南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 彦根藩領世田谷代官所,Setagaya Branch of Hikone-han >

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彦根藩領世田谷代官所,Setagaya Branch of Hikone-han

ここは彦根藩領世田谷代官所の武士、明塚半蔵氏周辺の記録です。江戸時代後期のものです。ゆっくり楽しんで下さい。
Here are documents of Setagaya Branch of Hikone-han. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで自由に使用は許可されている、感謝して使用させていただいた。古い雑誌の表紙は美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#866. 江戸表御取建にも 其元がきまり不申候ては
武士の手紙で相手は兄弟であろうと思う。大体は解読できたが断簡でかつ破損箇所もあり。また手紙の前後関係も不明にて総意の理解がやや難である。おそらく彦根藩の明塚家の手紙である。

●#802. 半蔵様にも御機丈夫に被成御座候段 御同慶
彦根藩士で江戸勤務の岩佐弥八郎より彦根藩士明塚又左衛門への手紙。又左衛門は半蔵の親とわかる。内容は長い挨拶と荷物を宿舎に送ってもらった物を受け取った事等が書かれる。虫食いで紙が痛んでおり、字も大変難読で長期に未解読であったがやっと把握できた。

●#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
彦根藩士で江戸勤務の原田五介より上司の明塚又左衛門らへの手紙。内容は藩の船方で寝泊りの者が水戸藩の船方と距離が近いので襲撃の恐れがあるという緊張の内容である。おそらく1860年桜田門外の変で水戸藩士により彦根藩主井伊直弼が暗殺される少し前頃のもので興味深い、図に解説。字は難読で後半は意味がやや不明だが重要な前半の解読はできた。

●#730. 此度俊操院様御発駕被遊候
彦根藩江戸屋敷に勤務の綱村弥右衛門より彦根勤務の明塚清右衛門への手紙。内容に「俊操院様御発駕御下り」とあり1855年(安政2年)に書かれたらしい。俊操院は井伊直弼の義姉で図中に記載。#131には明塚清右衛門が受けた手紙、#352は明塚清右衛門より明塚半蔵への手紙、#689には耀鏡院が手紙に記載がある。松たけは彦根藩領下野佐野で採取された(#351)。俊操院の御供をした川口氏は#351に掲載があり彦根藩江戸中屋敷に勤務する人である。

●#689. 耀鏡院様下女壱人御抱之義 諸色方より申参り候
彦根藩世田谷代官所勤務の明塚半蔵氏が所持した文書。世田谷代官名で人事について別人ではないかと尋ねがあったので相違が無いかという事と定夫8人を抱える事につき返書を出して欲しいとの彦根藩士事務方の内容である。耀鏡院(彦根藩主の後妻で井伊直弼の養母)が下女を1人召し抱えたことが書かれている。それにつき少し考察を加えた。紙が痛んでおり字も読みづらい。参考論文:母利美和氏「井伊直弼の著述活動と片桐宗猿」。

●#528. 御領分野良田村次兵衛女子くら 御出人御吟味御揃立候
領内出入り人担当の下役人より彦根藩世田谷代官賄方、明塚半蔵が受けた口上書。前半と後半に分かれる。前半は領内の野良田村16歳のくらが奉公にて村を出るのでそれの許可である。宗教は真言宗、寺は善養寺と書いている。記載は少なく、書類も揃い了承は早そうだ。後半は18人の集団が「抱え」で領内に入るようだ。無宿人や狼藉者は困るので調べて不審なものは弁別して差替えさせるよう説く。部屋頭に世話を任せるのがよかろうとのことである。紙は痛んでおり難読な字の資料であったが大意はつかめた。彦根藩世田谷代官所のことが勉強になった。代官は大場氏という藩主井伊氏に任命された土豪の武士が勤めているが、確かに明塚氏のように彦根より世田谷に出張し駐在した武士もいた。

●#535. 三役に埒の明塚安左衛門 やかて大津の総の元〆
彦根藩士で彦根藩世田谷代官所勤務もした明塚半蔵が所持した狂歌。おそらく先祖の明塚安左衛門が他の侍と酒を飲んだ時に戯れで友人の侍が詠んで書いた狂歌である。三役は藩の重鎮職であるが安左衛門は三役に昇進できる気配がなかった。つまり埒(らち)が明きそうになかった。これを「埒の明けずか=明塚」と懸けた調子のよいものである。明塚家と大津との関連は不明である。しかしこの戯れの狂歌が大切に保存されたことは明塚家の先祖が大津と接点があったことを示すのかもしれない。

●#448. 伊賀御歩行中杢御扶持方渡り 過不相納候に付御取立
雨森甲介から明塚半蔵への手紙。内容は複雑なので図に解説した。雨森氏は藩士の過料(あやまち金)を徴収する役の武士である。昨年末12月までに埒明(解決)せず残っていた過料を明塚氏、さらに小堀氏(彦根藩伊賀歩行衆の頭)と上司を介して徴収していることがわかる。1人目伊賀歩行衆の杢(もく、名前)の過料の話がほとんどである。別の未納者、高野瀬信介氏の分は相部屋の横田層九郎氏が納め埒明した。この文書で様々なことがわかる、藩の武士に過料という罰金制度があったこと、それを徴収する役の武士がいたこと、徴収は上司にあたる人や取次役を介して行うこと、さらに「定夫(ありき)」と呼ばれる衆の取次役が居た事である。また特に伊賀歩行衆と呼ばれる忍者衆が彦根藩に居たことは興味深い。伊賀衆は彦根城下の伊賀町(現彦根市錦町)に住んでいたので#114で掲載の明塚半蔵が江戸世田谷勤務する手紙より前の半蔵が彦根に勤務していた時の事件であろうと思う。この手紙で大変勉強になった。

●#441. 浅草のり御地そうにいたし候様 御登し被下山々悦まいらせ候
彦根の母から彦根藩領世田谷代官所勤務の明塚半蔵への返事の手紙。長い手紙なので要点だけ記す。「当方元気です。金太郎もゆっくり歩くようになり達者です。金太郎へのかたびら(帷子)よい絣模様ですね。早く仕立てて着せたいです。お菓子のらくかん(落雁)に金太郎もたいへん喜びます。じばん、足袋、ねまき送るようにとのこと承知しました。最近は御地同様に蚊もめっきりと出るようになって困ります。金太郎の子守を下女にさせず私にとのこと承知しました。下女だと手荒くなりますから。尚浅草海苔御送りの品、御馳走になろうと喜んでいます、御礼申します。次第に暑くなります。御身体お厭いください」。「蚊もめきと出申候て」「めきと歩き」と「めきと」が2ヶ所出ている。「めきと」は現代の「めっきり」の原型である。「めく」の動詞が意味は「(変化して)らしくなる」である。例:春めく=(冬から変化して)春らしくなる。「蚊もめきと出申候て」は「(蚊は出てなかったのが変化して)蚊が出るようになり」であり、「めきとあるき」は「(歩けなかったのが変化して)歩くようになり」である。よって「めっきり」の語源もここの「めきと」と動詞「めく」に違いない。例:めっきり春らしくなる。なお大辞林(ウェブ:コトバンク)には「めきと」=「めっきりと」とはっきり掲載されていた、すばらしい。なお#250にも「めきと」が出ている。字は総体的に難字で充分解読出来ない所もあるが、要旨は間違いない。#418もこの母の手紙である。

●#418. 内股にしもつ出き又こうもんのきわにも出き 夫ゆへ西沢道安様へかけ申候所
彦根の母より彦根藩領世田谷代官所出張の武士明塚半蔵への長い手紙。「先便にて金子届きました、御礼申上ます。およしも内股に腫物(しゅもつ)ができ肛門のきわにも出たので西沢道安様にかかりましたが痔瘻というもので、内股は腫物(しゅもつ)ですとのこと。服薬、膏薬をもらいましたが同じく痛みます。大変困りました、近々には治らず長引きます。全身の気分が悪くないので心配はないとのこと。それで申上ませんでした。追伸:白砂糖を送っていただき重宝で悦びました。また毎月にしていただけば悦びます」。およしさんの痔のことが中心である。#351にも掲載の通り西沢道安(西沢道庵)は彦根瓦焼町の有名な医師であり現代に名が残る。およしは半蔵の弟の嫁らしい。半蔵の妻はきわである(#250参照)。本文の意味は把握できるが最後の細字部分は不明の部分がある。字は全体に個性のあるもので難字が多い。

●#351. およしは痔疾余程六ケ敷 煎薬膏薬等被呉養生致居候
彦根の明塚精右衛門から江戸井伊家世田谷代官所に出張勤務の明塚半蔵への返事。「日々冷たくなっていますが貴殿障りなく御勤御目出度いです。こちらは親類も異常なしです。中屋敷の川口氏に行って用事をいわれたら失念されていたとのこと。先1両送りましたが入手されたとのこと御礼了解しました。三上への礼状の件了解しました。およし(妻)が内股の腫れ物と痔疾で彦根瓦焼町の西沢道庵にみて貰いましたが、痔は難治で気長に養生とのことで膏薬と煎薬を貰いました。痛みがあり困ったことです。富永吉次郎様も来年四月江戸勤務とよい仕合です。1包の白砂糖送っていただき大悦でした。米相場1両8斗で高値とか。こちらは(1俵)銀25匁位です。松茸が佐野から来たが匂いが少ないとか。こちらでは沢山は出ていません。銀1匁で350匁以下で高値です。書外は次回の便で申します。追伸:次第に暖かになりますが御自愛下さい」。松茸の栃木県佐野市には彦根藩の支配地と堀米陣屋があった。最初の3行は追伸である。おそらく2人は兄弟か従兄弟であろう。解説は図中に入れた。

●#371. 九百五拾両封之侭弐箱に入て 木曽路十日指登申候
彦根から彦根藩領世田谷代官所に大金、その他書類を運搬することを記した文書である。書くのは彦根在住の武士で受けたの江戸世田谷勤務の明塚半蔵という賄方の侍である。ここでは10日程かけて中仙道を通って運んでいる。見張り役の武士がいるが実際の運搬の役は別にいたと思われ、このように950両も運ぶと途中で7-10両盗まれたことが書かれている。浅草海苔は献上品として彦根から運ばれた。守真院様という井伊家の未亡人の事が書かれる。他は関所通行手形、側女の御暇願、領内百姓の縊死の検視書であった。小さい字は後で記入されたようで訳していない。

●#354. 毛附に付御繁雑之御中 御煩は敷可被思召候
林田弥右衛門より井伊家世田谷代官所勤務の明塚半蔵への手紙。「秋冷えの時です。いよいよ御安泰で勤られ御目出度いです。当方の御宿所様安泰で留守で目出度いです。毛付の書で御面倒をお掛けし繁雑で煩わしいものですが何分御願いします。若狭屋忠右衛門が毛付のことで急用の手紙を寄越しましたのでご連絡します。平常は御無沙汰ばかりで用向にはこのように御願いしています。悪しからず御容赦下さい。追伸:忠右衛門がその地に入れ違いになりました。あなたがそちらに居られる間に忠右衛門が参ります、よろしく願います」。不悪:あしからず。真平:まっぴら、ひらに。「真平御用捨」とよく使われる。明塚半蔵は世田谷代官所支配の村の年貢の毛付の書を作っているようだ。毛付:各村の年貢収納量を調べ決めること。前年の貸借などもあり書類作成は繁雑に違いない。忠右衛門は米を扱う商人だろうと思う、早急に半蔵に面会したいようだ。番号は追伸の部分で最後に読む。

●#352. 御上屋敷も御普請も追々御出来に相成 正月は御上屋敷にて相祝義申上候
彦根の明塚清右衛門から江戸井伊家世田谷代官所に勤務の明塚半蔵への手紙。「甚しく寒い時節です。皆様お揃いで御堅固になされ御目出度いです。奥様にも宜敷御見舞を申しあげて下さい。その後は無音で遠くなっていました。さてこの度文三郎殿も道中異常なく到着され御目出度いです。私も無難に勤めていますので御安心下さい。御上屋敷も普請が出来上がり20日には引越しになりそうです。正月は上屋敷にて御祝義となります。この品は軽少ですが御見舞にお目に懸けます。寒中見舞いで御意を得ます。後は拝顔の時申上ます。追伸、次第に寒くなります。(体を)おいとい下さい。21日法事で急に用事が多くなりますので今日手紙を出します。年内も少なく御仕舞仕度してください。正月の来陽御目出度いです」。この人も半蔵の親類であろう。彦根藩上屋敷は江戸城桜田門に至近にある。

●#250. とふそとふそ私に内々にて少々はかり 小使下しおかれ候やうにくれくれ御願上
近江の妻きわから井伊家世田谷代官所に勤務の夫明塚半蔵への手紙。「暖気に向かい御機嫌よく勤められ前と同然に有難いです。こちら御両親様もいつも御機嫌よく生活され有難く喜んでいます。金太郎は無事に暮し御安心下さらないようにしてください(文脈上は間違い)。襦袢と足袋は入用までに届きます。金太郎は健康で越後縞ちりめんを下されて大きに有難く着せて御礼申します。おびただしくされてゆっくりされたいのに有難いです。浅黄ちりめんは少し余計で結構で御礼申上ます。おおいにお気の毒ですがどうか台所入用の小遣いを次の便で少し遣して下さるように願上ます。それは内緒で急ぎはしませんので登りのついでの便で宜しく願います。どうか私に内緒で少々ばかり小遣いを下さるように呉々も願います。金太郎もこの頃は丈夫に歩きだしのらりくらりと付け歩きします。喜んでください。投簡毎々有難いです。またご返事下さい。めでたくかしく。返す返す仕舞に暑さに向かいます。随分体調よく暮らされるよう祈りあげます。かしく」。有難くは9回出るし「大きに大きに」「とふそとふそ」などが多く、また「御安心下さらないようにしてください」と文脈的な間違いもある。教養あふれた女性にはみえないが一所懸命に書いている、まだ若いからね。財布は夫が握っていたが、きわさんは歩き始めたばかりの1歳位の子がかわいいなどと上手に内緒でのお小遣を頼む。お小遣の下し置の依頼は重要で3度繰り返す。このように若い下級武士の奥さんの生活での手紙は文も全体に口語体が容易に想像できそうで興味深い。女性手紙特有の表現を最後に示した。この人の「れ」は最後が下に大きく伸びる特有なもの。時代は他の手紙より文政から幕末である。

●#169. 千菊丸殿へ 釈迦達磨をも下部となす程の人に成り給へ
幕末に井伊家世田谷代官所に勤務の明塚という武士が学習した内容を書写したもの。内容は一休の母の一休への遺書、一休の言葉、その他和歌5首。一休の母の言葉は解りやすい。「よい出家(坊さん)になりなさい。その眼で私が地獄に落ちるかどうか仏に常に寄り添うか否か見ていてください。釈迦や達磨をも奴(やっこ)とするほどの人になればよいです。学問で理屈ばかり語る人は糞世虫(こがねむし?)と同じ事。莫妄想。千菊丸殿へ、無死無生より」。歌:これはかりそめではない。別れたあとの私の形見としてください、私の筆跡を。わが子が素晴しい禅僧に育ってほしいとの願いが母親らしい。浜松市の秋葉山舘山寺に原文がある。不断:とだえない。下部:しもべ。莫妄想:妄想する莫れ。かりそめ:重要でない。次に一休和尚の言葉を書写。「地獄遠きにあらす」やや難解だが、食事、家業を成し酒を飲んで寝たら極楽とはこの人らしい言葉である。遠嶋:島流し。慈悲:菩薩が人に楽を与えること。和歌5首はわかりやすいものと解かりにくいものがあるが、個人的には読人不知の2首がすきだね。「つくつくと思へば」:生きやすい世を我が身が辛いと嘆くのが人間だ。つくづく:熟、よくよく。浮世=憂き世:つらい世の中。「人はたたあかれぬ」:人と遠ざかることはある、名残惜しさを思い出にして別れるのも良いものかもね。

●#168. 我常山記談を書写仕候
幕末に井伊家世田谷代官所に勤務の明塚という武士が「常山紀談」の第1巻12段目を書写したものである。「那須の臣大関夕安深慮の事」。下野国宇津宮の軍勢が那須に寄せて来たのを打ち破り大将を討ち取るかという時、那須の大関夕安は兵をまとめて宇津宮軍が逃げるのを追わなかった。人は皆宇津宮を破ってしまうべきであると言うのを夕安は聞いて言った。「雲を払い去った秋風は松に残して月を眺めよう」という歌がある。味方にはまだ根本の固めがない。宇津宮を滅ぼせば、小田原北条氏は那須を直接の敵とする。宇津宮を残せば小田原は宇津宮に敵対する。その暇に蔕(ほぞ)を固くして那須(なす)をしっかりと守り固めて強くして将来小田原と敵対できる位に強くしたい。人々は感心した。蔕:へた、ほぞ、果実のがく。北:そむく、にげる。大関氏は那須七騎の1つで那須氏の重臣である。だが大関夕安が実在かは不明。常山記談は備前岡山藩士で儒者の湯浅常山(1708-1781)が戦国武将の逸話をまとめたもので1801年発刊。最後に小さく書かれた短歌3首は次の13段目に書かれている歌で訳は省略する。参考図書:「常山紀談」湯浅元禎 大正15年(国会図書デジタル)。

●#131. 壱枚にても御出来之程奉願 年越兼申候
高松大三郎さんより明塚清右衛門さんへの手紙。「あなたの手紙拝見しました。出来ないとのこと。仰付の御用が多い中恐入ますが、当惑で心痛しました。この事を工夫して1枚でもできるようにお願いします。できなければ私は年越しかねます。是非1枚できるように御願します。私も出向いて御願すべきの所が多用で出来ず、手紙で御願します。29日に人を差し向けます。幾重にも工夫御願します」。両者とも武士である。「貴札被下拝見仕候」や「人を指し遣わす」また「はじめの時候や健康の挨拶がない」ので高松のほうが地位はやや上のようだ。「1枚にても出来」は何だろうか?絵画か書ではないだろうか?小判借用ではないと思う。

●#114. 来四月朔日江戸詰被仰付 有難仕合奉存候 It was ordered that you should work at Edo from coming April. Congratulations!
富永吉次郎さんから明塚半蔵さんへの手紙。武士の手紙である。「秋冷の砌です。御安康に御勤め目出度ことです。当月(9月)11日御書面で来る4月朔日より江戸詰め仰付られたこと有難い幸せと存じます。拙者は無事です。御安心ください。吹聴の時御見舞いかたがた愚札はこの如くです」。吹聴:ふいちょう、言葉が多く聴かれる。九月のこの季節は来年からの勤務が噂される時のようだ。明塚半蔵が来年4月より江戸の藩屋敷に勤務と命じられたことは幸せなことだったようだ。江戸は都会で華やかであり興味の対象も多いから、現在と同じ様だね。右端の「猶々」以下は追伸だが、未解読。専要:最も大事。手紙の字は読み易く丁寧な好感の持てる手紙である。時候挨拶も丁寧で脇付は貴下なので同僚への手紙であろう。 This letter was sent from a samurai to a samurai friend. Because Edo was a city, there heve been a lot of interesting stuffs.

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#866. 江戸表御取建にも 其元がきまり不申候ては
#802. 半蔵様にも御機丈夫に被成御座候段 御同慶
#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
#730. 此度俊操院様御発駕被遊候
#689. 耀鏡院様下女壱人御抱之義 諸色方より申参り候
#528. 御領分野良田村次兵衛女子くら 御出人御吟味御揃立候
#535. 三役に埒の明塚安左衛門 やかて大津の総の元〆
#448. 伊賀御歩行中杢御扶持方渡り 過不相納候に付御取立
#441. 浅草のり御地そうにいたし候様 御登し被下山々悦まいらせ候
#418. 内股にしもつ出き又こうもんのきわにも出き 夫ゆへ西沢道安様へかけ申候所
#351. およしは痔疾余程六ケ敷 煎薬膏薬等被呉養生致居候
#371. 九百五拾両封之侭弐箱に入て 木曽路十日指登申候
#354. 毛附に付御繁雑之御中 御煩は敷可被思召候
#352. 御上屋敷も御普請も追々御出来に相成 正月は御上屋敷にて相祝義申上候
#250. とふそとふそ私に内々にて少々はかり 小使下しおかれ候やうにくれくれ御願上
#169. 千菊丸殿へ 釈迦達磨をも下部となす程の人に成り給へ 
#168. 我常山記談を書写仕候
#131. 壱枚にても御出来之程奉願 年越兼申候
#114. 来四月朔日江戸詰被仰付 有難仕合奉存候

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