南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 江戸幕府の政策,Policies of Edo Bakufu >

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江戸幕府の政策,Policies of Edo Bakufu

ここは私の所持する江戸幕府の政策に関する文書です。桜田門外の変後の襲撃旧水戸藩士七名の死罪評定、幕府の具足師岩井与左衛門の芝増上寺での歴代将軍の具足の飾り付の記録。天保12年の出羽久保田藩御役料の覚、吉宗の日光社参、切支丹宗門禁止、火事地震での老中の江戸城登城、幕末期武蔵忍藩主一行の上京、正徳四年1707年新金銀貨の御書附、小倉沖唐船漂流への砲撃、生麦事件、下関事件などです。上から下の順になっています。ゆっくり楽しんで下さい。
Here are documents of Edo Bakufu policies. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
彦根藩士で江戸勤務の原田五介より上司の明塚又左衛門らへの手紙。内容は藩の船方で寝泊りの者が水戸藩の船方と距離が近いので襲撃の恐れがあるという緊張の内容である。おそらく1860年桜田門外の変で水戸藩士により彦根藩主井伊直弼が暗殺される少し前頃のもので興味深い、図に解説。字は難読で後半は意味がやや不明だが重要な前半の解読はできた。

●#667. 具足師岩井与左衛門文書 弐 芝増上寺で歴代将軍様御具足の御餝附に御座候
江戸在住の幕府の具足師岩井与左衛門が1861年8月9日に歴代徳川将軍の具足の飾り付をした時の記録である。これは芝増上寺なので2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶の5名の具足ですべて芝増上寺に墓がある将軍たちである。当日の増上寺の大僧正の衣装が細かく書かれる。また秀忠の具足が実戦で使用された鉄砲疵があると記す。この行事についてはウェブ検索で詳細はわからなかった。幕末の徳川将軍周辺や増上寺の行事が書かれた本が閲覧できれば確認できると思う。現在徳川将軍の具足はすべて久能山東照宮(静岡市)が所蔵しているようだ。下の#666は同時に入手したもので同じ筆跡である。

●#666. 具足師岩井与左衛門文書 壱 桜田門外の変後 襲撃旧水戸藩士七名の死罪評定
江戸在住の幕府の具足師岩井与左衛門が殿中で見聞した事を書写して保存した文章である。桜田門外の変は1860年3月3日旧水戸藩士ら17名が大老井伊直弼と彦根藩士を襲撃し殺傷した事件である。襲撃した旧水戸藩士中生存の7名は1861年7月26日に斬首された。だがその決定が如何に成されたかの資料は広く知られてはいない。この文書は襲撃した旧水戸藩士7名の死罪と1名の追放が7月26日の同じ日付で評定所五名の連名で成された事を示す。明治維新後水戸の勤皇家を死罪と判定した幕府の役人やその子孫は当然その事実や先祖の名前を公表はしない。また関東大震災、東京大空襲もあったためか、この文書に相似のものはネット検索では出ない。この文書は幕府のお抱え具足師の筆で概ね正しい記述である。ただ少し誤記もあり他の関連文書もないので厳密に正確な事実か否かは不明である。岩井与左衛門については上の#667に記載。

●#626. 天保12年の出羽久保田藩御役料御合力覚
出羽久保田藩(秋田藩)の家老以下の役職の給料が詳述された資料。1841年=天保12年に書かれたもので1796年(寛政8年)に書残されたものに1804年(文化元年)に一部変更が加えられた物を筆写したと書かれている。よって1796年以前に制定され幕末まで同様に続いた制度に違いない。20万石の外様の大藩のもので貴重な資料と思う。

●#555. 徳川吉宗の日光社参1728年 その壱 見送りと宿泊地
柳営秘鑑9巻を書写したものである。徳川吉宗が日光社参に出る時の大名の見送りの江戸城内の場所、宿泊の場所である。見送り場所は譜代大名の地位により厳重に決まっていた。下に図示した。上位の者ほど玄関に近い。さらに大名の地位と新年など挨拶の時の控の間(A-E)を示した。外様大名(御勝手)は見送りには出ず還御(帰城)後に将軍から参るように通達があった旨がここに書かれている。ただ発駕後白書院に出た外様大名が居たことも書かれている。一部欠字は青字で補った。次回に社参の行列の実際を記載。参考サイト:早稲田大学所蔵、「柳営秘鑑」。国会図書デジタル、「柳営秘鑑」。

●#556. 徳川吉宗の日光社参1728年 その弐 行列馬上三十騎鑓六拾本鉄炮六拾挺
柳営秘鑑9巻を書写したもの。徳川吉宗が日光社参に出る時の行列の順番が詳細に書かれている。4月13日午前0時(子刻)に秋元但馬守が出発、同午前10時(巳刻)最後尾松平右京太夫が出発。なんと10時間差の大行列。鑓や鉄炮、弓など武器、挟箱や蒲団、薬箱など供奉者13.3万人、徴発された人足22.8万人、馬32万頭という莫大な数の人馬を要した。将軍の日光社参は65年振りであった。記載の人物は下に概略を記した。諏訪部文右衛門定軌の子は諏訪部文九郎堅雄で南部馬を岩手から江戸に首尾よく運んだ、古文書#11に記載あり。この記録を読んで江戸城本丸内外の地図、幕府の役職、行列で携帯されたものなど大変勉強になった。柳営秘鑑の活字化の本はまだないようだが早稲田大学所持の写本は字がきれいで読み易い、解読で随分助けられた。参考サイト:早稲田大学所蔵、「柳営秘鑑」、同「日光御社参記」。

●#552. 正徳六年火事地震雷之儀 老中登城之次第
1716年=正徳6年6月江戸で火事、地震の時老中が江戸城へ登城する時の決まりを書いたものである。将軍が徳川吉宗(1684-1751、将軍は1716以降)に替った時の下知である。武芸、武威を重視した将軍につき「老中は小さい出火や風が強くなければ登城不要」としている。これは「柳営秘鑑」という菊池弥門が1743年に主に享保年間徳川吉宗の時代の「幕臣の規律」などをまとめて著した本の第9巻を筆写したものである。ここで「老」と「走」が似ている事がわかる。

●#577. 幕末期武蔵忍藩主松平下総守一行上京の折の伊勢陣屋での宿泊、賄の記録
松平下総守(松平忠誠)が1863年武蔵国忍藩主になり8月に幕府に京都警護役を命ぜられた。9月に孝明天皇に拝謁。当時の京都守護職は孝明天皇に信任厚い会津藩主松平容保である。京都は攘夷派、過激派、公武合体派などで騒然としていた。さて文書記録1、2は松平下総守(松平忠誠)ら忍藩の武士たちが京都の陣地(仏光寺か)に駐在し大役を果たした後1864年4月10日に江戸に帰還。その帰還の途中3月27日におそらく忍藩の大矢知陣屋(四日市)に宿泊した、そこで筆者が担当の武士に昼飯でもてなした記録である。文書記録3はその4年後維新前の緊迫した1867年(慶応3年)12月23日で松平忠誠が上洛(大坂に変更)の途中、先遣隊の武士が大矢知陣屋に宿泊した時の賄の記録である。大矢知陣屋は忍藩の伊勢の領地支配のための陣屋である。この後は将軍徳川慶喜のいた大坂に向け伊賀越えで奈良を通って入った。10万石以上の譜代大名の忍松平、桑名松平、姫路酒井は「溜詰」といわれ彦根井伊、会津松平と並び幕府の信任が極めて厚かった譜代大名である(#555参照)。「郷土忍の歴史」には幕末維新直前の忍藩周囲の様子がよく記載される。この文書に記載の佐藤江場助の日記が「郷土忍の歴史」に掲載されていて文書記録3の前後の情勢がよく理解できた。参考書:森尾玉津氏稿「郷土忍の歴史」。

●#562. 唐船漂流に玄海灘、響灘にて小倉筑前長門船立行列砲撃す
柳営秘鑑第9巻を筆写したものである。内容は徳川吉宗が将軍に就任した1716年の翌年1717年(享保2年)に下知した。小倉藩主小笠原忠雄に筑前、長門と協力して玄界灘-響灘に出没する清国の唐船を追い払うようにとのものである。幕府から目付渡辺外記が派遣された。この時唐船は幕府に貿易を制限されていたので密貿易のためこの海域に来ていた。そして1718年(享保3年)4月15日小倉、筑前、長門の諸士たちは唐船に500発以上の砲撃を加え数人の唐人を殺し、帆を焼失させ撤退させた。当初の下知状には砲撃は記載は無かったが、事後徳川吉宗や幕臣は満足した旨が書かれる。そして唐船の漂流は以後激減した。この事件の詳細は柳営秘鑑(1743年刊、柳営とは幕府の事)に記されて後世に伝わったのである。外国船撃退の実際であり多くの諸士の名と船行列の実際が詳細に記されているがここでは省略した。興味ある向には早稲田大学所蔵、「柳営秘鑑」の閲覧を乞う。長州はこの成功を手本に幕末(1864年)米国船やフランス船に攻撃を加えたが後に4国(オランダ、イギリスが参加)と戦争して破れ彦島の砲台は破壊占領され痛い目にあった。当然唐船は非武装であったからうまくいったが、正面から武装した西洋諸国と渡り合うと敗退したわけである。

栞10 

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●#542. 切支丹宗門相改候処 怪敷儀無御座候 庄屋組頭にも手形為致候
1864年=文久4年9月尾張藩士松井十兵衛よりお上へ差し出した約束文(手形)である。丁寧に楷書に近い字で書かれた。自分及び先祖は浄土宗で名古屋性高院(現名古屋市中区門前町、千種区に現存)であり切支丹ではない。妻子、召使にも怪しい者はいない。また自分の支配する知行所の百姓、その男女、召使にも切支丹はいない。庄屋、組頭に手形を提出させ、寺手形も置かせている。幕府は島原の乱で痛い目に遭ったから不定期に切支丹の改めを支配の奉行に行わせこのような手形(約束書)を提出させていた。「江戸前期」南蛮人に1669年の南蛮人との交際禁止の書を掲載。#347「熊野之医師之記録」に奉行古川が切支丹改めに取り掛かる旨が出ており、不定期だが頻繁に行われていたようだ。なお尾張藩士松井十兵衛の存在は確認できた。

●作者不明 Unknown artist ?-? active ca. 1669
幕府より各地へ送られた覚書である。「阿蘭陀人が行き来する国のうち南蛮人と出会う国もあろう。頻繁に南蛮人とは通用(交際)しないように。もし(南蛮人に)出会うことがあったら、其国の所の名を具に書き改めて毎年着岸した海浜を長崎奉行に届けるようにしなさい。己酉=1669年=寛文9年9月18日」。南蛮人:ポルトガル人、スペイン人でカトリック教徒。ルソン(フィリピン)やマカオ(中国南部)の日本からみて南方から日本に航海で来たので彼らは南蛮人といわれる。阿蘭陀人:オランダ人、プロテスタント。ここの「往来の国」はポルトガル人が漂着することのありそうな場所の藩領(地域)である。通用:出入する。弥:ますます。具:つぶさに。かひひん:海浜。幕府は禁止したポルトガル人(カトリック教徒)の到来には鋭敏になっている、特に頻繁に到来する海浜を記録して置いて警備を増強する積りである。幕府はキリスト教徒の本邦での増加は絶対に阻止する強い意志をここに示している。1637年に肥前島原と天草でキリシタンたち3万人が蜂起し幕府に衝撃を与えた。何とか鎮圧したが1639年(寛永16年)幕府はポルトガル船の入港を禁止し、1641年(寛永18年)にはオランダ人の行動も長崎の出島に制限した。プロテスタント国家のオランダはキリスト教布教を伴わない通商の条件で入港は許可された。さてこれは幕府から肥前、肥後、南九州の海岸沿の各藩に送付されたものを海岸の村を管轄する奉行が書写し庄屋に渡した文書であろう。字は大きく上手であり、きれいに表装されていた。350年前、島原の乱後30年、キリシタン厳禁、寺の宗門改めおよび鎖国政策が本格化し始めた頃の一文書で興味深い。

●#494. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その壱
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留め、百姓に回覧したものである。先立つ元禄8年(1695年)と宝永7年(1710年)の2度の改鋳で小判の金実質量が減少し貨幣量は27%増加したため物価が著明に上昇していた。ここで慶長の金含有量と重量の重い大判と同じ貨幣を流通することになった。そこでこの達しである。ここに元禄8年(1695年)と宝永7年(1710年)の2度の改鋳で物価が上昇し人々が難儀しているので新貨幣を造り慶長の貨幣に戻すと書いている。またこの時は以前より金銀の産出量が減少したと書いている。最後に今回の沙汰に違犯するものがあれば厳罰に処すと記す。

●#495. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その弐
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留め、百姓に回覧したものである。その2では慶長以前の金銀はもちろん、元禄や宝永の金を減らした質の低下した金銀も新金銀と同様に定めた割合で通用するようにとのことを何度も書いている。その交換割合は次回にあり。年貢や借金、献上金すべてで古金銀も通用するように。ただ元禄の金はその1では折れ損があるとしていたがここでは大判は折れ損はないと書く。江戸、京、大坂に引替所があるが古金銀はここで新金銀に引き換える。

●#496. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その三
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留め、百姓に回覧したものである。その3は慶長、元禄、宝永初期、宝永7年以後(只今金銀)、今後鋳造の金銀(新金銀)の交換率を示し、新金銀があまねく流布するまではすべて通用するようにと書いている。要約を下の表に示した。

●#497. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その四
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留めし百姓に回覧したものである。その4は過去の金銀の交換率を定めたことへの商人や両替人に対する申渡である。その3に掲載の交換率を越えて利潤を求める者は厳罰に処す。そのことを訴えて出た者には罪犯の者の財産を褒美をやると書く。最後はこの書を書いた美濃国加茂郡の役人の記述である。これを土地を持つ惣百姓へ回覧するように、また寺社、山伏、土地を持たない百姓へも伝達するようにと書く。この書類は1714年6月7日つまり申渡書が幕府より出た5月15日の22日後に地方の役人によって書かれ村々に廻されたもので貴重な文書と思う。ここに記載の村はほとんどは美濃国加茂郡で尾張名古屋藩領であった。勿論当時のこれと同じ古文書はネット検索では出ない。だが同様の文書が米国議会図書館にあることがわかった。以上でこの文書は終りである、読み易い文字であった。

●#53- I. 生麦事件後 英国書簡の大意 A summary of a letter from UK government to Tokugawa Bakufu after Namamugi-jiken in 1863.
生麦事件関連文書。「2月19日英国書簡の大意 生麦で英国の高官殺害については島津三郎と一類の者の処刑を求む。この儀の処置が困難ならば賠償金50万ポンド・ステルリングを幕府より差出すべし。その上に薩摩鹿児島に廻り、殺害された妻子の養育料30万ドル請取申す。拒否したら戦争に及ぶので日本政府より重臣を検使に英国軍艦に寄こすべし。以上本日より20日後までに返答すべし。この刻限を過ぎたら即刻軍艦を廻し、大坂、長崎、箱館、他の諸湊の出入りの船を奪い申す。また江戸を焼払い申す。これは英国の記章と条約に対する日本政府の落度でこのような事になり候」。然とも:しかれども、しかしながら。越度:落度。生麦事件(1862年8月21日島津侯の大名行列に混入した騎馬の英国人を、藩士が殺傷)に対する英国書簡の大意と題された文書。この文書とWikiの記載との違いを記した。ポンド・ステルリング=pound sterling=英貨ポンド。当時1ポンド=4メキシコドルなので記載の30万ドルは7.5万ポンドである。wikiによるこの後の経過:「幕府は期限の延長をした。4月6日に4月28日より分割支払いの文書が交わされた。しかしその4月28日朝廷と将軍とで攘夷実行を5月10日より施行との決定が成されたため支払い中止。英国公使ニールは軍事行動をキューバー提督(英国艦隊の主)に委ねた。戦争直前6月24日老中小笠原長行(唐津藩主)の判断で11万ポンドが支払われた」。きわどい状況である。この後の薩摩でのことは薩英戦争(1863年8月15日)を御覧あれ。この文書は私が骨董市で偶然入手したもの。文書の書式は幕末の文書に合っているが、内容に関する信憑性は全く不明。ただし以下の2つの文書と共に周囲へ伝達され拡散したものと思う。その間に内容が少し誇張されたかもしれない。

●#53- II. 速兵端を開候哉も 蕃屏之任の者備えよ A note after Namamugi jiken.
生麦事件関連文書。「横浜湊へ英吉利軍艦渡来。生麦で島津三郎家来が英吉利人を殺害に及ぶに付、島津三郎はいずれの要求も聞き難いとその趣で応接するとの事。即戦争で兵端を開く事も計られる。これを記銘し蕃屏之任にある者はそれぞれ向手を備えよ。我々もこのように心得を達すべし」。この文書は江戸表の開戦派の意見で江戸周辺での戦争の準備が必要と説くもの。薩英戦争を後に起こすように薩摩は一貫して戦闘を辞さず強気だった。島津三郎:島津久光、薩摩藩主。哉も:やも。難斗:はかり難し。蕃屏:拝殿の前の衝立状の塀、ここでは前線で戦う兵士。蕃屏之者は塀になって頑張れといっても将軍は知行地のような褒美を準備できるのだろうか?江戸時代の家は紙と木でできていて燃えやすいのだ。世界一の人口密集地、江戸の街中に軍艦から多数の砲弾が炸裂したら、怖しいことにまさに#53- I書簡の「江戸を焼払い申す」である。

●#53- III. 御一戦之御覚悟 横浜より川崎迄の海岸也 A note after Namamugi jiken.
生麦事件関連文書。筆跡は#53- IIに同じ。「この度江戸表へ異国軍艦(英国)が来て、3月8日迄待ち賠償金を得ねば戦争に及ぶとの申上の書があり。これを承引する筋は無いので一戦が有るに付いては横浜より川崎迄の海岸の警衛を仰せ付けられた。そして早く人数をこの為に出して防御を粉骨致すよう言われた」。これは英国との開戦の見解を持った将軍か最高位の侍の言葉を書写したものであろう。3月8日は#53- Iに記載の2月19日より20日後の期限日である。周囲の者の緊張が読み取れる。承引:承諾し引き受けること。警衛:警戒し衛る(まもる)こと。この情報は他の2つの文書と共に書写されて周囲へ即刻伝達されたに違いない。「英国と戦争になるぞ」。このことはwikiのジョン・ニールの項に以下の記載。「幕府と英国の間に戦闘が開始されるのではないかとの噂が流れ、横浜の日本人は恐慌状態となり、多くが横浜を脱出した」。この後の実際の流れは#53- Iに記載。今回これらの文書を入手して幕末の緊張の一端がよく学習できた。

●#41. 長州藩士小幡高政の御達書 宰相所持の軍艦2艘で大砲数発攘夷実行 A report from Choshu to Tokugawa Bakufu writing about Shimonoseki jiken.
癸亥=1863年=文久3年5月19日。長州萩藩士小幡高政がたぶん幕府へ向けて出した御達書の写しである。「5月10日亜墨利加國(アメリカ)の蒸気船が飄来(風に吹かれる如く来た)。豊浦郡府中へ碇泊しているので宰相所持の軍艦2艘に家来が乗り組み、ふと(不図)彼船に出会ったので大砲数発打った。すると何処(どこか)へ逃げ去った。行方は不明。赤間関(下関)に出張の家来がこのように私に申し上げた事である 小幡彦七」。不相分:あい分らず。小幡高政(1817-1906):別名彦七。長門萩藩士。この時江戸留守居役(各藩江戸屋敷に常駐し、幕府と折衝をする役)であった。毛利敬親(1819-1871):長州宰相、長州(萩)藩の第13代藩主。この事件は下関事件と呼ばれている。以下wikiより引用。「下関事件:朝廷の要望で将軍徳川家茂は1863年(文久3年)5月10日を期して、攘夷実行を命令。攘夷開始期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主、長州藩の支藩)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、ペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷から褒勅の沙汰があった」。田ノ浦は長府の対岸。この記載の”ふと出会ったので砲撃”が異なるが事件の大筋は合っている。この事件後1ヶ月後の6月に長州宰相が所持の軍艦2艘はアメリカ艦隊により撃沈される。さらに翌年8月 にはイギリス・オランダ・フランスを加えた四国連合艦隊に陸の砲台も破壊、占領された。ここに長州藩は攘夷は不可能と知らされた。なお小幡高政は維新後小倉県参事など歴任し、90歳の長寿であった。

最後 

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●#21. 戦闘準備をして登城之事 腰兵根持参の事 Every samurai should come up to the castle. Do not forget temporary foods.
合図があれば戦闘準備し腰兵根を持って登城、受持ちの場所へ集合との確認文書である。江戸時代前期またはそれ以前の文書だろう。他国の兵の城への攻撃が始まれば、元服後の侍はすぐ集合し戦闘態勢に入る。足軽は月当番の足軽長屋へ集合。一番手、海岸防備の二手は即座に持場に集合するようだ。城内では炊出しを開始する。字は丁寧に崩されていて読み易い。用語説明。惣:総、すべて。前髪:15歳前後に元服する前の者。着具:防具を着ける。腰兵根:兵が持つ携帯食料で普通3日分までの食料。給人:城の周辺に住み馬乗を許された上級武士。焚出:大釜で飯を炊く。一番手:一番に敵と戦う部隊。文書のこの後は所持していない。 Every samurai should come up to the castle after getting a sign. Each samurai should have arms and temporary food.

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#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
#667. 具足師岩井与左衛門文書 弐 芝増上寺で歴代将軍様御具足の御餝附に御座候
#666. 具足師岩井与左衛門文書 壱 桜田門外の変後 襲撃旧水戸藩士七名の死罪評定
#626. 天保12年の出羽久保田藩御役料御合力覚
#555. 徳川吉宗の日光社参1728年 その壱 見送りと宿泊地
#556. 徳川吉宗の日光社参1728年 その弐 行列馬上三十騎鑓六拾本鉄炮六拾挺
#552. 正徳六年火事地震雷之儀 老中登城之次第
#577. 幕末期武蔵忍藩主松平下総守一行上京の折の伊勢陣屋での宿泊、賄の記録
#562. 唐船漂流に玄海灘、響灘にて小倉筑前長門船立行列砲撃す
#542. 切支丹宗門相改候処 怪敷儀無御座候 庄屋組頭にも手形為致候
作者不明 Unknown artist ?-? active ca. 1669
#494. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その壱
#495. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その弐
#496. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その三
#497. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その四
#53-I. 生麦事件後 英国書簡の大意
#53-II. 速兵端を開候哉も 蕃屏之任の者備えよ
#53-III. 御一戦之御覚悟 横浜より川崎迄の海岸也
#41. 長州藩士小幡高政の御達書 宰相所持の軍艦2艘で大砲数発攘夷実行
#21. 戦闘準備をして登城之事 腰兵根持参の事

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