南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
Since December 23, 2015
ホーム、古文書 #754- This is my home page associated with old writings #754-.
●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。マウスはゆっくりと動作を願います。1MBの膨大な作品です。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections
●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これはズームでポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections
●cssアニメーション カンが回転するアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上の
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/
●南竹 December 26, 2016
私は奈良県大和郡山市在住です。I am living at Yamatokoriyama in Nara prefecture, Japan. My nickname is Nanchiku.
●#963. 武家用文章 三 幸之連有之参宮仕度
丹後国与謝郡宮村の幸次郎が書写した武家用文章3通である。読み易い文章である。
●#962. 武家用文章 弐 御祝儀御酒一樽
丹後国与謝郡宮村の幸次郎が幕末頃書写した武家用文章4通である。御家流のきれいな字である。
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●#961. 武家用文章 壱 卒爾之経営に候
丹後国与謝郡宮村の幸次郎が書写した武家用文章5通である。卒爾の「卒」が「年」に似る形で解読に時間が懸った。
●#960. 庄五郎と永代返地約定証文
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1853年=嘉永6年に記した記録。最上院が百姓庄五郎から借金した利足に宛てる田を証文にして渡していた700束刈の内200束刈を返してもらう証文を書いた。最上院は庄五郎には多くの借金をしていた。
●#959. 御料百姓庄五郎二男分家之儀
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1853年=嘉永6年に記した記録。最上院領の百姓庄五郎の次男が分家する事につき願書を最上院役僧に提出したもの。最上院は特別に認可した。畑に家屋敷を作るのでそこの年貢とは別に大豆2斗5升の献金を納めることで解決している。又隣地の嘉門との約定で家の周囲に植木をしない様に確認した。
●#958. 無尽講三拾両壱丁前三両也
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年に記した無尽講と借用の記録。身内での無尽講はささやかなもので別の借用証文は頼母子講からの金を菊地嘉門から借用した。
●#957. 借用記録 八鍬村門三郎
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年に記した借用の記録。最上院右馬助が八鍬村地主国井門三郎に借りた金を記す。最上院の経済に門三郎の資金が重要であった。
●#956. 借用記録 八鍬村庄五郎
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年に記した借用の記録。最上院右馬助が八鍬村地主庄五郎に借りた金を経時的に記す。庄五郎、菊池嘉門は八鍬村第一の国井門三郎に次ぐ地主をめざして競争していたと思われる。また庄五郎は屋敷を畑地に建てたいとの願いを右馬助に許可されていた。
●#955. 借用証文 南蔵院殿利壱割五分
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年頃に記した借用証文の写し。最上院が南蔵院に借りた金を計算したもので珍しく「匁分厘」で書いた箇所がある。計算すると1両=60匁で銀の重量単位であった。東国出羽でも銀は使われていた。
●#954. 借用証文三通 此立附米四俵四斗也
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年頃に記した借用証文の写し3通。最上院が借用した相手には有名な人もいた。布川文五郎は慈恩寺三重塔を建立した事で今日に名が残る。
●#953. 借用証文四通 其訳達て御頼上
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年頃に記した借用証文の写し4通。右馬助の証文は他のものと比較して文章が丁寧できれいである。
●#952. 辞とは詩の如く物のあわれをこめて
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1836年=天保7年頃に書写した記録。書いたり述べたりする漢字の意味を記載したもの。本の記述を写したと思われる。約200年前のものだが、ほとんどは現代と同様に理解できる。
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●#951. 長伝寺田地訴訟 三 弥五右衛門返答と結論
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1861年=文久元年に書写した記録。1856年橋上村長伝寺が所持する小釿村の450束刈の田地を質地にして新好吉村の源助より11両を借用した。この田地は本金を準備すれば返す約束だった。今年2月に11両を調達して田地を返却してもらう準備ができたが素直にはそうならなかった。それへの長伝寺の訴訟に対する源助の証文を譲渡された小釿村名主の弥五右衛門の返答である。長伝寺は1857年迄に払い戻しがなければ田地を勝手にしてもよいとの約定を弥五右衛門に出したという。右馬助が最後に今年の年貢米の配分予想を記載。結論としてこの田地は長伝寺に戻ったに違いないと思う。
●#950. 長伝寺田地訴訟 弐 源助側返答
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1861年=文久元年に書写した記録。1856年橋上村長伝寺が所持する小釿村の450束刈の田地を質地にして新好吉村の源助より11両を借用した。この田地は本金を準備すればいつでも返す約束だった。今年2月に11両を調達して田地を返却してもらう準備ができたが素直にはそうならなかった。前回の長伝寺の訴訟書に対する源助側の返答である。詳細は図中に記載。
●#949. 長伝寺田地訴訟 壱 長伝寺の訴え
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1861年=文久元年に書写した記録。1856年橋上村長伝寺が所持する小釿村の450束刈の田地を質地にして新好吉村源助より11両を借用した。この田地は本金を準備すればいつでも返す約束だった。今年2月に11両を調達して田地を返却してもらう準備ができたが素直にはそうならなかった。それについての訴訟である。
●#948. 天保五年断簡五報 真覚院様御内
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年に書写した記録。断簡5報である。最上院は寛永寺子院の真覚院とは75両の借金をするなど親密な間柄であった。
●#947. 天保五年江戸参り 五 帰国前御礼と購入物
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸で書写した記録。右馬助らは訴訟の判決のため上京したが寺社奉行の判決なく7月に帰国した。その前に寛永寺執当への御礼と帰国前に様々な物を購入した記録である。物品の名前がおもしろい。
●#946. 凶作にて御府庫金の願出
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1837年=天保5年凶作で夫食米を百姓の供出し資金に困ったので寛永寺へ御府庫金の融資を願い出た。50両の融資が許可された。
●#945. 天保八年大坂大塩焼け
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1837年=天保8年2月起った大塩平八郎の乱の際の大坂の火事を書写した記録。大坂の地名に少々の誤記があるが、地図に照して見るに総じて正確な記載と思う。
●#944. 天保五年江戸参り 四 寺社奉行沙汰如何
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸に行き書写した記録。宝蔵院主亮空と山内役者3名の間の寺社奉行所への献上金に関する訴訟の行方は如何。寺社奉行の沙汰(判定)は延引の上すぐには成されなかったらしい。そして右馬助らは7月になり帰国した。寺社奉行所への献上金という寺社奉行がらみの微妙な訴訟であるから慎重になされただろう。
●#943. 天保五年江戸参り 三 役者返答書
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸に行き書写した記録。慈恩寺宝蔵院主亮空が山内役者3名に対して起した訴訟に対する役者3名の返答書である。
●#942. 天保五年江戸参り 弐 亮空訴状
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸に行き書写した記録。慈恩寺宝蔵院主亮空が山内役者3名に対して起した訴訟である。これは右馬助江戸行きの2ヶ月前に提出された。
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●#941. 天保五年江戸参り 壱 行き帰りの天気
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年に書写した記録。軽部右馬助は同年5月から7月2つの用事にて江戸へ滞在した。#916-923に1866年に主人、最上院主の交代で上京した記録は詳細を極めたが、これはその32年前のもので記載は簡略である。まず行きと帰りの主に天気を記したものである。
●#940. 会津藩士昌平黌狩野軍兵衛乱心三名死傷
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。同年会津藩家来で昌平黌の寮生、狩野軍兵衛が昌平黌内で1名を死亡、2名を負傷させた事件を記録した。この事件は藤岡屋日記や視聴草などに述べられるらしいが他にまとまった記述がない。しかし検索の中で断片から事件の内容を把握し、図中に解説した。右馬助の記録は一部異なっているが大筋はほぼ間違いない。この記録は事件後時間を置かず書いているので、結末は不明である。現代ではおそらくほとんど引用されなくなった事件であるが、天下の秀才が乱暴殺生をした事件は当時話題になった事であろう。この後ロバート・キャンベル氏の論文から転機が判明。狩野軍兵衛は、翌文政7年8月23日の幕府の沙汰までに獄死。負傷の2人は無罪。西村有蔵は斎長という素読手伝の藩士であった。ロバート・キャンベル氏:昌平黌北寮殺人事件、第18回国際日本文学研究集会研究発表、1994年。
●#939. 本郷御弓町本多大隅守様御屋敷
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。本多大隅守と屋敷のある本郷御弓町について調べた。4500石の寄合交代で本多帯刀または弥五郎と云い、江戸城での役職の時に本多大隅守を名乗った。この人の役職の出勤日も記される。右馬助は本多大隅守の屋敷で近所の上野高崎藩中屋敷住まいの侍、市川一角と共に面談している。右馬助は刀が好きなので古物鑑定の得意な侍や本多大隅守と歓談した。この本多屋敷には有名な刀研師も住んでいた(#934参照)。
●#938. 文政七年御老中様書留
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。1824年の時の老中を書き留めたもの。記載は正しい。
●#937. 文政六七年寛永寺月当番と壇越大名
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。文政6、7年の寛永寺の子院の月当番と思われる。学頭の凌雲院や東照宮別当の寒松院の重要な子院も差別なく入っている。さらに子院の住所やその壇越の大名、その大名の江戸上屋敷の場所が正確に記されている。事務方の筆頭は執当の2院が別にあるが、月当番はその下で種々の用事をしたと思われる。記載の大名をみると有力な外様大名が多く記載される。子院は全部で35位あったので、記載の22の子院以外にもあった。大名の江戸上屋敷の確認の作業は大変勉強になった。参考文献、横田知恵子氏:寛永寺の寺務組織について。
●#936. 三河町か出火にて
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。ここでは鼠小僧次郎吉と火事の事が書かれている。
●#935. 小報二通 まめのよふなる心
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。小報二通。右馬助の節分の和歌と二朱判吹替え、火事の言及である。
●#934. 研師村松喜兵衛の住所
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。村松喜兵衛と呼ばれる赤穂四十七士の子孫らしい刀研師の住所を地図で示した。この地図は江戸本郷のもので1853年の江戸地図で充分に確認できた。
●#933. 逃水とは
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。逃水(にげみず)について記したもの。
●#932. 千代田刃傷 旗本酒井山城守屋敷取上
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。江戸で1823年=文政6年千代田刃傷が起こり江戸城西の丸御書院番所詰の松平外記が同僚を4人殺害1人負傷させた。その事件について記している。1923年に麹町紀州藩上屋敷(現赤坂プリンスホテル)と周辺で火事があったが当時この火事は「赤坂やけ」と呼ばれた事がわかる。
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●#931. 御家流書家二名
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。江戸で当時有名な青蓮院流=御家流の書家2名、岩田夫山、蓮池堂文盟を挙げている。両者ともこの時故人となっている。
●#930. 狂歌集 恋歌
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年頃狂歌師作の恋歌を記したもの。江戸狂歌本選集第8巻(Google book)に多くの歌が掲載されており、解読の参考になった。各歌の詳細な意味については難しいものが多いので各人で検索を乞う。
●#929. 箏組曲菜蕗組 ふきといふも草
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。八橋検校作曲の箏組曲、菜蕗組(ふきぐみ)の歌詞を写したもの。7つの小曲より成る。地唄FANサイト「菜蕗」で地歌を聴ける。参考論文、西和子氏:秦箏語調の時代性 文教国文学 24:217-231,1989。
●#928. 短文七報 日本人参朝鮮人参
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。短文を7報提示した。右馬助は勉強に熱心な人である。PCのお蔭で記載内容が即座に調べられ、短時間でこれだけ理解できた私はよい時代に生まれたと感謝している。
●#927. 俳諧大意 芭蕉の門人の俳句
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。芭蕉翁の門人の句で右馬助が好きなものを書写したもの。詳細な解説は難しいので各個人で解釈を。
●#926. 俳諧大意 芭蕉の俳句
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。芭蕉翁の句で右馬助が好きなものを書写したもの。内3句は別人の句である。
●#925. 吉野山修験道と聖護院門跡
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。ある僧が1757年=宝暦7年増賞親王が天台宗聖護院門跡で大峯へ入峯した時に修験道の概念を記載したものである。この僧は聖護院門跡に呼ばれて吉野山に参加したに違いない。なお慈恩寺では江戸時代天台宗聖護院、真言宗醍醐寺に属さず独自の修験を近くの峯中で行っていた。
●#924. 白岩湯殿道普請の国村作俳句の碑
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。 慈恩寺近村の白岩村から湯殿山へ至る道に俳人国村の句碑がありその俳句を解説している。現存か否かは確認できなかった。
●#923. 在府中萬日記帳 八 帰国準備と餞別
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主が病気の幸導より幸広へ相続が許可され、諸行事は終了した。 帰国にて地元の人々よりの依頼品の購入が記され、最後に地元の人が最上院主に餞別を渡し祝った。これで在府日記のすべてを掲載し終えた。地名や地理が好なので検索は楽しかった。
●#922. 在府中萬日記帳 七 色衣の着用許容
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。色衣の着用許可も許可が得られた。改めて献上物を差し上げる。諸行事は終了した。
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●#921. 在府中萬日記帳 六 帽子の着用許容
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。輪王宮への面接の詳細と帽子、色衣の着用許可の達しが出された。ここに目的のすべてが達せられ最上院主より御馳走が出た。
●#920. 在府中萬日記帳 五 輪王寺宮に御目見
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。帽子、色衣の着用も許可が得られた。輪王寺宮に御目見する準備をする。
●#919. 在府中萬日記帳 四 跡目相続願上提出
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主の跡目相続願提出が2月27日に出来た。滞在中の買物や献上品について記す。
●#918. 在府中萬日記帳 三 跡目相続の準備
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主の跡目相続は寒松院門跡から良い返事が得られない。1月25日から2月7日の記録。右馬助は3月に重要な法要があり跡目相続が是非必要である訳柄書を提出しようとするが院代に制御される。
●#917. 在府中萬日記帳 弐 慈恩寺より江戸寒松院へ着
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主幸導から、幸広に跡継ぎすることに付き、上級寺の寒松院、寛永寺の執当に許可を得る事である。ここは慈恩寺から江戸上野へ登る途中の宿や名所の記載と寺社奉行への年頭挨拶の文書である。1月10日出発、1月21日に寛永寺着にて12日懸っている。記載の順善は寒松院主でなく幸広の事らしい、次回判明。
●#916. 在府中萬日記帳 壱 出発前準備 寛永寺寒松院
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。目的は最上院主幸導が病気のため隠退し、幸広に跡継ぎとすることに付き、上級寺の寒松院、さらに寛永寺の執当に許可を得る事であった。無事達せられたが多数の書状提出など準備が大変であった。初回は出発前の準備と寛永寺寒松院の内部構成の記述である。参考文献、横田知恵子氏:寛永寺の寺務組織について。
●#915. 御府庫金三百両拝借仕候処 内金百五十両は滞納
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した文久元年=1861年10月の記録。最上院は1851年財政に行き詰まり、300両を江戸上野寛永寺に借用した。1856年まで年30両づつで計150両返済したが以後滞納であった。その弁解の一札である。最上院主の家族の中で4年間に5人が死去していた。最上院主の名と交代の時が理解できた。参考文献、山形大学所蔵:慈恩寺最上院文書。
●#914. 谷地堰口先 岩石にて揚水刎返し
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が1857年=安政4年に記録した。谷地堰から取水する口に慈恩寺領の岩石が邪魔になって水が引けないので石をのぞきたいとの願書である。詳細は図中に解説した。
●#913. 三重塔成就 一山入仏供養
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した文政13年=1830年4月の記録。三重塔が完成し入仏供養で本尊を入れる儀式である。八鍬村の百姓や侍、僧が御輿に本尊を乗せて行列を成し、練り歩く。赤飯、酒が振舞われ、音楽もあって賑々しかった。#906、#905に三重塔再建の詳細文書あり。1830年に完成と一般にもよく知られている。
●#912. 林泉坊寺領百姓久米蔵を山刀で打つ 弐
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政11年=1828年に記録した。9月最上院所属の林泉坊が深慮なく寺領の箕輪村百姓久米蔵の頭を山刀で打ち、疵つける事件が起こった。事件受持ちの右馬助の意見は林泉坊にほとんど無視される。僧側は事件を江戸寺社奉行に挙げて解決を図るという意見が多かったが、最終的に百姓と僧側とで内済として事件取下げとなった。なお寺社奉行には献金しているので僧側にとって有利な判定が期待できた(#899参照)。
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●#911. 林泉坊寺領百姓久米蔵を山刀で打つ 壱
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政11年=1828年に記録した。9月最上院所属の林泉坊が深慮なく寺領の箕輪村百姓久米蔵の頭を山刀で打ち、疵つける事件が起こった。最上院役人の右馬助は事件を扱い検使する事になる。ここでは事件の詳細と医師の文書を掲載。
●#910. 文政十亥年七月廿三日 花蔵院地蔵尊開帳
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政10年=1827年に記録した。地蔵尊開帳であるが、諸堂の仏像を農民たちが拝礼する行事。また休憩の茶屋が出る。夏の24日の日限地蔵尊の祭りのようなものであろう。その時以前より真言方の宝蔵院と華蔵院対天台方最上院の間で本堂を荘厳に飾るか否かで争論があった。しかし別当最上院の意向で荘厳を行った。
●#909. 弥勒尊 安阿弥作 正観音 慈覚大師
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政13年=1830年に記録した。慈恩寺にある仏像とその作者の仏師を書いている。10中8つは検索でほぼ確認できた。有名な慈恩寺の薬師十二神将像も当時に存在する。仏像の作者は正確ではないであろうが当時は斯の如くに解釈されていた、興味深い。なお仏像写真と安置の場所の私の記述は完璧でなく一部誤認の可能性はある。
●#908. 盗難事件 弐 和田司儀純情者に付盗賊に落ず
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。文政13年=1830年4月に慈恩寺最上院支配下の和田治と同東林坊支配下の六郎治が主に最上院から品物を盗んだ疑いがあり。この件は尾花沢代官から六郎治は帳除の追放になる恐れありとされた。右馬助が吟味を引き継ぐ事になり、両者は盗賊としないように考案した。六郎治は癪の病気になり吟味も進まない。時は過ぎ10月に盗品は尾花沢代官が検分する事になり右馬助は盗品のリストを作りこれらは最上院の什物であると記した。後でこれらの品は最上院に帰る事になる。和田治と六郎治の処分は不明であるが、#907よりおそらく右馬助は事案を盗賊事件として報告しなかったと思われる。さらに両者は右馬助の所属する寺の配下の者達であるのできびしい処分はなかったに違いない。
●#907. 盗難事件 壱 和田司六郎治儀盗賊有之候哉
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。文政13年=1830年4月に慈恩寺最上院支配下の和田治と同東林坊支配下の六郎治が主に最上院から品物を盗んだ疑いがあり。盗品は新庄の円満寺の鳳凰の羽と他様々である。鳳凰の羽は円満寺に返却された。他は和田治、六郎治から尾花沢の林崎徳左衛門の宅にあり、以後売り捌く予定であったらしい。そのうち両者は尾花沢代官所に逮捕される。僧の事は寺社奉行の管轄でもあり吟味を右馬助が主導で行う事になった。右馬助は自分の配下である両者を盗賊にしないように考慮する。
●#906. 文政十亥年七月三重塔再建 土搗有之地祭
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。文政10年=1827年に慈恩寺三重塔の再建のため地鎮祭と敷地の土搗を行った様子である。#905の1823年=文政6年に慈恩寺三重塔が焼失し、その4年後の事である。この三重塔は3年かけて完成し、1830年=文政13年に入仏供養した。大工棟梁は慈恩寺大工布川文五郎で木挽棟梁は志田小太郎である。
●#905. 宝蔵院家来源司郎火元にて 三重塔焼失
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が1854年頃書写し所持した記録2通。宝蔵院の家来、源司郎の火元で1823年=文政6年に慈恩寺三重塔が焼失した。1830年に三重塔は再建し入仏供養した。欠所となって日和田村で謹慎中の源司郎を許し、寺内に戻してやって欲しいとの禅林坊より一山役所への請願の写しである。他は禅林坊が三重塔再建の費用負担100両の内30両の不足となり、15両はなんとか集めたがあとは8月までに納めるとの一山役所への書付である。
●#904. 湯殿山法流真言宗 可為理運に相聞候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が1854年頃書写し所持した記録。慈恩寺の近在にある羽黒山宝前院別当の天宥、天台宗は湯殿山の4寺(大日坊、注連寺、本道寺、大日寺)、真言宗を改宗させ羽黒山に服従させようと1665年=寛文5年幕府に訴訟した。これは幕府寺社奉行、老中が湯殿山、真言宗の勝ちと判定した「勝状」の写しである。湯殿山本道寺と大日寺は慈恩寺の宝蔵院(真言宗)の末寺であったので慈恩寺最上院、天台宗から見て「勝ち」と判断した。なお明治維新後は記載の羽黒山、湯殿山は出羽三山神社の出羽神社、湯殿山神社となり諸寺は消失した。
●#903. 願人延命坊隠居聟求馬共々 御旦那様え
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した安政元年=1854年の記録。最上院所属の48坊中の1つ、延命坊が隠居し、聟の求馬が跡を継ぐ事になった。最上院の最高位幸導に挨拶し盃を交わした。その時の頂戴物が銀一枚=銀43匁である。最上院からは金300疋=金3分を差上で、ほぼ同額の金を返礼した事がわかる。寺所属の坊が家督継承の時の上級寺との交渉である。
●#902. 戌亥の方 山より弐間計り上にはうぎほし出る
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。嘉永6年=1853年の様々な事が記される。この年は米国ペリー来訪、彗星出現、将軍死去など様々な事件があった。世間の風説が記され多くは流言飛語のでたらめであったとわかる。現代でさえ「嘘言妄想」が跋扈しているのだから当然である。参考論文:杉岳志氏、「近世の人々の彗星観をめぐって」。
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●#901. 当院勝手之義に付直支配可致
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。最上院の支配地が増えたのでそこの田の世話を最上院の家来達で手伝いするとの記録。
●#900. 衆徒一同御目見願 相不叶候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。1837年より1840年、慈恩寺衆徒が上京し寺社奉行と老中に将軍御目見を願った願書を出した事が書かれる。願書は受付られ審議されたが、御目見は実現しなかった。#899のように慈恩寺は寺社奉行に忠実に礼金を入れており、寺院の格上げのため将軍に御目見したかったが不叶、残念。
●#899. 酉年十月寺社奉行所より 最上院花蔵院へ御差紙
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。慈恩寺より年頭の御礼に江戸の寺社奉行に礼金を渡していた。その計算は石高割で行い、最上院は2.25両余であった(文書1)。しかし礼金とは別に特別に召喚状が来て江戸の寺社奉行へ登る事もあった。文書2で1850年は寺社奉行に合計10両を御礼に渡している。それは石高が高い最上院が年番の時になると書いている。寺社奉行としては高い収入を認めてやるのだから礼金も多くするのは当然との思いであろう。
●#898. 嶋高屋村川除御普請 割合御朱印高へ懸り
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。嶋村と高屋村で川除の工事をした費用の内最上院と華蔵院の持分の負担を寒河江役所が請求した。その計算書の写しである。全部で14両位であり、2ヶ月後までにすべて支払っている。
●#897. 橋本石地蔵堂之事 此度六尺四面に置直
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。慈恩寺最上院内の橋本坊の地蔵に堂を6尺四方に作りたいとの願書。
●#896. 且又目立候木は御用木に立置候様
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。慈恩寺内の他者の地の木を伐った時の規則の古い記録を書写したもの。#894で華蔵院所属の僧が右馬助の地の松を伐っている。
●#895. 金百拾七両弐朱 横帳に書立御披露申上
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。1841年より門三郎に借用していた金子に付証文を作る。1848年に改めて証文を作る、計算して117両2朱になった。この利足米も改めて書き入れた。右馬助は経済をよくみてしっかりした人であるが、仕事上借用金が要用であったとわかる。門三郎は右馬助を熟知しており500両までなら貸しますと言及する。
●#894. 花蔵院にて弐ノ宿山切取候一件
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。文政10年=1827年華蔵院が右馬介領地との境界で松の木を2本伐った。その顛末につき熟談の末、内済となったとの文書を当山役所に届けた。当山役所は慈恩寺内の訴訟や紛争を裁く所で真言宗と天台宗とで構成するようだ。
●#893. 証文金御寄附被成 永壇越之可有掲焉候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。鹿嶋林村の七郎兵衛の悴、7歳の朝太が最上院役人の家来になる。まず江戸寛永寺に登って許可を得る、そして右馬助らに酒肴代を振舞う。その後朝太が21歳になり宗判の事になるが、宗判しなかった。朝太27歳になり再度宗判の話しとなり七郎兵衛が最上院内の宝徳寺(時宗)へ7両祠堂料の布施をし宝徳寺に登録となった。なお朝太はこの後36歳で八鍬村の寺領代官工藤喜兵衛に乱暴を働き訴訟となっている。宗判の確立には戸主としての安定と寄附金が必要で「壇越の掲焉」と呼ばれた。
●#892. 右之御田地講受候処 実正明白に御座候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した天保10年=1839年の記録である。吉川村の万十郎が金銭に困り、所持の最上院領の田を質に9両を受けた。寺社領の借用証文はこのように金を貸す人と借用人が共に寺社の役人宛に出しているのが興味深い。後にこの文書は江戸の東叡山寛永寺に保存されたと記される。
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●#891. 長泉寺より五合つつ 相加い納にいたし候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。#884に慈恩寺が所持する八鍬村西の土地に長泉寺が建った。その際の替地の内庄三郎分は長泉寺より大豆5合を加えて納めることになっていると記している。
●#890. 右畑屋敷に成 間数以下に御座候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士右馬助が所持した記録である。大豆畑に屋敷を作る例が3つ示される。広さは60-90坪であり、比較的容易に許可されたようだ。屋敷の税額は大豆1升とあり、安いようだ。一方米、大豆の生産高への税は高い、#888では70%である。東北地方で仙台藩領磐井郡曽慶村でも同様に70%が標準だった(#845)。
●#889. 拙僧持役向其外要用に差支 無拠貴殿え御頼
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が写した記録。1859年12月宝林坊が軽部右馬介に2.5両の借金をした。その際に利足を宝林坊が所持する田からの年貢米で宛てるとの証文である。1860年より1864年子年暮に返済予定とあり5年間である。文書では1863年亥年3月に改めて同額借金した証文を書いている、加判の人が変わったからだろう。
●#888. 三左衛門年々不納相嵩み 不埒之筋に付
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が1824年=文政7年に書いた記録。楯西村百姓三右衛門が嶋村に持つ田の年貢を長年最上院へ不納にしていた。慈恩寺は寒河江役所へ不埒として催促する。そこで組頭と名主が証文を慈恩寺役人に挙げた、内容は20俵を即納め、残りの租税は以後10年賦で納めるとする。記録はその写しである。ここで慈恩寺最上院領の租税率は70%と判明した。
●#887. 寺領百姓人別帳当山へ可相納之処 寒河江役所へも
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が書いた記録である。記録は3部に分けられる。1780年慈恩寺最上院の領地の八鍬村と小釿村の百姓は人別帳を幕府領代官所、寒河江役所に挙げていた。最上院に人別帳を挙げない時があったので最上院に挙げる事で結末していた。しかしその後も特に小釿の百姓は寒河江役所に人別帳を挙げており事件の吟味などを望んだ。67年後その事につき寒河江役所で最上院と今後どうするのか話し合う事になった。そして最上院で小釿の事はすべて扱うと確認した。さて小釿村の隣村、左沢領橋上村で不埒な者が出ており、それに小釿村より訴えがあるがどうするかとなった。その後21日後左沢側から最上院へ連絡して事件を扱う事になった。
●#886. 左沢沢ノ住兵郎正則 短刀三本打せる
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が所持した1850年頃の記録4通である。右馬助は刀を村山郡左沢(あてらざわ)の兵郎という刀匠に関連した刀工に打たせるのを好んだ。脇差で金1両2分位の値段であり、たくさん注文している。
●#885. 奥州街道にて帰国中に御座候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した1846年=弘化3年頃の記録である。右馬助は江戸から山形への旅行中に旅の途中で宿泊した宿場を記載しようと思い立つ。現在地は福島県郡山の1つ手前の間の宿、滑川宿である。奥州街道から山形へ至る道程の宿場は正確に記載されている。
●#884. 寺地之分より一向納め無之様にいたし候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した1846年=弘化3年頃の記録である。慈恩寺が所持していた八鍬村西の土地に長泉寺が建った。その際替地として100文地から年貢が来るはずであるが納入がないと書いている。長泉寺は現在も同地に存在する。
●#883. 大豆九升三合つつ 年々滞り
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した1846年=弘化3年の記録で2通ある。慈恩寺最上院の僧宝蔵坊が長年年貢の大豆不納であった百姓を支配する名主に対して大豆納入の催促をする手紙である。これはそれを写し、保存したものである。図中記載を訂正、ここの大豆1俵=10升と別文書で判明した。#884参照。
●#882. かなつかひの事 をはおとは異なる也
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記した「かなつかひ」の記録。1846年頃の記録である。この時期はまだ「ゐ、ゑ、を」は「い、え、お」と発音が異なっていたとわかる。また「ひ、ふ、へ、ほ」と書いては「い、う、え、を」と発音される実例が述べられる。発音は同じでも書式が異なる事が「かなつかひ」である。今でも「へ」は「え」、「は」は「わ」と読まれる例が残る。
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●#881. 火あり一つかね等の事有 神おろし可致候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記した記録。1848年=弘化5年に境内で火が見えたり、一つ鐘が聞こえたりした。慈恩寺村でも差火があった。寺での祈祷とともに、寺の庭などで神降ろしをする事になった。神降ろしは8日続いて神は熊野に帰った。幕末頃は気味の悪い事が続く時は寺でも近在の村人と共に神降ろしをして厄除けをする事がわかる。
●#880. 八せんま日母倉ちいみ 佐重生る
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記した記録。1845年=弘化2年に妻のくらさんから女児佐重ちゃんが生れた。この時代女児出産時の記載で日の干支と八専が重要な要素であった。八専間日は凶日でなく嬉しかったのではないか。
●#879. 在原行平老年に及んと 芹川行幸御供仰付られ
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。在原行平の和歌を学習した事を帳面に記したものである。解説は図中に示した。文章は1845年から1850年代である。
●#878. 無沙汰に右場所に手入 水道堀立被成候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。慈恩寺の3院の1つ宝蔵院の僧が1850年=嘉永3年に日和田村の村役に出した手紙の写しである。醍醐にある寺領の川欠の田を日和田村の農民が無断で水道堀にしてしまった。それに対し抗議する内容である。醍醐は寒河江川べりにあり、その荒田を水の通る堀にしてしまった。
●#877. 十死中一生之程も無覚束候得共
岡崎意次より仲長実右衛門への手紙。時代は明治以降である。病人で危篤の人が仲長氏周辺に居り、また岡崎氏は近日中帰国するらしい。一点物にて関連の文書がないので詳細不明である。
●#876. くらに入込候て品々盗取候所 甚難渋仕候
大和国葛下郡五ケ所村、現奈良県香芝市五ケ所の庄屋彦三郎所持の文書。同村の与次兵衛が彦三郎と共に他人の蔵から盗みをして盗んだ物品を南都奉行へ報告し、御暇(おいとま)を乞うている。御暇とは追放の刑罰である。一家に子が4人居るが今後どうなるのだろうか。1808年=文化5年の文書。五ケ所村は大和郡山藩の支配であった。
●#875. 御苦労被下候段 奉謝候
次田存菴より宇山老医師への感謝の手紙。医師は#863の詩人宇山立昌の息子宇山俊三氏と思う。宇山氏は外科医であったがここは次田存菴を往診している。時期は明治時代末期であろう。文末解読難の箇所あり。「頓首」は特徴的でこのままで覚えるべき形。
●#874. 旦暮物語 その四 無能なる子孫へ交書に渡す也
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。今回は最終の4回目。公用で勤める時は先任者によく尋ね、落度ないようにする。下部(しもべ)に仕事させる時は情を持って接する。公用は先方をたて、自分を押える。後書に懸案の物語を子孫のために書いた、そして智恵ある人がこれを見て子に対する深い人情を察してくれる事を願うとある。この時代は堪忍と自分の考えを押し出さないという思想が大変強かったと判る。
●#873. 旦暮物語 その三 喧嘩口論計多く家おさまらす
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。今回は3回目。内容は友人との交わりでは争わない。また下部など人を使う時は長所を見てうまく使うべきだ。家内も喧嘩などなく夫婦睦まじくする。普請や道具に金を使うには資産に応じてすべき。我国の和を大切にする思想は寛政の時代から主流であると判る。
●#872. 旦暮物語 その弐 皆堪忍をもて和熟なるへし
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。今回は2回目。内容は前半は父母の病気、看病と死去の時の子供の心得。後半は夫婦の中の事で双方堪忍が大切と説く。
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●#871. 旦暮物語 その壱 父母に孝
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。良作はおそらく百姓で村役であろう。字は総じて分明である。この初回では子と父母の関係について語る。子は成長したらわがままになり父母に冷たくする。また父母は年も寄ると弱気になり子や嫁に心遣いする。子は父母に幼少時分より育てられた高恩を忘れないように。旦暮とは「旦夕に迫る」で病気などで衰弱し死期が間近に迫っているとの意味と思われ、その時に語りたかった事を記したと思われる。
●#870. 紫縮面 三つ割四尺六寸
石見国大田辺の商人宮本屋祐一郎が所持した覚。京都の近江屋から様々な布を購買している。1尺当りの値段が記される。卯年は他の文書より1867年=慶応3年である。布の読みで不明のものが多い。金1両=銀72匁位であった。「三つ割」の表現は1を3で割った0.333を意味していた。
●#869. 夜具は近々被致工面 只今有之候
上醍醐寺の手紙の断簡である。道具持参で職人が泊りで来るようだ。夜具を工面したと書かれる。
●#868. 此度御大望之法印被上被成候由
上醍醐寺慈心院の延順座主への祝いの手紙の断簡。おそらく法印に昇進したのだろうと思う。字は難読であり、小さい字の行は追伸であるが解読できていないので省略している。
●#867. 賞翫無限候 御礼迄
武士が古い手紙を学習して書いた文章。字に癖があり、短いが解読に大変時間がかかったもの。手紙と贈り物を貰ったことへの御礼の文章。「床しき」は芳札に懸かる。
●#866. 江戸表御取建にも 其元がきまり不申候ては
武士の手紙で相手は兄弟であろうと思う。大体は解読できたが断簡でかつ破損箇所もあり。また手紙の前後関係も不明にて総意の理解がやや難である。おそらく彦根藩の明塚家の手紙である。
●#865. 清楽義は去年隠居いたし候故 躮宗助より
近江屋伝兵衛に出された手紙の原稿で筆者、宗助が手元に置いたものである。筆者は京都でお歌を教えているらしい。父清楽が隠退して躮(せがれ)の自分が跡を継いだ。近江屋伝兵衛は近江に国元があり京都七条に店がある。金子につき伝兵衛の息子源次郎と交渉した事が書かれる。近江屋伝兵衛は清楽に歌を習っているらしい。訂正があり原稿保存となった文書である。
●#864. 御母上様益御健可被為入
小津権右衛門より細田九郎右衛門への手紙。短い手紙ながら解読難の所が多く最近何とか解読できた文書。小津権右衛門は花押があり武士であろう。そして両者は兄弟らしい。他の関連文書はなく背景の詳細は不明。
●#863. 新宮より熊野川遡上仕候 御両岸之山水秀美
原口誼三郎より宇山立昌への手紙の返事である。自分が熊野へ旅行した事、宇山氏の多くの漢詩を受け取り読んだ事、漢詩全般の事など書かれる。検索で両者は淡路出身で漢詩を得意とした。明治20年代から30年代前半頃の手紙である。やや難解な箇所あり。
●#862. 御状御仕切書御登せ被下 難有拝見仕候
京都の針問屋みすや針の主人福井伊予掾が江戸日本橋大伝馬町の針問屋住吉屋長右衛門へ出した返書の原稿である。江戸の針屋仲間衆が京都みすや針の主人福井伊予掾に針の商品を注文して、商品が江戸へ到着した後で差引清算書を送付した。それが#682の手紙と#681「江戸仲間衆より京都針問屋への唐針差引書」である、駄賃を半々持にした事や品不足が住吉屋長右衛門の手紙#682に書かれている。それへの返事であるが、文を間違えたので差し出さず原稿にして手元に残したものである。訂正で難読の部分がある。
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●#861. あかこうやくのひてん 長吉丹五拾目
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。傷口や傷む部位に貼付する赤膏薬の成分を書いた文書である。赤色の色素に鉛丹を使った。詳細は図中に記した。各成分を混和、加熱し練って作った。成分に一部不明のものあり。
●#860. かや弐拾七丸 忠七殿かり
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が書いたかや(茅)を借りた記録。単位として「丸」が記される。「把」は片手でつかんだ量。「丸」は丸抱えのことで両手で抱えた量で「束」と同じと思う。記載の人の内、六右衛門だけは惣兵衛組の組合員らしい。他は別の組や他の村の所属の人でかやを借りた時に記したらしい。
●#859. 「受取申候以上」の諸形 省略に決まった形あり
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。#857で「受取」の形を理解したが、他の文書を見て「受取申候以上」の諸形を集めて検討した。すべて同一の肝入佐一郎の家のもので如何に字を省略しているかがよく理解できた。#857と#856の文書も是非参照を乞う。
●#858. 御手形百八拾五切 八分三厘也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書2通。幕末近くの頃の支払いである。「切」が使用され仙台藩の支配の最後の頃の文書である。
●#857. 板紅花頼母子金の受取に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書7通。木を善四郎らが売り渡した文書3通、頼母子金を肝入が受け取った旨の文書2通、紅花を善四郎らが注文した文書2通である。ここの「受取」の字形が独特であり合字のようになっている。彦左衛門、権三郎は#847に記載あり善四郎組の者である。
●#856. 大石平組受持良作殿 肝入左一郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。この文書2通でこの善四郎組の正式名は「大石平組」と判明。また「水下人足」は用水に関る仕事であった。大石平という地名がたしかに明治3年まではあった。おそらく隣組の地名字大森に併合されたと思う。受取の「取」が独特の形。
●#855. 短報四通 拝借籾大麦の返納に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書4通。拝借米と大麦を大原村と大泉村の蔵に返納する文書2通である。#847には米と麦を拝借した文書がある。他残金の計算と急用にて明日集合の文書2通である。
●#854. 三切借金弐十一ケ年後 十五切六分也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。借金の計算の文書である。3切を21年間借りた後、年20%の利率で15.6切になった。#174には年率18%の記載あり。幕末年利1割2分=12%迄ともあるが、利息制限法は年利15-20%迄なので大変高い利率とは言えない。
●#853. 大原御蔵 御建替俵御巻返方人足に候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。肝入佐一郎の記載した文書2通。大原村にある雑穀の蔵の建替をするので茅(かや)、わら、縄を準備して6人が作業、屋根の修理らしい。構成員は17人にて惣兵衛組と大森組の合計である、#847参照。費用は等分で負担する。他はゆるんだ俵の巻返をして直す作業である。
●#852. 塩三俵 気仙沼より八日町にて此駄ちん
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した塩の文書2通。塩はもちろん生活必需の食品、ナトリウムは神経細胞や筋肉の細胞の働きに欠かせない元素であり、不足すると体に力が入らない。仙台藩領の内陸にある曽慶村にはその東南にある太平洋岸気仙沼から主に塩が輸入されていた。値段は塩1俵は藩札2切であった。加えてにがり(マグネシウム塩)も運ばれ大豆から豆腐を作るのに使われた。
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●#851. 短報断簡七通 二夜三日五穀成就之御祈祷
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。短報断簡七通である。すべて肝入からの受取や上納に関する催促である。室根山での祈祷は#791、地図は#780に掲載。
●#850. 二百十日前祭之次第 如何と御吟味
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。肝入喜兵衛より組頭への廻状。大嵐で川堤の決壊などや二百十日の前祭の事が書かれている。#801に二百十日の前祭りはできないだろうと掲載されている。二百十日:旧暦9月1日頃で台風が多い時期で厄日である。
●#849. 肝入殿よりの人足の依頼にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。各種人足に善四郎組の者が召出された記録である。人足とは荷物の運搬や普請などの力仕事に従事する労働である。すべて近辺の村や宿場での仕事であり、仙台藩に賦役として課税されていたものであり、肝入を通じて派遣を命じられていた。#847の善四郎組と大森組と両方の組の者が記される。
●#848. 御山方懸り 御手形四切御役人様
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。山を管理する役人を肝入等が接待した時の費用らしい。5分割にしたのは各組の負担分を計算したと思う。普請などで木を使用するので必要な経費であったに違いない。
●#847. 拝借米、大麦と組の者共にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。幕末近くの頃拝借米大麦を仙台藩の蔵から拝借した文書4通である。善四郎の組と大森組とは共に文章を記す仲の隣組であった。7-10名が記される。
●#846. 裁量夫喰拝借面附
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。幕末近くの頃夫喰米を拝借する願書の控えである。ここの10名中6番目嘉吉までが善四郎の組である。利右衛門以後は大森組と呼ばれ善四郎組の隣組でしばしば一緒に行動していた。食料に不足があったので願書を書いている。
●#845. 曽慶村知行所侍への年貢の推移
1728年から1870年まで継続して曽慶村知行所侍への年貢の文書が存在しているのでまとめた。最も注目はすべての年で米税率は生産高の60-70%であった。大豆の租税は米の20-80%で大体半額であった。仙台藩の藩札「切」は一般に金1/4両といわれるが、この村では両は全く使われず銭と切が使われ、1切が銭何文になるかが大事で多くの文書で記されていた。一般に1切=銭1000-1500文だが1786年から1810年には1切=5000文と高値だった。この時期銭は米に対しても弱かった。明治3年が記録の最後であり、明治4年には廃藩置県となったので納税の新ルールとなった筈である。
●#844. 大豆三斗 此金四切壱分壱厘
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。1869年=明治2年の租税計算を提示する。文書は詳細であり、畑の大豆値段は1切=7.3升の交換率と明示される。忠右衛門は善四郎の組のno2の人である。この知行侍への年貢の領収書は翌年明治3年が最後である、明治4年には廃藩置県となった。
●#843. つなきは肝入殿の知行様への接待費用にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。1735年の租税計算で惣四郎は惣兵衛の曽祖父である。論文より「つなき=つなぎ」の意味が判明した。肝入が代官所の武士との交渉や検見の時の接待を行う時の費用であり、村民が共同で負担する費用である。武士と農民の「つなぎ」に要する肝入のための費用ということだろう。#836に各種つなきを掲載している。また「1銭懸け」は肝入の取る手数料であった。参考論文、浦川清雄氏「宝暦年間の仙台藩の農家の生活」。
●#842. 米の年貢率は七分に御座候 畑大豆の年貢は米より安く在候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。惣兵衛の父、惣右衛門の時の租税計算で1780年前後である。米、田の租税の基準が「卯七分」とあり前の卯年より70%であることが明示され、値はそのまま生産米の7割で計算。一方畑、大豆の租税は生産高升当りの銭文にて8.63文/升で1738年(#839)の値、8.05文/升に近似の値だった。田の税の34.7%となり、#839の40%と同様に畑は田の3-4割の税額で安い。田の年貢率と異なり畑の税は銭で計算する、よって銭相場が安い時は「増代」として租税銭文を増やして調整する。相場は1切=1350文。
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●#841. 上納米は薄衣御蔵送り 残米は知行所送りに御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。善四郎1世の時で1753年または1765年である。#839で不明であった上納米と残米の違いがこの文書で判明した。上納は薄衣村の御蔵に納める米でその他は残石で知行所の侍行きの米である。米価は#839と同様に薄衣納が少しだけ高値。相場は1切=1080文。
●#840. 旦那様之御賄代 五色小役 ぬかわら代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1773年か1761年のもので善四郎1世である。ここでも10俵の値段らしい記述が11切と示され1俵=4.46斗となり、他の文書で見られる1俵=4.4-4.7斗に合致した。この10俵の値段記入は1780年以降はみられなくなる。土地の石高は書かれていない。相場は1切=1360文であった。
●#839. 仙台藩にて高百七拾五文は石高壱石七斗五升也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1738年=元文3年のもので惣四郎の時のもの。この時点で「高田代百弐拾五文」の意味が石高125升=1石2斗5升の意味であると「貫高制」の検索でわかった。要するに他藩と異なり、江戸時代になっても仙台藩は特例でこの記載習慣が通して継承された。これで「高」が記載のある文書では租税率=年貢米/生産米が計算できることが判明したので次回詳しく検討予定。ここでは年貢率は69.6%、相場は1切=銭670文。また米10俵の値段が上納米と残米で異なるので計算したが、両方とも1俵の米粒量は米4.5斗で他の#838、#837などと同じである。また米価の銭文/升は少し上納米が残米より高かった。税額を田と畑で比較した計算も施行した、畑の税額は田の税額の丁度4割、40%であり、田よりかなり低かった。
●#838. 拾三切弐分也は米拾俵の値に無相違御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1744年=延享元年のもので惣四郎の時。ここでは相場は1切は銭1060文。米10俵の値段は13.2切と書かれる。1俵の量は4.44斗となり#835の4.5斗、#837の4.67斗に近い値となった。また米価の別表現、銭文/升は31.4であった、これは#830の1743年では23.5であった。他の年も調べたがこの米価は20-40文/升の間で変動した。
●#837. 御年貢米壱石壱斗九升 但拾俵九切置也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1735年=享保20年のもので善四郎の1世で幕末の善四郎2世とは異なる人である。この時は惣四郎が組頭であったがおそらく留守で子の善四郎1世が代行したに違いない。ここでは相場は1切1300文。米10俵の値段9切と書かれる。1俵の量はどうか、4.67斗となり#835の4.5斗よりわずかに多かった。
●#836. 享保拾六年 右之通一宇済切候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。1731年と1734年の組頭九郎兵衛及び惣四郎が受けたものを提示する。代相場の金1切の銭の交換率は#835、#834にも記しているが、1750年以前は1000-1500文の間であった。他租税の「つなき」が不明、武士の生計のつなぎに必要な租税かも知れない。
●#835. 代惣場壱貫弐百五十文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が所持した文書。肝煎更治より組頭九郎兵衛が受けた皆済の書面。さる年は#826より1年前の1728年=享保13年で一番古い文書と思う。#823、#826にも見えた代相場(代惣場)がここにもあり、古くから金1切の銭の交換率の値であったと判る。尚当時米1俵は4.5斗であったことが記される。
●#834. 組頭惣右衛門殿の時の御年貢に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の文書で惣右衛門の時ものを提示する。この人は1772年-1794年に組頭を勤めた。惣兵衛の父であったと思われる。なお1切=金1/4両である。次回はこの人の父であった善四郎1世を提示する予定。
●#833. 仙台藩では金粉拾分は金一両に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が保持した文書。肝入の佐一郎から金粉を納めるよう催促である。この文章での金粉の分、厘、毛の単位の基準がわかった。「分」は本来1/10を表す語である。金粉の1分=1/10両である。東海道では金1分=1/4両であるので注意が必要である。惣兵衛と肝入佐一郎より年代は1842年から1854年迄の間である。ただこれは年貢の計算では金粉の1分=1/10切である。
●#832. 弥御家内様中 御機嫌能被成
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が源兵衛から受けた手紙。源兵衛は惣兵衛と大変親しい人でおそらく親類ではないか。「様」に女筆の字と普通の字の両方を使っている。
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●#831. 惣兵衛殿 右之通受取申候以上 地肝入新十郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が組頭の文書3部の租税の計算書である。惣兵衛は長い期間当主として活躍していたことがわかる。最後に各種文書からわかるこの組頭の家の当主の推移を示す。代相場とは手形金1切が銭何文かを示す値で寛政、文化初期の時代は4000文と非常に高い数字だった、その他の時期は800-1800文であった。高ければ仙台藩の藩札「切」が全国の銭に対して強かった事を表している。
●#830. 米壱升に付廿三と五にて米税の銭の計算也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した文書で下記#827などと同様の租税の計算書である。これは組頭が惣四郎の時のもので年号「い年」は1743年=寛保3年である。1切=1180文が計算でき、この文書の右下に書かれた意味が税計算の率であると完全に理解できた。この年曽慶村では租税米1升につき銭23.5文の租税額であり、他の年の税額もこのようにして計算していたに違いない。この税計算率の記入はこの文書のみなので貴重なものである。これはおそらく当時の米の価額だろうと思う。
●#829. けふしは御里入遊し 限りなふ御めてたく
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。婚後礼の部屋見舞の手紙とその返事である。
●#828. 金八切弐朱と代六百拾七文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した文書で下記#827などと同様の租税の計算書である。1865年=慶応元年の新しい文書である。この文書で仙台藩の租税の単位「切」が出るが金1切=金4朱であると判る。また#824でみえた「金粉」という仙台藩で使われた租税単位がここでもみえる。分厘毛で表現するが金1分=3.75gの金粉の量である。これは東海道の金の「分」が1/4両であるのと異なる。仙台藩の金粉の「分」は1/10両である、これは後に判明する、#833を参照。
●#827. 宝暦元年十二月 御年貢受取印切申候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。太郎右衛門が肝煎久左衛門より1751年=宝暦元年に受けた租税の計算書。太郎右衛門は#818の寛延4年=1751年の文書にも出るが短い間のみで早世した人かもしれない。
●#826. 享保拾四年十一月 五色小役、ぬかわら代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書で他と同様租税の計算書である。1729年=享保14年の最も古い文書で名前は九郎兵衛である。#823の惣四郎は1737年なのでその父らしい。古い順で九郎兵衛、惣四郎、九平、惣兵衛、善四郎と組頭は相続されたようだ。この時は金1切=1300文である、この数字は仙台藩の経済事情により大きく変動した。金1切はまた1/4両である。
●#825. 百拾壱文畑方 三百八拾九文今代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭九平が受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍、成田金之丞に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1789年=天明9年である。九平は惣兵衛の父であろうか。#823の惣四郎は年号1737年より祖父らしい。#817、#808、#793に同様の文書。#793にて成田氏はここの地主で古くより世襲であったとわかる。
●#824. 安政六年分東山曽慶村 御蔵入本地御年貢下札
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎父子が所持した文書。1859年=安政6年万蔵の年貢を記録したものである。この「御蔵入」とは仙台藩直轄の田の租税である。他の文書は知行の侍の税計算である。ここで「金粉」という仙台藩で使われた租税単位が判明した。分厘毛で表現したもので、1分=3.75gであり金1両=金10分である。#833参照。
東海道筋は金1両=4分。仙台藩では「半切」、「切」もあった、興味深い。仙台藩の武士、日野九郎左衛門と本郷幸衛門は仙台市史に確認できる人物で幕末に実在した。#818は同様の文書で寛延4年=1751年の古いものである。
●#823. 高三百五拾七文 惣四郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣四郎が肝煎利左衛門より受けた書面。惣四郎は惣兵衛の祖父か父であろう。仙台藩の郡奉行の侍に上納する金を計算して受け取ったという内容で#793、#808と同様である。年号は1737年=元文2年でかなり古いものである。計算より金1切=銭720文であったと判る。
●#822. きのふ見し はなもけふちる風あれど
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎の子孫が所持した書。「世の中」を入れた狂歌的短歌4首。字体より明治時代の文書で善四郎の子孫が書いたと思う。
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●#821. ちらちらと梅から明し小庭哉
不明の人が書いた俳句10首。やや不明の箇所もあるが概ね解読できると思う。時代は字形より明治時代であろう。
●#820. 地形書入を以頼母子金相預証文事
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。頼母子講の䦰(くじ)に当った人が大金を受け取った時に書く証文2通である。各講中に毎年掛け金を払います。払えなかったら所持の土地を口入に渡し、以後掛け金を口入に渡します。以上の内容である。口入は保証人として金を講中に渡す人である。1861年=文久元年と1863年=文久三年の文書である。
●#819. 入用に附貴殿方より拝借仕候処実正に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した借用書。1861年=文久元年のもので年利は16%=1割6分であった。
●#818. 寛延四年分東山曽慶村御蔵入 新田御年貢下札
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎父子が所持した文書。寛延4年=1751年仙台藩の武士、高左太夫らが太郎左衛門の年貢を記載したもので、肝入の裏書がある。惣兵衛の父か祖父の惣四郎が所持したもので太郎左衛門は同じ組の百姓であろうと思う。「御蔵入」とは仙台藩直轄の田の租税である。#817など他の文書は知行の侍の税計算である。270年前の古い記録。
●#817. 〆金四切と代四貫弐百七拾六文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が本肝入運之介より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍、横沢位十郎に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1816年=文化13年である。1切=1750文である。#793と同様の交換率である、そこでは「両」としていた。しかしここは「切」で1両=4切である。よって1両=7000文になる。
●#816. 今頃に金代も相廻候節に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した手紙。仙台藩の肝入から組頭への手紙で武家から金子を貸して貰えなかったのが、ここで金子が借用できることになったようだ。卯兵衛、善吉、行蔵と善四郎の関係は不明。大意はつかめたが字は難読で誤読もあると思う。
●#815. 不納之分大急可済候中 当残上納御首尾
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎が加勢の善十郎から受けた手紙の断簡。上納金の残りの分を至急準備して欲しいとの内容である。
●#814. 御地走にても御忝次第に奉存候
八郎右衛門より陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣四郎への手紙。惣四郎は善四郎の祖父に違いない、父は惣兵衛である。1800年頃の手紙。大意は御馳走への御礼と古今集かを貸してほしいという内容。字は難読で破損の箇所もあり、誤読もあると思う。
●#813. 御手形拾壱切也 金弐両弐朱也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の惣兵衛、善四郎親子が肝入佐一郎より受けた受取書と大原村の蔵の準備書である。「金」の字が多様の形であり興味深い。
●#812. 譲り渡し申候家屋敷之事
町屋の家屋敷を売り渡す証文である。家の場所や隣の人も書かれている。銀800匁=金13.3両位である。白銀町は各地にあり、どこかは不明。最後1-2行が切れている。
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●#811. 江戸迄登る人三日先に立 此人壱日に十里つつ歩行
出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人軽部氏の所持した算法の書附。1817年=文化14年に書かれた。これは追いかけ算の問題である。
●#810. 杉形構卅俵あり高八俵あり 此数形何程
出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人軽部氏の所持した算法の書附。1817年=文化14年に書かれた。杉形に積まれた俵の数を計算する方法である。これは我々には普通の台形の面積の計算法。下の#809の説明よりも分り易い。
●#809. 杉形下の構八俵上のとまり五俵之時 惣数何程
出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人軽部氏の所持した算法の書附。1817年=文化14年に書かれた。杉形に積まれた俵の数を計算する方法である。やや複雑にみえるが丁稚に理解させるため、正三角の俵積みから計算して差引く方法を示したもの。
●#808. 成田様御分 塙喜三郎様御分
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎周治より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍3名に上納する金を計算して受け取ったという内容で#793と同様である。年号は1819年=文政2年である。
●#807. 安政六年分諸上物勘定
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入喜兵衛より組頭善四郎への1859年=安政6年の諸上物の勘定書である。計算書の指引勘定は図中に説明。ここで「切」という仙台藩特有の手形金の単位があることが判明した。1切=銭400文である。さらに4切=金1両の変換率であるらしい。
●#806. 昨日罷出数々御面子情に預り 此段奉万謝候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎の子孫が所持した手紙。善四郎の子孫の姓は不明であるが、「岩淵」、「奥山」両氏は近郷を支配した旧家である。年号は1894年(明治27年)で岩淵ふりえさんが奥山家へ入籍するとの内容であろう。
●#805. 組合嘉吉与次郎母始年符金 不納得様之御事
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入喜兵衛より組頭善四郎への手紙。冬の上物ができず御免合の者を召連るように、また嘉吉、与次郎が頼母子の年符金を差出す様にという内容。
●#804. 高壱貫文と当秋半ケ年御買受
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入の喜兵衛より組頭善四郎への手紙。1貫文と当秋半年分とを組員から取立てほしいとの内容。
●#803. 手紙二報 大原にて御條目御教授其上母始
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎が所持した短報2通。図中に解説。
●#802. 半蔵様にも御機丈夫に被成御座候段 御同慶
彦根藩士で江戸勤務の岩佐弥八郎より彦根藩士明塚又左衛門への手紙。又左衛門は半蔵の親とわかる。内容は長い挨拶と荷物を宿舎に送ってもらった物を受け取った事等が書かれる。虫食いで紙が痛んでおり、字も大変難読で長期に未解読であったがやっと把握できた。
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●#801. 二百十日余り指懸り如何様に可仕候哉
陸奥国磐井郡曽慶村組頭幸次郎から同組頭四郎右衛門への添付書面。別に廻紙があり二百十日の厄日に室根神社(#780に掲載)に神酒か心付を供えて祈祷をするかを組頭で会合をする旨であるに違いない。二百十日は台風が多く米が収穫前に損害を受ける時期。この文書はさらに組頭善四郎に廻状され保存された。
●#800. 改暦四拾七冊 此代壱冊三拾五文つつ
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が受けた所持した文書。年が代り各組の構成人の納める年貢の帳面を配る覚でその代金は35文。惣兵衛は先頭に書かれるので最年長であったようだ。
●#799. 尚当冬済諸上物懸り 御組合一定皆済勘定書別紙
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の喜兵衛より組頭惣兵衛か善四郎への手紙。12月での皆済勘定書が済んだ事、また頼母子講金の事など書かれる。
●#798. 壱ケ年夫之半ケ年夫 御割合被仰渡候
おそらく陸奥国磐井郡曽慶村肝入喜兵衛より組頭善四郎への手紙。参府があるのでその年符を払うがここで半年分を各人から取り立て右代金をこちらに渡して欲しいという内容である。
●#797. 廿八日御郡奉行様 上奥玉村より大原御会所え御返り
陸奥国磐井郡曽慶村の組頭善四郎が所持した文書。肝入からの手紙で郡奉行が上奥玉村から柳峠、曽慶村を通り大原会所に向かうことの連絡である。#784も郡奉行が曽慶村を通る文書である。
●#796. 札銭之義は米大豆小豆にても宜敷候
村民が檀家である寺から、陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが受けた書面。年末の札銭を納める様に催促した文書である。銭でなくても米などでよいと書く。寺の名は書かれていない。
●#795. 右之通当御買受御割分 被仰渡候処
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の喜兵衛より組頭善四郎への手紙。今年の年貢での米1升の買取値段を1貫257文とするので取立するようにとの内容。
●#794. 気仙石来廿八日御受物被成下段 被仰渡候間
陸奥国磐井郡曽慶村肝入佐一郎より組頭善四郎への手紙。組の万蔵と六右衛門の米を気仙送りにするので、大原町嘉吉へ大急ぎで詰送るため俵こしらえする様にとの内容。米はさらに気仙から仙台に送られると思われる。
●#793. 三口合金半切と丸取五百拾七文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎田治より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍3名に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1817年=文化14年であった。#786と同様「半切」という単位が使われ、この時は1切=1750文であった。これは仙台藩特有の手形金の単位で4切=金1両である。各金の細目は読み違えがある可能性あり。
●#792. 小子も外に後世も無く 濁酒沢山呑払居候
陸奥国磐井郡曽慶村明神の田治より組頭惣兵衛への手紙。惣兵衛は善四郎の父。田治は肝入である。惣兵衛は西口村の友宅に滞留している。今晩は当方に宿泊に来て欲しい、自分は後世に残す物事もなく濁酒を飲んでいるとの手紙。時期は文化14年頃である。
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●#791. 来年順候五穀成就之ため 室根山におゐて開白二夜三日之御祈祷
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の佐一郎より組頭善四郎らへの手紙。今年の年貢、直接支配の北代官所の侍への納金など少なくない額が必要である。組で首尾よくして決めて欲しいとの内容。また追伸では来年の豊作を願って武士が祈祷したと書かれる。
●#790. 御横目様明朔日御昼前我等宅にて 御教壇被成下候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎佐一郎より受けた書面。郡奉行配下の武士の横目付が来て村民に教授するので明日昼飯後来るようにとの内容である。
●#789. 先も触渡候田植方之義 当日中苗留之義に申談候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎佐一郎より受けた書面。田植前で苗留する日取に付いての廻状である。この状は廻され各組頭名の下に文や印、丸印が記されている。
●#788. 見詰金上納相成候様 頼入御吟味御首尾相成候
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の佐一郎より組頭惣兵衛への手紙。惣兵衛は善四郎の父。今年の年貢、直接支配の武士への納金、蔵入米をどのようにするか。組で相談して決めて欲しいとの内容。難読でやや不明の箇所もあるが大体の意味は判明できた。肝入と組頭の間の手紙は互いに字の癖がよくわかっているので第三者には読みづらい。
●#787. 壱人代百四拾文宛 来る廿二日迄に相送り呉候様
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎佐一郎より受けた書面。才口村の留平へ何かの費用を渡すので1人140文宛集めて欲しいとの内容である。猿沢村が代表でどこかへ収める金のようである。
●#786. 四貫五百八拾三文 冬割
仮肝入の喜兵衛より組頭善四郎への冬の村への納め分の計算書である。市民税のようなものである。仙台藩支配地曽慶村では金の勘定は切(1両の4分の1)、分(1両の10分の1)、厘(100分の1)、毛(1000分の1)と10進法であった。さらに銭の「文」であるが、ここでは1切=銭1600文であり時代により変動したが1切=1000-1500文位であった。また1切=1/4両であるので東海道筋などの1両=銭4000-6000文と比較して同じ銭であったようである。年号は1859年=安政6年12月である。
●#785. 御婚礼御首尾よく御調あそはし 幾万歳もの
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。婚礼のお祝いの手紙とその返事である。
●#784. 御郡奉行様当来候九日 曽慶村通り下打壁村へ
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。支配者仙台藩の郡奉行が曽慶村を通って下打壁村へ行くので村の掃除と木の伐採、当日の早朝の集合を連絡している。
●#783. 連日照続水不足 御百姓共一統迷惑に相及候に付
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛(善四郎の父)らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。大肝煎の及川芳一郎から申渡された。連日の日照で水不足。竜神の雨乞、さらに大原八幡神社にて祈祷を二夜三日行う。結願の日は精進して参詣するようにと書く。
●#782. もちたるかたてをずぼりときれば あいたたとなんとした
地歌の「綱(つな)」で増補まつのこゑ(1809年刊、南竹所蔵本)から紹介する。羅生門で渡辺綱という侍が茨木童子という鬼の腕を切る所。起源が平家物語で1300年頃の物語。仮名で難解な箇所がある。箏唄及地唄全集(Googlebooks)を参照した。
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●#781. 残半高分御塩くり 早速取立上物上殿可有之事
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。曽慶村より春に納める塩の未納が半高あったが秋に上物で納めるようにと書く書面が大肝煎の中津山直三郎より申渡された。そして春物が質が低いものだったので上物を今集めて準備するようにとする。肝煎千万佐一郎がこれを書写して各組頭に渡したものが掲載の書である。難読の文書にて誤読もありそうであるが総意は間違ない。中津山直三郎は曽慶村に近い大東町猿沢に住んだ大肝煎でかつ俳人であった。
●#780. 室根山本宮御屋根替方 諸色御人足御割合
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が佐一郎から受けた手紙。近くの室根山の本宮の屋根を葺き替えるに当っての村の百姓の負担など覚を書いたものである。縄の長さは尋が単位である。近所の折壁村にも話をしたと書く。全体に解読難であった。内容もやや不明があるが全体の内容は把握できた。貨幣単位は「永」又は「銀」であろう。室根神社は現存している。
●#779. 当方以御蔭無異消光罷在候条 御休意可被下候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。藤木常久より松尾為美、為教への手紙。藤木常久は東京に居る神社関連の人。なぜなら京都を「御地へ行幸」と書いているので。手紙のように1877年=明治10年に確かに天皇は京都に行幸した(図に解説)。そして松尾相克はこの時天皇に供奉した。相克は松尾神社関連の人でありこの手紙はその時に托されたものである。また藤木常氏(多分息子)が京都で松尾為美の世話になっている。この手紙は天皇の京都行幸など大変勉強になった。字はきっちり整然としており高い教養の人である。
●#778. 聖護院森地所売却金之義は 御廻金相成候哉
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主の松尾相顕から松尾為美への手紙。相顕は相完より、為美は豊前より家督を継いだ明治初年頃のもの。松尾相顕は東京府に貫属となった。維新で非蔵人職や瀧尾、登世など周囲の人々の所属する戸籍簿を決める必要があった。聖護院の森売却も同時期であったとわかる。
●#777. 豊前様へ御書付御出し承り候 其御書付しはらく御まへ様え御預り
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。中村歌より松尾豊前の妻おとわへの手紙。先日は御馳走になって長居して有難い。また中納言の事で周囲の人々が豊前への書付を提出したが、この書付はどうか豊前に披露しないで預かっておいて欲しい。以上の内容である。中村家は不明ながら松尾家同様非蔵人の家柄ではないだろうか。
●#776. 是迄心得違仕居候 向後急度改心情勤可仕候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。義質より松尾豊前への誓約書である。明治維新直前の慶応4年=1868年のものである。義質は豊前の家来であった人に違いない。家来に不始末があるとこのような誓約を提出させた。#771には「家来が1人もいなかったので豊前が大立腹した」とあり、この関連かも知れない。#763にも家来の不始末の許容を乞う文書あり、やはり楷書で書かれている。
●#775. くこんのすきな様に 扨々私事しんはいいたし候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。千代より松尾豊前の妻おとわへの短い手紙。#772のように千代は松尾家に日用品を調達する人であった。ここは豊前が酒好きなので、また馬に懸る金も必要であり心配であるとの手紙。#774には豊前の酒の覚があり。
●#774. 酒金弐両三分也 伊丹壱樽
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。酒屋能儀から松尾豊前への酒の覚、及び小松屋の酒代請求覚。能儀は酒の産地は「伊丹」と記す。能儀は出雲国能儀郡の関連の人だろうか。松尾豊前は「井戸豊前」とも呼ばれていた。松尾豊前は酒飲みであった。
●#773. 七百七十弐文 三きれふきん 壱尺百廿文きれ
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。続いて千代より松尾豊前への覚書。#770、#771に登場の千代は松尾家にこのように様々な日用品を調達したり雑用など世話をする御用商人であった。ここにもあんどう(行灯)、ふりき=ブリキの火皿が出ている。「加賀藩京都屋敷」には御用商人による様々な記録を掲載している。
●#772. ふりき火皿八百文 金弐朱と弐百文さら下駄
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。千代より松尾豊前の妻おとわへ覚。#771に登場の千代は松尾家にこのように様々な日用品を調達する御用商人であった。幕末にはふりき=ブリキがすでにあった。
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●#771. 豊前様御出もむまもろともに 大あめにて大ぬれ
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。千代よりおそらく松尾豊前の妻おとわへの手紙。千代は松尾家に日用品を調達する人であった。竹の子を貰った御礼。豊前が店に来たが雨で馬具や馬もびしょぬれになった。そこで着物など調達した事など書く。
●#770. 不存寄蒙御沙汰難有 恐縮罷在尚宜希入候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。相顕、光敬から松尾為美への返事の手紙。「義兄」とあり義兄弟の間柄である。為美(ためよし?)は明治初期に豊前を継いで当主となった人である。
●#769. 早く拝顔仕度候間 左様御承引可被下候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。積依から松尾凌秋(豊前のことか)への手紙。近日年内にお会いしたいという内容である。
●#768. 惣油壱丁 代弐両弐朱に御座候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。油屋庄兵衛が書いた油の覚で松尾豊前宛である。「丁」の単位が不明ながら「斗」と同じと思われる。
●#767. 御留主中に付 猶御帰館之上及御披前
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。公家の四条家の執事から松尾豊前への返事の手紙。蕨1盛を送ってもらったけれど主人が留主なので帰館したら披露します。以上の内容である。
●#766. 分賜米取向之儀に付 御約定之通辰半刻頃
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。重寛から松尾豊前への手紙。重寛は「松尾義兄」と書いており血縁である。下間は浄土真宗の者だろうか。宮中から特別の分賜米を受け取るので明後日午前9時実印持参下さい。以上の内容である。重寛は豊前同様に宮中に仕えている人であろう。
●#765. 右之通り此金壱両三分弐朱と百八拾九文
京都大丸店清八から宮中の雑用職、非蔵人の松尾豊前への覚。内容は白縮面6.5単位の請求書である。1868年=辰年=慶応4年の文書で金1両=銀99匁=銭6452文であった。江戸大丸店の文書は#162、#591、#193に掲載、江戸店と京都店の印の違いを参照してほしい。
●#764. 岳父も丹羽迄行向置候間
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。三条実美に仕えていた村上右兵衛大尉から松尾豊前への返事の手紙。村上右兵衛大尉は#763の村上左兵衛大尉の養子らしい。図中に解説。
●#763. 急度改心謹慎 格外之御憐愍寛太之御沙汰を
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。三条実美に仕えていた村上左兵衛大尉から松尾豊前への返事の手紙。及び松尾豊前より三条実美へ差し出した手紙の原稿。内容は図中に記載。
●#762. 卒爾奉拝眉度 先此より中西家に罷出候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。神部能登介から松尾豊前への手紙。今日中西家に同伴で行きましょう、加賀藩主も来るが、詳細は拝顔の時に話します。以上の内容である、字はやや難読である。
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●#761. 絹針御注文 早速調達仕候て差上候筈之処
針問屋から京都三条通河原町西入ルに現存する針屋老舗みすや針の幕末の頃の主人福井伊予掾(いよのじょう)への手紙。旧冬注文を受けた品物がそちらに早春に着いてよかった。また新しく注文を受けた絹針、細物が延引しているが近日中に出来上がるのでできたら急ぎ送るとの内容。しかしこの所絹針製造の者が高値を言って来ているので以後よく考えて欲しいと書く。最後1-2行分が切れているが予測して書いた。関連文書は#678-#686に掲載済。
●#760. 過日は御留主中え参上 預御馳走深難有奉存候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主、相完の子相隆から松尾豊前への手紙。蕨を貰った御礼と御馳走になった御礼で、親の相完は留主だった。桧箕の代金1両2歩とあり明治になる直前頃のもの。
●#759. 御用透御見合にて御退出懸 御入来希入候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。これは京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。自分は森元条所へ移居したので近日御入来を願うとの内容。相完は自分を「森松尾」と書いている。森は「聖護院の森」で聖護院の事、名字は松尾を名乗っていた。鴨川から東へ京大医学部付属病院を越えて聖護院にかけて「聖護院の森」=錦林が広がっていた。名門の京都第四錦林小学校の名の由来がわかり、今も現存するのは嬉しい。一方我故郷の古い小学校は統合で消失してしまった。
●#758. 不相替蕨沢山被下 深忝奉存候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。蕨を沢山貰った御礼の手紙である。
●#757. 今般熊野社神主筆生之侭 兼勤被申付重々難有
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。記載に京都府、神祇官とあり明治元年から明治4年の間に書かれた。相完は熊野神社神主と政府仕官を兼帯している。「筆生」など明治初年頃に使用された単語が勉強になる。
●#756. 還奉知にて多端之御用向には御座候 私義は気丈
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。これは京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。記載より1868年=明治元年12月のもの。相完、松尾豊前は共に皇族の伏見宮邦家親王の子供達の転居などの世話をしていたことがわかる。参考論文:京都大学附属図書館、「井戸松尾家文書仮目録について」。
●#755. 御顔直させられ 限りなふ御めてたく存まいらせ候
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。結納祝いの手紙と返事である。御嬢様の意味の「五もじ」がある。#224、#431、#646にも同じ意味で掲載があった。
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●#754. 此度誰殿田舎へ有付被申候 御苦労相伴御出被成候
武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれていた筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。この度「誰殿」が退隠で田舎に住み着くのでお祝いの御馳走をするに友人に同席を依頼する手紙である。
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