頃日:けいじつ、近頃。漸く:ようやく。延引:引き延ばし。数多:あまた、多数。乍去:さりながら。而已:のみ。江指:江差。格別:例外の。北前船での商売も大変である。江指で大火事で蔵の焼失、松前で烈風による船の破損。様々の危険があっても各湊での仕入れと販売で商売が成り立っていた時代であった。#85に「けんのんな(危うい)ものは箱館の用立に松前行の早出帆」。明治中期には鉄道の発達などで北前船は150年の歴史を閉じることになる。

●#119. 鯡類高値喜悦罷在 久遠より江差迄新網立ち I feel so happy to hear that the price of herrings rose so much.
若山久兵衛さんよりおそらく増田又右衛門さんへの手紙。「向寒の時御尊家様御一同様御清栄にて御目出度いことです。当方も一同無事です。此頃は御窺いもせず申訳ありません。乗船の皆様も無事に大坂に登られ、また鯡が高値で喜悦しています。鯡取が流行し、来年は久遠から江差まで新網が50も立ち、当地鯡取雇い人も60円よりと前代未聞です。来年はどうか貴下も御下り下さい。寒いときは御達者にお過し下さい」。鯡:にしん。茲:ここ。久遠:くどう村、えぞ地の地名。御鶴声:鶴の一声。何連:いずれ。北前船の主力商品の鰊は高値で喜ばしい。加賀から北海道行きは「下る」で大坂行きは「登る」である。

●#122. 上円苫百枚三拾五匁 金弐歩に羽銀弐匁五分慥に受取 A hundred of the straw mats costs you 131g of silver.
加賀橋立の酒屋小三兵衛が大家屋又四郎に出した覚書。上の丸い苫100枚で35匁である。両替は1両が銀65匁なので嘉永5年(1852)より前の頃のものである。「羽銀」とは金で支払った後の残りの支払いの銀のことである。苫は菅や茅を粗く編んだ筵で北前船の商品の1つであった。#76に苫の販売の覚、#115に筵の運送がある。

●#125. 増寿丸作事相済下り物積入候 当年高値に困入申候
増寿丸佐平さんより増田御内室への手紙。「緒は弥生の時節です。御家内様御機嫌よく御目出度いことです。私共も無事ですので御安心ください。増寿丸は仕事も済み下りの荷物を少々積み入れました。4月3日出帆です。山エ印の舟では皆病気になり戻りました。早速養生されます。次に山一印には火の用心を申付ました。御見舞かたがた以上です。今の相場は左の如くです。今年は大高値になり困り入ました」。御内室:おかみさん。弥生:4月。緒は:手紙の始まりに。御類方:同類の方々。四敷:よろしく。当時:現在。さとは砂糖と思う。回大刻棉は不明、単位が重いので割木のようなものかもしれない、12貫目=45kgで18円余の品物。おそらく佐平が居るのは大坂近辺の上方でそこの相場を知らせた。これから下り加賀橋立の増田本家へ向かう。下り物は大坂付近で仕入れる生活品で高値だと加賀や東北、北海道で売れないので困るだろう。逆に鰊、昆布などの海産物は北海道からの上り物で高値は大歓迎であった(#119の記載)。時は明治に入った頃。

●#129. 苧類案外高値 作事船数多に大金入用当惑
末広丸又兵衛から御隠居などへの手紙。御隠居は増田又右衛門と思う。「苧類案外高値で困ります。私共の仕事もとても千両や千五百両では出来ず、大金が入用で当惑しています。特に今年は新造の船や作事船が数多あり大工が不足。私達の船も修繕が来年4月まで掛かるかということです。早く船を登らせ仕事に取り掛かれるようにしたいです。以上皆様にお伝えください」。苧:からむし、苧麻。迚:とても。作事:仕事。数多:あまた。ライバルの船が多いことや船大工が不足していることから、幕末の北前船の全盛期と思われる。苧の生産地の越後、出羽の最上川あたりに末広丸はいるようだ。これから加賀に戻り大坂方面へ登るようだ。字は丁寧な達筆で読みやすい。

●#136. 肥しもの頓と引立不申大いに心痛
通力丸幸作より御主君様、増田又右衛門への手紙。「余寒強いですが御主君様始め皆様お揃で益々御安静おめでたいです。私は帰国する心積りですが不快(病気)で薬用しております。御容赦下さい。通力丸(船)も外廻りは終わり、内廻りに入りました。大阪港は大工賃が上がり皆大阪へ出てここは大工不足になり未だ船の修繕が済まず当惑です。大阪表などもむしろO(豊作)で肥やし物がとんと引き立ちません。商品の相場はこの如くです。粕は得は65銭位ですので御承知ください」。壱応:いちおう。一入:ひとしお、いっそう。心痛:こころ痛い。加賀の北前船通力丸が大阪に着いて兵庫あたりにいるようだ。船大工による船の修繕は大切であった。加賀から大阪へは外廻り、大阪から加賀へは内廻りとよぶ事がわかる。酒粕は灘や伏見の酒造からの仕入れだろう。この値段に65銭足して売るようだ。明治初期の頃である。肥やしは干し鰯、干し鰊が有名だが、ここのはへ乾は川魚のはえだろう。

●#141. 御入船途切物気配克 御入船在之物嵩少々行当り気味
北風荘左衛門さんよりおそらく増田又右衛門への手紙。「冷気の節です。益々御安康御目出度いです。さて大坂米先成書状後値段は直り、昨日は左のようです。右の相庭も私が成した先の書状後に入船が途切れのものでは(値段の)気配がよろしい。この後新報が入るまでこの模様です。花が面白く高下しないかと思っています。肥やしものは先の書状後も絶えずよいです。入船のあった物品はやや行き渡って余り気味です。現状の外は見違いありえます。次に変化した時1便を差上げます」。爰元:ここもと、わたし。相庭:相場。克:よく。肥やし:干し鰯、干し鰊など、#136参照。不絶:たえず。加賀の北前船主人の増田家は大坂表の値段を常に注目していたことがよくわかる。印と名前の「北風荘左衛門」は迫力あるね。

●#170. 荷物売様何連も当てに相成不申 きみあしき事に奉存候
加賀の北前船業の増田家の又吉より家主又七郎への手紙。「当地の問屋片山、田付2名共海商社門許可で不都合も存外多くあり。この不都合を申立ますが当惑しています。御尊家が出立のときこの成行を京都へ申上げるべきですが余度々の難事なのでさし控えています。海商社門許可は上からの事であり、いつ家財が海商社附立になるか解らないので心配です。荷物を預けるのに確かな人に付替えすべきです。当面乕次屋へ五厘(0.005)を用捨して預けています。御上に付立にするとそこで区切りになり心配です。売り方もあてにならず気味が悪いことです」。 付立:帳面に付けること。廉:かど、こと、事。用捨:用い捨てる。仕切:取引、記帳を締切ること。抔:など。明治に海商社という官立の組織を作って海上の商業を管理し始めたのだろう。海商社は「船主別日本船名職員録」という本を発刊している。荷物を預けるのに自由がなくなり海商社のラベルを付けることで荷物がどうなるか心配で気味が悪いと書く。売る値段も管理がかかってきたようだ。周囲の業者も大混雑している。明治中期以後北前船は急速に廃れた。

●#208. た葉粉等舟荷弐固相届不申候 不調法成事甚敷御座候
北前船の業者同士の手紙。「大坂から下る船に乗せた8か18個乗せた荷物の内2箱目的地(御屋敷)に届かなかったです。送り状は舟問屋井上重左衛門方へ置いていた間が延びたようです。たばこは確かに積込んだ様に中衆が吟味しましたので、荷物が空になったのは旦那の船頭のうち甚はだ悪者であることで、こんな不調法なことはしないと思います。しかしもし不真実なことをやったなら近日中噂を聞くこともあろうと思います。舟の日数はかからなかったようです。これは彦三様へおっしゃって下さい。私も最近やや健康が乱れ引込んでいますので手紙で申上ます。書中御一家中も御堅固に成され御目出度いです」。甚者:甚だ悪い者。た葉粉:たばこの当字。不調法:不始末。追付:おっつけ、そのうち。頃日:最近。乱:ここは健康が乱れた意味。重左衛門=十左衛門だろう。「彦三様」は業者の頭領だろう。別の文書からも船荷の一部が盗まれることや貯蔵中に盗まれることが多かった。幕末は庶民の生活も貧乏で貪欲になっていて物騒な時代だったと思う。この人の「御」は省略が著しい。

●#220. 金一両は銀六拾弐匁にて御座候 大工は一人四匁之賃金
阿波屋三右衛門が大家屋又四郎に材木と大工賃を請求した覚え。商品には不明の箇所が多くある。商品の合計は合っている。銀で計算した代金は金に両替して表示。1両=62匁なので嘉永5年(1852)より前の頃のものである。大家屋又四郎は加賀橋立の北前船船主である。大工の賃金は1人4匁。船大工と木材は北前船の修理に欠かせないものであった。他の北前船の文書も掲載している。

●#366. 人気米相場如何御座候哉 私下野関置米何卒宜敷御願申上候
北前船の船主が加賀の橋立の主人に出した手紙。「冷気の節です。そちら御尊公始め両船中の皆様揃って御機嫌よく登られると存じます。私も船中皆無事で先月17日函館を出航し当月8日こちらへ入りました。御安心ください。さて私が下関に置いた米どうか宜敷御願いします。津軽、南部、仙台辺りは大きく不作のようで、(東北の)東辺は米相場が上昇するのでそちら(橋立)も少しは値段が上がると思います。しかしそちらの人気米の相場はどうですか。よろしく取り計り下さい。もし両船共に登らない考えでしたら私が登って積込ます。まずは無事着の御安心まで。これから江戸表から細々と申上ます」。主人は加賀の北前船の増田家か大家家である。米、魚、昆布が大坂への登り、衣服、塩などの日用雑貨品を北の各地へ運ぶ。よって北前船は大坂から下関、さらに加賀など日本海沿岸で商売しながら箱館や松前に至る航路であるが、ここの船は南部から仙台より江戸港へと行くやや危ない稀な航路のようだ。字は書き慣れた達筆で読み易いものである。

●#369. 御手船連不残御無難にて 御廻船被成候半哉と奉察上候
増田又助より増田御姉様への手紙。「一筆啓上。向寒の時節です。御家内皆様益々御壮健で御目出度いことです。私も無異にしています。さておまき様昨月御安産で両人御健康で同慶です。拙宅ではあなたに種々御世話になっており有難いです。御手持船の連中は御無難に廻船成されていますか。米は満作の所が案外高値なので困ります。私は4、5日で東京の蒸気船が当所に着船するのでそれに乗り込みます。右御見舞までこの如くです」。御手船とあるので増田御姉様は増田又右衛門の妻に違いない。そして増田又助は増田又右衛門の弟と判る。増田家は加賀国江沼郡橋立の北前船の豪商である。出産したおまき様は又右衛門の息子の嫁であろう。明治に入っており東日本の太平洋側は危険な廻船でなく蒸気船が活躍していたことがわかる。

●#372. 此度荷物之儀は又三郎様へ御相談申上候て揚置仕候度積り御座候
通力丸清次郎より加賀橋立の船主への手紙。「米木六左衛門便に付、一筆啓上します。暖気催していますがそちら御家内様御機嫌よくされて御目出度いです。私は当所へ船中無難に着きました。この度荷物は又三郎様へ相談してあげ置する積りです。引当金も又三郎様へ相談して私はすこし下りたく思います。又三郎様へ詳細は申上ますの御承知下さい。住屋清七様と城下の事と上田屋書状は作ってから差下します。先に貴方へ預けた御送り状と書状はすべて同人(又三郎)が入船の時お渡しください。ここから持下りの品は通栄丸へ積んで下りますので御承知下さい」。船主は増田家又右衛門と思われる。商売の詳細はこの書状だけでは不明であるが北前船航路でがんばっている。#136にも通力丸が掲載。

●#388. 与平殿無事着御尊状難有拝見仕候 委細承知可仕候
北前船乗船中の増田清治郎より主人増田又右衛門への返事の手紙。内容は身内同士の通信で固有名も多いが、大方は理解できる。なによりも無事の航海であることが重要で仲間の与平が無事で到着で喜ばしいと書く。米や酒粕が北へ下りの荷とわかる。船は末広丸、通力丸、通昌丸と3船名がある。船のかじが故障したようで修理を依頼しているようだ。ここの「子」はやや特異だがこの書き方は存在する。幕末から明治に入って間もない頃の手紙。

●#391. たいこ壱つ拾九両に取組 出来上り下し可被下候
庄左衛門から増田又右衛門への手紙。「追伸です。一山中の行に右手の小のかわやにある2尺8寸(84cm)の太鼓1つを昨冬1貫匁位で取組する所あなたが積出しするなと申したので見合わせたが、太鼓位積出しても大事には至りません。価額は金19両でお書き下さい. よろしくお頼みします」。おそらく村の行事のために寺に保存の太鼓を出して修繕して使いたいとのことのようだ。修繕の費用は銀1000匁、金19両。増田又右衛門は加賀橋立の北前船の主、庄左衛門は村役に違いない。

●#422. 何分非常之金詰 此後金融及諸下模様にて候
増田某より北前船のトップ増田又右衛門への手紙。「寒気が増してきました。皆様御清適で御目出度いです」。以下読めても意味がやや不明な点が多い。金詰まりでデフレで需要が少なく安値に困惑していることが書かれる。明治初期の北前船の船主である。変化は後便御注進可申上候とあり仲間には違いないが、御用向之程奉願上候とあり増田家の人だが支店で計上は異なるのだろう。#170より最後は又一郎に違いない。

●#428. 当十四日下関表安着仕候間 此段御尊意易思召可被下候
北前船の増田清次郎から増田又右衛門への手紙。「秋冷の所御主家様御機嫌よくされ目出度いです。私共も皆無事で14日下関に着きました。御安心下さい。さて私は数の子を多く積み入れて登り当地で半分売払いたいと思いましたが、先船が145、6の出来でもう1かけ上迄と〆て気張っています。先ずは入船御安心の報まで」。数の子は北海道で積み込み上方へ運ぶ主荷物の1つであった。#388にも増田清次郎の手紙がある。

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#629. 布壱反五匁 金銀の両替は七一弐にて御座候
#620. 椹三五大作屋へ早速掛合候趣 最早右椹は大家屋へ売附申候様申居候
#566. 縄俵で〆銀八匁四分 此金弐朱と銅六十五文にて御座候
#563. 油大下落にて致方なく米と替事参り候 融通方甚た不都合に候
#530. 半蔵私同様手前札にて出入存候様 御役頭衆より御門守へ御願書
#493. 布五拾四反也 御銀〆七百八拾弐匁四分也
#492. 布拾三反也 御銀〆百九拾六匁五分也
#462. 慥成便無之候に付 手紙而已差上置候段恐入奉存候
#438. 鰊笹目伊丹屋にて掛合漸々に売払仕候
#55. 船荷の送り状 目形改慥積入荷送
#69. 鱒荷商内新登に御座候 下野関置米案居申候
#94. 木の販売は銀壱匁で以て購買出来る重量が単位にて御座候
#101. 太縄之壱貫は銀七分三厘にて御座候 
#111. 北前船荷物味噌七拾貫百 弐百六拾九匁六分也
#115. 松前表出帆仕候 筵包四箇安宅米屋殿え差送
#116. 江指表大出火蔵三つ落 松前烈風破船数多
#119. 鯡類高値喜悦罷在 久遠より江差迄新網立ち
#122. 上円苫百枚三拾五匁 金弐歩に羽銀弐匁五分慥に受取
#125. 増寿丸作事相済下り物積入候 当年高値に困入申候
#129. 苧類案外高値 作事船数多に大金入用当惑
#136. 肥しもの頓と引立不申大いに心痛
#141. 御入船途切物気配克 御入船在之物嵩少々行当り気味
#170. 荷物売様何連も当てに相成不申 きみあしき事に奉存候       
#208. た葉粉等舟荷弐固相届不申候 不調法成事甚敷御座候
#220. 金一両は銀六拾弐匁にて御座候 大工は一人四匁之賃金
#366. 人気米相場如何御座候哉 私下野関置米何卒宜敷御願申上候
#369. 御手船連不残御無難にて 御廻船被成候半哉と奉察上候
#372. 此度荷物之儀は又三郎様へ御相談申上候て揚置仕候度積り御座候
#388. 与平殿無事着御尊状難有拝見仕候 委細承知可仕候
#391. たいこ壱つ拾九両に取組 出来上り下し可被下候
#422. 何分非常之金詰 此後金融及諸下模様にて候
#428. 当十四日下関表安着仕候間 此段御尊意易思召可被下候
#726. 竹皮綱の子の覚にて御座候

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