南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 陸奥曽慶村善四郎 Sokei Zenshiro >

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陸奥曽慶村善四郎 Sokei Zenshiro.

陸奥国磐井郡曽慶村(岩手県一関市大東町曽慶)の大石平組の組頭、善四郎、惣兵衛が所持した文書。組の構成員は7-10名でその百姓からの上納を指導する役だった。支配者は仙台藩の奥郡奉行の大原代官所の侍であった。地肝入が知行侍に租税を上納する計算をした文書が享保年から明治3年の140年にわたって存在。大石平は字名であったが現在は字大森に吸収合併されたと思う。大石平組と大森組は共同で作業や文書作成をしていた。「曽慶大石平組のかっぱ伝説」として名が残る。当初数字ばかりの文書が多く興味が沸かなかったが、仙台藩特有の石高の表現などの学習が進み大変面白くなった。
米の生産高に対する租税率は65-70%であった(#845にまとめ)。高くみえるが百姓は土地を借用して生産し生活してゆく分には充分であったのかも知れない。他に人足に徴用された記録や手紙もある。順は下から上である。なお曽慶は#814、#816で「そけい」とあり当時はそのように読んだようだ。金粉の単位は#833では1両に対し分厘であるが、#844など幕末の多くの文書では藩札1切に対しての分厘である。この理由は不明ながら時期による違いであると思っている。

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#861. あかこうやくのひてん 長吉丹五拾目
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。傷口や傷む部位に貼付する赤膏薬の成分を書いた文書である。赤色の色素に鉛丹を使った。詳細は図中に記した。各成分を混和、加熱し練って作った。成分に一部不明のものあり。

●#860. かや弐拾七丸 忠七殿かり
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が書いたかや(茅)を借りた記録。単位として「丸」が記される。「把」は片手でつかんだ量。「丸」は丸抱えのことで両手で抱えた量で「束」と同じと思う。記載の人の内、六右衛門だけは惣兵衛組の組合員らしい。他は別の組や他の村の所属の人でかやを借りた時に記したらしい。

●#859. 「受取申候以上」の諸形 省略に決まった形あり
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。#857で「受取」の形を理解したが、他の文書を見て「受取申候以上」の諸形を集めて検討した。すべて同一の肝入佐一郎の家のもので如何に字を省略しているかがよく理解できた。#857と#856の文書も是非参照を乞う。

●#858. 御手形百八拾五切 八分三厘也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書2通。幕末近くの頃の支払いである。「切」が使用され仙台藩の支配の最後の頃の文書である。

●#857. 板紅花頼母子金の受取に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書7通。木を善四郎らが売り渡した文書3通、頼母子金を肝入が受け取った旨の文書2通、紅花を善四郎らが注文した文書2通である。ここの「受取」の字形が独特であり合字のようになっている。彦左衛門、権三郎は#847に記載あり善四郎組の者である。

●#856. 大石平組受持良作殿 肝入左一郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。この文書2通でこの善四郎組の正式名は「大石平組」と判明。また「水下人足」は用水に関る仕事であった。大石平という地名がたしかに明治3年まではあった。おそらく隣組の地名字大森に併合されたと思う。受取の「取」が独特の形。

●#855. 短報四通 拝借籾大麦の返納に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書4通。拝借米と大麦を大原村と大泉村の蔵に返納する文書2通である。#847には米と麦を拝借した文書がある。他残金の計算と急用にて明日集合の文書2通である。

●#854. 三切借金弐十一ケ年後 十五切六分也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。借金の計算の文書である。3切を21年間借りた後、年20%の利率で15.6切になった。#174には年率18%の記載あり。幕末年利1割2分=12%迄ともあるが、利息制限法は年利15-20%迄なので大変高い利率とは言えない。

●#853. 大原御蔵 御建替俵御巻返方人足に候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。肝入佐一郎の記載した文書2通。大原村にある雑穀の蔵の建替をするので茅(かや)、わら、縄を準備して6人が作業、屋根の修理らしい。構成員は17人にて惣兵衛組と大森組の合計である、#847参照。費用は等分で負担する。他はゆるんだ俵の巻返をして直す作業である。

●#852. 塩三俵 気仙沼より八日町にて此駄ちん
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した塩の文書2通。塩はもちろん生活必需の食品、ナトリウムは神経細胞や筋肉の細胞の働きに欠かせない元素であり、不足すると体に力が入らない。仙台藩領の内陸にある曽慶村にはその東南にある太平洋岸気仙沼から主に塩が輸入されていた。値段は塩1俵は藩札2切であった。加えてにがり(マグネシウム塩)も運ばれ大豆から豆腐を作るのに使われた。

●#851. 短報断簡七通 二夜三日五穀成就之御祈祷
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。短報断簡七通である。すべて肝入からの受取や上納に関する催促である。室根山での祈祷は#791、地図は#780に掲載。

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●#850. 二百十日前祭之次第 如何と御吟味
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。肝入喜兵衛より組頭への廻状。大嵐で川堤の決壊などや二百十日の前祭の事が書かれている。#801に二百十日の前祭りはできないだろうと掲載されている。二百十日:旧暦9月1日頃で台風が多い時期で厄日である。

●#849. 肝入殿よりの人足の依頼にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。各種人足に善四郎組の者が召出された記録である。人足とは荷物の運搬や普請などの力仕事に従事する労働である。すべて近辺の村や宿場での仕事であり、仙台藩に賦役として課税されていたものであり、肝入を通じて派遣を命じられていた。#847の善四郎組と大森組と両方の組の者が記される。

●#848. 御山方懸り 御手形四切御役人様
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。山を管理する役人を肝入等が接待した時の費用らしい。5分割にしたのは各組の負担分を計算したと思う。普請などで木を使用するので必要な経費であったに違いない。

●#847. 拝借米、大麦と組の者共にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。幕末近くの頃拝借米大麦を仙台藩の蔵から拝借した文書4通である。善四郎の組と大森組とは共に文章を記す仲の隣組であった。7-10名が記される。

●#846. 裁量夫喰拝借面附
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。幕末近くの頃夫喰米を拝借する願書の控えである。ここの10名中6番目嘉吉までが善四郎の組である。利右衛門以後は大森組と呼ばれ善四郎組の隣組でしばしば一緒に行動していた。食料に不足があったので願書を書いている。

●#845. 曽慶村知行所侍への年貢の推移
1728年から1870年まで継続して曽慶村知行所侍への年貢の文書が存在しているのでまとめた。最も注目はすべての年で米税率は生産高の60-70%であった。大豆の租税は米の20-80%で大体半額であった。仙台藩の藩札「切」は一般に金1/4両といわれるが、この村では両は全く使われず銭と切が使われ、1切が銭何文になるかが大事で多くの文書で記されていた。一般に1切=銭1000-1500文だが1786年から1810年には1切=5000文と高値だった。この時期銭は米に対しても弱かった。明治3年が記録の最後であり、明治4年には廃藩置県となったので納税の新ルールとなった筈である。

●#844. 大豆三斗 此金四切壱分壱厘
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。1869年=明治2年の租税計算を提示する。文書は詳細であり、畑の大豆値段は1切=7.3升の交換率と明示される。忠右衛門は善四郎の組のno2の人である。この知行侍への年貢の領収書は翌年明治3年が最後である、明治4年には廃藩置県となった。

●#843. つなきは肝入殿の知行様への接待費用にて御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。1735年の租税計算で惣四郎は惣兵衛の曽祖父である。論文より「つなき=つなぎ」の意味が判明した。肝入が代官所の武士との交渉や検見の時の接待を行う時の費用であり、村民が共同で負担する費用である。武士と農民の「つなぎ」に要する肝入のための費用ということだろう。#836に各種つなきを掲載している。また「1銭懸け」は肝入の取る手数料であった。参考論文、浦川清雄氏「宝暦年間の仙台藩の農家の生活」。

●#842. 米の年貢率は七分に御座候 畑大豆の年貢は米より安く在候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。惣兵衛の父、惣右衛門の時の租税計算で1780年前後である。米、田の租税の基準が「卯七分」とあり前の卯年より70%であることが明示され、値はそのまま生産米の7割で計算。一方畑、大豆の租税は生産高升当りの銭文にて8.63文/升で1738年(#839)の値、8.05文/升に近似の値だった。田の税の34.7%となり、#839の40%と同様に畑は田の3-4割の税額で安い。田の年貢率と異なり畑の税は銭で計算する、よって銭相場が安い時は「増代」として租税銭文を増やして調整する。相場は1切=1350文。

●#841. 上納米は薄衣御蔵送り 残米は知行所送りに御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。善四郎1世の時で1753年または1765年である。#839で不明であった上納米と残米の違いがこの文書で判明した。上納は薄衣村の御蔵に納める米でその他は残石で知行所の侍行きの米である。米価は#839と同様に薄衣納が少しだけ高値。相場は1切=1080文。

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●#840. 旦那様之御賄代 五色小役 ぬかわら代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1773年か1761年のもので善四郎1世である。ここでも10俵の値段らしい記述が11切と示され1俵=4.46斗となり、他の文書で見られる1俵=4.4-4.7斗に合致した。この10俵の値段記入は1780年以降はみられなくなる。土地の石高は書かれていない。相場は1切=1360文であった。

●#839. 仙台藩にて高百七拾五文は石高壱石七斗五升也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1738年=元文3年のもので惣四郎の時のもの。この時点で「高田代百弐拾五文」の意味が石高125升=1石2斗5升の意味であると「貫高制」の検索でわかった。要するに他藩と異なり、江戸時代になっても仙台藩は特例でこの記載習慣が通して継承された。これで「高」が記載のある文書では租税率=年貢米/生産米が計算できることが判明したので次回詳しく検討予定。ここでは年貢率は69.6%、相場は1切=銭670文。また米10俵の値段が上納米と残米で異なるので計算したが、両方とも1俵の米粒量は米4.5斗で他の#838、#837などと同じである。また米価の銭文/升は少し上納米が残米より高かった。税額を田と畑で比較した計算も施行した、畑の税額は田の税額の丁度4割、40%であり、田よりかなり低かった。

●#838. 拾三切弐分也は米拾俵の値に無相違御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1744年=延享元年のもので惣四郎の時。ここでは相場は1切は銭1060文。米10俵の値段は13.2切と書かれる。1俵の量は4.44斗となり#835の4.5斗、#837の4.67斗に近い値となった。また米価の別表現、銭文/升は31.4であった、これは#830の1743年では23.5であった。他の年も調べたがこの米価は20-40文/升の間で変動した。

●#837. 御年貢米壱石壱斗九升 但拾俵九切置也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。この記録は1735年=享保20年のもので善四郎の1世で幕末の善四郎2世とは異なる人である。この時は惣四郎が組頭であったがおそらく留守で子の善四郎1世が代行したに違いない。ここでは相場は1切1300文。米10俵の値段9切と書かれる。1俵の量はどうか、4.67斗となり#835の4.5斗よりわずかに多かった。

●#836. 享保拾六年 右之通一宇済切候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書。1731年と1734年の組頭九郎兵衛及び惣四郎が受けたものを提示する。代相場の金1切の銭の交換率は#835、#834にも記しているが、1750年以前は1000-1500文の間であった。他租税の「つなき」が不明、武士の生計のつなぎに必要な租税かも知れない。

●#835. 代惣場壱貫弐百五十文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が所持した文書。肝煎更治より組頭九郎兵衛が受けた皆済の書面。さる年は#826より1年前の1728年=享保13年で一番古い文書と思う。#823、#826にも見えた代相場(代惣場)がここにもあり、古くから金1切の銭の交換率の値であったと判る。尚当時米1俵は4.5斗であったことが記される。

●#834. 組頭惣右衛門殿の時の御年貢に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の文書で惣右衛門の時ものを提示する。この人は1772年-1794年に組頭を勤めた。惣兵衛の父であったと思われる。なお1切=金1/4両である。次回はこの人の父であった善四郎1世を提示する予定。

●#833. 仙台藩では金粉拾分は金一両に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が保持した文書。肝入の佐一郎から金粉を納めるよう催促である。この文章での金粉の分、厘、毛の単位の基準がわかった。「分」は本来1/10を表す語である。金粉の1分=1/10両である。東海道では金1分=1/4両であるので注意が必要である。惣兵衛と肝入佐一郎より年代は1842年から1854年迄の間である。ただこれは年貢の計算では金粉の1分=1/10切である。

●#832. 弥御家内様中 御機嫌能被成
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が源兵衛から受けた手紙。源兵衛は惣兵衛と大変親しい人でおそらく親類ではないか。「様」に女筆の字と普通の字の両方を使っている。

●#831. 惣兵衛殿 右之通受取申候以上 地肝入新十郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が組頭の文書3部の租税の計算書である。惣兵衛は長い期間当主として活躍していたことがわかる。最後に各種文書からわかるこの組頭の家の当主の推移を示す。代相場とは手形金1切が銭何文かを示す値で寛政、文化初期の時代は4000文と非常に高い数字だった、その他の時期は800-1800文であった。高ければ仙台藩の藩札「切」が全国の銭に対して強かった事を表している。

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●#830. 米壱升に付廿三と五にて米税の銭の計算也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した文書で下記#827などと同様の租税の計算書である。これは組頭が惣四郎の時のもので年号「い年」は1743年=寛保3年である。1切=1180文が計算でき、この文書の右下に書かれた意味が税計算の率であると完全に理解できた。この年曽慶村では租税米1升につき銭23.5文の租税額であり、他の年の税額もこのようにして計算していたに違いない。この税計算率の記入はこの文書のみなので貴重なものである。これはおそらく当時の米の価額だろうと思う。

●#828. 金八切弐朱と代六百拾七文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した文書で下記#827などと同様の租税の計算書である。1865年=慶応元年の新しい文書である。この文書で仙台藩の租税の単位「切」が出るが金1切=金4朱であると判る。また#824でみえた「金粉」という仙台藩で使われた租税単位がここでもみえる。分厘毛で表現するが金1分=3.75gの金粉の量である。これは東海道の金の「分」が1/4両であるのと異なる。仙台藩の金粉の「分」は1/10両である、これは後に判明する、#833を参照。

●#827. 宝暦元年十二月 御年貢受取印切申候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が保持した文書。太郎右衛門が肝煎久左衛門より1751年=宝暦元年に受けた租税の計算書。太郎右衛門は#818の寛延4年=1751年の文書にも出るが短い間のみで早世した人かもしれない。

●#826. 享保拾四年十一月 五色小役、ぬかわら代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎が所持した文書で他と同様租税の計算書である。1729年=享保14年の最も古い文書で名前は九郎兵衛である。#823の惣四郎は1737年なのでその父らしい。古い順で九郎兵衛、惣四郎、九平、惣兵衛、善四郎と組頭は相続されたようだ。この時は金1切=1300文である、この数字は仙台藩の経済事情により大きく変動した。金1切はまた1/4両である。

●#825. 百拾壱文畑方 三百八拾九文今代
陸奥国磐井郡曽慶村組頭九平が受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍、成田金之丞に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1789年=天明9年である。九平は惣兵衛の父であろうか。#823の惣四郎は年号1737年より祖父らしい。#817、#808、#793に同様の文書。#793にて成田氏はここの地主で古くより世襲であったとわかる。

●#824. 安政六年分東山曽慶村 御蔵入本地御年貢下札
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎父子が所持した文書。1859年=安政6年万蔵の年貢を記録したものである。この「御蔵入」とは仙台藩直轄の田の租税である。他の文書は知行の侍の税計算である。ここで「金粉」という仙台藩で使われた租税単位が判明した。分厘毛で表現したもので、1分=3.75gであり金1両=金10分である。#833参照。 東海道筋は金1両=4分。仙台藩では「半切」、「切」もあった、興味深い。仙台藩の武士、日野九郎左衛門と本郷幸衛門は仙台市史に確認できる人物で幕末に実在した。#818は同様の文書で寛延4年=1751年の古いものである。

●#823. 高三百五拾七文 惣四郎
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣四郎が肝煎利左衛門より受けた書面。惣四郎は惣兵衛の祖父か父であろう。仙台藩の郡奉行の侍に上納する金を計算して受け取ったという内容で#793、#808と同様である。年号は1737年=元文2年でかなり古いものである。計算より金1切=銭720文であったと判る。

●#820. 地形書入を以頼母子金相預証文事
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が保持した文書。頼母子講の䦰(くじ)に当った人が大金を受け取った時に書く証文2通である。各講中に毎年掛け金を払います。払えなかったら所持の土地を口入に渡し、以後掛け金を口入に渡します。以上の内容である。口入は保証人として金を講中に渡す人である。1861年=文久元年と1863年=文久三年の文書である。

●#819. 入用に附貴殿方より拝借仕候処実正に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した借用書。1861年=文久元年のもので年利は16%=1割6分であった。

●#818. 寛延四年分東山曽慶村御蔵入 新田御年貢下札
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛、善四郎父子が所持した文書。寛延4年=1751年仙台藩の武士、高左太夫らが太郎左衛門の年貢を記載したもので、肝入の裏書がある。惣兵衛の父か祖父の惣四郎が所持したもので太郎左衛門は同じ組の百姓であろうと思う。「御蔵入」とは仙台藩直轄の田の租税である。#817など他の文書は知行の侍の税計算である。270年前の古い記録。

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●#817. 〆金四切と代四貫弐百七拾六文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が本肝入運之介より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍、横沢位十郎に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1816年=文化13年である。1切=1750文である。#793と同様の交換率である、そこでは「両」としていた。しかしここは「切」で1両=4切である。よって1両=7000文になる。

●#816. 今頃に金代も相廻候節に御座候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が所持した手紙。仙台藩の肝入から組頭への手紙で武家から金子を貸して貰えなかったのが、ここで金子が借用できることになったようだ。卯兵衛、善吉、行蔵と善四郎の関係は不明。大意はつかめたが字は難読で誤読もあると思う。

●#815. 不納之分大急可済候中 当残上納御首尾
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎が加勢の善十郎から受けた手紙の断簡。上納金の残りの分を至急準備して欲しいとの内容である。

●#814. 御地走にても御忝次第に奉存候
八郎右衛門より陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣四郎への手紙。惣四郎は善四郎の祖父に違いない、父は惣兵衛である。1800年頃の手紙。大意は御馳走への御礼と古今集かを貸してほしいという内容。字は難読で破損の箇所もあり、誤読もあると思う。

●#813. 御手形拾壱切也 金弐両弐朱也
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の惣兵衛、善四郎親子が肝入佐一郎より受けた受取書と大原村の蔵の準備書である。「金」の字が多様の形であり興味深い。

●#808. 成田様御分 塙喜三郎様御分
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎周治より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍3名に上納する金を計算して受け取ったという内容で#793と同様である。年号は1819年=文政2年である。

●#807. 安政六年分諸上物勘定
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入喜兵衛より組頭善四郎への1859年=安政6年の諸上物の勘定書である。計算書の指引勘定は図中に説明。ここで「切」という仙台藩特有の手形金の単位があることが判明した。1切=銭400文である。さらに4切=金1両の変換率であるらしい。

●#806. 昨日罷出数々御面子情に預り 此段奉万謝候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎の子孫が所持した手紙。善四郎の子孫の姓は不明であるが、「岩淵」、「奥山」両氏は近郷を支配した旧家である。年号は1894年(明治27年)で岩淵ふりえさんが奥山家へ入籍するとの内容であろう。

●#805. 組合嘉吉与次郎母始年符金 不納得様之御事
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入喜兵衛より組頭善四郎への手紙。冬の上物ができず御免合の者を召連るように、また嘉吉、与次郎が頼母子の年符金を差出す様にという内容。

●#804. 高壱貫文と当秋半ケ年御買受
陸奥国磐井郡曽慶村仮肝入の喜兵衛より組頭善四郎への手紙。1貫文と当秋半年分とを組員から取立てほしいとの内容。

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●#803. 手紙二報 大原にて御條目御教授其上母始
陸奥国磐井郡曽慶村組頭の善四郎が所持した短報2通。図中に解説。

●#801. 二百十日余り指懸り如何様に可仕候哉
陸奥国磐井郡曽慶村組頭幸次郎から同組頭四郎右衛門への添付書面。別に廻紙があり二百十日の厄日に室根神社(#780に掲載)に神酒か心付を供えて祈祷をするかを組頭で会合をする旨であるに違いない。二百十日は台風が多く米が収穫前に損害を受ける時期。この文書はさらに組頭善四郎に廻状され保存された。

●#800. 改暦四拾七冊 此代壱冊三拾五文つつ
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が受けた所持した文書。年が代り各組の構成人の納める年貢の帳面を配る覚でその代金は35文。惣兵衛は先頭に書かれるので最年長であったようだ。

●#799. 尚当冬済諸上物懸り 御組合一定皆済勘定書別紙
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の喜兵衛より組頭惣兵衛か善四郎への手紙。12月での皆済勘定書が済んだ事、また頼母子講金の事など書かれる。

●#798. 壱ケ年夫之半ケ年夫 御割合被仰渡候
おそらく陸奥国磐井郡曽慶村肝入喜兵衛より組頭善四郎への手紙。参府があるのでその年符を払うがここで半年分を各人から取り立て右代金をこちらに渡して欲しいという内容である。

●#797. 廿八日御郡奉行様 上奥玉村より大原御会所え御返り
陸奥国磐井郡曽慶村の組頭善四郎が所持した文書。肝入からの手紙で郡奉行が上奥玉村から柳峠、曽慶村を通り大原会所に向かうことの連絡である。#784も郡奉行が曽慶村を通る文書である。

●#796. 札銭之義は米大豆小豆にても宜敷候
村民が檀家である寺から、陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが受けた書面。年末の札銭を納める様に催促した文書である。銭でなくても米などでよいと書く。寺の名は書かれていない。

●#795. 右之通当御買受御割分 被仰渡候処
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の喜兵衛より組頭善四郎への手紙。今年の年貢での米1升の買取値段を1貫257文とするので取立するようにとの内容。

●#794. 気仙石来廿八日御受物被成下段 被仰渡候間
陸奥国磐井郡曽慶村肝入佐一郎より組頭善四郎への手紙。組の万蔵と六右衛門の米を気仙送りにするので、大原町嘉吉へ大急ぎで詰送るため俵こしらえする様にとの内容。米はさらに気仙から仙台に送られると思われる。

●#793. 三口合金半切と丸取五百拾七文
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎田治より受けた書面。仙台藩の郡奉行の侍3名に上納する金を計算して受け取ったという内容。年号は1817年=文化14年であった。#786と同様「半切」という単位が使われ、この時は1切=1750文であった。これは仙台藩特有の手形金の単位で4切=金1両である。各金の細目は読み違えがある可能性あり。

●#792. 小子も外に後世も無く 濁酒沢山呑払居候
陸奥国磐井郡曽慶村明神の田治より組頭惣兵衛への手紙。惣兵衛は善四郎の父。田治は肝入である。惣兵衛は西口村の友宅に滞留している。今晩は当方に宿泊に来て欲しい、自分は後世に残す物事もなく濁酒を飲んでいるとの手紙。時期は文化14年頃である。

栞10 

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●#791. 来年順候五穀成就之ため 室根山におゐて開白二夜三日之御祈祷
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の佐一郎より組頭善四郎らへの手紙。今年の年貢、直接支配の北代官所の侍への納金など少なくない額が必要である。組で首尾よくして決めて欲しいとの内容。また追伸では来年の豊作を願って武士が祈祷したと書かれる。

●#790. 御横目様明朔日御昼前我等宅にて 御教壇被成下候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛が肝煎佐一郎より受けた書面。郡奉行配下の武士の横目付が来て村民に教授するので明日昼飯後来るようにとの内容である。

●#789. 先も触渡候田植方之義 当日中苗留之義に申談候
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎佐一郎より受けた書面。田植前で苗留する日取に付いての廻状である。この状は廻され各組頭名の下に文や印、丸印が記されている。

●#788. 見詰金上納相成候様 頼入御吟味御首尾相成候
陸奥国磐井郡曽慶村肝入の佐一郎より組頭惣兵衛への手紙。惣兵衛は善四郎の父。今年の年貢、直接支配の武士への納金、蔵入米をどのようにするか。組で相談して決めて欲しいとの内容。難読でやや不明の箇所もあるが大体の意味は判明できた。肝入と組頭の間の手紙は互いに字の癖がよくわかっているので第三者には読みづらい。

●#787. 壱人代百四拾文宛 来る廿二日迄に相送り呉候様
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎佐一郎より受けた書面。才口村の留平へ何かの費用を渡すので1人140文宛集めて欲しいとの内容である。猿沢村が代表でどこかへ収める金のようである。

●#786. 四貫五百八拾三文 冬割
仮肝入の喜兵衛より組頭善四郎への冬の村への納め分の計算書である。市民税のようなものである。仙台藩支配地曽慶村では金の勘定は切(1両の4分の1)、分(1両の10分の1)、厘(100分の1)、毛(1000分の1)と10進法であった。さらに銭の「文」であるが、ここでは1切=銭1600文であり時代により変動したが1切=1000-1500文位であった。また1切=1/4両であるので東海道筋などの1両=銭4000-6000文と比較して同じ銭であったようである。年号は1859年=安政6年12月である。下図中の「両」は「切」であると後に判明したのですべてを「切」に読み替えて下さい。

●#784. 御郡奉行様当来候九日 曽慶村通り下打壁村へ
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。支配者仙台藩の郡奉行が曽慶村を通って下打壁村へ行くので村の掃除と木の伐採、当日の早朝の集合を連絡している。

●#783. 連日照続水不足 御百姓共一統迷惑に相及候に付
陸奥国磐井郡曽慶村組頭惣兵衛(善四郎の父)らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。大肝煎の及川芳一郎から申渡された。連日の日照で水不足。竜神の雨乞、さらに大原八幡神社にて祈祷を二夜三日行う。結願の日は精進して参詣するようにと書く。

●#781. 残半高分御塩くり 早速取立上物上殿可有之事
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎らが肝煎千万佐一郎より受けた書面。曽慶村より春に納める塩の未納が半高あったが秋に上物で納めるようにと書く書面が大肝煎の中津山直三郎より申渡された。そして春物が質が低いものだったので上物を今集めて準備するようにとする。肝煎千万佐一郎がこれを書写して各組頭に渡したものが掲載の書である。難読の文書にて誤読もありそうであるが総意は間違ない。中津山直三郎は曽慶村に近い大東町猿沢に住んだ大肝煎でかつ俳人であった。

栞 最後 

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●#780. 室根山本宮御屋根替方 諸色御人足御割合
陸奥国磐井郡曽慶村組頭善四郎が佐一郎から受けた手紙。近くの室根山の本宮の屋根を葺き替えるに当っての村の百姓の負担など覚を書いたものである。縄の長さは尋が単位である。近所の折壁村にも話をしたと書く。全体に解読難であった。内容もやや不明があるが全体の内容は把握できた。貨幣単位は「永」又は「銀」であろう。室根神社は現存している。

<文書番号とタイトルの一覧>       上に戻る BACK TO TOP
#780. 室根山本宮御屋根替方 諸色御人足御割合
#781. 残半高分御塩くり 早速取立上物上殿可有之事
#783. 連日照続水不足 御百姓共一統迷惑に相及候に付
#784. 御郡奉行様当来候九日 曽慶村通り下打壁村へ
#786. 四貫五百八拾三文 冬割
#787. 壱人代百四拾文宛 来る廿二日迄に相送り呉候様
#788. 見詰金上納相成候様 頼入御吟味御首尾相成候
#789. 先も触渡候田植方之義 当日中苗留之義に申談候
#790. 御横目様明朔日御昼前我等宅にて 御教壇被成下候
#791. 来年順候五穀成就之ため 室根山におゐて開白二夜三日之御祈祷
#792. 小子も外に後世も無く 濁酒沢山呑払居候
#793. 三口合金半切と丸取五百拾七文
#794. 気仙石来廿八日御受物被成下段 被仰渡候間
#795. 右之通当御買受御割分 被仰渡候処
#796. 札銭之義は米大豆小豆にても宜敷候
#797. 廿八日御郡奉行様 上奥玉村より大原御会所え御返り
#798. 壱ケ年夫之半ケ年夫 御割合被仰渡候
#799. 尚当冬済諸上物懸り 御組合一定皆済勘定書別紙
#800. 改暦四拾七冊 此代壱冊三拾五文つつ
#801. 二百十日余り指懸り如何様に可仕候哉
#803. 手紙二報 大原にて御條目御教授其上母始
#804. 高壱貫文と当秋半ケ年御買受
#805. 組合嘉吉与次郎母始年符金 不納得様之御事
#806. 昨日罷出数々御面子情に預り 此段奉万謝候
#807. 安政六年分諸上物勘定
#808. 成田様御分 塙喜三郎様御分
#813. 御手形拾壱切也 金弐両弐朱也
#814. 御地走にても御忝次第に奉存候
#815. 不納之分大急可済候中 当残上納御首尾
#816. 今頃に金代も相廻候節に御座候
#817. 〆金四切と代四貫弐百七拾六文
#818. 寛延四年分東山曽慶村御蔵入 新田御年貢下札
#819. 入用に附貴殿方より拝借仕候処実正に御座候
#820. 地形書入を以頼母子金相預証文事
#823. 高三百五拾七文 惣四郎
#824. 安政六年分東山曽慶村 御蔵入本地御年貢下札
#825. 百拾壱文畑方 三百八拾九文今代
#826. 享保拾四年十一月 五色小役、ぬかわら代
#827. 宝暦元年十二月 御年貢受取印切申候
#828. 金八切弐朱と代六百拾七文
#830. 米壱升に付廿三と五にて米税の銭の計算也
#831. 惣兵衛殿 右之通受取申候以上 地肝入新十郎
#832. 弥御家内様中 御機嫌能被成
#833. 仙台藩では金粉拾分は金一両に御座候
#834. 組頭惣右衛門殿の時の御年貢に御座候
#835. 代惣場壱貫弐百五十文
#836. 享保拾六年 右之通一宇済切候
#837. 御年貢米壱石壱斗九升 但拾俵九切置也
#838. 拾三切弐分也は米拾俵の値に無相違御座候
#839. 仙台藩にて高百七拾五文は石高壱石七斗五升也
#840. 旦那様之御賄代 五色小役 ぬかわら代
#841. 上納米は薄衣御蔵送り 残米は知行所送りに御座候
#842. 米の年貢率は七分に御座候 畑大豆の年貢は米より安く在候
#843. つなきは肝入殿の知行様への接待費用にて御座候
#844. 大豆三斗 此金四切壱分壱厘
#845. 曽慶村知行所侍への年貢の推移
#846. 裁量夫喰拝借面附
#847. 拝借米、大麦と組の者共にて御座候
#848. 御山方懸り 御手形四切御役人様
#849. 肝入殿よりの人足の依頼にて御座候
#850. 二百十日前祭之次第 如何と御吟味
#851. 短報断簡七通 二夜三日五穀成就之御祈祷
#852. 塩三俵 気仙沼より八日町にて此駄ちん
#853. 大原御蔵 御建替俵御巻返方人足に候
#854. 三切借金弐十一ケ年後 十五切六分也
#855. 短報四通 拝借籾大麦の返納に御座候
#856. 大石平組受持良作殿 肝入左一郎
#857. 板紅花頼母子金の受取に御座候
#858. 御手形百八拾五切 八分三厘也
#859. 「受取申候以上」の諸形 省略に決まった形あり
#860. かや弐拾七丸 忠七殿かり
#861. あかこうやくのひてん 長吉丹五拾目

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