南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 古文書 #501-#753,Old Writings #501-#753 >

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古文書 #501-#753,Old Writings #501-#753


ここはこれまで読んできた「古文書 #501-#753」です。手紙、証文、借用書、覚え書など多様な江戸時代の文書がありますのでゆっくり楽しんで下さい。
Here are Japanese old writings #501-#753. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧(上) 文書番号とタイトルの一覧(下)

●不相かわら 御引立を願升 = 相変わらずお引き立てを願います。 Thank you very much for your continuous visits. Please come and see my website again.

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これは2階から1階へ段々降りてきてポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション カンが回転するアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

 

●#753. 加賀藩前田家の家系書 八 前田と名乗る他の三家
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。他の前田と名乗る3家を解説。前田伊織、前田日向(断絶)、前田主膳各家である。もちろん加賀藩士で家老職であった。以上ですべてを掲載し終えた、詳細な経歴は前田利家のみで他は略歴である。しかし300年程昔に書かれたもので「加賀藩史料」と異なる部分があり有用な点もあると思う。特に利家(弐)の合戦名が現代と異なり面白い。解読では前田利為侯爵(1885-1942)より慶応大学に寄贈された「加賀藩史料」(Google booksより閲覧)を参考にした。

●#752. 加賀藩前田家の家系書 七 前田綱紀、吉徳とその子
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。加賀藩5代藩主前田綱紀と子供、及び加賀藩6代藩主吉徳と子である。男児は長生を期して「千代松」「久丸」と名付けられているが早世した。早世の童子の戒名は幻や泡の字が使用されている。最後に記される前田吉徳(吉治)の子3名のその後は図中に記した。

栞750 

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●#751. 加賀藩前田家の家系書 六 前田利常とその子の子孫
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。加賀藩3代藩主前田利常と子供と子孫である。前田利常の所持した120万石は長男光高は加賀藩102.5万石、次男利次富山藩10万石、三男利治大聖寺藩7万石に分割された。利常は小松に隠居。加賀藩主利常と富山藩主前田利明の娘たちは多くの他藩の大名に嫁している。

●#750. 加賀藩前田家の家系書 五 前田利家の子 前田利長の兄弟
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。加賀藩初代藩主前田利家の子供とその子孫で2代藩主利長以外の人々である。英雄の子だから大変多い、次男利政前田土佐守家、三男利孝上野国七日市藩と前田兵部家、前田式部家、前田大膳家、四男利貞前田図書家、七日市藩以外はほとんど加賀藩家老の家柄である。そして娘たちの嫁ぎ先がまたすごい、名が残っている。記載は正確でほとんどは確認できた。笹と篠が混同されているがどちらも「ささ」と読める字。PCの時代だから自宅でこれだけ調べることができる、本当によい時代である。

●#749. 加賀藩前田家の家系書 四 前田利長
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。加賀藩二代藩主前田利長である。関ケ原の戦い後加賀、越中、能登の119万2760石の領土が前田氏領になった。

●#748. 加賀藩前田家の家系書 三 前田利家の兄弟
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。ここは加賀藩初代藩主前田利家の兄弟とその子孫を記述。四男利家には長男利久、次男利玄、三男安勝、五男良之、六男秀継が居た、特に長男の養子前田慶次郎、三男の家系の前田修理が有名。多くの子女の嫁ぎ先があるがほとんどは前田利家の家臣であった。「前田氏時」、「前田氏政」は経歴より前田知辰、前田知臣を指すに違いないが、享保年頃の呼び名と思われ今日伝わっていないようで興味深い。与力とは中級武士の持分だが上の武士の支配下の領に入る事。

●#747. 加賀藩前田家の家系書 弐 前田利家の生涯
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。ここは加賀百万石の初代藩主前田利家の生涯を記す。織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家と共にほとんどの合戦に参加し、鎗の名手で多くの首を獲得、出世した人生であった。尾張内、美濃、近江、越前、加賀と戦場は進行する。一方利家は村ごと焼き討ちしたり大量に釜で殺害したりしておりすさまじい闘将である。当然織田信長の比叡山焼き討ち、上京焼き討ちなどを側近で見聞きしており「焼き殺し」に免疫があり慣れていた。300年ほど昔の記録だが記載内容や戦いの名などは少し違いもあるがすべて検索で理解できた。

●#746. 加賀藩前田家の家系書 壱 前田利春の由来
1734年=享保19年に加賀藩家臣により書かれた金沢城主前田家の家系書である。初代前田利家から6代前田吉治(吉徳)まで記される。初回は前文と前田家の由来である。私の所に来る文書には北陸、加賀、金沢や前田家の関連の物が不思議に多い。

●#745. 詩文の達人連俳之上手申合可参候
武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれた筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。この頃は上巳の3月3日の桃の節句に武士たちが和歌や俳句を楽しんでいた事が判る。

●#744. 御酒錦にまかふ村菊品々をくり給り
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。旧暦9月、長月=菊月に菊を贈る手紙とその返事である。酒、越は稀な形の字が使われている。御酒錦、おささにしきは大酒錦という蓮花を指すと思う。散し書きは大きい字、右下、右上、上を左へで標準的。

●#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
彦根藩士で江戸勤務の原田五介より上司の明塚又左衛門らへの手紙。内容は藩の船方で寝泊りの者が水戸藩の船方と距離が近いので襲撃の恐れがあるという緊張の内容である。おそらく1860年桜田門外の変で水戸藩士により彦根藩主井伊直弼が暗殺される少し前頃のもので興味深い、図に解説。字は難読で後半は意味がやや不明だが重要な前半の解読はできた。

●#742. 馬乗羽織麻上下帷子等仕立 御資申度候
武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれた筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。これは武家が乗馬で江戸に行くので馬乗羽織、麻上下、帷子の仕立を知人を通じて依頼している内容である。新しく仕立するので晴れやかな席への旅かも知れない。地方の武家にとって江戸屋敷勤務は嬉しい事だった、#114参照。

栞740 

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●#741. 弐百文酒八合 三百文さめ
酒屋で一杯飲んだ記録である。つまみにたい、はまち、こちなどの魚を食べている、またさめも食用であった。

●#740. はれなる客おはしまし候 夫につき御無心の事候へ共
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。明日重要な客が来るので住吉八景を画いた屏風を借用したいという手紙とその返事である。現在住吉八景はほとんど知られていないので図中に記した。参考論文、国立環境研究所、青木陽二氏:「八景の分布と最近の研究動向」。

●#739. 貴前様能御枢機御座候由
筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。内容は武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれている。これは知恩院を見学したいので知り合いの人に紹介状を書いてもらいたいとの内容である。

●#738. 御普請嘸々御結構之程察入候
筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。内容は武家の日用生活の手紙文、指南、日用語などである。これは移徒、相手が吉日に新築屋敷に転入するのを祝う手紙。

●#737. けふし吉日故御移徒遊し候よし 限なき御めてたさ
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。移徒の方へ遣す文とその返事である。 漢字や表現が勉強になる。

●#736. 見え来まいらせ候まま 少しなから御めに懸まいらせ候
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。物を送る時に添える手紙とその返事である。

●#735. 愛さま美しき御事のよし いとも軽き御容体におはしまし
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。疱瘡の見舞状。そして暑気で体調を崩した母への見舞状に対する返事である。

●#734. 織女の御祝儀 いく秋かきりなき御岩井
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。七夕の手紙である。七夕は旧暦ではすでに秋に入っている。

●#733. 御神事皆々めしよ誓られ候半よし
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。祭礼の誘いの手紙である。誓(せい)を仮名の「せ」と読んでいる、この例は本など調べた範囲ではみられなかった。勢(せい)と同じ読みでの当字で使ったと思われ、この本の1762年(宝暦12年)初版から1843年重版の発刊までの頃にはこのような仮名の用法があった可能性が高い。

●#732. 扨は真瓜三頭 御めに懸まいらせ候
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。水無月、新暦7月の暑気見舞の手紙である。

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●#731. 菖蒲の御祝儀 御目出たく祝入まいらせ候
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。菖蒲祝いの手紙と返事。菖蒲の祝いは古くは女性の節句であって端午の男児の節句と区別されていた。また本邦では和歌に菖蒲、長い根、長寿、引く手が関連して多く詠まれて来た。ちらし書きは大きい字、右下、右上、上を左にと読む。参考論文:星城大学、亀田夕佳氏「長寿の表現史-菖蒲・あやめ草をめぐって」。

●#730. 此度俊操院様御発駕被遊候
彦根藩江戸屋敷に勤務の綱村弥右衛門より彦根勤務の明塚清右衛門への手紙。内容に「俊操院様御発駕御下り」とあり1855年(安政2年)に書かれたらしい。俊操院は井伊直弼の義姉で図中に記載。#131には明塚清右衛門が受けた手紙、#352は明塚清右衛門より明塚半蔵への手紙、#689には耀鏡院が手紙に記載がある。松たけは彦根藩領下野佐野で採取された(#351)。俊操院の御供をした川口氏は#351に掲載があり彦根藩江戸中屋敷に勤務する人である。

●#729. いかさま来国次 真偽返計之御目利奉願候
短いのに長い間解読できなかった文書。鍵は「来国次」であった。刀工の名とわかって「真偽」、「いかさま」、「無銘」と読めて解決した。最上級の上司の入手した名刀「来国次」には銘がない、そして「いかさま」らしい。よって目利き(めきき)のあなたの真偽を究めた鑑定を願いたい。以上の内容である。文書では「来国次」と読む自信がないし、「来国次」が何かも全く知らなかった。他の字も不明が多くて検索はしていなかった。やはり検索してみるものであるとこの文書で改めて教えられた。

●#728. 殊に二人忘御日記付哉迄相見 はかはか無頼の悪僧
紀州藩家老の加納氏の家来より上醍醐寺慈心院座主延順への返事の手紙。加納氏は醍醐寺の門徒の総代であった。醍醐寺の利門坊という僧が日記を付けなかったりで悪僧だとすることなどが内容である。難読の字が多く、長期間未解読であったが最近やっと大体の意味がつかめた。学習効果が上がるのは骨があって解読難の字をじっくり調べてゆく課程にあると思う。しかしすらすら読める文章の方が気持がよいのは当然だけど。

●#727. 榑木丸太尺〆五六本 只今早々御遣し可申候
藤野長三郎より藤野清之助への手紙。榑の丸太を25個調達してもらって今日多くの職人が来て「道具物」を作っているがまだ不足しており、自分所持の椹を代用している。それでも不足で行届き難いので至急で1尺幅の榑丸太5、6個調達してほしい。以上の内容である。道具とは家具のようなものだろうか?関連の文書がなく詳細は不明。

●#726. 竹皮綱の子の覚にて御座候
越前(福井県)敦賀の塩屋仁兵衛が北前船主の増田家または大家家に請求した覚。竹の皮で編んだ綱で綱の子と呼ぶらしい。これは船を繋ぎ留めるのに使われた綱らしい。「竹皮縄竹の皮によって作った縄」との記載がある。「挺(ちょう)」は細長い商品の単位、弐挺五丸がどんな形かは不明。なお金1両=銀64匁であった。

●#725. 扨は此帋包一つ 御国もとへ御便おはし候せつ御届
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。相手が送る便に届け物を同じ便で送ってほしいという手紙。

●#724. なかなかの御留守にて さそさそ御淋敷候半と
1843年=天保14年の「女要四季の文箱」の重版より。留守見廻(舞)の手紙と返事である。念入にの意味の「念文字」が広辞苑にも大正時代の国語辞典にも掲載がないのには驚いた。

●#723. 御遊山なから上方へ 御登りあそはし候よし
最近ネット検索で内容は「女要四季の文箱」(1762年、宝暦12年)という本と同じとわかった。ただこの本は1843年=天保14年に女大学、女小学、百人一首と共に綴じられており、「女要四季の文箱」の部分は重版であるようだ。旅立の見立=見送りの手紙とそれへの返事である。

●#722. 心の暇もなく一生は雑事の小節にさへられて むなしく暮なん
徒然草鉄槌という本の第112段。徒然草に注釈と解説を加えた江戸時代の古書である。「日暮途遠」、「蹉跎」という意味深い語句が使われる。私自身は「人生の日暮れ日没の時」にあるとは思わない、また私には前方に遥か遠い高い到達すべき点があるわけではないし、現在足腰が疲労困憊の極にある訳でもない。だけど私はこの段の吉田兼好の展開する考えと文章が好である。60-70才代の皆さん元気で進んで行きましょう。

栞720 

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●#721. 御水茎くたされ 誠に御けむもしの心地
1843年=天保14年発刊の女筆本より、本の名は不明。久しく逢っていない方への手紙とその返事である。女筆に特有の合字「られ」は#659にも見られる。

●#720. 桧重一くみ御雛の 御祝儀のしるしまてに御目に懸
1843年=天保14年発刊の女筆本より、本の名は不明。桃の節句の手紙と返事である。

●#719. 明日はこなた嘉例のことく 節いたしまいらせ候
1843年=天保14年発刊の女筆本より、本の名は不明。節分で食事を振る舞うにつき誘う手紙とそれへの返事である。ここの「参」はかなり変則の形だと思う。

●#718. 此上彼土地におゐて 色々と意外之働有之候
おそらく庄屋の大林吉右衛門より奉行の武士井上祥介への手紙。吉右衛門が中心となって開発した耕作地(新開)2畝からの収穫を新治郎が取込をした。おそらくこの土地は荒地か半荒地となっていた。今年は毛附をしないので今後荒地になるので庄屋の吉右衛門自身が夏作の毛附をすると書く。この土地は今後「起き帰り」として耕作地復活も期待できるのでよく吟味して不法の新治郎は処罰してほしい。以上の内容である。

●#717. 下拙共無異事罷在候 乍慮外御安意可被下候
林忠右衛門から飴屋への手紙断簡。#532に林忠右衛門が飴屋の松屋七右衛門に段木を積み送る手紙がある、筆跡が同じである。段木は飴を乗せる木の串に使うと思う。

●#716. 徒然草鉄槌 一日の命万金よりもおもし
鉄槌(てっつい、徒然草鉄槌)という本の第93段。徒然草に注釈と解説を加えた江戸時代の古書である。かなは読み易い。牛を買うと約束した人が明日、代金を払って牛を連れてゆくと言った。しかし牛はその日の晩に死んだ。それを後で評価して牛を売る人が損で牛を買う人が得をしたと皆言う。しかしある人が牛を売る人は人生に於て重要な理を自ら経験して万金を得たのだと言った。徒然草の作者吉田兼好はこの人に賛同している。様々に考えさせられる文章である。

●#715. 装束之事可有御恵之旨 乍不及似貴殿可申
武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれた筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。これは#713元服のお祝いの手紙への返事である。

●#714. 長閑成空うち続 四方のはなも最中のよし
1843年=天保14年発刊の女筆本よりの手紙文。花見に誘う手紙とそれへの返事である。

●#713. 良辰直丸殿御元服之由 目出度奉存候
武家の日用生活の手紙文、指南、日用語など書かれた筆玉用文万宝鑑(1778年=安永7年刊)という本の一節である。これは武家の元服の祝いの手紙である。

●#712. 御饗応いか計 辱そんしまいらせ候
1843年=天保14年発刊の女筆本よりの手紙文。昨日御馳走になったことへの御礼とそれへの返事である。

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●#711. 五常なくんは人とは不可言 此道能々心得て違背の筋無
おそらく幕末頃の浅井つる女が書いた五常訓。仁義礼智信=五常を書写したもので、こんな男の儒教のための言葉を江戸時代の女子が学んでいるのに少し驚いた。調べると1729年=享保14年に既に「女五常訓倭織」という大部の本が発刊されており特に武家の女性はこのような内容を深く学んでいたようだ。この人はきれいな字で和歌の「へ」なども上手に書いており教養ある武家の女性だったと思う。

●#710. 春の御しうき幾千代かけて いはゐまいらせ候
1843年=天保14年発刊の女筆本、本の名は不明。ここから新春の挨拶のちらし書きの手紙文である。散し書の読み方は大きい字、右下、右上、上を左へ、中下、左下の順でやはり標準的である。

●#709. 随分旦那には万事御綿倒も被遊候
村口甚右衛門より木地屋三右衛門への手紙断簡。同様の手紙が#639、638、614にあり、宛先は切れているが木地屋である。旦那は面倒な事も多いだろうという内容。

●#708. はつ午におはしまし候 稲荷へ御詣遊はし候はんや
1843年=天保14年発刊の女筆本より初午のちらし書である。節句の手紙文はよく見るが初午についての手紙は私は初めて見た。稲荷社のお祭りの日である。散し書の読み方は大きい字、右下、右上、中上、左上、中下、左下の順で標準的である。

●#707. 朝夕は殊之外寒しまいらせ候
1843年=天保14年発刊の女筆本、本の名は不明。ここから2通の手紙文を紹介する。末賦で「すそわけ」と読むのは難かしいと思う。

●#706. 掟米右之通り無残取立御渡申上候
尾張国知多郡の各村の掟米(小作人が納める米)から各村が取る米を差し引いている。その残りは知行の武士が残らず取り立てたと賄方の武士が記す。これらの村の支配はすべて尾張名古屋藩であった。計算は合っている。

●#705. 地歌、寛濶一休 一休扇をさつと払ひ給へば 大雪朝日に霜となり
地歌の「寛濶一休」(かんかついっきゅう)で増補まつのこゑ(1809年刊、南竹所蔵本)から紹介する。地歌の中の「作物」といわれる滑稽物。この本はほとんど仮名で書かれているが、#696の荒れ鼠や#697たにしなど他の作物と異なって用語が特殊で呪文もあって難解であった。一休が山伏の「業比べ」の挑戦に勝利して山伏は罰で蜘蛛の姿になってしまう。1703年刊の「松の葉」に掲載された相当古い歌、文の中に西山宗因(1605-1682、俳人)の俳句が引用されており1600年代後半成立だろう。歌はウェブサイトでは聴けないようだ。寛濶とは心が広くゆったりしていること、寛=濶で共に広い、ゆったり、富裕なの意味の字。似た発音の煥発(かんぱつ)という語がある、「煥=光輝を放つ」にて才気煥発、知恵が輝き発すると使われる。こちらの方がこの話に合うと思った。

●#704. 拾六歳之時在所を出 少々宛之物を盗取渡り候趣
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が所持した文書。近在の戸嶋村又吉の馬の鞍と鳴り輪が関宿で盗まれた。亀山の馬士に売ろうとしたが情報を前もって知っていて亀山の馬士は又吉を呼んで確認して盗人を捕まえた。盗人は亀山の近在の菅内村の出身の21歳の若者で他の盗みも多かった。その内容を関町の川北久左衛門ら役人が奉行に届けたがその文書の写しを保存していたものである。内容は図中に解説した。

●#703. 肥前平戸藩京都在番の御武家様の下りにて御座候
伊勢国関町本陣川北久左衛門の文書。8人の武士が江戸出立で京都への東海道下りで関宿を通った時の記載である。名前と馬、人足の人数とその役(具足持ちや駕篭持ち)が書かれる。検索から武士たちは肥前国平戸藩所属で京都在番と判明した。武士たちの内4名が1830年の京都、摂津大地震で家屋が潰れたが、命に別状はなかった。甲子夜話に記されている。

●#702. 奥州笠松峠女盗賊 下 ととめさして悦ひ我家へかえりけるこそ目出度き
陸奥国磐井郡曽慶村(現岩手県一関市大東町曽慶)の組頭惣兵衛、善四郎親子が書写した文書、「奥州笠松峠女盗賊」の続きである。「上」で「鬼神のお松」に討たれた夏目四郎三郎が子の千太郎の夢に出て仇打ちをしてわが恨みを晴らしてくれと頼む。そして千太郎は主君に暇乞いして笠松峠にてお松を討ち取り意気揚々と引き帰る。simpleな話しの筋であり大変人気があった。仮名つかいや用語が勉強になった。父の霊が千太郎に「やあやあ」と声をかけるのは明るくてよいね。最後の「伊勢半」の記入は江戸時代の正徳年間(1711-1715)に仙台で開業の伊勢屋半右衛門の書店を意味する。屋号「裳華房」で現代に残る本屋である。

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●#701. 奥州笠松峠女盗賊 上 鬼人お松と其名を申し大たんふてき
江戸時代後期に陸奥国磐井郡曽慶村(現岩手県一関市大東町曽慶)の組頭惣兵衛、善四郎親子が所持した文書。「奥州笠松峠女盗賊」という物語で門付芸能(大道芸、ちょんがれ)が由来らしい。この語りが出版されたものを善四郎らが書写したものである。別名「鬼神のお松」。内容は笠松峠に住む女盗賊お松が江戸より急ぎ行く剱の達人の武士夏目四郎三郎をだまして刺し殺し金品を奪うまでが上巻。地名はすべて架空である。解読には早稲田大学所蔵本に助けられた、誤字は直して記載した。曽慶村は仙台伊達氏の支配地であった。奥州笠松峠女盗賊は幕末以後評判が高く歌舞伎などにも移植された。参考論文、神林尚子氏:「鬼神のお松」の起源と変容。

●#700. 割木送り山中、坂下、沓掛での駄賃の覚に御座候
伊勢国鈴鹿郡関町陣屋川北久左衛門が1770年頃書いた文書である。橋本屋重右衛門の割木169束を馬で運んだ時の駄賃の計算である。馬宿名と馬の数、割木の束数を書いている。また1荷(人が運ぶ量)で銭140文であったとわかる。ここで馬1疋で運んだ荷数を計算したら3荷であった。なお文書#534では東海道での駄賃は馬一疋で人1人の人足賃の丁度2倍であった。なおここでは1両=銭5466文の交換率であった。

●#699. 地歌四、筆のあと 知るべのそのただをみれば くりかへしみの筆のあと
大和国の花街で安政年頃暮らした並河勝以が1855年=安政2年に書写した地歌集より。「筆のあと」である。今は離れた昔の恋人の直筆の手紙の跡が懐かしく、そっと繰り返し見る。以上の内容である。詞が五七調で大変よい本調子である。下は増補まつのこゑ(1809年刊、南竹所蔵本)のもので詞の異なるやや古い歌である。歌はウェブサイト、「地唄FAN」の「筆のあと」で聴く事ができる、よい調子なので是非御一聴を。

●#698. 地歌三、かわつ たったひとこときいてたべが おやぢをからすにとられ
大和国の花街で安政年頃暮らした並河勝以が1855年=安政2年に書写した地歌集より。「かわつ(蛙)」である。これも作物で面白い。蛇に食べられそうになった蛙が巧みな言葉で難を逃れた話。仇討の話は人々の人気があったことがわかる。詞は「新成増補まつのこゑ(1809年刊)」に掲載されておりそれ以前の古い歌である。「たったひとこときいてたべが」、「もつたてもつたて」、ここにも当時のしゃべり言葉があり大変いきいきして面白い。また瓜を人間に例えている、顔が瓜二つ。ひやい=非愛で「危ない」の意味とは驚いた。歌はウェブでは聴けない。

●#697. 地歌弐、たにし なんぼはたたきしやるとも うのまにやなるまい
大和国の花街で安政年頃暮らした並河勝以が1855年=安政2年に書写した地歌集より。「たにし」である。作物と呼ばれ歌詞は大変面白い。この頃もからすはあまり好かれていなかったようだ。詞は「新成増補まつのこゑ(1809年刊)」に掲載されておりそれ以前の歌である。のふからすとのおんみのすがたよく見れば。ここでも当時のしゃべり言葉があり大変いきいきした歌となっている。だんぶと、すっとんとん、さんさ、むささ。庶民が使った擬音語なども面白いね。是非内容を読んで下さい。歌はウェブでは聴けないがまずまず有名な歌である。

●#696. 地歌壱、荒れ鼠 はぶしの達者なものどもは納戸へ入りたんすかぢるべし
大和国の花街で安政年頃暮らした並河勝以が1855年=安政2年に書写した地歌集より。「あれ鼠」である。歌詞は大変面白く、作物(さくもの)と呼ばれる滑稽な語り口である。鼠は幼少の頃我家の天井をよく走っていた。冷蔵庫が普及してから鼠の数が減ったと思う。詞は「新成増補まつのこゑ(1809年刊)」に掲載されておりそれ以前の歌である。なお当時のしゃべり言葉がわかるのも面白く新鮮である。手紙の文はしゃべり言葉ではないから。ねこのねの字はいやでそろ。あとはこりこりおそろしやへんじもはやくおちたまへ。ようこそはやくしらせたり。歌はウェブサイト、「地唄FAN」の中の「曲ねずみ」で聞く事ができる。別にYoutubeで「荒れ鼠」でも出る。

●#695. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 続大名衆の宿泊の記録
伊勢国関町陣屋川北久左衛門の部下が記した大名の宿泊の記録。馬の準備と世話役の部下の名前が記される。同時入手の書類より1770年前後のものと予想されるが、確かに京都所司代の土井氏の記載よりその頃である。衆と書かれたものは行列の先遣隊らしい、馬も1-2疋で少ない。種子島弾正は松平薩摩守様御内と書かれる、薩摩藩の家老職で種子島を支配した人である。種子島弾正一行は馬28疋であり行列の本隊である。#524にも類似の文書。

●#694. 味林すの代金に御座候
覚2通、酢とみりんの代金の記載のものと詳細不明の覚である。金1両は銀64匁であった。

●#693. 石部宿より関宿へ 〆馬百拾九疋人足七拾人にて御泊に御座候
石部宿問屋から伊勢国鈴鹿郡関宿陣屋川北久左衛門への連絡。馬119疋うち荷物31疋、人足70人の大行列が水口宿から関宿へ上っているとの連絡である。これ程の大行列では少し前の宿泊の宿より前もって連絡が入る事が判る。御師という神宮などへの案内役が居るので行列は伊勢神宮への参拝に行くようだ。別紙にも大名の伊勢参拝が書かれている。#518に川北久左衛門らが坂下に泊り草津に行く旅を記載。

●#692. 干鱈二尾進上仕候 寔以御祝詞申上候印迄に御座候
村山九右衛門より伊勢国関町陣屋川北久左衛門と川北伯翁への手紙。川北久左衛門が奉行に何か役を仰付られた、これは御目出度い事であった。よって干し鱈2尾と御隠居の伯翁へ御菓子を差上げるとの丁重な手紙。川北伯翁は1772年に64歳で死去した8代目川北久左衛門である(下に説明)、この手紙は伯翁の隠居後より死去迄の間のものである。

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●#691. 米相場の1ヶ月内での変動にて御座候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が1700年代後半に書いて保存した米相場。金1両で買える米の量を上米、中米、下米に別て10月朔日から晦日まで5日毎に記した。これは「差上」なので奉行に差上げた書の写しである。紙が破損している所は補筆した。これまで読んだ古文書をみても金1両で購買できる米の量は7-12斗であった。また上米、中米 、下米では1両で4升分づつの違いがある事がわかる。

●#690. はんが、くつかた、ちよじたらい、桶に御座候
桶や盥(たらい)の職人の請求書。他の書類より「卯」は1867年(慶応3年)である。この時代は手洗い桶も木製である。不明のものもあり。銭の計算は合っている。

●#689. 耀鏡院様下女壱人御抱之義 諸色方より申参り候
彦根藩世田谷代官所勤務の明塚半蔵氏が所持した文書。世田谷代官名で人事について別人ではないかと尋ねがあったので相違が無いかという事と定夫8人を抱える事につき返書を出して欲しいとの彦根藩士事務方の内容である。耀鏡院(彦根藩主の後妻で井伊直弼の養母)が下女を1人召し抱えたことが書かれている。それにつき少し考察を加えた。紙が痛んでおり字も読みづらい。参考論文:母利美和氏「井伊直弼の著述活動と片桐宗猿」。

●#688. 小断簡二報 いろ方へ上下地五本分丈ケ染に遣し候様願上候
小断簡である。1は上下(かみしも)5本だけを染色に出して欲しいと書く、2は火の用心。

●#687. ことことかりそめに七月無てにて くらしまいらせ候
江戸女性の手紙断簡。何かを送って貰って喜んでいます。推察してください。これまで7ヶ月無しで暮しました。無くても暮らせるものはしょうゆ、みそや豆類だろうか。

●#686. 御導師賄料私方よりさし上 書付に失念仕候
福井伊予掾氏が所持した葬儀に関する文書3通である。通貨の貨幣単位より江戸時代のものである。伊予掾氏は1844年(弘化元年)家督を相続、1880年(明治13年)次代が家督相続する頃迄は生存している、よってこれは伊予掾氏の先代か母の葬儀であろうと思う。宛名の福井与三郎は1852年に伊予掾の栄誉名を受ける前の古い名であろうと思う。江年院は葬儀の補助役であるが詳細不明。参考論文:北田杲三氏、伝統技術の現状について-京都みすや針。

●#685. こま、いんけん、ささけ、たしこんふに御座候
食品の商売の大市が針問屋福井伊予掾に渡した覚。読めないものが多く今回は大苦戦で誤読もあると思う。

●#684. 京都針問屋みすやの主人福井伊予掾が受けた覚 五報
京都針問屋みすやの主人、福井伊予掾が受けた覚や短文5報である。それぞれ語句や数字が勉強になる。

●#683. 長助不服外者参候とも 御取合不被下候様御頼上候
但馬国浜坂の針会所から京都老舗みすや針の福井伊予掾への返事の手紙。福井は長助という者を介して取引することを浜坂へ上げたが、長助は針師仲間に入っていない人である。長助を浜坂の指定する針師仲間の者と取替えてほしい。浜坂は大きな針の生産組合があったから強気である。手形とあるので浜坂と福井みすや針問屋とは売買があるが今後の要望を伝えた。

●#682. 此後は呉々も銘々より 御注文相願申上候心組御座候
江戸日本橋大伝馬町の針問屋住吉屋長右衛門から京都の針問屋みすや針の主人福井伊予掾への手紙。日本橋の針問屋衆5軒が注文した商品の差引書#681と共に送られた手紙。荷物は仲ケ間立合で仕分けした、商品の数不足も余る程あった、駄賃は半々にした、荷の名違いもあって訂正などあり調べに日数、手数が懸った。そして今後は各店毎に注文します、その節は商品を御調達下さい。以上住吉屋長右衛門は丁寧にしっかりと行事役を務めた、好感の持てる商人である。勝田新七は手紙#680の人で江戸日本橋の針問屋衆の頭である。

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●#681. 江戸仲間衆より京都針問屋への唐針差引書
江戸日本橋大伝馬町の針問屋住吉屋長右衛門から京都の針問屋みすや針の主人福井伊予掾へ送った差引書。江戸日本橋の針問屋5軒が京都のみすやと伊賀屋市兵衛に品物を注文した清算書である、住吉屋長右衛門はこの行事役。額は金477両と高額であるが、その内450両余りは為替屋にて清算している。なお井善と升源は両替屋として名前が出た。商品送付の駄賃は9両に登るが江戸、京都で「2つ割」つまり半々での負担であった。商品に数不足があったようで福井分、伊賀屋分とも2両宛差引ていた。そして記載内容から計算して金1両=銀70匁で1860年以前の時期と判明した。また福井氏が伊予掾を受けるのは1852年であるのでこの書は1852年から1860年の間に書かれたに違いない。唐針とあるがこれは日本製の和針のことである。数字の覚は計算がぴったり合うと爽快である。参考論文:北田杲三氏、伝統技術の現状について-京都みすや針。

●#680. 為替金住七殿行事に御座候間 同人より為御登申上候
江戸日本橋大伝馬町の針問屋勝田新七より京都みすや針の福井伊予掾勝秀への手紙。勝田新七は江戸日本橋の針問屋仲間の頭であった人。新年の挨拶の返書と江戸針問屋衆中からみすやへ注文した品々が到着した事や絹針の注文が書かれる。下の住吉屋長右衛門も絹針を問い合わせており、江戸では幕末に極上の絹針の人気が高かったことがわかる。なお手紙の包み(封筒)の紙は嶋屋佐右衛門より勝田新七宛への手紙の包みで使われた紙を裏返して再使用したものである。これより勝田新七は有名な日本橋の飛脚問屋嶋屋佐右衛門と交際があったと判明した。尚ここに紹介の福井伊予掾勝秀初代についてやや詳しい論文に掲載があった。参考論文:北田杲三氏、伝統技術の現状について-京都みすや針。

●#679. 聊絹針御注文申上候所 何卒御取揃被成下御調達奉願上候
江戸日本橋大伝馬町の針問屋住吉屋長右衛門から京都の針問屋みすや針の主人福井伊予掾への手紙。江戸日本橋の針問屋衆が注文した商品の差引書を送付した。そして極上の絹針を別に注文した。以上の内容が書かれている。

●#678. 為替手形には美須屋伊予掾有之候 此段御承知置可被下候
京都三条通河原町西入ルに現存する針問屋みすや針の幕末の頃の主人福井伊予掾(いよのじょう)から江戸日本橋横山町の針問屋近江屋利介への手紙の原稿。江戸日本橋の針問屋衆は伊予掾へ230両余りの商品の注文書を出した。それに関する伊予掾の江戸への手紙であるが訂正があったのでこれは原稿として保存された。また京都の奉行より鉄屋に針職人に鉄を潤沢に廻すよう指導があった。子年とあり1864年または1852年と思う。この後関連の文書を掲載する。

●#677. 此節コレラ病大流行にて死人多し アメリカより申越したる書付
戊辰=1868年=明治元年にコレラが上海で大流行中にて米国よりもたらされたとされる予防法が大阪の内外新聞で出版された。この筆者はこれをもっと一般に広めようと思ってこれを書写した。

●#676. 乍略義以書中不取敢相願候 不悪御承知可被下候
松井道泰より大野氏への手紙。明治年間のもの。藤井氏が京都(西京)へ留守中で帰ったらそちらに行かせますとの内容。他の文書がなくこの前後の事は不明。

●#675. 萬覚和帳 弐 嘉永五子年之出入帳に御座候
美濃国加茂郡鷹巣村の田中崇三郎が1852年=嘉永5年に記した覚の2である。手持ちの金を払ったり貰ったりした相手と金額を記す備忘録である。特に鍵士印の人は親しく頻繁に貸し借りしていた。貸しは出金、借りは入金である。貨幣では1分、2朱の貨幣が主に使用された事がわかる。嘉永6、7年もあるが同様にて省略する。

●#674. 萬覚和帳 壱 梅花錠四匁、まんちう買入れ申候
美濃国加茂郡鷹巣村の田中崇三郎が1852年=嘉永5年に細かい支出を記した覚である。商品は食品がほとんどで一部不明のものがある、まんちうを大変好んだ。また美濃大垣醉月堂製の梅花錠という万能薬を買っていた。

●#673. 京土屋仲ケ間文書 四 文化四年此仁在所へ参られ其年より出銭は不出候
京都の土屋仲間の文書の4回目。組合の構成員38名の名前と住所、加入の式目とその費用、組合からの脱退の記載を集めた。住所は京都中でも分散せず集中した場所に住んでいた。加入時の金は当然で後京都町奉行への冥加金、八朔御礼などの時の出銭を要した。役として大仲という組合長が居る。1770年より1833年の63年の間に18/38=47%の人が脱退または半役(出銭半分)になっていた、新加入は別紙記入らしく不明。相続した者は特に記載していない。これにて土屋仲間の文書は仕舞である。

●#672. 京土屋仲ケ間文書 三 被相定候値段より格別高下無之様商ひ致可申義は勿論
京都の土屋仲間の文書の3回目。1770年土屋の同業組合ができた44年後、1814年=文化11年に再び新しい規定を京都町奉行へ提出した。業者同士の価額競争で格別に安値になるのを避けたい。価額競争は組合で管理、監視する。しかし現実は価額下競争は行われた、その時落札した業者は落札価額の1割を競争相手に渡す事と規定した。また名貸しで手下の人夫が実質仕事をするのを禁止する、組合人になるための費用が組合に入らないからね。なかなか土屋組合も大変である。

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●#671. 京土屋仲ケ間文書 弐 下値に売渡候義仕間敷 仲ケ間同様之値段に商ひ仕候事
京都の土屋仲間の文書の2回目。1770年土屋の同業組合の内部規定である。他の同業者の持つ得意の客を安値でつって得意先を奪わない事。同業者以外の者(素人)に仕事に参入させない事。以上のことが大変重要であったとわかる。両京都町奉行へ季節の贈り物をして認可を受けているので、素人(非組合人)の参入に対しては奉行の取締がよく効いたことであろう。

●#670. 京土屋仲ケ間文書 壱 乍恐口上書土商売人渡世為取締
京都の土屋仲間の文書。ここは1770年=明和7年に同業組合を作ってその組合が両奉行(京都東町奉行、京都西町奉行)に冥加金、年頭御礼、八朔御礼をする、そして組合の構成員の帳面を差上げる。それは奉行に承認された。ついては今後組合に背く者があればその承認を取り消すと書く。土屋とは山の持主へ金を払い、山をきれいに清山し、雇った人足に山の土砂を得意先へ運搬させる、以上の商売である。京都や江戸の都会の庭園などや土壁のために必要だったと思われる。京都では寺院が主な得意先であった。雇いの人足は堕弱者で狡賢く土を減らして運搬したことが書かれる。

●#669. 無是非御断得御意候 此上各々様方御思召次第御尤に奉存候
大和国葛上郡古瀬村の庄屋小左衛門より総代、大和国高市郡醍醐村の大庄屋森村庄左衛門への手紙。近隣の村の会合で小左衛門がある願書を出した。しかしこれは小左衛門帰宅後の会談で却下となった。これにつき自分はこの件は暫く控えて意見は申さず総代の皆様の決定に従いますという内容である。小左衛門の古瀬村は幕府奈良奉行の支配。庄左衛門の醍醐村は大和高取藩主植村氏の支配地、他大和郡山藩支配地もあってこれらは「他国」である。古瀬村庄屋小左衛門の文書は検索で出る。

●#668. 沓之義御申越則申付置候 明十五日早朝出来候
桜井雅楽より大演刑見への返事の手紙。帰山した所ですが沓(靴)の事申付ました。明朝出来ます。別の御ふた物も冬中に出来ますので御安心下さい。「帰山」とは寺に帰ることである、大演はこの寺の高僧に違いない。「帰山」は醍醐寺慈心院の文書でも使用されている。桜井雅楽はおそらく寺に駐在の武士であろう。そして別に御用係に雑用を依頼していることが判る。

●#667. 具足師岩井与左衛門文書 弐 芝増上寺で歴代将軍様御具足の御餝附に御座候
江戸在住の幕府の具足師岩井与左衛門が1861年8月9日に歴代徳川将軍の具足の餝付をした時の記録である。これは芝増上寺なので2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶の5名の具足ですべて芝増上寺に墓がある将軍たちである。当日の増上寺の大僧正の衣装が細かく書かれる。また秀忠の具足が実戦で使用された鉄砲疵があると記す。この行事の詳細についてはウェブ検索ではわからなかった。幕末の徳川将軍周辺や増上寺の行事が書かれた本が閲覧できれば確認できると思う。現在徳川将軍の具足はすべて久能山東照宮(静岡市)が所蔵しているようだ。下の#666は同時に入手したもので同じ筆跡である。

●#666. 具足師岩井与左衛門文書 壱 桜田門外の変後 襲撃旧水戸藩士七名の死罪評定
江戸在住の幕府の具足師岩井与左衛門が殿中で見聞した事を書写して保存した文章である。桜田門外の変は1860年3月3日旧水戸藩士ら17名が大老井伊直弼と彦根藩士を襲撃し殺傷した事件である。襲撃した旧水戸藩士中生存の7名は1861年7月26日に斬首された。だがその決定が如何に成されたかの資料は広く知られてはいない。この文書は襲撃した旧水戸藩士7名の死罪と1名の追放が7月26日の同じ日付で評定所五名の連名で成された事を示す。明治維新後水戸の勤皇家を死罪と判定した幕府の役人やその子孫は当然その事実や先祖の名前を公表はしない。また関東大震災、東京大空襲もあったためか、この文書に相似のものはネット検索では出ない。この文書は幕府のお抱え具足師の筆で概ね正しい記述である。ただ少し誤記もあり他の関連文書もないので厳密に正確な事実か否かは不明である。岩井与左衛門については上の#667に記載。

●#665. 京都下京、東本願寺と西本願寺の間で袈裟や僧衣を扱う店の102年間の資産帳の記録
京都下京、東本願寺と西本願寺の間で袈裟や僧衣を扱っていた店の1683年より1784年の102年間の資産帳の記録である。主人は五代に渡る。特に2代目の商品と交際人が興味深い。資産を50貫(金833両)に増やした3代目はやり手だったが記載は短い。4代目以降は浄土真宗門徒に広く金を貸していた。商店の名や正確な住所はわからない。数字の暗号は102年間ほぼ変わらず使われた。

●#664. 為御廻向料金百疋受納仕候
寺の住持が回向料などを受け取った事の返事の手紙。宛名などは切れている。

●#663. 為御祝儀嘉肴華燭被饋下忝存候
折帳に書かれた短報の文2つ。#633と同じ筆者で漢字に癖がある。難解の字もあるが大意は間違いない。

●#662. 籬ににほふしらきくに 初霜の何れをはなとわきかね
幕末頃の女性が書いた短い手紙文。「心」の形が独特である。他の字は大変読みやすい。

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●#661. 亥の日にて此もちゐ一重いわひまいらせ候
幕末頃の女性が書いた散し書きの玄猪の御祝儀の手紙。読む順は右から左へ大きい字、右下、右上、上を左へ、下中、下左である。

●#660. あやめの御祝儀として 見事の一色おくりくだされ
幕末頃の女性が書いた散し書きのあやめの御祝儀の御礼のあいさつ。字は大変読みやすい。読む順は右から左へ大きい字、右下、右上、上を左へ、下中、下左で一般的である。難物の字の解読に苦労している時こういう字を見るとほっとする。

●#659. みなみな様御さかんに御年かさねられて 御にきにきしく御いわひ被成候
幕末頃の女性が書いた散し書きの新春のあいさつ。字は大変読みやすい。女筆特有の略字「られ」がある。これは「女筆」の「尾張藩主の受けた手紙」にもみえる。読む順は右から左へ大きい字、右下、右上、上を左へ、下中、下左で一般的である。

●#658. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 六 二条新地おやまに落込借金出来欠落
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。屋敷役人の交代の記録の部分を提示する。御奉行は御留主居役で2名である、1年勤めて金沢へ帰国した。ただ田辺九兵衛は京都詰人とされる程頻繁に奉行に任命された。1835年より1842年まで7年間は藩財政の悪化より1名となった。これをもって京都加賀藩屋敷の文書は終了である。

●#657. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 五 一統無是非三ケ年之間壱割引致候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1833年=天保4年は国元により加賀藩京都屋敷勤務の全員が給料1割減になった事を記す。1835年=天保6年は加賀藩京都屋敷の筆頭役の奉行は従来2名であったのが1名になった。こうした事情は藩の財政が逼迫したために違いない。以上で 千丸屋作兵衛8代目の記録は終了である。1817年より1848年の31年間の永きに御用人を勤めて次代に継いだ。次代は1852年までの4年間加賀藩京都屋敷の役職方の記録のみおこなった。

●#656. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 四 御隠居肥前守様御病気より御逝去被為在候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1824年(文政7年)6月20日加賀の国元より肥前守様(前藩主前田斉広)がはしかの余毒の診断で国の医師処方の薬を飲んでいるが効果がない。京都の名医荻野徳輿に来てもらってほしいと京都加賀藩屋敷に飛脚便が入った。荻野氏は丁重に断った、相談が進み医師竹中文啓が7月1日に金沢へ向けて出発した。国元ではやはり御典医の荻野氏にと再度要望、公家の鷹司氏と相談するが荻野氏はならず代りに御典医の福井氏が7月15日に出発する事となった。一方竹中氏は7月6日に金沢に到着。診察して脚気(かっけ)の診断であった。竹中氏の処方も甲斐なく7月12日前田斉広は死去した。脚気は神経障害で歩行不能になり心停止(衝心脚気)を来し昭和初期まで国民を大変苦しめた病であり、ビタミンB1欠乏症である。ここの3名の医師はすべて検索で名が出たが、特に荻野氏は有名な医師であった。竹中氏は35名で金沢へ下った。

●#655. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 三 白銀五枚作兵衛儀御屋鋪日用方御用大切相心得勤候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1824年(文政7年)加賀の国元よりお達しがあった。作兵衛が京都御屋鋪の日用雑用と江戸直便を倦怠なく勤めたので毎年白銀(丁銀)5枚の褒美と決まった。金で3両位である。決定は長甲斐守(3.3万石、加賀藩の財政の長)が下した。

●#654. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 弐 御国表何事に不限諸事厳敷御省略に被成候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1823年(文政6年)加賀の国元より何事も厳しくするように達しがあった。三度飛脚で不首尾があり役人の遠慮があった。荷物の封印や目方も厳しくなる。京屋敷の1人も役御免で即刻帰国した。

●#653. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 壱 御所女御様若宮様御降誕 御使者御上京
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。これまで記載済の7代目の養子である。1817年より1848年の31年間であるが記事は少ない、字はかっちりして読み易い。1820年(文政3年)仁孝天皇(1800-1846)の男子(安仁親王)を女御鷹司繋子が出産した時に加賀藩より使者が上京。その次第を書いている。なお安仁親王は翌年死去された。京都加賀藩邸の奉行はたいていは2名いた、ここは九津見氏と村田氏。

●#652. つくね大工仕事まめ人しん生か竹の皮に御座候
江戸時代京都の人が書いた日常の小さな出費の書附。不明のものもあるが大体はわかる。#635を書いたのと同じ人である。

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●#651. 椹木着場処御尋被成承知致候 右丸太之分は拙宅へ向け御遣し可申候
伏見材木屋長嶋屋治兵衛がある有力な材木商に出す手紙で没になった原稿。次兵衛の所に近々入る椹丸太に対し問合せの手紙への返事である。丸太は伏見へ榑木は京都下鴨に入る。椹はまだ尾張にある。この椹は木曽から切り出した貴重な丸太に違いない。あなたがこれまで等閑にしていたのであなたが入手できなくてもどうしようもないと書く。この椹は#469、#473に記載があるもので確かに各所から問合せがあるものであった。文章は大変丁寧なので上位の人に違いない。

●#650. 旱魃にて時之水掛論を生じ 殆現今は修羅道日夜痛歎在候
肥前国西松浦郡原屋敷村の大福寺に住む高志賢一より兵庫県揖東郡阿曽村の長谷川繁治への手紙。自分は軽い病気で入院し御無音でした。今年は旱魃で農民の水掛け論で争いが絶えません。世間は景況です。夏は過去40年来の高温でした。以上の内容である。高志賢一は阿曽村近辺の出身だろう。封筒の日付より明治21年のものである。用語が大変勉強になった。

●#649. 三つ具足委細仰被遣被下候 忝承知仕候
美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛より親友茂助への手紙の原稿。仏事に使う三具足を茂助に頼んで調達してもらった。大きな仏事を行うらしく表具物を作ることも書かれる。#460は関連の文章である、#582には茂助の事が記載。

●#648. あめの魚弐本四百文 くらげ壱枚三拾八文に御座候
安藤七兵衛店伊左衛門から奥田甚兵衛への覚。あめの魚、くらげ、白はし、こんにゃく、刻みかまぼこ、なしを売った。なしは今年不足で高値であると書く。また長浜の甚蔵に頼んだのはあめの魚の調達だと思う。地名の長浜と琵琶鱒(あめの魚)があるので場所は近江(滋賀県)に違いない。

●#647. 割木十七束御遣し候へ共 余り小まかく雑木にて不宜
割木17束到着したがあまりに細かく不宣(よろしからず)、取替で別のを送ってほしい。着くのは夜にならないように頼みます。以上の内容の手紙である。

●#646. 御婚礼の御儀式残所なく相調候て 幾末永き千代万世の御めてたさ
1890年=明治23年川瀬益発刊の「女学用文章」という本からの例文、5回目。婚礼に関する手紙6通である。「蓬莱の島台」が武家の婚礼の贈り物として明治中期まで使用されていたことがわかる。「五もし様」は相手のお嬢様である。「五もし様」は掲載済の#431、#224にもあり江戸-明治時代に確かに使われていた。しかし意外にも辞典、ウェブ検索にてこの意味での掲載がない。「花帰り」にも2種類の意味の解釈があった、下に記載。これにて「女学用文章」からの例文は終了である。

●#645. 幾余ともなき年浪のせき留かたく いつしか暮に成まいらせ候
1890年=明治23年川瀬益発刊の「女学用文章」という本からの例文、4回目。歳末の御祝儀と返書、年忘れに招待する手紙と返書。合計4通である。なかなか味わい深い表現が多い、武家の女性が使っていた文章である。

●#644. 雪の今朝ほと詠候へは めつらかの木毎に花の咲候やうあやしまれ候
1890年=明治23年川瀬益発刊の「女学用文章」という本からの例文、3回目。雪が降ってきれいなのであなたに和歌を詠んでほしいとの手紙と返事。餅つきに招待する手紙と返事。そして年末に餅と塩鯛を贈る手紙と返事。合計6通である。

●#643. 山々の照葉色そひ 幾しほの詠と押はかられ候
1890年=明治23年川瀬益発刊の「女学用文章」という本からの例文、2回目。紅葉見物と雨の日の面談に誘う手紙4通である。1通目は我々の見慣れない単語が多い。

●#642. 明十六日の夕さりより御影待いたし候 宵之内より御噺に御出下され候
1890年=明治23年川瀬益発刊の「女学用文章」という本からの例文。日待と月見の手紙4通。女筆は明治後期から「まいらせ候」が「候」に変り漢字が増えて男と同様の文体になってゆく。しかし漢字の割合は40%以下であるのが男との違いにて女手紙と判る。また女手紙では明治30年代から「ます」、「ました」など口語体が一部で早くも登場する。ここの本は「まいらせ候」中心の最期の頃の手紙文である。叉手日待という行事を初めて知った。叉手=さて。川瀬益は京都高等女学校習字科の教授で士族であった人、別名川瀬白巌。この本はウェブ検索で出ない稀本らしい。

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●#641. 御小児様御疱瘡被遊候儀 生涯一度之事にて人々難遁御座候
江戸時代の医療関係の手紙3通の手本書き。病気見舞、ほうそう見舞、医者改めを申出る手紙である。疱瘡(ほうそう)は小児の死亡する病気として大変恐れられていた、種痘を世界的に広めて1980年に撲滅された。

●#640. 依て例年之通り歌賃子籠鮭塩引 寔に歳暮之験迄
別の文より浜松近辺の村松氏が江戸時代幕末に書写して練習したもの2つ。歳暮の贈り物の文に歌賃=かちんと記載があり餅=かちんの語源が平安時代の能因法師の逸話が由来の元かもしれないと驚いた、下に記載。他は借金依頼の文。

●#639. 此度之御安産入用も随分手をつめ むたの無之様に被成候ても
村口甚右衛門より木地屋三右衛門への手紙断簡2通。#614と同様の署名にてこの人とわかる。また下の#638もこの人の手紙。手紙1は江戸よりの荷物の到着が延引している旨を書く。手紙2は木地屋三右衛門の若旦那の嫁お由利に男子が生れて惣領として扱わず倹約しても入用も多いだろうと書く。

●#638. 御地御一同共に御不承知に有之 此上一杯に御請を出来可申様存候
支店を任された商人村口甚右衛門が親分の木地屋三右衛門に宛てた手紙。金百疋=1分を親分に上げないで京店と宿持へ置くと書く。また「百丸才之儀」は旦那や別家が不承知との事で今後要望を請けられるようにといわれる。しかし旦那には御心痛で自分もなさけないと書く。商売はうまく行っていないのが明白な手紙である。木地屋とは木を轆轤(ろくろ)で廻しながら削り容器を作る人や店を指すが、ここの商売が何かは不明である。

●#637. 衣類并諸色目録にて御座候 振袖、袷、単物、帷子等
1852年=嘉永5年ある人が所持の着物の布地や色を書き記したもので、他には身辺の道具、家具も書いている。打掛(襠)、綿入、振袖、袷、単物、帷子、帯、襦袢、すそよけ、湯具、前垂、足袋、帛紗(ふくさ)、風呂敷、ふとんと様々。色も利休茶、花色、納戸色、柳色、樺色など。秋田織、結城、近江、越後、大和、江戸青梅の各産地。難しい語も多かったが大体解明できたと思う。江戸時代の衣服、家具の呼び名につき大変勉強になった。

●#636. 金沢之兼六公園見物の上粟原温泉にて出懸 頗る愉快を感し申上候
ある人が1919年=大正8年に姉に出した手紙。手紙から感じるのは「そうろう文」であり、現代よりも江戸時代の手紙にずっと近いという事である。調べると明治の人も談話語として「ます、あり」を学んでいた。一方作文や手紙は明治は当然として昭和7年になっても「そうろう」が主流であった。1942年=昭和17年頃の手紙を「明治以後」のページの福田素雪に掲載しているが、ここでは「候」と「です、ます」が半々で使われており興味深い。大戦後になると作文もすべて「口語文」「です、ます、あり」などに変わって行った、また憲法の文も完全に一新した。

●#635. 炭醤油酒たこ昆布竹の子木瓜なす入歯剃髪ふろなどに御座候
江戸時代京都の人が書いた日常の小さな出費の書附。炭、たこ、昆布、ゆば、麩、たけのこ、なす、きゅうり、味噌、酒。醤油は味がないので取替させた。ふろ代、剃髪。入歯1枚2匁は検索で出ないものである。炭の値段よりおおよそ金1両=銀61.5匁、銀1匁=銭88.9文前後であった。

●#634. 茨曽根より十七村え相掛御訴申上候
越後国蒲原郡三条の須田勝十郎から同郡蔵主村の下級武士須田元七への手紙。断簡であるが茨曽根村から近隣の17村に掛る訴えの願書提出が近々の内にあるようだ。「堤」の字が見え茨曽根村は中ノ口川沿岸なので堤の工事の費用に関することのようだ。ここの隣の新飯田村は江戸時代堤防が頻繁に決壊していた。三条、蔵主、茨曽根、新飯田はすべて蒲原郡で近所である。

●#633. 乍例大酔意不存 何等之失敬仕候哉今更恐入申候
長期に解読できなかったが最近やっとできた。総合的に書式に癖がある人だと思う。「酔」がわかって全文が解けた。

●#632. 新春之御慶賀重畳申籠候畢 抑子日御会難忘存候 風月往来弐
これは別の人が書写した風月往来から2報の手紙。子日祝言は「江戸後期II」豊岡尚資に和歌を掲載している。これで合計12通の風月往来の手紙の内6通の前半部分を学習したことになる。後半は私は所持していない。

栞630 

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●#631. 良久不懸御目候 不審無極候 抑依宿願之子細候 風月往来壱
折帳に書かれたやや古い型の手紙4通。武家同士のものである。後に判明したが「風月往来」という本の一節であった。

●#630. 断簡八報 扨心外之御不沙汰御用捨可被下候
すべて屏風の中張りなどに使われた断簡8報である。最後2報は女筆。これらも想像しながら読む楽しさがあり、案外捨てた物でもない。

●#629. 布壱反五匁 金銀の両替は七一弐にて御座候
京甚より北前船の大家屋与市に布1反を銀5匁で売った覚。記載内容、つりの計算より交換率を計算した。金1両は銀71.2匁、銀1匁は銭93.8文と標準的であった。やや銀が弱いので幕末に近い頃である。金1両=銭6679文で金が強くやはり幕末に合う。「甚」と「忠」は人名によく使われ似ている。京甚は当初金2朱を7.9匁と書いたが、訂正して8.9匁と正した。しくじり行為は深層心理を表していたか?

●#628. くるしみ居申候 もはやぜつたいせつめひ之帰国に相成申候
武士がある事件を任された。諸方吟味したが苦しみ絶対絶命である、私も帰国するので出立すると書く。断簡で詳細不明ながら重い任務を負わされたようである。もしかしたら幕末の幕府側の武士で鳥羽伏見の戦いで敗戦後の始末を任されたが困難で自分も早々帰国したいのではないだろうか。かなが好きな武士である。

●#627. 此たびうこん様御上りあそはし ほかよりあそはし候て
懇意の女性より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。下の方は剥がれて読みにくい。「あそはし」が多用される面白い手紙である。

●#626. 天保12年の出羽久保田藩御役料御合力覚
出羽久保田藩(秋田藩)の家老以下の役職の給料が詳述された資料。1841年=天保12年に書かれたもので1796年(寛政8年)に書残されたものに1804年(文化元年)に一部変更が加えられた物を筆写したと書かれている。よって1796年以前に制定され幕末まで同様に続いた制度に違いない。20万石の外様の大藩のもので貴重な資料と思う。

●#625. 末吉様御たのみて下され候 おまいさま方よりほかにわはなしもなし
伊三郎の妻より坂本はるへの手紙。息子と思われる信次郎がそちらの末吉に話をしに行く。それをどうか聞いてやってくれと何度も書く。それは借金で抵当の家が取られるのを相手が先延ばしにしてくれる。そこではるの旦那末吉に金の工面を依頼しに行くのだと思う。明治の初期の手紙だろう。伊三郎の妻と坂本はるは姉妹と思われる。追伸にかき餅を送って欲しいと書いている。朴訥な手紙だけに印象に残るもので現代まで廃棄されずに残った。

●#624. 大釜壱つなから孫右衛門舟に積送り候 御請取可被下候 
ますや九郎が美濃国羽栗郡竹ケ鼻村飴屋七兵衛に出した送り状。修理したと思われる大釜1つを「なから孫右衛門の舟」でそちらに送ったので着いたら入手して80文払ってほしいと書く。また太七屋に26文を渡すように書く。竹ケ鼻村は長良川沿岸にあり、「なから」は長良川での運送舟の意味であろう。釜は飴作りのために餅米を炊くのに使用する。ますや九郎は名古屋伝馬町の人らしい。ここにも右から下のしんにゅうに降りる「通」がある(#599にも掲載)。

●#623. 寛蔵様御所持時計之義御申越 甚以寔に永々借用仕置候
明治の仕事関係の返事の手紙。病気の父への御厚志への礼、西氏への貸金の事、寛蔵から時計を借用している事への御礼などが書かれる。

●#622. 折帳の短報七報 奉公人ふつていにて迷惑仕候
かなり古い寛政以前と思われる折帳の短報と断簡である。当時の人はこのようにして書字を学習した。

栞620 

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●#621. 魚 壱匁弐分八厘大いな四つ 壱匁九分六厘もうを四つ
庄右衛門が美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛に出した魚の請求書2通。計算は合っている。平目3本は書いた後線で消している。他各項目に「何々御代」と書くが意味が不明。「もうを」だけが長い間判らなかった。1700年代現岐阜羽島辺の人が食した魚である。

●#620. 椹三五大作屋へ早速掛合候趣 最早右椹は大家屋へ売附申候様申居候
北前船で出張の手下からオーナーへの文書である。椹、杉の材木のことなどが書かれる。なかなか商売もうまく行っていないようだ。#473にも椹の材木の事が書かれる。

●#619. 献立 煎酒茶巾ゆばひりやうすすたれふ黒かはたけ
幕末にもてなし料理の献立を書いたもの。青色の字は不明なものでかなりある、中には読みが異なるものは当然あるだろう。当時のもてなし料理の食材、加工の食品などがよくわかる。小麦や大豆が蛋白質の源である。

●#618. 京都洛外散し書き 清水寺稲荷山鳥羽小塩山鞍馬寺岩倉大原
佐野つねさんが書いた長い散し書き。京都の洛外を東の清水寺から南へ東福寺、そして右回りに南西北、最後に北東の大原と地名を書く。1続きで区切りが不明、入手当初は読解力も弱く放置していた。最近見ると折帳5-6行分で1ブロックであった、そして合計8ブロック。この位の幅が書き易く読み易いわけである。大きい字を右から左へ読んで右下へそして上の小さい字を読む、さらに次ブロックに続く。大変読む調子がよいので声に出して読むとよい。私は京都に13年間住んでいたが懐かしい良い思い出ばかり。48年前の祇園祭り、宵山の四条通りの雑踏をある女性と歩いたことをまざまざと思い出す。

●#617. 右様御構被下候ては甚痛入仕合に奉存候
高田氏より宇山氏への手紙。先日御馳走を沢山いただいたことへのお礼、さらに一酒御馳走になり尚更恐縮したと書く。まず高田氏は宇山氏よりも上位の人に違いない。明治の手紙だが「御構」など単語や漢字の使い方が大変勉強になった。場所は淡路島に近い所である。

●#616. 登金仕候筈御座候得共 操合もの御座候付乍存延引相成候
安芸辺りに出店の商人が主人に出した手紙。登金の催促に芸州様への仕入があって延引になる旨や経営の知恵を教えられて有難い事が述べられる。「乍」が好きな人である。断簡で字は難読、関連文書もないので理解が困難な箇所あり。

●#615. 雪吹強道踏迷罷越候処 凌兼息切其侭倒れ相果候か又野狐共之所為か
辛未=1811年=文化8年に因幡国気多郡志加奴村庄屋栄助が郡役人に出した報告書。近在の村から新年に挨拶と講金を集めに来た式村伝兵衛が1月4日鳥取へ出た後行方不明になった。1月13日より探したが不明。2月9日に雪解けで伝兵衛の死骸がみつかった。外傷がなく持物に問題がないので、吹雪の中に行き倒れになったのだろうと郡役人に書いている。

●#614. 追申上候然し家内にも能く御挨拶被下忝奉存候
村口甚右衛門より木地屋三右衛門への手紙断簡2通。1通目は何か注意事項を聞かされたことを承知し、後で一門で相談します、御心配を懸けましたとの内容。2通目は如才なくやっているが入用の出費が多く恥かしい思いであると書く。

●#613. 壱玉銀八匁五分割 壱玉銀拾匁 半玉銀四匁五分にて御座候
たひ之や孫七より柏木末吉への覚。4回分の合計は合っている。さて割壱玉、壱玉、半玉とは芸娼妓への玉代の割前に違いないと思う。半玉は半分の値段である。銀31匁に対し銀99匁を渡した。よって抱え主に銀68匁を入置する。大尽であると見せることが優雅に芸者と遊ぶために有利なのだろうと思う。同じ壱玉でも銀8.5匁と銀10匁と値段が少し異なっている。場所は千日前と読めるようなのでそこの料亭などに芸者が派遣された、大坂ではないか。これは江戸時代の玉代の覚で貴重と思う。柏木末吉の詳細は他の文書はなく不明。

●#612. 年号より利足銀積立仕候はば 元利共何貫何百目に相成恐聞候
1820年=文政3年に庄屋が支配の奉行に出す文書の雛形として保存されたものである。配下の百姓が年貢に困って銀1貫借用した。抵当は「証拠物」とされ田畑屋鋪等が記入される。年限までは利足は払っていた。しかし1年前に年限が切れてから何かと理由を付けて支払いを延期している。それにつき召し出してどうするのか問い正して欲しい。このまま放置すると元利とも嵩が増えて立ち行かなくなる。当然証文には庄屋や年寄も署名、印をしていたので迷惑になるわけである。字はやや難解な箇所があるが以上の内容である。

栞610 

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●#611. 愚父相果候節 遠方之所御出被下忝奉存候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門より若林権右衛門への手紙。久左衛門の父が死去したお悔やみに遠方より来てもらった事への略義の礼状。おそらくこれは写として保存して置いたものだと思う。

●#610. 改年之御慶不可有際限御座候
五十川七五郎より大和国高市郡醍醐村の庄屋森村庄左衛門への手紙。新年の挨拶の典型的なものである。醍醐村は現奈良県橿原市醍醐町で 大和高取藩の支配である。森村庄左衛門は近辺10村余りの長で大庄屋であった。五十川七五郎は大坂の中井竹山の学問所、懐徳堂の塾生かもしれない。

●#609. 裾除け布七尺四寸 柳に松模様葡萄鼠 壱貫八百文
近江国神崎郡小川村の澤織より同河南村の善太郎への衣類3点の覚である。葡萄鼠色で柄が入っている裾除け、別に布3切れと琥珀色の男帯である。合計で銭3430文である。

●#608. 有りの実頂戴仕候 誠に此せつは弥敷品にて千万難有存候
万田源四郎より信濃国安曇郡松川村の庄屋一柳七郎右衛門への手紙。忰の疱瘡見舞に梨の実を贈ってもらった事への御礼である。疱瘡も軽く済んだと書く。江戸時代文化年頃の手紙で信濃の庄屋の関係者が梨の実を「有りの実」と書いているのが興味深い。#378にも万田源四郎の手紙がある。

●#607. 枝郷五ケ所村庄屋年寄銀打かけ被申 何角と我侭計被申迷惑至極
大和国葛下郡下田村の百姓、年寄ら21人が支配の大和郡山藩の奉行に提出した書。隣村の五ケ所村の庄屋、年寄が銀が欠乏したと下田村に言ってきた。下田村ではそれを請けなかった。我侭ばかり言うので迷惑至極である。奉行の方々は五ケ所村の村三役を召し出して吟味し、同村入用費用の百姓達での負担を以後下田村の面々の立会いで行ってほしい。新規の割銀(不足の補充の銀)を簡単に行わず古い例に倣って命じてほしい。隣村同士であるが天保国絵図には五ケ所村の横に「下田村枝郷」と記されており経済面では下田村が共同負担など深く関与していたようだ。五ケ所村の欠乏銀を下田村の百姓が分担させられようとしており、まさに不満、紛争が起こったわけである。枝郷と天保国絵図の字が読めて今後の参考になる。

●#606. 飴かす壱俵外三斗弐升五合 銀壱匁にて御渡し申候
美濃国竹ケ鼻村の飴屋(まつ屋)七右衛門が飴粕を嘉右衛門に売った覚である。蒸したもち米に麦芽(でんぷん分解酵素)を加え置くとブドウ糖や麦芽糖が増える。それを漉して液体を煮詰めると水飴になる。残りの固形成分が飴粕(あめかす)である、これは江戸時代に肥料に用いられた。後には鶏の飼料にもなった。嘉右衛門の美濃国中嶋郡石田村は竹ケ鼻村に近い。

●#605. 戌年稲刈覚 三百三拾抱 ふけ田
美作国西北条郡井村庄屋専助がおそらく戌年=1766年=明和3年に記した稲刈覚。つまり稲刈りの直後に刈った稲の束の量を記載しておくものである。刈った稲が盗まれた時の参考のために記録した。単位は「抱」で両手と胸で抱えた量を「1抱」とし、「束」と同じと思われる。稲刈覚の文書はネット検索で少ししか出ず、特に西日本のものが出ない。ここの「四」は丸め込まない独特な形である。

●#604. さば三本送り候間御入手被下度候らへば 難有そんしまいらせ候
茶乃内からはせ川氏への手紙。身内同士の手紙。貴方が上京から機嫌よく帰りよかった事、さば3本送ること、自分の家に「住み」か「澄み」になったらお越しください。長谷川氏は兵庫県揖東郡阿曽村の人。もじをもふし(じ)と書く地方であると思う。

●#603. 村方一同示談仕候間 隔年庄屋之儀御慈悲に取縋り依て奉願上候
大和国葛下郡五ケ所村の組頭の百姓らより代官への要望書。支配者は大和郡山藩である。昨年まで不作で取押(抵当にして借金)が多かった。今年も日照りの不作で御救米も考慮される。しかしこれ以上の抵当入は避けたく清算したい。庄屋の給米を3石から2.4石に、年寄の給米は5斗から4斗にする。そして年7斗づつ村の余分に保存する。また先祖の仕来りの通りにして藤兵衛殿と善四郎殿の隔年の庄屋にしてほしい。現庄屋の藤兵衛殿に話したが「何の理由であるか」と不承知であった。それが村方の為に良いと一同で示談した事でありこのままでは治まりません。どうか御憐愍で隔年庄屋にして下さい。御慈悲に取りすがりお願い致します。この代官への歎願は通った。この後善四郎さんは庄屋、また大庄屋も務め、住民の信任が厚かった、そして維新後もこの文書を保持した。江戸時代は百姓の組頭以下が示談して庄屋を飛ばして代官や奉行に直接に合意事項を伝える事が普通にあったことがわかる。縋、「すがる」という漢字を初めて知った。葛下郡五ケ所村は現奈良県香芝市五ケ所。

●#602. 世忰庄十郎義御宅え致伺公 種々御馳走相成忝存候
酒井彦左衛門から一柳七郎右衛門への手紙。先日世忰が御馳走になったこと、無尽講加入の依頼をしたが承知されありがたかったこと、講の会合を開く時は案内状を出すこと。何かが様子よく出来上ってうれしいこと。以上が書かれる。

栞600 

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●#601. 太子に御立無候ては 御立銀等も無も有候
ある僧(東寺か)から上醍醐寺慈心院の僧への手紙。遠方へ御移法すること、立太子は無ければ贈り物の銀はないこと。そして御所の事では春宮様との事が最重要であると書く。

●#600. なにぶんまわりかね五十銭だけ 今日おんかへりそふろふ
姫路のしなから播磨国阿曽村の長谷川おかしへの8月3日の手紙。先日の借金の内50銭だけ有り合わせ金として弁済する、残りは8月10日までにはかならず返すとの内容である。大変丁寧な手紙で時候から終りの挨拶、追伸まで訂正もなくきれいに書いている。相手は実家の母ではないかと思う。明治に入ってまもなくの女筆。

●#599. 昨廿四日芸州より山口え之 早打往還筋通行致候
周防の山陽道沿で高森よりやや西にある宿場から奉行への報告の書附である。24日に安芸(芸州)から馬で山口へ急便が通った。また岩国藩士の後藤源蔵が23日夕方下関へ行った、帰りは24日早駕籠であったが延引し夕方に高森に帰った。別の今尾為蔵が早船(二挺立)で(岩国へ)帰った。おそらくこれは1864年か1866年の長州征伐に関連した急報ではないかと思う。

●#598. 旅立之儀時分能候間 近々何日頃存立発足仕度候
手紙手本を書写して練習したものである。一緒に旅行に行くに付いての事項を書いている。特に荷物はよい人を雇って依頼してはどうかとする。字はきれいである。

●#597. けふは禁裡より将軍家へきせ綿を下され 御酒宴ありとは
むら女さんが書いた長い散らし書である。重陽の九月九日の節句のお祝いを貰ったことに対する感謝と来訪を乞い語り合いましょうという返書である。菊の着せ綿とはなんとも優雅な行事である。七夕もそうだけど節句を祝うのは気持ちがよいね。散し書きは大きな字から右から左へ読む、そして左から右へ戻る時に文の続き具合と字の大きさを考えて読む。「うれしく」は#382に解説。

●#596. 小紋柄一反四拾三匁 五三桐紋付にて御座候 大丸屋
大丸店甚助より松平様内茂助への覚。商品は小紋柄の1反の着物である。相当古い紙で解読難である。菊印に雪の代り紋がある女性の着物である。そして依頼者の希望にて見本70番の通りに前後4箇所に五三の桐の紋が入る。値段は銀43匁と高いので絹であろう。柄の着物に家紋が付くのはやや珍しいと思うが1700年代以前は普通であったかもしれない。一部未解読あり。この大丸屋は京都であろうと思う。

●#595. 此度は御焼香御布施物如例被相渡候 大慶候
仲間の僧から上醍醐寺慈心院延順への手紙と思われる。例のように行事の御焼香、御布施と留書に参られて終り大慶です、お参り御苦労でした。さてとよ次の事は同様に計りました、御安心下さい。とよ次は寺の雑務役のようでよく手紙に登場する。以上の内容である。

●#594. 御ほと様いよいよ御きけんよろしく御くらしあそはし候
女筆の手紙3通。用文集を筆写したものである。「御程様」は意外にも辞書に掲載されていないようであるが、確かに特に江戸時代1700年代によく使われている。

●#593. 助七儀両三年之所年貢米差入不申候 後麦作之儀
高橋孫四郎より庄屋の青木宣禄への手紙。助七がここ2-3年年貢米を出してなかった。米の後作に麦を作るにあたり上納分を前もって決めておくように希望している。大変恐縮している様子が文面に表れた文章である。

●#592. 御厚情のほと忝奉申候 御礼不尽痛心いたし候
他の関連の文書なく宛名もない手紙。昨日何かを発足する行事があり目録の品を貰った。その御礼を述べている。明治の終り頃のものであろうと思う。

栞590 

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●#591. 銀弐拾四匁九分三厘に金弐分入金 つりは壱朱銭と百四拾四文に御座候
大丸屋与十郎の伊沢氏へ渡した覚。「八丈」絹織物1着の値段とみられる銀24.93匁に金2分を払った。そして「つり」を記載している。下のように計算すると金1両=銀60又は61匁の仮定で銀1匁=銭100文の標準に近い値となると判明した。この文書は解読難であったが「つり」が#590、#193と同じ形と分りなんとか解読できた。有名な呉服屋大丸屋の詳細、文章を#193、#162に掲載。

●#590. つり八百七十八文にて御座候
庄一郎が美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛に渡した覚。奉賀金、からかさなどの金を徴収した。ここでの計算は金1両=銀60匁、銀1匁=銭70文であった。1780年以降銀1匁=銭100文であるのでこの書類は1750年前後らしい。大きな「つり」の字である。つりを3文少なく渡した。

●#589. 赤餅米拾弐俵 右之通御改御請取被成可被下候
佐藤文行より美濃国竹ケ鼻村松屋七右衛門への赤餅米の送り状。12俵である。1俵は4.25斗と書いてある。米は大方1俵=4斗なので同じ位である。七右衛門は飴屋七兵衛の父らしい人である。赤餅米は飴造りに用いた。蒸した餅米に麦芽(でんぷん分解酵素)を加え置くとブドウ糖や麦芽糖が増え、それを煮詰めると水飴になる。

●#588. 弐両今日此人に誂へ遣し申候 慥御請取可被下候
源十郎より美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛への手紙。新春の挨拶と金2両を使いに持参させたこと、近親の彦六の死亡が書かれる。中断は1-2行位ではないか。

●#587. 盆中御出奉待候 くれくれ御世話なから奉頼候
志路きや九郎次より美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛への手紙。何かを書き出してそれを七兵衛に認めてもらうようだ。そして集りまでに盆中に一度来るように依頼する。しろき屋は砂糖か又は晒し布の商売の人ではないか。

●#586. 松南氏用文章 五 任嘉例小鯛三拾枚進上仕候 歳暮御祝儀験迄に御座候
書家の江屏庵松南の書いた季節の文書。歳暮の御祝の手紙である。 松南氏は号珍尚できれいな印があり文人であったに違いない。字も文章も誠にきれいな草書であった。松南氏の文はこれで終りである。

●#585. 商人の短報 弐 買物之儀能便宜無御座 延引令迷惑候
商人の短い手紙を書写したもの。文章はやや古風である。「閙」と「とうがまえ」は#453に詳細に説明。

●#584. 商人の短報 壱 乍御無心吸物椀十人前 膳共御恩借
商人の短い手紙を書写したもの。きれいに写している。文章はやや古風である。

●#583. 此度大嶋類之御用等も可被仰付申候哉 何角委細御相談申上度候
ある名古屋の黒砂糖問屋から美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛への手紙。ライバルに井筒屋喜八、名古屋又兵衛がいる。あなたが年内大嶋類(黒砂糖)の樽が不足すると喜八殿から承った。喜八殿も病気でそれほど大嶋類は扱わないので私に御用を仰せ下さい。喜八殿とは仲良くやります。以上の内容である。#364に同じ筆者の手紙、#363に又兵衛の黒砂糖販売の覚がある。飴屋七兵衛はあめの商売が繁盛しており砂糖屋の取引の要請が多い。上がかすれているが青字で予想した補った。

●#582. 茂助様御留主にて相知れ不申候哉 若又代衆御届け在候哉
砂糖問屋又兵衛に近い人から美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛への手紙2通。手紙1は茂助殿は留主で行方は知らないですか、代替の人が居ることもあるかとお尋ねします。手紙2は断簡で茂助殿が昨冬帰国の時に金2両2分を砂糖問屋又兵衛に借用したらしい事が書かれ、お気の毒としている。別に又兵衛から飴屋七兵衛への宛名部分のみ示す。又兵衛は名古屋本町4丁目に住むことが知られる。#361より#364に又兵衛からの手紙や取引の文書あり。

栞580 

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●#581. 米拾三石九斗五升壱合五夕 御振出可被下候
中村庄左衛門が年末借金を米に換算して支払う。その計算書の覚。「り」、利足は月に0.01(1分)、年0.12(1割2分)の計算であった。これは1842年(天保13年)の法定利息に一致している。金1両=銀60匁は標準的で嘉永5年(1852)より以前であろう。米は銀0.683匁/升である。米1俵=4斗=金0.4両=銀24匁を標準とすると米1升は銀0.6匁である。銀0.683匁/升は標準的であるが米は金銀に対して少し強かった。

●#580. 新春之御慶賀重畳申納候
讃岐国の武士の大変丁寧な字の正月の御祝詞の手紙。相手は上司に違いない。

●#579. 松南氏用文章 四 玄猪之祝儀 重陽之祝儀
おそらく書家の江屏庵松南の書いた季節の文書で大変きれいな御家流。重陽と玄猪の御祝の手紙である。亥子餅は牡丹餅(ぼたもち)である。#419に重陽の文と説明がある。

●#578. 山惣様より鰤大壱本相登り申候 エフ札に出日限もなく
山惣に歳暮の鰤1本貰ったので礼状を書いた。これを送るから山惣に届けてほしい。手紙の相手は身内で山惣に近い所に住む。

●#577. 幕末期武蔵忍藩主松平下総守一行上京の折の伊勢陣屋での宿泊、賄の記録
松平下総守(松平忠誠)が1863年武蔵国忍藩主になり8月に幕府に京都警護役を命ぜられた。9月に孝明天皇に拝謁。当時の京都守護職は孝明天皇に信任厚い会津藩主松平容保である。京都は攘夷派、過激派、公武合体派などで騒然としていた。さて文書記録1、2は松平下総守(松平忠誠)ら忍藩の武士たちが京都の陣地(仏光寺か)に駐在し大役を果たした後1864年4月10日に江戸に帰還。その帰還の途中3月27日におそらく忍藩の大矢知陣屋(四日市)に宿泊した、そこで筆者が担当の武士に昼飯でもてなした記録である。文書記録3はその4年後維新前の緊迫した1867年(慶応3年)12月23日で松平忠誠が上洛(大坂に変更)の途中、先遣隊の武士が大矢知陣屋に宿泊した時の賄の記録である。大矢知陣屋は忍藩の伊勢の領地支配のための陣屋である。この後は将軍徳川慶喜のいた大坂に向け伊賀越えで奈良を通って入った。10万石以上の譜代大名の忍松平、桑名松平、姫路酒井は「溜詰」といわれ彦根井伊、会津松平と並び幕府の信任が極めて厚かった譜代大名である(#555参照)。「郷土忍の歴史」には幕末維新直前の忍藩周囲の様子がよく記載される。この文書に記載の佐藤江場助の日記が「郷土忍の歴史」に掲載されていて文書記録3の前後の情勢がよく理解できた。参考書:森尾玉津氏稿「郷土忍の歴史」。

●#576. 松南氏用文章 参 七夕之佳節 八朔之嘉幸目出度申収候
おそらく書家の江屏庵松南の書いた季節の文書で大変きれいな御家流。七夕と八朔の御祝詞である。七夕では素麺が贈答品である、奈良県の三輪素麺は古い歴史を持つことがわかる。七夕は#383、八朔は#417に詳しく掲載。

●#575. 旦那様わたくし一所にすまい致し候こと 心くるしきよし申され候
上醍醐寺慈心院駐在奉行岸本内記が受けた女性からの手紙。女性の境遇に関するものである。女性は一人住まいしている。「旦那」はおそらく商売で主に旅している、女性が「内」に入って一緒に暮らすことはどうかと尋ねると旦那はそれは世話や入用も多く心苦しいと言う。女性も深く思案している。後切れで残念。下半分は剥がしていて少し読みにくい。女性と岸本内記の関連は不明。

●#574. うれしき御事御仰下れ候 幾久しくねかい上まいらせ候
懇意の女性から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。屋敷に人が少なく気の毒な事です。それはやがて別れられず同居することになります。とよ次様をこちらにいるようにしていただきありがたい。母もうれしい事と言っております。私的な手紙で上が少し切れており理解が難しい点がある。

●#573. 松南氏用文章 弐 上巳之御佳儀 端午之御祝義目出度申籠候
おそらく書家の江屏庵松南の書いた季節の文書で大変きれいな御家流。上巳と端午の節句の御祝の手紙である。表現及び字が典型的であり読み易い。

●#572. 中﨟相成り候はば衆議之評定にも出席仕候
醍醐寺関連文書で上醍醐寺慈心院の住持が醍醐寺三宝院門室(すべての長)にアドバイスしているようだ。門室の下に塔頭が多くあるが中﨟(僧の階級)になれば衆議に加わり評定に参加できる。中﨟は現在真性院と宝寂院である。ここで衆議で何か決めるにつき真性院に内々話をしておくのが宜しいとする。「御往返り」とあり古い様式に返って何かをするようにしたいようだ。密乗院の称号の僧と仏乗院とが難しい人らしい。慈心院の住持は当然上﨟以上であろう。門室はこの書の1750年頃は幼少の良演であった(#241参照)。

栞570 

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●#571. 御融通之程願上候 参拾円御都合被下候はば実に難有候
大有三平より水田定八への手紙。明治のものであるが江戸時代と使用漢字が異なっている点が興味深い。官吏があなたの何か(○印)を聞き捨てすることはない、そして25円から30円融資して貰いたい。これは大有三平が官吏に依頼するための手数料かも知れない。○印とは徴兵(軍隊入)のことかもしれないと思う。残念だが他の関連の手紙はない。

●#570. 樽酒三斗三貫九百文、上酒三斗三貫六百文にて御座候
津屋から重田氏への酒の覚である。計算は合っている。3斗は30升である。1升=1.8リットル。3斗が3600文は1升120文となり江戸時代の標準的な値段である。当初「斗」を「升」と読み違えていた、字が似ている所もあり注意を要する。

●#569. 利足之儀は壱ケ月拾弐両に壱分之割合に御座候
1775年=安永4年の借用書である。薬師堂の修繕の入用の金子2分を2月から11月まで10ヶ月間借りる。利足は月に12両に1分である。村の場所は不明。このように小額の借金は付き合いですることもあった。本当に村のため要用の時円滑に借用するためである。

●#568. 松南氏用文章 壱 新春之御吉慶不可有際限御座目出度申納候
江屏庵松南という人の書いた季節の文書。大変きれいな御家流であり、松南氏はおそらく書家と思われる。正月の手紙と返事は典型的な標準的文章である。

●#567. 扨夜前夜半頃出血仕候 何卒乍御苦労御越も被下候哉
幸知小五郎より宇山医師への手紙。どこかから出血があり度々来て貰っている。昨夜と夜中にも出血があったので本日来宅をしてほしい。以上の内容である。明治の手紙である。肛門からの出血と思う。

●#566. 縄俵で〆銀八匁四分 此金弐朱と銅六十五文にて御座候
京屋嘉助より通力丸の又四郎への覚。通力丸は加賀橋立増田又右衛門の所持する北前船である。商品は縄12貫(45kg)と俵5枚である。合計銀8.4匁。交換率は金1両=銀62匁、銀1匁=銭100文と判る。これは標準的で嘉永5年(1852)より以前のものである。#101に縄の覚、#136、#372、#388に通力丸の文書あり。

●#565. 昨日の時雨けふは雪気に替り
散し書の文章。雪が降りそうな気配の所に宵になってから向うの山に煙のようにたち登るものが見える。炭を焼いて言い争っているのだろうか。以上の内容である。番号順に読む。

●#564. 四角弐十、三角弐十六、豆腐五十丁にて御座候
政田屋常一郎より湊屋ふるこやへの覚。卯年大晦日の豆腐、あぶらげ配達分の請求書である。これは丑年の古い分の請求である。「夫」は「それ」で下に配達人を記す。#79に政田屋常一郎より湊屋への同様の豆腐の請求書あり。#26に酒の配達人がやはり「夫」で掲載あり。

●#563. 油大下落にて致方なく米と替事参り候 融通方甚た不都合に候
加賀大聖寺別所屋仁右衛門から加賀橋立北前船の大家屋又右衛門への返事の手紙。仁右衛門は又右衛門の傘下で出帆中である。決算して収益金を渡すよう使いを出すといわれたが今は難しい。油を売っていたが値が大下落して米と交換した。米を売るがこの損は補えず困った。そこで新茶を買入れようとするも手持ちの銀がなくなって難儀している。決算は当面利足分のみ払うことで願います。なお金1両=69匁の所に裸手形で69.5匁にてすぐにお渡しできますので金を渡してもらえれば差上げます。以上北前船での商売がうまく行っていないという手紙である、この裸手形は大丈夫なのだろうか。大聖寺と橋立は同じ加賀南部で近い距離。

●#562. 唐船漂流に玄海灘、響灘にて小倉筑前長門船立行列砲撃す
柳営秘鑑第9巻を筆写したものである。内容は徳川吉宗が将軍に就任した1716年の翌年1717年(享保2年)に下知した。小倉藩主小笠原忠雄に筑前、長門と協力して玄界灘-響灘に出没する清国の唐船を追い払うようにとのものである。幕府から目付渡辺外記が派遣された。この時唐船は幕府に貿易を制限されていたので密貿易のためこの海域に来ていた。そして1718年(享保3年)4月15日小倉、筑前、長門の諸士たちは唐船に500発以上の砲撃を加え数人の唐人を殺し、帆を焼失させ撤退させた。当初の下知状には砲撃は記載は無かったが、事後徳川吉宗や幕臣は満足した旨が書かれる。そして唐船の漂流は以後激減した。この事件の詳細は柳営秘鑑(1743年刊、柳営とは幕府の事)に記されて後世に伝わったのである。外国船撃退の実際であり多くの諸士の名と船行列の実際が詳細に記されているがここでは省略した。興味ある向には早稲田大学所蔵、「柳営秘鑑」の閲覧を乞う。長州はこの成功を手本に幕末(1864年)米国船やフランス船に攻撃を加えたが後に4国(オランダ、イギリスが参加)と戦争して破れ彦島の砲台は破壊占領され痛い目にあった。当然唐船は非武装であったからうまくいったが、正面から武装した西洋諸国と渡り合うと敗退したわけである。

栞560 

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●#561. 断簡三報 長京様之御手伝に誰成共壱人差遣候 呉々御休意可被下候
断簡3報である。1は長京様の手伝いに1人自分の店から遣しますとの手紙。他2つも同じ人の別の手紙である。

●#560. 当地名染中へ相頼候処 季時過候故宜敷方無候
染めものを依頼されたがそれにつき返事の手紙である。当地の名染中へ依頼したが季節が過ぎてしまったのでよい方法がない。あなたの依頼なので手抜かりなく探したが困りました。以上の内容である。青字は予想で書いた所。

●#559. 通ひ帳と本帳と引合申候処 通之表に相違御座候
玉兵衛より木地屋三右衛門への手紙。通い帳とこちらの本帳に相違がある。値段引も商品それぞれに行っているが石数の違いのようだ。そちらでも御入帳を引合せ下さい。以上の内容である。

●#558. 大工甚五郎 銀百廿九匁受取
大工甚五郎より誰かへの計算書である。〆高に対し相手より入金があったので書いた。差引の計算は合っている。

●#557. 御内々にて万端御取扱可申候
晴蔵より木地屋三右衛門への手紙。何かを内々に取扱ように特にあなたの店の表には知らせないようにとの内容である。木地屋とは木を轆轤(ろくろ)で廻しながら削り蓋や容器を作る人や店。脇付「参人申給へ」が比較的読み易い。

●#556. 徳川吉宗の日光社参1728年 その弐 行列馬上三十騎鑓六拾本鉄炮六拾挺
柳営秘鑑9巻を書写したもの。徳川吉宗が日光社参に出る時の行列の順番が詳細に書かれている。4月13日午前0時(子刻)に秋元但馬守が出発、同午前10時(巳刻)最後尾松平右京太夫が出発。なんと10時間差の大行列。鑓や鉄炮、弓など武器、挟箱や蒲団、薬箱など供奉者13.3万人、徴発された人足22.8万人、馬32万頭という莫大な数の人馬を要した。将軍の日光社参は65年振りであった。記載の人物は下に概略を記した。諏訪部文右衛門定軌の子は諏訪部文九郎堅雄で南部馬を岩手から江戸に首尾よく運んだ、古文書#11に記載あり。この記録を読んで江戸城本丸内外の地図、幕府の役職、行列で携帯されたものなど大変勉強になった。柳営秘鑑の活字化の本はまだないようだが早稲田大学所持の写本は字がきれいで読み易い、解読で随分助けられた。参考サイト:早稲田大学所蔵、「柳営秘鑑」、同「日光御社参記」。

●#555. 徳川吉宗の日光社参1728年 その壱 見送りと宿泊地
柳営秘鑑9巻を書写したものである。徳川吉宗が日光社参に出る時の大名の見送りの江戸城内の場所、宿泊の場所である。見送り場所は譜代大名の地位により厳重に決まっていた。下に図示した。上位の者ほど玄関に近い。さらに大名の地位と新年など挨拶の時の控の間(A-E)を示した。外様大名(御勝手)は見送りには出ず還御(帰城)後に将軍から参るように通達があった旨がここに書かれている。ただ発駕後白書院に出た外様大名が居たことも書かれている。一部欠字は青字で補った。次回に社参の行列の実際を記載。参考サイト:早稲田大学所蔵、「柳営秘鑑」。国会図書デジタル、「柳営秘鑑」。

●#554. 近日には宜敷方も可有候哉と相待居申候
いづつ屋武兵衛より木地屋三右衛門への手紙。ある商品を買う人があると思って今まで待っていた。それで御報せが遅れましたとの手紙である。木を轆轤(ろくろ)で廻しながら削り、木の蓋や容器を作る人を木地師または木地屋という。この三右衛門はこれらを造りまた販売する店の主人であろう。

●#553. 村松良一節句祝の席に於て 栄来て御代もさかゑや初幟
浜松市近辺で明治時代に村松良一という子の端午の節句に知り合いの人が寄って和歌や俳句を詠んだ。御目出度い元気な言葉が並ぶ。ここの市野文鼎は1876年(明治9年)から1880年の明治初期の5年間だけ存在した浜松医学校の卒業生である、この作品が書かれた時期は明治の中-後期であろう。さてこの祝福された村松良一君、静岡年鑑に名が載るので順調に生育して活躍したようだ。

●#552. 正徳六年火事地震雷之儀 老中登城之次第
1716年=正徳6年6月江戸で火事、地震の時老中が江戸城へ登城する時の決まりを書いたものである。将軍が徳川吉宗(1684-1751、将軍は1716以降)に替った時の下知である。武芸、武威を重視した将軍につき「老中は小さい出火や風が強くなければ登城不要」としている。これは「柳営秘鑑」という菊池弥門が1743年に主に享保年間徳川吉宗の時代の「幕臣の規律」などをまとめて著した本の第9巻を筆写したものである。ここで「老」と「走」が似ている事がわかる。

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●#551. 短文六報 夫より後はとをとをしく存候
折本の手紙の短文6報である。女筆で佐野つねという人の筆である。とをとをしくの表現はやや稀かと思う。

●#550. 短文五報 雨降り候徒然推量しまいらせ候
折本の手紙の短文5報である。「婀娜」は柔美的の意味で中国語にもある。「婀」と「娜」共にしなやかで美しいという同じ意味の漢字であり悪い意味はない。

●#549. 女筆の版本 拾一 はやはやとの御つかひ ことにうつくしき小袖一重
女筆の版本の最後は暮の贈り物に対する感謝の返事である。わかりやすい文章である。これをもって女筆の版本を一冊通して勉強したことになる。

●#548. 道具杉押之事仰被下候 御浜迄積入申上候
長二郎、幸二郎より伏見の材木商長嶋屋治兵衛への手紙。長二郎たちは治兵衛の手下に違いない。道具や杉押を高瀬川辺の倉庫に入れたので御安心下さい。などの内容である。

●#547. 抑江戸の御城はいまた開けぬそのむかし
江戸についての散らし書。折帳に書いた物である。後があるかもしれないがこれで完結でもよいと思う。

●#546. 清瀬義も十二日死去致し候間 私宅忌ゑし致候
弥惣治から醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。近親の清瀬が死去したので忌会するので休むとの短報である。弥惣治の手紙は#365、#254、#221にもあり、内記の世話役であった。

●#545. 下拙壱人にては何角心細り 便り無御座候
部下より上司への詳細不明の手紙である。前半はどこかに参上するのに自分1人では心細いので誰かに同道して欲しいとの意味である。後半は代金を登らせることや、安芸国の藩主の注文に答える旨がかかれる。商人ではないかと思う。

●#544. 板銀壱丁四拾三匁六分御座候物を遣候 慥に御請取可被下候
不明の花押の人からひしや六郎兵衛への手紙。「取替」の銀41匁に対し、板銀1丁、43.6匁を渡す。これは「取替」とするが払う分ではないと強調する。また追伸で手形2枚を返して欲しいと書く。理解がやや難しいが、商人への遣り取りに違いない。花押は茶人の花押の形に似ている、また上に「明」の字が乗っているように見える。僧かも知れないが、武士、大名ではないように思う。「六郎兵衛」の名は轆轤を使う人、陶器や木地屋(木を轆轤でまわして削り木の蓋や容器を作る人やそれを商売にする人)に多い。彦根の陶器商に菱屋六郎兵衛という人が検索で出る。他に関連の文書はない。最後の高之(?)よりは地名らしいがこれも不明。屏風の中張りに使用されていた紙である。

●#543. 御申付被成候金物近々には出来仕候 手附二分金にて御座候
上醍醐寺慈心院の奉行岸本内記に部下からの手紙。申附られていた金物が近日にできるので手附金2分を明日こちらに登らせるように依頼している。破損部分は予想して書いた。最初の1字は「以」が適合するが違うかも知れない。

●#542. 切支丹宗門相改候処 怪敷儀無御座候 庄屋組頭にも手形為致候
1864年=文久4年9月尾張藩士松井十兵衛よりお上へ差し出した約束文(手形)である。丁寧に楷書に近い字で書かれた。自分及び先祖は浄土宗で名古屋性高院(現名古屋市中区門前町、千種区に現存)であり切支丹ではない。妻子、召使にも怪しい者はいない。また自分の支配する知行所の百姓、その男女、召使にも切支丹はいない。庄屋、組頭に手形を提出させ、寺手形も置かせている。幕府は島原の乱で痛い目に遭ったから不定期に切支丹の改めを支配の奉行に行わせこのような手形(約束書)を提出させていた。「江戸前期」南蛮人に1669年の南蛮人との交際禁止の書を掲載。#347「熊野之医師之記録」に奉行古川が切支丹改めに取り掛かる旨が出ており、不定期だが頻繁に行われていたようだ。なお尾張藩士松井十兵衛の存在は確認できた。

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●#541. 杉弐間九寸代弐拾三匁弐分 挽賃代九匁五分にて御座候
名古屋上材木町の松本屋佐助が美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛に杉の材木1本長さ約2間(3.91m)を売った記録。1.5cmの厚さの板17枚にする料金は別に計算されている。不明な箇所もあるが、木の代金と木挽の代金の合計は合っている。総合計の内の29%が木挽料であった。

●#540. 親貰取候証文差上不申候 遅差出双方無益之御願為仕候段不備
1779年=安永8年2月安右衛門が役人に提出した一札。安右衛門は昨年中茂右衛門及び幸四郎と引水と久兵衛の屋敷の事で揉めていた。役人から吟味があるのを知りながら親が持っていた証文を差上げなかった。また証文を幸四郎に前もって見せて認可させておけば役人の立ち入りにもならなかったし御裁断も早かった。差し出すのが遅れたため双方無益な争いになった。申し訳ありませんでしたと謝る。最後に名主、組頭が右に相違ありませんと奥印を押した。安右衛門としては重要な書類なので大切に保存して見せなかったのだろうが謝りの一札を出さねばならなくなった。この土地は川原なので安右衛門が川から引水したことで余計揉めた。村の名は読みが違うかもしれない。

●#539. 伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠州巡る旅に御座候
折本に写して字の練習と文章の保存をした物で丁寧に書かれている。日本国巡りの始まり、畿内は名所が多いから置いといて、伊賀から始め遠江までである。八橋から宇都山まで距離があるが遠州灘を通って船路で行くようだ。後きれが残念である。

●#538. 金子之儀は惣割にいたし候者哉 御勘考可然奉頼上候
太兵衛より親類中へ口上書。弥七と源三郎が借金不払いを作ったのでこれにつき上の者へ差し出す書類をどこから出すのか。借金を返済するのに頭割にするのか。それにつき源三郎より一札書付を出させるのか。頭分衆相談の席で決めるのか。親類の人は勘案しておいて欲しい。以上の内容である。講の金を使ったがその返済ができないのではないか。他に関連文書はない。

●#537. 女筆の版本 拾 長閑なる年之くれにて 何かたも替る御事なくいわい入まいらせ候
冬入日から歳暮の挨拶である。肴が少し難くらいで字が読み易い所である。こぞりては「挙りて」と書くとは知らなかった、もろびとこぞりて。

●#536. 徒然草鉄槌 蟻のことくにあつまりて東西にいそぎ南北にわしる
鉄槌(てっつい、徒然草鉄槌)という本の第74段。徒然草に注釈と解説を加えた江戸時代の古書である。かなは読み易くきれい。目標に向かって努力することとその成果(果実、報酬)がうまく回転する時は生きる充実感があり気持ちよい。しかし努力に成果が伴わないと疲れてもがく(struggle)。そんな時この一段は清涼な一服となる。本は南竹所蔵。

●#535. 三役に埒の明塚安左衛門 やかて大津の総の元〆
彦根藩士で彦根藩世田谷代官所勤務もした明塚半蔵が所持した狂歌。おそらく先祖の明塚安左衛門が他の侍と酒を飲んだ時に戯れで友人の侍が詠んで書いた狂歌である。三役は藩の重鎮職であるが安左衛門は三役に昇進できる気配がなかった。つまり埒(らち)が明きそうになかった。これを「埒の明けずか=明塚」と懸けた調子のよいものである。明塚家と大津との関連は不明である。しかしこの戯れの狂歌が大切に保存されたことは明塚家の先祖が大津と接点があったことを示すのかもしれない。

●#534. 東海道各宿場での下り駄賃の覚にて御座候
美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛が所持したもの。荷物を東海道で運搬した時の各宿場での駄賃の覚書である。最初の数字(文)は支払い総額で次に馬と人足の単位当りの金額を記す。すべて下りの時の駄賃である。4と5の間の宿場の分は欠損。部分欠損は青字で補った。難所、距離で決めたものだろうが、幕府の公定値段であまり儲かるものではなかったようだ、困窮のため全宿場で値上げを奉行衆に申請している。

●#533. 春照宿御問屋中 右四駄分之駄賃御請取可被下候
美濃国竹ケ鼻村の松屋伊兵衛から近江国春照(すいじょう)、藤川宿の問屋に駄賃を送る時の添状。誤字のため原稿となり手元に残ったもの。馬4疋分の荷物を春照以北のどこかから春照、藤川、関ケ原を通過して竹ケ鼻村まで運んでもらった。これらは図のように北国脇往還の宿場である。松屋伊兵衛は七兵衛の息子と思う。#452にも北国脇往還の春照宿が掲載。

●#532. 段木送り遣し可申候 代金壱両弐分銀九匁 運賃壱貫八百文に御座候
林忠左衛門より美濃国竹ケ鼻村松屋七右衛門への手紙(A)と覚(B)。段木を販売した記録である。七右衛門はおそらく飴屋七兵衛の父であるが他は不詳。手紙の内容は段木を調達して送るので1両前金を渡してほしいということ。最後は段木の計算書の覚である。

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●#531. 地畳法り之方染も不宜 此間弐畳半方御引替可被下候
仁兵衛より美濃国竹ケ鼻村飴屋の松屋七兵衛への手紙。おそらく新しい畳に新調したがよくないので2.5畳分を取り替えて欲しいとの内容。畳は七兵衛の知り合いが作ったもののようだ。仁兵衛の小藪村は七兵衛の竹ケ鼻村と至近である。#358にも仁兵衛の手紙を掲載。

●#530. 半蔵私同様手前札にて出入存候様 御役頭衆より御門守へ御願書
友左衛門より北前船主増田又左衛門への手紙。荷を積むために半蔵と「御門」へ行った所、願書を出すように御引役衆にいわれて書いて出した。御門守にも出した。以後毎度願書を出すのは双方大変なので半蔵も私のように「手前札」にするようにいわれた。ついてはその願書を御役頭衆(貴方)より御門守と御引役衆に書いてほしい。以上の内容である。御門守とは門番役の人であろう。荷を積むため門に入ったとき半蔵は新入りなので門番に呼び止められたのである。

●#529. 京奥嶋一反壱両弐歩弐朱 銀簪さし壱本壱歩弐百八十文に御座候
福光屋善一郎より宮本屋への覚。銀かんざし、京奥嶋の布などである。不明の商品あり。最終計算で特別の値引きもしたようだ。宮本屋はどんな商売の人か不明だが覚えなど見ると金払いは大変よい人なので相手も安心して取引できる。

●#528. 御領分野良田村次兵衛女子くら 御出人御吟味御揃立候
領内出入り人担当の下役人より彦根藩世田谷代官賄方、明塚半蔵が受けた口上書。前半と後半に分かれる。前半は領内の野良田村16歳のくらが奉公にて村を出るのでそれの許可である。宗教は真言宗、寺は善養寺と書いている。記載は少なく、書類も揃い了承は早そうだ。後半は18人の集団が「抱え」で領内に入るようだ。無宿人や狼藉者は困るので調べて不審なものは弁別して差替えさせるよう説く。部屋頭に世話を任せるのがよかろうとのことである。紙は痛んでおり難読な字の資料であったが大意はつかめた。彦根藩世田谷代官所のことが勉強になった。代官は大場氏という藩主井伊氏に任命された土豪の武士が勤めているが、確かに明塚氏のように彦根より世田谷に出張し駐在した武士もいた。

●#527. 御娘子様未た御眼病全快不仕候趣 御銑療治に御出被下候
笠原玄確より越後国蒲原郡蔵主村須田七之助への手紙。笠原玄確は眼医のようで娘さんの眼病の全快のため御銑療治をすすめる。銑:小さい金属の鑿(のみ)、ここは小さいメス。おそらく霰粒腫(めいぼ)で瞼の痛くない腫れだろうと思う。メスで切って排出させること。別に須田七之助が依頼していた品が近日中にできる。金1両=銀90-100匁で幕末期である。手紙は大変読み易いが「御銑療治」が困難であった。

●#526. 銀壱匁七分八厘過金 御年貢請取皆済也
庄屋善兵衛より伊三郎への年貢の不足金の皆済の書である。前切れであるが最後の計算が示されている。1部脱字があるが決算に違いはない。1866年=慶応2年のこの時は金1両=銀102.15匁である。

●#525. 一家にも唯今打寄 右様へ御返事之相談いたし罷有候
半介より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。川北久左衛門ら役人は半介に早々糸屋に行って申し遣わすためにこちらに参上するよう言った。しかしこれに付一家で返事を相談中なので暫らく待ってほしい。以上の内容である。川北久左衛門も役人の仕事で忙しい。

●#524. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 大名衆の宿泊の記録
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が自身の陣屋に宿泊した大名などの名前と世話を担当した手下の名前を記した興味深い記録である。大名の官位が記されており、年代を調べると1718年より1729年の間の卯月の作成と判明した。大名はやはり関町以西の人ばかりで江戸への「上り」と「下り」が書かれる。そしてこの記録の筆者は5代目川北久左衛門武廣(1657-1729)と判明した。手下名は省略して書かれるが理解できた、「疋」はおそらく手下の賃金の単位、又は馬の単位かもしれない。残念ながらこの型の文書はこの1枚のみである。他に提示の「川北久左衛門」の手紙なども5代目頃で享保頃の古いものであろうと予想される。参考ウェブサイト:亀山市歴史博物館「川北家」。

●#523. 書状参候由 則返書忝致大慶候
親しい人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。新年の挨拶と直近迄来た待っている書状について書かれる。また別の手紙を四日市に届けてくれるようにとの依頼である。このように川北久左衛門は近辺の飛脚便の世話を引き受けていた。同様の手紙が#481、#505、#510、#519にある。#498には飛脚賃が掲載。

●#522. 忠兵衛儀爰許へ引取候節 其御表御役方へ御案内も不仕候風
忠兵衛を引き取る人から世話人の1人伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。下の#521の手紙で上野屋忠兵衛が引退するが相続で揉めている。忠兵衛を案内して世話人中へ差遣わし面会することになっている。ここで忠兵衛の仕事の道具などはすべて持参するので面会をなしにして貰いたいとの内容である。難しい内容なので廻り持った表現である。忠兵衛は何か不始末で引退せざるを得ない状況らしい。手紙は切れていて、解読難な字かつ表現も難文であるが要旨は理解できたので掲載することにした。

栞520 

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●#521. 上野屋名跡相続 此度双方申談難儀仕候
町の世話人の伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。上野屋忠兵衛がここで引退する。この名跡は自分が嗣ぐと主張している者からの手紙である。陽母屋善兵衛という者が不法なことを言うので双方で話しているが難儀している。その間上野屋忠兵衛の名跡の道具を請取に行ったが陽母屋善兵衛が当地に来て夜具類を質屋に入れてしまった。追伸では双方の言分を聞いて御世話下さいとしている。最後に「上野屋相続人」とあり確かに名跡相続で揉めているに違いない。

●#520. 先日は種々預御馳走 其節被下候異国之嘉品
不明の人より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。御馳走になった後異国の嘉品をもらった御礼である。はせは伊勢市に近い三重県多気郡多気町長谷のことかもしれない。川北久左衛門に貴重な品を貰う人であるが名前より武士ではないようだ。

●#519. 惣兵衛殿御出所 一夜泊り被参候様に御遣し可被下候
別宿の人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙。宿便(宿伝えの便り)を待っていて1両日で着く頃である。それが届けば惣兵衛さんという人が御出所することになるので惣兵衛さんに一声入れてほしい。惣兵衛さん出所の際こちらに1泊して欲しい。別の宗通殿が御出所するのは義が立たないので申し上げる。以上の内容である。切れた所は青字で予想して補った。

●#518. 坂下へ一夜泊り草津に一泊 二夜泊り両人分之昼支度御茶代
おそらく伊勢国関町陣屋川北久左衛門自身が草津での参会に東海道を西へ駕籠に乗って行った時の駕籠人足賃や食事、酒の費用を書き記したもの。

●#517. 〆金二両壱歩二朱 銀三拾五匁二分 右正に受取迄候
御本坊の寺の支払後の受取の覚。何の代金かは不明であるが計算は合っている。御本坊はこの代金を払って商人がこの覚を書き渡した。

●#516. 右之通貴寺様より御取立 華開院迄御差出可被下候
僧が受けた覚である。他寺の月番が月の払い金を書いて華開院に持参をと書く。この受けた僧は#499の浄土宗御本坊と呼ばれた人である金戒光明寺かも知れないが不明。

●#515. 期役之義無御滞被承仰候趣 目出度奉存候
組中より伊勢国川北久左衛門への手紙。組のことで依頼したことをその通りに発言してもらったこと、期役を滞りなく受けてもらったことに感謝するとする内容である。

●#514. くわい、人参、高野豆腐、青のり、みかん、かち栗にて御座候
江戸時代、京都の浄土宗の寺が付けた細かい支出の覚書。不明のものも多くあるが、食物、たばこ、ろうそくなどわかりやすい。1月、2月の冬の食事で江戸時代の京都の僧が食していたものがわかる。

●#513. 御内々にて利安成物の間に御合せ被下候はば 忝奉存候
ある商人より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。最近商品を入札に出したが自分の足元を見られて特に下値の12、13両での落札になった。売り払うのは止めた。内々「利安成物」として、つまり比較的高値で買い取って欲しい。他の殿方にもお話願いたい。無理なら仕方ないですが難儀しています。母上に一声とあるので血縁の人かもしれない。殿方とは川北久左衛門の知り合いの陣屋や町役の人のことだろう。解読難の字で誤読があると思うが大意は間違いない。

●#512. 手紙断簡 伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙
伊勢国関町陣屋川北久左衛門の受けた手紙の断簡。様々であるが主に家来や丁稚などが持参するものである。中には最後にある「急飛脚」のように遠方で高い費用のものもあった。

栞510 

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●#511. 下駄壱足とからかさ壱本御返遣申候間 受取可被下候
ある人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。先日借用した下駄とからかさを返却する時の添状である。「殊乃他御世話に預り」なので川北久左衛門の家で御馳走になったようだ。最後1行と宛名が切れている。「尚々」の2行は追伸で最後に読む。

●#510. 書状一通三度便に無滞登上候様に 御計頼存候
ある人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。書状を1通三度飛脚便で運送するにつき添状である。「無御別条御暮」の後はまず「珍重」と思われる。#498、#500にみられるように川北久左衛門は飛脚便や鰯の運送を仲介していた。賃銭は#498では48銅=48文である。

●#509. 当方本家御祖父様御上京の節 御叮嚀に御見舞被成御礼申上候
親密な人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。本家の祖父が京都に旅をするので久左衛門に連絡していた。関町に着いた後、久左衛門に旅宿に見舞いを受け関町周辺の案内を受けた。そして無難に帰着したので安心して下さい。逗留中は御世話になったと祖父も感謝しています。以上の内容である。欠落部分は青字で予想して書いた。

●#508. 御親父様御病気御養生無御叶 御死去之由御愁歎
伊勢国関町陣屋川北久左衛門より山川甚兵衛への手紙。甚兵衛の父の死去でのお悔やみと粗品送りの手紙である。「端愁」という単語はあるが一般的でなく、「愁歎」に書き換えたのでこの手紙は没になった。歎=嘆:なげく。始の2行は追伸。

●#507. 御報致拝見候 何共御別条無奉存候
上村より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への返事の手紙。先日申した事を御承知されたとの御報につき委細承知しました。御世話様でした。以上の内容である。最後の挨拶部分が切れている。

●#506. 御地大火に付御店向御類火之段 承知仕気毒千万に奉存候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が梅井与兵衛に書いた火事見舞いの手紙の原稿である。訂正前の文章を黒字で、訂正後の文章を青字で示した。終り近くで「乍憚」を連続して書いたのでこの手紙は没になった。そして訂正して少し短くした。#474の梅井与兵衛よりの2月19日付の手紙で1月29、30日に火事があり類焼で難渋とある。この手紙(3月9日付)で川北久左衛門が去る29日、30日の両日と書いているので、差し出す相手は梅井与兵衛に違いない。

●#505. 京御池屋度々之書状壱封 御便に被遣被下候
竹内五三郎より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。健康の挨拶の後、先日はおいで早々仕事でゆっくりできず残念でした。京都御池屋の書状を遣されありがたい。以上の内容である。

●#504. 御大名様方牧馬御類焼被遊候 各様方も御見舞御下り被成候哉
おそらく近在の陣屋の人より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。この度の江戸の火事で馬の飼育場が類焼があった。これに付陣屋の方々は御見舞に行くのか委しく聞きたい。笹山吉之助様はどうされているのか承りたい。以上の内容である。笹山吉之助は詳細不明ながら近江国甲賀辺りの代官かもしれない。後切れが残念。

●#503. 御肴料二封被仰付 難有仕入候奉畏拝候
三丞(さんすけ)より宮本屋への返事の手紙。先日荷物で間違いがあり早速改めてもらって有難いです。また御肴料二つ注文され畏まります。近来御伺もせずよろしく願います。以上の内容である。

●#502. 次第次第に御延し被成候段 甚以迷惑に奉存候
平野屋専蔵から村上屋勘右衛門への手紙。茨木屋徳兵衛と伏見材木商長嶋屋次兵衛が取引の銀1貫目を平野屋専蔵に支払わない。期限が5月10日であるが延引し6月10日になっても支払いがない。両者と極めて近親者である村上屋勘右衛門に金を受け取ってきてほしい。この状態が続くとあなたとの商売も出来なくなると書く。#401、#467、#466に関連の手紙がある。

最後 

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●#501. 保科弾正忠様川支之由にて 今暮六つ時迄も御越不被成候
小林儀太夫より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への返事の手紙。上総国飯野藩主と思われる保科弾正忠の一行の通行についてである。今晩に関町に宿泊予定の所が川支で今晩6つ(6時)でも来ない。久左衛門は詳細不明で「注進」はしないことになった。小林は今晩来なければ明日早朝に「注進」をしなさいと書く。今晩来たら最初の「注進」で済んでいる。「注進」はその地と周辺の状況を把握して上申する事と思う。特に次の宿泊地や日時の注進を大名行列衆に伝達する事ではないか。人数も多く食事の準備などがあるだろうから当然次の陣屋に連絡を入れる。小林儀太夫は関町の次の宿の予定の陣屋であろう。保科弾正忠は関東の大名なので伊勢参りの途中かもしれない。

<文書番号とタイトルの一覧>       上に戻る BACK TO TOP
#501. 保科弾正忠様川支之由にて 今暮六つ時迄も御越不被成候
#502. 次第次第に御延し被成候段 甚以迷惑に奉存候
#503. 御肴料二封被仰付 難有仕入候奉畏拝候
#504. 御大名様方牧馬御類焼被遊候 各様方も御見舞御下り被成候哉
#505. 京御池屋度々之書状壱封 御便に被遣被下候
#506. 御地大火に付御店向御類火之段 承知仕気毒千万に奉存候
#507. 御報致拝見候 何共御別条無奉存候
#508. 御親父様御病気御養生無御叶 御死去之由御愁歎
#509. 当方本家御祖父様御上京の節 御叮嚀に御見舞被成御礼申上候
#510. 書状一通三度便に無滞登上候様に 御計頼存候
#511. 下駄壱足とからかさ壱本御返遣申候間 受取可被下候
#512. 手紙断簡 伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙
#513. 御内々にて利安成物の間に御合せ被下候はば 忝奉存候
#514. くわい、人参、高野豆腐、青のり、みかん、かち栗にて御座候
#515. 期役之義無御滞被承仰候趣 目出度奉存候
#516. 右之通貴寺様より御取立 華開院迄御差出可被下候
#517. 〆金二両壱歩二朱 銀三拾五匁二分 右正に受取迄候
#518. 坂下へ一夜泊り草津に一泊 二夜泊り両人分之昼支度御茶代
#519. 惣兵衛殿御出所 一夜泊り被参候様に御遣し可被下候
#520. 先日は種々預御馳走 其節被下候異国之嘉品
#521. 上野屋名跡相続 此度双方申談難儀仕候
#522. 忠兵衛儀爰許へ引取候節 其御表御役方へ御案内も不仕候風
#523. 書状参候由 則返書忝致大慶候
#524. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 大名衆の宿泊の記録
#525. 一家にも唯今打寄 右様へ御返事之相談いたし罷有候
#526. 銀壱匁七分八厘過金 御年貢請取皆済也
#527. 御娘子様未た御眼病全快不仕候趣 御銑療治に御出被下候
#528. 御領分野良田村次兵衛女子くら 御出人御吟味御揃立候
#529. 京奥嶋一反壱両弐歩弐朱 銀簪さし壱本壱歩弐百八十文に御座候
#530. 半蔵私同様手前札にて出入存候様 御役頭衆より御門守へ御願書
#531. 地畳法り之方染も不宜 此間弐畳半方御引替可被下候
#532. 段木送り遣し可申候 代金壱両弐分銀九匁 運賃壱貫八百文に御座候
#533. 春照宿御問屋中 右四駄分之駄賃御請取可被下候
#534. 東海道各宿場での下り駄賃の覚にて御座候
#535. 三役に埒の明塚安左衛門 やかて大津の総の元〆
#536. 徒然草鉄槌 蟻のことくにあつまりて東西にいそぎ南北にわしる
#537. 女筆の版本 拾 長閑なる年之くれにて 何かたも替る御事なくいわい入まいらせ候
#538. 金子之儀は惣割にいたし候者哉 御勘考可然奉頼上候
#539. 伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠州巡る旅に御座候
#540. 親貰取候証文差上不申候 遅差出双方無益之御願為仕候段不備
#541. 杉弐間九寸代弐拾三匁弐分 挽賃代九匁五分にて御座候
#542. 切支丹宗門相改候処 怪敷儀無御座候 庄屋組頭にも手形為致候
#543. 御申付被成候金物近々には出来仕候 手附二分金にて御座候
#544. 板銀壱丁四拾三匁六分御座候物を遣候 慥に御請取可被下候
#545. 下拙壱人にては何角心細り 便り無御座候
#546. 清瀬義も十二日死去致し候間 私宅忌ゑし致候
#547. 抑江戸の御城はいまた開けぬそのむかし
#548. 道具杉押之事仰被下候 御浜迄積入申上候
#549. 女筆の版本 拾一 はやはやとの御つかひ ことにうつくしき小袖一重
#550. 短文五報 雨降り候徒然推量しまいらせ候
#551. 短文六報 夫より後はとをとをしく存候
#552. 正徳六年火事地震雷之儀 老中登城之次第
#553. 村松良一節句祝の席に於て 栄来て御代もさかゑや初幟
#554. 近日には宜敷方も可有候哉と相待居申候
#555. 徳川吉宗の日光社参1728年 その壱 見送りと宿泊地
#556. 徳川吉宗の日光社参1728年 その弐 行列馬上三十騎鑓六拾本鉄炮六拾挺
#557. 御内々にて万端御取扱可申候
#558. 大工甚五郎 銀百廿九匁受取
#559. 通ひ帳と本帳と引合申候処 通之表に相違御座候
#560. 当地名染中へ相頼候処 季時過候故宜敷方無候
#561. 断簡三報 長京様之御手伝に誰成共壱人差遣候 呉々御休意可被下候
#562. 唐船漂流に玄海灘、響灘にて小倉筑前長門船立行列砲撃す
#563. 油大下落にて致方なく米と替事参り候 融通方甚た不都合に候
#564. 四角弐十、三角弐十六、豆腐五十丁にて御座候
#565. 昨日の時雨けふは雪気に替り
#566. 縄俵で〆銀八匁四分 此金弐朱と銅六十五文にて御座候
#567. 扨夜前夜半頃出血仕候 何卒乍御苦労御越も被下候哉
#568. 松南氏用文章 壱 新春之御吉慶不可有際限御座目出度申納候
#569. 利足之儀は壱ケ月拾弐両に壱分之割合に御座候
#570. 樽酒三斗三貫九百文、上酒三斗三貫六百文にて御座候
#571. 御融通之程願上候 参拾円御都合被下候はば実に難有候
#572. 中﨟相成り候はば衆議之評定にも出席仕候
#573. 松南氏用文章 弐 上巳之御佳儀 端午之御祝義目出度申籠候
#574. うれしき御事御仰下れ候 幾久しくねかい上まいらせ候
#575. 旦那様わたくし一所にすまい致し候こと 心くるしきよし申され候
#576. 松南氏用文章 参 七夕之佳節 八朔之嘉幸目出度申収候
#577. 幕末期武蔵忍藩主松平下総守一行上京の折の伊勢陣屋での宿泊、賄の記録
#578. 山惣様より鰤大壱本相登り申候 エフ札に出日限もなく
#579. 松南氏用文章 四 玄猪之祝儀 重陽之祝儀
#580. 新春之御慶賀重畳申納候
#581. 米拾三石九斗五升壱合五夕 御振出可被下候
#582. 茂助様御留主にて相知れ不申候哉 若又代衆御届け在候哉
#583. 此度大嶋類之御用等も可被仰付申候哉 何角委細御相談申上度候
#584. 商人の短報 壱 乍御無心吸物椀十人前 膳共御恩借
#585. 商人の短報 弐 買物之儀能便宜無御座 延引令迷惑候
#586. 松南氏用文章 五 任嘉例小鯛三拾枚進上仕候 歳暮御祝儀験迄に御座候
#587. 盆中御出奉待候 くれくれ御世話なから奉頼候
#588. 弐両今日此人に誂へ遣し申候 慥御請取可被下候
#589. 赤餅米拾弐俵 右之通御改御請取被成可被下候
#590. つり八百七十八文にて御座候
#591. 銀弐拾四匁九分三厘に金弐分入金 つりは壱朱銭と百四拾四文に御座候
#592. 御厚情のほと忝奉申候 御礼不尽痛心いたし候
#593. 助七儀両三年之所年貢米差入不申候 後麦作之儀
#594. 御ほと様いよいよ御きけんよろしく御くらしあそはし候
#595. 此度は御焼香御布施物如例被相渡候 大慶候
#596. 小紋柄一反四拾三匁 五三桐紋付にて御座候 大丸屋
#597. けふは禁裡より将軍家へきせ綿を下され 御酒宴ありとは
#598. 旅立之儀時分能候間 近々何日頃存立発足仕度候
#599. 昨廿四日芸州より山口え之 早打往還筋通行致候
#600. なにぶんまわりかね五十銭だけ 今日おんかへりそふろふ
#601. 太子に御立無候ては 御立銀等も無も有候
#602. 世忰庄十郎義御宅え致伺公 種々御馳走相成忝存候
#603. 村方一同示談仕候間 隔年庄屋之儀御慈悲に取縋り依て奉願上候
#604. さば三本送り候間御入手被下度候らへば 難有そんしまいらせ候
#605. 戌年稲刈抱覚 三百三拾抱 ふけ田
#606. 飴かす壱俵外三斗弐升五合 銀壱匁にて御渡し申候
#607. 枝郷五ケ所村庄屋年寄銀打かけ被申 何角と我侭計被申迷惑至極
#608. 有りの実頂戴仕候 誠に此せつは弥敷品にて千万難有存候
#609. 裾除け布七尺四寸 柳に松模様葡萄鼠 壱貫八百文
#610. 改年之御慶不可有際限御座候
#611. 愚父相果候節 遠方之所御出被下忝奉存候
#612. 年号より利足銀積立仕候はば 元利共何貫何百目に相成恐聞候
#613. 壱玉銀八匁五分割 壱玉銀拾匁 半玉銀四匁五分にて御座候
#614. 追申上候然し家内にも能く御挨拶被下忝奉存候
#615. 雪吹強道踏迷罷越候処 凌兼息切其侭倒れ相果候か又野狐共之所為か
#616. 登金仕候筈御座候得共 操合もの御座候付乍存延引相成候
#617. 右様御構被下候ては甚痛入仕合に奉存候
#618. 京都洛外散し書き 清水寺稲荷山鳥羽小塩山鞍馬寺岩倉大原
#619. 献立 煎酒茶巾ゆばひりやうすすたれふ黒かはたけ
#620. 椹三五大作屋へ早速掛合候趣 最早右椹は大家屋へ売附申候様申居候
#621. 魚 壱匁弐分八厘大いな四つ 壱匁九分六厘もうを四つ
#622. 折帳の短報七報 奉公人ふつていにて迷惑仕候
#623. 寛蔵様御所持時計之義御申越 甚以寔に永々借用仕置候
#624. 大釜壱つなから孫右衛門舟に積送り候 御請取可被下候
#625. 末吉様御たのみて下され候 おまいさま方よりほかにわはなしもなし
#626. 天保12年の出羽久保田藩御役料御合力覚
#627. 此たびうこん様御上りあそはし ほかよりあそはし候て
#628. くるしみ居申候 もはやぜつたいせつめひ之帰国に相成申候
#629. 布壱反五匁 金銀の両替は七一弐にて御座候
#630. 断簡八報 扨心外之御不沙汰御用捨可被下候
#631. 良久不懸御目候 不審無極候 抑依宿願之子細候 風月往来壱
#632. 新春之御慶賀重畳申籠候畢 抑子日御会難忘存候 風月往来弐
#633. 乍例大酔意不存 何等之失敬仕候哉今更恐入申候
#634. 茨曽根より十七村え相掛御訴申上候
#635. 炭醤油酒たこ昆布竹の子木瓜なす入歯剃髪ふろなどに御座候
#636. 金沢之兼六公園見物の上粟原温泉にて出懸 頗る愉快を感し申上候
#637. 衣類并諸色目録にて御座候 振袖、袷、単物、帷子等
#638. 御地御一同共に御不承知に有之 此上一杯に御請を出来可申様存候
#639. 此度之御安産入用も随分手をつめ むたの無之様に被成候ても
#640. 依て例年之通り歌賃子籠鮭塩引寔に歳暮之験迄
#641. 御小児様御疱瘡被遊候儀 生涯一度之事にて人々難遁御座候
#642. 明十六日の夕さりより御影待いたし候 宵之内より御噺に御出下され候
#643. 山々の照葉色そひ 幾しほの詠と押はかられ候
#644. 雪の今朝ほと詠候へは めつらかの木毎に花の咲候やうあやしまれ候
#645. 幾余ともなき年浪のせき留かたく いつしか暮に成まいらせ候
#646. 御婚礼の御儀式残所なく相調候て 幾末永き千代万世の御めてたさ
#647. 割木十七束御遣し候へ共 余り小まかく雑木にて不宜
#648. あめの魚弐本四百文 くらげ壱枚三拾八文に御座候
#649. 三つ具足委細仰被遣被下候 忝承知仕候
#650. 旱魃にて時之水掛論を生じ 殆現今は修羅道日夜痛歎在候
#651. 椹木着場処御尋被成承知致候 右丸太之分は拙宅へ向け御遣し可申候
#652. つくね大工仕事まめ人しん生か竹の皮に御座候
#653. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 壱 御所女御様若宮様御降誕 御使者御上京
#654. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 弐 御国表何事に不限諸事厳敷御省略に被成候
#655. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 三 白銀五枚作兵衛儀御屋鋪日用方御用大切相心得勤候
#656. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 四 御隠居肥前守様御病気より御逝去被為在候
#657. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 五 一統無是非三ケ年之間壱割引致候
#658. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 六 二条新地おやまに落込借金出来欠落
#659. みなみな様御さかんに御年かさねられて 御にきにきしく御いわひ被成候
#660. あやめの御祝儀として 見事の一色おくりくだされ
#661. 亥の日にて此もちゐ一重いわひまいらせ候
#662. 籬ににほふしらきくに 初霜の何れをはなとわきかね
#663. 為御祝儀嘉肴華燭被饋下忝存候
#664. 為御廻向料金百疋受納仕候
#665. 京都下京、東本願寺と西本願寺の間で袈裟や僧衣を扱う店の102年間の資産帳の記録
#666. 具足師岩井与左衛門文書 壱 桜田門外の変後 襲撃旧水戸藩士七名の死罪評定
#667. 具足師岩井与左衛門文書 弐 芝増上寺で歴代将軍様御具足の御餝附に御座候
#668. 沓之義御申越則申付置候 明十五日早朝出来候
#669. 無是非御断得御意候 此上各々様方御思召次第御尤に奉存候
#670. 京土屋仲ケ間文書 壱 乍恐口上書土商売人渡世為取締
#671. 京土屋仲ケ間文書 弐 下値に売渡候義仕間敷 仲ケ間同様之値段に商ひ仕候事
#672. 京土屋仲ケ間文書 三 被相定候値段より格別高下無之様商ひ致可申義は勿論
#673. 京土屋仲ケ間文書 四 文化四年此仁在所へ参られ其年より出銭は不出候
#674. 萬覚和帳 壱 梅花錠四匁、まんちう買入れ申候
#675. 萬覚和帳 弐 嘉永五子年之出入帳に御座候
#676. 乍略義以書中不取敢相願候 不悪御承知可被下候
#677. 此節コレラ病大流行にて死人多し アメリカより申越したる書付
#678. 為替手形には美須屋伊予掾有之候 此段御承知置可被下候
#679. 聊絹針御注文申上候所 何卒御取揃被成下御調達奉願上候
#680. 為替金住七殿行事に御座候間 同人より為御登申上候
#681. 江戸仲間衆より京都針問屋への唐針差引書
#682. 此後は呉々も銘々より 御注文相願申上候心組御座候
#683. 長助不服外者参候とも 御取合不被下候様御頼上候
#684. 京都針問屋みすやの主人福井伊予掾が受けた覚 五報
#685. こま、いんけん、ささけ、たしこんふに御座候
#686. 御導師賄料私方よりさし上 書付に失念仕候
#687. ことことかりそめに七月無てにて くらしまいらせ候
#688. 小断簡二報 いろ方へ上下地五本分丈ケ染に遣し候様願上候
#689. 耀鏡院様下女壱人御抱之義 諸色方より申参り候
#690. はんが、くつかた、ちよじたらい、桶に御座候
#691. 米相場の1ヶ月内での変動にて御座候
#692. 干鱈二尾進上仕候 寔以御祝詞申上候印迄に御座候
#693. 石部宿より関宿へ 〆馬百拾九疋人足七拾人にて御泊に御座候
#694. 味林すの代金に御座候
#695. 伊勢国関町川北久左衛門陣屋 続大名衆の宿泊の記録
#696. 地歌壱、荒れ鼠 はぶしの達者なものどもは納戸へ入りたんすかぢるべし
#697. 地歌弐、たにし なんぼはたたきしやるとも うのまにやなるまい
#698. 地歌三、かわつ たったひとこときいてたべが おやぢをからすにとられ
#699. 地歌四、筆のあと 知るべのそのただをみれば くりかへしみの筆のあと
#700. 割木送り山中、坂下、沓掛での駄賃の覚に御座候
#701. 奥州笠松峠女盗賊 上 鬼人お松と其名を申し大たんふてき
#702. 奥州笠松峠女盗賊 下 ととめさして悦ひ我家へかえりけるこそ目出度き
#703. 肥前平戸藩京都在番の御武家様の下りにて御座候
#704. 拾六歳之時在所を出 少々宛之物を盗取渡り候趣
#705. 地歌寛濶一休 一休扇をさつと払ひ給へば 大雪朝日に霜となり
#706. 掟米右之通り無残取立御渡申上候
#707. 朝夕は殊之外寒しまいらせ候
#708. はつ午におはしまし候 稲荷へ御詣遊はし候はんや
#709. 随分旦那には万事御綿倒も被遊候
#710. 春の御しうき幾千代かけて いはゐまいらせ候
#711. 五常なくんは人とは不可言 此道能々心得て違背の筋無
#712. 御饗応いか計 辱そんしまいらせ候
#713. 良辰直丸殿御元服之由 目出度奉存候
#714. 長閑成空うち続 四方のはなも最中のよし
#715. 装束之事可有御恵之旨 乍不及似貴殿可申
#716. 徒然草鉄槌 一日の命万金よりもおもし
#717. 下拙共無異事罷在候 乍慮外御安意可被下候
#718. 此上彼土地におゐて 色々と意外之働有之候
#719. 明日はこなた嘉例のことく 節いたしまいらせ候
#720. 桧重一くみ御雛の 御祝儀のしるしまてに御目に懸
#721. 御水茎くたされ 誠に御けむもしの心地
#722. 心の暇もなく一生は雑事の小節にさへられて むなしく暮なん
#723. 御遊山なから上方へ 御登りあそはし候よし
#724. なかなかの御留守にて さそさそ御淋敷候半と
#725. 扨は此帋包一つ 御国もとへ御便おはし候せつ御届
#726. 竹皮綱の子の覚にて御座候
#727. 榑木丸太尺〆五六本 只今早々御遣し可申候
#728. 殊に二人忘御日記付哉迄相見 はかはか無頼の悪僧
#729. いかさま来国次 真偽返計之御目利奉願候
#730. 此度俊操院様御発駕被遊候
#731. 菖蒲の御祝儀 御目出たく祝入まいらせ候
#732. 扨は真瓜三頭 御めに懸まいらせ候
#733. 御神事皆々めしよ誓られ候半よし
#734. 織女の御祝儀 いく秋かきりなき御岩井
#735. 愛さま美しき御事のよし いとも軽き御容体におはしまし
#736. 見え来まいらせ候まま 少しなから御めに懸まいらせ候
#737. けふし吉日故御移徒遊し候よし 限なき御めてたさ
#738. 御普請嘸々御結構之程察入候
#739. 貴前様能御枢機御座候由
#740. はれなる客おはしまし候 夫につき御無心の事候へ共
#741. 弐百文酒八合 三百文さめ
#742. 馬乗羽織麻上下帷子等仕立 御資申度候
#743. 一同たすき等打懸 不臥用心計御船之者共いたし居候
#744. 御酒錦にまかふ村菊品々をくり給り
#745. 詩文の達人連俳之上手申合可参候
#746. 加賀藩前田家の家系書 壱 前田利春の由来
#747. 加賀藩前田家の家系書 弐 前田利家の生涯
#748. 加賀藩前田家の家系書 三 前田利家の兄弟
#749. 加賀藩前田家の家系書 四 前田利長
#750. 加賀藩前田家の家系書 五 前田利家の子 前田利長の兄弟
#751. 加賀藩前田家の家系書 六 前田利常とその子の子孫
#752. 加賀藩前田家の家系書 七 前田綱紀、吉徳とその子
#753. 加賀藩前田家の家系書 八 前田と名乗る他の三家

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