南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 伊勢関町川北久左衛門,Kyusaemon Kawakita >

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伊勢関町川北久左衛門,Kyusaemon Kawakita,

ここは伊勢国関町陣屋川北久左衛門の手紙を中心に集めています。東海道の宿場関町の筆頭陣屋で大名の宿泊や荷物の輸送、人馬の調達などを行っていました。代々世襲しておりこれらは5代目川北久左衛門武廣(1657-1729)や8代目川北久左衛門政吉(1709-1772)のものです。ゆっくり楽しんで下さい。
Here are documents of Mr. Kyusaemon Kawakita, Seki, Ise. Please enjoy reading the writings.
参考ウェブサイト:亀山市歴史博物館「川北家」。

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これは2階から1階へ段々降りてきてポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#704. 拾六歳之時在所を出 少々宛之物を盗取渡り候趣
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が所持した文書。近在の戸嶋村又吉の馬の鞍と鳴り輪が関宿で盗まれた。亀山の馬士に売ろうとしたが情報を前もって知っていて亀山の馬士は又吉を呼んで確認して盗人を捕まえた。盗人は亀山の近在の菅内村の出身の21歳の若者で他の盗みも多かった。その内容を関町の川北久左衛門ら役人が奉行に届けたがその文書の写しを保存していたものである。内容は図中に解説した。

●#703. 肥前平戸藩京都在番の御武家様の下りにて御座候
伊勢国関町本陣川北久左衛門の文書。8人の武士が江戸出立で京都への東海道下りで関宿を通った時の記載である。名前と馬、人足の人数とその役(具足持ちや駕篭持ち)が書かれる。検索から武士たちは肥前国平戸藩所属で京都在番と判明した。武士たちの内4名が1830年の京都、摂津大地震で家屋が潰れたが、命に別状はなかった。甲子夜話に記されている。

●#700. 割木送り山中、坂下、沓掛での駄賃の覚に御座候
伊勢国鈴鹿郡関町陣屋川北久左衛門が1770年頃書いた文書である。橋本屋重右衛門の割木169束を馬で運んだ時の駄賃の計算である。馬宿名と馬の数、割木の束数を書いている。また1荷(人が運ぶ量)で銭140文であったとわかる。ここで馬1疋で運んだ荷数を計算したら3荷であった。なお文書#534では東海道での駄賃は馬一疋で人1人の人足賃の丁度2倍であった。なおここでは1両=銭5466文の交換率であった。

●#695. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 続大名衆の宿泊の記録
伊勢国関町陣屋川北久左衛門の部下が記した大名の宿泊の記録。馬の準備と世話役の部下の名前が記される。同時入手の書類より1770年前後のものと予想されるが、確かに京都所司代の土井氏の記載よりその頃である。衆と書かれたものは行列の先遣隊らしい、馬も1-2疋で少ない。種子島弾正は松平薩摩守様御内と書かれる、薩摩藩の家老職で種子島を支配した人である。種子島弾正一行は馬28疋であり行列の本隊である。#524にも類似の文書。

●#693. 石部宿より関宿へ 〆馬百拾九疋人足七拾人にて御泊に御座候 
石部宿問屋から伊勢国鈴鹿郡関宿陣屋川北久左衛門への連絡。馬119疋うち荷物31疋、人足70人の大行列が水口宿から関宿へ上っているとの連絡である。これ程の大行列では少し前の宿泊の宿より前もって連絡が入る事が判る。御師という神宮などへの案内役が居るので行列は伊勢神宮への参拝に行くようだ。別紙にも大名の伊勢参拝が書かれている。#518に川北久左衛門らが坂下に泊り草津に行く旅を記載。

●#692. 干鱈二尾進上仕候 寔以御祝詞申上候印迄に御座候
村山九右衛門より伊勢国関町陣屋川北久左衛門と川北伯翁への手紙。川北久左衛門が奉行に何か役を仰付られた、これは御目出度い事であった。よって干し鱈2尾と御隠居の伯翁へ御菓子を差上げるとの丁重な手紙。川北伯翁は1772年に64歳で死去した8代目川北久左衛門である(下に説明)、この手紙は伯翁の隠居後より死去迄の間のものである。

●#691. 米相場の1ヶ月内での変動にて御座候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が1700年代後半に書いて保存した米相場。金1両で買える米の量を上米、中米、下米に別て10月朔日から晦日まで5日毎に記した。これは「差上」なので奉行に差上げた書の写しである。紙が破損している所は補筆した。これまで読んだ古文書をみても金1両で購買できる米の量は7-12斗であった。また上米、中米 、下米では1両で4升分づつの違いがある事がわかる。

●#524. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 大名衆の宿泊の記録
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が自身の陣屋に宿泊した大名などの名前と世話を担当した手下の名前を記した興味深い記録である。大名の官位が記されており、年代を調べると1718年より1729年の間の卯月の作成と判明した。大名はやはり関町以西の人ばかりで江戸への「上り」と「下り」が書かれる。そしてこの記録の筆者は5代目川北久左衛門武廣(1657-1729)と判明した。手下名は省略して書かれるが理解できた、「疋」はおそらく手下の賃金の単位、又は馬の単位かもしれない。残念ながらこの型の文書はこの1枚のみである。他に提示の「川北久左衛門」の手紙なども5代目頃で享保頃の古いものであろうと予想される。参考ウェブサイト:亀山市歴史博物館「川北家」。

●#611. 愚父相果候節 遠方之所御出被下忝奉存候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門より若林権右衛門への手紙。久左衛門の父が死去したお悔やみに遠方より来てもらった事への略義の礼状。おそらくこれは写として保存して置いたものだと思う。

●#525. 一家にも唯今打寄 右様へ御返事之相談いたし罷有候
半介より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。川北久左衛門ら役人は半介に早々糸屋に行って申し遣わすためにこちらに参上するよう言った。しかしこれに付一家で返事を相談中なので暫らく待ってほしい。以上の内容である。川北久左衛門も役人の仕事で忙しい。

●#523. 書状参候由 則返書忝致大慶候
親しい人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。新年の挨拶と直近迄来た待っている書状について書かれる。また別の手紙を四日市に届けてくれるようにとの依頼である。このように川北久左衛門は近辺の飛脚便の世話を引き受けていた。同様の手紙が#481、#505、#510、#519にある。#498には飛脚賃が掲載。

栞30 

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●#522. 忠兵衛儀爰許へ引取候節 其御表御役方へ御案内も不仕候風
忠兵衛を引き取る人から世話人の1人伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。下の#521の手紙で上野屋忠兵衛が引退するが相続で揉めている。忠兵衛を案内して世話人中へ差遣わし面会することになっている。ここで忠兵衛の仕事の道具などはすべて持参するので面会をなしにして貰いたいとの内容である。難しい内容なので廻り持った表現である。忠兵衛は何か不始末で引退せざるを得ない状況らしい。手紙は切れていて、解読難な字かつ表現も難文であるが要旨は理解できたので掲載することにした。

栞520 

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●#521. 上野屋名跡相続 此度双方申談難儀仕候
町の世話人の伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。上野屋忠兵衛がここで引退する。この名跡は自分が嗣ぐと主張している者からの手紙である。陽母屋善兵衛という者が不法なことを言うので双方で話しているが難儀している。その間上野屋忠兵衛の名跡の道具を請取に行ったが陽母屋善兵衛が当地に来て夜具類を質屋に入れてしまった。追伸では双方の言分を聞いて御世話下さいとしている。最後に「上野屋相続人」とあり確かに名跡相続で揉めているに違いない。

●#520. 先日は種々預御馳走 其節被下候異国之嘉品
不明の人より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。御馳走になった後異国の嘉品をもらった御礼である。はせは伊勢市に近い三重県多気郡多気町長谷のことかもしれない。川北久左衛門に貴重な品を貰う人であるが名前より武士ではないようだ。

●#519. 惣兵衛殿御出所 一夜泊り被参候様に御遣し可被下候
別宿の人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙。宿便(宿伝えの便り)を待っていて1両日で着く頃である。それが届けば惣兵衛さんという人が御出所することになるので惣兵衛さんに一声入れてほしい。惣兵衛さん出所の際こちらに1泊して欲しい。別の宗通殿が御出所するのは義が立たないので申し上げる。以上の内容である。切れた所は青字で予想して補った。

●#518. 坂下へ一夜泊り草津に一泊 二夜泊り両人分之昼支度御茶代
おそらく伊勢国関町陣屋川北久左衛門自身が草津での参会に東海道を西へ駕籠に乗って行った時の駕籠人足賃や食事、酒の費用を書き記したもの。

●#513. 御内々にて利安成物の間に御合せ被下候はば 忝奉存候
ある商人より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。最近商品を入札に出したが自分の足元を見られて特に下値の12、13両での落札になった。売り払うのは止めた。内々「利安成物」として、つまり比較的高値で買い取って欲しい。他の殿方にもお話願いたい。無理なら仕方ないですが難儀しています。母上に一声とあるので血縁の人かもしれない。殿方とは川北久左衛門の知り合いの陣屋や町役の人のことだろう。解読難の字で誤読があると思うが大意は間違いない。

●#512. 手紙断簡 伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙
伊勢国関町陣屋川北久左衛門の受けた手紙の断簡。様々であるが主に家来や丁稚などが持参するものである。中には最後にある「急飛脚」のように遠方で高い費用のものもあった。

●#511. 下駄壱足とからかさ壱本御返遣申候間 受取可被下候
ある人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。先日借用した下駄とからかさを返却する時の添状である。「殊乃他御世話に預り」なので川北久左衛門の家で御馳走になったようだ。最後1行と宛名が切れている。「尚々」の2行は追伸で最後に読む。

●#510. 書状一通三度便に無滞登上候様に 御計頼存候
ある人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。書状を1通三度飛脚便で運送するにつき添状である。「無御別条御暮」の後はまず「珍重」と思われる。#498、#500にみられるように川北久左衛門は飛脚便や鰯の運送を仲介していた。賃銭は#498では48銅=48文である。

●#509. 当方本家御祖父様御上京の節 御叮嚀に御見舞被成御礼申上候
親密な人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。本家の祖父が京都に旅をするので久左衛門に連絡していた。関町に着いた後、久左衛門に旅宿に見舞いを受け関町周辺の案内を受けた。そして無難に帰着したので安心して下さい。逗留中は御世話になったと祖父も感謝しています。以上の内容である。欠落部分は青字で予想して書いた。

栞20 

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●#508. 御親父様御病気御養生無御叶 御死去之由御愁歎
伊勢国関町陣屋川北久左衛門より山川甚兵衛への手紙。甚兵衛の父の死去でのお悔やみと粗品送りの手紙である。「端愁」という単語はあるが一般的でなく、「愁歎」に書き換えたのでこの手紙は没になった。歎=嘆:なげく。始の2行は追伸。

●#507. 御報致拝見候 何共御別条無奉存候
上村より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への返事の手紙。先日申した事を御承知されたとの御報につき委細承知しました。御世話様でした。以上の内容である。最後の挨拶部分が切れている。

●#506. 御地大火に付御店向御類火之段 承知仕気毒千万に奉存候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が梅井与兵衛に書いた火事見舞いの手紙の原稿である。訂正前の文章を黒字で、訂正後の文章を青字で示した。終り近くで「乍憚」を連続して書いたのでこの手紙は没になった。そして訂正して少し短くした。#474の梅井与兵衛よりの2月19日付の手紙で1月29、30日に火事があり類焼で難渋とある。この手紙(3月9日付)で川北久左衛門が去る29日、30日の両日と書いているので、差し出す相手は梅井与兵衛に違いない。

●#505. 京御池屋度々之書状壱封 御便に被遣被下候
竹内五三郎より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。健康の挨拶の後、先日はおいで早々仕事でゆっくりできず残念でした。京都御池屋の書状を遣されありがたい。以上の内容である。

●#504. 御大名様方牧馬御類焼被遊候 各様方も御見舞御下り被成候哉
おそらく近在の陣屋の人より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。この度の江戸の火事で馬の飼育場が類焼があった。これに付陣屋の方々は御見舞に行くのか委しく聞きたい。笹山吉之助様はどうされているのか承りたい。以上の内容である。笹山吉之助は詳細不明ながら近江国甲賀辺りの代官かもしれない。後切れが残念。

●#501. 保科弾正忠様川支之由にて 今暮六つ時迄も御越不被成候
小林儀太夫より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への返事の手紙。上総国飯野藩主と思われる保科弾正忠の一行の通行についてである。今晩に関町に宿泊予定の所が川支で今晩6つ(6時)でも来ない。久左衛門は詳細不明で「注進」はしないことになった。小林は今晩来なければ明日早朝に「注進」をしなさいと書く。今晩来たら最初の「注進」で済んでいる。「注進」はその地と周辺の状況を把握して上申する事と思う。特に次の宿泊地や日時の注進を大名行列衆に伝達する事ではないか。人数も多く食事の準備などがあるだろうから当然次の陣屋に連絡を入れる。小林儀太夫は関町の次の宿の予定の陣屋であろう。保科弾正忠は関東の大名なので伊勢参りの途中かもしれない。

●#500. 白子より干鰯荷物附送り御世話罷成 千万忝奉存候
北浦権平より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。挨拶の後白子からの干鰯を荷物にして送ってもらったことへの御礼を書く。また他へ出ていて銭の持参が遅れたと書く。文の始め2行は追伸である。白子は伊勢国で関町とは近く伊勢湾に面している。「駄賃銭」は解読難であったが間違いないと思う。最後の覚の計算法が理解できていないがここではそのままを書いた、26駄は馬の荷26頭分で大変多い荷物である。なお金1両は大体銭4000-6000文=4-6貫文である。中断箇所は1行か2行と思う。

●#491. 御扶持米引け候哉と御尋に付 内分承候処引け不申候
小林儀兵衛より伊勢国関町川北久左衛門への手紙。昨日は遠慮御免を仰せ付られ御目出度いことです。あなたがこの度差控となった間に嘉蔵殿が申されるには御扶持米が引けるかとのお尋ねでした。内分に承った所では「引けない」です。その様に心得て承知下さい。この一通半右衛門殿へも届けて下さい。また年貢地代金は例年12月21日頃上納でそのように心得下さい。この「扶持米引ける」の意味はどうか。続きの文で「手形を替えるようにして下さい」とありおそらく年末の支払期日延長の目的で従来の手形を書き替えることを促している。#486のように川北久左衛門は近在の庄屋に対し貸金があった。この手形が庄屋の年末の支払い皆済で割引かれることだろうと思う。つまりここでは「皆済とはならない」と書いているようだ。「遠慮」と「遠慮御免」については下に記した。嘉蔵は久左衛門の部下に違いない。

●#490. 伊藤氏并松田屋え書状御届可被下候
伊勢国四日市一番本陣の清水太兵衛より同国関町本陣の川北久左衛門への手紙。伊藤氏や松田屋への書状を届けて下さいと書く。このように宿場本陣同士で物の輸送する機構があったに違いない。

●#486. 御入金被成残り金高拾両に 御都合被成置可被下候
伊勢国鈴鹿郡関町本陣川北久左衛門より同国鈴鹿郡大岡寺村庄屋服部卯兵衛への手紙。段々勘定を見ると別紙のように見えますので御考慮下さい。利足米を払うのも難しいようならば残り金10両にして不足金を入れてはどうでしょう。あなたに面会して得になるようにします。御苦労ですが1両日中にお越し下さい。利米:利足の米。年末で貸金につきどうするか面会の依頼の手紙である。大岡寺村は関の隣の村で現在は両方三重県亀山市である。川北久左衛門の自筆で関問屋、大御陣と書いている。本陣:旗本、大名など貴人の宿泊所。

●#482. 改年之御慶目出度申納候
丹羽重次郎より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への新年の手紙。典型的なものである。

栞10 

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●#481. 無拠被頼候に付 三州西尾へ之便りに御届被下候
伊賀上野とい屋安助より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。宿場伝えに金や手紙などを送る依頼である。三州西尾(現愛知県西尾市)への便で送って下さいと書く。幕府に関連した重要な書類などはこのように宿場伝に送ることがあった。赤色は欠陥を予想して補った。

●#480. 御頼申置候登金之儀 未に貴公処迄相届不申候哉
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙である。内容は大名行列衆が江戸への登りで久左衛門の陣屋に泊まった際の登金(宿泊金)のことであろう。久左衛門は93両をまだ受け取っていないと会計係の武士に尋ねた。その返事がこれである。封のままで番頭か誰かに渡したのではないかと書く。後切れで残念である。

●#477. 珍敷一冊借用申候 寛々一覧大慶不少難有候
大変親しい人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙。断簡で追伸は最初の赤囲いの部分のみである。粕折(鰊や油粕で肥料か)400個持参すること、御馳走になった時川北久左衛門の兄五郎より珍しい本を借用して「珍敷で大慶」した御礼。また令兄に会う時馬の薬を持参しますが如何かとの手紙である。追伸では本一冊返却すると書く。

●#476. 久々乾候上大火に為可申勢之所 先弐軒にて治り候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙。久左衛門を伊勢神宮に参詣させるようにいわれている事、祭りの事、火事やつけ火(放火)の事が書かれている。場所は五十川(五十鈴川)、野村より伊勢神宮、伊勢市のことに違いないと思う。

●#475. 貴宿渡永之儀 代金別帋之通為持遣申候
薗田庄八より伊勢国関町本陣の川北久左衛門への手紙。久左衛門に渡るべき金を入手したので別紙のように持参しますから請取下さいという内容である。手紙は屏風の中張りに使われていたものである。

●#474. 御当地稲荷大明神御開帳大火にて延引に御座候
梅井与兵衛から伊勢国関町川北久左衛門への返事の手紙。当地へ稲荷大明神を開帳するにあたり京都真如堂稲荷大明神への使いが帰着した。道中は節約して費用は少なかった。先月29日、30日に大火がありこの開帳の行事は延引にするよう京都に依頼する。追伸では自分の家が類焼し書状が遅れたと書いている。なお稲荷大明神は真如堂山門を入り、直ぐ左手にあり日本最初の稲荷大明神である。

●#470. 御茶屋之屋根御普請に参候 手伝も五人御申付可被下候
渡辺文六から伊勢国関町川北久左衛門への手紙。久左衛門の茶屋の屋根を普請して直すことに関する用事である。五兵衛という屋守と手伝いを5人準備を依頼する。川北久左衛門は関町の本陣と問屋の人である。

●#465. 川北久左衛門への短報三通 高誂灯七張繕出来致候
伊勢国関町川北久左衛門の受け取った短報である。

●#463. 此方へ御出勤被成候砌 私宅えも御立寄可被下候委細は貴面にて
伊勢関町川北久左衛門が受け取った手紙の断簡。あなたの言葉を近日中にそれぞれの者へ伺候してお目に掛けます。そのように御心得下さい。こちらへ御出勤の時私宅へ御立寄り下さい。詳しくはお会いして申上ます。

●#461. 其砌差上候大鳥居手足の形 御戻し被為下候様御入念候
伊勢関町川北久左衛門が受け取った手紙。時候と健康の挨拶の後、おそらく差出人は伊勢神宮の大鳥居の手足の形、寸法などを書いた紙を久左衛門に渡した。その紙を用事が済んだら先方に返却するように久左衛門に依頼している。差出人は「旦那様」と書いているので久左衛門とは非常に親しい人に違いない。

最後 

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●#457. きんきんに一度御こし下されますよふに くれくれもたのみます
女性よりおそらく伊勢国関町川北久右衛門への手紙。内容は先日の何かしてもらった事への御礼と近日中に来訪を乞うことである。最後の「たよりの者」との書き方などから深い知り合いの人に違いない。芸者か妾からの手紙ではないだろうか。

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#704. 拾六歳之時在所を出 少々宛之物を盗取渡り候趣
#703. 肥前平戸藩京都在番の御武家様の下りにて御座候
#700. 割木送り山中、坂下、沓掛での駄賃の覚に御座候
#695. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 続大名衆の宿泊の記録
#693. 石部宿より関宿へ 〆馬百拾九疋人足七拾人にて御泊に御座候
#692. 干鱈二尾進上仕候 寔以御祝詞申上候印迄に御座候
#691. 米相場の1ヶ月内での変動にて御座候
#524. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 大名衆の宿泊の記録
#611. 愚父相果候節 遠方之所御出被下忝奉存候
#525. 一家にも唯今打寄 右様へ御返事之相談いたし罷有候
#523. 書状参候由 則返書忝致大慶候
#522. 忠兵衛儀爰許へ引取候節 其御表御役方へ御案内も不仕候風
#521. 上野屋名跡相続 此度双方申談難儀仕候
#520. 先日は種々預御馳走 其節被下候異国之嘉品
#519. 惣兵衛殿御出所 一夜泊り被参候様に御遣し可被下候
#518. 坂下へ一夜泊り草津に一泊 二夜泊り両人分之昼支度御茶代
#515. 期役之義無御滞被承仰候趣 目出度奉存候
#513. 御内々にて利安成物の間に御合せ被下候はば 忝奉存候
#512. 手紙断簡 伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙
#511. 下駄壱足とからかさ壱本御返遣申候間 受取可被下候
#510. 書状一通三度便に無滞登上候様に 御計頼存候
#509. 当方本家御祖父様御上京の節 御叮嚀に御見舞被成御礼申上候
#508. 御親父様御病気御養生無御叶 御死去之由御愁歎
#507. 御報致拝見候 何共御別条無奉存候
#506. 御地大火に付御店向御類火之段 承知仕気毒千万に奉存候
#505. 京御池屋度々之書状壱封 御便に被遣被下候
#504. 御大名様方牧馬御類焼被遊候 各様方も御見舞御下り被成候哉
#501. 保科弾正忠様川支之由にて 今暮六つ時迄も御越不被成候
#500. 白子より干鰯荷物附送り御世話罷成 千万忝奉存候
#491. 御扶持米引け候哉と御尋に付 内分承候処引け不申候
#490. 伊藤氏并松田屋え書状御届可被下候
#486. 御入金被成残り金高拾両に 御都合被成置可被下候
#482. 改年之御慶目出度申納候
#481. 無拠被頼候に付 三州西尾へ之便りに御届被下候
#480. 御頼申置候登金之儀 未に貴公処迄相届不申候哉
#477. 珍敷一冊借用申候 寛々一覧大慶不少難有候
#476. 久々乾候上大火に為可申勢之所 先弐軒にて治り候
#475. 貴宿渡永之儀 代金別帋之通為持遣申候
#474. 御当地稲荷大明神御開帳大火にて延引に御座候
#470. 御茶屋之屋根御普請に参候 手伝も五人御申付可被下候
#465. 川北久左衛門への短報三通 高誂灯七張繕出来致候
#463. 此方へ御出勤被成候砌 私宅えも御立寄可被下候委細は貴面にて
#461. 其砌差上候大鳥居手足の形 御戻し被為下候様御入念候
#457. きんきんに一度御こし下されますよふに くれくれもたのみます

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