南竹 Nanchiku
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紀伊熊野医師大石宗恕,Dr. Sojo's Documents

ここは紀伊熊野医師大石宗恕の文書で、1733年=享保18年頃のものです。医師連と新宮藩の奉行らとの薬種入手のための銀札調達につき応酬した記録です。上から下の順になっています。ゆっくり楽しんで下さい。
Here are documents of Dr. Chujo's Documents. Dr. Sojo Oishi was a doctor of Kumako, Kii. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#345. 熊野之医師之記録 その壱 口上:役所正銀之御引替無之に付薬種取寄之儀不及力候
熊野地方の太地から有馬村に住した医師の記録である。まず1733年=享保18年に役人に提出された奉願口上である。「銀札通用につき銀札から正銀の引替がないので薬店や三方での薬種の調達ができず払底です。医者仲間で相談して札場へ出て願出ても埒明しませんので当所御公儀へ願書をさしあげます。三方へ銀子を登らせることができず注文しても薬種が取寄せできません。不足品の種類も多く治療の手が出ず迷惑しています。これでは尊卑の人々共に病気の危難でも手を束ねるだけです。薬種は他と違いわずかの銀ですので奉行様より声懸けして正銀の引替をできるようにして下さい」。銀札:銀貨に引替の対象として発行された紙幣、ここは藩発行の札のようだ。三方:大坂の薬種中買仲間と見られる。埒明ない:決着が付かない。払底:品切れ。数多:あまた、数多く。手支え:てづかえ、手の出し様がない。尊卑:尊い人と卑しい人。手を束ね罷有:空しく手を束ねたままにする。この口上の結末は次回以後。

●#346. 熊野之医師之記録 その弐 口上:引替筋之儀に候へば先町役人え出し候様にと被仰候
熊野地方の太地から有馬村に住した医師が1733年=享保18年役人に提出すべく用意した奉願口上を「その壱」に掲載した。ここでは口上の提出先の奉行とのやり取りである。「医師3名(宣安、宗恕、宗元)が2月18日奉行の柳瀬庄左衛門宅へ見せに行く。町役人方へ提出するように言われた。我々は以前よりのしきたりにより医役の事は御奉行直々の取次や申し渡しですと言った。柳瀬庄左衛門は同役(もう1人の奉行古川勇右衛門)にも行くようにと言った。即刻古川宅へ行くが野辺へ出て留主だった。柳瀬宅へ戻って話したが明日の御会所へ持参するようとのことで医師連は帰宅した。2月19日宣安と宗恕が会所へ口上書を持参した。奉行衆(柳瀬と古川)はこの度は(銀の)引替のことなのでまず町役人に出すようにと言った。宗恕は先々より医役に付御用筋は奉行様直々であると言った。奉行はこれまでの例があるか我々の了簡で取次はできないといった。19日夕に宗恕、宗元、意斎で願書持参で柳瀬宅へ行くが用事で不在で会えなかった」。先規:前からのしきたり。御会所:おそらく奉行が支配地の民と会う所、ここでは2名の奉行が医師連に会っている。口上願書は銀の両替のことなので奉行に直々でなくまず町役人に提出するようにとのことで受取を拒否された、また奉行が両替の願書を直に扱った前例があるのかと居直られた。続きは次回。

●#347. 熊野之医師之記録 その三 口上:身をすてて推返し推返し御願申上候処御結構言仰付有
前回19日奉行連が医師連に会い口上願書(薬草のための正銀調達)は銀の両替のことで奉行直々でなく町役人に提出するようにとのことで受取を拒否された。続きである。「20日医師3名(宗恕、宗元、意斎)は再度奉行柳瀬宅へ参上したが昨日の通りでとのこと。医師連は以前願書を出した時奉行渡辺杢右衛門に直に差上げた前例を話す。柳瀬は同役古川勇右衛門へもその旨を話すよう言った。すぐ奉行古川宅へ参上したが頭痛との事で会えなかった。さらに古川はその後は切支丹改めに懸った。さて切支丹改めも終り26日古川宅へ参上して先例の事など話したが医師達が申し上た項目をすべて消去した、古川は願書は受け取らないと言った。30日柳瀬が医師連を呼び寄せた。医師連の意向はもっともであるが町役人に出すのも間違いとも言えない。そこで年寄衆(奉行衆の上役:「その壱」に掲載の矢田、源田、桜沢各氏)へ相談したが医道においては願書や御用は奉行が直に受けて、申し渡す様にとのことだった。これは町役人へも申し渡した。宗恕は最近医師仲間が薬草の件を町会所で大年寄(庄屋や組頭や年寄が集合した会所の長)に話したが、大年寄はそれは医道のことで奉行直々に行うべきと言ったと説明した。さて柳瀬は明日から奉行の月番が替るので古川へ願書を持参するよう言った。医師連は取り持ちをありがたく感謝した。帰って各医師達へ連絡した。3医師が身を捨てて推し返し推し返して何度も願書を出し、結構な達しを得たことは末代迄の好例である。今後公用筋で支障ないように勤めよう」。18日に作成した医師連の願書は次月1日奉行が直に受け取ることになった。次回は医師連が古川に提出する場面。奉行は2名中1名が月毎に交代するようだ。

●#348. 熊野之医師之記録 その四 口上:和歌山之御評諚之上札場へ薬種代之儀引替申様被仰出候
前回医師連の口上願書(薬草購入のための正銀調達)は3月1日奉行が直に受け取ることになった。続きである。「まず医師連は同日両奉行に御礼に参上した。そして3月1日医師3名(宗恕、宗元、意斎)は奉行古川勇右衛門へ願書を渡した。同日意斎が呼び出されて2点言った。1、町奉行の「町」が「耳」にみえるので御奉行所と書く様に。2、「医者中」の「中」である。最近「廻船中、問屋中」との書は手前を上げているので以後「廻船共、問屋共」と書く様年寄衆が指導した。よってここは「医者共」はどうか。これは医師仲間へ持ち帰って相談した。医師連の長、宗元が頭を振りそのまま「医者中」で是非出すようにとした。同日願書を提出した。3月2日宗元、意斎が呼び出され、銀札引替は奉行が声懸りしても解決しないので待つように奉行は言った。医師は御礼申し上げた。3月9日奉行会所へ宗元、宗恕が呼び出される。年寄衆は願書が尤なる事とした、当地(熊野)では昨年不作で銀が払底困窮して薬種代も引替不能になった。年寄衆は医師連を気の毒に思い取訴して江戸屋敷の成田八太夫に願書が行った、さらに成田八太夫より和歌山へ願書は行った。そこで評定されて当所の札場へ薬種代は引替するよう、今は銀子が払底でこれから和歌山に銀子が送られるので着いたらすぐに銀札を銀に引替るよう達しが出された。医師連は上々様の御賢慮に感謝の意を表した。そして両奉行へ御礼をした、年寄衆への御礼を伺うとそれは不要となった」。紀伊熊野の医師連の願書は江戸屋敷の重鎮からさらに和歌山城の評定にかけられて願いは聞き届けられることになった。よかったね。年寄衆は今後病気になった時、診察と薬の処方が必要になるから医者連に協力したのはよく理解できる。また「医者中」を「医者共」に替えてはどうかとの奉行の指摘には完全に否定して医師連の名誉を重んじた、今から300年も前より日本の医師は矜持と自信を持っていたわけである。今後の奉行とのやりとりのための例にこの文書は宗恕によって詳細に記されて保存された。次回はこの書の残りの記載である。

●#349. 熊野之医師之記録 その五 紀州藩主、新宮藩主御成の記録 藩主御前は木履脱申様
熊野医師連の記戴の続きである。ここは4度の御成である。①辛卯=1711年=正徳元年。城主3代目土佐守は水野重上(紀伊新宮藩藩主兼紀州藩附家老、1634-1707)で正しいが、年号が正確ならこの人は死亡しており次の4代藩主水野重期(1695-1740、淡路守、1707年より藩主)である。丁子はスパイスで漢方薬。丁子丹は丸薬。御目見えして丁子丹を差上げた。②癸卯=1723年=享保8年。大恵院様は徳川宗直(紀州藩6代藩主、1682-1757、1716年に藩主)である。この時は4名の医師連が対応した。さてここで最後年寄衆から謝礼の金子を受けたが1名の医師が不審とされた。松本随益が下駄を脱がなかったことである。ある侍が指摘したので後で年寄衆頭(その壱参照)の矢田市左衛門に尋ねた。「先年別の医師に申付けたが年寄衆は当所では殿様の銘代なので年寄衆が草履の時は木履(下駄)を脱ぐようにと申した。年寄衆が木履ならば脱がなくてよい。他の役人には木履を脱がなくてもよい」。危なかったね、松本随益は知らなかったのだろう。「無礼者、切捨て御免」にならなくてよかった。③1794年=寛政6年。紀伊様は徳川治宝(紀州藩10代藩主、1771-1853、1789年に藩主)である。この時は4名の医師連が熊野国の各所に詰めて御世話をし御目通りをした。そして4名は金子を拝領した。年寄衆頭であった矢田市左衛門の子らしい矢田八左衛門が奉行で登場。④1799年=寛政11年。紀伊太真様は徳川重倫(紀州藩8代藩主、1746-1829、藩主は1765-1775、1775年隠居し後剃髪して太真と号した)。熊野御成で医師連は御用勤をした。なお松本氏古随益、矢田氏古市左衛門の表現の「氏」「古」は敬称と思われる。

●#350. 熊野之医師之記録 その六 野呂元丈ら自江戸薬草御尋に新宮到着
熊野医師連の記録の続きである。1721年=享保6年野呂元丈という幕府の薬草研究家が夏井松玄、本賀徳運と共に熊野に来て薬草採取する。この事は「野呂元丈伝」などに記載があるが日程などの詳細は不明である。「辛丑=享保6年7月23日奉行衆より江戸幕府から野呂元丈、夏井松玄、本賀徳運が薬草採取に熊野に来るのでその際医師連から見習いの者を付けるようにとの年寄衆の意向があると伝達があった。さらに7月30日確認として宗恕に相手を勤めるようとの伝えがあった。(野呂元丈らは)閏7月14日新宮を出発し同日北山大野村へ到着。閏7月23日に我々は源次(野呂元丈)に逢った。24日新宮に到着、御暇乞いをして終わった。領内各所では見習いの者は付かなかった。その後御会所で年寄衆からの金子の御礼を受けた」。以上11日間の野呂元丈らの熊野での薬草採取に地元の医師連が面会し関与した文書である。他の記録に残る「伊勢、吉野、熊野方面の採薬」の旅行日程の一部分に違いない。本賀徳運を「木賀徳運」と記した記録があるようだが、ここは明らかに「本賀」である。最後の2行はこの文書が奉行と医師連の交際で重要な記録であるため筆記で写した記録である。明和2年=1765年の奥田養元は切支丹改役人であった医師兼任の武士であり、その壱の口上願書にもその名が出ている。文政8年=1825年の堀宇仙は新宮の医師である。以上で熊野医師、大石宗恕さんの記録は仕舞であるが文書は御覧のように損傷が著しい。壱から四の医師と奉行衆とのやりとりは迫力があるので是非これを掲載して置きたかった。

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#345. 熊野之医師之記録 その壱 口上:役所正銀之御引替無之に付薬種取寄之儀不及力候
#346. 熊野之医師之記録 その弐 口上:引替筋之儀に候へば先町役人え出し候様にと被仰候
#347. 熊野之医師之記録 その三 口上:身をすてて推返し推返し御願申上候処御結構言仰付有
#348. 熊野之医師之記録 その四 口上:和歌山之御評諚之上札場へ薬種代之儀引替申様被仰出候
#349. 熊野之医師之記録 その五 紀州藩主、新宮藩主御成の記録 藩主御前は木履脱申様
#350. 熊野之医師之記録 その六 野呂元丈ら自江戸薬草御尋に新宮到着

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