南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
Since December 23, 2015

< 江戸前期 Former Half of Edo >

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江戸前期 Former Half of Edo. 1604-1720

徳川家康の政権成立から享保の改革まで。1615年大坂夏の陣で豊臣を一掃し、1635年参勤交代で徳川の各外様大名への締付けが確立。一方江戸は各地江戸屋敷の武士で繁栄。狩野派の画家が狩野探幽、狩野安信、狩野探雪、清原雪信、狩野洞春福信、狩野元仙、狩野探信守政、狩野古信、加藤遠沢など大活躍の時代。京狩野派の狩野永敬。風俗画の英一蝶、琳派の野々村信武、本阿弥光甫、住吉派の住吉具慶、大坂の大岡春卜、京は高田敬輔、山口雪渓、波多野等有、泊幽山(泊守貫)など。
雲谷等悟、武田親庸、豊臣倁長、筆天斎も面白い。書家、儒者は梁田蛻巖、伊藤仁斎、伊藤東涯、亀田窮楽、谷秦山(谷重遠)、太宰春台、北島雪山、細井広澤、熊沢蕃山、玉置喬直、室当則。ほかに徳川光圀、小堀政尹、真敬法親王、石川丈山、林鵞峯。南禅寺の在天正佐。俳句、和歌では平元梅隣、鉄丸、武者小路実陰、雛屋立圃、河瀬菅雄、杉山杉風、蜂須賀光隆、里蝶、一之。狂歌の豊蔵坊信海。武芸者大島雲五郎の手紙、池田出羽が主膳内より受けた手紙。

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これはズームでポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

 

●伊藤東涯 Togai Ito 1670-1736
京都生まれの儒学者。伊藤仁斎の子。古義堂の2代目を継いだ伊藤東涯の3作目。父の著書「語孟字義」の重要な部分を書いた作品である。落款は長胤、印は長胤之印、元蔵。解説は図中に記した。

●室当則 Tousoku Muro ?-? active ca. 1758
下の加藤遠沢の画(1725年)に感想を求められて1758年賛を入れた人である。落款は本邸侍読室当則題、印は室公道印、汶陽(ぶんよう)。この作品は画が気動と筆勢があると賛を書く。早稲田大学にある作品が「室当則」検索一発で出る。有名な「室鳩巣肖像」で室鳩巣(1658-1734、儒者で徳川将軍3代にわたって侍講を勤めた)の像と賛がある。賛は室当則であり室鳩巣の70歳の新春を祝った画に室鳩巣の死後に記入した。室当則は室鳩巣の親族で儒者としての後継者であったと思われる。それ以上の詳細は不明な人である。侍講(じこう):君主に仕え、学問を講義する人で侍読ともいわれた。さて以下駿台雑話(室鳩巣著、岩波文庫)によれば鳩巣の息子に室洪謨(勿軒、1706-1739)、孫に室直温がいた。ここの室当則との関連はどうか。洪謨は1758年の19年前に死去していて異なる。室直温は駿台雑話刊行の1750年当時に「幼い人」であった、この時仮に10歳と仮定しても1758年は18歳となり「徳川家の侍講」ができる年齢ではない。よって「室当則」は以上の2人とは異なる人に違いない、分家の人であろうか。

●加藤遠沢 Entaku Kato 1646-1730
陸奥国会津の人。狩野探幽の門人の画家。山水、人物画が得意で久隅守景、鶴沢探山、桃田柳栄と共に探幽門の四天王とされた。会津藩保科家に御用絵師として仕えた。性格は清廉温厚とされる。85歳で歿。作品は宝尽しの図。宝珠、打出の小槌、巻物を豪快に画く。款記に享保十乙巳年正月五日遠沢。よって乙巳年=1725年=享保10年の正月に80歳の作である、従って作品は加藤遠沢の1646年生まれを支持する。過去1643年生まれとの説もあったが、「四季耕作図巻」の記述より近年1646年生まれと確定した。この作品の款記は正確である。左端の賛は上に示す徳川幕府の侍講(=侍読)の室当則により33年後に記されたもの。参考ウェブサイト、文化財デジタルアーカイブ:四季耕作図巻。 Entaku Kato was a painter who was active at Aizu, Mutu. He was a pupil of Tanyu Kano. Tanyu Kano was a very famous painter at Kano school.

●池田出羽が主膳内より受けた手紙 A letter from Shuzen's wife to Dewa Ikeda.
女筆の古い手紙で新年の挨拶である。記載の人物に「栄光院」とあり。また「池田出羽」は備前国児嶋の天城陣屋、つまり天城池田家の当主の代名詞である。池田主膳に該当する人も居る。両者共に第2代備前岡山藩主池田綱政の子である。下に考察を加えた。「池田出羽」は池田政純と思う。また差出人の「主膳内」は池田軌隆(主膳)の妻と思う。

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の8回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「僧」、「祝」に掲載されている。「僧」の和歌は遍昭が剃髪した時に幼少時に母に髪をやさしく撫でてもらったことを思い起すのが印象的。近年「なでず」とするが江戸以前は「なです」となっている(鴨長明著「無名抄」、「和漢朗詠集」参照)。「祝」には君が代がある、つまり君が代は1013年和漢朗詠集の頃や江戸時代前期には著名な歌のひとつであった。「嘉(佳)辰令月歓無極 万歳千秋楽未央」は好きな歌なので考察を加えた。歌の後半「千秋万歳楽未央」は確かに664年の中国道宣の著作「廣弘明集」と「集神州三宝感通録」に書かれており、この7字の由来は非常に古い中国梨州の舎利塔の瓦である。これを以て玉置喬直の作品はすべて掲載し終え千秋楽を迎えた。作品は和漢朗詠集(藤原公任撰)の中の15の和歌と漢詩を御家流で墨流しの和紙に筆写した美しいものであった。 This is the eighth presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の7回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「山寺」、「仏事」に掲載されている。「山寺」の和歌は平明、漢詩は作者の滋野貞主が自宅を寺として喜捨した事を知らないと理解不可能な難物。「仏事」の和歌、漢詩も難解であった。関連の和泉式部の和歌は面白い。時間をかけて調べてほぼ理解に達し得た。 This is the seventh presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の6回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「歳暮」、「隣家」に掲載されている。「歳暮」は年を経たと感慨する時であるという和歌がよい。「隣家」の方も境のかきつばたが大変きれいであるという和歌が我が国らしくてよい。隣家と隔てて池とそこに柳を植えるのは日本的感性ではないと思う。 This is the sixth presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の5回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「秋晩」、「冬夜」に掲載されている。「秋晩」は和歌も漢詩も解りやすい。「冬夜」の漢詩がやや難物であると思う。だけど夜から夜明の時は確かに特別の思考回路が働いて冴えた着想が生れることは確かである、中枢神経のアセチルコリンが働く時だからね。 This is the fifth presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の4回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「立秋」、「七夕」に掲載されている。どちらの和歌も漢詩も概ね解りやすい。ここでは特に已然形が勉強になった。 This is the fourth presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の3回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「夏夜」、「端午」に掲載されている。当初端午の和歌は意味がおぼろ気だったし、端午の漢詩は全く意味不明だった。調べ捲っていると意味が明白になった、すごく知識になった。捲る(下にまくって参照)。 This is the third presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸の書家で御家流、玉置流の祖、玉置喬直の2回目。2作品の漢詩と和歌は和漢朗詠集の題「春興」、「子日(ねのひ)付若菜」に掲載されている。「春興」(上側)の白居易の漢詩はわかりやすい。「子日付若菜」(下側)も漢詩、和歌ともに平明である。子日祝言は「江戸後期II」豊岡尚資に和歌を掲載。 This is the second presentation of Takanao Tamaki's calligraphy.

●玉置喬直 Takanao Tamaki 1656-1723
江戸小石川の書家、歌人。御家流の玉置流の祖。68歳で歿。生年歿年は検索の本に記載がある。1723年刊「奉納詠百首和歌」、この人の筆による庭訓往来の発刊(1816年)が知られる。弟子の玉置茂八(?-1768)も有名。作品は肉筆で和歌と漢文が15枚。極めてきれいな御家流の和漢の書であり、内容は和漢朗詠集の題「早春」にある和歌と漢詩である。玉置茂八が癸卯=1723年=享保8年に作品が師の玉置喬直の筆に疑いないと書く。玉置喬直の死去直後頃に記されたものである。作品の依頼者は功運寺盛巌元浦長老(詳細不明の僧)、功運寺は東京都中野区上高田にある曹洞宗の寺であろう。江戸市谷店渡辺吉右衛門は作品を巻物に仕上げた人に違いない。玉置流はこの後琉球で盛んになった。 Takanao Tamaki was a famous calligrapher who was active at Edo.

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●武者小路実陰 Sanekage Mushanokoji 1661-1738
公家で歌人の武者小路実陰の2作目。霊元上皇歌壇の代表的な歌人で、中御門、桜町両天皇を指導。作品は手紙である。前日大変親しい人(おそらく公家)が夏の「郭公」など大変多くの和歌を書いた手紙を寄越した、この和歌から「取得」あるものを選んでほしいとのことである。さて御詠の中でまずまずは2首、他は「少しも少しも取得が無し」と書く。実に面白い。この「取得」の和歌は書記が書き取り保存するらしい。宛名には「貴酬」とのみ記され、また文章からも相手は実陰より位が低い人に違いない。実陰としては私的な非公式な手紙の積りであったと思う。しかし表装されて300年後の今まで手紙は残った。この人の字は和歌もきれいで読みやすいものであったが、手紙の字も比較的判じやすい。 This is the second presentation of Sanekage Mushanokoji who was very good at waka.

●在天正佐 Zaiten Syosa ?-1726
公家中院通純の子。公卿類別譜に掲載。臨済宗南禅寺塔中の聴松院に住し南禅寺283世住持であった。1716年(70歳頃)京都五山惣代として将軍徳川吉宗へ献上品を贈っている。京都五山:南禅寺(別格)、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の臨済宗寺院。また「佐長老」と呼ばれ親しまれた。1726年10月に73歳以上にて寂(仏家人名辞書)。作品は落款は龍山遠孫比丘正佐拝讃、印は正佐、沙門在天。狩野永敬の達磨の画に流暢で綺麗な文字で賛を書いている。「龍山遠孫」とあり臨済宗の南禅寺の法灯を継いだことを示す。漢文の「皮肉骨髄」の関連につき特に臨済宗と曹洞宗の違いなどを考察してみた。参考論文:晴山俊英氏、「道元禅師における皮肉骨髄について」。芳賀洞然氏、「五燈会元鈔講話」。参考ウェブサイト、「公卿類別譜」。 Zaiten was a zen monk who was a head of Choshoin, Nanzenji. He was active at Kyoto.

●狩野永敬 Eikei Kano 1662-1702
京都の生まれ。画師京狩野家3代目狩野永納の子。1684年(23歳)家督を嗣ぎ4代目当主となる。公家二条綱平に伺候、尾形乾山、京極宮文仁親王らと交際した。弟子に高田敬輔。作品は襖絵、屏風など大作が多い。41歳で歿。京狩野家当主は初代狩野山楽、2代狩野山雪である。作品は落款はなし、印は狩埜、永敬。達磨の迫力ある画である。賛は上に掲載の南禅寺聴松院の在天正佐である。 Eikei Kano was a painter who was a head of a Kyokano school. He was active at Kyoto.

●一之 Issi ?-?
「いっし」の名の俳人は10人ほど居り1700年前後の人が多い。作品は落款は一之。「塀越しに 手を延し咲 藤の花 こころやすゐの 能ひ隣同士」。隣の藤の花がこちらに枝を伸ばして咲いている。隣は心安い同士なのでそのままに置いている。さらりと詠んだ上下の句である。和歌の形だけど句の内容、書式、字は公家の作ではない。俳句好の武士か商人だろう。

●里蝶 Richo ?-? active ca. 1702
里蝶は備中里蝶といわれた俳人。里蝶句集を拾遺した1702年=元禄15年に柳本正興(?-1732、備中井原村の俳人)が発刊した「しばはし(柴橋)」がある。作品は歌で落款は里蝶。「よをとへは しかの宮古は 軒あれは 宿りははなを まくらにそする」。下のように平忠度の千載和歌集の歌への返歌であるがやや洒落味もあり、さらに句の最初の文字を「よしのやま」として巧妙である。夜と世を懸けているのが大変よい。「しばはし」にも比較的きれいな俳句がみえる。 Richo was a haiku maker who was active at Ihara, Bicchu.

●蜂須賀光隆 Mitsutaka Hachisuka 1630-1666
阿波徳島藩2代藩主蜂須賀忠英の子。1642年(13歳)徳川家光に御目見、光隆に改名。1652年(23歳 )阿波徳島3代藩主となる。1654年(25歳)侍従、阿波守の官位。文武に活躍した。和歌は特に秀でた。37歳で歿。里蜑集(さとのあましゅう、大量の自作和歌集)、集哥集(自撰の他家和歌集を自筆したもの)が知られる。作品は落款は光隆。十三夜の月見の時の2首の誠に優雅できれいな和歌と前文を書く。字は定家流の要素がある特徴的なものである。1674年(歿後8年後)里蜑集を筆写した師の飛鳥井雅章(1611-1679)は書く。「頗る良い和歌を朝詠暮吟した人。早世の人で歎かわしく惜しいことである。4代藩主綱通氏が私に遺稿集の編纂を依頼した。この和歌集を書き終えて見ていると彼に再会したようで懐しくて涙の乾く閑もない、依て里蜑集の題名とした」。蜑:海女のことで海女は海に潜り体が乾く閑もない。大名の中でも非常に高い文化人の素養を有した人であった。 Mitsutaka Hachisuka was a governor of Awa. He was very good at waka.

●杉山杉風 Sanpu Sugiyama 1647-1732
江戸生まれ。俳人で魚問屋主人(鯉屋)。号は蓑翁(さおう)、蓑杖(さじょう)。芭蕉門下の代表的俳人で芭蕉の経済的後援者であった。芭蕉に随身し篤実な人柄とされた。芭蕉の居宅、芭蕉庵は杉風の生簀の番小屋であった。「去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と芭蕉が言ったと伝えられる。「常盤屋之句合」など。86歳で歿。作品は肉筆の手紙で署名は杉風花押、蓑里宛である。82歳=1728年=享保13年の新春の手紙。蓑里に依頼されて作った作品群の詳細が書かれている。内容は図中に要約し記した。宛名の「雅丈」との門人への呼称、「蓑」は杉風の号(蓑翁、蓑杖)より貰ったもの、また一句作っていること。以上より蓑里(=みのさと?)は現在名は残っていないが、杉風の門人で俳人であったに違いない、とくに杉風の作品を書画商に仲介する役であっただろう。記されている杉風の「やそとせは つもりつもりの 老いかさね」の句は今日知られていないようだ。杉風はここにあるように絵を得意とした。なお芭蕉の檜笠の句2首は今日にも知られている俳句である。 Sanpu Sugiyama was a haiku maker who belonged to Basho and lived at Edo. He was a patron who supported Basho so much.

●平元梅隣 Bairin Hiramoto 1660-1743
出羽秋田藩士の俳人、平元梅隣の2作目。「世渡りや 満てぬを愛る 后の月」。前文より知人の高齢の翁が先は短く詰まっていることはそれを破るに近い時期だと言って晴々している。俳句の「后の月」は九月十三夜の月で名残りの月、晩秋の季語。十五夜の満月でなくこれを愛でるのが粋である。歳が満てる前が良いとの意味。前作同様この人の俳句は明るく気持ちよく軽いものが多いね。 This is the second presentation of Bairin Hiramoto. He was a haiku maker who was active at Akita.

●泊幽山 Yuzan Tomari ?-? active ca. 1688-1704
福岡の人。別名泊守貫、号益乗、京古斎。駿河台狩野家の狩野益信洞雲(1625-1694)の門人で筑前福岡藩の画師であった。元禄頃に活躍。父は泊守治でやはり福岡藩の画師。古画備考に記載あり。作品は落款はなし、印は幽山之印。屏風の剥しで画は古風な馬の墨絵。作品は検索で出ないが、この人の作品として矛盾はないだろうと思う。 Yuzan Tomari was a painter who belonged to a governor of Fukuoka.

●大島雲五郎 Ungoro Oshima 1663-1744
大島雲五郎は紀州藩の武士で大島流槍術の師範4代目。大島流槍術とは大島吉綱(1588-1657、美濃生まれの紀州藩士)が創始した素槍の槍術で1丈1尺5寸(348cm)の槍(やり)を使う。吉綱の子孫は代々紀州藩槍術師範を務め幕末まで続いた。作品は大島雲五郎から宮後逐沼太夫への手紙。「私は(槍術の)門弟が多く居て毎日弟子を指導しています。そこで稽古場の安全と門弟の芸術の英達の御祈祷をお願いします」。稽古:けいこ、ここは槍術のけいこ。英:大衆よりも秀でる。宮後逐沼太夫:伊勢神宮近在に住む神道の祈祷師(御師)。OO太夫:御師の家号を示すもので相撲の「OO親方」と同じ、株を買って地位を受け継ぐ。この時代紀州藩は武芸を強く推奨する徳川吉宗が藩主であったので稽古に厳しかったに違いない。よって稽古場での負傷が多かったことが理解できる。作品は当初は「雲七郎」か「雲十郎」と見ていて詳細は不明であったが、筆順より「雲五郎」と判明してこの人物とわかった。 Ungoro Oshima was a samurai and a teacher of the spear fighting. In this letter, Ungoro asked Miyagotayu, a shinto shaman to prey for the safety of the training and the advancement of the pupil skills.

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●作者不明 unknown calligrapher ?-?
迫力ある書の作者は不明。「烏菟押移 年の暮にも成 雪擁藍関 馬蹄もすすます 参入不申候」。烏:からす。おそらく高位の武士で来館を促す友人に「年の暮になったので(多忙で)参りません」との返事を懐紙に書いて届けた。「烏菟押移」と韓愈の詩の一節「雪擁藍関」をきれいに結び合わせている、他の人でこの例はない。教養のある人に違いない。字は御家流の典型で巧い。猫顔の輪郭のような不鮮明な印がある。

●河瀬菅雄 Sugao Kawase 1647-1725
大坂の生まれ。長じて飛鳥井雅章(1611-1679)に歌を学ぶ。京都、大坂の地下歌人(殿上人でない歌人)として三輪執斎、土橋友直や多数の庶民を指導し活躍した。79歳で歿。著書に「まさな草」など。作品は落款は菅雄。和歌「沙羅林朝暾 さらり山 峯は朝日の ほのめきて なを夢むすふ 谷かけのいほ」。さらり:するっとした。ほのめく:仄めく、かすかに見える。夢むすぶ:夢を見る。谷かけ=谷蔭:谷の隠れて見えない所、人のまれな山中。いほ、いほり=庵。さらりとした山の峰に朝日がかすかに見えて、まだ夢を見ているような気分の谷蔭の住まいであるなあ。朝暾:ちょうとん、朝日。暾:朝日。沙羅林:釈尊が入滅した所。さらり山=沙羅林とかけて釈迦の永眠の神聖な場所とかけた。 Sugao Kawase was a waka maker who was active at Kyoto and Osaka.

●雛屋立圃 Ryuho Hinaya 1595-1669
京都の生まれ。俳人、絵師。別名野々口立圃。父は雛人形を製造、販売し雛屋を称す。松永貞徳に俳諧、烏丸光広に和歌を学んだ。俵屋宗達流の墨画に俳諧を加えた画が多く俳画の先駆者とされる。1633年(39歳)『誹諧発句集』を上梓、貞門の句集として名高い。以降多くの句集を出版。後に江戸に下ったりする間に弟子は増加、晩年は備後福山藩水野氏に仕えた。75歳で歿。作品は巻物である。落款は立圃書。内容は4つに別れる。一話「筆を使う道(画、書、和歌)、音楽などは流派で違いがあるとか。演舞には上かかりと下かかりの流派があり小唄、三線などは古今様々の節がある。古い器物(楽器)は宝といっても大きさや色、音が変わって役に立たないことが多い。善悪は見るに聞くに知られない事も多い。様々なものを並べて比べると作った物は手に触れ見る、鳴り物は音で聞く、食物は味わうと判断できる」。二話「仏道は衆生を助ける道は一筋だけれど衆生には信心の機縁が必要で方便を説く。多くの師が近道にと自分の説教を語り、宗派は8-9宗にも分かれる。しかし最後の行先は1つである。遠い道近い道あり、遠い道は悪いというが、人に機縁がなければくるくる同じ所を廻ることになる。これは極めて悪い道である」。三話「さて歌連歌の道は昔よりあるが俳諧連歌を廻すのは近年世にはやっている。中に3-4年田舎に住むと連歌の友もなく流儀が変っていて面白くない。聞き知らぬとは掟に背くことである。前句に付けるか付けないか弁えることが肝要である」。四話「発句に月花にそむいた心を作り名所旧跡を入れる。平句で前にない事句を言う。これらは道を殺す殺生戒の罪だ。古い歌連歌と取って古い言葉を長々と言い続けるのは古歌を盗むので偸盗戒の罪である。前句に親しく付けて打越にも心を通わせるのは輪廻の迷いで邪婬戒である。全く付けないでおのれを立てるのは妄語戒の科である。貴い連衆を敬まわず巧者を恐れず興に任せて句数を増やす。これは飲酒戒を破る罪である」。長い文で3話、4話の連歌の話が中心で芸能など古い新しいや流派、仏法のくるくる廻るや戒は前置である。連歌や俳句の前句にいかに対応するかは難しそうに思える。連歌の簡単な解説は「江戸後期-II」小沢蘆庵を参照。 Ryuho Hinaya was a haiku maker and a painter who was active at Kyoto.

●林鵞峯 Gaho Hayashi 1618-1680
京都生まれ。儒者、林羅山の子。名は春勝、恕、号は春斎、鵞峰。儒者那波活所に師事。1653年(36歳)頃父の羅山同様弟の靖(春徳、読耕斎)と江戸に赴き幕府に仕えた。1657年(40歳)の明暦大火で父の蔵書はほぼ焼失、その4日後の父の死後に林家を継ぎ幕政に参与した。1663年(46歳)4代将軍徳川家綱に五経を講義して弘文院学士号となる。父羅山と共著「本朝通鑑」や「日本王代一覧」の編纂事業を完了。63歳で歿。「本朝通鑑」は平安時代宇多天皇で途切れていた記述を大変苦労して完了した大書である。「国史館日録」はその間の1662年以後9年間の日記である。編纂の地上野忍岡の林家学塾は後の昌平坂学問所となった。作品は高位の武士への返書の手紙である。署名は春、花押である。「御手紙拝見しました。先刻進上しました返報も開き見られた事で貴意を得ました。さて棠陰比事三冊の御助筆を下さり忝く存じます。則杏仙へ案内を遣わし(助筆は)あなたの勝手次第と申し遣わしましたが延引の御断をいただき畏れ入ります。これは親父(羅山)の催促にてひとまず申させましたがこの度は特に(上からの)指示も無いですので全く苦痛もなかったです。(延引の御断を)承って却ってつらかったです。皇代一覧も到来です貴意を得ますのでゆるゆると御覧下さい。長慶院の譲位のことは応安六年になっているようです。以前より(私は)そのように思っていましたがはっきりしていない事です。ですがどうにかしようと本庄宮内方へ申して正本を借りるべきと思います。もしそちらの本が焼失していたら讃岐殿へ申し上て見るべきです。後村上天皇の崩御の年号も新葉(和歌集)と違いがあるそうで明日朝から晩までに春徳と同道で参るようとのこと承りました。明晩に伺候致します。この手紙を只今写した上で春徳が進覧します。この時幸いに御使者に伝言も申上ます。そのように心得てください。追伸:猶あなたの御手紙は挟んでお返しします」。彼方:ここはあなたの意味。伺候:しこう、貴人の側に行くこと。棠陰比事:宋の桂万栄の著で中国の裁判記録集。不審:はっきりしていない事。審:つまびらか。杏仙:武田杏仙(1626-1705)医者、徳川家綱将軍の番医師で法印に叙された。春徳:林読耕斎(1625-1661)林鵞峰の弟で兄と共に「羅山先生集」を編集した。皇代一覧:皇代紀又は皇代暦か。長慶院譲位:南朝長慶天皇の譲位、古くから大きな議論がある。本庄宮内方:宮内の事務役らしいが不明。讃岐殿:老中酒井忠勝(1587-1662年)か。後村上崩御:南朝後村上天皇の崩御。新葉:新葉和歌集、1381年撰者は宗良親王の南朝の和歌集で 後村上院や長慶天皇らの和歌を掲載。宛先は右下に「より」があるのでその右の裏に書いてあったに違いないが表装に入らないため切り取った、消息の宛先は入れないことは多い。さて手紙は春徳(林読耕斎)の生存より1661年より前に書かれた、また本の焼失の記載より1657年の明暦大火より後と思われる。春(花押)の花押は「花押大集成」に掲載があり、「古文書時代鑑」(国会図書デジタル)にも「春(花押)」とあるので作品は林鵞峯の手紙と確定した。実際の筆は春徳(林読耕斎)など弟子の書いた可能性はあり得る、字はきれいで読み易く文章は大変知性的なものである。宛先は2ヵ所の「貴意を得ます」や用語が大変丁寧で鵞峯が大いに敬意を表す、棠陰比事を書写する能力がある、「皇統」に深い関心のある人である。また父の林羅山と親交のあった人で鵞峯春徳兄弟を呼び出すことができる老中級の人であろう。参考論文:揖斐高氏、「林家の危機、鵞峰と息子梅洞」。 Gaho Hayashi was a Jukyo scholar who was highly regarded by Tokugawa bakufu.

●伊藤東涯 Togai Ito 1670-1736
京都生まれの儒者伊藤東涯の2作目。名は長胤、字は源蔵。父の起した古義堂(堀川塾)の2代目として京都で活躍。作品は朝倉茂入2代目への手紙。署名は伊藤源蔵、長胤翁。「御手紙忝く拝見しました。弥々御堅固になされ現在大和に在のことお目出度いことです。さて掛物1軸見られて先ず留置きされ、後の詳細は(大和の)宿迄申入るように思慮いただきました。丁寧な御手紙忝いです。追伸、母、妻、弟より私に伝書があり皆々あなたにありがたく思っています」。手帋=手紙。和州:大和、現奈良県。殷勤:慇懃、丁寧な。忝い:かたじけない、ありがたい。并:ならびに。朝倉茂入は江戸前期の和歌、断簡などの筆跡の鑑定家で初代と2代目が居る。2代目は1678年以降に活躍しており東涯が「長胤翁」と書く1720-30年頃のこの手紙の人は2代目に違いない。初代が蒐集した断簡集「藻塩草」は国宝になっている。下に考察。時系列は以下。①東涯が掛物を大和に宿泊中の茂入へ鑑定のため送付した。②茂入は鑑定して掛物は貴重なので大和の宿に留め置きした、そしてその旨の手紙を東涯に送った。③東涯はこの手紙で了解の旨と茂入への感謝を述べた。最後の追伸で伊藤東涯の母、妻、弟も親しく朝倉茂入2代目と交際していたことが理解できる。実は伊藤東涯居宅の古義堂の1筋東の真裏あたりに朝倉茂入2代目の家があり近接している。伊藤東涯には弟は4名おり皆優秀で儒者になった。手紙の「母」は弟たちの実母総(ふさ)であり、おそらく東涯より10歳ほど年上である。伊藤東涯は掛物に関する内容の書かれたこの手紙が300年後きれいに表装された掛物として存在していることを知ったら驚くことであろう。下に伊藤仁斎、伊藤東涯の書があり。 This is the second presentation of Togai Ito. He was a Jukyo scholar in Kyoto. This is a letter from Togai Ito to Monyu Asakura. Togai asked Monyu's estimation of a kakejiku. He showed the gratitude for Monyu. Now, three hundred years have passed. The letter becomes a kakejiku now.

●武者小路実陰 Sanekage Mushanokoji 1661-1738
公家の西郊家の生まれ。公卿で歌人、武者小路家を継ぐ。和歌の師は霊元上皇、三条西実教。霊元院歌壇の代表的な歌人。中御門、桜町両天皇の歌道師範となる。朝廷に仕え1724年(64歳)大納言に昇進。78歳で歿。弟子に浄土真宗僧の似雲(1673-1753)、香川家2世の香川景新。作品は和歌懐紙。前文「享保9年10月7日、(中御門天皇と共に)修学院の紅葉を御覧に再御幸した後で紅葉の歌を奉るべきと仰せられた。応じて2首製す」。和歌一「御代なかく 例とてもみち葉も 君見ん秋を 千々にそむらめ」。あなたの御代が長くとのたとえとして紅葉も君が見る秋を千々に様々の色に染めている。例:たとえ。和歌二「千世かけて しむるもみちの山まても つかふる秋に あひ見てしかな」。千年かけて色を染めてきた紅葉の山までも(中御門天皇に)仕える秋に相見えるなあ。しむる:染むる、浸むる。1724年=享保9年、実陰64歳、天皇23歳である。紅葉の山が天皇に仕えて綺麗に色を染めていると天皇への賛を綺麗に詠んだ。御代が千世、千々にと縁起よい言葉を入れている。中御門天皇:1702-1737、在位1709から1735、管絃,和歌をよくし、幕府との関係も良好だった、笛が特技。この修学院への御幸から11年後中御門天皇は退位され13年後崩御された。そして41歳年長の実陰も御幸から14年後と同時期の歿であった。 Sanekage Mushanokoji was a kuge who belonged to the royals. He was very good at waka. He made two waka poems which were presented to Nakamikado tenno at 1724.

●山口雪渓 Sekkei Yamaguchi 1648-1732
京都の画師で古画、水墨画に傾倒した山口雪渓の3作目。別号は白隠。落款は雪渓七十六歳筆、印は白隠。1723年=享保8年、76歳の作である。天神様の画は総じて大変厳格そうなものが多いが、この作品は少し間の抜けたような表情が大変よい。全体に背景を薄墨で画いて顔を強調した。 This is the third presentation of Sekkei Yamaguchi. He was a pretty famous painter who lived in Kyoto. This painting depicts Tenjinsama.

●作者不明 Unknown artist ?-?
作者不明である。作品は落款はなし。印は未解読、左半分は「他念」に見える。かわいい男の子が布袋さんの背負った袋に乗って風車の付いた長い棹を持っている。そして2人で上をみている。このポーズを画いたのは英一蝶が最初であろうと思う。筆使いも衣装の太い線がしゃきしゃきして彼の画を学習して画かれたものだろう。私はこのポーズの画がすきなのである。 This is a painting of an unknown artist. A small boy is sitting on a big bag of Hoteisan. They are looking at the top of the rod on which a pinwheel is turning around. So cute.

●豊蔵坊信海 Hozobo Shinkai 1626-1688
山城の生まれ。山城の石清水八幡宮(京都府八幡市)の豊蔵坊の社僧(神社付属の寺で仏事を行う僧)、狂歌師。書、茶道、俳句を松花堂昭乗、小堀遠州、松永貞徳と有名人に学ぶ。特に狂歌を好み正親町実豊、中院通茂ら公家と交際。社用で江戸によく往来した。54歳で歿。著作に「狂歌鳩杖集」など。作品は落款は信海拝。前文「恵心僧都の堂の下絵圓字みて。おむてもなふ堂の成就をした絵心のめてたき左右花みるにつけても」。恵心僧都(源信)の堂の下絵、圓の字をみて手もなく容易に堂(の普請)を成就した絵心がすばらしい左右の花をみて。発句「思ひたつとふしむやはやくしも柱」。思い立つと普請をしようとするが、早くも寒い霜柱の季節だ。ふしむ:普請。おむて:おんて、御手。御手もなく:容易に。霜柱は冬の季語で建物の柱と懸け詞。源信:942-1017、平安時代の天台宗の僧、延暦寺横川恵心院で往生要集を著し法然、親鸞と継承される浄土仏教の基礎を築いた。松花堂昭乗:1584-1639、17歳石清水八幡宮の瀧本坊実乗の元で剃髪して社僧となる、書、和歌、絵画に才能を発揮し著名となる。なお下に「狂歌鳩杖集」の表題と1句引用させていただいた。くふかひで空海と喰う甲斐を掛けた。 Hozobo Shinkai was a monk who was good at kyoka, calligraphy and haiku.

●高田敬輔 Keiho Takada 1674-1756
近江日野生まれ高田敬輔の2作目。号が竹隠斎。作品は落款はなし、印は竹隠斎、敬輔之印。この人の作品を示唆する。楼閣は雪舟に似る、人物の顔貌は古風で海北友松に似る。この直線的な線を使った楼閣は弟子の曽我蕭白の画にもみられる。比較的繊細に画かれた山水画である。 This is the second presentation of Keiho Takada. This sansuiga is old style.

栞60 

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●作者不明 Unknown artist ?-? active ca. 1669
幕府より各地へ送られた覚書である。「阿蘭陀人が行き来する国のうち南蛮人と出会う国もあろう。頻繁に南蛮人とは通用(交際)しないように。もし(南蛮人に)出会うことがあったら、其国の所の名を具に書き改めて毎年着岸した海浜を長崎奉行に届けるようにしなさい。己酉=1669年=寛文9年9月18日」。南蛮人:ポルトガル人、スペイン人でカトリック教徒。ルソン(フィリピン)やマカオ(中国南部)の日本からみて南方から日本に航海で来たので彼らは南蛮人といわれる。阿蘭陀人:オランダ人、プロテスタント。ここの「往来の国」はポルトガル人が漂着することのありそうな場所の藩領(地域)である。通用:出入する。弥:ますます。具:つぶさに。かひひん:海浜。幕府は禁止したポルトガル人(カトリック教徒)の到来には鋭敏になっている、特に頻繁に到来する海浜を記録して置いて警備を増強する積りである。幕府はキリスト教徒の本邦での増加は絶対に阻止する強い意志をここに示している。1637年に肥前島原と天草でキリシタンたち3万人が蜂起し幕府に衝撃を与えた。何とか鎮圧したが1639年(寛永16年)幕府はポルトガル船の入港を禁止し、1641年(寛永18年)にはオランダ人の行動も長崎の出島に制限した。プロテスタント国家のオランダはキリスト教布教を伴わない通商の条件で入港は許可された。さてこれは幕府から肥前、肥後、南九州の海岸沿の各藩に送付されたものを海岸の村を管轄する奉行が書写し庄屋に渡した文書であろう。字は大きく上手であり、きれいに表装されていた。350年前、島原の乱後30年、キリシタン厳禁、寺の宗門改めおよび鎖国政策が本格化し始めた頃の一文書で興味深い。

●安東左次兵衛 Sajihei Ando ?-? active ca. 1653
作品は安東左次兵衛から近藤左門への小笠原流礼法の相伝書。癸巳=1653年=承応2年5月の作品。短冊のことが書かれている。御製:ぎょせい、天皇作の短歌。天皇の短冊は一般より太く6cmも長い。小笠原家は戦国時代は信濃国主であったが後に豊前小倉藩主、肥前唐津藩主などが著名。諏訪氏は江戸時代も諏訪藩主として続いた。小笠原流礼法、弓馬術の内容は広範のようだ。愛知県西尾市の個人の文庫に同様の文書があり、これは1821年のもので新しいものである。

●鉄丸 Tetsugan ?-?
不明の人。讃岐丸亀の俳人で「元禄百人一句」江水編、1691年刊、に記載がある人かもしれないが、他には全く出ないので不明。「まつ島の 島あひ漕わけて なつさふ舟立は 侍すともよし」。なつさふ:海に浮かぶ。侍る:はべる、居る。松島の島の間を漕ぎながら浮かぶ舟たちは居なくてもよい。松島の景色をみて素直に感想を歌にした。字からは江戸時代の作品。写真は松島の景色。 Tetsugan was a haiku maker who is unknown today. "Small ships among the Matsushima islands. If the ships are absent, the scenery will be much better".

●細井廣澤 Kotaku Hosoi 1658-1736
細井廣澤の2作目。落款は廣澤老人書、印は廣澤氏、細井知慎。「長河落日圓」。これは唐の王維が辺境の地、甘粛省の武威へ赴任の途中に作った詩の1節。長い河には夕日が円くみえる。長河は黄河。中国でも「大漠孤煙直 長河落日圓」の1節が特に取り上げられる。大きな砂漠には一筋の煙が真っすぐ昇る。王維:701-761、唐の官僚、詩人。詩人たちは朝日より夕日を好むようだ。たしかに斜陽は詩情を催すと思う。人生も元気な朝日の青年の時よりも晩年の夕日の方が味が出て趣があると私は思う。私が廣澤のこの書で少し残念と思うのは主役の「日」が小さいこと。参考書:岩波文庫「唐詩選、中」。 This is the second presentation of Kotaku Hosoi. This is a part of a poem made by Wan Wei(王維). "A red sundown upon a long river and a large desert".

●谷秦山 Jinzan Tani 1663-1718
土佐の生まれ。別名谷重遠。儒学者、神道家。1679年(17歳)京都に出て山崎闇斎、浅見絅斎に学ぶ。21歳帰郷。香美郡山田野(現高知県香美郡土佐山田町秦山町)に住む。40歳神道の印可を受ける。以後神道問題を講究。56歳で歿。著書に「土佐国式社考」など。作品の大体の内容。「7人570歳が集まり、紫の烏帽子(?)と朱の直垂、そして白鬚(ひげ)。三盃を飲んで、詩吟、狂歌を歌えば、婆は酔って舞う」。落款は鏡野谷重遠。辛巳=1701年=元禄14年正月、本人39歳の作。正月に老成の神官たちが集って楽しんでいる情景を祝墨した。丸い典型的御家流のきれいな書である。文中の四皓とは秦代末の乱世を避け、商山に隠棲した四人の隠士で鬚眉が皓白の老人だった。皓:こう、輝く白。鏡野は香美郡山田野にあり住んでいた場所。 Jinzan Tani was a scholar of old Japan related to shinto. He wrote a lot of books of shinto.

●無記名 Anonymous ?-?
仙人が剣に乗って自由自在の図。「蕩々心海 浮出舟釼 気風乗得 自在夫来」。”波でゆれうごく海、浮き出る剣の舟、気分は上々剣に乗って得る、自在に思い通り”。蕩:ゆれうごく。釼:剣。自在夫来:じざいふき=自在不羈(き)、自由自在。羈:手綱でつなぐ。不羈:自由、手綱でつながれない。太い墨線を自在に使う狩野派の画家だろう。サーフィンを自在不羈に楽しむ仙人には笑みが見られる。気持ち良さそうだね。関連に「江戸後期-II」に伊藤長秋の「富貴自在図(ふきじざい)」があり。 This is anonymous. An old man having a magic power is enjoying a surfboard of sword. "On the sea of high waves, enjoying a surfboard of a sword."

●狩野探幽 Tanyu Kano 1602-1674
京都生まれ。狩野永徳の孫で幼少より天才的画家。1617年(16歳)幕府の御用絵師、鍛冶橋狩野家の祖。江戸城、二条城などの障壁画を中心に室町絵画から大和絵まですべて堪能。円山応挙と双璧の江戸時代の画期的画家。門人や私淑する画家多数。73歳で歿。作品は落款は法印探幽行年六十八歳筆、印は宮内卿法印、筆峯。1669年の作。落款の筆跡に矛盾なし。仙人の衣の線がきれい。 Tanyu Kano has been a very famous painter who was a first head of a Kajibashi Kano school which was supported by Tokugawa Shogun. He was very good at paintings since 10 years of age and became a master of any type of Japanese paintings during the early Edo period. He taught a lot of pupils. This work was painted in 1669.

●狩野安信 Yasunobu Kano 1614-1685
狩野安信の2作目。落款は安信筆。弁天様をきれいに丁寧に画く。ふくよかだが、締まった顔つき。好きな画だ。賛は作者不明。自徃由来(徃=往)。自分が往けば、その理由付け(由)は来る。理屈は考えずに往きなさい。寿月亀は長寿の象徴か?「生く端荷ふO 浄し雪まつ」。生きる端(岩の先端)で荷(琵琶のことか)を持って、清浄な雪を待つ。こんな意味だろうか? This is the second presentation of Yasunobu Kano. This picture shows Bentensama. Just beautiful.

●狩野探雪 Tansetsu Kano 1655-1714
狩野探幽の次男。朝鮮贈呈屏風や御所の障壁画制作など従事。60歳で歿。落款は探雪図、印は探雪之印。剣研鐘馗の図。袖を捲り上げて真剣な表情の鐘馗さんが刀を研いでいる。 Tansetsu Kano was a son of Tanyu Kano who was a very famous painter. This is Shoukisan sharpening a sword.

●梁田蛻巖 Zeigan Yanada 1672-1757
江戸の旗本の生まれ。字は景巒。1682年(11歳)で幕府の儒官、人見竹洞に入門。1693年(22歳)に加賀藩に仕え、後に美濃加納藩、播磨明石藩に出仕。新井白石などと交流。漢詩、書家として成功。86歳で歿。作品は落款は七十九翁蛻巖、印は景巒。「鶴舞千年樹」。1751年=宝暦元年、79歳の作。千年樹は常緑樹、松である。 Zeigan Yanada was a poem maker and a calligrapher. This work was written in 1751. "Cranes are dancing on a tree of one thousand years of age." The meaning of this tree is a pine tree.

栞50 

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●太宰春台 Shundai Dazai 1680-1747
信濃国飯田生まれ。名は純、字は徳夫。江戸へ出て朱子学を学ぶ。1700年(21歳)より畿内を遊学。1711年(32歳)江戸に戻り荻生徂徠に入門。1715年(36歳)小石川に塾を開き、門人を集めた。68歳にて歿。著書に「経済録」など。作品は落款は太宰純、印は太宰純印、字曰徳夫。春日偶成。内容は未解読。少し右上りの尖った字が特徴的。右は他所の作品。 Shundai Dazai was a Jukyo scholar who was active at Edo.

●雲谷等悟 Togo Unkoku ?-?
不明の人。落款はなし、印は雲谷、等悟。長門の雲谷派の画家だが、江戸末期には名が消えている人。大黒さんの後に俵、前に大袋。「わしゃもう疲れた」という顔で袋にもたれている。これを見ているとつらくなってくる。そう今晩はもう眠ってまた明日はよい日が来ますよ、大黒さーん。 Togo Unkoku is unknown today. This Daikokusan is so tired. There will be a good tomorrow, just forget everything and go to sleep now.

●狩野秀信 Hidenobu Kano ?-?
不明の人。狩野秀信と名乗る人は6名。祖酉、眞笑、淳信、寿石、玉燕、元俊。得られる資料が少なく絞りきれない。落款、印共に秀信。溌墨山水である。雪景色を巧みに表現した。 There are six painters who was "Hidenobu Kano". There are few informations about them to specify.

●真敬法親王 Shinkeihoshinno 1649-1706
後水尾天皇の第16皇子。1659年(11歳)興福寺一乗院で得度。1665年(17歳)興福寺住。黄檗隠元、高泉と交流。画は狩野常信に学ぶ。58才で薨去。作品は落款はない、印は釈氏眞敬。夕日のきれいな作品。 Shinkeihoshinno was a son of Royal Gomizuo tennou. He became a monk and was good at paintings.

●作者不明 unknown artist ?-?
印はあるが読めない。溌墨法を使った画。「敗荷に鶺鴒図」。敗荷:やれはす。蓮の葉が秋に萎んでしまったもの。鶺鴒:せきれい。せきれいが萎んだ蓮葉に止まっている。かわいいね。狩野探幽の作に同様の絵柄がある。 This is a painting of an unknown artist. A wagtail is clinging to a shrunk lotus leaf. A similar picture was painted by Tanyu Kano(right).

●狩野探信守政 Tanshin-Morimasa Kano 1653-1718
狩野探幽の子。鍛冶橋狩野2代目当主。法眼となる。66歳で歿。作品は落款は探信筆、印は藤原。抽象画的な狩野派の山水画。なかなか味のある画。 Tanshin-Morimasa Kano was a painter who was a head of a Kajibashi-Kano school which was supported by Tokugawa Shogun. He was a son of Tanyu Kano who has been a very famous painter. This abstract painting depicts a scenery of hills.

●狩野古信 Hisanobu Kano 1696-1731
狩野如川周信の子。木挽町狩野家5代目当主。36歳で歿。 作品は落款は古信筆、印は榮川。狩野探信の作品に似た狩野派の山水画。これは明らかに山に見える。 Hisanobu Kano was a head of a Kobikicho-Kano school which was supported by Tokugawa Shogun. This is another abstract painting of Kano. His paintings are rare today because he died at thiery-six years of age.

●作者不明 Unknown artist ?-?
この作品は落款は雪舟とあるが、本物ではない。印は藤田東湖のもので彼が収蔵していたことを示す。藤田東湖:1806-1855、尊王の水戸藩士で藩主徳川斉昭に仕える。徳川斉昭から藤田東湖に贈られたものかも知れない。江戸時代は大名たるもの雪舟を掛けるという位、雪舟の画が重宝され、需要は非常に高かった。依って”雪舟作”は必要となり数は増える。画師は江戸前期と看た。この寿老人は大変迫力がある。 A painter who made this work is unknown. This Jurojin has a strong impact.

●狩野安信 Yasunobu Kano 1614-1685
狩野孝信の三男で、狩野探幽、狩野尚信の弟。狩野宗家当主となる。号は牧心斎。1662年(49歳)に法眼。弟子に英一蝶。「画道要訣」執筆。72歳で歿。奇を衒った作品はなく丁寧な画が多い。作品は落款は牧心斎筆、印は牧心斎主人。画は中国の高貴、諸葛孔明である。特徴的な頭とゆったりした顔である。 Yasunobu Kano was a top of a Kano main school which was supported by Tokugawa Shogun. His paintings are generally orthodox and not unique. This painting depicts a Chinese gentleman, Shokatsu Komei.

●守珍 Shutin ?-?
不明の人。珍はほとんど「ちん」だが、稀に「はる」「たか」と読むようだ。守があり、狩野探幽守信の門人であろう。印は読めない。穏やかな表情の老人と子供である。 Shuchin is an unknown painter who was probably a pupil of Tanyu Kano.

栞40 

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●豊臣倁長 Yukinaga Toyotomi ?-? active ca. 1677
不明の人。落款は豊臣倁長謹図之。丁巳=延宝5年=1677年の作。倁:ゆく。木下(豊臣)俊長(1649-1716)豊後日出藩主。この人は画を狩野常信に学んだ。名が似るので、血縁かもしれない。格調高い寿老人の画。子供はかわいい。 Yukinaga Toyotomi is an unknown painter today. This work was painted at 1677.

●梅爾風 Umenikaze ?-?
落款の梅爾(尓)風は不明の人。三社託宣。天照皇大神宮(伊勢神宮),八幡大菩薩(石清水八幡宮),春日大明神(春日大社)の三社の託宣。江戸時代に床の間に飾られ庶民信仰として普及した。すごい迫力の書。民間の歌舞伎の字などを書いた人ではないか?三社託宣は僧の海門禅恪にも掲載。 Umenikaze is an unknown calligrapher who was active in the people. The names of three gods are written on this calligraphy. This calligraphy was used to prey.

●狩野寿仙正信 Jusen-Masanobu Kano ?-? active ca. 1715
不明の人。落款は東都狩野洞春門弟狩野寿仙正信筆。名は残っていないが、駿河台狩野の2代目当主、狩野洞春福信(?-1724)の門弟。正徳頃の人。天照皇大神宮(伊勢神宮、中央),八幡大菩薩(石清水八幡宮、右),春日大明神(春日大社、左)の三社の託宣。これは三神を描いた作品。 Jusen-Masanobu Kano is an unknown painter today. But it is known from a sentense written on this painting that he was a pupil of Doshun-Fukunobu Kano. This is a painting version of three gods.

●亀田窮楽 Kyuraku Kameda 1687-1758
京都の書家。書、画に一家を成した。洒脱で名利を超然とした。69歳で歿との記載があるが、72歳の落款があり。作品は落款は窮楽七十二書、印は窮楽、亀氏。「十洲三嶋鶴乾坤 四海五湖龍世界」。十洲三嶋:広大な陸地。四海五湖:広大な海や湖。陸地は鶴が天地を支配し、海は龍が支配する。雄大な詩ですね。 Kyuraku Kameda was a calligrapher who lived at Kyoto. This calligraphy was probably written in 1758. "Tsuru(crane) governs the land while Dragon governs the sea."

●石川丈山 Jouzan Ishikawa 1583-1672
三河国泉郷の譜代武士の生まれ。号は六六山人、凹凸窠、詩仙堂。1598年(16歳)徳川家康の近侍。大坂夏の陣後浪人。1617年(35歳)藤原惺窩に儒学を学ぶ。後に広島浅野家に仕官。1636年(54歳)京都に隠棲。1641年(59歳)一乗寺村に詩仙堂を建て住む。儒学・書道・茶道にも精通。90歳で歿。作品は落款なし、印は六六山洞凹凸窠夫、頑仙子、詩僊堂印。隷書を得意とした。「酒酔琴為枕 詩狂石作箋」。大字はO茗。 Jouzan Ishikawa was a calligrapher who lived at Kyoto. This is Reishotai.

●伊藤仁斎 Jinsai Ito 1627-1705
和泉生まれの儒者。名は維禎。京都で活躍。古義堂で儒教古学の一派を立てた大儒者。79歳で歿。作品は落款はなし、印は維禎之印。「OO白鶴飛」。ユニークなこつこつした唐様。Jinsai Ito was a famous Jukyo scholar who established his own theory.

●伊藤東涯 Togai Ito 1670-1736
京都生まれ。儒学者伊藤仁斎の子。古義堂の2代目。名は長胤、字は元蔵。古学の興隆の基礎を築いた。仁斎の遺した著書の刊行。67歳で歿。作品は落款は長胤書、印は長胤之印、元蔵。丁未=1727年=享保12年仲夏、58歳の作。先子仁斎の読経。摂州(摂津)の舟中で書いた。同じ文章が先哲墨宝.甲(近代デジタル)に掲載(右下)。これは少し古く享保辛丑=1721年=享保6年、52歳の作。6年の開きがある。字からはまじめな性格の人のようだ。内容は未解読。 Togai Ito was a Jukyo scholar who was a son of Jinsai Ito. This calligraphy was written in 1727. He had written the same sentense of calligraphy in 1721(Right).

●武田親庸 Chikanobu Takeda ?-?
不明の人。落款は探幽斎図親庸筆、印は武田。狩野探幽の画に倣って親庸が画いた。菅原道真である。賛の人も不明。落款なし、印は冥牧、倉虚、百尺竿。「百尺竿頭進一歩」(無門関)。竿の百尺先の頭に到達しもう一歩進む=悟りに達したが更に一歩進む。賛の人は禅僧のようだ。詩は字は読めるも内容不明。この天神さんは悩んでいるようにみえる。梅の香りに京都に帰りたくなったかな。 Chikanobu Takeda is an unknown painter today. This Tenjinsan is worrying about something. Maybe he is thinking about comeing back to kyoto under the perfume of an ume tree.

●無記名 Anonymous ?-?
聖徳太子をきれいな色彩で画いた作品。この仏画は民画ではなく高価な鮮やかな絵の具を使用。高位の武家、寺などで飾られたものだろう。 This painting is anonymous. The picture of Shotokutaishi was depicted here.

●波多野等有 Toyu Hatano 1624-1677
長門出身。雲谷等顔の門人の画家。古画備考の記載では梅、竹、鮎の作品があり真相(相阿弥)風。作品は落款はなし。印は等有。大変美人の観音様である。画はきれいだが透かすと修復の跡がたくさんあり。この人の作品でよいと観た。 Toyu Hatano was a painter who studied the painting skills from Togan Unkoku. This painting shows a beautiful Kannonsama. A seal of this painting shows Toyu(等有).

栞30 

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●筆天斎 Hitsutensai ?-? active ca. 1734
画家、作家。「御伽厚化粧」ー享保19年(1734年)刊の作者。落款はなし、印は筆天。おそらくこの人の作。尾形光琳に似ている所あり。かわいい大黒さん。 Hitsutensai was a painter and a novelist who was active around 1734. This Daikokusan is so cute.

●平元梅隣 Bairin Hiramoto 1660-1743
出羽秋田藩士の子。医者、俳人。1679年(20歳)京都にて医術、俳諧を学び朴玄と名のる。1715年(56歳)秋田に帰郷。梅隣と号し俳諧にて一家を成した。84歳で歿。著作に「梅の月」「中庸私説」。落款は梅隣。「つま先て 海原切て すすみ哉」。足を舟に喩えてつま先を「舟のへさき」にみなしている。夏の日に足を海原(水面)に漬けて前へ進んでいる。すずしいね。 Bairin Hiramoto was a haiku maker who was active at Akita. "In a day of hot summer, I am soaking my foot in the water and moving the foot forward like a ship. It is so comfortable."

●鴫立舎 Sigitatsusha ?-?
鴫立舎は不明の人。印は不明。江戸前期とみる。ほていさんはほっこりしている。大淀三千風(俳人)が元禄の頃作った鴫立庵(神奈川県大磯町)という俳諧の庵があり、一世の庵主となっている。この人の筆跡「鴫立」が右下だが異なるようだ。その後庵主が続く。たぶん関係ありとみる。 Sigitatsusha is unknown today but possibly might be a haiku maker. This painting shows Hotei. Look at the big belly and a huge sack.

●山口雪渓 Sekkei Yamaguchi 1648-1732
京都の画師。宋・元時代や室町時代の水墨画に傾倒した。特に雪舟と牧谿に私淑。画題は何でもこなし、一定以上の実力。作品は落款はない。印は雪渓で掲載のもの。山水画は室町時代の作家に近い。墨の色を巧みに変化している。 Sekkei Yamaguchi has been a pretty famous painter who lived at Kyoto. His sansuiga looks like the works painted in the Muromachi period. Although this work has no signature, the seal is consistent with his own.

●山口雪渓 Sekkei Yamaguchi 1648-1732
山口雪渓の2作目。「ひょうたんから駒」。落款はなし。印は雪渓で他に掲載の印に一致。仙人の嬉しそうな顔がいいね。 This is the second presentation of Sekkei Yamaguchi. A horse came out from a calabash.

●清原雪信 Yukinobu Kiyohara 1643-1682、 貫斎 Kansai ?-?
久隅守景の娘。母の国は狩野探幽の妹の鍋の娘。狩野派随一の閨秀画家。17・8歳探幽へ稽古に通っていたが、尼崎武士の子と通じ家を出た。別宅し画を描いて、大いに繁盛し尼崎にて没したという。作品は落款、清原氏女雪信筆。烏が活動的。俳句は「神共の よろこびありや からすとび」。俳句作者の貫斎は印は甲斐、源氏。不明の人。俳句はこの画を引き締めている。 Yukinobu Kiyohara was a female painter who studied the painting skills from Tanyu Kano. She was a daughter of Morikage Kusumi. She was very good at birds and flowers and has been favored by many people. This bird is a crow.

●徳川光圀 Mitsukuni Tokugawa 1628-1701
常陸水戸藩第二代当主で江戸定住。家康の孫。1636年(9歳)諱を光国。1657年(30歳)『大日本史』(尊王論で幕末に影響=水戸学)の編纂に着手。1661年(34歳)水戸藩主。1665年(38歳)明の朱舜水(17年間交流)を招き、儒学を奨励。1679年(52歳)諱を光圀にする。1690年(63歳)水戸西山荘に隠居。水戸黄門と呼ばれた。漫遊は関東のみであった。73歳で歿。落款は西山隠士光圀。印は源朝臣光圀章、西山、七峰人。よって1690年-1701年の間の作。右に他所の落款。「春になり暖かく風も和らぐ。虵(へび)も目覚め、新たに活動。梅の香が芳しい。」 早春の景色をきれいに詠んでいる。 Mitsukuni Tokugawa was a governor of Mito, Hitachi and lived at Edo until the sixty-three years of age. He proceeded a Jukyo scholarship and a book of Japanese history. A scenery in a warm spring associated with the ume fragrance was written in this calligraphy.

●狩野洞春福信 Doshun-Hukunobu Kano ?- 1724
駿河台狩野家の二代目。江戸時代前期の画家。障壁画の製作など尽力し、幕末ー河鍋暁斎 へ継承された駿河台狩野家の地固めに貢献。正徳2年=1712年=壬辰の元日に画いた作品である。印は現状で読めないが、 落款はほかの作品に合致(右)。 Doshun-Hukunobu Kano was a top of a Surugadai Kano school. This school continued up to the Meiji period. This work was painted at 1712. The signatures copied from other pictures are shown on the right.

●狩野洞春福信 Doshun-Hukunobu Kano ?- 1724
狩野洞春福信の作品。この落款、印もよい。印は洞春之印。画題が新鮮。八々鳥(ははちょう) はからすのようで目元に毛が特色。かっこいい。木の滲みは「たらしこみ」と言う。 薄い墨が乾燥する前に濃い墨を入れるとこう滲む。琳派のおはこに言われるが、光琳と同時代の 駿河台狩野二代目が完全にマスターしている。狩野派から逸脱した新鮮な画題、画技、駿河台いいね。  This is the second presentaton of Doshun-Hukunobu Kano. Two birds are hahachou resembling crows. He looks handsome. The wood trunk was painted by a technique,"tarasikomi" which uses the mixture of thick and thin sumi.

●狩野元仙 Gensen Kano 1685-1751
狩野洞春福信の長男。1724年駿河台狩野家の3代目となる。67歳死去。作品は落款はなし。印は元仙、守運之印。狩野派では面白い駿河台である。お爺さんと嫁さんと唐子2人。お爺さんが「あれを見てごらん」。椅子の下に隠れる子と顔を覆う子。嫁さんは「へえー」と目を見開いて興味を示す。祭りで怖いお面を見るような場面。面白い画題で一目で気に入った。若書きであろうか。 Gensen Kano was a third boss of a Surugadai Kano school. He was a son of second boss of Surugadai. The picture is so interesting. An old man says "Wow, look at that! ". Grandsons don't want to see it. Mother of the children looks at it carefully with widely opened eyes. May be something like a monster-mask-man in a festival.

栞20 

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●本阿弥光甫 Koho Honami 1601-1682
冬の枯木に雪景色。中に5羽の鷺。空には父鳥。下に母鳥に3羽の子達。 父鳥の愛情が描かれる。印は光甫之章。書家で有名な本阿弥光悦の孫、本阿弥光甫の作と想像する。 東博に作品があるが、他は出ない。宗達とともに琳派の基礎を作り、光琳にバトンを渡した人である。  Here, a family of heron was painted. A father bird shows so much love for his family members under a snowing weather. A seal shows 光甫(Koho). Koho Honami was a grandson of Koetsu Honami who was a famous calligrapher of kana. Koho was good at paintings and ceramics. However his painting works are seldom seen today.

●野々村信武 Nobutake Nonomura 1619-?
野々村通正信武七十三歳筆の落款。従って1691年の作。その割りに保存はよい。 印は野、通正信武。いずれも本に合致。野々村信武は京都の画家。尾形光琳風の画法と称されるが、 絵は大和絵風の人物画が得意。これは貴顕と刀鍛冶の対話。刀鍛冶は無理な注文を受けたのだろうか? ややつらそう。 Signature and two seats shown on this picture are consistent with his other works. He was a painter who lived at Kyoto. He was good at yamatoe. This picture shows a meeting of a noble samurai and a swordsmith. The swordsmith may be annoyed by severe orders of the noble man.

●住吉具慶 Gukei Sumiyoshi 1631-1705
落款は法橋具慶筆で他作品に一致。菅原道真を描く。顔は迫力あり。絹本の痛みはあるが、 色はよく保存されている。住吉如慶の長男で住吉派の2代目。江戸前期を代表する大和絵画家のひとり。 京に生まれ、のち江戸に移り幕府の奥絵師となる。肖像画など右に示す。 Gukei Sumiyosi was one of well-known yamatoe painters. This picture shows a signature which are consistent with his handwriting. He was born in Kyoto, moved to Edo and belonged to Tokugawa Shogun. This painting is depicting Michizane Sugawara.

●小堀政尹 Masatada Kobori 1625-1694
小堀政尹は江戸時代前期の武士,茶人。通称は権十郎。小堀遠州の三男。父に茶道,書をまなび、 山水画や陶芸にもすぐれた。父の小堀遠州(1579-1647)は豊臣、徳川に仕え、1617年に近江小室藩大名となる。 造園家として名を馳せ、歌、書、茶人としても有名。この作品は落款はない。印は政尹で、「古画備考」にも記載のもの。ひょうたんとその花、小さな蟻が画かれた微笑ましい作品。蟻がかわいいね。 This work has a seal which is consistent with Masataka Kobori. Masataka Kobori was a son of a governor of Komuro, Oumi. He was good at a performance at tea ceremony, calligraphies and paintings. A calabash was smoothly painted togeather with a flower and an ant. This ant is cute.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
尾形光琳とともに元禄期の代表画家。特に働く庶民を中心とした風俗画がよい。江戸時代の画家には子供を描く画は多くないが、この人にはかわいい子供の画が多い。一時期三宅島に流罪となるが、画風は総じて明るい。私は彼の画が大好きだ。右に他所の落款、花押を示す。花押入りは少ないが、これは宴会などの席画でさらさらと描いたあと花押を入れたものだろう。牧童の子と隣で横になる牛。一蝶の 子供への深い愛情が感じられる。最高。 Itcho Hanabusa has been a very famous artist. He was good at the pictures of working people and children. A cute boy is sleeping along the cow. His works are generally cheerful. I love his paintings so much.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の2作目。寿老人である。迫力のある太い線が特徴。落款、印ともに矛盾なし。 This is the second presentation of Itcho Hanabusa. He painted a Juroujin here.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の3作目。生き生きとした人物像と袴の太い線が特徴。落款は矛盾なし。 This is the third presentation of Itcho Hanabusa. The thick lines of the wear are consistent with his brushing works.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の4作目。落款は北窓一蝶自画賛。庶民の楽しそうな交流が最高。着物の太い尖った線がきれい。この作品には俳句があって、意味は鉢たたきに布施がなく啼きかけて、やっと門で依頼がひとつあったという意味らしい。同じ俳句の英一蝶の自筆の作品が発刊本に掲載されていた(下右)。鉢たたき:人家の門前で音曲を奏する芸をして金品をもらう。鉢たたきの依頼は多くなかったようで淋しい俳句が多い。 This is the fourth presentation of Itcho. A very cheerful picture! Just great.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の5作目。青砥藤綱の物語。夜に失くした銭10文を川で探している所。武家の衣装はのりが利いてぱきっとしているため袴の線は直線的。これが庶民との違いで英一蝶の特色。 This is the fifth presentation of Itcho. This picture shows a story of Fujitsuna Aoto. They are searching a cheap coin lost in a small river at night at the expense of fuels. Fujitsuna Aoto is standing here and stresses the importance of metals for the nation.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の6作目。いも洗いは英一蝶の得意な画題。他の画像を下に示す。 This is the sixth presentation of Itcho. This is a man washing imo or yam.

栞10 

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●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の7作目。楽しく踊り合うえびすさんに大黒さん。鯛も大袋も放り出して踊る。この画題も画譜にあり英一蝶の得意。 This is the seventh presentation of Itcho. Ebisu and Daikoku enjoy dancing while a tai-fish and a big sack are left aside.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の8作目。上の児の上には凧が画かれている。衣装の太い線で見事に人物の動きが出る、英一蝶の特技。また二児の顔は”英一蝶の描く顔”である。彼には太い線のない大和絵のような作もあるが、やはり庶民や児の動きを太い線で画く作品が好き。 This is the eighth presentation of Itcho. Two childs are playing with a kite. The motion is nicely expressed with thick lines of the kimono(wear).

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の9作目。鐘を造る職人さんに手伝いをする児。松の木は一蝶の得意。やはり庶民を画いたものはすばらしい。 This is the nineth presentation of Itcho. This picture shows that two craftsmen are fixing a big bell. A child helps their work. Pine trees are nicely depicted here.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の10作目。籠に何かを入れて行商している人が疲れて、荷を降ろし一休み。いいね。 This is the 10th presentation of Itcho. He is walking from door to door to sell something. He is taking a rest here.

●英一蝶 Itcho Hanabusa 1652-1724
英一蝶の11作目。衣文掛けのようなものを造っている職人さんと手伝いをする児。児は「しっかり見とけよ」と叱られているようだ。ほかの児と遊びたいのにつらいね。 This is the 11th presentation of Itcho. This picture shows a craftsmen making a kimono-hunger. He is saying to his son; "Look at my work carefully." The boy does not like to learn the father's work here.

●熊沢蕃山 Banzan Kumazawa 1619-1691
落款は蕃山了介、印は蕃山。熊沢蕃山は16歳岡山藩番頭を勤め、後に中江藤樹から陽明学を習う。 号は蕃山、字は了介。27歳岡山藩主池田光政に仕えると、三千石の番頭となる。日本初の庶民学校、「閑谷学校」の 前身を作り、藩民救済のため治山治水を施行。しかし、朱子学者林羅山による中傷、岡山藩家中の反感で39歳で引退した。以後は山城、大和など点々とし、下総国古河藩で活動後73歳で死去。作品の落款は落款集などに一致。この書は手紙を書くようにさらさらと御家流で丸い。 Banzan Kumazawa was a scholar of Youmeigaku in Bizen. Youmeigaku is a type of culture which recommends the importance of action. He made an effort to increase the harvest for farmers. He also opened a Shizutani school for the education of people.

●大岡春卜 Shunboku Ooka 1680-1763
大坂で活躍した画家。狩野派を 習得し、名画を掲載する数多くの画 本を出版した。享保3年(1729年)法橋、同20年(1746年)法眼になる。作品の落款は法橋春卜、印は法橋春卜。落款は右の法眼に似る。1740年頃の作だろう。ほていの動作がかわいいね。 Shunboku Ooka was a famous artist who lived at Osaka. He published a lot of books for Japanese painters. This picture shows Hotei in motion and was painted at around 1740. How cute!

●高田敬輔 Keiho Takada 1674-1756
近江日野生まれ。京狩野家狩野永敬に師事。62歳で法橋、69歳で法眼。82歳で没。曽我蕭白、月岡雪鼎、島﨑雲圃は弟子。最近注目されている画家。落款は行年六十七翁法橋敬輔。印は敬輔之印。この画は寿老人だが非常に太い墨線が目立つ。これが特徴。1740年の作。賛は大安浄桃で下に記載。 Keiho Takada was born in Hino, Oumi. He was a teacher of Shohaku Soga. In this picture, Very thick lines were used for the wear of Juroujin. This work was painted in 1740. The title was written by Jotou Daian shown below.

●大安浄桃 Daian Jotou ?-? active ca. 1702-1744
黄檗宗の僧。1702年嗣法。1728年摂津昆陽新田村(兵庫県伊丹市)の法雄山常休寺住職。落款は法雄桃大安老衲。印は僧桃、大安印。甲子=延享元年=1744年の賛なので、画が画かれた4年後となる。内容は寿老人の外見についてのべている。敬輔を這老画人と書いているが、高田敬輔は1744年に立位歩行不能だったのだろうか。なお賛は、画の中の人が向く方向から読むことで間違いない。これは左から読む。 Daian Joutou was a zen monk, who belonged to Oubakushu. He was a top of a temple at Itami. This kanbun title was written in 1744. The kanbun title should be read from the side which a man in the picture faces towards. This case is left.

●北島雪山 Setsuzan Kitajima 1636-1697
書家。肥後熊本生まれ。来朝明人愈立徳に唐様の書風を学ぶ。名は初期に蘭隠。1677年(42歳)江戸に出て細井広沢など育てる。晩年肥後藩に仕えた。豪放磊落で大酒豪、権勢を嫌った。豪客に席上揮毫を頼まれた時、紙に陰茎を大書。作品の落款は雪山蘭隠。印は璞卿、知者不言。題は隠溪、「いんけい」である。隠れた所の渓谷。御家流に近く、唐様をマスター以前の書だろう、雪山蘭隠の蘭隠は若い頃の名号であるから。下に後年の唐様の書と落款を示す。作品は少ない。 Setsuzan Kitajima was a famous calligrapher who studied a Chinese style(Karayo). He has been considered the origin of the karayo style in Japan. Many pupils studied his style of calligraphy. This calligraphy is rather Oieryu and may be written in his young life.

栞 最後 

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●細井廣澤 Kotaku Hosoi 1658-1736
遠江掛川の武士の子。書家・篆刻家。名は知慎、字は公謹。室号に蕉林庵。11歳父と江戸へ、朱子学、書道を北島雪山などに学ぶ。他にも博学をもって元禄前期に大老格柳沢吉保に仕えた。79歳死去。著書に『観鵞百譚』『紫微字様』など多数。関思恭、三井親和、松下烏石など多くの優秀な書家を育てた。落款は廣澤知慎書。印は弓馬餘興、公謹。款記に東武蕉林菴南窓下。内容は未解読。 Kotaku Hosoi was a famous calligrapher who taught a lot of pupils. The calligraphy is the karayo style.

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