南竹 Nanchiku
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< 上醍醐寺慈心院文書 Old Writings Kamidaigoji >

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上醍醐寺慈心院文書,Old Writings Kamidaigoji

ここは古文書全体から山城国上醍醐寺慈心院(現京都市伏見区)に関連した文書だけを引き出して集合したものです。1740年から1755年頃の文章で屏風の中張りになっていたものが近年世に現れたものです。一度は捨てられたもので切断されたものも多くあり断簡も多いです。#223には表具屋さんが慈心院座主のために新春から屏風を作る旨の手紙があるのでそれに使用された文書かもしれない。しかしこれはこれで保存された正式の文書とは異なった魅力もあります。
火事や二条城天守閣など当時の出来事も記載があります。慈心院は醍醐寺の子院でしたが現在はありません。慈心院座主の延順と同所駐在の奉行岸本内記の所持した手紙が中心です。延順については#298にあります。ゆっくり楽しんで下さい。
Here are Japanese old writings Kamidaigoji. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#868. 此度御大望之法印被上被成候由
上醍醐寺慈心院の延順座主への祝いの手紙の断簡。おそらく法印に昇進したのだろうと思う。字は難読であり、小さい字の行は追伸であるが解読できていないので省略している。

●#728. 殊に二人忘御日記付哉迄相見 はかはか無頼の悪僧
紀州藩家老の加納氏の家来より上醍醐寺慈心院座主延順への返事の手紙。加納氏は醍醐寺の門徒の総代であった。醍醐寺の利門坊という僧が日記を付けなかったりで悪僧だとすることなどが内容である。難読の字が多く、長期間未解読であったが最近やっと大体の意味がつかめた。学習効果が上がるのは骨があって解読難の字をじっくり調べてゆく課程にあると思う。しかしすらすら読める文章の方が気持がよいのは当然だけど。

●#601. 太子に御立無候ては 御立銀等も無も有候
ある僧(東寺か)から上醍醐寺慈心院の僧への手紙。遠方へ御移法すること、立太子は無ければ贈り物の銀はないこと。そして御所の事では春宮様との事が最重要であると書く。

●#595. 此度は御焼香御布施物如例被相渡候 大慶候
仲間の僧から上醍醐寺慈心院延順への手紙と思われる。例のように行事の御焼香、御布施と留書に参られて終り大慶です、お参り御苦労でした。さてとよ次の事は同様に計りました、御安心下さい。とよ次は寺の雑務役のようでよく手紙に登場する。以上の内容である。

●#575. 旦那様わたくし一所にすまい致し候こと 心くるしきよし申され候
上醍醐寺慈心院駐在奉行岸本内記が受けた女性からの手紙。女性の境遇に関するものである。女性は一人住まいしている。「旦那」はおそらく商売で主に旅している、女性が「内」に入って一緒に暮らすことはどうかと尋ねると旦那はそれは世話や入用も多く心苦しいと言う。女性も深く思案している。後切れで残念。下半分は剥がしていて少し読みにくい。女性と岸本内記の関連は不明。

●#574. うれしき御事御仰下れ候 幾久しくねかい上まいらせ候
懇意の女性から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。屋敷に人が少なく気の毒な事です。それはやがて別れられず同居することになります。とよ次様をこちらにいるようにしていただきありがたい。母もうれしい事と言っております。私的な手紙で上が少し切れており理解が難しい点がある。

●#572. 中﨟相成り候はば衆議之評定にも出席仕候
醍醐寺関連文書で上醍醐寺慈心院の住持が醍醐寺三宝院門室(すべての長)にアドバイスしているようだ。門室の下に塔頭が多くあるが中﨟(僧の階級)になれば衆議に加わり評定に参加できる。中﨟は現在真性院と宝寂院である。ここで衆議で何か決めるにつき真性院に内々話をしておくのが宜しいとする。「御往返り」とあり古い様式に返って何かをするようにしたいようだ。密乗院の称号の僧と仏乗院とが難しい人らしい。慈心院の住持は当然上﨟以上であろう。門室はこの書の1750年頃は幼少の良演であった(#241参照)。

●#546. 清瀬義も十二日死去致し候間 私宅忌ゑし致候
弥惣治から醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。近親の清瀬が死去したので忌会するので休むとの短報である。弥惣治の手紙は#365、#254、#221にもあり、内記の世話役であった。

●#543. 御申付被成候金物近々には出来仕候 手附二分金にて御座候
上醍醐寺慈心院の奉行岸本内記に部下からの手紙。申附られていた金物が近日にできるので手附金2分を明日こちらに登らせるように依頼している。破損部分は予想して書いた。最初の1字は「以」が適合するが違うかも知れない。

●#380. 今日は是非出勤仕度存罷在哉 御尋に付御紙面之趣深奉畏候何分昼後出勤仕候
上醍醐寺慈心院駐在の奉行岸本内記が部下鈴木釆女から受けた手紙。「御手紙拝見しました。御機嫌良く御安全で御目出度いです。私の病気の所を尋ねられ忝いです。御用多い時病気が長引き恐れ入ります。追々快方で今日は是非出勤するかとのお尋ねに付深く畏れ入ります。昼過ぎに出勤しますので御沙汰下さい」。内記の部下は休暇や遅参をよく取っている。#299、#295、#277、#269、#265、#230に同様の手紙がある。ただ内記は部下に出勤催促の手紙をよく出しているようでそれへの返事である。

●#365. 新任御聞合之義 新参のひよっ子へにても被仰候て片付度申候
弥惣作から上醍醐寺慈心院駐在奉行岸本内記への手紙。「別紙で御意を得ます。本殿に勤めているしもべの与市という者2年余首尾よく勤め当期も勤めを申付ました。しかし8年近く当地勤めしたので今より当分当地には住まぬとのことを他より内々に言って来ました。それにつき六坊西往院殿が岳西院の家来まで玉田氏をと言っております。そちらでの御奉公でもあり、聞き合わせのためそちらの新参の部下でも立てていただき片付たいと思います。この節そちらは御普請なので新参のひよっ子でも派遣して下さい。この際京へ帰られることはないと思いますがどうか当地へ留まって下さい。保証人はこれ迄同様でやります」。ひよっ子は古くからある言葉と判る。「何承度」、「八年以前之義」は下に解説した。弥惣作は内記の御用係りであるが下回りのしもべの者がいた。この与市は7、8年前から当地(醍醐寺近辺)に居る、内2年は弥惣作の下で働いた。ここで故郷に帰るようだ。保証人の事が最後にあるが日本は昔から保証人を立てる習慣だったと判る、村落、5人組社会だからね。与市の後任候補玉田氏を内記に承認して貰いたいとの手紙である。

栞130 

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●#344. 上醍醐寺慈心院年預雑掌之引継にて御座候 宥円、俊応、澄翁
上醍醐寺慈心院年預雑掌が各年9月朔日に交代する引継の文書である。山上山下、上醍醐寺、下醍醐寺両用の仲間灌頂道具をしっかり管理する。醍醐寺各院の継承者を決める儀式で盛大に花を撒いて祝福する。この灌頂道具の講銀もあるが慈心院座主と俊応が握っているようだ。読経に必要な普門品もある。木材や瓦、桧皮も引き継ぐ。用語は図中に説明。米国の大学同様9月朔日切である。これにて上醍醐寺慈心院文書は一区切りである。

●#343. 余力ある時は手習よみ物第一に志を失ぬこそいみしかるへし
上醍醐寺慈心院座主延順の和歌と文。「白紙を汚すお笑い文で粗末で失礼とのあなたの思召も考えず深山の住まいのつれづれに文をなします。3才のみなし子も知っている掟の法の道、言わなくてもよいことを一筆にて暇を尽くして書きます。余力あれば手習い、読物をして志をなくさないようにするのが大変重要である。中の言葉を人の事でなく自分のためとするべし。父は遊ぶとき遠くへ行くなと教えた。金言である。君に仕えるとき君の言葉を返したり悪口をいえば衆人による非難がある。その独りの時慎むべし。主君に3度諌め言をしたら主君と離別することになるのは世の常。しかし古い金言も見限れば、天が与えたわが玉の光は輝かない。我玉は人問えばどう言うべきか。足し金は撒かれるべきで新しい道を直すものである。宮仕えで見聞するよい事があれば共に喜ぶ。周りが麻のように真直ぐな草の中では(曲がりやすい)よもぎ(蓬)の草も真直ぐになる。賢いあなたがあざけりと聞くことを恐れる。しかし眼が千里を見通すことができても我が睫毛(まつげ)は見られない、私の言葉も参考にしてほしい。この言葉をもって「おすもじ」とまいらせ候」。おすもじ:過ごす。いみじき:はなはだOOだ、ここは非常に大切だの意味。三度諫めて身退く:礼記(紀元前200年頃の儒学の書)の中の言葉。麻の中の蓬:曲がり易い蓬も周囲が真直ぐな麻なら真直ぐに育つ(「荀子」)。和歌一首「賀茂川の 岡のへにすむ よもきくさ いつれをあさと わきてひくらん」。わく:別く、区別する。賀茂川の岡の辺りに住むよもぎ草、どれを麻と区別して引き抜くことができるのだろうか。自分のことをかけている。1750年頃は徳川幕府の盛りの中で儒教が盛んな頃で「忠臣」が重んじられた、中で主君に咎められることになっても読物を読んで正しい古言、金言を学んで自分の玉を磨く事は大切と説いた。字は流暢で読みやすく書き慣れている、和歌の文字としても充分通用する知性あるものである。この人の「ぬ」は下側を右に走るやや稀なもので勉強になった。

●堀内宗心不寂斎 Horinouchi Soushin Hujakusai 1719-1767
1700年代の茶人。号は不寂斎。表千家流の茶家の堀内家初代仙鶴の養子で同家2代目となった。表千家7代の千宗左に茶道を学んだ。49歳で歿。不寂斎が茶の湯を語ったことを門弟がまとめた書、「不寂斎聞書」がある。堀内家は千家に極めて近い茶家とされる。作品は堀内宗心から上醍醐寺慈心院への書状。「上の醍醐 知心院」とあるがこれは慈心院のことであり、時代は1750年前後のものである。「手紙を啓上します。余寒強い時ですが御平坦になされ大悦です。さて毎度御苦労ですがそちらより上米が着くはずが米の車が着きません。何とぞ院主様より蔵元金預かりに早く米が京に登るよう御指示下さい。私は油小路竹屋町上るの三谷吉之助の借宅へ移ります」。平湛=平坦。湛:水を湛(たた)えた。堀内宗心は上醍醐寺慈心院の院主や奉行に茶道の指導をしていたようだ。その指導料が未着なので早く送るよう催促の手紙である。堀内宗心不寂斎の筆跡は現存していないのではないか。この書状は慈心院で一旦廃棄され、屏風の中張りに使われたものである、そして近年屏風から剥がされて世に現出した。醍醐寺には三宝院などのある下醍醐寺と上醍醐寺とがある。慈心院は標高450mの醍醐山頂付近にあり、上醍醐寺の実務の場所だったが今はない。なお堀内家4代目と最近の12代目も「堀内宗心」と名乗っている。慈心院関連の他の文書はホームページに掲載。 Horinouchi Soushin was a teacher of the Omotesenke tea celemony. This is a letter from Horinouchi Soushin to Kamidaigo Jishinin temple which was written around 1740. Soushin is asking a head of Jishinin to send a tuition fee quickly.

●#342. 延紙白銀そうめん弐升樽むしかにて御座候
上醍醐寺慈心院で入用の様々な商品の覚書きである。白銀:銀貨で平たい楕円形で、紙に包み贈答に用いた、銀一枚は161g。延紙:21cmX27cmの紙、江戸時代の高級な鼻紙。奉書紙:楮の丈夫で軽い手漉き和紙。そうめんは1巴30文のようだ。弐升樽:酒樽。むしかは蒸し菓子で饅頭など。饅頭:小麦粉、米粉、そば粉などの皮で各種の餡(あん)を包んで蒸した菓子。

●#341. 断簡小報九報 御寺内人少に可有之候間 諸事御心附専一候
上醍醐寺慈心院関連の断簡小報九報である。①落手:入手。神無月:旧暦10月。②高免:御容赦。③長門斎中正院:不明、おそらく寺の名。慈心院には人が少なくなっているようだ。④乍序:ついでながら。⑤六ケ敷:むつかしき。乍慮外:失礼ながら。⑥これは慈心院座主の手紙の原稿である。⑦覚であるが商品不明。値が銀2.4匁で長さが1丈7尺=5.1mである。布ではないだろうか。⑧必ずお逢いしないようにと書いている。⑨は女筆である。嶋は縞柄の布である。

●#340. 断簡文末集六報 期永日之時萬々可申上候
上醍醐寺慈心院関連の断簡文末集計6報である。すべて前は切れている。①期永日之時:次にゆっくりお話できる時。③亀君は未調査。この時代長寿を願い亀の幼名の方は多い。④医師の返事だろうか。⑤随西は#298にもあるが慈心院座主延順と仲が良かった。上醍醐寺からの下山には1時間かかる。⑥後円成寺様は一条兼香(1693-1751)ではないか。一条兼香は従一位関白左大臣。三宝院門跡の良演(1746-1760)は一条兼香の子息であった。#241参照。

●#339. 断簡小報五報 風邪御難儀承意候得共乍御大儀御下山頼入度候
上醍醐寺慈心院関連の断簡小報五報である。①西岳は下醍醐寺子院岳西院と思われる。上醍醐寺から下醍醐寺へは1時間かかる。②慈心院駐在の奉行岸本内記の弟より内記へのもの。母も同居していた。③尼僧より慈心院座主へのもの。きかまほし:聞きたい。④⑤岸本内記の部下へ会計係りの武士から入金の覚。受落=受取。#288に同様の文書を掲載。

●#338. 弐匁四分らうそく、七分御せん、弐匁五分御入用にて御座候 
いそのが上醍醐寺慈心院に売った覚である。前が切れているが、ろうそく、御せん(線香)など57.7匁を計上して最後正して2.6匁割引した。これは0.045=4分5厘の割引であった。

●#337. 御逝去に付従去る三日至来る十八日 女御様御慎に候
飯田大和守より御年預の龍光院御房への手紙。「御逝去につき3日より来る18日まで女御様は御慎みになります。このように伝奏より申し来ました。この事は衆中へ御伝達下さい」。御慎み:外出や活動を避けて身を慎む。従:より。至:いたる。女御:天皇、皇太子、上皇などの妃、有力公家の子女が多い。ここは逝去した貴人の妻と考えられる。伝奏:朝廷の書を伝達する役で公卿の職。御房:僧の尊称。醍醐寺は門跡で朝廷との関係は当然深い。門跡:皇族や公家が門室の寺やその人。#241に醍醐寺門跡を掲載。飯田家は醍醐寺近辺の南小栗栖村の支配をした家で醍醐寺三宝院門跡の坊官家で法印、#286にも記載。坊官:家政を担い門跡に近侍する僧侶。記述の逝去された貴人は不明。1750年前後の旧暦9月2日頃に死去した方である。妻は16日間御慎みである。

●#336. 先方思ひ入も御座候故 年輩之方へ申遣し候方宜存候
仲間の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「この書面は御願いというよりこれを御認め下さいというものと思います。このように認められるのが宜しいです。仏乗院は若輩ですので先方へは年輩の僧を派遣する方が宜しいでしょう」。ここは派遣する僧が年輩の方が宜しいとの意見である。

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●#335. 銀十弐匁壱分壱厘 此米弐斗弐升壱夕を未進の内へ引申候
善兵衛の未納の年貢を計算し処理した書附である。段落がなく読みにくいので並べ直した。勘兵衛はおそらく庄屋である。治部卿とは治める僧の頭でつまり年預り雑掌のことと思う。「ア」を「部」と読むのは#190武士の名前の民部や兵部を参照。まず未納の米の総量から免引(免除)を2割分(0.207)行った。米、銭、金、銀で今まで払ってきたものを銀に換算して合計した。最後に差し引くと銀12.11匁おつりが出る。これは米に換算して米2斗2升1夕で将来の未進の米から差し引くとした。計算は合っている。金1両=銀67.2匁=銭5169文となり#308、#288ほど銭も弱くない。米はここは金1両=1.22石である、米1石=金1両が標準なので2割ほど米は金に対し弱かった。なお上左は1775年=安永4年未年に慈心院雑掌が醍醐村よりの年貢米を請け取った証である、「升数合」と書く。

●#334. 断簡小報六報 御冬酢之儀御仰被下筋小徳利六つ差上候
断簡と小報6つ。すべて上醍醐寺慈心院関連のものである。戒法:仏、法、僧の三宝に帰依する約束を誓う。入魂:思い入れ、意向。理解しやすい内容なので詳細は省略。

●#333. 断簡四報 改暦之御吉兆際限御座目出度申納候
断簡四報。①下醍醐寺岳西院より上醍醐寺奉行岸本内記へ。東寺での法事と1月8日からの御修法について書く。御修法は#198、#238、#328参照。②山下年預の成身院より山上年預慈心院へ。山下は下醍醐寺のこと。親王(嫡出の皇子)へ祝儀を行う手紙。十帖は白紙帳と思われる。持参して献上する惣代も必要。③慈心院座主への手紙。時候と健康の挨拶。④僧の友人から上醍醐寺慈心院への返事。改暦の時である。渾家:こんか、家内全部。渾:水が濁る、すべて。例:渾身。吉兆:よいことの兆し(きざし)。際限:物事の極み。通常は御吉兆の次に「際限あるべからず」と使用されるが、ここは僧は改暦前の時間の際限が来たと使用した。だが一方慈心院座主はこれを訂正して「不可有際限」とちゃんと訂正している。矢印の2字は座主が例によって「兆」を練習して書いた。一見「地」にみえるからね。「仰」が「命」に似る形のものは時にみられる。

●#332. 尚々城主御対顔之事如何候哉 無心元若し
下醍醐寺の僧何翁から上醍醐寺慈心院の僧俊応への手紙。「(旅中の)伏見から手紙で念を入れられ安心しました。喜ばしく追付あなたの帰山時分にたくさん承ります。よって多くを書きません」。追付:近日中。帰峯:帰山、ここは醍醐寺に帰る事。不能多筆候:手紙の最後に「多くを筆で書きません」の意味で使われる。他に「不能一二候」もあり同じ意味である。追伸「尚城主に対面の事は如何ですか。こころもとないです。この度支障で長期滞留になったらどうなるのでしょう。私が下る時分には申上ます。京都に入府の前に申上ることはよろしいこと御もっともです。この度は私はどこへも足を進めませんので宜しく申上げて下さい。ここの弥勒堂も今日中に瓦師が来て、外大工、桶工、附師等が私に普請の希望を聞きに来ます。何分道中の無事と御帰山を願っています。餞別など差上げるためのたばこ等忘れないようにと上から申し付けられています。私は異常なく勤めています」。無心元:こころもとなく、こころが落ち着かない。若し:ごとし。俊応がおそらく和歌山の旦那衆や城主に会うため旅行中であり、伏見から無事の手紙を書いた。それに対する返書である。城主への面会がどうなるか不安だと何翁は書く。この度は何翁が和歌山に行く可能性があったが、俊応が行くので城主に会って無事に帰って下さいと書いている。また弥勒堂(三宝院の本堂)の普請で大工や瓦師が普請の希望を聞きに来ると書く。最後に土産用のたばこを忘れず購買するように依頼する。やや解読が難しい手紙だったが、様々な表現が勉強になった。

●#331. 此壱袋麁末之品に御座候得共 円成坊登山仕候御印に進献仕候
傘下の寺より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「永々御所労と御難儀と察し申し上ます。しかしながら次第に全快されて御目出度いです。さてこの1袋は粗末の品ですが円成坊が登山する印に進上します。追伸:円成は報法様の所へ参るように大方定まりました、御安心下さい」。所労:病気。併:しかしながら。麁末:粗末。登山:ここは醍醐寺に登る。円成坊は修験道の修行で醍醐寺に来るのかもしれない。報法様とはその指導者だろうか。右2行は追伸である。

●#330. 暑候へとも弥御堅固暮被成候哉 御承度奉存候
友人の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「一筆啓達致します。段々暑くなっていますが、いよいよ御堅固に暮しておられまか、承りたいです。慈心院の気分はいかがですか。近くの勤めであれこれとあるだろうと思います。先達て書状を差しあげました所」。

●#329. 今日より上京仕候 年預代龍光院へ相頼置申候
上醍醐寺慈心院の年預の僧より慈心院座主への手紙。「向暑の時節ですが、いよいよ御安全で御目出度いです。さてよんどころない用事ができましたので今日より上京します。年預は龍光院へ代行を頼みました」。無拠:よんどころない、他に頼れない。#295と同様やはり「無拠」はとても強い。

●#328. 当春は八日より十四日迄御修法にて御座候
醍醐寺の子院の1つから上醍醐寺慈心院在の奉行岸本内記への手紙。「右の通り例年より寒気が甚しいですが私は少しの障りも無く暮しており御心配なさらないで下さい。当春は御修法の参りますので」。障:さわり、障害、とくに病気の意味でよく使われる。#198、#238に記載のように醍醐寺には御修法と呼ばれる行事がある。御修法:正月8日より14日まで7日間、東寺で天皇の安寧や国家安穏を祈る真言密教の儀式、空海以来1200年近く続いている。これに行くので食料などの費用を出してくださいとの連絡である。

●#327. 助三郎方迄態飛札を以 為持指上申候
おそらく下醍醐寺子院より上醍醐寺慈心院座主への報せ。「そちら両所より先頃御報せを寄こされましたのでこちらから助三郎までわざわざ飛脚をもって持参差上ます。この節特に取り込んでいて早々御通知この如くです」。爰元:こちら。態:わざわざ。手紙に対し何かを持参し差上げたときの報せ。

●#326. 極密用、当薬御減之上は又々御大事に候間 何卒御無難も祈る義に御座候
懸りつけ医師から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記へ内密の手紙。「極内密に申し上ます。本文の通り承知置下さい。さてこの薬は御減らしの上はまた大事になりますのでどうか御無難をお祈りします。減量すべきとのことでも法印様に懸かるその夜に法印様のおっしゃるように薬を減量しない方がよいか。この段深く御賢慮御願い上ます」。法印様は上級の医師のようで薬の減量を言っている、他方普段の懸り医師は薬を減らすなと言っている。これを極密で伝えている。法印様には1月に1-2度とかで懸かるようだ。当然ながら江戸時代でも医師同士の間で意見が違うことがあった。

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●#325. 明廿三日御使左右田氏被相勤候 態御入魂被致候
部下より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。さて明日23日の御使いは左右田氏が相勤めます所わざわざ意向を入れられた事。そのように申し下します」。入魂:思い入れ、意向。左右田氏は「左右田掃部」が姓名で「そうだかもん」と読む、やはり岸本内記の部下である。#190に「掃部」など様々な武士の名前を記載。

●#324. 年始惣代等之算用書相渡候
醍醐寺子院座主より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「御手紙拝見しました。さて年始の総代などの算用書の文を御渡しする折でいかがでしょうか。来院早々ですが御再答下さい」。算用:見積り。年始の総役などの計画書を廻すので都合を聞かせてほしいとの文である。#238に記載のように醍醐寺には御修法と呼ばれる行事がある。御修法:正月8日より7日間、東寺で天皇の安寧や国家安穏を祈る真言密教の儀式。「年始の総役」は当然必要であっただろう。

●#323. 利足は月弐分年弐割四分にて 元利〆六拾五匁八分九厘に御座候
上醍醐寺慈心院への御用商人の記載である。「御安康で御目出度いです。ここに銀子を下げくださり慥に落手しました。左に御勘定いたしましたので差上げます」。慥:たしかに。落手:入手。金1両=銀64.6匁の両替率は他の醍醐寺文書と同じ位。「り」利息は下の計算より月2分、年2割4分に違いないと思う。江戸時代は年利2割前後だった。#74では2割4分、#174で1割8分、#56で2割であった。幕末には1割2分と法定されるが、この文書は1750年前後のものである。

●#322. 御苦労に存候得共 是非共貴院御下向無御座候ては
同門傘下の寺から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「わざわざ飛札で御意を得ます。さて先だって申入ました通りこの度の事は我々一門の重要なことで内では難渋しています。近日中に御苦労ですが是非こちらに御下りくださらないと」。態々:わざわざ。飛札:飛脚便。得御意:あなたの私に対する心をよくするために。一類:同じ仲間。同門傘下の寺が困った状況で難渋しているので是非来てくださいと言う。今後はどうなるのだろうか。

●#321. 母様も此間少々御気に御中り 御薬御服用成候処
親しい武士から上醍醐寺慈心院奉行の岸本内記への手紙。「一筆啓上します。時分冷気の頃です。まずそちら益々御勇健に成され御目出度いです。こちらも無異にしております。しかしながら御母様はこの間少し病気になられ、御薬服用されて当分。追伸:尚々(奥様は)随分御堅勝に成されて宜しい事申上げ下さい」。爰元:ここもと、私。併:しかしながら。御気に御中り:御病気におあたり。この親しい武士は母様と御がないので弟かもしれない。

●#320. 米五斗代三十匁 天満宮出銀三匁三分にて御座候
上醍醐寺慈心院の御用商人が計算した覚である。緑線の右は入金。金1両=銀60匁と全く標準であったとわかる。緑線の左は支出で4項目を合算している。屏風の中張りにて中央が剥がれていて見えないが青字で想定して記入した。間違いないと思う。米価はどうか。一般に米1石=10斗=金1両が標準。米5斗は金0.5両=銀30匁が標準となり、記載の「30匁米5斗」は全く標準的価額であったとわかる。1750年前後の相場である。#308、#288では銭は標準の1.5倍以上も金銀に対し弱かった、一方米は弱くなかった。それにしても御用商人の算盤計算はすごい。3桁の割り算でも正確にさらさらと行っていた。「天守」は二条城天守のことかも知れない。

●#319. 五日発駕之早船帰城申候 借申付珍重奉存候
上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「滞りなく免れてこの五日発駕の早船で帰城しました。借りを申し付け御目出度いです。これも貴意を得る為で千代と人夫と遣わしました。この時節柄ですので日雇いもひとり用いました。大変気の毒なことと御無沙汰をしました。御容赦下さい」。発駕:出発。御無沙汰:ここは長時間掛った意味。岸本内記が船で人を遣して、何かを借りに行かせた。その帰りに事件があったが免れて無事に早船で帰った。おめでたいことだったが千代と人夫ともう1人必要だった。人件費も時間もかかり気の毒だったが御用捨下さい。このような意味だろう。

●#318. 御ひふ飛色壱つ 右急々御仕立可被成候
上醍醐寺慈心院の服仕立の注文書。萌き:色名で黄緑色。飛色=鳶色:赤ワイン色。御裏:袷の裏。ひふ:被布、着物の上に着る羽織。綸子:模様を織り出した厚くてつやのある絹織物、#303参照。帯はこの時「筋」で数えた。急いで仕立してくださいと書く。当初ひふは下着かと思っていた。おそらく醍醐寺の中に仕立の所があるのだと思う。

●#317. 其地只今道中之御儀に候へば 何にても御答のみ罷成候
旅の道中の上醍醐寺慈心院座主宛への留守番の僧からの手紙らしい。「あなたは今道中なのでとにかく答のみ為して下さい。先にあらましを申しましたのでお忘れの事もあるので追々答を下してください。そちらは御里元ですか。こちらには高松菴という方が尋ねてきて拝礼のことをいわれましたがあなたより高松菴方へ何の連絡もないとの事です。又去年より御焼香の」。其地:あなた。爰許:ここもと、私。留守番役の僧も大変である。高松菴が来て礼拝を依頼したがそれに付座主は回答していない。

●#316. 御太刀馬代金壱枚 縮緬三巻二種壱荷献上
おそらく上醍醐寺慈心院座主の新任の醍醐三宝院門跡への書類の原稿。「(門跡に)御取立られた事で格別の事に思われるでしょうからいかにも礼法に相応の取計が必要でしょうか。礼法の時期はあなたの勝手良い何日でも申し出られたらよいでしょう。(朝廷より)許容があれば早々参上することは先例がありますが、醍醐寺子院の我々も12月下旬は御行法で多忙です。参殿いただいてもこちらからの御願いはありません。(朝廷より)地跡の許容が済みましたら先ず代役でもって(我々に)礼を申して下さい。御本人は年明けの御参上でもよいでしょう。紀伊大納言(紀伊藩大名)様よりの御使の事は「地跡兼帯下事」です。御口上の使者を派遣が必要でしょうか。以上お尋ねにつきお答えし御意を得ました」。「地跡兼帯下の礼式の覚。御太刀馬代金壱枚、縮緬三巻二種壱荷、以上献上。銀十五枚、以上惣家来え奉納」。「地跡兼帯下事」は紀伊大納言の使者が進物をするので返礼に御太刀馬代として金1枚、縮緬3巻、二種一荷を贈る、家来へは銀15枚を贈るという意味だろう。兼帯:2つ以上の役を兼ねること。御太刀馬代:古くは太刀と馬を贈ったがその代用で金銀を贈る。例文:御祝儀相兼御太刀馬代銀三枚被進之。縮緬、二種一荷も定番の進物。縮緬:ちりめん。二種一荷:2種の肴(例:昆布、干鯛)と1荷(樽酒)。上醍醐寺慈心院の旦那頭は紀州藩の加納氏と鈴木氏であり紀州藩と醍醐寺は深い関係であった。

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●#315. 用事無之候ても世間外聞も不宜候間 一度は必御下り被成候
おそらく傘下の寺の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「数々とかく力ないことでした。随分息災にしていますので御心配されないようにしてください。来月には何卒こちらに御下りなさるようにお待ちしています。用事は特になくても世間の外聞がよろしくありません。近日中一度は必ず御下りくださる御事万端」。ふいふん:おそらくずいぶん(随分)の意味。息才:息災。被成下ましく候:なされないようにして下さい。あまりにこちらに来ないと外聞が悪いですよと書いている。このように傘下の寺から近日中に京都から下って来てほしいとの手紙がしばしばみられる。よって上醍醐寺慈心院座主は人気があったように見える。#307では尼僧にもきてくださいと書かれている。

●#314. 小左衛門より只今人差越候 則来状相廻し候鳥渡返書相認候
おそらく上醍醐寺慈心院座主への手紙。「小左衛門よりただいま人を寄こし手紙が来ました。そして来た手紙を廻します。ちょっと返書を書きましたのでこれもお目にかけます。返書も使いの者にお渡しください。追伸:尚明後日の所はいかがですか。宜しく御取はかり下さい」。則:そこで、すぐに(即)。小左衛門から醍醐寺に来た手紙と返書を各院に廻状しているようだ。

●#313. 乍御苦労是非御下向可被下候 御不審御気遣と存候得共
おそらく傘下の寺の僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「閑を待っていますがとにかく今回は簡単に済まない事です。今月末に及び難儀な事と察しますが近い内御苦労ですが是非御下向下さい。きっと不審な事と思われるでしょうがこの度の事は手紙に申上難い事です。とりあえずこの如くです、もっとも」。傘下の寺で難儀なことが起ったので是非こちらに下ってくださいと書く。大寺の僧も大変苦労があるようだ。

●#312. 松尾寺無宿当役 三輪山見分相済候段御届之趣
上醍醐寺慈心院座主から僧への手紙の原稿。「御手紙見ました。お手紙のように少し暑い季節です。弥々御無難に御法勤御目出度く存じます。さてこの春杉50本伐木を御願いしましたが聞かれている所です。松尾寺無宿の者が三輪山を見分し終えている事を御届済の趣でそちらの席に沙汰があると思います」。翰=書翰:手紙。法勤:僧の勤め。無宿:宗門人別帳から名前を外された者、「上州無宿文次郎」などと出身地を冠せられて呼ばれた。ここの「松尾寺無宿」は元松尾寺に籍があって後事情で無宿となった人である。醍醐寺は現奈良県桜井市の三輪山に土地を持っていたようだ。三輪山平等寺という寺があって醍醐寺と深い関係を持った修験道の霊地がある。三輪山平等寺の住持に宛てた手紙かも知れない。「披閲候」は開いて読むの意味だが随分目下の者に使う書式である。通常は「拝見仕候」である。この紙は原稿とする積りなのでこのように書いたのかも知れない。

●#311. 御間暇も候はば茶相催申候 御勝手如何に候哉
知人の武士より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「今朝宿に入った所です。昼までの内で御暇があれば茶を催します。御都合はいかがですか。内々ちょっと御尋します」。勝手:都合。内々:秘密で。鳥渡:ちょっと。様は女筆のさまを使っている。「勝手」がやや難だった。

●#310. 御双院様益御平康可被遊御座候 珍重不少奉存候
やや下位の僧からの上醍醐寺慈心院座主への手紙。「一筆啓上します。暖和な時節になってきました。御双院様とも益々御平康になされ御目出度いこと大きいです。私も家内も異常無く暮しています。慮外(無礼)ですが御安心ください。かつ御両家、伊兵衛」。下拙:げせつ、自分の謙譲語。尊上:あなたの尊敬語。典型的な手紙の挨拶文である。御双院と御両家は上醍醐寺の慈心院と龍光院だろう。

●#309. 倍御清福被遊御座承度奉存候 私無事息才にて相暮候
親しい僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「時分は暖気になって来ました。益々御清福になさっておられるか承りたいです。私は特に無事息災で暮しております。必ず御心配なさらないで下さい。そちらは何も変りませんか。当地は開帳もないのですがしかしながら」。倍:ますます。承度:承りたく、知りたく。息才:息災。御案事:御心配。被下間敷候:くださるまじく候、しないようにして下さい。併:しかしながら。下は別の紙が貼ってあったので見にくい。

●#308. 銀百六拾壱匁九分此替 銭拾七貫四十一文に御座候
上醍醐寺慈心院への御用達商人大黒屋の何かの計算書である。図の②、③の代銀の合計④を銭に換算して⑤に示している。銭の「貫」はしばしば〆と同じに書かれる。計算は合っている。両替の金1両=銀63.2匁は標準的。銭1貫=1000文=銀9.5匁は金1両が6650文となる。#288と同様に標準の4000文の1.5倍以上金銀が銭に対し優位である。③3.9匁は②158匁と比較して小さい額なので手間賃であろうか。大黒屋は#306にも計算書を書いている、御用商人がぱちぱち算盤を使って計算し書き慣れた字で携帯筆でさらさらと書き上げている様子が目に浮かぶ。この戌年は1742年または1754年である。

●#307. 京都に居候う迄は 御元のかほはかり存申上居候
尼僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「京都をまだ出ていません。右の京都での寺役の日のことなど深く思っていただけばここに御覧に御尋ね下さい。いつぞやには寺役の日は終えるはずなの所が京都に居候していてあなたの顔ばかりきよ路へと申上ています。このようなことも困っています。右の通です。さて私の事も御覧に」。いつぞや:先頃、はっきりしない日。つくと:熟と、深く。了:終える。尼僧は地元の寺に本来は住んでいるが、寺役日には京都の上級寺に詰めているようだ。その間慈心院座主と文通している。京都では御元の顔ばかり考えていますと書く。

●#306. 熨斗目作製五拾壱匁五分に御座候 手附金壱歩頂戴
大黒屋武助が上醍醐寺慈心院の奉行の部下羽岡左仲への計算書。奉行岸本内記が使う熨斗目は銀51.5匁であった。前金で1分=銀15.83匁を入れた。1分=0.25両。よって両替率は金1両=銀63.32匁であった。#243に大黒屋武助に手附金1歩を渡した旨が書かれている。なお#243ではこの注文はこの後岸本内記の了簡違いであったとのことで取り消しになったことがわかる。熨斗目:のしめ、麻裃の下に着用した礼服で腰のあたりは縞柄。

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●#305. 大僧正様益御機嫌克被為成 め出度奉存候 讃岐金毘羅より
讃岐金毘羅より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「手紙で御意を得ます。暑くなりますが大僧正様益々御機嫌よくなされ御目出度いです。また無難に勤められ大変よいです。さて参上の節OO様が讃岐金毘羅においであそばされるに付」。克:よく。不少:少なからず。健康の挨拶が二重で丁寧である。讃岐金毘羅の宮司と慈心院座主は懇意の間柄であったことがわかる。また慈心院座主延順は大僧正で高位の僧であった。

●#304. 寺社方役人月番と寺扈従に御座候
上醍醐寺慈心院の文書2枚である。上は慈心院に寺社奉行の役人の月当番が記載されている。この役は他の役の当番と同様に2名居る。これは2名のほうが悪事が起こり難いことからだろう。下はおそらく高僧の侍従役の当番を記したメモである。八つ:午後2時。七つ:午後4時。七つ半:午後5時。扈従:こじゅう、貴人に付き従う者、ここは僧ではなく寺小姓の上位の者であろう。扈:従い伴をする。この「侍」は武士ではなく侍者と呼ばれる寺の雑用係であろう。扈従にも上中小がありここでは「御中扈従」と呼ばれたことがわかる。また「侍」にも時侍、准侍などランクがありそうである。

●#303. 僧衣注文 服、袷、襦袢にて御座候
上醍醐寺慈心院の僧の服、下着の注文書である。用語は下に解説した。服とはアウターウェアのことで光沢のある綿か絹の綸子であったことがわかる。

●#302. 美濃南光院儀御家来修験に可被加候 御礼式にて参殿可被下候
上醍醐寺慈心院から美濃の南光院への手紙の原稿。「美濃国南光院へ。貴院の僧が修験に参加してよい許可があったので御礼式などに戌年の何月何日までに紹介状持参で参殿して下さい」。文章は改変しているが元の語句もよくわかる。改変で全体に丁寧な表現になっている。最後の「醍醐寺」と書く所をこの紙が訂正で原稿となったので「醍、、」と省略して書いた。美濃国何之関とは関が原の不破の関のことである、これは本稿には書かれなかったものだろう。原稿は捨てられるのが前提なので本稿とは異なる点が興味深い。ここの戌年は1742年であろう。修験道南光院は1635年城主戸田氏鉄の尼崎から大垣への移封で美濃大垣に移された、今は大垣金刀比羅神社となっている。醍醐寺は修験道の修行で有名で#292には肥後熊本、#237では出羽黒川村からの修行者が来ていた。

●#301. 十二日斎 こんにやく、白あへ、小いも、御飯等にて御座候
上醍醐寺慈心院の僧のある日の献立である。芋類:こんにゃく、小芋、甘藷と主流。大豆:白あえ(とうふ)、焼とうふと使用。他にしいたけ、こうこ、御飯。魚のすり身のちくわが動物性蛋白。斎:とき、僧の食事。白あえ:豆腐とごまを擂ってゆで野菜などと混ぜたもの。香物:漬物、大根など。1750年頃の京都の大寺での僧の食事の例で興味深い。

●#300. 近来到着大酒御持賞被下 忝奉存候
おそらく友人より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「先程は初めて参入しました。久々にゆっくり酒を賞味しました。近来到着のたくさんの酒をお持ち下され忝く存じます。さて帰宅したら沈酔しました。この品どうかと思いますが進上致します。御笑納ください。今晩参上したい所ですが少し疲れ尽くしています」。寛酒:寛いで酒を飲むこと。沈酔:酔いつぶれること。賞:上位者より下位者へ下さる意味の尊敬語。如何敷:いかがしき、いかがだろうかと。侭:ここは尽に同じ、極。疲侭:疲れ尽す、疲れの極。

●#299. 清水忠門私迄窺暇候 相叶候儀に御座候哉
部下の庄司より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「左の届に御窺いします。清水忠門この度伊勢へ下って、その地へ居ます。先に別紙の通り御願いの旨を申上て私へ暇を取る伺を出しました。これに付き出処はありますか。尋ねお願いすれば叶られますか」。暇:いとま、休暇。暇乞(いとまごい)は永遠の別れの意味でも使われる。庄司は忠門より上、内記より下で中間管理役だろう。内記の部下は休暇や遅参をよく取っている。#295、#277、#269、#265、#230に同様の手紙がある。

●#298. 無御別条皆様御在府も成候 珍重不少候
僧随西より上醍醐寺慈心院座主、延順への手紙。「あなたの御手紙拝見しました。大暑の時節です。弥岳法印、恵法印、仲山平治、庄兵衛皆様異状なくお暮しで御目出度いです。さてこの事ですが8日に松田氏も別状なくそちらに到着、誠に御無難で御目出度いです。春位殿にも8日に松田氏と対談され衆中共に別状なく御在府で御目出度いです。仲山家平治は無事ですが庄兵衛は少し病気を煩い服薬して春頃迄御世話とか。しかし会は早くなされ御目出度いです」。法印:僧の高い位。快:早く。無御遣:時間を使うことなく。多くの名前がでるが慈心院で大きな会合があるようだが準備は順調に早く出来ている。この手紙で慈心院座主の名が「延順大徳由章」であるとほぼ判明したのは大きい。「醍醐寺文書聖教目録」内での検索で記載がみられた、ここには「(仲山)平治」も記載あり。随西は同じ真言宗小野流随心院(醍醐寺の北隣の小野にある)の僧ではないかと思う。真言宗小野流は江戸時代まで醍醐寺も所属していた派である。文面より親しい仲間の僧であることは間違いない。他の文書より1750年前後の手紙である。

●#297. 賎母義御尋問被下忝弥達者に罷在 頃日清水開帳罷登候
おそらく紀州藩士で慈心院の旦那頭、鈴木吉左衛門より上醍醐寺慈心院座主への返事の手紙。「和歌山でも吉三之介殿の御用でも揃って変わりなく、私の方と母の尋問下され忝いです。母は達者で最近清水の開帳に登り1-2日以前に帰国しました。あなたの御手紙の事を申したら悦びました。さて紀伊中納言様は当地を通り。追伸:妻へ御ことずて下さり忝いことです。宜しくと申しています」。若山:和歌山。「和歌山」と「若山」とは混用されていたが、元禄年間ころに藩が「若山」に統一した。明治からは和歌山になった。賎妻、賎母:妻、母の謙譲語。御言伝:御ことずて。紀伊中納言殿;第6代紀伊藩主、徳川宗直(1672-1757)(紀伊藩主:1716-1757)。手紙からは鈴木吉左衛門はこの時は若山勤務のようだ。清水寺の御本尊御開帳は原則33年に1度らしい。

●#296. 故郷へ帰り申候 伏見は通不申候間を思召可被下候
紀州藩士で慈心院の旦那頭、鈴木吉左衛門より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「伏見は通りませんのでそのように思って下さい。さて吹上筋の御助力は勝手が宜しいですので御安心下さい。私はこの節親類の者の支配人同然で大変苦しく暮しています。所要が終われば故郷へ帰ります。書余は江戸より出します」。和歌山市吹上は城に近い武家屋敷。和歌山の武家からの援助が期待できるので安心するよう書く。鈴木吉左衛門は#160にて和歌山市宇治に住居あり。今は江戸勤務のようだ。江戸から和歌山へ帰郷するが醍醐寺に近い伏見は通らないようだ。#257の鈴木対馬守安貞は父であろう。

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●#295. 恐入候得共何卒昼頃迄 御暇願上度奉存候
部下から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。さて重要な用事がありますので恐れ入りますが何卒昼頃までは御暇を願います。どうか宜敷お頼みします。済み終わり次第出勤し拝顔します」。無拠:よんどころない、他に頼れない、他にどうしようもなく重要な。弁次第:わきまえ、事が理解でき終り次第。#269、#277など同様の出勤が昼過ぎになるとの手紙である。「無拠(よんどころない)」というのは大変便利な言葉で上司に使えばこれ一発でそれに取り掛かるので出勤できない正当な理由になる。「得貴意」も短くて便利な言葉である。

●#294. 乍御苦労御上京可被下候 鷹司様之方出来九条様之方不出来
おそらく醍醐寺子院の僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙断簡。「今日か明日中近い頃御苦労ですが御上京なさって下さい。鷹司様は既に準備出来て宜しいです。しかし九條様は御取法しない」。ここでは鷹司家での祈祷の取法の準備は整った、そして九條家の取法は醍醐寺は行わない予定であった。しかし九條家は鷹司家と並ぶ有力な公家であり問題が生じたことがわかる。上醍醐寺慈心院座主はそのことで上京を急いで行うようだ。文書#241に掲載のように醍醐寺の頂の門主は特に鷹司家と一条家が多く主流であった。鷹司家と九條家は禁裏の南、丸太町側中央に堺町御門がある、この入り口の両脇に鷹司、九条両家の大きな敷地がありライバルであったと思われる。

●#293. 蓮華光院様被為承大僧正宣下 目出度思召候
上醍醐寺慈心院座主が書いた原稿。Aは蓮華光院の座主が大僧正に宣下が下ったのでお喜びの文。大僧正になると米何石か受取れるようだ。宣下:せんげ、天皇や将軍からの命令書、ここは大僧正任命書。Bは堺町御殿関白様と宛名のみ。Cは常盤井御殿禅官様と宛名のみ。それぞれ誰に相当するのか考察してみた。下に常盤井御殿は御所内の仙洞御所と書いたが、1750年当時の正確な場所は不明である、ただ御所禁裏近辺の建物には違いない。

●#292. 修験は冥加銀年之差出し可申候
醍糊三宝院末修験の肥後国熊本の仙勝院代行の慈験院よりの口上に対する上醍醐寺慈心院の回答。「考案しましたが修験道は右の御門への許可は冥加銀を毎年差出すべきです。差出しが無ければ修験道の寺の許可は差し止めです。昨年の申年の寺は各1両、1分、1分。一昨年未年は1寺は拝借、1分、2分」。「一昨年未年分」は永く拝借にすると書く。金1両=金4分(歩)。肥後国の仙勝院の傘下の寺から毎年3名が修験道の修行に来ていたことがわかる。掲載の寺院を調べたが7寺中現存は2寺で今でも真言宗醍醐派である。他2寺は醍糊三宝院末修験であったと確認できた。他の文書より申年=1752年=宝暦2年の文書である。

●#291. ほうそうかろくいたし候様 御きとう被成可被下候
醍醐寺慈心院関連の女手紙である。若い武士の妻から夫への返事の手紙。「手紙をいただき大変喜びました。郷の方へもお知らせ下さり忝いです。なお吉太郎の事を思うにかわいくなっています。御目に懸けたいです。少しずつ足もでて大変丈夫になりました。皆で喜んでいます。ここではほうそうが大変はやっています。あなたが遠所に暮していますのでそれを案じています。また御苦労ですが、ほうそうに懸っても軽く済むように御祈祷なさって下さい。呉々も頼みます。平三郎夫婦は毎度来ますが世話しています。御安心下さい」。いたいけ:かわいい。かすかす:多く、大変。ちゃうふ:丈夫。ここもと:此許、こちら。ほうそう:疱瘡、天然痘のことで近年撲滅されたが、江戸時代の種痘のない時代死亡率は20-50%と非常に高かった。ここでは御祈祷で疱瘡が軽くなるように夫に依頼している。かろく:軽く。例文:わろく(悪く)致し。平三郎ふうふは近所に住む夫の弟夫婦ではないか。ここの「も」は下が切れて「X}になる「も」である、かなの中でも「も」は変化が多い字である。

●#290. 只今御代参相勤申候間 御家司宜御披露可被下候
醍醐寺子院の1つより上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。さて今より御代参を勤めます。御家司を(誰か)教えて下さい。宜しく頼みます」。代参:貴人の代りに御参りすること。「江戸後期-I」の姉小路に大奥の女性が将軍の代参で水神に参る記録を掲載。御家司:御家来、ここは自分の代参の世話役に付く侍の意味。三宝院門室の代りに何かの会に東寺などへ参るのかも知れない。ここで「只今」の所を「思今」と書いているが誤字であろう。

●#289. 醍醐寺御貸附の記録 〆銀弐拾弐貫五百九拾壱匁に御座候
おそらく醍醐寺の会計係が書いた覚え書2枚である。日野新坊、日野真乗坊に貸付た銀と支払い銀を計算している。計算は合っている。Aの銀23貫とは銀1貫=3.75kgであり、銀86.3kg、金383両(金1両=銀60匁)という莫大な金額になる。Bは銀6.3貫=金105両。日野村は醍醐寺に至近で文書#234のように深い関係にあった。「岩城家は梅本坊と称した日野法界寺坊官で、醍醐三宝院へ願書など出していた」。以上のような文書もあるので、「日野新坊」「日野真乗坊」は醍醐寺と極めて深い関係の寺に違いない。よってこの様に莫大な金額の基礎資金を提供している。この計算書では各年に返却して余りの残銀があったことがわかる。未年は1751年の文章である、そして貸付開始年の申年とは11年前の1740年となる。

●#288. 右引残銀受落可被成下候
部下の侍中村源五右衛門より上醍醐寺慈心院寺社奉行の岸本内記への清算書。おそらくどこかから(幕府、御所など)の入金3歩=0.75両があった。Bに記載の4項目9巴に分配した。巴=把で束(たば)と同じだろう。これは「指上る」とあり、おそらく醍醐寺門主や子院の座主に分配したのだと思う。そして分配後の残りの銀を奉行の内記へ差上げた。銀対金は1両=62.4匁、銀対銭は銭1000文=9.55匁。これは金1両=銭6534文となり一般的に言われる4000文の1.5倍以上も「銭」に対し「金銀」が優位であったとわかる。1750年前後の文章である。

●#287. 御門室様東上之儀如先報 広徘徊仕候様に御赦免
おそらく上醍醐寺慈心院座主より江戸の僧か武士への手紙の原稿。「御蔭で御門室様が江戸へ東上のこと先報のように広く徘徊できるように御赦免を広く取り持ち下さり忝く存じます。これまでの粗末な御挨拶御容赦ください。さて御苦労ながら」。下醍醐寺三宝院の門室が江戸に登ったので様々な所に見物できるようにしてもらったお礼状だろう。

●#286. 伽藍勘定帳御越 慥に落手御儀為趣致承知候
飯田大和守から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「御手紙拝見しました。さて伽藍勘定帳を寄越されて確かに受け取りました。内容承知しました。御意を得るべくの便りです。ただ今取り込み中で請取の御報まで、この如くです」。伽藍:寺の建物。慥に:たしかに。落手:入手。飯田家は醍醐寺近辺の南小栗栖村の支配をした家で醍醐寺三宝院門跡の坊官家で法印になっている。坊官:家政を担い門跡に近侍する僧侶。手紙では慈心院建造物の修繕にかかる勘定の帳面を受け取ったことが書かれる。

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●#285. 四軒に割壱軒方 右当廿五日迄に持参可有候
人件費の負担を醍醐寺山下僧座、一言寺、岩中坊、椹木寺で4等分した覚。一言寺は下醍醐寺の近辺の寺で真言宗醍醐派、岩中坊、椹木寺が不明の寺。計算はほぼ合っている。醍醐寺山下僧座とは下醍醐寺の諸院のことである。

●#284. いよいよ御かりなく御入候や きかまほしく存候
女手紙でおそらく尼僧から上醍醐寺慈心院座主へのもの。「たよりに任せ一筆示します。暑さに向かいますがいよいよ御変りなくされていますか。お聞きしたいです。(私も)無事です。御安心下さい。さて7日、8日は上京です。11日は寺屋へ日(不明)で12日は月なみの日なので右の両日が済むまでは御上京」。きかまほしく:聞きたく。御かりなく:「御替りなく」の意味で口語調に「わ」を外したと思う。「一筆示し」の書式は勉強になった。紙の下方は貼ってあった別の紙を剥した後なので読みづらい。屏風の中張りになっていた手紙である。

●#283. いかさま五月中まては罷上り 緩々可得御意候
おそらく部下から上醍醐寺慈心院奉行の岸本内記への手紙。「上京致しません。2人が早く帰れば早く上京します。まだいつになるのか知りません。どんなになっても五月中には登りゆっくりと御意を得ます。内蔵太と定八の両人へもくれぐれもよろしく御聞かせ下さい。余寒の時ですがしっかりと御安体下さい。他は後の対面の喜びの時に」。いかさま:如何様、いか(どんな)になっても。緩々:ゆっくりと。得御意:あなたの私に対する心を良くする。部下は京都以外に居て内蔵太と定八の両人が京都に行くのでこの2人がここに帰ったら5月中には上京しますと伝える。「いかさま」の字を「已何様」と書いて練習している。「随分」の横には「侭(まま、尽くしてしっかりと)」と書いている。

●#282. 御寿何かたも同じ御よに御にきにきしく 祝納まいらせ候
女筆でお祝いの手紙、おそらく新春に若子が誕生したのだと思う。「仰せのように此間の御祝いに皆様同じ時代に賑やかにされ御目出度いです。まず皆様もお揃で御機嫌よく若々しい春は尽きることなきことです」。御にきにきしく:御賑々しく、華やかでよい。若生の:若々しい。尽しのふ:(佳いことが)尽きることなく。裏に字の練習をしてやや見づらい。女筆の様々なお祝い言葉が勉強になる。これは醍醐寺文書である。

●#281. 御見舞殊に被預御世話忝奉存候
慈心院座主への御見舞を貰った御礼の手紙と思われる。「私は大変歓悦いたしました。先日御見舞で品を預けられ御世話になりました。早速手紙で御挨拶申上るべき所が特に取紛れて御無沙汰しました」。野子:自分の謙譲語。不斜:ななめならず、普通の程度でない。取紛れ:用事に忙しく。

●#280. 山上伽藍分出銀惣合
出費の覚で醍醐寺の子院での分担金を書いたもの。計算は合っている。圓明院、宝幢院、行樹院の負担は未計算で最後の「惣合」に記入の予定である。おそらく山上つまり上醍醐寺の子院がすべてと思われる。弥勒院と龍光院以外は、上醍醐寺の子院と確認できた。従って上醍醐寺の施設の為の出費に違いない。

●#279. 麻上下若し宿元へ帰り候はば 乍憚御登し可被下候
おそらく弟から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「一筆啓上します。いよいよ御機嫌よく帰山され御目出度いことです。さて絹の麻上下もし宿元へ帰りましたらお登らせ下さい。確かに金吾が持って行き入置したはずですが宿に帰ったのか、麻上下が来なければ登らせて下さるように願います。追伸。猶々御母様へも宜しく御伝え下さい」。能:よく。帰山:寺に帰る。麻上下:あさかみしも。慥に:たしかに。岸本内記が貴人に会うのに着る麻上下は金吾が持参したはずであるが宿元に戻ったようで殿に登らせて使って欲しいと書く。金吾は世話をする御用人だろう。

●#278. 近日紀伊郡三草山にて所司代組与力同心 炮術稽古被申付候有
部下の山添氏より上醍醐寺慈心院の奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。過刻飛脚便が到来しました。近日紀伊郡三草山にて所司代の組の与力や同心が炮術稽古を申付られたことです。音も災難ですが差支えはないでしょうか。明日昼までに「否」の口上書を入れることになりました。御門室も差支えありとのことです。小野御殿からも聞き合わせするそうです。年寄一統が来て大川筋大垣が入用で勘定帳を差し出しました。これは出費が懸る物で今月中に決めたいと言います。余程の出費で山(醍醐寺)も入用かどうかも加え難渋の件です。費用の内400匁程山上、山下諸院へ出費を願い出るのはどうでしょうか。これは急ぎませんが明日あなたのお答えを下してください。追伸。先日は御容体詳しく御教示承知しました。療養が重要です。年寄帳面本(勘定帳)の写しを添えて」。紀伊郡三草山とは山城国紀伊郡(現京都市伏見区を中心とした郡)の深草山でこの時代(1750年)は「みくさやま」とも呼ばれたようだ。深草山の東側には醍醐寺や随心院がある。京都所司代の家来が炮術稽古(おおづつ)を行うよう命ぜられたので醍醐寺では「否」の口上書を出すようだ。大きな爆裂音や人が負傷する可能性があり当然だろう。大川とは山科から南へ醍醐近辺を通って宇治川と合流する山科川のようだ。小野御殿は醍醐の北隣でここは随心院(真言宗小野流の開祖の寺)のことで地名に小野御所ノ内町が残る。醍醐寺は現在真言宗醍醐派とするがそれ以前は真言宗小野流であった。

●#277. 無拠用向出来仕候 昼迄之所御入魂御願申上度候
部下より上醍醐寺慈心院駐在の奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。弥々の御安全御目出度いことです。昨日下宿をしました。有難かったです。今朝早勤の所でしたが、どうしようもない用向ができましたので恐入ますが昼迄は(欠勤につき)よろしくその心積りにしてください。お願いします。その心積りでお願い奉ります。後刻出勤の時御礼をしっかり申上ます」。得貴意:あなたの私への心がよくなるように。無拠:よんどころない、他に頼れない、他にどうしようもなく重要な。入魂:ここは「心積り」の意味。#269同様に部下の出勤が遅れるとの手紙である。

●#276. 是十前後の注進并交右御道具目録
おそらく醍醐寺塔頭の座主より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「取り寄せられたら御席で廻して下さい。明春早々に認めをいれるべきもの10枚余り預かっています。この10枚の注進とこれに交えて御道具目録等がありますので年明けすぐに入用です。そのように承知なさってください。不宣」。注進:出来事などを上司に報告すること。交右:右に交えて。不宣:書簡の末尾の語、述べ尽くしていないとの謙譲語、not declare。年末なので注進書など書類を認めて年明けに早々門室や奉行に提出することを書いている。

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●#275. 門室御挨拶被下候はば忝奉存候 御執成上御指図偏に奉願入候
上醍醐寺慈心院の座主が三宝院の門室に出した手紙の原稿と思われる。「兎角大変粗末な御挨拶で御用捨下さい。近頃御苦労ながら密番院殿、成身院殿、岳西院殿、照阿院殿、西往院殿へ御門室が挨拶されたこと忝いです。猶御門室様、出頭の願書を貴知の御方(御所の人か)に差進められたのでしっかり成す為我々に御指図下さい」。麁抹:粗末。御執成:しっかりつかんで成す。三宝院の門室がおそらく御所に何かの出頭の願書を提出した。三宝院の門室は記載の各子院に協力を仰ぐため挨拶に行った。慈心院座主は嬉しかったようで我々に御指図くださいと書いている。三宝院の門室と子院の座主は微妙な関係であったが、子院の座主同士は結束していたことがわかる。少し下がって挨拶したらされたほうは嬉しくて快く協力してくれるのは、現代と同じだね。

●#274. 大元帥御撫物申出候義付 御吟味之上四ケ院不都合之言上仕候
大元帥御撫物につき醍醐寺子院四ケ院等での廻状のようだ。「各々よくされていると存じます。今春大元帥御撫物を(朝廷に)申し出た事につき、これまで次第を我々に届けていないのでここに書く。御座主様で吟味し4ケ院共にこの前後は不都合と言上したことです。長々閉門され」。御撫物とは捧げ物でここは大元帥明王に祈祷を捧げる意味であろう。座主は子院の座主たちで反対したことがわかる。下の記録をみると1748年=延享5年、桃園天皇のために大元帥明王修行は施行された。おそらく三宝院門主と理性院座主が中心で行ったのだろう。前年に御窺書を提出し勅許が出ている。大元帥御撫物申出とはこの御窺書の事に違いない。理性院の本尊は大元帥明王である。なおこの文書は他の文書より1748年のことに違いない。下に大元帥明王修行につき解説。参考論文、森田龍僊氏「大元帥明王考」。

●#273. 昨日無滞相済候趣に承大慶不過に奉存候
義明という僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「勝れない気候ですがいよいよ御元気に在院され御目出度いことです。さて昨日密教院様にも御入寺され滞りなく相済なされたと承り大慶これに過ぎるものはないことです。且この書状を万代様からの御返事が参っていましたら、ただいまこの者にお渡しください」。御鶴語:「御鶴声」は尊敬する人が一声出すと周囲が静まる位元気がある意味であるが、同義と思う。密教院は慈心院などと共に醍醐寺の塔頭の1つ、「蜜」は当字。慈心院で大きな祈祷会があり、密教院も入って協力して終了しお慶び申上ますという内容の手紙。

●#269. 少し用事有之候に付 何卒暫遅参之義御願申上候
部下から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。只京都より兄弟が着ましたので少し用事があります。何卒しばらく遅参でお願い申上ます。よろしく御沙汰ください」。暫:しばらく。遅参:遅れて出勤。沙汰:処置。このような手紙が多くみられ、遅れての出勤には融通が効いたがこのような手紙での一報で許可を得ることを要したようだ。1750年頃の文書である。

●#268. 年頭御門室様献上之十帖入用覚
年頭に醍醐寺三宝院の門室が御所へ献上品をする費用の覚である。計算は合っている。十帖はおそらく白紙の帖面の10冊分と思われる。立足と台はたぶん三方のようなものであろう。末広は扇子である。これらを取りに行く日雇いの費用も入れる。有住五ケ院とは住職がいてactiveな5つの子院で費用は分担する。裏に「禁裏」と記す。三宝院の御門室とは#241にあるように醍醐寺集団の総長であり朝廷の高位の公家の子息が着任した。このような費用は子院で負担したことがわかる。#255は前が切れているが類似の文書である。有住の塔頭は時代により替わるようだ。

●#265. 上之思召にて休息帰り申候へ共 今日に至迄一日も休息は不致仕合に御座候
ある武士より上醍醐寺慈心院駐在の寺社奉行岸本内記への手紙である。「私は二月休息の暇をいただき久々に帰宅しました。家内の者も御想像通り喜びました。しかし江戸を出て持病の積(腹痛)が起こり帰宅でも上眼痛等で勝れず難儀です。さらに江戸表より御用を申され彼是扱いました。かつ又久々の留守で用事が多く家屋の破損も放置できず修繕し、次々難儀が涌き出しました。致し方なくあしき事でした。休息で帰宅しましたが一日も休めない仕合でした。この秋は御下向をされるように仰成されますこと久々にて貴意を得る機会と」。「上眼痛」は偏頭痛ではないか、視力低下を伴う重篤な病気ではないようだ。積:癪、しゃく、発作性腹痛、ここは一過性の軽症である。併:しかしながら。且又:かつまた。悪敷:悪しく、あしく、ここは上司に対し悪かった意味。仕合:廻り合わせ。仕合はしあわせと読み「幸運、しあわせ」の語源である。「よき仕合」から幸運になった。この文書の仕合は「悪い仕合」で一日も休めない廻り合わせ。致御知:下に知らされ。この武士は今は江戸勤をしている人で休みで郷里に帰宅したが病気や家内の用事等で多忙だったと述べる。岸本内記より若い懇意の武士と思う。最後は来る秋に岸本内記が江戸に下行するのでお世話する意味ではないか。よって江戸と京都の間に郷里があるのだと思う。

●#264. うみ山御はなし申上候へと存まいらせ候
女手紙でおそらく上醍醐寺慈心院奉行岸本内記宛。「数限りない多くの事を申したいです。私たちは体調よい事推量して(思って)下さい。久々(の手紙)にてどのように申上ましょうか。海や山ほど深く多くのお話を申上ようとしますが、あちらこちらの事がありそうでもありまた夢のようでもあります。申上事は山々残っています。さて御のもしへ」。かすかぎりなき:数限りない。すもじ:推量、ここは「思召し」。海山:深く多く。あなたこなた:あちらこちら。さふらふ:あります。やまやま:多く。女手紙の中でも文字は大変優雅で難度の高い手紙だけど特に様々な単語が勉強になるね。最後の「御のもじ」は何だろうか、気になる。「御かもじ」なら妻だけど違うようだ。#216と同様に芸者さんからまた来てほしいとの手紙だと思う。

●#263. 御上様ますます御きけんよく御入遊はし 御めてたく存上まいらせ候
女手紙断片2つ。手紙1「お願い上ます。こちらへは思わしい便りもないままです。何とぞ御頼み申上ます。めでたくかしく」。差出人の左の脇付は「申上給へ」と思う。手紙2は番号の行は追伸で最後に読む「一筆申入ます。寒に入りひえびえしています。上様増々御機嫌よく遊ばし御目出度いです。さて。中断。追伸:御世話忝かたじけなく尚そなたよりよろしくお伝え頼みます」。そもじ:そなた、あなた。

●#262. 右蔵本去方より相望申人出来仕候 甚こまり申候
同僚の武士からおそらく上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「わざわざ飛脚便を啓上します。まず皆様御堅固になされ御目出度いです。拙者も相変わらずです。先達ては御蔵本をいつものように奉仕していただき忝です。さてこの蔵本をさる方より所望を申入る人が出ました。大変困りました。それに付伊助を遣します。御大儀ながら寄り合い相談されること一入願上ます。御意を得たいですがその事で取り込んでいます。詳しくは伊助の口上をお聞き下さい」。態:わざわざ。去方:さる方の当字。大儀:大きい事、やっかいな事。一入:ひとしお、いっそう。江戸時代は本は頻繁に貸借していたようだが、これによる揉め事も多かった。

●#260. 銀壱貫四百目に候 六拾壱匁六分五厘かへ
上醍醐寺慈心院への覚の代金請求である。金額のみの記載。解説は図に記載した。計算は合っている。金1両=銀61.65匁と細かい両替率は比較的稀と思う。催:催促、hurry、urge。催銀の正確な意味は不明だが、おそらく何かを至急で行うための代金と思う。寺の建物の修理か普請の費用ではないか。他の文書から戌年は1745年=延享2年と思う。厘は丁寧と簡略の両方記載あり、丁寧はやや稀である。分は♭(フラット)に似る。

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●#257. 加納為作殿仰日無相違心承仕候
紀州藩士で慈心院の旦那頭鈴木対馬守安貞より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「一筆啓上します。まずいよいよ御堅固に寺役を成されていますか。承りたいです。さて9日に加納為作殿が仰せの日は相違なく承りました。昨日元左衛門より聞きその思いで参上します。お願いします」。加納氏は鈴木氏と並んで慈心院の旦那頭で紀州藩家老である。加納氏が定めた旦那衆の会合の日を承知し、了解した旨の内容である。鈴木対馬守安貞は徳川吉宗の近臣で武芸を奨励する吉宗より弓道の研究と実践を命ぜられている。徳川吉宗:1684-1751、紀州藩主(1705)、第8代徳川将軍(1716-1745)。他の文書よりこの手紙は1750年前後のもので時代は合っている。

●#255. 白赤水引、末広六本等 六ケ院様割壱ケ院様分三匁壱分九厘つつ
醍醐寺でどこかにお祝いを差上げる費用を6つの塔中で等分に負担する旨を年当番が慈心院の雑掌に宛てた手紙。末広は扇で6本、紅白の水引を使う。計算は合っている。「圓戒録慈室」は手紙を出した僧で慈心院の雑掌が覚で書いたと思う。

●#254. 御行法の御香水入申付候処 漸々五つ御間に合由に候
弥惣作さんから上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。寒冷弥々増しています。お揃で御安静御目出度いです。昨日は来春の御行法の用事で請負の者2名参殿しました。御面談の上取成し下さって有難いと申しています。その節御香水入が要用ですが格好の物でこれまで御行法の勤の方に改めるよういわれました。急にといっても30-40日かかります。以前御宝にて焼いたようですが、ここでは清水で焼くようです。年内日数なく24、5日には上京なさることで御心付は如何でしょう。追伸:御香水入漸々5つ間に合いそうです」。行法:密教の修法をいう。 御行法という行事に請負の者が来た。御香水入を使うようで、調達に難があったが漸く5つ入手できる目途がついた。御宝焼とは七宝焼だろうか。

●#253. 薬倍御用ひ少々御験も御座候御事や 宜思召候はば又差上可申候
医師の左仲氏より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「先日は丁寧な書簡下し御念を入れられました。その後の御容体はいかがですか。この間追々ゆったりしておられますか。少しの薬をもっと使用して少しは験もある事でしょうか。宜しければ又差上申します。何分にも薬が的中したかを尋ね御見舞迄この如くです。気分の不勝がよくなるように体をお厭いください」。叮嚀:ていねい、丁寧。容体:病状の具合。ゆるゆる:ゆったり。御験:おしるし、ここは薬の効験。倍:増す。不勝:勝れない、病気。減気:病気が減ってよくなること。御厭:体を厭い大切にしてください。病気の症状は不明だが岸本内記の診療医師が薬の効果を尋ねている手紙。

●#252. 御飛札拝見皆て大に驚入候
上醍醐寺慈心院奉行岸本内記と深い関係の同等の武士からの返事。「至急便が午後6時頃門に鍵をした時に着でした。その貴書を上げて宵に書面を認めて只今暮に書を差下す所です。皆で大いに驚きました。万事は松より差上げる書中に申上ますのでそれについての御話する書は略します。よろしくお願いします。追伸、この節賊がよく出るので飛脚ともう1人差下された事恐れ入ります」。酉時:午後5-7時。宵:日が暮れてから深夜まで。岸本内記が至急で驚くべき事件の手紙を出した、それへのとりあえずの返事である。詳細は別便に書く。始めの3行は追伸で最後に読む。

●#251. 香水壺出来合に克合候壺被用候
部下の甚内内匠より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「先刻はお会いしてその節に仰せ聞かせられた半畳の事は了解しましたので相整えます。私は先例は阿闍梨の座の他に大放縁だとみます。御香水壺はお答えしたように出来合いのよく合う壺を用いられたらと思います。勿論調達して進上する者もないようです。右返答はこの如くです」。仰被聞候:おおせきけられ候。岸本内記が部下甚内内匠(たくみ)に畳半畳と香水壺の事を話した。それへの返答である。半畳は阿闍梨の常の座に使用していた話をした。阿闍梨:真言宗では一般の僧侶を指す。大放縁:不明。香水壺は寺の行事に使うようで他の部下にも話している。今のようにきっちりしたガラス瓶はない時代だからね。出来合いの何かの壺を転用したらと話す。

●#249. 次後御出京も候はば 必々御逗留も候様奉存候
おそらく近在の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「追て啓上します。早春は御出京と承りました。問合せすべき所私事甚だ用が多くできませんでした。もしか御入来もあるだろうと申置していますが、次の御出京では必ず御来駕ください。兵衛殿が御存知の通り御客人から申上ていることは御用捨ください。是非御逗留くださるように願上ます。精しくは兵衛殿にお聞き下さい。取込にて早々再筆です」。追啓:追伸。候半と:そうらわんと、であろうと。何も:いずれも。精は:くわしくは。親しい僧が次回京都を出るときは是非逗留をと書く。大変丁寧な語調なので以前慈心院座主が指導した僧かもしれない。「追啓」の「追」がユニークなので例によって字の練習をしている。

●#248. 此品時候御尋問之印迄に致進上之候
上醍醐寺の塔頭宝幢院(ほうどういん)より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「厳寒の季節です。いよいよ御安全に御勤役をなされ喜ばしいことです。この品時候の尋問の印までに進上いたします。他は対面のとき申上ます」。尋問:様子を尋ね問う、特に贈り物を伴うとき使われる。「酒一器御恵被下賞味仕候 且又預御尋問候」。猶期後音:なお他は後の面会の時期に。宝幢院は比叡山にもあったがここは醍醐寺の子院。今はどちらもなくなった。

●#247. 余り長髪にも御座候は甚以失礼之至に御座候
下醍醐の岳西院より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「御来客で御機嫌よく一献なされたと存じます。私は今日は少々体調もよろしくなり剃髪して御見舞を申上ようと思いました。しかし医者が来て相談しましたがまだ邪気熱があり剃髪は見合わせしました。余りに長髪なので甚だ失礼です。そのことを宜敷おっしゃって下さい。密番院に行く事も亦お断りを頼みます。さてもし御酒入用でしたら遠慮なく仰せ付けください」。一献:酒のふるまい。能:よく。野僧:僧の「自分」の謙譲語。剃髪の「剃」が「刺」に似ている、刺髪という単語はない。密番院で祈祷があるが病気で行けないと書く。ここでは風邪の養生のためには剃髪せず髪があるほうがよいと経験で知っていたことがわかる。寒いからね。一休さんは長髪でも堂々としていたね。岳西院では献上で酒が余っていたようだ。

●#246. 紅紫之二色相除諸色之内 晴之儀にて情格別に何色を着用
おそらく部下の僧衆が上醍醐寺慈心院の院主への口上。第一「兼業院家の衣体について。白衣着用。この白衣とおっしゃるのは素結または直綴の事ですか。この事先刻より御意見を承たいです」。院家:門跡に次ぐ各塔頭のこと。衣体:僧の衣装。塔頭や各寺院の座主の一般着についてのことであろう。第二「さて先方よりお尋ねがあったことに対し、紅紫の2色を除きその他の色の衣を着用されるとの事。右の内晴の事で思い格別の時は何色を定められるか。また何を晴と定めて着用するのかお答え下さい」。情:思い、とくに喜び。晴の席では格別の情があるが、紅紫以外の色では何色がよいのかまた「晴」とはなにかの議論。第三「現朝廷の推許で僧正の勅許の席では紅紫を着用されるとの事。紫は(着て)苦しくないでしょうか。また直綴の所はいかがでしょうか」。僧正に推されて勅許の席では紅紫がよいといわれるが、紫はまずいのではとの議論。以上塔頭の慈心院の座主に部下の僧衆が僧の衣装につき議論を投げかけている。江戸時代は僧正などの職は各宗門跡の推挙に朝廷が勅許していた。

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●#245. 明日一言寺之御祈祷之御札 例之通差上候
下醍醐寺の子院岳西院より上醍醐寺奉行の岸本内記への手紙。「いよいよ御安全と存じます。さて松平敦之介様が御逝去に付御門室より諸司代へ使者を遣されたとのこと。内々これに付御聞合わせ申したいです。尚々明日一言寺の御祈祷の御札をいつも通り差上げます。料紙をお返し下さい」。松平敦之助:1796-1799、将軍徳川家斉の五男で清水徳川家(御三卿の1つ)当主、夭折であった。よってこの書状は寛政11年=1799年のものであろう。一言寺:醍醐寺の下の本山で真言宗醍醐派である、寺は下醍醐寺に極めて近い。「仏にうそはなきものぞ 二言といわぬ一言寺かな」とここの御札は人気が高かったようだ。御門室とは三宝院に居る門跡のことで醍醐寺集団の頂で子院とは微妙な関係であった(#241参照)。

●#244. 繁丸容体書 大弁も一日に壱度つつ能々通仕申候
慈心院の僧が書いた使用人か繁丸の容体書の原稿。「大便は1日1度よく通じています。勿論小便も宜敷通しています。腫物はあいかわらず出ています」。大弁は朝廷の太政官の職名であり、通常はこの意味では使われないようだ、よってここでは当字で使用している。小水は現代でも使われる言葉。腫物:はれもの、腫瘤から浮腫まで様々に使われた。繁丸、茂丸両方書いており、漢字の使用は鷹揚だったことがわかる。右下に「種」と書いて「腫」の字の練習をしている。茂丸の「丸」がよくないと思って繁丸の「丸」に変えたためこの紙は廃棄された。繁丸の「丸」の方が一般的だが最後を上げて回す茂丸の「丸」もあり間違いではない。

●#243. 熨斗目の義御了簡違御座候間 未申付候はば見合可申旨
部下の尾崎左仲より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙2通。一通目「御機嫌よく還られ恐悦です。かつ貴所様へ先日来御苦労様でした。滞なく帰山なされ御めでたいです。さて御頼置なされた熨斗目のこと今朝大黒屋武助を呼び寄せ御注文通りに申付ました。出来ましたら私へ来ますので後に御合わせします。手附金は1歩渡しましたので別に請負書を取って差上げます。貴意を得る為以上です」。二通目「祝儀の通認め置しましたが、御書簡拝見しました。のしめの事了簡違いとのこと、未だ申付ていませんので見合わせること承知しました。呼び寄せ話し聞かせます。今朝の話しですから取り消します」。熨斗目:のしめ、麻裃の下に着用した礼服で腰のあたりは縞柄。部下もなかなか大変である。出入の御用人がいたことがわかる。下の加賀藩京屋敷の千丸屋作兵衛さんと同じだね。なお#306に計算書を掲載している。

●#242. 御出下され候もと入まいらせ候
女性からおそらく上醍醐寺慈心院の岸本内記への手紙。「ちょっと申上ます。未だことの外余寒強いですが、いよいよ揃って御機嫌よくされていますか、お聞きしたいです。そのように思いましてこの文を出しています。御世話ながら京都へ便りの節お届けください。なお段々暖かになってきますのでお出でくださればと思います。<中断>なおその内お目にかかりたいです。めでたくかしく」。先に大きい文字を読んで、最後に番号の付いたやや小さい行を初に返って読む。鳥渡:ちょっと。御せもじ:御世話。御めもじ:お目にかかる。ここの「おはしまし」や「ぞんじ」と「し」が上に上がって書かれるのにも慣れてきた。

●#241. 醍醐は往古差障も有之候由 御許容無之趣に相聞候
上醍醐寺慈心院座主が三宝院門主への口上。「広隆寺は京都7ケ寺の中にあり他の諸本山に受衆は無いことをどう考えられるか。中世に既に本山受衆に加わった事を聞及んでいます。醍醐寺は往古より差障があり許しが出ないと聞いています。これは先年嵯峨法輪寺が堂供養した時三宝院門主の准三后義演上綱が務められた頃本寺の一同の前に出て(法輪寺の堂供養に)表向出席は叶い難いので末席に出仕すると言われた。弘法大師九百年忌は太秦預(広隆寺)で御室(仁和寺)が」。切れがあり不明な点はあるが、広隆寺で真言宗の諸寺の門跡を招く会がある。そこに三宝院門跡が正式に出席することに関する意見を子院の慈心院主が述べている。醍醐寺は往古より特殊で許容されない、以前義演門跡が嵯峨法輪寺での堂供養への正式の出席は取りやめにして単に出仕のみ行ったとして、現門跡が広隆寺での会に正式出席することに反対している。経費もかさむのかもしれない。文章最後での弘法大師九百年忌は1734年のことであり言及している。義演:1558-1626、醍醐寺座主、准三后、東寺長者。天皇、豊臣秀吉、豊臣秀頼の援助を受け醍醐寺三宝院を復興、醍醐寺中興の祖とされている。上綱:僧官の上位職。准三后:太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた処遇の者の称号。御室とは仁和寺、太秦とは広隆寺のことである。この時代の京都7ケ寺は正確には不明であるが京都の真言宗の主要な寺派と本山か否かを下に示した。この文書に記載の法輪寺、広隆寺、東寺、仁和寺そして醍醐寺などは皆京都における主要な寺である。この文書も#231と同じ1749年ころの慈心院座主の文章であるがこの時の門跡は幼少の良演で力関係が微妙な時期だった。また醍醐三宝院門跡はすべて高位の公卿の子息の就任であり、寺の実務を担当する子院の座主やさらにその下の僧衆とは微妙な間柄であったと推定される。

●#240. 房君様御誕生御祝餅 御頂戴被成可被下候
山縣楊笠より上醍醐寺慈心院奉行の岸本内記への手紙。「御手紙で御意を得ます。御所労はいかがでしょうか。かれこれと御無沙汰しています。さて房君様御誕生御祝いの餅を送ろうと思いました。御請取下さい。以上御意を得る文面です。尚私の家の慶事もお蔭に依り別条なく整いありがとうございました」。得貴意:あなたの私に対する心をよくする。所労:病気、苦労。別場:別条。房君様:おそらく御子息様に同じ。房:奥の部屋。御誕生御祝餅:おそらく誕生して1年後の祝い餅と思う。山縣楊笠は岸本内記と同等の武士だろう。

●#239. 二条御城天守火災の関東御機嫌伺い惣代入用
慈心院年預の僧が雑支出を書いた断片で3部に分かれる。「松O院様の御焼香の最初から終りまでの入用費用で御給物にて勘定するべきといわれ勘定は7ケ院に割り53.53匁づつになります」。「35匁2度分:二条城から御給物を受け取る役の物が二日間御礼を伝奏(申伝える)するのに入用、7ケ院に割って5匁づつです」。「14.4匁は二条城天守火災で関東(将軍)の御機嫌伺いに総代が出た時の費用。28.1匁は大御所様(天皇)への御機嫌伺いに総代が出た時入用であった費用」。二条城は将軍の京都宿舎として1602年建てられた。天守は1606年である。天守は1750年=寛延3年に落雷で焼失した。私の所持の他の文書は1750年前後である。二条城天守の焼失の記載よりまさにこの文書も同じ頃のものと判る。天守は以後再建されなかった。他にこの文書は上醍醐寺が二条城(将軍)から御給物を貰ったことや天皇に御機嫌伺いの贈り物をしたことがわかる。そして上醍醐寺に7ケ院あり費用は等分割で勘定した。文書の上半分は貼られた紙を剥したため字が薄い。

●#238. 来春御修法御参勤之義に付 舎利守御頼被申候
上醍醐寺山の下院の座主より慈心院座主への返事。「厳寒の時ですがいよいよ御安康に務められて御目出度いです。さて来春御修法に御参勤内々に勤められるに付、舎利守を頼まれること。念をいれて手紙くだされたこと手前で仕える願書を貴山は御差問していません。御苦労ですが御参殿してください。山下衆中の厚意もないだろうと思います。衆中にも御紙面を書かれるべきです」。御修法:正月8日より7日間、東寺で天皇の安寧や国家安穏を祈る真言密教の儀式。この際仏舎利を持つ「舎利守」という僧が必須である。おそらくこの僧が舎利守を勤めるに当り下醍醐寺三宝院の御門室に参殿して依頼の手紙を出して承認を取って欲しいという事だと思う。#231に見るように御門室と下院の座主とは微妙な間柄であった。御修法は現在も毎年東寺長者と真言宗各派総大本山の山主が行っている、密教の儀式であり公開は無論ない。

●#237. 当御末流修験に相違無之候に付 願之通院号宝蔵院御許容被下候
上醍醐寺慈心院の座主が修験道の修行を終えた僧に持たせる修了証の原稿。「さて多河郡黒川村宝蔵院2代がこの度入峰修行のために参殿面会して官職を願った。1代 の御添状を持参のところ、信州善光寺で1宿中夜に出火があり、御添状は焼失したとのこと。これに付正しいか調べた所当末流修験に相違なし。願い通り院号宝蔵院錦地袈裟衣権大僧都の御許容を下され帰国した」。さて善光寺の火事は「寛延4年2月19日、西之門から出火、900戸焼失、大本願、釈迦堂、西方寺、十念寺等が焼ける」と確かである。この書は寛延4年(1751年)である。他の書類の年号もこの前後なので合致する。出羽国田川郡は多河郡と書かれることもあった。醍醐寺は歴史的に修験道の修行と関連深いが、修了者に持たせた許状がよく理解できる。がんばって修行して胸を張って帰国したことだろう。だけど黒川村(山形県鶴岡市黒川)にあった宝蔵院は現在はもうない。

●#236. 人命大切之御事に奉存候に付 非人相果て候にて御届申上候
醍醐寺の僧が寺社奉行に出した口上。「およそ以前より非人に相違ない者が領内で死亡したときは御届けせずに取り成しをしました。しかし誠によくよく考えれば一人の命に関する大切な事であります。引き延ばしましたが右の御届け申上ます。この所どうか御了解の上でお聞き取り下さい」。凡所:およそ。相果候:あいはて候、死亡した。能々:よくよく。延引:引延し、遅れ。了簡:りょうけん、考え。下に年預の雑支出の一部を示した、年間計5名の非人が醍醐山領内で死亡し始末に1人に付米1斗を支出した、雑用者に年間に扶持米4斗を支給した。ここの非人は「無宿非人」とされる者で人別帳に入らない路上生活者、山間の非定住者に違いない。山間の非定住者の死亡も今後はしっかり届けますと記す。

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●#235. 開山大師八百五十年忌来る丑の年也 依之諸役人下行米半減に定置候
上醍醐寺慈心院の年預方の僧が己巳=1749年=寛延2年に書いた記録である。「8年後の開山大師(聖宝)850年忌での御用金を貯蓄するため寺の諸役人や年預の扶持米(給与)を半減して、銀564匁分を蔵に入置いた。さすがに僧たちの開山大師への強い愛情が感じられる。そしてこの寺が経済的に余裕があったこともわかる。「より」にはここの筆順と別の筆順との2種類あるようだ。なお記載よりこの時は銀54匁=米1石(=金1両くらい)の相場であった。

●#234. 立木千本御払下 年賦弐石壱升宛十ケ年分無相違上納可致候
1751年の日野村百姓より上醍醐寺年預への証文。「以前1737年に醍醐山の立木合計1000本払下があった。年米2石1斗の代金で10年分(合計21石)の上納であった。百姓は1747年にさらに払下を希望していたがそのままになっていた。今年1751年醍醐山の立木合計1000本払下が決まった。1756年まで6年間までの分。但し年米2石1斗の代金で10年分(合計21石)の上納をすることをこの証文で確認する」。つまり以後6年間で1000本の木の伐採を許可したが代金は以前に同じ年米2石1斗の代金で10年分(21石)を払うことの確認である。従:より。年預とは上醍醐寺内の会計係の僧で1年毎で交代する。山城国宇治郡日野村は醍醐寺に極めて近いがやはり醍醐寺の支配であったことが確認できる、現京都市伏見区日野である。細かい字の部分は重要ではないので省略した。

●#233. 右六町昼前収納可致候事 御蔵入次第帰宅致させ可申候事
醍醐寺所領地の百姓から年貢米の蔵への収納の時管理の侍から奉行岸本内記への手紙である。「名前を示された中では67人ばかりはよい返事でした。しかし私がふと考えましたのは早く来るようにして時間をつめても昼頃でなければ来ないので左のようにすればどうでしょう。昨日醍醐村は皆済数口で混雑しました。今回右六町は昼前頃の収納で蔵入後は早く帰宅させる。別右六町は昼後早く収納させる。このように時間を縮めても少しの時間超過で色々なことになるでしょう。賄はどこへ申上ましょうか。一応御家司に伺うのは悪いでしょうか」。約:つまやか、縮め減らすこと。賄:見張りの侍の昼飯。家司:食事など家政を掌る人々。監視する侍は67人が出席可能とのことであったが百姓の収納の時間を昼頃に集中にて時間と人数を短縮したいようだ、侍の昼食はどこに依頼しようかと書く。記載の町はすべて醍醐寺近辺であった。

●#232. 雨一向ふり不申殊の外ひでりに御さ候 知行所なとは川水空に候
在醍醐寺慈心院寺社奉行への手紙。「今日までは雨が一向降らず、特別ひでりであります。私の知行所は川の水が空ですが田の方は別状ありません。御心配無用です。そちらの知行では風雨の難儀はありませんか。うかがいたいです。拙者は格別息災でありますが」。殊の外:格別。知行所:領地に同じ。被成間敷候:なさるまじく候、なさらないで下さい。其元:あなた。難義=難儀:困難なこと。息才:息災の当字。武士の手紙だがかなが多く使われ口語に近い。仲のよい友人のようだ。

●#231. 此度菊之御紋遠慮可仕旨 五ケ院え従御門室仰渡候
慈心院の座主が上部の御門室に出す口上書の原稿。「この度菊の御紋を遠慮するよう五ケ院へ三御門室より仰せ渡されました。何れも畏まります。さて再度そのように答えられましたが(五ケ院は)御請すること申し済です。しかしながら里元(門室)は返事がないことを不審に思われこの事を尋ねられました。抑々我々四ケ院僧主は何の支障も無いが我々はまだ御門室へ出頭願も出していませんので今後すべて隠密で取り計ることが重要です。殊に僧衆より難点が出ていて私は難渋しています。この度連名書を作成する所私の名は除いて下さるよう願います。もっとも(御門室へ)出頭した後では構いません」。従:より。抑:そもそも。野僧:拙僧。併:しかしながら。菊の紋は以後使用を遠慮するよう醍醐寺の門室から醍醐寺内院へ達しがあった。つまり1750年頃から皇室の菊の紋を遠慮して使用を避けることを門室が決めたことがわかる。上醍醐寺内5院(慈心院、岳西院、宝幢院、密乗院、成身院か)などはこれを請け入れる事は申し合わせた。しかし門室へ返事は未だしていない。門室は返事がないので不審に思い連判状を作った。そこでこの口上書である。上醍醐寺慈心院の座主はまだ御門室へ出頭して面会していないのでこの連判状から名を除いてほしいと書く。そして部下の僧衆からは(菊の紋不使用に)難点が出ているので隠密で行ってほしい、そして門室に面会後は了解しますと。さて三御門室とは三宝院の座主と思われる、寛延年間は三宝院門跡は良演(1746-1760)で一条兼香太政大臣の子息で1750年にはまだ幼少であり指導者がいたかもしれない。内院は上醍醐寺の5院(上記)と下醍醐寺にも内院が沢山ある。内院の座主の連名の例を下に示した。これらの内院は会計などは独立していた、日本仏家人名辞書にも慈心院など内院の僧が多数掲載されている。この口上書で御門室と各内院主と部下の僧衆の関係は微妙であったことがわかる。

●#230. 廻向のみ早々帰山奉存へく存候所 此間京着より腹薬又工面あり
親族の回向で留守の部下より上醍醐寺慈心院住の奉行岸本内記への弁解の手紙。「今日庄兵衛が御手紙を持参しましたので拝読しました。皆様御別状なく勤務され御目出度いです。さてこの間は親孝行の手向け1つ執行の用事で14日には早く帰山の覚悟でした。しかしこの間御話しました客が来て段々月末にまで及び、心のままにならず帰山できずでした。まず当地において右お許しの程を。回向のみで早々帰山の所、京に着より腹薬を飲んで今日は帰山の筈と決めていました。折節取立てが参った様子、寂谷にも不埒申上ました。さてさて気の毒なことをしました。昨日は(寂谷を)下げられて御苦労でした」。抑:そもそも。廻向=回向:死者を追善のための仏事法要。手向:仏や死者の霊に物を供えること。帰山:ここは寺に帰ること。御噂:ここは御話に同じ。不任心底:心のままにならず、これで熟語として使う。宥:許す。早く帰山を促す手紙にこの返事を託した。14日に回向後早々帰山の予定が月末になっても帰山しない。おそらく会計係りをしていて寂谷という僧が金の入用で取立てに来たがひとまず下げた。客が来たり、腹痛で薬を飲んだりと理由を記す。

●#229. 甚麁末之品殊に風味如何敷存候 任手製に進上仕度候
上醍醐寺慈心院の僧が誤字で出さなかった手紙。「厳寒の時です。いよいよ御安康になされていますか?承りたいです。拙官は恙なくしていますので御安心下さい。さてこの一笑のもの粗末の品で特に風味がいかがかというものですがこの時節に手製に任せて進上します。この時期の御一興の験に(差上たく存じます)」。拙官:拙僧。無恙:つつがなく、病気なく。麁末:粗末。如何敷:いかがしき、いかがだろうかと。験:しるし。「御壱興(1つの楽しみ)」と書くのを「御壱向」と間違えたようで、この手紙は廃棄され屏風の中張りになった。「如」はしばしば「女、め」と書かれる。厳寒の手製の品で風味があるものは何だろう。ここは標高452mの醍醐山。実は私は商人の贈答品の記録を所持している。食べ物は砂糖、酒、葛粉、ようかん、大根、山芋、鴨などである。ここでは干し柿、大根の漬物など考えられる。下の#228はたけのこだった。手紙には具体的な品名は書かないことも多いようだ。

●#228. 被任例笋一折被為差出候処 甚満足致候
湊内匠(たくみ)より上醍醐寺慈心院への手紙。番号は最後に返って読む。「御手簡改め拝受しました。いよいよ御勇健なされ御目出度いです。さて前例のように笋(たけのこ)一折を差出し為され、従って御紙面も披露されました。相変らず送り為され我々一統共甚だ満足しています。詳しくは(お会いしてお話します)。追伸:我々一統皆機嫌よくありますので御安意下さい」。笋=筍:たけのこ。笋1折はたけのこ5本くらい。「笋一折献上也」の表現もある。帋=紙。委曲:詳細。「被任例笋一折被為差出」の意味として「被任例一通注進候」との文が検索で出た。「被任例」:前例に任され、前例のように。「一通注進候」:一通注進しました。例貢:例年のように貢ぐ。例:決まったならわし。則:ここは「従って」の意味で「即」、following、andに同じ。

●#223. 屏風之義被仰下候 年中は余日御座なく春早々仕置差上度候
表具屋さんから上醍醐寺慈心院座主への手紙。「甚だ寒い季節です。旦那様いよいよ御機嫌よろしくなさり大悦です。さて先日仰せられた僧経でき上りました。御受取下さい。屏風のこと仰せられましたが今年中は余日もなく、新春早々に仕事にかかります。そのように思召下さい。書のこと畏まります。即席の紙本御覧にいれますので気に入らなければまた他の紙を」。僧の経を注文していたのが表装が完了した。屏風も注文しているがこちらは年明け後からの仕事になる。最後字と意味がやや不明の箇所があるが墨跡を依頼されて紙本を持参するので気に入らなければ他の紙本に替えますとのことだろう。上醍醐寺の慈心院座主ともなると他の手紙でも画讃などを依頼されている。表具屋さんとの緊密な関係が窺える興味ある手紙である。この手紙は裏で字の練習をしておりさらに屏風の中張りに使われたものである、そしてこの表具屋さんが年明けに作製する屏風の中に入ったのだろう。

●#222. 明日東寺へ行向ひ候 御輿并召連候者之弁当三つ願上候
下醍醐寺塔頭の岳西院より上醍醐寺寺社奉行の岸本内記への手紙。「今日はうっとうしい天気です。いよいよ御堅勝に御勤役をなされ御目出度いです。さて明日東寺へ行き向かいます。御輿と召し連れの者の弁当3つを拝受したく存じます。なお後刻人夫をさし上げます。よろしく御取はかり頼みます。召し連れの者は侍2人、中に御持1人です」。欝陶敷:うっとうしき。御輿:みこし、僧の移動に使用した輿であろう、下に一休が使用した御輿の写真を掲載。岳西院塔頭が東寺へ出向の御輿と護衛の侍の弁当を依頼している。寺社奉行は寺の普請や諸費用を歳出するが細かい支出も支配していたことがわかる。東寺:醍醐寺に同じ真言宗の京都の総本山。

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●#221. ほしたら茶能書掛御目申候
弥惣作さんから醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「追加で御意を得ます。ほしたら茶の能書御目に掛けます。御一見の上で作治郎を用いて申しますのでよろしければ御申し越下さい。早く調えて調達します」。ほしたら茶はおそらく「たらの木」の皮や葉を干したものを煎じて飲用するのだと思う。たらの木:別名楤木(そうぼく)、薬用植物で効能は血糖降下、鎮痛、腎機能、消化器改善とされる、江戸時代の本草綱目啓蒙(1803刊、小野蘭山著)にも掲載。また「たらの芽」も食用にされる。

●#217. 慈心院方へ之書状之返事今に相届不申候
加納吉兵衛より井筒屋九十郎への手紙。おそらく井筒屋は慈心院に出入りの商人である。「一筆申入ます。段々暑くなってきましたが弥々無事にお暮らしか、承りたいです。先に御頼した慈心院への書状の返事が今に届きません。右の書状は滞りそちらに届かないのか又は届いても返事が滞っているのか。便りはないので心もとなく暮らしています。御世話ですが又々この状をお届け頼みます。尤も先日の返事で慈心院(座主)は病気で京を出て養生中とのことでしたが、どこで養生中か不明です。御世話ですが場所を尋ねこちらに届けください。よく廻していただき御世話は申しにくいですが、他に伝手なく御無心しています」。無心:人に頼む。おそらく加納吉兵衛は慈心院の旦那衆の頭である紀州藩家老加納平三郎と関係の人である。手紙の返事が来ないので手紙の返事の有無と慈心院の養生先を尋ねている。

●#216. 御きけんよくいついつ迄も相かわらす御出可被下候
女手紙でおそらく醍醐寺慈心院の奉行岸本内記へのもの。黒1-13の後最初に戻って赤1-10を読む。「この度はおいででしたが早々お帰りでした。奥様にならわしいよいよ御きげんよく遊ばされ御めでたいことです。それでしたらそのようになにか物語りしますのでいかがと思いました所、ご理解いただきかたじけないです。今後も心おきなく御出下さるよう御願上いたします」。「追伸。御機嫌よく御暮しになりいついつ迄も相変らず御出くださること、大きな御恩かたじけなく存じます。尚近日芝居見物のためゆるゆると御世話いたします」。御かもじ様:御奥様。おそらく芸者さんよりの手紙でこんな手紙を貰ったらまた置屋に通いたくなるに違いない。

●#215. 御頼申上候絵讃之事 御世話不浅忝候
和歌山近辺在住の僧から京都市伏見区醍醐寺慈心院住持への手紙。「和歌山に来られたら鈴木様宅へお越しの趣承知致しました。かつ先日御頼みしました画讃の事つぶさに承知しました。彼是と大変お世話になり忝存じます。急ぐ事ではありませんので何分お頼みします。知門様も和歌山へ来られるそうで和歌山へお越しの時お会い申上ます。且また私も両所へ参ります」。若山:和歌山の当字。鈴木様:#160に掲載の慈心院の大旦那の1人で和歌山在住。具に:つぶさに、詳細に。不浅:浅からず、ここは御世話が深いの意味。日外:先日。爰元:ここもと、私。両所:慈心院住持と知門のこと。慈心院の住持ともなると画の讃を依頼されたことがわかる。

●#212. とよ次事たんたん御世話とも忝存候 あらまし右近に御きき可被成候
おそらく醍醐寺慈心院の住持が尼僧へ出す手紙の下書き。文は女性ではないが、かなを多く使って書いている。「今日また手紙を出します。右近遣し一筆申上ます。まず余寒の節、いよいよ御変りなくなされ目出度いことです。こちらも無事の暮しです。御安心ください。さて先頃は右近に申し遣した豊次の事、まずだんだん御世話になり忝です。全体これは最初よりの訳、あらましを右近に聞いてください。詳しくは私が上京の時申入ます。ただ私も役をしており近日出京するので先に今日便りをして趣意をたいがい左に書き記します。御覧ください」。書き間違いをして別に書き直して書状を出したのでこの紙は下書きになった。その後屏風の下張りに使われた。御入之由:お暮しのようで。日外は「いつぞや」と読み「先頃」の意味。あらまし:大体のこと。

●#207. 切売のすいくわに無官のあつもりにて御座候
上醍醐寺慈心院の僧が同所の寺社奉行の若侍のことを書いている。松本藤之助は切売のすいか。色美しい。栬はかえでのことらしいがここは色と同じと思う。野崎塔之助は在方の森のくすの葉。問うて一度は他を表す。在方:村方。楠の木は「なんじゃもんじゃ」など様々な別名がある。名はなんじゃと問われて他の名が出る意味か。尾上菊五郎は大仏の釣鐘。東大寺の鐘は音はよくなかったようだ。この侍も本音が出ない。佐野川市松は無官の平敦盛。平敦盛は一ノ谷の戦いで死んだ平家の武士で美男で有名。能狂言の題目にある。「世界の図」とはサボテンのことで地球儀に似ているから。しかし意味が不明。大寺は僧と武士の世界で男色が盛んだったと想像できる。

●#206. 此度無別条相続被仰出候段 当方も歓喜不過之仕合に御座候
宇治慈心院門主から和歌山加納平三郎への手紙の下書き原稿。「御家内御安康に勤務されていますか承りたいです。さて平三郎様加納家の家督相続首尾よく仰付けられたことお聞きしました。当方も歓喜これに過ぎるものはありません。先より書中で早々御挨拶すべき所、無拠繁多の時節でした。吹上(和歌山武家屋敷)より御書面が来て愈々事大にて前後首尾を成就しこれまで延引しました。これより以後は万端申しつけ引き廻し頼みます。旦那頭は遠くに住居されていて及ばないこともありますが御頼みします。御意を得たく御礼申上ます。当方衆中人少なく御無沙汰し他行できずおりました。当年中にはそちらに下向のつもりです。御相続のお悦この如くです」。歓喜不過之:歓喜はこれに過ぎるものはない。無拠:よんどころない、他に頼めない重要な。引廻:指図して働かせる。和歌山武家屋敷の吹上車坂に住む加納平三郎は上醍醐寺の旦那衆の頭である。紀州藩家老加納平次右衛門家(4千石)ではないだろうか。この度家督相続するようだ。近日中には慈心院門主も宇治から和歌山へお祝いの挨拶に下向する意向のようだ。この文章は単語が大変勉強になった。#160に慈心院から加納平三郎への使者の文書あり。

●#205. 持病之痔強く差替え 御撫物之義は難勤故断申候 伴僧は請申候
別の寺院より慈心院への返事。「仰下されることは承知しました。先日も当方へ頭院より御撫物と伴僧を催すことになり連絡がありました。しかし持病の痔が悪く差替えしました、御撫物は担当できず断り伴僧は院内に4人居て僧が欠けても当院内にて出来そうなので、伴僧のみ請けました。そこに貴院よりの御書面ですけど」。撫物:なでもの、穢を除くための祈り、この時代は狐付などを除く祈祷を僧がおこなっていた。伴僧:導師に従う僧。頭院:上位の寺院。この前の手紙で慈心院より僧を派遣する依頼をしたようだ。それに対する返事で頭院の依頼の節痔が悪く撫物は断って伴僧のみ引き受けたことを書く。そこで伴僧のみはなんとかなりそうだとの返事のようだ。撫物のような悪鬼邪霊を除く祈祷はベテランの導師でないと難義であったようだ。長時間しゃべって祈祷するのは痔病があると大変であっただろう。#195では慈心院の僧がやはり痔病のようである。

●#202. 芸州不動院より御達し 貴公様のを私ひらき大くに失礼御用捨可被下候
藤井大膳より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「先日はお困りなされたと察し申上げます。さて芸州不動院よりの御達しを間違えて貴公様のものを私が開いてしまいおおいに失礼しました。御用捨下さい」。これをみて驚いた。上醍醐寺奉行といえるのは岸本内記だけと思っていたが他の寺からの手紙を開くことができる部下または同僚がいたからである。不動院は広島市東区にある真言宗別格本山の寺院である。芸州=安芸で現広島県の西半分である。浄土真宗安芸門徒で有名だが真言宗も活躍しているようだ。#159に浄土真宗安芸門徒。

●#201. 難有御沙汰頂戴仕候 御文庫之内壱折三十本御恵投忝奉存候
上醍醐寺塔頭より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「御手紙かたじけなく拝誦しました。御示教の如く厳寒の節、弥々御安全に御勤役なされ目出度いことです。さてこの度有難い御沙汰を頂戴し御祝いに御文庫の1折30本御恵投ありがたいことです。ここに別段に芳報申上べき所、先ずとりあえず略紙で御礼申上ます」。示教:示し教える。御恵投:恵み与える。扨々:さてさて。従是:これより。後音:後の手紙。修理したり普請するときは財政を握る奉行の沙汰(判定)が必要であった。よい沙汰をして貰い御祝いに文庫の1折、30本を御恵投してもらった。これは紙の1巻30本ではないだろうか。

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●#198. 御修法毎日御食料之儀 其須御入魂難有御座候
新春に醍醐寺の塔頭の1つから上醍醐寺慈心院在の奉行岸本内記への手紙。「春暖の季節愈々安全に御勤務御目出度いです。さて先日の御修法では中日と毎日の食料につきその時お世話いただきました。その御修法の後仰せられた旨承知しました。どうかこの度そのように取計りください」。愈:いよいよ。御修法:毎年1月8日-14日真言宗各派の重鎮により東寺で天皇安穏、皇祚無窮、国家鎮護を祈願する国家的行事で、空海以来1200年近く続いている。須=時。入魂:熱心に行う。得貴意度:きいをえたく、あなたの私に対する心をよくする。御修法には当然真言宗の醍醐寺の各塔頭の長が参加していたことがわかる。その際の食事や御馳走などは寺の担当奉行が準備していたわけである。「御修法の後仰せられた旨」は不明だが食事の準備の方法を少し変更することではないか。御修法中の中日は特別に御馳走が出たのだろうと思う。手紙は1750年前後のものである。

●#197. 貰候子は先親元へ差帰候 猶御出勤之上御談申取計候
醍醐寺の塔頭の1つより上醍醐寺奉行の岸本内記への手紙。「今朝御家の務めの方へ申上ましたが、最近貰った子供は親元へ差帰しました所、年長になるまで預かるよう仰られました。しかしそのようにはきっとならず年長後も前段申しました通り容易なことであります。あなたが御出勤後相談し御意見も承ます。今日の次第を早速御知らせしました。尚当方へ3つお尋ねのことはお答え置しました」。急度:きっと。寺院が奉行の紹介で子供を預かったが早々に帰した。奉行は年長になるまで預かるようにと言うが、そうはならないだろうから後でお話しに参ります。子供にも様々な性格があるし、寺院の修行と雑務は厳しい所もあろうから、全く合わないこともあろう。生身の人間同士である。馬にも全く訓練できない暴れ馬=悪馬があるのだから。

●#196. 此壱封乍御世話 御指出し被下候様御頼
伊勢久居の大福寺から上醍醐寺慈心院への手紙である。西村与助は取次ぎ役の人である。「一筆啓上します。残暑強いですが、御家内御安全に成されお目出度いです。去冬は芝居の立見でご一緒し大慶でした。さてこの一封御世話ですが差し出しくださるよう御頼します。急用の早飛脚で出しますから着き次第御殿へ御持参下さい」。立見:芝居を立って見ること。この一封は金だろう。御殿は他の書類から「醍醐御殿」で奉行がいた慈心院のこと。久居は久居市だったが現在は三重県津市の一部、大福寺は現存しないようだ。比較的読みやすい字である。

●#195. 貴僧様先頃より御痛所にて 被成御難義候由
岳西院などの他の塔中から慈心院門主への返事である。「御手紙拝誦しました。貴僧様先日より痛い所があって難儀されているとのこと。そして29日御通の時下山難儀にて御使僧(代わりの部下の僧)を私たちに差し向けることを御尋のこと承知しました。これは御使僧には言わないでください。貴僧の苦労も知らず連絡しませんでした。御保養が専要です。23日までに下山されるか否か処断下さい」。御通:おそらく長時間法要で仏前に座し発声すること。門主は痔ではないだろうか。

●#180. 野子無異在然候 乍恐御心安思召可被下候
上醍醐寺慈心院のおそらく僧が1750年頃受けた手紙。時候と健康の挨拶と最後に筆三本進上した手紙。野子:自分の謙譲語で下拙に同じ。ここの僧(おそらく雑掌)は重要でないと判断した文書ははさみで部分を切り取る習慣があったようだ。この文書は屏風の中張りにあったものでいわば捨てられていたもの。赤い字は不明の箇所。

●#179. 伊勢津飛脚問屋矢野屋吉三郎手代差扣へ居申候 御返翰出し如何
伊勢津飛脚問屋矢野屋の手代が上醍醐寺慈心院へ飛脚便を持ってきて控えている。慈心院の雑掌が座主に伝言。「伊勢津飛脚問屋矢野屋の吉三郎という手代がこの手紙をわざわざ持参しました。御返翰出されますなら待ちますと私方へ控えています。右失礼ながら(御伺いいたします)」。態々:わざわざ。手代:使用人。返翰=返簡:返信。扣:控え。特定の飛脚便の場合は返事があれば待合せしたことがわかる。この後は切れている。

●#177. 何卒不苦候はば此次弐三冊 拝借可奉願上候
上醍醐寺慈心院の奉行岸本右近に田中乕之進からの手紙。「雷鳴の後に晴れるかと思いましたが、そうならずうっとうしい天気です。さて昨日拝借した御本7冊返却します。御落掌下さい。今朝約束で置いた手紙通りに何卒よろしければこの次2-3冊までお貸しください 草々」。落掌:手に入れる。欝陶敷:うっとうしく。不苦:苦しからず。少し下位の武士だろう。この時代書物の貸借は盛んであったようだ。

●#164. 内記様へ 御茶之品御見舞得貴意候印迄
上醍醐寺の塔頭、密乗院より上醍醐寺の奉行の長、岸本内記への手紙。「手紙でもって貴意を得る所です。余寒戻り厳しくあります。御安康に御役勤められめでたいです。当寺の伽藍の件で厚く苦労して御沙汰を下されかたじけなく存じます。お陰で追々世間に義理が立ちます。この御茶はこの時節の品で御見舞いで、貴意を得る印に進上します。近々面会を調整します」。帋=紙。御陰:おかげ。義理が立つ:面目を保つ。ここには「得貴意」が3度も出る。訳は「あなたの私に対する心がよくなるように」の意味。①は手紙で、②は御茶進上で、③は近々面会にて。密乗院は岸本内記に大変気を遣っている。伽藍の整備でよい沙汰(判断)をしてもらって御蔭で面目を保ててうれしかった。下の母よりの手紙とは対照的。

●#163. 内記へ母より 飯米、炭、茶を御取寄被下候やうに願上候
1750年頃上醍醐寺の慈心院に住んだ醍醐寺とその塔頭、岳西院、密乗院、成身院などを管理する奉行の最上位は岸本内記であった。その人の母から内記への手紙である。「飯米2-3日の内に補充して増やしてください。炭も中頃には無くなるので申上ます。茶も少しも無いので10日過ぎに取寄せください。柔かい炭は火が付き易いと言われたのであなたが調えてくれれば1俵50文高値で目方も下であり気の毒ですが申上ます。みすみす損なことです。よくないですが、三俵ほど取寄せ下さい。段々に暖かになってくるのでこの春中に三俵あれば安心します。右申上ます」。みすみす=見す見す:解っていながら。最後の宛名の敬称は母からの手紙では「殿」が多いが、ここでは付けていない。力強い毅然としたお母さんである。炭には黒炭と白炭があって「柔かい炭」というのを初めて知った。確かに以前火鉢で見た炭は硬かった。焼肉の炭はたどんのように柔かく着火しやすい。炭1俵は15kg(4貫)で銀3匁=210文位だったらしい。ここでは1俵当り黒炭が白炭より50文高値であったと判る。女性のかな手紙は解読難が多いが、これはやや難はあるが大方読めた。

●#160. 道中にて間違為急変等御座候はば 紀州近きは連名方へ 上方は醍醐表へ
上醍醐寺慈心院雑掌が和歌山へ一人旅する使者に持たせた覚え書である。「この者は(御遣に)適合したといえない用事で和歌山の鈴木吉左衛門、加納平三郎殿へ遣わす人です。万一道中で間違いがあり急変があれば紀州の連名の方へ持っている書状を渡してください。急変がもし上方に近い所なら醍醐表迄お知らせ下さい。一人旅のことで御世話になることも考えられ念の為この書附を持たせます。伏見八百屋相右衛門方から出発し舟に乗ります」。この使者は病気があるのか使いに適さないと判断される人であったようだ。和歌山市に宇治、吹上という所はあり市街地である。「未壬」年は存在しないので別の文書よりこの年は辛未年=1751年=寛延4年であると思う。この時の慈心院雑掌は俊応である。慈心院雑掌は九月朔日に交代する。夏休み後の交代で英米の新学期と同じだね。この覚が醍醐寺慈心院に存在したことはこの使者が和歌山まで無事到着そして帰路も無事だったことを示すと思う、よかったね。雑掌:雑事掌握。不叶兼:叶いかねざる。難計:はかりがたく。為念:念のため。印は「證」あかしである。

栞 最後 

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●#140. 新春之御慶重畳目出度申納候 御越歳珍重御儀
田嶋景之進から慈心院への手紙。「新春のお喜び大変お目出度いことです。弥々御壮健に越年で珍重奉ります。私も無異に加年にて御安心下さい。今は兵衛殿も登山中なので御祝詞申上ます。尚後日お会いできる時を期待します」。重畳:重ねて。貴慮:あなたの思い。易:やすく。慈心院は京都市伏見区の醍醐寺である。醍醐寺には三宝院などのある下醍醐と上醍醐とがある。慈心院のあった上醍醐は標高450mの醍醐山頂付近にあり、まさに「登山」である、国宝の薬師堂、清瀧権現拝殿、五大堂などが立ち並び、近くで「醍醐水」が今も湧き出る。「上醍醐寺慈心院」と文書にあり、上醍醐の実務の所だったようだ。江戸時代ここには寺社奉行の武士が駐在していた。内容は典型的な新年の挨拶の手紙であり、他の文書より1750年頃の文書である。

<文書番号とタイトルの一覧>       上に戻る BACK TO TOP
#140. 新春之御慶重畳目出度申納候 御越歳珍重御儀
#160. 道中にて間違為急変等御座候はば 紀州近きは連名方へ 上方は醍醐表へ
#163. 内記へ母より 飯米、炭、茶を御取寄被下候やうに願上候
#164. 内記様へ 御茶之品御見舞得貴意候印迄
#177. 何卒不苦候はば此次弐三冊 拝借可奉願上候
#179. 伊勢津飛脚問屋矢野屋吉三郎手代差扣へ居申候 御返翰出し如何
#180. 野子無異在然候 乍恐御心安思召可被下候
#195. 貴僧様先頃より御痛所にて 被成御難義候由
#196. 此壱封乍御世話 御指出し被下候様御頼
#197. 貰候子は先親元へ差帰候 猶御出勤之上御談申取計候
#198. 御修法毎日御食料之儀 其須御入魂難有御座候
#200. 御吉慶千里同風重畳目出度申納候 御用向何分なり共無御遠慮御申越可被下候
#201. 難有御沙汰頂戴仕候 御文庫之内壱折三十本御恵投忝奉存候
#202. 芸州不動院より御達し 貴公様のを私ひらき大くに失礼御用捨可被下候
#205. 持病之痔強く差替え 御撫物之義は難勤故断申候 伴僧は請申候
#206. 此度無別条相続被仰出候段 当方も歓喜不過之仕合に御座候
#207. 切売のすいくわに無官のあつもりにて御座候
#212. とよ次事たんたん御世話とも忝存候 あらまし右近に御きき可被成候
#215. 御頼申上候絵讃之事 御世話不浅忝候
#216. 御きけんよくいついつ迄も相かわらす御出可被下候
#217. 慈心院方へ之書状之返事今に相届不申候
#221. ほしたら茶能書掛御目申候
#222. 明日東寺へ行向ひ候 御輿并召連候者之弁当三つ願上候
#223. 屏風之義被仰下候 年中は余日御座なく春早々仕置差上度候
#228. 被任例笋一折被為差出候処 甚満足致候
#229. 甚麁末之品殊に風味如何敷存候 任手製に進上仕度候
#230. 廻向のみ早々帰山奉存へく存候所 此間京着より腹薬又工面あり
#231. 此度菊之御紋遠慮可仕旨 五ケ院え従御門室仰渡候
#232. 雨一向ふり不申殊の外ひでりに御さ候 知行所なとは川水空に候
#233. 右六町昼前収納可致候事 御蔵入次第帰宅致させ可申候事
#234. 立木千本御払下 年賦弐石壱升宛十ケ年分無相違上納可致候
#235. 開山大師八百五十年忌来る丑の年也 依之諸役人下行米半減に定置候
#236. 人命大切之御事に奉存候に付 非人相果て候にて御届申上候
#237. 当御末流修験に相違無之候に付 願之通院号宝蔵院御許容被下候
#238. 来春御修法御参勤之義に付 舎利守御頼被申候
#239. 二条御城天守火災の関東御機嫌伺い惣代入用
#240. 房君様御誕生御祝餅 御頂戴被成可被下候
#241. 醍醐は往古差障も有之候由 御許容無之趣に相聞候
#242. 御出下され候もと入まいらせ候
#243. 熨斗目の義御了簡違御座候間 未申付候はば見合可申旨
#244. 繁丸容体書 大弁も一日に壱度つつ能々通仕申候
#245. 明日一言寺之御祈祷之御札 例之通差上候
#246. 紅紫之二色相除諸色之内 晴之儀にて情格別に何色を着用
#247. 余り長髪にも御座候は甚以失礼之至に御座候
#248. 此品時候御尋問之印迄に致進上之候
#249. 次後御出京も候はば 必々御逗留も候様奉存候
#251. 香水壺出来合に克合候壺被用候
#252. 御飛札拝見皆て大に驚入候
#253. 薬倍御用ひ少々御験も御座候御事や 宜思召候はば又差上可申候
#254. 御行法の御香水入申付候処 漸々五つ御間に合由に候
#255. 白赤水引、末広六本等 六ケ院様割壱ケ院様分三匁壱分九厘つつ
#256. 次第に病気指重候 養生不相叶病死仕候
#257. 加納為作殿仰日無相違心承仕候
#258. ぜひぜひちかのうち御はなしのみ いのりまいらせ候
#259. 御りよもしなから御心やすくおほしめしも遣候
#260. 銀壱貫四百目に候 六拾壱匁六分五厘かへ
#261. 銀札百六拾七匁三分八厘 当年より年壱俵之六ケ年賦に致置候
#262. 右蔵本去方より相望申人出来仕候 甚こまり申候
#263. 御上様ますます御きけんよく御入遊はし 御めてたく存上まいらせ候
#264. うみ山御はなし申上候へと存まいらせ候
#265. 上之思召にて休息帰り申候へ共 今日に至迄一日も休息は不致仕合に御座候
#268. 年頭御門室様献上之十帖入用覚
#269. 少し用事有之候に付 何卒暫遅参之義御願申上候
#273. 昨日無滞相済候趣に承大慶不過に奉存候
#274. 大元帥御撫物申出候義付 御吟味之上四ケ院不都合之言上仕候
#275. 門室御挨拶被下候はば忝奉存候 御執成上御指図偏に奉願入候
#276. 是十前後の注進并交右御道具目録
#277. 無拠用向出来仕候 昼迄之所御入魂御願申上度候
#278. 近日紀伊郡三草山にて所司代組与力同心 炮術稽古被申付候有
#279. 麻上下若し宿元へ帰り候はば 乍憚御登し可被下候
#280. 山上伽藍分出銀惣合
#281. 御見舞殊に被預御世話忝奉存候
#282. 御寿何かたも同じ御よに御にきにきしく 祝納まいらせ候
#283. いかさま五月中まては罷上り 緩々可得御意候
#284. いよいよ御かりなく御入候や きかまほしく存候
#285. 四軒に割壱軒方 右当廿五日迄に持参可有候
#286. 伽藍勘定帳御越 慥に落手御儀為趣致承知候
#287. 御門室様東上之儀如先報 広徘徊仕候様に御赦免
#288. 右引残銀受落可被成下候
#289. 醍醐寺御貸附の記録 〆銀弐拾弐貫五百九拾壱匁に御座候
#290. 只今御代参相勤申候間 御家司宜御披露可被下候
#291. ほうそうかろくいたし候様 御きとう被成可被下候
#292. 修験は冥加銀年之差出し可申候
#293. 蓮華光院様被為承大僧正宣下
#294. 乍御苦労御上京可被下候 鷹司様之出来 九条様之方不出来
#295. 恐入候得共何卒昼頃迄 御暇願上度奉存候
#296. 故郷へ帰り申候 伏見は通不申候間を思召可被下候
#297. 賎母義御尋問被下忝弥達者に罷在 頃日清水開帳罷登候
#298. 無御別条皆様御在府も成候 珍重不少候
#299. 清水忠門私迄窺暇候 相叶候儀に御座候哉
#300. 近来到着大酒御持賞被下 忝奉存候
#301. 十二日斎 こんにやく、白あへ、小いも、御飯等にて御座候
#302. 美濃南光院儀御家来修験に可被加候 御礼式にて参殿可被下候
#303. 僧衣注文 服、袷、襦袢にて御座候
#304. 寺社方役人月番に寺扈従に御座候
#305. 大僧正様益御機嫌克被為成 め出度奉存候
#306. 熨斗目作製五拾壱匁五分に御座候 手附金壱歩頂戴
#307. 京都に居候う迄は 御元のかほはかり存申上居候
#308. 銀百六拾壱匁九分此替 銭拾七貫四十一文に御座候
#309. 倍御清福被遊御座承度奉存候 私無事息才にて相暮候
#310. 御双院様益御平康可被遊御座候 珍重不少奉存候
#311. 御間暇も候はば茶相催申候 御勝手如何に候哉
#312. 松尾寺無宿当役 三輪山見分相済候段御届之趣
#313. 乍御苦労是非御下向可被下候 御不審御気遣と存候得共
#314. 小左衛門より只今人差越候 則来状相廻し候鳥渡返書相認候
#315. 用事無之候ても世間外聞も不宜候間 一度は必御下り被成候
#316. 御太刀馬代金壱枚 縮緬三巻二種壱荷献上
#317. 其地只今道中之御儀に候へば 何にても御答のみ罷成候
#318. 御ひふ飛色壱つ 右急々御仕立可被成候
#319. 五日発駕之早船帰城申候 借申付珍重奉存候
#320. 米五斗代三十匁 天満宮出銀三匁三分にて御座候
#321. 母様も此間少々御気に御中り 御薬御服用成候処
#322. 御苦労に存候得共 是非共貴院御下向無御座候ては
#323. 利足は月弐分年弐割四分にて 元利〆六拾五匁八分九厘に御座候
#324. 年始惣代等之算用書相渡候
#325. 明廿三日御使左右田氏被相勤候 態御入魂被致候
#326. 極密用、当薬御減之上は又々御大事に候間 何卒御無難も祈る義に御座候
#327. 助三郎方迄態飛札を以 為持指上申候
#328. 当春は八日より十四日迄御修法にて御座候
#329. 今日より上京仕候 年預代龍光院へ相頼置申候
#330. 暑候へとも弥御堅固暮被成候哉 御承度奉存候
#331. 此壱袋麁末之品に御座候得共 円成坊登山仕候御印に進献仕候
#332. 尚々城主御対顔之事如何候哉 無心元若し
#333. 断簡四報 改暦之御吉兆際限御座目出度申納候
#334. 断簡小報六報 御冬酢之儀御仰被下筋小徳利六つ差上候
#335. 銀十弐匁壱分壱厘 此米弐斗弐升壱夕を未進の内へ引申候
#336. 先方思ひ入も御座候故 年輩之方へ申遣し候方宜存候
#337. 御逝去に付従去る三日至来る十八日 女御様御慎に候
#338. 弐匁四分らうそく、七分御せん、弐匁五分御入用にて御座候
#339. 断簡小報五報 風邪御難儀承意候得共乍御大儀御下山頼入度候
#340. 断簡文末集六報 期永日之時萬々可申上候
#341. 断簡小報九報 御寺内人少に可有之候間 諸事御心附専一候
#342. 延紙白銀そうめん弐升樽むしかにて御座候
堀内宗心不寂斎 Horinouchi Soushin Hujakusai 1719-1767
#343. 余力ある時は手習よみ物第一に志を失ぬこそいみしかるへし
#344. 上醍醐寺慈心院年預雑掌之引継にて御座候 宥円、俊応、澄翁
#365. 新任御聞合之義 新参のひよっ子へにても被仰候て片付度申候
#380. 今日は是非出勤仕度存罷在哉 御尋に付御紙面之趣深奉畏候何分昼後出勤仕候
#543. 御申付被成候金物近々には出来仕候 手附二分金にて御座候
#546. 清瀬義も十二日死去致し候間 私宅忌ゑし致候
#572. 中﨟相成り候はば衆議之評定にも出席仕候
#574. うれしき御事御仰下れ候 幾久しくねかい上まいらせ候
#575. 旦那様わたくし一所にすまい致し候こと 心くるしきよし申され候
#595. 此度は御焼香御布施物如例被相渡候 大慶候
#601. 太子に御立無候ては 御立銀等も無も有候
#728. 殊に二人忘御日記付哉迄相見 はかはか無頼の悪僧
#868. 此度御大望之法印被上被成候由

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