南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
Since December 23, 2015

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ホーム、古文書 #754- This is my home page associated with old writings #754-.

ここには#754以後の古文書が掲載されています。古文書 #1-#250は「古文書 #1-#250」に、#251-#500は「古文書 #251-#500」に、古文書 #501-#753は「古文書 #501-#753」にあります。

日本画、書、和歌、俳句、古文書の個人収蔵の作品のウェブサイトです。特に江戸時代の文化を支えた多くの人々が登場します。著名な人、歴史的事件に関係した人、名のみ残る人、無名の人など様々ですが、本邦の天災や戦乱にも耐え150年以上の時を経て平成のこの時代に作品が残っています。我々のDNAは彼らから連なっていますが、作品を見るとほのぼのとして来ます。作品はすべて私が所有するコレクションです。そして特に記載していないものは手書き(肉筆)作品です。 コメントは個人的見解、すなわち私が作品を見て調べて理解したことを記入したものです。この道の権威(オーソリティー)を介して承認されたものではありません。ここで発刊本や他のサイトが一般公開した画像の部分を使用しておりますが、それを中心に論考することはしません。引用部分は青色の枠で囲みました。個人の美術趣味の範囲で私の所有作品の論考が主でその参考に掲載させていただいたものです。このサイトではコマーシャルの掲載などでの利益は全く無いですのでよろしくご理解ください。このサイトはKCNの一般向けサーバーを介して発信しています。
それにしても古文書解読は面白い。多様な江戸時代の文書を読み、サイトに上げる時は一段深い考察、記載を要求されるので大変学習になる。
この学習は自発的なものなので楽しい。人の精神的な健全さには時間を忘れて熱中できるものが必要であると思う。ホームページを構成し発展させるのもその対象のひとつである。
最後に学習に当って早稲田大学所蔵の沢山のデジタル資料に大いに御世話になっているので深く感謝の意をここに表すものであります。
Please take a rest and enjoy Japanese paintings, calligraphies, haiku, waka and old writings made in the Edo period. All of the works belongs to my collection and was hand-written excluding the one specified like "wood-block print". The comments are just what I understand from viewing and studying the works. Therefore, these comments have not passed a check of the authorized persons yet. I love studying these works and old writings. We need a pretty strong feeling of interest while forgetting the time passing. It is necessary for a sound mind. I also love proceeding with this home page of mine. It is a big fun and fan. I am very grateful to Waseda University for the digital resources.

文書番号とタイトルの一覧(上) 文書番号とタイトルの一覧(下)

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。マウスはゆっくりと動作を願います。1MBの膨大な作品です。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これはズームでポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション カンが回転するアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

●南竹 December 26, 2016
私は奈良県大和郡山市在住です。I am living at Yamatokoriyama in Nara prefecture, Japan. My nickname is Nanchiku.





 

●#963. 武家用文章 三 幸之連有之参宮仕度
丹後国与謝郡宮村の幸次郎が書写した武家用文章3通である。読み易い文章である。

●#962. 武家用文章 弐 御祝儀御酒一樽
丹後国与謝郡宮村の幸次郎が幕末頃書写した武家用文章4通である。御家流のきれいな字である。

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●#961. 武家用文章 壱 卒爾之経営に候
丹後国与謝郡宮村の幸次郎が書写した武家用文章5通である。卒爾の「卒」が「年」に似る形で解読に時間が懸った。

●#960. 庄五郎と永代返地約定証文
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1853年=嘉永6年に記した記録。最上院が百姓庄五郎から借金した利足に宛てる田を証文にして渡していた700束刈の内200束刈を返してもらう証文を書いた。最上院は庄五郎には多くの借金をしていた。

●#959. 御料百姓庄五郎二男分家之儀
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1853年=嘉永6年に記した記録。最上院領の百姓庄五郎の次男が分家する事につき願書を最上院役僧に提出したもの。最上院は特別に認可した。畑に家屋敷を作るのでそこの年貢とは別に大豆2斗5升の献金を納めることで解決している。又隣地の嘉門との約定で家の周囲に植木をしない様に確認した。

●#958. 無尽講三拾両壱丁前三両也
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年に記した無尽講と借用の記録。身内での無尽講はささやかなもので別の借用証文は頼母子講からの金を菊地嘉門から借用した。

●#957. 借用記録 八鍬村門三郎
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年に記した借用の記録。最上院右馬助が八鍬村地主国井門三郎に借りた金を記す。最上院の経済に門三郎の資金が重要であった。

●#956. 借用記録 八鍬村庄五郎
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年に記した借用の記録。最上院右馬助が八鍬村地主庄五郎に借りた金を経時的に記す。庄五郎、菊池嘉門は八鍬村第一の国井門三郎に次ぐ地主をめざして競争していたと思われる。また庄五郎は屋敷を畑地に建てたいとの願いを右馬助に許可されていた。

●#955. 借用証文 南蔵院殿利壱割五分
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年頃に記した借用証文の写し。最上院が南蔵院に借りた金を計算したもので珍しく「匁分厘」で書いた箇所がある。計算すると1両=60匁で銀の重量単位であった。東国出羽でも銀は使われていた。

●#954. 借用証文三通 此立附米四俵四斗也
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年頃に記した借用証文の写し3通。最上院が借用した相手には有名な人もいた。布川文五郎は慈恩寺三重塔を建立した事で今日に名が残る。

●#953. 借用証文四通 其訳達て御頼上
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1828年=文政11年頃に記した借用証文の写し4通。右馬助の証文は他のものと比較して文章が丁寧できれいである。

●#952. 辞とは詩の如く物のあわれをこめて
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1836年=天保7年頃に書写した記録。書いたり述べたりする漢字の意味を記載したもの。本の記述を写したと思われる。約200年前のものだが、ほとんどは現代と同様に理解できる。

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●#951. 長伝寺田地訴訟 三 弥五右衛門返答と結論
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1861年=文久元年に書写した記録。1856年橋上村長伝寺が所持する小釿村の450束刈の田地を質地にして新好吉村の源助より11両を借用した。この田地は本金を準備すれば返す約束だった。今年2月に11両を調達して田地を返却してもらう準備ができたが素直にはそうならなかった。それへの長伝寺の訴訟に対する源助の証文を譲渡された小釿村名主の弥五右衛門の返答である。長伝寺は1857年迄に払い戻しがなければ田地を勝手にしてもよいとの約定を弥五右衛門に出したという。右馬助が最後に今年の年貢米の配分予想を記載。結論としてこの田地は長伝寺に戻ったに違いないと思う。

●#950. 長伝寺田地訴訟 弐 源助側返答
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1861年=文久元年に書写した記録。1856年橋上村長伝寺が所持する小釿村の450束刈の田地を質地にして新好吉村の源助より11両を借用した。この田地は本金を準備すればいつでも返す約束だった。今年2月に11両を調達して田地を返却してもらう準備ができたが素直にはそうならなかった。前回の長伝寺の訴訟書に対する源助側の返答である。詳細は図中に記載。

●#949. 長伝寺田地訴訟 壱 長伝寺の訴え
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1861年=文久元年に書写した記録。1856年橋上村長伝寺が所持する小釿村の450束刈の田地を質地にして新好吉村源助より11両を借用した。この田地は本金を準備すればいつでも返す約束だった。今年2月に11両を調達して田地を返却してもらう準備ができたが素直にはそうならなかった。それについての訴訟である。

●#948. 天保五年断簡五報 真覚院様御内
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年に書写した記録。断簡5報である。最上院は寛永寺子院の真覚院とは75両の借金をするなど親密な間柄であった。

●#947. 天保五年江戸参り 五 帰国前御礼と購入物
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸で書写した記録。右馬助らは訴訟の判決のため上京したが寺社奉行の判決なく7月に帰国した。その前に寛永寺執当への御礼と帰国前に様々な物を購入した記録である。物品の名前がおもしろい。

●#946. 凶作にて御府庫金の願出
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1837年=天保5年凶作で夫食米を百姓の供出し資金に困ったので寛永寺へ御府庫金の融資を願い出た。50両の融資が許可された。

●#945. 天保八年大坂大塩焼け
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1837年=天保8年2月起った大塩平八郎の乱の際の大坂の火事を書写した記録。大坂の地名に少々の誤記があるが、地図に照して見るに総じて正確な記載と思う。

●#944. 天保五年江戸参り 四 寺社奉行沙汰如何
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸に行き書写した記録。宝蔵院主亮空と山内役者3名の間の寺社奉行所への献上金に関する訴訟の行方は如何。寺社奉行の沙汰(判定)は延引の上すぐには成されなかったらしい。そして右馬助らは7月になり帰国した。寺社奉行所への献上金という寺社奉行がらみの微妙な訴訟であるから慎重になされただろう。

●#943. 天保五年江戸参り 三 役者返答書
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸に行き書写した記録。慈恩寺宝蔵院主亮空が山内役者3名に対して起した訴訟に対する役者3名の返答書である。

●#942. 天保五年江戸参り 弐 亮空訴状
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年5月に江戸に行き書写した記録。慈恩寺宝蔵院主亮空が山内役者3名に対して起した訴訟である。これは右馬助江戸行きの2ヶ月前に提出された。

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●#941. 天保五年江戸参り 壱 行き帰りの天気
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1834年=天保5年に書写した記録。軽部右馬助は同年5月から7月2つの用事にて江戸へ滞在した。#916-923に1866年に主人、最上院主の交代で上京した記録は詳細を極めたが、これはその32年前のもので記載は簡略である。まず行きと帰りの主に天気を記したものである。

●#940. 会津藩士昌平黌狩野軍兵衛乱心三名死傷
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。同年会津藩家来で昌平黌の寮生、狩野軍兵衛が昌平黌内で1名を死亡、2名を負傷させた事件を記録した。この事件は藤岡屋日記や視聴草などに述べられるらしいが他にまとまった記述がない。しかし検索の中で断片から事件の内容を把握し、図中に解説した。右馬助の記録は一部異なっているが大筋はほぼ間違いない。この記録は事件後時間を置かず書いているので、結末は不明である。現代ではおそらくほとんど引用されなくなった事件であるが、天下の秀才が乱暴殺生をした事件は当時話題になった事であろう。この後ロバート・キャンベル氏の論文から転機が判明。狩野軍兵衛は、翌文政7年8月23日の幕府の沙汰までに獄死。負傷の2人は無罪。西村有蔵は斎長という素読手伝の藩士であった。ロバート・キャンベル氏:昌平黌北寮殺人事件、第18回国際日本文学研究集会研究発表、1994年。

●#939. 本郷御弓町本多大隅守様御屋敷
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。本多大隅守と屋敷のある本郷御弓町について調べた。4500石の寄合交代で本多帯刀または弥五郎と云い、江戸城での役職の時に本多大隅守を名乗った。この人の役職の出勤日も記される。右馬助は本多大隅守の屋敷で近所の上野高崎藩中屋敷住まいの侍、市川一角と共に面談している。右馬助は刀が好きなので古物鑑定の得意な侍や本多大隅守と歓談した。この本多屋敷には有名な刀研師も住んでいた(#934参照)。

●#938. 文政七年御老中様書留
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。1824年の時の老中を書き留めたもの。記載は正しい。

●#937. 文政六七年寛永寺月当番と壇越大名
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。文政6、7年の寛永寺の子院の月当番と思われる。学頭の凌雲院や東照宮別当の寒松院の重要な子院も差別なく入っている。さらに子院の住所やその壇越の大名、その大名の江戸上屋敷の場所が正確に記されている。事務方の筆頭は執当の2院が別にあるが、月当番はその下で種々の用事をしたと思われる。記載の大名をみると有力な外様大名が多く記載される。子院は全部で35位あったので、記載の22の子院以外にもあった。大名の江戸上屋敷の確認の作業は大変勉強になった。参考文献、横田知恵子氏:寛永寺の寺務組織について。

●#936. 三河町か出火にて
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。ここでは鼠小僧次郎吉と火事の事が書かれている。

●#935. 小報二通 まめのよふなる心
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。小報二通。右馬助の節分の和歌と二朱判吹替え、火事の言及である。

●#934. 研師村松喜兵衛の住所
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。村松喜兵衛と呼ばれる赤穂四十七士の子孫らしい刀研師の住所を地図で示した。この地図は江戸本郷のもので1853年の江戸地図で充分に確認できた。

●#933. 逃水とは
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。逃水(にげみず)について記したもの。

●#932. 千代田刃傷 旗本酒井山城守屋敷取上
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。江戸で1823年=文政6年千代田刃傷が起こり江戸城西の丸御書院番所詰の松平外記が同僚を4人殺害1人負傷させた。その事件について記している。1923年に麹町紀州藩上屋敷(現赤坂プリンスホテル)と周辺で火事があったが当時この火事は「赤坂やけ」と呼ばれた事がわかる。

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●#931. 御家流書家二名
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年に書写した記録。江戸で当時有名な青蓮院流=御家流の書家2名、岩田夫山、蓮池堂文盟を挙げている。両者ともこの時故人となっている。

●#930. 狂歌集 恋歌
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1824年=文政7年頃狂歌師作の恋歌を記したもの。江戸狂歌本選集第8巻(Google book)に多くの歌が掲載されており、解読の参考になった。各歌の詳細な意味については難しいものが多いので各人で検索を乞う。

●#929. 箏組曲菜蕗組 ふきといふも草
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。八橋検校作曲の箏組曲、菜蕗組(ふきぐみ)の歌詞を写したもの。7つの小曲より成る。地唄FANサイト「菜蕗」で地歌を聴ける。参考論文、西和子氏:秦箏語調の時代性 文教国文学 24:217-231,1989。

●#928. 短文七報 日本人参朝鮮人参
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。短文を7報提示した。右馬助は勉強に熱心な人である。PCのお蔭で記載内容が即座に調べられ、短時間でこれだけ理解できた私はよい時代に生まれたと感謝している。

●#927. 俳諧大意 芭蕉の門人の俳句
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。芭蕉翁の門人の句で右馬助が好きなものを書写したもの。詳細な解説は難しいので各個人で解釈を。

●#926. 俳諧大意 芭蕉の俳句
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。芭蕉翁の句で右馬助が好きなものを書写したもの。内3句は別人の句である。

●#925. 吉野山修験道と聖護院門跡
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1854年=嘉永7年頃に書写した記録。ある僧が1757年=宝暦7年増賞親王が天台宗聖護院門跡で大峯へ入峯した時に修験道の概念を記載したものである。この僧は聖護院門跡に呼ばれて吉野山に参加したに違いない。なお慈恩寺では江戸時代天台宗聖護院、真言宗醍醐寺に属さず独自の修験を近くの峯中で行っていた。

●#924. 白岩湯殿道普請の国村作俳句の碑
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。 慈恩寺近村の白岩村から湯殿山へ至る道に俳人国村の句碑がありその俳句を解説している。現存か否かは確認できなかった。

●#923. 在府中萬日記帳 八 帰国準備と餞別
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主が病気の幸導より幸広へ相続が許可され、諸行事は終了した。 帰国にて地元の人々よりの依頼品の購入が記され、最後に地元の人が最上院主に餞別を渡し祝った。これで在府日記のすべてを掲載し終えた。地名や地理が好なので検索は楽しかった。

●#922. 在府中萬日記帳 七 色衣の着用許容
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。色衣の着用許可も許可が得られた。改めて献上物を差し上げる。諸行事は終了した。

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●#921. 在府中萬日記帳 六 帽子の着用許容
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。輪王宮への面接の詳細と帽子、色衣の着用許可の達しが出された。ここに目的のすべてが達せられ最上院主より御馳走が出た。

●#920. 在府中萬日記帳 五 輪王寺宮に御目見
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。帽子、色衣の着用も許可が得られた。輪王寺宮に御目見する準備をする。

●#919. 在府中萬日記帳 四 跡目相続願上提出
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主の跡目相続願提出が2月27日に出来た。滞在中の買物や献上品について記す。

●#918. 在府中萬日記帳 三 跡目相続の準備
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主の跡目相続は寒松院門跡から良い返事が得られない。1月25日から2月7日の記録。右馬助は3月に重要な法要があり跡目相続が是非必要である訳柄書を提出しようとするが院代に制御される。

●#917. 在府中萬日記帳 弐 慈恩寺より江戸寒松院へ着
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。最上院主幸導から、幸広に跡継ぎすることに付き、上級寺の寒松院、寛永寺の執当に許可を得る事である。ここは慈恩寺から江戸上野へ登る途中の宿や名所の記載と寺社奉行への年頭挨拶の文書である。1月10日出発、1月21日に寛永寺着にて12日懸っている。記載の順善は寒松院主でなく幸広の事らしい、次回判明。

●#916. 在府中萬日記帳 壱 出発前準備 寛永寺寒松院
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在の武士軽部右馬助が1866年=慶応2年正月10日から2ヶ月間江戸、上野寛永寺へ登った記録、「在府中萬日記帳」である。目的は最上院主幸導が病気のため隠退し、幸広に跡継ぎとすることに付き、上級寺の寒松院、さらに寛永寺の執当に許可を得る事であった。無事達せられたが多数の書状提出など準備が大変であった。初回は出発前の準備と寛永寺寒松院の内部構成の記述である。参考文献、横田知恵子氏:寛永寺の寺務組織について。

●#915. 御府庫金三百両拝借仕候処 内金百五十両は滞納
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した文久元年=1861年10月の記録。最上院は1851年財政に行き詰まり、300両を江戸上野寛永寺に借用した。1856年まで年30両づつで計150両返済したが以後滞納であった。その弁解の一札である。最上院主の家族の中で4年間に5人が死去していた。最上院主の名と交代の時が理解できた。参考文献、山形大学所蔵:慈恩寺最上院文書。

●#914. 谷地堰口先 岩石にて揚水刎返し
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が1857年=安政4年に記録した。谷地堰から取水する口に慈恩寺領の岩石が邪魔になって水が引けないので石をのぞきたいとの願書である。詳細は図中に解説した。

●#913. 三重塔成就 一山入仏供養
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した文政13年=1830年4月の記録。三重塔が完成し入仏供養で本尊を入れる儀式である。八鍬村の百姓や侍、僧が御輿に本尊を乗せて行列を成し、練り歩く。赤飯、酒が振舞われ、音楽もあって賑々しかった。#906、#905に三重塔再建の詳細文書あり。1830年に完成と一般にもよく知られている。

●#912. 林泉坊寺領百姓久米蔵を山刀で打つ 弐
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政11年=1828年に記録した。9月最上院所属の林泉坊が深慮なく寺領の箕輪村百姓久米蔵の頭を山刀で打ち、疵つける事件が起こった。事件受持ちの右馬助の意見は林泉坊にほとんど無視される。僧側は事件を江戸寺社奉行に挙げて解決を図るという意見が多かったが、最終的に百姓と僧側とで内済として事件取下げとなった。なお寺社奉行には献金しているので僧側にとって有利な判定が期待できた(#899参照)。

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●#911. 林泉坊寺領百姓久米蔵を山刀で打つ 壱
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政11年=1828年に記録した。9月最上院所属の林泉坊が深慮なく寺領の箕輪村百姓久米蔵の頭を山刀で打ち、疵つける事件が起こった。最上院役人の右馬助は事件を扱い検使する事になる。ここでは事件の詳細と医師の文書を掲載。

●#910. 文政十亥年七月廿三日 花蔵院地蔵尊開帳
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政10年=1827年に記録した。地蔵尊開帳であるが、諸堂の仏像を農民たちが拝礼する行事。また休憩の茶屋が出る。夏の24日の日限地蔵尊の祭りのようなものであろう。その時以前より真言方の宝蔵院と華蔵院対天台方最上院の間で本堂を荘厳に飾るか否かで争論があった。しかし別当最上院の意向で荘厳を行った。

●#909. 弥勒尊 安阿弥作 正観音 慈覚大師
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が文政13年=1830年に記録した。慈恩寺にある仏像とその作者の仏師を書いている。10中8つは検索でほぼ確認できた。有名な慈恩寺の薬師十二神将像も当時に存在する。仏像の作者は正確ではないであろうが当時は斯の如くに解釈されていた、興味深い。なお仏像写真と安置の場所の私の記述は完璧でなく一部誤認の可能性はある。

●#908. 盗難事件 弐 和田司儀純情者に付盗賊に落ず
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。文政13年=1830年4月に慈恩寺最上院支配下の和田治と同東林坊支配下の六郎治が主に最上院から品物を盗んだ疑いがあり。この件は尾花沢代官から六郎治は帳除の追放になる恐れありとされた。右馬助が吟味を引き継ぐ事になり、両者は盗賊としないように考案した。六郎治は癪の病気になり吟味も進まない。時は過ぎ10月に盗品は尾花沢代官が検分する事になり右馬助は盗品のリストを作りこれらは最上院の什物であると記した。後でこれらの品は最上院に帰る事になる。和田治と六郎治の処分は不明であるが、#907よりおそらく右馬助は事案を盗賊事件として報告しなかったと思われる。さらに両者は右馬助の所属する寺の配下の者達であるのできびしい処分はなかったに違いない。

●#907. 盗難事件 壱 和田司六郎治儀盗賊有之候哉
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。文政13年=1830年4月に慈恩寺最上院支配下の和田治と同東林坊支配下の六郎治が主に最上院から品物を盗んだ疑いがあり。盗品は新庄の円満寺の鳳凰の羽と他様々である。鳳凰の羽は円満寺に返却された。他は和田治、六郎治から尾花沢の林崎徳左衛門の宅にあり、以後売り捌く予定であったらしい。そのうち両者は尾花沢代官所に逮捕される。僧の事は寺社奉行の管轄でもあり吟味を右馬助が主導で行う事になった。右馬助は自分の配下である両者を盗賊にしないように考慮する。

●#906. 文政十亥年七月三重塔再建 土搗有之地祭
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。文政10年=1827年に慈恩寺三重塔の再建のため地鎮祭と敷地の土搗を行った様子である。#905の1823年=文政6年に慈恩寺三重塔が焼失し、その4年後の事である。この三重塔は3年かけて完成し、1830年=文政13年に入仏供養した。大工棟梁は慈恩寺大工布川文五郎で木挽棟梁は志田小太郎である。

●#905. 宝蔵院家来源司郎火元にて 三重塔焼失
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が1854年頃書写し所持した記録2通。宝蔵院の家来、源司郎の火元で1823年=文政6年に慈恩寺三重塔が焼失した。1830年に三重塔は再建し入仏供養した。欠所となって日和田村で謹慎中の源司郎を許し、寺内に戻してやって欲しいとの禅林坊より一山役所への請願の写しである。他は禅林坊が三重塔再建の費用負担100両の内30両の不足となり、15両はなんとか集めたがあとは8月までに納めるとの一山役所への書付である。

●#904. 湯殿山法流真言宗 可為理運に相聞候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が1854年頃書写し所持した記録。慈恩寺の近在にある羽黒山宝前院別当の天宥、天台宗は湯殿山の4寺(大日坊、注連寺、本道寺、大日寺)、真言宗を改宗させ羽黒山に服従させようと1665年=寛文5年幕府に訴訟した。これは幕府寺社奉行、老中が湯殿山、真言宗の勝ちと判定した「勝状」の写しである。湯殿山本道寺と大日寺は慈恩寺の宝蔵院(真言宗)の末寺であったので慈恩寺最上院、天台宗から見て「勝ち」と判断した。なお明治維新後は記載の羽黒山、湯殿山は出羽三山神社の出羽神社、湯殿山神社となり諸寺は消失した。

●#903. 願人延命坊隠居聟求馬共々 御旦那様え
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した安政元年=1854年の記録。最上院所属の48坊中の1つ、延命坊が隠居し、聟の求馬が跡を継ぐ事になった。最上院の最高位幸導に挨拶し盃を交わした。その時の頂戴物が銀一枚=銀43匁である。最上院からは金300疋=金3分を差上で、ほぼ同額の金を返礼した事がわかる。寺所属の坊が家督継承の時の上級寺との交渉である。

●#902. 戌亥の方 山より弐間計り上にはうぎほし出る
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記載した記録。嘉永6年=1853年の様々な事が記される。この年は米国ペリー来訪、彗星出現、将軍死去など様々な事件があった。世間の風説が記され多くは流言飛語のでたらめであったとわかる。現代でさえ「嘘言妄想」が跋扈しているのだから当然である。参考論文:杉岳志氏、「近世の人々の彗星観をめぐって」。

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●#901. 当院勝手之義に付直支配可致
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。最上院の支配地が増えたのでそこの田の世話を最上院の家来達で手伝いするとの記録。

●#900. 衆徒一同御目見願 相不叶候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。1837年より1840年、慈恩寺衆徒が上京し寺社奉行と老中に将軍御目見を願った願書を出した事が書かれる。願書は受付られ審議されたが、御目見は実現しなかった。#899のように慈恩寺は寺社奉行に忠実に礼金を入れており、寺院の格上げのため将軍に御目見したかったが不叶、残念。

●#899. 酉年十月寺社奉行所より 最上院花蔵院へ御差紙
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。慈恩寺より年頭の御礼に江戸の寺社奉行に礼金を渡していた。その計算は石高割で行い、最上院は2.25両余であった(文書1)。しかし礼金とは別に特別に召喚状が来て江戸の寺社奉行へ登る事もあった。文書2で1850年は寺社奉行に合計10両を御礼に渡している。それは石高が高い最上院が年番の時になると書いている。寺社奉行としては高い収入を認めてやるのだから礼金も多くするのは当然との思いであろう。

●#898. 嶋高屋村川除御普請 割合御朱印高へ懸り
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。嶋村と高屋村で川除の工事をした費用の内最上院と華蔵院の持分の負担を寒河江役所が請求した。その計算書の写しである。全部で14両位であり、2ヶ月後までにすべて支払っている。

●#897. 橋本石地蔵堂之事 此度六尺四面に置直
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。慈恩寺最上院内の橋本坊の地蔵に堂を6尺四方に作りたいとの願書。

●#896. 且又目立候木は御用木に立置候様
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。慈恩寺内の他者の地の木を伐った時の規則の古い記録を書写したもの。#894で華蔵院所属の僧が右馬助の地の松を伐っている。

●#895. 金百拾七両弐朱 横帳に書立御披露申上
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。1841年より門三郎に借用していた金子に付証文を作る。1848年に改めて証文を作る、計算して117両2朱になった。この利足米も改めて書き入れた。右馬助は経済をよくみてしっかりした人であるが、仕事上借用金が要用であったとわかる。門三郎は右馬助を熟知しており500両までなら貸しますと言及する。

●#894. 花蔵院にて弐ノ宿山切取候一件
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。文政10年=1827年華蔵院が右馬介領地との境界で松の木を2本伐った。その顛末につき熟談の末、内済となったとの文書を当山役所に届けた。当山役所は慈恩寺内の訴訟や紛争を裁く所で真言宗と天台宗とで構成するようだ。

●#893. 証文金御寄附被成 永壇越之可有掲焉候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。鹿嶋林村の七郎兵衛の悴、7歳の朝太が最上院役人の家来になる。まず江戸寛永寺に登って許可を得る、そして右馬助らに酒肴代を振舞う。その後朝太が21歳になり宗判の事になるが、宗判しなかった。朝太27歳になり再度宗判の話しとなり七郎兵衛が最上院内の宝徳寺(時宗)へ7両祠堂料の布施をし宝徳寺に登録となった。なお朝太はこの後36歳で八鍬村の寺領代官工藤喜兵衛に乱暴を働き訴訟となっている。宗判の確立には戸主としての安定と寄附金が必要で「壇越の掲焉」と呼ばれた。

●#892. 右之御田地講受候処 実正明白に御座候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した天保10年=1839年の記録である。吉川村の万十郎が金銭に困り、所持の最上院領の田を質に9両を受けた。寺社領の借用証文はこのように金を貸す人と借用人が共に寺社の役人宛に出しているのが興味深い。後にこの文書は江戸の東叡山寛永寺に保存されたと記される。

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●#891. 長泉寺より五合つつ 相加い納にいたし候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録である。#884に慈恩寺が所持する八鍬村西の土地に長泉寺が建った。その際の替地の内庄三郎分は長泉寺より大豆5合を加えて納めることになっていると記している。

●#890. 右畑屋敷に成 間数以下に御座候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士右馬助が所持した記録である。大豆畑に屋敷を作る例が3つ示される。広さは60-90坪であり、比較的容易に許可されたようだ。屋敷の税額は大豆1升とあり、安いようだ。一方米、大豆の生産高への税は高い、#888では70%である。東北地方で仙台藩領磐井郡曽慶村でも同様に70%が標準だった(#845)。

●#889. 拙僧持役向其外要用に差支 無拠貴殿え御頼
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が写した記録。1859年12月宝林坊が軽部右馬介に2.5両の借金をした。その際に利足を宝林坊が所持する田からの年貢米で宛てるとの証文である。1860年より1864年子年暮に返済予定とあり5年間である。文書では1863年亥年3月に改めて同額借金した証文を書いている、加判の人が変わったからだろう。

●#888. 三左衛門年々不納相嵩み 不埒之筋に付
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が1824年=文政7年に書いた記録。楯西村百姓三右衛門が嶋村に持つ田の年貢を長年最上院へ不納にしていた。慈恩寺は寒河江役所へ不埒として催促する。そこで組頭と名主が証文を慈恩寺役人に挙げた、内容は20俵を即納め、残りの租税は以後10年賦で納めるとする。記録はその写しである。ここで慈恩寺最上院領の租税率は70%と判明した。

●#887. 寺領百姓人別帳当山へ可相納之処 寒河江役所へも
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が書いた記録である。記録は3部に分けられる。1780年慈恩寺最上院の領地の八鍬村と小釿村の百姓は人別帳を幕府領代官所、寒河江役所に挙げていた。最上院に人別帳を挙げない時があったので最上院に挙げる事で結末していた。しかしその後も特に小釿の百姓は寒河江役所に人別帳を挙げており事件の吟味などを望んだ。67年後その事につき寒河江役所で最上院と今後どうするのか話し合う事になった。そして最上院で小釿の事はすべて扱うと確認した。さて小釿村の隣村、左沢領橋上村で不埒な者が出ており、それに小釿村より訴えがあるがどうするかとなった。その後21日後左沢側から最上院へ連絡して事件を扱う事になった。

●#886. 左沢沢ノ住兵郎正則 短刀三本打せる
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺最上院駐在役人の武士、軽部右馬助が所持した1850年頃の記録4通である。右馬助は刀を村山郡左沢(あてらざわ)の兵郎という刀匠に関連した刀工に打たせるのを好んだ。脇差で金1両2分位の値段であり、たくさん注文している。

●#885. 奥州街道にて帰国中に御座候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した1846年=弘化3年頃の記録である。右馬助は江戸から山形への旅行中に旅の途中で宿泊した宿場を記載しようと思い立つ。現在地は福島県郡山の1つ手前の間の宿、滑川宿である。奥州街道から山形へ至る道程の宿場は正確に記載されている。

●#884. 寺地之分より一向納め無之様にいたし候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した1846年=弘化3年頃の記録である。慈恩寺が所持していた八鍬村西の土地に長泉寺が建った。その際替地として100文地から年貢が来るはずであるが納入がないと書いている。長泉寺は現在も同地に存在する。

●#883. 大豆九升三合つつ 年々滞り
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した1846年=弘化3年の記録で2通ある。慈恩寺最上院の僧宝蔵坊が長年年貢の大豆不納であった百姓を支配する名主に対して大豆納入の催促をする手紙である。これはそれを写し、保存したものである。図中記載を訂正、ここの大豆1俵=10升と別文書で判明した。#884参照。

●#882. かなつかひの事 をはおとは異なる也
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記した「かなつかひ」の記録。1846年頃の記録である。この時期はまだ「ゐ、ゑ、を」は「い、え、お」と発音が異なっていたとわかる。また「ひ、ふ、へ、ほ」と書いては「い、う、え、を」と発音される実例が述べられる。発音は同じでも書式が異なる事が「かなつかひ」である。今でも「へ」は「え」、「は」は「わ」と読まれる例が残る。

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●#881. 火あり一つかね等の事有 神おろし可致候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記した記録。1848年=弘化5年に境内で火が見えたり、一つ鐘が聞こえたりした。慈恩寺村でも差火があった。寺での祈祷とともに、寺の庭などで神降ろしをする事になった。神降ろしは8日続いて神は熊野に帰った。幕末頃は気味の悪い事が続く時は寺でも近在の村人と共に神降ろしをして厄除けをする事がわかる。

●#880. 八せんま日母倉ちいみ 佐重生る
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が記した記録。1845年=弘化2年に妻のくらさんから女児佐重ちゃんが生れた。この時代女児出産時の記載で日の干支と八専が重要な要素であった。八専間日は凶日でなく嬉しかったのではないか。

●#879. 在原行平老年に及んと 芹川行幸御供仰付られ
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。在原行平の和歌を学習した事を帳面に記したものである。解説は図中に示した。文章は1845年から1850年代である。

●#878. 無沙汰に右場所に手入 水道堀立被成候
出羽国村山郡(現山形県)慈恩寺駐在の武士軽部右馬助が所持した記録。慈恩寺の3院の1つ宝蔵院の僧が1850年=嘉永3年に日和田村の村役に出した手紙の写しである。醍醐にある寺領の川欠の田を日和田村の農民が無断で水道堀にしてしまった。それに対し抗議する内容である。醍醐は寒河江川べりにあり、その荒田を水の通る堀にしてしまった。

●#877. 十死中一生之程も無覚束候得共
岡崎意次より仲長実右衛門への手紙。時代は明治以降である。病人で危篤の人が仲長氏周辺に居り、また岡崎氏は近日中帰国するらしい。一点物にて関連の文書がないので詳細不明である。

●#876. くらに入込候て品々盗取候所 甚難渋仕候
大和国葛下郡五ケ所村、現奈良県香芝市五ケ所の庄屋彦三郎所持の文書。同村の与次兵衛が彦三郎と共に他人の蔵から盗みをして盗んだ物品を南都奉行へ報告し、御暇(おいとま)を乞うている。御暇とは追放の刑罰である。一家に子が4人居るが今後どうなるのだろうか。1808年=文化5年の文書。五ケ所村は大和郡山藩の支配であった。

●#875. 御苦労被下候段 奉謝候
次田存菴より宇山老医師への感謝の手紙。医師は#863の詩人宇山立昌の息子宇山俊三氏と思う。宇山氏は外科医であったがここは次田存菴を往診している。時期は明治時代末期であろう。文末解読難の箇所あり。「頓首」は特徴的でこのままで覚えるべき形。

●#874. 旦暮物語 その四 無能なる子孫へ交書に渡す也
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。今回は最終の4回目。公用で勤める時は先任者によく尋ね、落度ないようにする。下部(しもべ)に仕事させる時は情を持って接する。公用は先方をたて、自分を押える。後書に懸案の物語を子孫のために書いた、そして智恵ある人がこれを見て子に対する深い人情を察してくれる事を願うとある。この時代は堪忍と自分の考えを押し出さないという思想が大変強かったと判る。

●#873. 旦暮物語 その三 喧嘩口論計多く家おさまらす
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。今回は3回目。内容は友人との交わりでは争わない。また下部など人を使う時は長所を見てうまく使うべきだ。家内も喧嘩などなく夫婦睦まじくする。普請や道具に金を使うには資産に応じてすべき。我国の和を大切にする思想は寛政の時代から主流であると判る。

●#872. 旦暮物語 その弐 皆堪忍をもて和熟なるへし
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。今回は2回目。内容は前半は父母の病気、看病と死去の時の子供の心得。後半は夫婦の中の事で双方堪忍が大切と説く。

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●#871. 旦暮物語 その壱 父母に孝
陸奥国胆沢郡都鳥村作屋敷の良作が1792年=寛政4年11月に記した小冊子、旦暮物語。良作はおそらく百姓で村役であろう。字は総じて分明である。この初回では子と父母の関係について語る。子は成長したらわがままになり父母に冷たくする。また父母は年も寄ると弱気になり子や嫁に心遣いする。子は父母に幼少時分より育てられた高恩を忘れないように。旦暮とは「旦夕に迫る」で病気などで衰弱し死期が間近に迫っているとの意味と思われ、その時に語りたかった事を記したと思われる。

●#870. 紫縮面 三つ割四尺六寸
石見国大田辺の商人宮本屋祐一郎が所持した覚。京都の近江屋から様々な布を購買している。1尺当りの値段が記される。卯年は他の文書より1867年=慶応3年である。布の読みで不明のものが多い。金1両=銀72匁位であった。「三つ割」の表現は1を3で割った0.333を意味していた。

●#869. 夜具は近々被致工面 只今有之候
上醍醐寺の手紙の断簡である。道具持参で職人が泊りで来るようだ。夜具を工面したと書かれる。

●#868. 此度御大望之法印被上被成候由
上醍醐寺慈心院の延順座主への祝いの手紙の断簡。おそらく法印に昇進したのだろうと思う。字は難読であり、小さい字の行は追伸であるが解読できていないので省略している。

●#867. 賞翫無限候 御礼迄
武士が古い手紙を学習して書いた文章。字に癖があり、短いが解読に大変時間がかかったもの。手紙と贈り物を貰ったことへの御礼の文章。「床しき」は芳札に懸かる。

●#866. 江戸表御取建にも 其元がきまり不申候ては
武士の手紙で相手は兄弟であろうと思う。大体は解読できたが断簡でかつ破損箇所もあり。また手紙の前後関係も不明にて総意の理解がやや難である。おそらく彦根藩の明塚家の手紙である。

●#865. 清楽義は去年隠居いたし候故 躮宗助より
近江屋伝兵衛に出された手紙の原稿で筆者、宗助が手元に置いたものである。筆者は京都でお歌を教えているらしい。父清楽が隠退して躮(せがれ)の自分が跡を継いだ。近江屋伝兵衛は近江に国元があり京都七条に店がある。金子につき伝兵衛の息子源次郎と交渉した事が書かれる。近江屋伝兵衛は清楽に歌を習っているらしい。訂正があり原稿保存となった文書である。

●#864. 御母上様益御健可被為入
小津権右衛門より細田九郎右衛門への手紙。短い手紙ながら解読難の所が多く最近何とか解読できた文書。小津権右衛門は花押があり武士であろう。そして両者は兄弟らしい。他の関連文書はなく背景の詳細は不明。

●#863. 新宮より熊野川遡上仕候 御両岸之山水秀美
原口誼三郎より宇山立昌への手紙の返事である。自分が熊野へ旅行した事、宇山氏の多くの漢詩を受け取り読んだ事、漢詩全般の事など書かれる。検索で両者は淡路出身で漢詩を得意とした。明治20年代から30年代前半頃の手紙である。やや難解な箇所あり。

●#862. 御状御仕切書御登せ被下 難有拝見仕候
京都の針問屋みすや針の主人福井伊予掾が江戸日本橋大伝馬町の針問屋住吉屋長右衛門へ出した返書の原稿である。江戸の針屋仲間衆が京都みすや針の主人福井伊予掾に針の商品を注文して、商品が江戸へ到着した後で差引清算書を送付した。それが#682の手紙と#681「江戸仲間衆より京都針問屋への唐針差引書」である、駄賃を半々持にした事や品不足が住吉屋長右衛門の手紙#682に書かれている。それへの返事であるが、文を間違えたので差し出さず原稿にして手元に残したものである。訂正で難読の部分がある。

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●#861. あかこうやくのひてん 長吉丹五拾目
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。傷口や傷む部位に貼付する赤膏薬の成分を書いた文書である。赤色の色素に鉛丹を使った。詳細は図中に記した。各成分を混和、加熱し練って作った。成分に一部不明のものあり。

●#860. かや弐拾七丸 忠七殿かり
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が書いたかや(茅)を借りた記録。単位として「丸」が記される。「把」は片手でつかんだ量。「丸」は丸抱えのことで両手で抱えた量で「束」と同じと思う。記載の人の内、六右衛門だけは惣兵衛組の組合員らしい。他は別の組や他の村の所属の人でかやを借りた時に記したらしい。

●#859. 「受取申候以上」の諸形 省略に決まった形あり
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。#857で「受取」の形を理解したが、他の文書を見て「受取申候以上」の諸形を集めて検討した。すべて同一の肝入佐一郎の家のもので如何に字を省略しているかがよく理解できた。#857と#856の文書も是非参照を乞う。

●#858. 御手形百八拾五切 八分三厘也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書2通。幕末近くの頃の支払いである。「切」が使用され仙台藩の支配の最後の頃の文書である。

●#857. 板紅花頼母子金の受取に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書7通。木を善四郎らが売り渡した文書3通、頼母子金を肝入が受け取った旨の文書2通、紅花を善四郎らが注文した文書2通である。ここの「受取」の字形が独特であり合字のようになっている。彦左衛門、権三郎は#847に記載あり善四郎組の者である。

●#856. 大石平組受持良作殿 肝入左一郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。この文書2通でこの善四郎組の正式名は「大石平組」と判明。また「水下人足」は用水に関る仕事であった。大石平という地名がたしかに明治3年まではあった。おそらく隣組の地名字大森に併合されたと思う。受取の「取」が独特の形。

●#855. 短報四通 拝借籾大麦の返納に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書4通。拝借米と大麦を大原村と大泉村の蔵に返納する文書2通である。#847には米と麦を拝借した文書がある。他残金の計算と急用にて明日集合の文書2通である。

●#854. 三切借金弐十一ケ年後 十五切六分也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。借金の計算の文書である。3切を21年間借りた後、年20%の利率で15.6切になった。#174には年率18%の記載あり。幕末年利1割2分=12%迄ともあるが、利息制限法は年利15-20%迄なので大変高い利率とは言えない。

●#853. 大原御蔵 御建替俵御巻返方人足に候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。肝入佐一郎の記載した文書2通。大原村にある雑穀の蔵の建替をするので茅(かや)、わら、縄を準備して6人が作業、屋根の修理らしい。構成員は17人にて惣兵衛組と大森組の合計である、#847参照。費用は等分で負担する。他はゆるんだ俵の巻返をして直す作業である。

●#852. 塩三俵 気仙沼より八日町にて此駄ちん
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した塩の文書2通。塩はもちろん生活必需の食品、ナトリウムは神経細胞や筋肉の細胞の働きに欠かせない元素であり、不足すると体に力が入らない。仙台藩領の内陸にある曽慶村にはその東南にある太平洋岸気仙沼から主に塩が輸入されていた。値段は塩1俵は藩札2切であった。加えてにがり(マグネシウム塩)も運ばれ大豆から豆腐を作るのに使われた。

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●#851. 短報断簡七通 二夜三日五穀成就之御祈祷
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。短報断簡七通である。すべて肝入からの受取や上納に関する催促である。室根山での祈祷は#791、地図は#780に掲載。

●#850. 二百十日前祭之次第 如何と御吟味
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。肝入喜兵衛より組頭への廻状。大嵐で川堤の決壊などや二百十日の前祭の事が書かれている。#801に二百十日の前祭りはできないだろうと掲載されている。二百十日:旧暦9月1日頃で台風が多い時期で厄日である。

●#849. 肝入殿よりの人足の依頼にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。各種人足に善四郎組の者が召出された記録である。人足とは荷物の運搬や普請などの力仕事に従事する労働である。すべて近辺の村や宿場での仕事であり、仙台藩に賦役として課税されていたものであり、肝入を通じて派遣を命じられていた。#847の善四郎組と大森組と両方の組の者が記される。

●#848. 御山方懸り 御手形四切御役人様
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。山を管理する役人を肝入等が接待した時の費用らしい。5分割にしたのは各組の負担分を計算したと思う。普請などで木を使用するので必要な経費であったに違いない。

●#847. 拝借米、大麦と組の者共にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。幕末近くの頃拝借米大麦を仙台藩の蔵から拝借した文書4通である。善四郎の組と大森組とは共に文章を記す仲の隣組であった。7-10名が記される。

●#846. 裁量夫喰拝借面附
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。幕末近くの頃夫喰米を拝借する願書の控えである。ここの10名中6番目嘉吉までが善四郎の組である。利右衛門以後は大森組と呼ばれ善四郎組の隣組でしばしば一緒に行動していた。食料に不足があったので願書を書いている。

●#845. 曽慶村知行所侍への年貢の推移
1728年から1870年まで継続して曽慶村知行所侍への年貢の文書が存在しているのでまとめた。最も注目はすべての年で米税率は生産高の60-70%であった。大豆の租税は米の20-80%で大体半額であった。仙台藩の藩札「切」は一般に金1/4両といわれるが、この村では両は全く使われず銭と切が使われ、1切が銭何文になるかが大事で多くの文書で記されていた。一般に1切=銭1000-1500文だが1786年から1810年には1切=5000文と高値だった。この時期銭は米に対しても弱かった。明治3年が記録の最後であり、明治4年には廃藩置県となったので納税の新ルールとなった筈である。

●#844. 大豆三斗 此金四切壱分壱厘
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。1869年=明治2年の租税計算を提示する。文書は詳細であり、畑の大豆値段は1切=7.3升の交換率と明示される。忠右衛門は善四郎の組のno2の人である。この知行侍への年貢の領収書は翌年明治3年が最後である、明治4年には廃藩置県となった。

●#843. つなきは肝入殿の知行様への接待費用にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。1735年の租税計算で惣四郎は惣兵衛の曽祖父である。論文より「つなき=つなぎ」の意味が判明した。肝入が代官所の武士との交渉や検見の時の接待を行う時の費用であり、村民が共同で負担する費用である。武士と農民の「つなぎ」に要する肝入のための費用ということだろう。#836に各種つなきを掲載している。また「1銭懸け」は肝入の取る手数料であった。参考論文、浦川清雄氏「宝暦年間の仙台藩の農家の生活」。

●#842. 米の年貢率は七分に御座候 畑大豆の年貢は米より安く在候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。惣兵衛の父、惣右衛門の時の租税計算で1780年前後である。米、田の租税の基準が「卯七分」とあり前の卯年より70%であることが明示され、値はそのまま生産米の7割で計算。一方畑、大豆の租税は生産高升当りの銭文にて8.63文/升で1738年(#839)の値、8.05文/升に近似の値だった。田の税の34.7%となり、#839の40%と同様に畑は田の3-4割の税額で安い。田の年貢率と異なり畑の税は銭で計算する、よって銭相場が安い時は「増代」として租税銭文を増やして調整する。相場は1切=1350文。

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●#841. 上納米は薄衣御蔵送り 残米は知行所送りに御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。善四郎1世の時で1753年または1765年である。#839で不明であった上納米と残米の違いがこの文書で判明した。上納は薄衣村の御蔵に納める米でその他は残石で知行所の侍行きの米である。米価は#839と同様に薄衣納が少しだけ高値。相場は1切=1080文。

●#840. 旦那様之御賄代 五色小役 ぬかわら代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1773年か1761年のもので善四郎1世である。ここでも10俵の値段らしい記述が11切と示され1俵=4.46斗となり、他の文書で見られる1俵=4.4-4.7斗に合致した。この10俵の値段記入は1780年以降はみられなくなる。土地の石高は書かれていない。相場は1切=1360文であった。

●#839. 仙台藩にて高百七拾五文は石高壱石七斗五升也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1738年=元文3年のもので惣四郎の時のもの。この時点で「高田代百弐拾五文」の意味が石高125升=1石2斗5升の意味であると「貫高制」の検索でわかった。要するに他藩と異なり、江戸時代になっても仙台藩は特例でこの記載習慣が通して継承された。これで「高」が記載のある文書では租税率=年貢米/生産米が計算できることが判明したので次回詳しく検討予定。ここでは年貢率は69.6%、相場は1切=銭670文。また米10俵の値段が上納米と残米で異なるので計算したが、両方とも1俵の米粒量は米4.5斗で他の#838、#837などと同じである。また米価の銭文/升は少し上納米が残米より高かった。税額を田と畑で比較した計算も施行した、畑の税額は田の税額の丁度4割、40%であり、田よりかなり低かった。

●#838. 拾三切弐分也は米拾俵の値に無相違御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1744年=延享元年のもので惣四郎の時。ここでは相場は1切は銭1060文。米10俵の値段は13.2切と書かれる。1俵の量は4.44斗となり#835の4.5斗、#837の4.67斗に近い値となった。また米価の別表現、銭文/升は31.4であった、これは#830の1743年では23.5であった。他の年も調べたがこの米価は20-40文/升の間で変動した。

●#837. 御年貢米壱石壱斗九升 但拾俵九切置也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1735年=享保20年のもので善四郎の1世で幕末の善四郎2世とは異なる人である。この時は惣四郎が組頭であったがおそらく留守で子の善四郎1世が代行したに違いない。ここでは相場は1切1300文。米10俵の値段9切と書かれる。1俵の量はどうか、4.67斗となり#835の4.5斗よりわずかに多かった。

●#836. 享保拾六年 右之通一宇済切候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。1731年と1734年の組頭九郎兵衛及び惣四郎が受けたものを提示する。代相場の金1切の銭の交換率は#835、#834にも記しているが、1750年以前は1000-1500文の間であった。他租税の「つなき」が不明、武士の生計のつなぎに必要な租税かも知れない。

●#835. 代惣場壱貫弐百五十文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が所持した文書。肝煎更治より組頭九郎兵衛が受けた皆済の書面。さる年は#826より1年前の1728年=享保13年で一番古い文書と思う。#823、#826にも見えた代相場(代惣場)がここにもあり、古くから金1切の銭の交換率の値であったと判る。尚当時米1俵は4.5斗であったことが記される。

●#834. 組頭惣右衛門殿の時の御年貢に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の文書で惣右衛門の時ものを提示する。この人は1772年-1794年に組頭を勤めた。惣兵衛の父であったと思われる。なお1切=金1/4両である。次回はこの人の父であった善四郎1世を提示する予定。

●#833. 仙台藩では金粉拾分は金一両に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が保持した文書。肝入の佐一郎から金粉を納めるよう催促である。この文章での金粉の分、厘、毛の単位の基準がわかった。「分」は本来1/10を表す語である。金粉の1分=1/10両である。東海道では金1分=1/4両であるので注意が必要である。惣兵衛と肝入佐一郎より年代は1842年から1854年迄の間である。ただこれは年貢の計算では金粉の1分=1/10切である。

●#832. 弥御家内様中 御機嫌能被成
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が源兵衛から受けた手紙。源兵衛は惣兵衛と大変親しい人でおそらく親類ではないか。「様」に女筆の字と普通の字の両方を使っている。

栞830 

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●#831. 惣兵衛殿 右之通受取申候以上 地肝入新十郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が組頭の文書3部の租税の計算書である。惣兵衛は長い期間当主として活躍していたことがわかる。最後に各種文書からわかるこの組頭の家の当主の推移を示す。代相場とは手形金1切が銭何文かを示す値で寛政、文化初期の時代は4000文と非常に高い数字だった、その他の時期は800-1800文であった。高ければ仙台藩の藩札「切」が全国の銭に対して強かった事を表している。

●#830. 米壱升に付廿三と五にて米税の銭の計算也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した文書で下記#827などと同様の租税の計算書である。これは組頭が惣四郎の時のもので年号「い年」は1743年=寛保3年である。1切=1180文が計算でき、この文書の右下に書かれた意味が税計算の率であると完全に理解できた。この年曽慶村では租税米1升につき銭23.5文の租税額であり、他の年の税額もこのようにして計算していたに違いない。この税計算率の記入はこの文書のみなので貴重なものである。これはおそらく当時の米の価額だろうと思う。

●#829. けふしは御里入遊し 限りなふ御めてたく
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。婚後礼の部屋見舞の手紙とその返事である。

●#828. 金八切弐朱と代六百拾七文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した文書で下記#827などと同様の租税の計算書である。1865年=慶応元年の新しい文書である。この文書で仙台藩の租税の単位「切」が出るが金1切=金4朱であると判る。また#824でみえた「金粉」という仙台藩で使われた租税単位がここでもみえる。分厘毛で表現するが金1分=3.75gの金粉の量である。これは東海道の金の「分」が1/4両であるのと異なる。仙台藩の金粉の「分」は1/10両である、これは後に判明する、#833を参照。

●#827. 宝暦元年十二月 御年貢受取印切申候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。太郎右衛門が肝煎久左衛門より1751年=宝暦元年に受けた租税の計算書。太郎右衛門は#818の寛延4年=1751年の文書にも出るが短い間のみで早世した人かもしれない。

●#826. 享保拾四年十一月 五色小役、ぬかわら代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書で他と同様租税の計算書である。1729年=享保14年の最も古い文書で名前は九郎兵衛である。#823の惣四郎は1737年なのでその父らしい。古い順で九郎兵衛、惣四郎、九平、惣兵衛、善四郎と組頭は相続されたようだ。この時は金1切=1300文である、この数字は仙台藩の経済事情により大きく変動した。金1切はまた1/4両である。

●#825. 百拾壱文畑方 三百八拾九文今代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭九平が受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍、成田金之丞に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1789年=天明9年である。九平は惣兵衛の父であろうか。#823の惣四郎は年号1737年より祖父らしい。#817、#808、#793に同様の文書。#793にて成田氏はここの地主で古くより世襲であったとわかる。

●#824. 安政六年分東山曽慶村 御蔵入本地御年貢下札
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎父子が所持した文書。1859年=安政6年万蔵の年貢を記録したものである。この「御蔵入」とは仙台藩直轄の田の租税である。他の文書は知行の侍の税計算である。ここで「金粉」という仙台藩で使われた租税単位が判明した。分厘毛で表現したもので、1分=3.75gであり金1両=金10分である。#833参照。 東海道筋は金1両=4分。仙台藩では「半切」、「切」もあった、興味深い。仙台藩の武士、日野九郎左衛門と本郷幸衛門は仙台市史に確認できる人物で幕末に実在した。#818は同様の文書で寛延4年=1751年の古いものである。

●#823. 高三百五拾七文 惣四郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣四郎が肝煎利左衛門より受けた書面。惣四郎は惣兵衛の祖父か父であろう。仙台藩の郡奉行の侍に上納する金を計算して受け取ったという内容で#793、#808と同様である。年号は1737年=元文2年でかなり古いものである。計算より金1切=銭720文であったと判る。

●#822. きのふ見し はなもけふちる風あれど
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎の子孫が所持した書。「世の中」を入れた狂歌的短歌4首。字体より明治時代の文書で善四郎の子孫が書いたと思う。

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●#821. ちらちらと梅から明し小庭哉
不明の人が書いた俳句10首。やや不明の箇所もあるが概ね解読できると思う。時代は字形より明治時代であろう。

●#820. 地形書入を以頼母子金相預証文事
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。頼母子講の䦰(くじ)に当った人が大金を受け取った時に書く証文2通である。各講中に毎年掛け金を払います。払えなかったら所持の土地を口入に渡し、以後掛け金を口入に渡します。以上の内容である。口入は保証人として金を講中に渡す人である。1861年=文久元年と1863年=文久三年の文書である。

●#819. 入用に附貴殿方より拝借仕候処実正に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した借用書。1861年=文久元年のもので年利は16%=1割6分であった。

●#818. 寛延四年分東山曽慶村御蔵入 新田御年貢下札
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎父子が所持した文書。寛延4年=1751年仙台藩の武士、高左太夫らが太郎左衛門の年貢を記載したもので、肝入の裏書がある。惣兵衛の父か祖父の惣四郎が所持したもので太郎左衛門は同じ組の百姓であろうと思う。「御蔵入」とは仙台藩直轄の田の租税である。#817など他の文書は知行の侍の税計算である。270年前の古い記録。

●#817. 〆金四切と代四貫弐百七拾六文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が本肝入運之介より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍、横沢位十郎に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1816年=文化13年である。1切=1750文である。#793と同様の交換率である、そこでは「両」としていた。しかしここは「切」で1両=4切である。よって1両=7000文になる。

●#816. 今頃に金代も相廻候節に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した手紙。仙台藩の肝入から組頭への手紙で武家から金子を貸して貰えなかったのが、ここで金子が借用できることになったようだ。卯兵衛、善吉、行蔵と善四郎の関係は不明。大意はつかめたが字は難読で誤読もあると思う。

●#815. 不納之分大急可済候中 当残上納御首尾
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎が加勢の善十郎から受けた手紙の断簡。上納金の残りの分を至急準備して欲しいとの内容である。

●#814. 御地走にても御忝次第に奉存候
八郎右衛門より陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣四郎への手紙。惣四郎は善四郎の祖父に違いない、父は惣兵衛である。1800年頃の手紙。大意は御馳走への御礼と古今集かを貸してほしいという内容。字は難読で破損の箇所もあり、誤読もあると思う。

●#813. 御手形拾壱切也 金弐両弐朱也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の惣兵衛、善四郎親子が肝入佐一郎より受けた受取書と大原村の蔵の準備書である。「金」の字が多様の形であり興味深い。

●#812. 譲り渡し申候家屋敷之事
町屋の家屋敷を売り渡す証文である。家の場所や隣の人も書かれている。銀800匁=金13.3両位である。白銀町は各地にあり、どこかは不明。最後1-2行が切れている。

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●#811. 江戸迄登る人三日先に立 此人壱日に十里つつ歩行
出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人軽部氏の所持した算法の書附。1817年=文化14年に書かれた。これは追いかけ算の問題である。

●#810. 杉形構卅俵あり高八俵あり 此数形何程
出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人軽部氏の所持した算法の書附。1817年=文化14年に書かれた。杉形に積まれた俵の数を計算する方法である。これは我々には普通の台形の面積の計算法。下の#809の説明よりも分り易い。

●#809. 杉形下の構八俵上のとまり五俵之時 惣数何程
出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人軽部氏の所持した算法の書附。1817年=文化14年に書かれた。杉形に積まれた俵の数を計算する方法である。やや複雑にみえるが丁稚に理解させるため、正三角の俵積みから計算して差引く方法を示したもの。

●#808. 成田様御分 塙喜三郎様御分
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎周治より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍3名に上納する金を計算して受け取ったという内容で#793と同様である。年号は1819年=文政2年である。

●#807. 安政六年分諸上物勘定
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入喜兵衛より組頭善四郎への1859年=安政6年の諸上物の勘定書である。計算書の指引勘定は図中に説明。ここで「切」という仙台藩特有の手形金の単位があることが判明した。1切=銭400文である。さらに4切=金1両の変換率であるらしい。

●#806. 昨日罷出数々御面子情に預り 此段奉万謝候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎の子孫が所持した手紙。善四郎の子孫の姓は不明であるが、「岩淵」、「奥山」両氏は近郷を支配した旧家である。年号は1894年(明治27年)で岩淵ふりえさんが奥山家へ入籍するとの内容であろう。

●#805. 組合嘉吉与次郎母始年符金 不納得様之御事
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入喜兵衛より組頭善四郎への手紙。冬の上物ができず御免合の者を召連るように、また嘉吉、与次郎が頼母子の年符金を差出す様にという内容。

●#804. 高壱貫文と当秋半ケ年御買受
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入の喜兵衛より組頭善四郎への手紙。1貫文と当秋半年分とを組員から取立てほしいとの内容。

●#803. 手紙二報 大原にて御條目御教授其上母始
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎が所持した短報2通。図中に解説。

●#802. 半蔵様にも御機丈夫に被成御座候段 御同慶
彦根藩士で江戸勤務の岩佐弥八郎より彦根藩士明塚又左衛門への手紙。又左衛門は半蔵の親とわかる。内容は長い挨拶と荷物を宿舎に送ってもらった物を受け取った事等が書かれる。虫食いで紙が痛んでおり、字も大変難読で長期に未解読であったがやっと把握できた。

栞800 

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●#801. 二百十日余り指懸り如何様に可仕候哉
陸奥国磐井郡曽慶村組頭幸次郎から同組頭四郎右衛門への添付書面。別に廻紙があり二百十日の厄日に室根神社(#780に掲載)に神酒か心付を供えて祈祷をするかを組頭で会合をする旨であるに違いない。二百十日は台風が多く米が収穫前に損害を受ける時期。この文書はさらに組頭善四郎に廻状され保存された。

●#800. 改暦四拾七冊 此代壱冊三拾五文つつ
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が受けた所持した文書。年が代り各組の構成人の納める年貢の帳面を配る覚でその代金は35文。惣兵衛は先頭に書かれるので最年長であったようだ。

●#799. 尚当冬済諸上物懸り 御組合一定皆済勘定書別紙
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の喜兵衛より組頭惣兵衛か善四郎への手紙。12月での皆済勘定書が済んだ事、また頼母子講金の事など書かれる。

●#798. 壱ケ年夫之半ケ年夫 御割合被仰渡候
おそらく陸奥国磐井郡曽慶村肝入喜兵衛より組頭善四郎への手紙。参府があるのでその年符を払うがここで半年分を各人から取り立て右代金をこちらに渡して欲しいという内容である。

●#797. 廿八日御郡奉行様 上奥玉村より大原御会所え御返り
陸奥国磐井郡曽慶村の組頭善四郎が所持した文書。肝入からの手紙で郡奉行が上奥玉村から柳峠、曽慶村を通り大原会所に向かうことの連絡である。#784も郡奉行が曽慶村を通る文書である。

●#796. 札銭之義は米大豆小豆にても宜敷候
村民が檀家である寺から、陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが受けた書面。年末の札銭を納める様に催促した文書である。銭でなくても米などでよいと書く。寺の名は書かれていない。

●#795. 右之通当御買受御割分 被仰渡候処
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の喜兵衛より組頭善四郎への手紙。今年の年貢での米1升の買取値段を1貫257文とするので取立するようにとの内容。

●#794. 気仙石来廿八日御受物被成下段 被仰渡候間
陸奥国磐井郡曽慶村肝入佐一郎より組頭善四郎への手紙。組の万蔵と六右衛門の米を気仙送りにするので、大原町嘉吉へ大急ぎで詰送るため俵こしらえする様にとの内容。米はさらに気仙から仙台に送られると思われる。

●#793. 三口合金半切と丸取五百拾七文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎田治より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍3名に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1817年=文化14年であった。#786と同様「半切」という単位が使われ、この時は1切=1750文であった。これは仙台藩特有の手形金の単位で4切=金1両である。各金の細目は読み違えがある可能性あり。

●#792. 小子も外に後世も無く 濁酒沢山呑払居候
陸奥国磐井郡曽慶村明神の田治より組頭惣兵衛への手紙。惣兵衛は善四郎の父。田治は肝入である。惣兵衛は西口村の友宅に滞留している。今晩は当方に宿泊に来て欲しい、自分は後世に残す物事もなく濁酒を飲んでいるとの手紙。時期は文化14年頃である。

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●#791. 来年順候五穀成就之ため 室根山におゐて開白二夜三日之御祈祷
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の佐一郎より組頭善四郎らへの手紙。今年の年貢、直接支配の北代官所の侍への納金など少なくない額が必要である。組で首尾よくして決めて欲しいとの内容。また追伸では来年の豊作を願って武士が祈祷したと書かれる。

●#790. 御横目様明朔日御昼前我等宅にて 御教壇被成下候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎佐一郎より受けた書面。郡奉行配下の武士の横目付が来て村民に教授するので明日昼飯後来るようにとの内容である。

●#789. 先も触渡候田植方之義 当日中苗留之義に申談候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎佐一郎より受けた書面。田植前で苗留する日取に付いての廻状である。この状は廻され各組頭名の下に文や印、丸印が記されている。

●#788. 見詰金上納相成候様 頼入御吟味御首尾相成候
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の佐一郎より組頭惣兵衛への手紙。惣兵衛は善四郎の父。今年の年貢、直接支配の武士への納金、蔵入米をどのようにするか。組で相談して決めて欲しいとの内容。難読でやや不明の箇所もあるが大体の意味は判明できた。肝入と組頭の間の手紙は互いに字の癖がよくわかっているので第三者には読みづらい。

●#787. 壱人代百四拾文宛 来る廿二日迄に相送り呉候様
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎佐一郎より受けた書面。才口村の留平へ何かの費用を渡すので1人140文宛集めて欲しいとの内容である。猿沢村が代表でどこかへ収める金のようである。

●#786. 四貫五百八拾三文 冬割
仮肝入の喜兵衛より組頭善四郎への冬の村への納め分の計算書である。市民税のようなものである。仙台藩支配地曽慶村では金の勘定は切(1両の4分の1)、分(1両の10分の1)、厘(100分の1)、毛(1000分の1)と10進法であった。さらに銭の「文」であるが、ここでは1切=銭1600文であり時代により変動したが1切=1000-1500文位であった。また1切=1/4両であるので東海道筋などの1両=銭4000-6000文と比較して同じ銭であったようである。年号は1859年=安政6年12月である。下図中の「両」は「切」であると後に判明したのですべてを「切」に読み替えて下さい。

●#785. 御婚礼御首尾よく御調あそはし 幾万歳もの
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。婚礼のお祝いの手紙とその返事である。

●#784. 御郡奉行様当来候九日 曽慶村通り下打壁村へ
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。支配者仙台藩の郡奉行が曽慶村を通って下打壁村へ行くので村の掃除と木の伐採、当日の早朝の集合を連絡している。

●#783. 連日照続水不足 御百姓共一統迷惑に相及候に付
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛(善四郎の父)らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。大肝煎の及川芳一郎から申渡された。連日の日照で水不足。竜神の雨乞、さらに大原八幡神社にて祈祷を二夜三日行う。結願の日は精進して参詣するようにと書く。

●#782. もちたるかたてをずぼりときれば あいたたとなんとした
地歌の「綱(つな)」で増補まつのこゑ(1809年刊、南竹所蔵本)から紹介する。羅生門で渡辺綱という侍が茨木童子という鬼の腕を切る所。起源が平家物語で1300年頃の物語。仮名で難解な箇所がある。箏唄及地唄全集(Googlebooks)を参照した。

栞780 

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●#781. 残半高分御塩くり 早速取立上物上殿可有之事
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。曽慶村より春に納める塩の未納が半高あったが秋に上物で納めるようにと書く書面が大肝煎の中津山直三郎より申渡された。そして春物が質が低いものだったので上物を今集めて準備するようにとする。肝煎千万佐一郎がこれを書写して各組頭に渡したものが掲載の書である。難読の文書にて誤読もありそうであるが総意は間違ない。中津山直三郎は曽慶村に近い大東町猿沢に住んだ大肝煎でかつ俳人であった。

●#780. 室根山本宮御屋根替方 諸色御人足御割合
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が佐一郎から受けた手紙。近くの室根山の本宮の屋根を葺き替えるに当っての村の百姓の負担など覚を書いたものである。縄の長さは尋が単位である。近所の折壁村にも話をしたと書く。全体に解読難であった。内容もやや不明があるが全体の内容は把握できた。貨幣単位は「永」又は「銀」であろう。室根神社は現存している。

●#779. 当方以御蔭無異消光罷在候条 御休意可被下候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。藤木常久より松尾為美、為教への手紙。藤木常久は東京に居る神社関連の人。なぜなら京都を「御地へ行幸」と書いているので。手紙のように1877年=明治10年に確かに天皇は京都に行幸した(図に解説)。そして松尾相克はこの時天皇に供奉した。相克は松尾神社関連の人でありこの手紙はその時に托されたものである。また藤木常氏(多分息子)が京都で松尾為美の世話になっている。この手紙は天皇の京都行幸など大変勉強になった。字はきっちり整然としており高い教養の人である。

●#778. 聖護院森地所売却金之義は 御廻金相成候哉
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主の松尾相顕から松尾為美への手紙。相顕は相完より、為美は豊前より家督を継いだ明治初年頃のもの。松尾相顕は東京府に貫属となった。維新で非蔵人職や瀧尾、登世など周囲の人々の所属する戸籍簿を決める必要があった。聖護院の森売却も同時期であったとわかる。

●#777. 豊前様へ御書付御出し承り候 其御書付しはらく御まへ様え御預り
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。中村歌より松尾豊前の妻おとわへの手紙。先日は御馳走になって長居して有難い。また中納言の事で周囲の人々が豊前への書付を提出したが、この書付はどうか豊前に披露しないで預かっておいて欲しい。以上の内容である。中村家は不明ながら松尾家同様非蔵人の家柄ではないだろうか。

●#776. 是迄心得違仕居候 向後急度改心情勤可仕候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。義質より松尾豊前への誓約書である。明治維新直前の慶応4年=1868年のものである。義質は豊前の家来であった人に違いない。家来に不始末があるとこのような誓約を提出させた。#771には「家来が1人もいなかったので豊前が大立腹した」とあり、この関連かも知れない。#763にも家来の不始末の許容を乞う文書あり、やはり楷書で書かれている。

●#775. くこんのすきな様に 扨々私事しんはいいたし候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。千代より松尾豊前の妻おとわへの短い手紙。#772のように千代は松尾家に日用品を調達する人であった。ここは豊前が酒好きなので、また馬に懸る金も必要であり心配であるとの手紙。#774には豊前の酒の覚があり。

●#774. 酒金弐両三分也 伊丹壱樽
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。酒屋能儀から松尾豊前への酒の覚、及び小松屋の酒代請求覚。能儀は酒の産地は「伊丹」と記す。能儀は出雲国能儀郡の関連の人だろうか。松尾豊前は「井戸豊前」とも呼ばれていた。松尾豊前は酒飲みであった。

●#773. 七百七十弐文 三きれふきん 壱尺百廿文きれ
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。続いて千代より松尾豊前への覚書。#770、#771に登場の千代は松尾家にこのように様々な日用品を調達したり雑用など世話をする御用商人であった。ここにもあんどう(行灯)、ふりき=ブリキの火皿が出ている。「加賀藩京都屋敷」には御用商人による様々な記録を掲載している。

●#772. ふりき火皿八百文 金弐朱と弐百文さら下駄
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。千代より松尾豊前の妻おとわへ覚。#771に登場の千代は松尾家にこのように様々な日用品を調達する御用商人であった。幕末にはふりき=ブリキがすでにあった。

栞770 

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●#771. 豊前様御出もむまもろともに 大あめにて大ぬれ
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。千代よりおそらく松尾豊前の妻おとわへの手紙。千代は松尾家に日用品を調達する人であった。竹の子を貰った御礼。豊前が店に来たが雨で馬具や馬もびしょぬれになった。そこで着物など調達した事など書く。

●#770. 不存寄蒙御沙汰難有 恐縮罷在尚宜希入候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。相顕、光敬から松尾為美への返事の手紙。「義兄」とあり義兄弟の間柄である。為美(ためよし?)は明治初期に豊前を継いで当主となった人である。

●#769. 早く拝顔仕度候間 左様御承引可被下候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。積依から松尾凌秋(豊前のことか)への手紙。近日年内にお会いしたいという内容である。

●#768. 惣油壱丁 代弐両弐朱に御座候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。油屋庄兵衛が書いた油の覚で松尾豊前宛である。「丁」の単位が不明ながら「斗」と同じと思われる。

●#767. 御留主中に付 猶御帰館之上及御披前
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。公家の四条家の執事から松尾豊前への返事の手紙。蕨1盛を送ってもらったけれど主人が留主なので帰館したら披露します。以上の内容である。

●#766. 分賜米取向之儀に付 御約定之通辰半刻頃
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。重寛から松尾豊前への手紙。重寛は「松尾義兄」と書いており血縁である。下間は浄土真宗の者だろうか。宮中から特別の分賜米を受け取るので明後日午前9時実印持参下さい。以上の内容である。重寛は豊前同様に宮中に仕えている人であろう。

●#765. 右之通り此金壱両三分弐朱と百八拾九文
京都大丸店清八から宮中の雑用職、非蔵人の松尾豊前への覚。内容は白縮面6.5単位の請求書である。1868年=辰年=慶応4年の文書で金1両=銀99匁=銭6452文であった。江戸大丸店の文書は#162、#591、#193に掲載、江戸店と京都店の印の違いを参照してほしい。

●#764. 岳父も丹羽迄行向置候間
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。三条実美に仕えていた村上右兵衛大尉から松尾豊前への返事の手紙。村上右兵衛大尉は#763の村上左兵衛大尉の養子らしい。図中に解説。

●#763. 急度改心謹慎 格外之御憐愍寛太之御沙汰を
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。三条実美に仕えていた村上左兵衛大尉から松尾豊前への返事の手紙。及び松尾豊前より三条実美へ差し出した手紙の原稿。内容は図中に記載。

●#762. 卒爾奉拝眉度 先此より中西家に罷出候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。神部能登介から松尾豊前への手紙。今日中西家に同伴で行きましょう、加賀藩主も来るが、詳細は拝顔の時に話します。以上の内容である、字はやや難読である。

栞760 

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●#761. 絹針御注文 早速調達仕候て差上候筈之処
針問屋から京都三条通河原町西入ルに現存する針屋老舗みすや針の幕末の頃の主人福井伊予掾(いよのじょう)への手紙。旧冬注文を受けた品物がそちらに早春に着いてよかった。また新しく注文を受けた絹針、細物が延引しているが近日中に出来上がるのでできたら急ぎ送るとの内容。しかしこの所絹針製造の者が高値を言って来ているので以後よく考えて欲しいと書く。最後1-2行分が切れているが予測して書いた。関連文書は#678-#686に掲載済。

●#760. 過日は御留主中え参上 預御馳走深難有奉存候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主、相完の子相隆から松尾豊前への手紙。蕨を貰った御礼と御馳走になった御礼で、親の相完は留主だった。桧箕の代金1両2歩とあり明治になる直前頃のもの。

●#759. 御用透御見合にて御退出懸 御入来希入候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。これは京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。自分は森元条所へ移居したので近日御入来を願うとの内容。相完は自分を「森松尾」と書いている。森は「聖護院の森」で聖護院の事、名字は松尾を名乗っていた。鴨川から東へ京大医学部付属病院を越えて聖護院にかけて「聖護院の森」=錦林が広がっていた。名門の京都第四錦林小学校の名の由来がわかり、今も現存するのは嬉しい。一方我故郷の古い小学校は統合で消失してしまった。

●#758. 不相替蕨沢山被下 深忝奉存候
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。蕨を沢山貰った御礼の手紙である。

●#757. 今般熊野社神主筆生之侭 兼勤被申付重々難有
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。記載に京都府、神祇官とあり明治元年から明治4年の間に書かれた。相完は熊野神社神主と政府仕官を兼帯している。「筆生」など明治初年頃に使用された単語が勉強になる。

●#756. 還奉知にて多端之御用向には御座候 私義は気丈
幕末頃に宮中の雑用職を勤めた非蔵人の井戸松尾家が所持した文書。これは京都熊野神社神主、相完から松尾豊前への手紙。記載より1868年=明治元年12月のもの。相完、松尾豊前は共に皇族の伏見宮邦家親王の子供達の転居などの世話をしていたことがわかる。参考論文:京都大学附属図書館、「井戸松尾家文書仮目録について」。

●#755. 御顔直させられ 限りなふ御めてたく存まいらせ候
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。結納祝いの手紙と返事である。御嬢様の意味の「五もじ」がある。#224、#431、#646にも同じ意味で掲載があった。

最後 

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●#754. 此度誰殿田舎へ有付被申候 御苦労相伴御出被成候
武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれていた筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。この度「誰殿」が退隠で田舎に住み着くのでお祝いの御馳走をするに友人に同席を依頼する手紙である。

<文書番号とタイトルの一覧>       上に戻る BACK TO TOP
#1. 御家流の書と唐様の書
#2. 民画三点
#3. 英一笑の極書
#4. 大倉好斎の鑑定書
#5. 武家の上司への手紙
#6. 居候の供左衛門引き取り申す
#7. 宝暦13年の年貢計算と請求の記録 相違有間敷者也
#8. 能「花月」の始まりの段 我が子はいずこへ
#9. 大金94両借用、餅米270俵と仙台大豆55俵は質物に
#10. 天保3年田畑売渡証文
#11. 宝永5年の南部馬飼育所の馬飼料請求
#12. 安政6年、御憐愍で歎ケ敷困窮者に金を請願
#13. 元禄12年の治水用棚杭の木の伐採命令 207本は根伐
#14. 寛政元年の柴山を売る証文 我等取持候処
#15. 宝暦10年の田地売渡証文 御勝手に支配を
#16. 延享2年の年貢未納分の約束手形 御年貢に指詰
#17. 浜松藩家臣の尾張藩主への奉書 御旅館江罷出候
#18. 宝暦12年の畑売渡証文 何角申仁非ず
#19. 寛政7年の年貢皆済目録
#20. 元禄7年、年寄役就任はお断り申す 御断此如善処を
#21. 戦闘準備をして登城之事 腰兵根持参の事
#22. 明和8年の年貢請取帳の表紙
#23. 寛政6年の田地売渡証文
#24. 寛政5年の田地譲渡証文
#25. 明和5年質物畑証文 何角六ケ敷儀非ず
#26. 弘化4年、酒の通帳 拙者大酒家に非ず
#27. 明治3年、母への家出の書置 後は宜敷取計を
#28. 末寺の困窮にて御輪番所に申請 一紙半銭では無理
#29. 正徳4年、儂の長期送りに差出す状 不調法の極
#30. 垣根修理用の杭と柴、ぼけの採取命令 柴420本、杭140本
#31. 四名の者未納の年貢の一部金も不払 払及兼候
#32. 常陸国を江戸時代の子供が記述 ひたちなめ川村
#33. 宇都宮市の所有地の覚書 2反歩鶴田鳥
#34. 天保15年、42両の借用 無拠要用
#35. 父の村役就任には座敷不足と武士の住居占有 善処を願上候
#36. 境界を越えて松の木を伐採 我は伐主
#37. 妻と熟談にて離縁、御憐愍で宗旨除を
#38. 拙者、娘と離別後5ヶ月、双方は破談とす
#39. 国蔵の御領内立入許可を歎願 廣太の御慈悲を
#40. 伊豆三嶋神社の大塔宮奉納太刀
#41. 長州藩士小幡高政の御達書 宰相所持の軍艦2艘で大砲数発攘夷実行
#42. 美濃國内記村庄屋の借金返済 次又何時借金か
#43. 薮を少与囲うは心得違いと村方衆より申下し
#44. 御尊君様の早朝御出向を頼上候
#45. 村中の談事で永代屋敷取替に支障なし
#46. 此書御覧の上、早速奉還有べし
#47. 武家の最高級の上司への元旦の挨拶 参人々御中
#48. 御廻米御届代1.49両請取申所実正
#49. 大麦畑を質地に南鐐銀16枚請取
#50. 商家番頭より旦那へ難渋 金欠永30貫文
#51. 幕府領管轄武士の山守への許状 許状如件
#52. 当村長右衛門旅人を泊め置候 乍恐御陳書
#53-I. 生麦事件後 英国書簡の大意
#53-II. 速兵端を開候哉も 蕃屏之任の者備えよ
#53-III. 御一戦之御覚悟 横浜より川崎迄の海岸也
#54. 幕府の御家人が積聚で急死 承祖は除き遠縁に相続を願申す
#55. 船荷の送り状 目形改慥積入荷送
#56. 田の石高計算は誠に正確にして違有間敷候
#57. 廣太之御慈悲を 焼失ではたか麦5石は延納に歎奉
#58. 底引網之肴 抜売仕間敷事
#59. 檜六本六両弐分也
#60. 出作不足の散田年貢米 肝煎は難儀に御座候
#61. 農馬悪馬に成候 借金に難渋
#62. 随分吟味の上かれ物書頼上候
#63. 我当字之名手也 山売葉出堂座八両受取
#64. 村税は商家規模に随而是違可有者也
#65. 新餅與松茸弐本進上仕度候
#66. 相撲興行に御方様連中来臨
#67. 大借不仕合凌方六ケ敷 養子娘養育料十五両受取
#68. 御一代之事 田地蔵立喜ひ有長命
#69. 鱒荷商内新登に御座候 下野関置米案居申候
#70-I. 讃岐の田地譲渡手形 石高計算は八拾弐年前に無相替御座候
#70-II. 讃岐の田地譲渡手形 下田は九掛けに御座候
#71. 丹波国桑田郡辻村周辺の田地譲渡手形のまとめ及び讃岐國との比較
#72-I. 惣代庄屋栄助四年前の江戸直印御書附紛失 癇症にて何事も相分り不申候
#72-II. 癇症躰、無正気の栄助の召出、吟味、取調は御免願上候 不都合之儀而已
#73. 金5両之質地成共 建家十二年借用申候
#74. 丑の年寄八年 銭利相済不申候はば御死配を
#75. 文久二年ものはそろへ その壱 有そうて無ものは「二本さしの通人に揚屋の身上」
#76. 苫百三拾枚代金慥受取 両替六八夕に御座候
#77. 拙者之相撲番付 御落手可被成下候
#78. 商品重量と金換算 僅之違有間敷候
#79. 豆腐三拾文に候 五丁宅迄御届申上候
#80. 我書籍を好む 次十冊斗頼申す
#81. 乍御苦労今日中御成必々奉頼候
#82. 山陽先生之詩書高値にて売候
#83. 甚御面倒様 手紙着次第親共御達願申候
#84-I. 我于村参会紋付上下着用 向後我侭御改申候
#84-II. 我仕合崇忝仕候 逐従上下并名字御免許
#85. 文久二年ものはそろへ その弐 けんのんなものは「箱館の用立に松前行の早出帆」
#86. 出羽国八沢木道悪道に御座候故 普請致度候
#87. 弘法大師御除極悪日
#88. 寳国寺様御講伎会は何頃相勤候哉
#89. 質物米一俵此者尓御渡可被下候
#90. 縁付の宗旨送り 浄土真宗に紛無御座候
#91. 宗門改にて寺送り宗門一札 躮種吉妻に縁組
#92. 御膳料理五人前 〆弐圓廿七銭也
#93. 立后御用一冬御表番 半右衛門壱領
#94. 木の販売は銀壱匁で以て購買出来る重量が単位にて御座候
#95. 三拾両借用人無所勘当 加印人拾両に利足三ケ年で払申候
#96. 御郡代様明日御成 紋付之羽織は何方に留置候哉
#97. 文久二年ものはそろへ その三 無てこまる者わ「金銀にうちのかか」
#98. 油は高価に御座候 壱升銀二拾六匁頂戴
#99. 箋注蒙求并秘事百撰 御返却申居候
#100. 山村信濃守様御見番候得ば埒明
#101. 太縄之壱貫は銀七分三厘にて御座候
#102. 利息十月十二日着に相済候様急々御願申候
#103. 三十六歌仙一両日中 御拝借仕度奉願候
#104. 御境御名産鮎柿ゆす送り被下 千万忝
#105-I. 諌計勧め拾弐軒猥に寺替致し 千萬歎ケ敷奉存候
#105-II. 寺替に致様に色々言立淹立させり 凶作難渋弥増に相成百姓永続難仕候
#106. 松兵衛殿取扱被下候上は毛頭故障之筋無御座候
#107. 過日は御来駕忝候 他行折節之義鳥渡御尊来
#108. 九拾六匁之油糟 御預り也
#109. 其御領所之留治と申者 当領分二口境と申所より相越儀死居候
#110. 先日粗御物語候茶入墨跡之懸物 御才覚資入候 
#111. 北前船荷物味噌七拾貫百 弐百六拾九匁六分也
#112. 御たつねあらまほしく候
#113. 丹波屋手代惣治郎 諸事取計正月より桂材木屋御仲間へ
#114. 来四月朔日江戸詰被仰付 有難仕合奉存候
#115. 松前表出帆仕候 筵包四箇安宅米屋殿え差送
#116. 江指表大出火蔵三つ落 松前烈風破船数多
#117. 大同様之代呂物 値段何程も御買取可被下候哉
#118. 鳥渡申上候四本物四寸角に相成不申候
#119. 鯡類高値喜悦罷在 久遠より江差迄新網立ち
#120. 今日御暇出御帰郷 目出度存候
#121. 芳札致薫誦候 暑中為御見舞御儀忝存候
#122. 上円苫百枚三拾五匁 金弐歩に羽銀弐匁五分慥に受取
#123. 先日廿貫計御残之荷 御帳合御印替可被下候
#124. 御願申上置候米 今日此ものえ御渡し可被下候
#125. 増寿丸作事相済下り物積入候 当年高値に困入申候
#126. 愚妾様明日芝居見物 貴家御内君御同伴御誘
#127. 御仲間衆中右之商い仕候 池甚弐百九拾九匁
#128. 拾三両三本積入 御改請取可被下候
#129. 苧類案外高値 作事船数多に大金入用当惑
#130. 桧三間丸太與鳥居様弐本 大急ぎ御積登し被下度候
#131. 壱枚にても御出来之程奉願 年越兼申候
#132. 相場村之分計上四五分迄受取申候
#133. 在人別出離之宗旨之義 写し取置可被申候
#134. 厚紙壱束銀三拾六匁五分に御座候
#135. 御達之趣事済大慶 案文之通調印出来候
#136. 肥しもの頓と引立不申大いに心痛
#137. 左八郎六三郎文四郎永井姓にて彦兵衛白井姓
#138. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その壱
#139. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その弐
#140. 新春之御慶重畳目出度申納候 御越歳珍重御儀
#141. 御入船途切物気配克 御入船在之物嵩少々行当り気味
#142. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その三
#143. 伊勢講御当番 如何敷候得共御懐中矢立進上
#144. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その壱 作兵衛の先祖は加賀の仁、高瀬に百年仕申候
#145. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その弐 御留守居役は最上の御奉行様にて御座候
#146. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その三 江戸直便飛脚と日用御用は難有仕合、三度飛脚は御断
#147. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その四 紫野芳春院昭堂再建 加賀表御武家十七名御登り
#148. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その五 金沢大衆免より中心へ家千弐百余焼失致候
#149. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その六 前田主税様御館入之儀不相叶も献上品差上
#150. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その七 芳春院御仮屋御普請 芳春院様弐百回忌にて御座候
#151. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その八 当春太子様御降誕 御進献物にて御参内
#152. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その九 芳春院御法事にて御上京之御役人多数
#153. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その拾 殿様の御男子御誕生、前田主税様叙爵
#154. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 拾一終章
#155. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その四
#156. 正月の餅はたべ候てもくるしからすが
#157. 御子息様えも宜被仰上可被下候 毎度御不音仕候段御免
#158. 乍慮外御心安可被下候
#159. 木仏尊像壱躰御札御染筆 難有安置可有之候也
#160. 道中にて間違為急変等御座候はば 紀州近きは連名方へ 上方は醍醐表へ
#161. 先日は寛々預御馳走難有仕合
#162. 越後屋大丸屋行事 値段相下候様厚可心掛旨 被仰渡奉畏候
#163. 内記へ母より 飯米、炭、茶を御取寄被下候やうに願上候
#164. 内記様へ 御茶之品御見舞得貴意候印迄
#165. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その五
#166. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その六
#167. 拙寺身内之僧 何卒一席御法座御勤被下度奉願上候
#168. 我常山記談を書写仕候
#169. 千菊丸殿へ 釈迦達磨をも下部となす程の人に成り給へ
#170. 荷物売様何連も当てに相成不申 きみあしき事に奉存候
#171. 院主出立にて上京参殿被致候 留主中死去人在候節他寺にて御世話
#172. 美作国井村の平右衛門四国辺路に被罷出候所 伊予国井内村にて病気養生
#173. 生野御掛屋へ 御上納銀壱貫五百三拾六匁七分八厘御改可被下候
#174. 借金利足は月一分五厘に御座候 御京印米請取申候
#175. 借金は五拾目残すが佳き也 今津屋孫十郎殿へ
#176. 御廻米江戸大坂予州金岡湊入用 追加割にて御座候
#177. 何卒不苦候はば此次弐三冊 拝借可奉願上候
#178. 困窮村方にて人少き村方に御座候 町場市場にては無御座候
#179. 伊勢津飛脚問屋矢野屋吉三郎手代差扣へ居申候 御返翰出し如何
#180. 野子無異在然候 乍恐御心安思召可被下候
#181. 先何事も永日得御意可申上候
#182. 帳面殊之外応々相成候段 何卒貴所様にて御調可被下候
#183. 越銀段々延引仕候 此度差送り申候
#184. 御出立御延引を願上申候 日切にても道中腹痛と御断申上 可相済奉存候
#185. 当村清蔵一件之義 御心配被成忝仕合に奉存候
#186. 右之衆八名連状を以羽出村庄屋へ申来り候 徒党同前にて無拠御吟味
#187. 御勤人惣代様 銀九百三拾三匁 井村より上納にて御座候
#188. おにじりは香の事に御座候
#189. 書置も方見となれや 筆跡残には何国に住むとも見て候らわん
#190. 掃部、帯刀、靱負、修理 人名にて御座候
#191. 啓蟄、無射、春分、太簇、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、臘月 古い月名にて御座候
#192. ゆほびかなる池に蓮のいとうるはしきか 目もあやに所せきまて咲出たり
#193. 大伝馬町三丁目大丸屋より馬喰町三丁目下野屋へ 〆壱貫百拾六匁七分九厘請取
#194. 皆川之御摹写 好も猶御工夫御願上候 粉本お渡し申候
#195. 貴僧様先頃より御痛所にて 被成御難義候由
#196. 此壱封乍御世話 御指出し被下候様御頼
#197. 貰候子は先親元へ差帰候 猶御出勤之上御談申取計候
#198. 御修法毎日御食料之儀 其須御入魂難有御座候
#199. 右の手こふしを握り頭も砕けゆと六つ七つ叩き給へ突倒し座を立つ
#200. 御吉慶千里同風重畳目出度申納候 御用向何分なり共無御遠慮御申越可被下候
#201. 難有御沙汰頂戴仕候 御文庫之内壱折三十本御恵投忝奉存候
#202. 芸州不動院より御達し 貴公様のを私ひらき大くに失礼御用捨可被下候
#203. 親は抱そたて少も病有ては神に祈り身もかはりたきほとに思ひ 子の息災にして成長を願う
#204. 文久二年ものはそろへ その四 こわそうてこわくなへものは「御足軽の威光に古町の居声」
#205. 持病之痔強く差替え 御撫物之義は難勤故断申候 伴僧は請申候
#206. 此度無別条相続被仰出候段 当方も歓喜不過之仕合に御座候
#207. 切売のすいくわに無官のあつもりにて御座候
#208. た葉粉等舟荷弐固相届不申候 不調法成事甚敷御座候
#209. 貯石御置米御見分 御越無成候に付人足御数六厘要用
#210. 緋無地壱速丈けにても為御染被遊被下度候
#211. 御地御婚礼首尾よく御調遊しまし目出たく存まいらせ候
#212. とよ次事たんたん御世話とも忝存候 あらまし右近に御きき可被成候
#213. 養子庄三郎婚礼相仕候 依て来る廿二日麁酒進上仕候
#214. 養子庄三郎婚礼相仕候 友人や血縁の者を交えた宴にて御座候
#215. 御頼申上候絵讃之事 御世話不浅忝候
#216. 御きけんよくいついつ迄も相かわらす御出可被下候
#217. 慈心院方へ之書状之返事今に相届不申候
#218. 徳右衛門山御引受被成下候様に願上候処 早速御引受被成下千万忝仕合
#219. 賦十一月中無滞急度可皆済 絶人於有之は百姓辨御年貢可納所
#220. 金一両は銀六拾弐匁にて御座候 大工は一人四匁之賃金
#221. ほしたら茶能書掛御目申候
#222. 明日東寺へ行向ひ候 御輿并召連候者之弁当三つ願上候
#223. 屏風之義被仰下候 年中は余日御座なく春早々仕置差上度候
#224. 御日柄よろしく御五もし様御婚姻到候事 御めでたくまいらせ候
#225. 種粕六五也頂戴 代銀弐拾七匁五月後迄払いに御座候
#226. 太郎兵衛儀鉄炮疵受候に付 悴半次郎仕業是有間敷候
#227. 嘉永六年之往来手形 此度信州善光寺并日光山富士山為順拝罷出申候
#228. 被任例笋一折被為差出候処 甚満足致候
#229. 甚麁末之品殊に風味如何敷存候 任手製に進上仕度候
#230. 廻向のみ早々帰山奉存へく存候所 此間京着より腹薬又工面あり
#231. 此度菊之御紋遠慮可仕旨 五ケ院え従御門室仰渡候
#232. 雨一向ふり不申殊の外ひでりに御さ候 知行所なとは川水空に候
#233. 右六町昼前収納可致候事 御蔵入次第帰宅致させ可申候事
#234. 立木千本御払下 年賦弐石壱升宛十ケ年分無相違上納可致候
#235. 開山大師八百五十年忌来る丑の年也 依之諸役人下行米半減に定置候
#236. 人命大切之御事に奉存候に付 非人相果て候にて御届申上候
#237. 当御末流修験に相違無之候に付 願之通院号宝蔵院御許容被下候
#238. 来春御修法御参勤之義に付 舎利守御頼被申候
#239. 二条御城天守火災の関東御機嫌伺い惣代入用
#240. 房君様御誕生御祝餅 御頂戴被成可被下候
#241. 醍醐は往古差障も有之候由 御許容無之趣に相聞候
#242. 御出下され候もと入まいらせ候
#243. 熨斗目の義御了簡違御座候間 未申付候はば見合可申旨
#244. 繁丸容体書 大弁も一日に壱度つつ能々通仕申候
#245. 明日一言寺之御祈祷之御札 例之通差上候
#246. 紅紫之二色相除諸色之内 晴之儀にて情格別に何色を着用
#247. 余り長髪にも御座候は甚以失礼之至に御座候
#248. 此品時候御尋問之印迄に致進上之候
#249. 次後御出京も候はば 必々御逗留も候様奉存候
#250. とふそとふそ私に内々にて少々はかり 小使下しおかれ候やうにくれくれ御願上
#251. 香水壺出来合に克合候壺被用候
#252. 御飛札拝見皆て大に驚入候
#253. 薬倍御用ひ少々御験も御座候御事や 宜思召候はば又差上可申候
#254. 御行法の御香水入申付候処 漸々五つ御間に合由に候
#255. 白赤水引、末広六本等 六ケ院様割壱ケ院様分三匁壱分九厘つつ
#256. 次第に病気指重候 養生不相叶病死仕候
#257. 加納為作殿仰日無相違心承仕候
#258. ぜひぜひちかのうち御はなしのみ いのりまいらせ候
#259. 御りよもしなから御心やすくおほしめしも遣候
#260. 銀壱貫四百目に候 六拾壱匁六分五厘かへ
#261. 銀札百六拾七匁三分八厘 当年より年壱俵之六ケ年賦に致置候
#262. 右蔵本去方より相望申人出来仕候 甚こまり申候
#263. 御上様ますます御きけんよく御入遊はし 御めてたく存上まいらせ候
#264. うみ山御はなし申上候へと存まいらせ候
#265. 上之思召にて休息帰り申候へ共 今日に至迄一日も休息は不致仕合に御座候
#266. 文久二年ものはそろへ その五 益の無ものは「揚屋の男に若後家の寺参り」
#267. 文久二年ものはそろへ その六 強そうて弱きものは「入むこのりきみに亀田しま」
#268. 年頭御門室様献上之十帖入用覚
#269. 少し用事有之候に付 何卒暫遅参之義御願申上候
#270. 商人良輔から父への長い手紙 その壱
#271. 商人良輔から父への長い手紙 その弐
#272. 商人良輔から父への長い手紙 その三
#273. 昨日無滞相済候趣に承大慶不過に奉存候
#274. 大元帥御撫物申出候義付 御吟味之上四ケ院不都合之言上仕候
#275. 門室御挨拶被下候はば忝奉存候 御執成上御指図偏に奉願入候
#276. 是十前後の注進并交右御道具目録
#277. 無拠用向出来仕候 昼迄之所御入魂御願申上度候
#278. 近日紀伊郡三草山にて所司代組与力同心 炮術稽古被申付候有
#279. 麻上下若し宿元へ帰り候はば 乍憚御登し可被下候
#280. 山上伽藍分出銀惣合
#281. 御見舞殊に被預御世話忝奉存候
#282. 御寿何かたも同じ御よに御にきにきしく 祝納まいらせ候
#283. いかさま五月中まては罷上り 緩々可得御意候
#284. いよいよ御かりなく御入候や きかまほしく存候
#285. 四軒に割壱軒方 右当廿五日迄に持参可有候
#286. 伽藍勘定帳御越 慥に落手御儀為趣致承知候
#287. 御門室様東上之儀如先報 広徘徊仕候様に御赦免
#288. 右引残銀受落可被成下候
#289. 醍醐寺御貸附の記録 〆銀弐拾弐貫五百九拾壱匁に御座候
#290. 只今御代参相勤申候間 御家司宜御披露可被下候
#291. ほうそうかろくいたし候様 御きとう被成可被下候
#292. 修験は冥加銀年之差出し可申候
#293. 蓮華光院様被為承大僧正宣下
#294. 乍御苦労御上京可被下候 鷹司様之出来 九条様之方不出来
#295. 恐入候得共何卒昼頃迄 御暇願上度奉存候
#296. 故郷へ帰り申候 伏見は通不申候間を思召可被下候
#297. 賎母義御尋問被下忝弥達者に罷在 頃日清水開帳罷登候
#298. 無御別条皆様御在府も成候 珍重不少候
#299. 清水忠門私迄窺暇候 相叶候儀に御座候哉
#300. 近来到着大酒御持賞被下 忝奉存候
#301. 十二日斎 こんにやく、白あへ、小いも、御飯等にて御座候
#302. 美濃南光院儀御家来修験に可被加候 御礼式にて参殿可被下候
#303. 僧衣注文 服、袷、襦袢にて御座候
#304. 寺社方役人月番に寺扈従に御座候
#305. 大僧正様益御機嫌克被為成 め出度奉存候
#306. 熨斗目作製五拾壱匁五分に御座候 手附金壱歩頂戴
#307. 京都に居候う迄は 御元のかほはかり存申上居候
#308. 銀百六拾壱匁九分此替 銭拾七貫四十一文に御座候
#309. 倍御清福被遊御座承度奉存候 私無事息才にて相暮候
#310. 御双院様益御平康可被遊御座候 珍重不少奉存候
#311. 御間暇も候はば茶相催申候 御勝手如何に候哉
#312. 松尾寺無宿当役 三輪山見分相済候段御届之趣
#313. 乍御苦労是非御下向可被下候 御不審御気遣と存候得共
#314. 小左衛門より只今人差越候 則来状相廻し候鳥渡返書相認候
#315. 用事無之候ても世間外聞も不宜候間 一度は必御下り被成候
#316. 御太刀馬代金壱枚 縮緬三巻二種壱荷献上
#317. 其地只今道中之御儀に候へば 何にても御答のみ罷成候
#318. 御ひふ飛色壱つ 右急々御仕立可被成候
#319. 五日発駕之早船帰城申候 借申付珍重奉存候
#320. 米五斗代三十匁 天満宮出銀三匁三分にて御座候
#321. 母様も此間少々御気に御中り 御薬御服用成候処
#322. 御苦労に存候得共 是非共貴院御下向無御座候ては
#323. 利足は月弐分年弐割四分にて 元利〆六拾五匁八分九厘に御座候
#324. 年始惣代等之算用書相渡候
#325. 明廿三日御使左右田氏被相勤候 態御入魂被致候
#326. 極密用、当薬御減之上は又々御大事に候間 何卒御無難も祈る義に御座候
#327. 助三郎方迄態飛札を以 為持指上申候
#328. 当春は八日より十四日迄御修法にて御座候
#329. 今日より上京仕候 年預代龍光院へ相頼置申候
#330. 暑候へとも弥御堅固暮被成候哉 御承度奉存候
#331. 此壱袋麁末之品に御座候得共 円成坊登山仕候御印に進献仕候
#332. 尚々城主御対顔之事如何候哉 無心元若し
#333. 断簡四報 改暦之御吉兆際限御座目出度申納候
#334. 断簡小報六報 御冬酢之儀御仰被下筋小徳利六つ差上候
#335. 銀十弐匁壱分壱厘 此米弐斗弐升壱夕を未進の内へ引申候
#336. 先方思ひ入も御座候故 年輩之方へ申遣し候方宜存候
#337. 御逝去に付従去る三日至来る十八日 女御様御慎に候
#338. 弐匁四分らうそく、七分御せん、弐匁五分御入用にて御座候
#339. 断簡小報五報 風邪御難儀承意候得共乍御大儀御下山頼入度候
#340. 断簡文末集六報 期永日之時萬々可申上候
#341. 断簡小報九報 御寺内人少に可有之候間 諸事御心附専一候
#342. 延紙白銀そうめん弐升樽むしかにて御座候
#343. 余力ある時は手習よみ物第一に志を失ぬこそいみしかるへし
#344. 上醍醐寺慈心院年預雑掌之引継にて御座候 宥円、俊応、澄翁
#345. 熊野之医師之記録 その壱 口上:役所正銀之御引替無之に付薬種取寄之儀不及力候
#346. 熊野之医師之記録 その弐 口上:引替筋之儀に候へば先町役人え出し候様にと被仰候
#347. 熊野之医師之記録 その三 口上:身をすてて推返し推返し御願申上候処御結構言仰付有
#348. 熊野之医師之記録 その四 口上:和歌山之御評諚之上札場へ薬種代之儀引替申様被仰出候
#349. 熊野之医師之記録 その五 紀州藩主、新宮藩主御成の記録 藩主御前は木履脱申様
#350. 熊野之医師之記録 その六 野呂元丈ら自江戸薬草御尋に新宮到着
#351. およしは痔疾余程六ケ敷 煎薬膏薬等被呉養生致居候
#352. 御上屋敷も御普請も追々御出来に相成 正月は御上屋敷にて相祝義申上候
#353. 歳末之為御祝儀品々 被懸御意忝祝納仕候
#354. 毛附に付御繁雑之御中 御煩は敷可被思召候
#355. 女筆手本その壱 中元の御しうきまてに指上まいらせ候
#356. 女筆手本その弐 水菓子遣り下され 御とりとり様えよろしく御礼たのみ上まいらせ候
#357. 壱人参上仕候 御目見被仰付候はば呼に上げ候如何と奉存候
#358. 此肴他より貰申候故進上仕候 御内室様も宜敷被仰上可被下候
#359. 断簡三通 其後は御物遠に奉存候、御病気御快能御座候哉
#360. 爰許無事にて御奉公仕候間可御心安候
#361. 大嶋黒も有之通御帳面御扣置可被下候 御注文被仰付可被下候
#362. 砂糖御引合御注文被仰付可被成候 大坂表段々高値に御座候
#363. 黒砂糖1貫は銀五匁之値段にて御座候 御得意様にては割引可申仕候
#364. 大嶋黒砂糖向後御用等幾重も幾重も御相談被遊可被下候
#365. 新任御聞合之義 新参のひよっ子へにても被仰候て片付度申候
#366. 人気米相場如何御座候哉 私下野関置米何卒宜敷御願申上候
#367. 女筆手本その三 和歌に御心移なふ蛍を集め候よし 面白おはしまし候
#368. 女筆手本その四 いく万年も御はんしやうの御事といわい入まいらせ候
#369. 御手船連不残御無難にて 御廻船被成候半哉と奉察上候
#370. 横浜之義西洋人相手にて洋銀取引之義 〆切禿敷取引を仕居候
#371. 九百五拾両封之侭弐箱に入て 木曽路十日指登申候
#372. 此度荷物之儀は又三郎様へ御相談申上候て揚置仕候度積り御座候
#373. 右八箇当着罷在候処 内壱箇盗賊入紛失致候
#374. 信濃国桑原村役文書 その壱 三河国清助儀神社仏閣拝礼中越後高田にて病気伏し居候
#375. 信濃国桑原村役文書 その弐 清助儀桑原村迄罷越候処 病気難症絶脈相果候
#376. 信濃国桑原村村役文書 その三 清助儀死骸御見分与事件経過詳細に御座候
#377. 寅年より未年迄出入り 決算は壱分弐朱と五拾五文過分にて御座候
#378. 閏十一月朔日は文化拾酉年の書翰に御座候
#379. 無拠御咄にて 御出不被下候ては相成不申候義に御座候
#380. 今日は是非出勤仕度存罷在哉 御尋に付御紙面之趣深奉畏候何分昼後出勤仕候
#381. 女筆手本その五 月の夜もさそさそさやかに詠候はんと おしはかり参らせ候
#382. 女筆手本その六 御とりどり様御機嫌よくはるを御迎させ遊はし おめでたくまいらせ候
#383. 用文章その壱 七夕に遣す状 天河双星之祭願之糸梶葉之供物等世上賑敷
#384. 凶作打続修理専一折柄 代銀仕送り御承知被下仕合奉存候
#385. 忰新助と申者慥成者に付壱ケ年切之奉公にて 給銀九拾五匁に相極め申候
#386. 重宝之品々御贈被成下候 忝幾久敷慶納仕候
#387. 女筆手本その七 ははかりおふく候得とも お気もし思召被下へく候
#388. 与平殿無事着御尊状難有拝見仕候 委細承知可仕候
#389. 女筆手本その八 庭の虫しの音々おもしろき 御子様かた御つれまし御入願まいらせ候
#390. 妄心倖心之御教諭難有承知仕候 讒者佞奸と歟申者也
#391. たいこ壱つ拾九両に取組 出来上り下し可被下候
#392. 不相替蝋燭御注文 被仰付難有仕合奉存候値段左の通
#393. 私共博奕等は致し不申候得共 早々心得違致し申候
#394. 米も日々下落にて諸所共少し下落 金詰りにて被案事申候
#395. 女筆手本その九 そそろうきたつはるけしき 山遊なといかか
#396. 御書面之趣委細承知仕り 当廿二日は無間違参上仕候
#397. 老母に御香奠に預り 被入御念候義忝奉存候
#398. 飴屋七兵衛殿への杉丸太杉四分板杉皮の覚にて御座候
#399. 女筆断簡 殿方様にも御しうき仰上られされましやう
#400. 女筆断簡 とよこまのあふらは きつうきつうからしきにて御さ候
#401. 銀子壱貫目又々十日頃迄 相待呉候様御申越候 大に迷惑仕候
#402. 百四拾五枚今日積送り申候間 着之節御受取可被下候
#403. 山崎万右衛門 壱 身体取広け不申様 驕奢をはぶき家業無油断心掛け質素に暮し候事
#404. 山崎万右衛門 弐 差引総資産にて御座候 すえひろのめでたさ丸にて御座候
#405. 山崎万右衛門進物帳 壱 主人繁吉若旦那参上 白砂糖素麺真綿は定番にて御座候
#406. 山崎万右衛門進物帳 弐 太田様、横須賀様、田中様御家中は御挨拶欠く間敷候
#407. 山崎万右衛門進物帳 三 年始は松平、内藤、奥平、西尾、太田の各様江戸屋敷へ進物に御座候
#408. 山崎万右衛門進物帳 四 お登り御下りの御武家様への献上にて御座候
#409. 山崎万右衛門進物帳 五 旦那様色々御用向御座候て御苦労に御座候
#410. 山崎万右衛門進物帳 六 受納も様々有之候処 尼崎斎田様より殊に珍重物頂戴致候
#411. 山崎万右衛門進物帳 七 浜松様より受納は大きにも調達金は無利足にて御得意様にては有間敷候
#412. 山崎万右衛門進物帳 八 井上様は月岡陣屋様にて茶を能被下置候
#413. 山崎万右衛門進物帳 九 鍋嶋様は肥前小城藩の御殿様にて掛川を御通行被成候
#414. 山崎万右衛門 三 御上様への文化四年調達金にて御座候 貴公解読被成候哉
#415. 女筆手本その十 初はるの御寿めてたく候
#416. 暑中伺書面之趣 及被寄候処入念仕候
#417. 用文章その弐 八朔之慶賀にて御座候
#418. 内股にしもつ出き又こうもんのきわにも出き 夫ゆへ西沢道安様へかけ申候所
#419. 用文章その三 重陽之節句 庭之菊花今盛に相成候
#420. 時節にて眺望も御座候間 茸狩旁御遊来之程奉待上候
#421. 女筆の版本 壱 みなみな様御そくもしの御ことふき 千とせまてもと祝入まいらせ候
#422. 何分非常之金詰 此後金融及諸下模様にて候
#423. 女筆の版本 弐 七種の御しうき沢辺の若菜つみはやし候半と存じまいらせ候
#424. 用文章その四 端午之節句 餝甲并御肴一折進上之仕候
#425. 不仕合相重り数千両之借金に相成 方々え申訳も無之候
#426. 用文章その五 中元刺鯖十指呈上之仕候 些御祝儀可申上験迄
#427. 御所鹿子 曙染 絞染 反古染 数もかきりもあらし吹品々持せ進しまいらせ候
#428. 当十四日下関表安着仕候間 此段御尊意易思召可被下候
#429. 用文章その六 新年御吉慶 御重歳目出度御儀奉存候 次当方無異加年仕候
#430. 益御勇健被為遊 御超歳乍憚目出度御義奉存候
#431. 女筆の版本 三 五もしたち御ひいなあそひ賑々しさ 菱あも一折送りまいらせ候
#432. 女筆の版本 四 結構成ひいな一対おくり下され 浅からぬ御礼申あけ候
#433. 折節任出来松茸壱籠令進覧候 寔音問之験計候
#434. 此地にては一銭は銀一匁三分にて 家賃は月に銀二拾匁にて御座候
#435. 別紙証文御加印被下度奉願上候 客来取込中
#436. 用文章その七 上巳之御祝詞目出度奉存候
#437. 本宅へ逗留いたし居候処 挨拶致候人多有之候
#438. 鰊笹目伊丹屋にて掛合漸々に売払仕候
#439. 女筆の版本 五 端午の御祝儀めてたく申おさめ候 くす玉かさり粽菖蒲
#440. 用文章その八 最早年内無余日候 随分寒気御厭可被成候
#441. 浅草のり御地そうにいたし候様 御登し被下山々悦まいらせ候
#442. 普門坊酒犯之義に付 此度は内分被成下候様御断申上候
#443. 庭訓往来挿絵 その壱 金銀銅細工、鍛治師、番匠、蚕養
#444. 庭訓往来挿絵 その弐 櫛挽、烏帽子折、沽酒、土器作
#445. 庭訓往来挿絵 その三 大津坂本馬借、醍醐烏頭布、小野炭、仁和寺眉作、西山心太
#446. 庭訓往来挿絵 その四 伊予簾、播磨椙原、備後酒、越後塩引、熊掌
#447. 庭訓往来挿絵 その五 蛍雪鑽仰之功不可捐
#448. 伊賀御歩行中杢御扶持方渡り 過不相納候に付御取立
#449. 文政拾三年五月 大洪水にて川越え頼み漸々越来候処 宮崎川支に付東根へ泊り
#450. 平安時代頃までの数の数え方 ももちあまりいそぢをかきあつめ
#451. 女筆の版本 六 七夕の御祝義牽牛織女の御ちきり
#452. 兼て御苦労に相成り候悴儀今に何共相分り不申 甚た心外に奉存候
#453. 女筆の版本 七 盆のめてたさ 御娘子様御成人にておとりの御装束もうつくしく
#454. 廿八両取逃其上上州より態々江戸表へ罷越
#455. 壱ケ年切之奉公相究尤借銀之儀は三拾五匁にて相際め 銀子只今慥受取
#456. 弟子純法義関東へ修学に差遣候 登山節万々御尋聞可被成候
#457. きんきんに一度御こし下されますよふに くれくれもたのみます
#458. 先日は御不快之由何様御困と奉推察候 御不沙汰に打過失敬至極に奉存候
#459. 伊八助右衛門両人今夕方及騒諍 助右衛門義疵所出来候
#460. 三つ具足義御世話被下忝奉存候 大ふりにして合候て宜御座候
#461. 其砌差上候大鳥居手足の形 御戻し被為下候様御入念候
#462. 慥成便無之候に付 手紙而已差上置候段恐入奉存候
#463. 此方へ御出勤被成候砌 私宅えも御立寄可被下候委細は貴面にて
#464. 女筆の版本 八 庭前の菊の花さきまいらせ候まま 二本おくりまいらせ候
#465. 川北久左衛門への短報三通 高誂灯七張繕出来致候
#466. 茨木様方銀子儀先定日より段々延引に相成候 御引見可被下候
#467. 平専殿壱貫目之銀子又々御延引 甚立腹仕居申候
#468. 御不快御心配 江戸之丸子御用ひ被懸金壱両壱朱御下し
#469. 椹値段如何程にて御売被成候哉
#470. 御茶屋之屋根御普請に参候 手伝も五人御申付可被下候
#471. 三橋屋方へ花十五俵御遣し被下候 あれ切にて入置候所無御座候
#472. 讃岐守様貴宅御滞留 如何御様子承度候
#473. 椹丸太有切御わけ可被下候 私は明より明後十八日之朝帰宅致候
#474. 御当地稲荷大明神御開帳大火にて延引に御座候
#475. 貴宿渡永之儀 代金別帋之通為持遣申候
#476. 久々乾候上大火に為可申勢之所 先弐軒にて治り候
#477. 珍敷一冊借用申候 寛々一覧大慶不少難有候
#478. 御親父様従御役被仰付 重畳目出度奉存候
#479. 売渡し申証文面にて候へば 村方へ持地仕度意趣にても御取用無御座候
#480. 御頼申置候登金之儀 未に貴公処迄相届不申候哉
#481. 無拠被頼候に付 三州西尾へ之便りに御届被下候
#482. 改年之御慶目出度申納候
#483. 常陸国鹿嶋郡梶山村 近隣の村同士の廻状等八通
#484. 此金子壱両少し切疵有之 御指替被下度候
#485. 竹田観音寺へ入法仕候間 乍序御吹聴申上候
#486. 御入金被成残り金高拾両に 御都合被成置可被下候
#487. 享保8年の濃州加茂郡野上村家大工御改帳
#488. 藤助如何相心得候哉 俄に致違変平襄所持之薮垣出張候
#489. 女筆の版本 九 紅葉も色を催し 高雄へ御伴ひ申度そんしまいらせ候
#490. 伊藤氏并松田屋え書状御届可被下候
#491. 御扶持米引け候哉と御尋に付 内分承候処引け不申候
#492. 布拾三反也 御銀〆百九拾六匁五分也
#493. 布五拾四反也 御銀〆七百八拾弐匁四分也
#494. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その壱
#495. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その弐
#496. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その三
#497. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その四
#498. 鳥目四十八銅進候間 御入手可被下候
#499. 便栄儀御本山継目御目見へ 早速御取次被成下候
#500. 白子より干鰯荷物附送り御世話罷成 千万忝奉存候
#501. 保科弾正忠様川支之由にて 今暮六つ時迄も御越不被成候
#502. 次第次第に御延し被成候段 甚以迷惑に奉存候
#503. 御肴料二封被仰付 難有仕入候奉畏拝候
#504. 御大名様方牧馬御類焼被遊候 各様方も御見舞御下り被成候哉
#505. 京御池屋度々之書状壱封 御便に被遣被下候
#506. 御地大火に付御店向御類火之段 承知仕気毒千万に奉存候
#507. 御報致拝見候 何共御別条無奉存候
#508. 御親父様御病気御養生無御叶 御死去之由御愁歎
#509. 当方本家御祖父様御上京の節 御叮嚀に御見舞被成御礼申上候
#510. 書状一通三度便に無滞登上候様に 御計頼存候
#511. 下駄壱足とからかさ壱本御返遣申候間 受取可被下候
#512. 手紙断簡 伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙
#513. 御内々にて利安成物の間に御合せ被下候はば 忝奉存候
#514. くわい、人参、高野豆腐、青のり、みかん、かち栗にて御座候
#515. 期役之義無御滞被承仰候趣 目出度奉存候
#516. 右之通貴寺様より御取立 華開院迄御差出可被下候
#517. 〆金二両壱歩二朱 銀三拾五匁二分 右正に受取迄候
#518. 坂下へ一夜泊り草津に一泊 二夜泊り両人分之昼支度御茶代
#519. 惣兵衛殿御出所 一夜泊り被参候様に御遣し可被下候
#520. 先日は種々預御馳走 其節被下候異国之嘉品
#521. 上野屋名跡相続 此度双方申談難儀仕候
#522. 忠兵衛儀爰許へ引取候節 其御表御役方へ御案内も不仕候風
#523. 書状参候由 則返書忝致大慶候
#524. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 大名衆の宿泊の記録
#525. 一家にも唯今打寄 右様へ御返事之相談いたし罷有候
#526. 銀壱匁七分八厘過金 御年貢請取皆済也
#527. 御娘子様未た御眼病全快不仕候趣 御銑療治に御出被下候
#528. 御領分野良田村次兵衛女子くら 御出人御吟味御揃立候
#529. 京奥嶋一反壱両弐歩弐朱 銀簪さし壱本壱歩弐百八十文に御座候
#530. 半蔵私同様手前札にて出入存候様 御役頭衆より御門守へ御願書
#531. 地畳法り之方染も不宜 此間弐畳半方御引替可被下候
#532. 段木送り遣し可申候 代金壱両弐分銀九匁 運賃壱貫八百文に御座候
#533. 春照宿御問屋中 右四駄分之駄賃御請取可被下候
#534. 東海道各宿場での下り駄賃の覚にて御座候
#535. 三役に埒の明塚安左衛門 やかて大津の総の元〆
#536. 徒然草鉄槌 蟻のことくにあつまりて東西にいそぎ南北にわしる
#537. 女筆の版本 拾 長閑なる年之くれにて 何かたも替る御事なくいわい入まいらせ候
#538. 金子之儀は惣割にいたし候者哉 御勘考可然奉頼上候
#539. 伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠州巡る旅に御座候
#540. 親貰取候証文差上不申候 遅差出双方無益之御願為仕候段不備
#541. 杉弐間九寸代弐拾三匁弐分 挽賃代九匁五分にて御座候
#542. 切支丹宗門相改候処 怪敷儀無御座候 庄屋組頭にも手形為致候
#543. 御申付被成候金物近々には出来仕候 手附二分金にて御座候
#544. 板銀壱丁四拾三匁六分御座候物を遣候 慥に御請取可被下候
#545. 下拙壱人にては何角心細り 便り無御座候
#546. 清瀬義も十二日死去致し候間 私宅忌ゑし致候
#547. 抑江戸の御城はいまた開けぬそのむかし
#548. 道具杉押之事仰被下候 御浜迄積入申上候
#549. 女筆の版本 拾一 はやはやとの御つかひ ことにうつくしき小袖一重
#550. 短文五報 雨降り候徒然推量しまいらせ候
#551. 短文六報 夫より後はとをとをしく存候
#552. 正徳六年火事地震雷之儀 老中登城之次第
#553. 村松良一節句祝の席に於て 栄来て御代もさかゑや初幟
#554. 近日には宜敷方も可有候哉と相待居申候
#555. 徳川吉宗の日光社参1728年 その壱 見送りと宿泊地
#556. 徳川吉宗の日光社参1728年 その弐 行列馬上三十騎鑓六拾本鉄炮六拾挺
#557. 御内々にて万端御取扱可申候
#558. 大工甚五郎 銀百廿九匁受取
#559. 通ひ帳と本帳と引合申候処 通之表に相違御座候
#560. 当地名染中へ相頼候処 季時過候故宜敷方無候
#561. 断簡三報 長京様之御手伝に誰成共壱人差遣候 呉々御休意可被下候
#562. 唐船漂流に玄海灘、響灘にて小倉筑前長門船立行列砲撃す
#563. 油大下落にて致方なく米と替事参り候 融通方甚た不都合に候
#564. 四角弐十、三角弐十六、豆腐五十丁にて御座候
#565. 昨日の時雨けふは雪気に替り
#566. 縄俵で〆銀八匁四分 此金弐朱と銅六十五文にて御座候
#567. 扨夜前夜半頃出血仕候 何卒乍御苦労御越も被下候哉
#568. 松南氏用文章 壱 新春之御吉慶不可有際限御座目出度申納候
#569. 利足之儀は壱ケ月拾弐両に壱分之割合に御座候
#570. 樽酒三斗三貫九百文、上酒三斗三貫六百文にて御座候
#571. 御融通之程願上候 参拾円御都合被下候はば実に難有候
#572. 中﨟相成り候はば衆議之評定にも出席仕候
#573. 松南氏用文章 弐 上巳之御佳儀 端午之御祝義目出度申籠候
#574. うれしき御事御仰下れ候 幾久しくねかい上まいらせ候
#575. 旦那様わたくし一所にすまい致し候こと 心くるしきよし申され候
#576. 松南氏用文章 参 七夕之佳節 八朔之嘉幸目出度申収候
#577. 幕末期武蔵忍藩主松平下総守一行上京の折の伊勢陣屋での宿泊、賄の記録
#578. 山惣様より鰤大壱本相登り申候 エフ札に出日限もなく
#579. 松南氏用文章 四 玄猪之祝儀 重陽之祝儀
#580. 新春之御慶賀重畳申納候
#581. 米拾三石九斗五升壱合五夕 御振出可被下候
#582. 茂助様御留主にて相知れ不申候哉 若又代衆御届け在候哉
#583. 此度大嶋類之御用等も可被仰付申候哉 何角委細御相談申上度候
#584. 商人の短報 壱 乍御無心吸物椀十人前 膳共御恩借
#585. 商人の短報 弐 買物之儀能便宜無御座 延引令迷惑候
#586. 松南氏用文章 五 任嘉例小鯛三拾枚進上仕候 歳暮御祝儀験迄に御座候
#587. 盆中御出奉待候 くれくれ御世話なから奉頼候
#588. 弐両今日此人に誂へ遣し申候 慥御請取可被下候
#589. 赤餅米拾弐俵 右之通御改御請取被成可被下候
#590. つり八百七十八文にて御座候
#591. 銀弐拾四匁九分三厘に金弐分入金 つりは壱朱銭と百四拾四文に御座候
#592. 御厚情のほと忝奉申候 御礼不尽痛心いたし候
#593. 助七儀両三年之所年貢米差入不申候 後麦作之儀
#594. 御ほと様いよいよ御きけんよろしく御くらしあそはし候
#595. 此度は御焼香御布施物如例被相渡候 大慶候
#596. 小紋柄一反四拾三匁 五三桐紋付にて御座候 大丸屋
#597. けふは禁裡より将軍家へきせ綿を下され 御酒宴ありとは
#598. 旅立之儀時分能候間 近々何日頃存立発足仕度候
#599. 昨廿四日芸州より山口え之 早打往還筋通行致候
#600. なにぶんまわりかね五十銭だけ 今日おんかへりそふろふ
#601. 太子に御立無候ては 御立銀等も無も有候
#602. 世忰庄十郎義御宅え致伺公 種々御馳走相成忝存候
#603. 村方一同示談仕候間 隔年庄屋之儀御慈悲に取縋り依て奉願上候
#604. さば三本送り候間御入手被下度候らへば 難有そんしまいらせ候
#605. 戌年稲刈抱覚 三百三拾抱 ふけ田
#606. 飴かす壱俵外三斗弐升五合 銀壱匁にて御渡し申候
#607. 枝郷五ケ所村庄屋年寄銀打かけ被申 何角と我侭計被申迷惑至極
#608. 有りの実頂戴仕候 誠に此せつは弥敷品にて千万難有存候
#609. 裾除け布七尺四寸 柳に松模様葡萄鼠 壱貫八百文
#610. 改年之御慶不可有際限御座候
#611. 愚父相果候節 遠方之所御出被下忝奉存候
#612. 年号より利足銀積立仕候はば 元利共何貫何百目に相成恐聞候
#613. 壱玉銀八匁五分割 壱玉銀拾匁 半玉銀四匁五分にて御座候
#614. 追申上候然し家内にも能く御挨拶被下忝奉存候
#615. 雪吹強道踏迷罷越候処 凌兼息切其侭倒れ相果候か又野狐共之所為か
#616. 登金仕候筈御座候得共 操合もの御座候付乍存延引相成候
#617. 右様御構被下候ては甚痛入仕合に奉存候
#618. 京都洛外散し書き 清水寺稲荷山鳥羽小塩山鞍馬寺岩倉大原
#619. 献立 煎酒茶巾ゆばひりやうすすたれふ黒かはたけ
#620. 椹三五大作屋へ早速掛合候趣 最早右椹は大家屋へ売附申候様申居候
#621. 魚 壱匁弐分八厘大いな四つ 壱匁九分六厘もうを四つ
#622. 折帳の短報七報 奉公人ふつていにて迷惑仕候
#623. 寛蔵様御所持時計之義御申越 甚以寔に永々借用仕置候
#624. 大釜壱つなから孫右衛門舟に積送り候 御請取可被下候
#625. 末吉様御たのみて下され候 おまいさま方よりほかにわはなしもなし
#626. 天保12年の出羽久保田藩御役料御合力覚
#627. 此たびうこん様御上りあそはし ほかよりあそはし候て
#628. くるしみ居申候 もはやぜつたいせつめひ之帰国に相成申候
#629. 布壱反五匁 金銀の両替は七一弐にて御座候
#630. 断簡八報 扨心外之御不沙汰御用捨可被下候
#631. 良久不懸御目候 不審無極候 抑依宿願之子細候 風月往来壱
#632. 新春之御慶賀重畳申籠候畢 抑子日御会難忘存候 風月往来弐
#633. 乍例大酔意不存 何等之失敬仕候哉今更恐入申候
#634. 茨曽根より十七村え相掛御訴申上候
#635. 炭醤油酒たこ昆布竹の子木瓜なす入歯剃髪ふろなどに御座候
#636. 金沢之兼六公園見物の上粟原温泉にて出懸 頗る愉快を感し申上候
#637. 衣類并諸色目録にて御座候 振袖、袷、単物、帷子等
#638. 御地御一同共に御不承知に有之 此上一杯に御請を出来可申様存候
#639. 此度之御安産入用も随分手をつめ むたの無之様に被成候ても
#640. 依て例年之通り歌賃子籠鮭塩引寔に歳暮之験迄
#641. 御小児様御疱瘡被遊候儀 生涯一度之事にて人々難遁御座候
#642. 明十六日の夕さりより御影待いたし候 宵之内より御噺に御出下され候
#643. 山々の照葉色そひ 幾しほの詠と押はかられ候
#644. 雪の今朝ほと詠候へは めつらかの木毎に花の咲候やうあやしまれ候
#645. 幾余ともなき年浪のせき留かたく いつしか暮に成まいらせ候
#646. 御婚礼の御儀式残所なく相調候て 幾末永き千代万世の御めてたさ
#647. 割木十七束御遣し候へ共 余り小まかく雑木にて不宜
#648. あめの魚弐本四百文 くらげ壱枚三拾八文に御座候
#649. 三つ具足委細仰被遣被下候 忝承知仕候
#650. 旱魃にて時之水掛論を生じ 殆現今は修羅道日夜痛歎在候
#651. 椹木着場処御尋被成承知致候 右丸太之分は拙宅へ向け御遣し可申候
#652. つくね大工仕事まめ人しん生か竹の皮に御座候
#653. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 壱 御所女御様若宮様御降誕 御使者御上京
#654. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 弐 御国表何事に不限諸事厳敷御省略に被成候
#655. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 三 白銀五枚作兵衛儀御屋鋪日用方御用大切相心得勤候
#656. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 四 御隠居肥前守様御病気より御逝去被為在候
#657. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 五 一統無是非三ケ年之間壱割引致候
#658. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 六 二条新地おやまに落込借金出来欠落
#659. みなみな様御さかんに御年かさねられて 御にきにきしく御いわひ被成候
#660. あやめの御祝儀として 見事の一色おくりくだされ
#661. 亥の日にて此もちゐ一重いわひまいらせ候
#662. 籬ににほふしらきくに 初霜の何れをはなとわきかね
#663. 為御祝儀嘉肴華燭被饋下忝存候
#664. 為御廻向料金百疋受納仕候
#665. 京都下京、東本願寺と西本願寺の間で袈裟や僧衣を扱う店の102年間の資産帳の記録
#666. 具足師岩井与左衛門文書 壱 桜田門外の変後 襲撃旧水戸藩士七名の死罪評定
#667. 具足師岩井与左衛門文書 弐 芝増上寺で歴代将軍様御具足の御餝附に御座候
#668. 沓之義御申越則申付置候 明十五日早朝出来候
#669. 無是非御断得御意候 此上各々様方御思召次第御尤に奉存候
#670. 京土屋仲ケ間文書 壱 乍恐口上書土商売人渡世為取締
#671. 京土屋仲ケ間文書 弐 下値に売渡候義仕間敷 仲ケ間同様之値段に商ひ仕候事
#672. 京土屋仲ケ間文書 三 被相定候値段より格別高下無之様商ひ致可申義は勿論
#673. 京土屋仲ケ間文書 四 文化四年此仁在所へ参られ其年より出銭は不出候
#674. 萬覚和帳 壱 梅花錠四匁、まんちう買入れ申候
#675. 萬覚和帳 弐 嘉永五子年之出入帳に御座候
#676. 乍略義以書中不取敢相願候 不悪御承知可被下候
#677. 此節コレラ病大流行にて死人多し アメリカより申越したる書付
#678. 為替手形には美須屋伊予掾有之候 此段御承知置可被下候
#679. 聊絹針御注文申上候所 何卒御取揃被成下御調達奉願上候
#680. 為替金住七殿行事に御座候間 同人より為御登申上候
#681. 江戸仲間衆より京都針問屋への唐針差引書
#682. 此後は呉々も銘々より 御注文相願申上候心組御座候
#683. 長助不服外者参候とも 御取合不被下候様御頼上候
#684. 京都針問屋みすやの主人福井伊予掾が受けた覚 五報
#685. こま、いんけん、ささけ、たしこんふに御座候
#686. 御導師賄料私方よりさし上 書付に失念仕候
#687. ことことかりそめに七月無てにて くらしまいらせ候
#688. 小断簡二報 いろ方へ上下地五本分丈ケ染に遣し候様願上候
#689. 耀鏡院様下女壱人御抱之義 諸色方より申参り候
#690. はんが、くつかた、ちよじたらい、桶に御座候
#691. 米相場の1ヶ月内での変動にて御座候
#692. 干鱈二尾進上仕候 寔以御祝詞申上候印迄に御座候
#693. 石部宿より関宿へ 〆馬百拾九疋人足七拾人にて御泊に御座候
#694. 味林すの代金に御座候
#695. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 続大名衆の宿泊の記録
#696. 地歌壱、荒れ鼠 はぶしの達者なものどもは納戸へ入りたんすかぢるべし
#697. 地歌弐、たにし なんぼはたたきしやるとも うのまにやなるまい
#698. 地歌三、かわつ たったひとこときいてたべが おやぢをからすにとられ
#699. 地歌四、筆のあと 知るべのそのただをみれば くりかへしみの筆のあと
#700. 割木送り山中、坂下、沓掛での駄賃の覚に御座候
#701. 奥州笠松峠女盗賊 上 鬼人お松と其名を申し大たんふてき
#702. 奥州笠松峠女盗賊 下 ととめさして悦ひ我家へかえりけるこそ目出度き
#703. 肥前平戸藩京都在番の御武家様の下りにて御座候
#704. 拾六歳之時在所を出 少々宛之物を盗取渡り候趣
#705. 地歌寛濶一休 一休扇をさつと払ひ給へば 大雪朝日に霜となり
#706. 掟米右之通り無残取立御渡申上候
#707. 朝夕は殊之外寒しまいらせ候
#708. はつ午におはしまし候 稲荷へ御詣遊はし候はんや
#709. 随分旦那には万事御綿倒も被遊候
#710. 春の御しうき幾千代かけて いはゐまいらせ候
#711. 五常なくんは人とは不可言 此道能々心得て違背の筋無
#712. 御饗応いか計 辱そんしまいらせ候
#713. 良辰直丸殿御元服之由 目出度奉存候
#714. 長閑成空うち続 四方のはなも最中のよし
#715. 装束之事可有御恵之旨 乍不及似貴殿可申
#716. 徒然草鉄槌 一日の命万金よりもおもし
#717. 下拙共無異事罷在候 乍慮外御安意可被下候
#718. 此上彼土地におゐて 色々と意外之働有之候
#719. 明日はこなた嘉例のことく 節いたしまいらせ候
#720. 桧重一くみ御雛の 御祝儀のしるしまてに御目に懸
#721. 御水茎くたされ 誠に御けむもしの心地
#722. 心の暇もなく一生は雑事の小節にさへられて むなしく暮なん
#723. 御遊山なから上方へ 御登りあそはし候よし
#724. なかなかの御留守にて さそさそ御淋敷候半と
#725. 扨は此帋包一つ 御国もとへ御便おはし候せつ御届
#726. 竹皮綱の子の覚にて御座候
#727. 榑木丸太尺〆五六本 只今早々御遣し可申候
#728. 殊に二人忘御日記付哉迄相見 はかはか無頼の悪僧
#729. いかさま来国次 真偽返計之御目利奉願候
#730. 此度俊操院様御発駕被遊候
#731. 菖蒲の御祝儀 御目出たく祝入まいらせ候
#732. 扨は真瓜三頭 御めに懸まいらせ候
#733. 御神事皆々めしよ誓られ候半よし
#734. 織女の御祝儀 いく秋かきりなき御岩井
#735. 愛さま美しき御事のよし いとも軽き御容体におはしまし
#736. 見え来まいらせ候まま 少しなから御めに懸まいらせ候
#737. けふし吉日故御移徒遊し候よし 限なき御めてたさ
#738. 御普請嘸々御結構之程察入候
#739. 貴前様能御枢機御座候由
#740. はれなる客おはしまし候 夫につき御無心の事候へ共
#741. 弐百文酒八合 三百文さめ
#742. 馬乗羽織麻上下帷子等仕立 御資申度候
#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
#744. 御酒錦にまかふ村菊品々をくり給り
#745. 詩文の達人連俳之上手申合可参候
#746. 加賀藩前田家の家系書 壱 前田利春の由来
#747. 加賀藩前田家の家系書 弐 前田利家の生涯
#748. 加賀藩前田家の家系書 三 前田利家の兄弟
#749. 加賀藩前田家の家系書 四 前田利長
#750. 加賀藩前田家の家系書 五 前田利家の子 前田利長の兄弟
#751. 加賀藩前田家の家系書 六 前田利常とその子の子孫
#752. 加賀藩前田家の家系書 七 前田綱紀、吉徳とその子
#753. 加賀藩前田家の家系書 八 前田と名乗る他の三家
#754. 此度誰殿田舎へ有付被申候 御苦労相伴御出被成候
#755. 御顔直させられ 限りなふ御めてたく存まいらせ候
#756. 還奉知にて多端之御用向には御座候 私義は気丈
#757. 今般熊野社神主筆生之侭 兼勤被申付重々難有
#758. 不相替蕨沢山被下 深忝奉存候
#759. 御用透御見合にて御退出懸 御入来希入候
#760. 過日は御留主中え参上 預御馳走深難有奉存候
#761. 絹針御注文 早速調達仕候て差上候筈之処
#762. 卒爾奉拝眉度 先此より中西家に罷出候
#763. 急度改心謹慎 格外之御憐愍寛太之御沙汰を
#764. 岳父も丹羽迄行向置候間
#765. 右之通り此金壱両三分弐朱と百八拾九文]
#766. 分賜米取向之儀に付 御約定之通辰半刻頃
#767. 御留主中に付 猶御帰館之上及御披前
#768. 惣油壱丁 代弐両弐朱に御座候
#769. 早く拝顔仕度候間 左様御承引可被下候
#770. 不存寄蒙御沙汰難有 恐縮罷在尚宜希入候
#771. 豊前様御出もむまもろともに 大あめにて大ぬれ
#772. ふりき火皿八百文 金弐朱と弐百文さら下駄
#773. 七百七十弐文 三きれふきん 壱尺百廿文きれ
#774. 酒金弐両三分也 伊丹壱樽
#775. くこんのすきな様に 扨々私事しんはいいたし候
#776. 是迄心得違仕居候 向後急度改心情勤可仕候
#777. 豊前様へ御書付御出し承り候 其御書付しはらく御まへ様え御預り
#778. 聖護院森地所売却金之義は 御廻金相成候哉
#779. 当方以御蔭無異消光罷在候条 御休意可被下候
#780. 室根山本宮御屋根替方 諸色御人足御割合
#781. 残半高分御塩くり 早速取立上物上殿可有之事
#782. もちたるかたてをずぼりときれば あいたたとなんとした
#783. 連日照続水不足 御百姓共一統迷惑に相及候に付
#784. 御郡奉行様当来候九日 曽慶村通り下打壁村へ
#785. 御婚礼御首尾よく御調あそはし 幾万歳もの
#786. 四貫五百八拾三文 冬割
#787. 壱人代百四拾文宛 来る廿二日迄に相送り呉候様
#788. 見詰金上納相成候様 頼入御吟味御首尾相成候
#789. 先も触渡候田植方之義 当日中苗留之義に申談候
#790. 御横目様明朔日御昼前我等宅にて 御教壇被成下候
#791. 来年順候五穀成就之ため 室根山におゐて開白二夜三日之御祈祷
#792. 小子も外に後世も無く 濁酒沢山呑払居候
#793. 三口合金半切と丸取五百拾七文
#794. 気仙石来廿八日御受物被成下段 被仰渡候間
#795. 右之通当御買受御割分 被仰渡候処
#796. 札銭之義は米大豆小豆にても宜敷候
#797. 廿八日御郡奉行様 上奥玉村より大原御会所え御返り
#798. 壱ケ年夫之半ケ年夫 御割合被仰渡候
#799. 尚当冬済諸上物懸り 御組合一定皆済勘定書別紙
#800. 改暦四拾七冊 此代壱冊三拾五文つつ
#801. 二百十日余り指懸り如何様に可仕候哉
#802. 半蔵様にも御機丈夫に被成御座候段 御同慶
#803. 手紙二報 大原にて御條目御教授其上母始
#804. 高壱貫文と当秋半ケ年御買受
#805. 組合嘉吉与次郎母始年符金 不納得様之御事
#806. 昨日罷出数々御面子情に預り 此段奉万謝候
#807. 安政六年分諸上物勘定
#808. 成田様御分 塙喜三郎様御分
#809. 杉形下の構八俵上のとまり五俵之時 惣数何程
#810. 杉形構卅俵あり高八俵あり此数形何程
#811. 江戸迄登る人三日先に立 此人壱日に十里つつ歩行
#812. 譲り渡し申候家屋敷之事
#813. 御手形拾壱切也 金弐両弐朱也
#814. 御地走にても御忝次第に奉存候
#815. 不納之分大急可済候中 当残上納御首尾
#816. 今頃に金代も相廻候節に御座候
#817. 〆金四切と代四貫弐百七拾六文
#818. 寛延四年分東山曽慶村御蔵入 新田御年貢下札
#819. 入用に附貴殿方より拝借仕候処実正に御座候
#820. 地形書入を以頼母子金相預証文事
#821. ちらちらと梅から明し小庭哉
#822. きのふ見し はなもけふちる風あれど
#823. 高三百五拾七文 惣四郎
#824. 安政六年分東山曽慶村 御蔵入本地御年貢下札
#825. 百拾壱文畑方 三百八拾九文今代
#826. 享保拾四年十一月 五色小役、ぬかわら代
#827. 宝暦元年十二月 御年貢受取印切申候
#828. 金八切弐朱と代六百拾七文
#829. けふしは御里入遊し 限りなふ御めてたく
#830. 米壱升に付廿三と五にて米税の銭の計算也
#831. 惣兵衛殿 右之通受取申候以上 地肝入新十郎
#832. 弥御家内様中 御機嫌能被成
#833. 仙台藩では金粉拾分は金一両に御座候
#834. 組頭惣右衛門殿の時の御年貢に御座候
#835. 代惣場壱貫弐百五十文
#836. 享保拾六年 右之通一宇済切候
#837. 御年貢米壱石壱斗九升 但拾俵九切置也
#838. 拾三切弐分也は米拾俵の値に無相違御座候
#839. 仙台藩にて高百七拾五文は石高壱石七斗五升也
#840. 旦那様之御賄代 五色小役 ぬかわら代
#841. 上納米は薄衣御蔵送り 残米は知行所送りに御座候
#842. 米の年貢率は七分に御座候 畑大豆の年貢は米より安く在候
#843. つなきは肝入殿の知行様への接待費用にて御座候
#844. 大豆三斗 此金四切壱分壱厘
#845. 曽慶村知行所侍への年貢の推移
#846. 裁量夫喰拝借面附
#847. 拝借米、大麦と組の者共にて御座候
#848. 御山方懸り 御手形四切御役人様
#849. 肝入殿よりの人足の依頼にて御座候
#850. 二百十日前祭之次第 如何と御吟味
#851. 短報断簡七通 二夜三日五穀成就之御祈祷
#852. 塩三俵 気仙沼より八日町にて此駄ちん
#853. 大原御蔵 御建替俵御巻返方人足に候
#854. 三切借金弐十一ケ年後 十五切六分也
#855. 短報四通 拝借籾大麦の返納に御座候
#856. 大石平組受持良作殿 肝入左一郎
#857. 板紅花頼母子金の受取に御座候
#858. 御手形百八拾五切 八分三厘也
#859. 「受取申候以上」の諸形 省略に決まった形あり
#860. かや弐拾七丸 忠七殿かり
#861. あかこうやくのひてん 長吉丹五拾目
#862. 御状御仕切書御登せ被下 難有拝見仕候
#863. 新宮より熊野川遡上仕候 御両岸之山水秀美
#864. 御母上様益御健可被為入
#865. 清楽義は去年隠居いたし候故 躮宗助より
#866. 江戸表御取建にも 其元がきまり不申候ては
#867. 賞翫無限候 御礼迄
#868. 此度御大望之法印被上被成候由
#869. 夜具は近々被致工面 只今有之候
#870. 紫縮面 三つ割四尺六寸
#871. 旦暮物語 その壱 父母に孝
#872. 旦暮物語 その弐 皆堪忍をもて和熟なるへし
#873. 旦暮物語 その三 喧嘩口論計多く家おさまらす
#874. 旦暮物語 その四 無能なる子孫へ交書に渡す也
#875. 御苦労被下候段 奉謝候
#876. くらに入込候て品々盗取候所 甚難渋仕候
#877. 十死中一生之程も無覚束候得共
#878. 無沙汰に右場所に手入 水道堀立被成候
#879. 在原行平老年に及んと 芹川行幸御供仰付られ
#880. 八せんま日母倉ちいみ 佐重生る
#881. 火あり一つかね等の事有 神おろし可致候
#882. かなつかひの事 をはおとは異なる也
#883. 大豆九升三合つつ 年々滞り
#884. 寺地之分より一向納め無之様にいたし候
#885. 奥州街道にて帰国中に御座候
#886. 左沢沢ノ住兵郎正則 短刀三本打せる
#887. 寺領百姓人別帳当山へ可相納之処 寒河江役所へも
#888. 三左衛門年々不納相嵩み 不埒之筋に付
#889. 拙僧持役向其外要用に差支 無拠貴殿え御頼
#890. 右畑屋敷に成 間数以下に御座候
#891. 長泉寺より五合つつ 相加い納にいたし候
#892. 右之御田地講受候処 実正明白に御座候
#893. 証文金御寄附被成 永壇越之可有掲焉
#894. 花蔵院にて弐ノ宿山切取候一件
#895. 金百拾七両弐朱 横帳に書立御披露申上
#896. 且又目立候木は御用木に立置候様
#897. 橋本石地蔵堂之事 此度六尺四面に置直
#898. 嶋高屋村川除御普請 割合御朱印高へ懸り
#899. 酉年十月寺社奉行所より 最上院花蔵院へ御差紙
#900. 衆徒一同御目見願 相不叶候
#901. 当院勝手之義に付直支配可致
#902. 戌亥の方 山より弐間計り上にはうぎほし出る
#903. 願人延命坊隠居聟求馬共々 御旦那様え
#904. 湯殿山法流真言宗 可為理運に相聞候
#905. 宝蔵院家来源司郎火元にて 三重塔焼失
#906. 文政十亥年七月三重塔再建 土搗有之地祭
#907. 盗難事件 壱 和田司六郎治儀盗賊有之候哉
#908. 盗難事件 弐 和田司儀純情者に付盗賊に落ず
#909. 弥勒尊 安阿弥作 正観音 慈覚大師
#910. 文政十亥年七月廿三日 花蔵院地蔵尊開帳
#911. 林泉坊寺領百姓久米蔵を山刀で打つ 壱
#912. 林泉坊寺領百姓久米蔵を山刀で打つ 弐
#913. 三重塔成就 一山入仏供養
#914. 谷地堰口先 岩石にて揚水刎返し
#915. 御府庫金三百両拝借仕候処 内金百五十両は滞納
#916. 在府中萬日記帳 壱 出発前準備 寛永寺寒松院
#917. 在府中萬日記帳 弐 慈恩寺より江戸寒松院へ着
#918. 在府中萬日記帳 三 跡目相続の準備
#919. 在府中萬日記帳 四 跡目相続願上提出
#920. 在府中萬日記帳 五 輪王寺宮に御目見
#921. 在府中萬日記帳 六 帽子の着用許容
#922. 在府中萬日記帳 七 色衣の着用許容
#923. 在府中萬日記帳 八 帰国準備と餞別
#924. 白岩湯殿道普請の国村作俳句の碑
#925. 吉野山修験道と聖護院門跡
#926. 俳諧大意 芭蕉の俳句
#927. 俳諧大意 芭蕉の門人の俳句
#928. 短文七報 日本人参朝鮮人参
#929. 箏組曲菜蕗組 ふきといふも草
#930. 狂歌集 恋歌
#931. 御家流書家二名
#932. 千代田刃傷 旗本酒井山城守屋敷取上
#933. 逃水とは
#934. 研師村松喜兵衛の住所
#935. 小報二通 まめのよふなる心
#936. 三河町か出火にて
#937. 文政六七年寛永寺月当番と壇越大名
#938. 文政七年御老中様書留
#939. 本郷御弓町本多大隅守様御屋敷
#940. 会津藩士昌平黌狩野軍兵衛乱心三名死傷
#941. 天保五年江戸参り 壱 行き帰りの天気
#942. 天保五年江戸参り 弐 亮空訴状
#943. 天保五年江戸参り 三 役者返答書
#944. 天保五年江戸参り 四 寺社奉行沙汰如何
#945. 天保八年大坂大塩焼け
#946. 凶作にて御府庫金の願出
#947. 天保五年江戸参り 五 帰国前御礼と購入物
#948. 天保五年断簡五報 真覚院様御内
#949. 長伝寺田地訴訟 壱 長伝寺の訴え
#950. 長伝寺田地訴訟 弐 源助側返答
#951. 長伝寺田地訴訟 三 弥五右衛門返答と結論
#952. 辞とは詩の如く物のあわれをこめて
#953. 借用証文四通 其訳達て御頼上
#954. 借用証文三通 此立附米四俵四斗也
#955. 借用証文 南蔵院殿利壱割五分
#956. 借用記録 八鍬村庄五郎
#957. 借用記録 八鍬村門三郎
#958. 無尽講三拾両壱丁前三両也
#959. 御料百姓庄五郎二男分家之儀
#960. 庄五郎と永代返地約定証文
#961. 武家用文章 壱 卒爾之経営に候
#962. 武家用文章 弐 御祝儀御酒一樽
#963. 武家用文章 三 幸之連有之参宮仕度

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