南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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< 古文書 #251-#500,Old Writings #251-#500 >

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古文書 #251-#500,Old Writings #251-#500


ここはこれまで読んできた「古文書 #251-#500」です。手紙、証文、借用書、覚え書など多様な江戸時代の文書がありますのでゆっくり楽しんで下さい。
Here are Japanese old writings #251-#500. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧(上) 文書番号とタイトルの一覧(下)

●不相かわら 御引立を願升 = 相変わらずお引き立てを願います。 Thank you very much for your continuous visits. Please come and see my website again.

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これは2階から1階へ段々降りてきてポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション カンが回転するアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

 

栞500 

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●#500. 白子より干鰯荷物附送り御世話罷成 千万忝奉存候
北浦権平より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。挨拶の後白子からの干鰯を荷物にして送ってもらったことへの御礼を書く。また他へ出ていて銭の持参が遅れたと書く。文の始め2行は追伸である。白子は伊勢国で関町とは近く伊勢湾に面している。「駄賃銭」は解読難であったが間違いないと思う。最後の覚の計算法が理解できていないがここではそのままを書いた、26駄は馬の荷26頭分で大変多い荷物である。なお金1両は大体銭4000-6000文=4-6貫文である。中断箇所は1行か2行と思う。

●#499. 便栄儀御本山継目御目見へ 早速御取次被成下候
御請書で上級の僧からの指示を金剛寺の興誉が認め請けるとする書である。ある寺(瑞光院)の住職を幼年の便栄が継いで(相続)勤めることになったがまだ幼年である。そこで梁察という僧が番代(代用の住職)となり便栄とともに勤めるように指示があった。そのことを師の興誉が認めますという内容である。便栄が13才になれば梁察は引き取る。両者は勤行や御本坊の用事はしっかり勤める。ついては便栄が住職を継ぐので、あなたと御本山への継目のお目見えの取次ぎを依頼する。1819年=文政2年、卯年霜月=11月のもので僧名より浄土宗の僧である。瑞光院、金剛寺はよくある寺名で場所は未定。御本坊も未定。ここの「御本山」は総本山の知恩院ではないようだ。

●#498. 鳥目四十八銅進候間 御入手可被下候
知り合いから伊勢国関陣屋川北久左衛門への返事の手紙。どこかよりの書状を差し下してもらった御礼とその時かかった賃銭48銅(48文)を持参するので受け取ってくださいと書く。「四十八銅」の表現が面白い。屏風の中貼りにて損傷あり。

●#497. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その四
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留めし百姓に回覧したものである。その4は過去の金銀の交換率を定めたことへの商人や両替人に対する申渡である。その3に掲載の交換率を越えて利潤を求める者は厳罰に処す。そのことを訴えて出た者には罪犯の者の財産を褒美をやると書く。最後はこの書を書いた美濃国加茂郡の役人の記述である。これを土地を持つ惣百姓へ回覧するように、また寺社、山伏、土地を持たない百姓へも伝達するようにと書く。この書類は1714年6月7日つまり申渡書が幕府より出た5月15日の22日後に地方の役人によって書かれ村々に廻されたもので貴重な文書と思う。ここに記載の村はほとんどは美濃国加茂郡で尾張名古屋藩領であった。勿論当時のこれと同じ古文書はネット検索では出ない。だが同様の文書が米国議会図書館にあることがわかった。以上でこの文書は終りである、読み易い文字であった。

●#496. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その三
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留め、百姓に回覧したものである。その3は慶長、元禄、宝永初期、宝永7年以後(只今金銀)、今後鋳造の金銀(新金銀)の交換率を示し、新金銀があまねく流布するまではすべて通用するようにと書いている。要約を下の表に示した。

●#495. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その弐
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留め、百姓に回覧したものである。その2では慶長以前の金銀はもちろん、元禄や宝永の金を減らした質の低下した金銀も新金銀と同様に定めた割合で通用するようにとのことを何度も書いている。その交換割合は次回にあり。年貢や借金、献上金すべてで古金銀も通用するように。ただ元禄の金はその1では折れ損があるとしていたがここでは大判は折れ損はないと書く。江戸、京、大坂に引替所があるが古金銀はここで新金銀に引き換える。

●#494. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その壱
1714年=正徳四年の改鋳といわれる新金銀を発行した時の幕府よりの書附を美濃国加茂郡の役人が書き留め、百姓に回覧したものである。先立つ元禄8年(1695年)と宝永7年(1710年)の2度の改鋳で小判の金実質量が減少し貨幣量は27%増加したため物価が著明に上昇していた。ここで慶長の金含有量と重量の重い大判と同じ貨幣を流通することになった。そこでこの達しである。ここに元禄8年(1695年)と宝永7年(1710年)の2度の改鋳で物価が上昇し人々が難儀しているので新貨幣を造り慶長の貨幣に戻すと書いている。またこの時は以前より金銀の産出量が減少したと書いている。最後に今回の沙汰に違犯するものがあれば厳罰に処すと記す。

●#493. 布五拾四反也 御銀〆七百八拾弐匁四分也
下に続いていとや忠蔵より加賀橋立北前船主大家屋又七への覚。4品目合計布54反を銀782.4匁で売った。荷造りに入用は代銀1匁8分である。支払いがあったので入帳した。細かい字の「かへ」は1反当りの値段である。計算は示さないが正しい。量が多いのでこれは北前船の航行の先で売り捌くための仕入れなのだろう。

●#492. 布拾三反也 御銀〆百九拾六匁五分也
いとや忠蔵より加賀橋立北前船主大家屋又七への覚。合計布13反を銀196.5匁で売った。支払いがあったので入帳した。布1反:幅37.5cm、長さ10.1mで着物1着分。細かい字は未解読である。大家屋又七は大家屋又右衛門の息子と思われる。

栞490 

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●#491. 御扶持米引け候哉と御尋に付 内分承候処引け不申候
小林儀兵衛より伊勢国関町川北久左衛門への手紙。昨日は遠慮御免を仰せ付られ御目出度いことです。あなたがこの度差控となった間に嘉蔵殿が申されるには御扶持米が引けるかとのお尋ねでした。内分に承った所では「引けない」です。その様に心得て承知下さい。この一通半右衛門殿へも届けて下さい。また年貢地代金は例年12月21日頃上納でそのように心得下さい。この「扶持米引ける」の意味はどうか。続きの文で「手形を替えるようにして下さい」とありおそらく年末の支払期日延長の目的で従来の手形を書き替えることを促している。#486のように川北久左衛門は近在の庄屋に対し貸金があった。この手形が庄屋の年末の支払い皆済で割引かれることだろうと思う。つまりここでは「皆済とはならない」と書いているようだ。「遠慮」と「遠慮御免」については下に記した。嘉蔵は久左衛門の部下に違いない。

●#490. 伊藤氏并松田屋え書状御届可被下候
伊勢国四日市一番本陣の清水太兵衛より同国関町本陣の川北久左衛門への手紙。伊藤氏や松田屋への書状を届けて下さいと書く。このように宿場本陣同士で物の輸送する機構があったに違いない。

●#489. 女筆の版本 九 紅葉も色を催し 高雄へ御伴ひ申度そんしまいらせ候
秋深き紅葉の季節の手紙。大きい黒字を順に読んでから最初に戻って小さい青字を読む。きれいな「候べく候」である。

●#488. 藤助如何相心得候哉 俄に致違変平襄所持之薮垣出張候
ある小百姓よりおそらく支配の役人、奉行への手紙。清六と藤助の2名が道筋の両側をはさんで地面を狭くしている。清六は道を元に戻すことで解決した。しかし藤助の薮垣の出張りの方は親が庄屋で村役では口出しし難いので召し出して心得違いを指摘してほしい。以上の内容である。今でもよくあることである、清六は耕して道を削って自分の地面に取り込んでいたのかも知れない。藤助は薮垣を大きく道の方に張り出していた。小百姓というが字は書きなれていて読みやすく、言語も教養ある人である。

●#487. 享保8年の濃州加茂郡野上村家大工御改帳
名古屋藩の武士井田源介に支配下の美濃国加茂郡野上村庄屋源右衛門が出した村の家大工の記載で村の家大工は勘介1人と書いている。これは細目村の半平の弟子である。1723年=享保8年の古い300年昔の記録。村の大工は専門職で武士としても把握しておきたかったことが解る。

●#486. 御入金被成残り金高拾両に 御都合被成置可被下候
伊勢国鈴鹿郡関町本陣川北久左衛門より同国鈴鹿郡大岡寺村庄屋服部卯兵衛への手紙。段々勘定を見ると別紙のように見えますので御考慮下さい。利足米を払うのも難しいようならば残り金10両にして不足金を入れてはどうでしょう。あなたに面会して得になるようにします。御苦労ですが1両日中にお越し下さい。利米:利足の米。年末で貸金につきどうするか面会の依頼の手紙である。大岡寺村は関の隣の村で現在は両方三重県亀山市である。川北久左衛門の自筆で関問屋、大御陣と書いている。本陣:旗本、大名など貴人の宿泊所。

●#485. 竹田観音寺へ入法仕候間 乍序御吹聴申上候
知人の僧から伏見材木商の長嶋屋治兵衛への手紙。御祝儀に金50疋を贈って貰ってありがたい。その後御礼を申し上げなかった。諸般混雑が多かったので御用捨を願う。近日竹田観音寺で法話を行うので他の人々に吹聴してほしい。また近日に拝顔の上おおよその事を申上ます。以上の内容である。一部切れがあるが青字で補った。

●#484. 此金子壱両少し切疵有之 御指替被下度候
児玉伊兵衛より越後国蒲原郡蔵主村の下級武士須田七之助への手紙。金子を拝借して有難かったが、1両切疵があるので取替をして欲しい。鯉一匹遣わしますので御内室様用いてください。以上の内容である。

●#483. 常陸国鹿嶋郡梶山村 近隣の村同士の廻状等八通
常陸国鹿嶋郡梶山村の役人が受け取った近隣の村同士の用状、廻状、高位の武士に関連した書類の受け渡しの記録である。常陸国は現茨城県。重要人物の場合は人足や通行用人馬を提供している。記載の「子年」は1864年と思われる。梶山村(現茨城県鉾田市梶山)など掲載の村はすべて現茨城県鉾田市。

●#482. 改年之御慶目出度申納候
丹羽重次郎より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への新年の手紙。典型的なものである。

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●#481. 無拠被頼候に付 三州西尾へ之便りに御届被下候
伊賀上野とい屋安助より伊勢国関町陣屋川北久左衛門への手紙。宿場伝えに金や手紙などを送る依頼である。三州西尾(現愛知県西尾市)への便で送って下さいと書く。幕府に関連した重要な書類などはこのように宿場伝に送ることがあった。赤色は欠陥を予想して補った。

●#480. 御頼申置候登金之儀 未に貴公処迄相届不申候哉
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙である。内容は大名行列衆が江戸への登りで久左衛門の陣屋に泊まった際の登金(宿泊金)のことであろう。久左衛門は93両をまだ受け取っていないと会計係の武士に尋ねた。その返事がこれである。封のままで番頭か誰かに渡したのではないかと書く。後切れで残念である。

●#479. 売渡し申証文面にて候へば 村方へ持地仕度意趣にても御取用無御座候
ある侍から若い侍(貴若様)への手紙。名古屋の岡田屋が持つ内記村の地所を吉田屋へ譲ることにて調印を依頼に来た。土地は村方(百姓)に管理させる意向を知行所が持っていて示談中だった。一方岡田屋は190両で土地を吉田屋へ売渡す証文を作ってしまった。よってこの土地の検見(税額決定)は吉田屋から管轄の奉行(喜左衛門殿)へ依頼すべきもので岡田屋があなたに検見を依頼しに来ても受けないように。以上の内容である。訂正が多く原稿として保存したものに違いない。知行所は百姓に管理させてしっかり税金を取たかったであろうがそうはいかなかった。この文章より土地を売り渡したとする証文は非常に強い力があり周囲が議論して変更する余地がなかったことがわかる。「御取用無御座候」である。美濃国内記村は美濃郡代所管の幕府領であった。

●#478. 御親父様従御役被仰付 重畳目出度奉存候
手紙を受けた人の親父さんが役を上司から仰せ付られて御目出度い。よってお祝いの品を送りますとの内容である。役替とか役付は武士では出世で佳い御目出度い事であった。

●#477. 珍敷一冊借用申候 寛々一覧大慶不少難有候
大変親しい人から伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙。断簡で追伸は最初の赤囲いの部分のみである。粕折(鰊や油粕で肥料か)400個持参すること、御馳走になった時川北久左衛門の兄五郎より珍しい本を借用して「珍敷で大慶」した御礼。また令兄に会う時馬の薬を持参しますが如何かとの手紙である。追伸では本一冊返却すると書く。

●#476. 久々乾候上大火に為可申勢之所 先弐軒にて治り候
伊勢国関町陣屋川北久左衛門が受けた手紙。久左衛門を伊勢神宮に参詣させるようにいわれている事、祭りの事、火事やつけ火(放火)の事が書かれている。場所は五十川(五十鈴川)、野村より伊勢神宮、伊勢市のことに違いないと思う。

●#475. 貴宿渡永之儀 代金別帋之通為持遣申候
薗田庄八より伊勢国関町本陣の川北久左衛門への手紙。久左衛門に渡るべき金を入手したので別紙のように持参しますから請取下さいという内容である。手紙は屏風の中張りに使われていたものである。

●#474. 御当地稲荷大明神御開帳大火にて延引に御座候
梅井与兵衛から伊勢国関町川北久左衛門への返事の手紙。当地へ稲荷大明神を開帳するにあたり京都真如堂稲荷大明神への使いが帰着した。道中は節約して費用は少なかった。先月29日、30日に大火がありこの開帳の行事は延引にするよう京都に依頼する。追伸では自分の家が類焼し書状が遅れたと書いている。なお稲荷大明神は真如堂山門を入り、直ぐ左手にあり日本最初の稲荷大明神である。

●#473. 椹丸太有切御わけ可被下候 私は明より明後十八日之朝帰宅致候
京都近江屋清高の内の長次郎より伏見材木屋の長嶋屋治兵衛への手紙。治兵衛の仕入れた椹(さわら)の丸太を高瀬川辺にて買い取りますとの便り。車代はこちら近七様で負担しますとのこと。屋根板、道具物はどれほど持っているか調べてお知らせ下さい。また明後日まで留守にします。やや不明な所はあるが大意は理解できる。高瀬は伏見の西高瀬川辺のことで水運で京都、大坂とつながっている所。伏水は伏見、やはぎ町は矢作(矢を作る人)町と思うが伏見の古地図では不明であった。長嶋屋治兵衛への他の手紙では丹波橋町、堀詰町(丹波橋町に近い)とあるので伏見の中心に店があった。#469でも大坂の材木屋に椹の値段を尋ねられている、他の材木屋も治兵衛の仕入れた椹の丸太に注目していた。

●#472. 讃岐守様貴宅御滞留 如何御様子承度候
伊藤重兵衛より清水太兵衛への武家同士の手紙である。まず留守をしている間御世話になったと礼を 述べる。次に讃岐守様が貴宅に滞留しているにつき御意見人を指し向けるので様子を承りたいとする。これは地頭所(奉行所)も注意していて入念に様子を聞きたいとのことである。最後手紙を記した時間も書いているのは珍しい。暮六つ半時は午後7時である。無恙:つつがなく。

栞470 

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●#471. 三橋屋方へ花十五俵御遣し被下候 あれ切にて入置候所無御座候
京都いか屋より伏見材木商長嶋屋治兵衛への手紙。気候と健康の挨拶の後京都四条高瀬川辺の縄手にある三橋屋へ花15俵届けたがそれ以上の置場所はないとのことで残りの15俵は自分が預かっているとの連絡である。伏見は京都の南で高瀬川で連絡しておりさらに宇治川、淀川で大坂につながる。丹波橋は伏見の中心である。#130、#117に地図が表示。「ちん済」は手紙の運送代金を支払い済の意味だろう。手紙は最後1行だけ切れているが詳細な表書きが付いている。1部切れた所を補っているが大体当っていると思う。

●#470. 御茶屋之屋根御普請に参候 手伝も五人御申付可被下候
渡辺文六から伊勢国関町川北久左衛門への手紙。久左衛門の茶屋の屋根を普請して直すことに関する用事である。五兵衛という屋守と手伝いを5人準備を依頼する。川北久左衛門は関町の本陣と問屋の人である。

●#469. 椹値段如何程にて御売被成候哉
大坂の余助より伏見材木商長嶋屋治兵衛への手紙。椹の材木の値段の問合せである。「本九三五」はサイズと思う。3寸(9cm)、5寸(15cm)ではないだろうか。商標の全印、山日印入りの値段である。

●#468. 御不快御心配 江戸之丸子御用ひ被懸金壱両壱朱御下し
村上屋勘右衛門より長嶋屋治兵衛への別の手紙である。伏見の治兵衛のおそらく息子幸治郎が病気で不快である。大坂の村上屋へ丸子(薬)を江戸から取寄せるよう依頼し1両1朱渡した。それに対する返事で早急に薬を差し登らせるので御入手下さいと書く。宛名は切れているが間違いなく長嶋屋宛である。

●#467. 平専殿壱貫目之銀子又々御延引 甚立腹仕居申候
#466に続いて村上屋勘右衛門は長嶋屋治兵衛に手紙を書いた。茨木屋と長嶋屋は大変近親同士である。自分の商売が大差支えと書いている。#401も同様の手紙で村上屋から茨木屋への宛先である。ここの平専の書状とは#466である。

●#466. 茨木様方銀子儀先定日より段々延引に相成候 御引見可被下候
平野屋専蔵から村上屋勘右衛門への手紙。#401の関連の手紙で大坂の村上屋勘右衛門は伏見の茨木屋徳兵衛と深い間柄である。よって平野屋専蔵は一貫目の銀の支払いをしない茨木屋徳兵衛に支払うように催促する手紙を勘右衛門に出したわけである。右の断簡は翌日勘右衛門が茨木屋徳兵衛へ出した書状の宛名である、これは#401である。

●#465. 川北久左衛門への短報三通 高誂灯七張繕出来致候
伊勢国関町川北久左衛門の受け取った短報である。

●#464. 女筆の版本 八 庭前の菊の花さきまいらせ候まま 二本おくりまいらせ候
重陽の節句の手紙である。 9月9日は菊花に関連した節句である。「お常様」の後の脇付は読みが違うかもしれない。返事の手紙の番号は黒字を読んだ後で番号順に読む。

●#463. 此方へ御出勤被成候砌 私宅えも御立寄可被下候委細は貴面にて
伊勢関町川北久左衛門が受け取った手紙の断簡。あなたの言葉を近日中にそれぞれの者へ伺候してお目に掛けます。そのように御心得下さい。こちらへ御出勤の時私宅へ御立寄り下さい。詳しくはお会いして申上ます。

●#462. 慥成便無之候に付 手紙而已差上置候段恐入奉存候
北前船回航中の伊右衛門より加賀橋立船主増田又右衛門への手紙。健康の挨拶のあと、黒崎村の理助の勘定の残り金は確かなる便がなく手紙のみ差上げること、塩谷村の買い置きで兵次郎殿へ45円差上げたのでこれを受取ください。以上の内容である。黒崎村は橋立村の西隣の村で現加賀市黒崎町。塩谷村は現小樽市西部で北前船の活躍した場所である。明治初期の文書である。

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●#461. 其砌差上候大鳥居手足の形 御戻し被為下候様御入念候
伊勢関町川北久左衛門が受け取った手紙。時候と健康の挨拶の後、おそらく差出人は伊勢神宮の大鳥居の手足の形、寸法などを書いた紙を久左衛門に渡した。その紙を用事が済んだら先方に返却するように久左衛門に依頼している。差出人は「旦那様」と書いているので久左衛門とは非常に親しい人に違いない。

●#460. 三つ具足義御世話被下忝奉存候 大ふりにして合候て宜御座候
美濃国羽栗郡竹ケ鼻村飴屋七兵衛の手紙の原稿。おそらく三つ具足という仏具を人を通じて宮屋という店に注文した。その模型を仏壇に飾って前のよりは寸法が大きく宜しいと書き、この形で正式の金属製の三具足の製作を依頼する手紙であろう。浄土真宗の一派では鶴亀の燭台を使う。1-4は追伸で最後に読む所。これは屏風の中張りに使われていたものである。

●#459. 伊八助右衛門両人今夕方及騒諍 助右衛門義疵所出来候
町内で騒乱があり負傷者が出た時、町の長の年寄連が町奉行に差出した一札で興味深いものである。伊八と助右衛門が今夕騒乱になった。けんかになり助右衛門は負傷した。奉行は吟味し両人と源三(伊八の組頭)、新助(助右衛門の組頭)の計4名を町預け(町内監禁)にと命令した。そこでこの「監禁の者が逃げたら町役一同がどんな仕打ちを受けても申し訳けしません」との一札を年寄連より提出させた。伊八と助右衛門の関係者として五人組の者の名前、親類の名前、さらに組親(おそらく各組の中の年寄たち)の名前を載せる。このように武士の奉行は百姓や町人を喧嘩両成敗、五人組の連帯責任にして懲罰し強固に支配した、もちろん幕府のお上の施策である。特に「喧嘩両成敗」は評判が大変悪かった。1853年=嘉永6年3月の文書である。

●#458. 先日は御不快之由何様御困と奉推察候 御不沙汰に打過失敬至極に奉存候
西方藤次郎より越後国蒲原郡蔵主村の下級武士須田七之助への手紙。 先日の病気で不快であったことの御見舞と粗菓子進呈、七之助の姉の安産祝いと頭巾進呈、藤次郎の悴が大工で七之助依頼の仕事が悴の上り仕事で延引になるのでその都合でよいのか。そのような内容である。姉の住む蒲原郡金津村は須田七之助の蔵主村に大変近い、#392に地図あり。

●#457. きんきんに一度御こし下されますよふに くれくれもたのみます
女性よりおそらく伊勢国関町川北久右衛門への手紙。内容は先日の何かしてもらった事への御礼と近日中に来訪を乞うことである。最後の「たよりの者」との書き方などから深い知り合いの人に違いない。芸者か妾からの手紙ではないだろうか。

●#456. 弟子純法義関東へ修学に差遣候 登山節万々御尋聞可被成候
定福寺真海より生蓮社察誉への手紙。弟子の純法が関東へ修学の節立寄るのでよろしくとの趣旨である。贈答の広島海苔はかつて浅草海苔と並んで名を馳せた。ここでは海苔を「葉」と数えている。おそらく東京あたりの浄土宗の僧、察誉の詳細は不明。浄土宗の定福寺は広島県福山市にあるが他にもある。1点物で屏風の中貼りで他に関連の手紙はない。

●#455. 壱ケ年切之奉公相究尤借銀之儀は三拾五匁にて相際め 銀子只今慥受取
1ケ年切の奉公に息子を給銀35匁で出す請状である。1854年=嘉永7年12月。出したのは大和国葛下郡上牧村の源五郎で相手は大和国葛下郡五ケ所村庄屋の与次兵衛である。両村は近隣同士で大和郡山藩領である。#385の奉公人証文は同じ庄屋与次兵衛のもので1856年、銀95匁であった。こちらは大分安いと思う。

●#454. 廿八両取逃其上上州より態々江戸表へ罷越
関東の商家の家で抱えていた者の事をおそらく奉行に報告した写し。11才から奉公に来て勤めていたが21歳の時63両を取込んだので暇を出した。2年前夏より再度勤めたいとのことで許した。今年秋に関東へ買物に出た時28両余取逃した。当村の忠左衛門殿方にて金子百両取り木曽路へ出て10月帰宅した。この若者は徐々に無頼人になっていったようだ。関連書はなく詳細は不明。

●#453. 女筆の版本 七 盆のめてたさ 御娘子様御成人にておとりの御装束もうつくしく
盆のお祝いの手紙。安永ころは盆は成人の娘が着飾る時であったことがわかる。「鬧=閙」とさわがしい季節である。鬧と鬥(とうがまえ)を初めて知った、騒がしそうな字が多い。

●#452. 兼て御苦労に相成り候悴儀今に何共相分り不申 甚た心外に奉存候
松井源太夫から日比野藤兵衛への手紙。時候と健康の挨拶。源太夫の悴が藤兵衛の所に御世話になっていたらしいが行方不明らしい。今須宿の三左衛門氏にも申し出たが貴方がいないのでなんともできない。当地の高田藤一郎殿がそちらにゆく時に話してみてほしい。春照宿の問屋市川吉右衛門氏が下る時にも便を託します。場所は今須、春照より関が原から北西に伊吹山南麓から北国街道へ合流する北国脇往還あたりである。記載人物より時代は1833年(天保4年)ころらしい。二人はおそらく宿場関係の伝馬、問屋商人かと思われる。他にこの手紙の関連の文書などはない。

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●#451. 女筆の版本 六 七夕の御祝義牽牛織女の御ちきり
七夕の御祝儀と来訪を願う手紙。

●#450. 平安時代頃までの数の数え方 ももちあまりいそぢをかきあつめ
狂歌師で国学者石川雅望(1754-1830)が和歌集や土佐日記などに記された「雅言」を集めて出版した「雅言集覧」という本(1826年発刊)を入手した。このなかに古い時代の数の数え方が掲載されており面白かったので掲載する。江戸時代後期には日常で大和詞は使用されてなく「ここのつ、とを」までであったろう、「とおあまりみつ」とは言わず「じゅうさん」と言ったに違いない。この本には「みそちあまりふたつの形=三十二相をいへり」とはっきり記載されている。よって1826年には32を「さんじゅうに」と呼んだのである。別に「みつももちむそぢ=三百六十也」との記載もある。よって1826年には360は「さんびゃくろくじゅう」と呼んだのである。文政のころは賀茂季鷹、本居宣長、香川景樹はじめ和歌、国学が殿上人に限らず一般人にも浸透してゆくので雅言集覧のような大和詞を集合した本には需要があった。やそ(耶蘇)より「ちとせやおはたちあまりむつ」(1826年)の本、優雅な大和の音感があるね。なお「明治以後」徳川茂承の和歌では「一本=ひともと」と詠んでいる。今でも「とお」までと「はたち、はつか」はよく使われ生きている。

●#449. 文政拾三年五月 大洪水にて川越え頼み漸々越来候処 宮崎川支に付東根へ泊り
出羽国村山郡慈恩寺最上院の僧禅林坊が書いた記録。1830年=文政13年5月27日最上川が氾濫して大洪水があった。禅林坊は尾花沢へ出張して帰るに大きく廻って天童に出て船を頼んで帰山した。このあたりの村の地名がたくさん出ている、これらの地名が現代でも住所の最後に残っているのは調べていてうれしい事である。

●#448. 彦根藩伊賀御歩行中杢御扶持方渡り 過不相納候に付御取立
雨森甲介から明塚半蔵への手紙。内容は複雑なので図に解説した。雨森氏は藩士の過料(あやまち金)を徴収する役の武士である。昨年末12月までに埒明(解決)せず残っていた過料を明塚氏、さらに小堀氏(彦根藩伊賀歩行衆の頭)と上司を介して徴収していることがわかる。1人目伊賀歩行衆の杢(もく、名前)の過料の話がほとんどである。別の未納者、高野瀬信介氏の分は相部屋の横田層九郎氏が納め埒明した。この文書で様々なことがわかる、藩の武士に過料という罰金制度があったこと、それを徴収する役の武士がいたこと、徴収は上司にあたる人や取次役を介して行うこと、さらに「定夫(ありき)」と呼ばれる衆の取次役が居た事である。また特に伊賀歩行衆と呼ばれる忍者衆が彦根藩に居たことは興味深い。伊賀衆は彦根城下の伊賀町(現彦根市錦町)に住んでいたので#114で掲載の明塚半蔵が江戸世田谷勤務する手紙より前の半蔵が彦根に勤務していた時の事件であろうと思う。この手紙で大変勉強になった。

●#447. 庭訓往来挿絵 その五 蛍雪鑽仰之功不可捐
古い「庭訓往来」の本の挿絵から抜粋。解説は図に記入した。 捐:えん、すてること。寄付する意味もあるが「棄捐」のように廃棄の意味もある。ここでは「捐」にむなしいと訓をうっている。

●#446. 庭訓往来挿絵 その四 伊予簾、播磨椙原、備後酒、越後塩引、熊掌
古い「庭訓往来」の本の挿絵から抜粋。解説は図に記入した。室町時代の様々な各地の名産品がわかる。

●#445. 庭訓往来挿絵 その三 大津坂本馬借、醍醐烏頭布、小野炭、仁和寺眉作、西山心太
古い「庭訓往来」の本の挿絵から抜粋。解説は図に記入した。今回は地名入でやや難解のものがあり時間がかかった。

●#444. 庭訓往来挿絵 その弐 櫛挽、烏帽子折、沽酒、土器作
古い「庭訓往来」の本の挿絵から抜粋。解説は図に記入した。 白拍子の画は江戸後期-I、中島来章に作品あり。赤い袴、烏帽子を被り刀を差しているのが特徴。

●#443. 庭訓往来挿絵 その壱 金銀銅細工、鍛治師、番匠、蚕養
古い「庭訓往来」の本の挿絵から抜粋。解説は図に記入した。様々な職業が室町時代からあったことがわかる。番匠(ばんしょう)は地名、名字によくみら れる。楫取はかんどりともいわれた。

●#442. 普門坊酒犯之義に付 此度は内分被成下候様御断申上候
出羽国村山郡に大寺、慈恩寺(天台、真言宗の並存)がある、現山形県寒河江市慈恩寺。この文書は慈恩寺の中に3院ある内の最上院(天台宗)の僧、禅林坊の記した帳面である。1827年=文政10年亥の記事。「8月24日柴橋役所の役人が2-3人当寺に来て在住の普門坊が不正な事をして過言ありとした。召捕られたので右の者が掛け合うが及ばず、証人宗信寺が立ち入りやっと貰い受けた。一札入れた」。「皆様村々を取り締まりに出役の所、寺で不法があると申し立てた者があり。これを調べた所当寺の普門坊で確かに申立通り相違ありません。これは酒犯の事なのでこの度の事は内分にされるようと申上ましたが、了解され普門坊を引き渡しなされました。今後は不法しないよう厳しく申付ます」。僧が酒を飲んでいると通報した者があり、役人に召し捕らえられた。普門坊は禅林坊と共に慈恩寺最上院に住した仲間である。柴橋村は幕府領であった。最上院には役人が別に居たが、犯行は別扱いで柴橋村駐在の役人(警察官)であったようだ。現代の市役所の事務職員と警察官との違いと同じようである。この書より僧の酒犯は大目にみていたことがわかる。

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●#441. 浅草のり御地そうにいたし候様 御登し被下山々悦まいらせ候
彦根の母から彦根藩領世田谷代官所勤務の明塚半蔵への返事の手紙。長い手紙なので要点だけ記す。「当方元気です。金太郎もゆっくり歩くようになり達者です。金太郎へのかたびら(帷子)よい絣模様ですね。早く仕立てて着せたいです。お菓子のらくかん(落雁)に金太郎もたいへん喜びます。じばん、足袋、ねまき送るようにとのこと承知しました。最近は御地同様に蚊もめっきりと出るようになって困ります。金太郎の子守を下女にさせず私にとのこと承知しました。下女だと手荒くなりますから。尚浅草海苔御送りの品、御馳走になろうと喜んでいます、御礼申します。次第に暑くなります。御身体お厭いください」。「蚊もめきと出申候て」「めきと歩き」と「めきと」が2ヶ所出ている。「めきと」は現代の「めっきり」の原型である。「めく」の動詞が意味は「(変化して)らしくなる」である。例:春めく=(冬から変化して)春らしくなる。「蚊もめきと出申候て」は「(蚊は出てなかったのが変化して)蚊が出るようになり」であり、「めきとあるき」は「(歩けなかったのが変化して)歩くようになり」である。よって「めっきり」の語源もここの「めきと」と動詞「めく」に違いない。例:めっきり春らしくなる。なお大辞林(ウェブ:コトバンク)には「めきと」=「めっきりと」とはっきり掲載されていた、すばらしい。なお#250にも「めきと」が出ている。字は総体的に難字で充分解読出来ない所もあるが、要旨は間違いない。#418もこの母の手紙である。

●#440. 用文章その八 最早年内無余日候 随分寒気御厭可被成候
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その八は歳暮の挨拶である。これでこの一連は終了である。このように用文、季節の手紙を書写したものはよく見るが、どれも丁寧に練習している。我々と違って書くことが大事であったから。

●#439. 女筆の版本 五 端午の御祝儀めてたく申おさめ候 くす玉かさり粽菖蒲
端午の節句の手紙と返事である。二色とははっきりしないが二色の鯉幟(こいのぼり)のことと思う。この本は安永頃のものである。ここでは「かしく」ははっきり「か」を書いている。最後の脇付は「参る」は間違いないと思うが省略形であり違うかもしれない。

●#438. 鰊笹目伊丹屋にて掛合漸々に売払仕候
倅又五郎から加賀橋立北前船主増田又右衛門への手紙。商売の様子を詳しく報告している。やや不明の所があるが、又五郎は権七と北前船に乗って鰊、笹目など魚肥料を搭載して大坂方面に来ている。そこの伊丹屋で手配してこれらを売り払った。権七は船主らしいが舟に滞在していて販売を自分に頼んだ。自分は手配して漸々に売り払った。弟の又七に大豆を売った。また又右衛門が注文していた品々を買い求めてゆく。以上の内容である。

●#437. 本宅へ逗留いたし居候処 挨拶致候人多有之候
おそらく武士から越後国蒲原郡蔵主村の下級武士須田七之助への手紙。「皆様御堅勝で御目出度いです。当方も無事に暮しています。御安意ください。お聞きの通り私は去秋は本宅へ帰り逗留しましたが、いろいろ挨拶すべき人が多くいました。あなたが帰宅された今は家で睦まじく暮しています。その所」。行違いで面会できなかったことを話す。父が住む本宅と今自分の住む家があることがわかる。本宅は白根村近辺にある。

●#436. 用文章その七 上巳之御祝詞目出度奉存候
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その7は桃の節句である。読みやすい文章である。文章は3日読まなかったら調子が落ちるのは本当と思う。「三日不読書 語言無味」:三日読書をしなければ、語言に味が無くなる。関思恭(江戸後期-II)の作品にある言葉。継続は力なり。

●#435. 別紙証文御加印被下度奉願上候 客来取込中
Δ小より丸文への証文への押印依頼の手紙。「申上にくいことですが別紙の証文に御加印下さい。私が参上するべきですけど一寸来客で取込中です。明日にも参上しますので宜敷願います。なお間数の取調べを為さない一件はどうなりましたか、聞きたいです」。親しい商人同士の手紙だが一点物の手紙で商売などの詳細に就いては不明である。文頭「甚申上」の「上」はまず左に流れて横に行きそれから跳ね上がって回している、この書き方は稀なもので「心」に似ている。文末の「不備」の「備」もユニーク。

●#434. 此地にては一銭は銀一匁三分にて 家賃は月に銀二拾匁にて御座候
ここでは江戸時代幕末の家賃の計算に「銭」という単位が銀の匁と共に記載されていた。これは国に銀が不足して困り銭を60-100枚括って銀1匁として通用していた「匁銭」といわれたものらしい。図に記載したがこの文書で初めて知った。これは明治以後の銭(1円が100銭)とは全く異なる違うものである。

●#433. 折節任出来松茸壱籠令進覧候 寔音問之験計候
秋の松茸の季節の贈呈と来宅の要請の短い文章の筆写である。「世の中沢山あるものですが、時節松茸が出て来ましたので1籠進覧します。手紙のしるし迄。お手透きの時に御来宅下さい、お待ちしています」。綺麗な言葉でつづられている。短文で必要充分な内容を表した好例である。

●#432. 女筆の版本 四 結構成ひいな一対おくり下され 浅からぬ御礼申あけ候
ひな祭りにお雛様を贈られてそれへのお礼の手紙。近々御面会に参りお礼を申上ますと書く。 けふに「気=け」を使用しているのはやや稀と思う。典型的な「候べく候:そうろうべくそうろう」が出ている。通常「かしく」は「か」の部分が小さくてもあるが、この版本はこのように「か」が全く無いものが多い。

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●#431. 女筆の版本 三 五もしたち御ひいなあそひ賑々しさ 菱あも一折送りまいらせ候
桃の節句の御祝詞の手紙である。ここに「五もし」とあるが#224に御五もし様とあり、これがたしかに「御嬢様」の意味と確認できる。「菱あも」は「菱餅」のことである。古語辞典(小学館)に「あも」は小児語で「もち、餅」のことと掲載があった。また早稲田大学所蔵で1775年=安永4年刊の「物類称呼」に、餅を関西であもと呼ぶとある。すばらしい。この本は1780年頃の古い女筆本だから「あも」とある。ひいなあそひ:ひな遊び。

●#430. 益御勇健被為遊 御超歳乍憚目出度御義奉存候
下の新年の挨拶に関連で実際の讃岐の侍の手紙。楷書に近く大変読み易い手紙。楷書に近いほど相手を敬っていると考えてよい。固茲は「こじ」と読むかどうか不明だが意味は「今年も変わらず」に違いない。

●#429. 用文章その六 新年御吉慶 御重歳目出度御儀奉存候 次当方無異加年仕候
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その6は新年の挨拶である。典型的なもので字は分明。この人の恙と忝は似ている。#200、#140には実際の新年の手紙、#386には新年の手紙への返事がある。また#387、#415は女筆の新年の挨拶である。

●#428. 当十四日下関表安着仕候間 此段御尊意易思召可被下候
北前船の増田清次郎から増田又右衛門への手紙。「秋冷の所御主家様御機嫌よくされ目出度いです。私共も皆無事で14日下関に着きました。御安心下さい。さて私は数の子を多く積み入れて登り当地で半分売払いたいと思いましたが、先船が145、6の出来でもう1かけ上迄と〆て気張っています。先ずは入船御安心の報まで」。数の子は北海道で積み込み上方へ運ぶ主荷物の1つであった。#388にも増田清次郎の手紙がある。

●#427. 御所鹿子 曙染 絞染 反古染 数もかきりもあらし吹品々持せ進しまいらせ候
染物屋がお得意様に様々な染色法を紹介しすすめたものを散らし書きにした、珍しい文章である。大変調子がよい文である。小さい文字のものは太字のあとで番号順に読む。

●#426. 用文章その五 中元刺鯖十指呈上之仕候 些御祝儀可申上験迄
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その5は中元7月15日である。中元といえば荷飯、刺鯖が定番であった。最後の「面会でもって感謝申上ます」の所の漢字が不明。

●#425. 不仕合相重り数千両之借金に相成 方々え申訳も無之候
下条村や白根など旧越後国蒲原郡の地名がある。商売店の手代か番頭が白根村の善之助かその父上田屋へ金子の催促に行くことになった。しかし別の商売人、下条村の治助が1昨日上田屋へ金子の催促に行った時の事が書かれる。「よろしくお聞き下さい。借金が善之助殿より(父の)上田屋へ取替金となりました。私が催促に参る算段ですが下条村の治助殿が催促に行かれて上田屋の御挨拶には”私も様々不仕合が続き数千両の借金となり皆様へ申し訳ないです。なお悴の善之助の失敗に商売できずこの6月悴は家出しました。その後だんだん商売し、本家へ金の無心を頼みました。やっと了解され安堵しました。これを元手に将来何とか善之助の借金も残らず勘定します。只今は有り合わせの金子がなくこの年末か年賦払いで御勘定下さい”とのことです」。商売もなかなか大変である。他の文書より幕末頃の新潟近郊の手紙であるが、商売の内容などは不明である。

●#424. 用文章その四 端午之節句 餝甲并御肴一折進上之仕候
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その4は端午之節句5月5日である。綺麗で読み易い。「慶応元(年)」は息子の金太郎が書いたもの。

●#423. 女筆の版本 弐 七種の御しうき沢辺の若菜つみはやし候半と存じまいらせ候
本邦ではすでに万葉集のころから年の初め野に出て草を摘み取る「若菜摘み」が行われた。一方中国から伝わった七種類の野菜の「七草かゆ」を旧暦1月7日に食す習慣があり本邦でも広まった。この両者が合体した「7種の御祝儀」は人日(じんじつ)の節句ともいわれ節句の1つであり、また徳川幕府の公式行事で各江戸詰の大名が装束で登城した。一方恵方参りは元日に家より恵方に当たる社寺に参詣することである。この頃は7種の御祝儀と恵方参りは同じ時に行っていたことがわかる。候半と:候らわんと。

●#422. 何分非常之金詰 此後金融及諸下模様にて候
増田某より北前船のトップ増田又右衛門への手紙。「寒気が増してきました。皆様御清適で御目出度いです」。以下読めても意味がやや不明な点が多い。金詰まりでデフレで需要が少なく安値に困惑していることが書かれる。明治初期の北前船の船主である。変化は後便御注進可申上候とあり仲間には違いないが、御用向之程奉願上候とあり増田家の人だが支店で計上は異なるのだろう。#170より最後は又一郎に違いない。

栞420 

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●#421. 女筆の版本 壱 みなみな様御そくもしの御ことふき 千とせまてもと祝入まいらせ候
女筆の版本その1。新春の挨拶とその返事である。書名、書家は不明。相当古い本で安永から天明ころの1780年ころのものと思う。きれいで読み易い字である。版本では長谷川妙躰という人の筆が有名。

●#420. 時節にて眺望も御座候間 茸狩旁御遊来之程奉待上候
亀山鶴之助より篠常三郎への礼状。「御無礼まかり過ぎました。寒冷が増しますが、貴家御揃御勇健で恐悦です。こちらも無異に過しています。柿、酢、酒粕、飾り餅戴き恐縮します。遅くなりましたがまつたけ少々謹呈します。当地は陰地ですが山に登ると澄み渡っています。きのこ狩りに御遊来下さい。書外は拝顔の節申上ます。寒冷につき御自愛専一です」。謙譲語と尊敬語が大変たくさんある手紙で勉強になった。特に鳳、おおとりは大きな尊敬語。手紙は1点物である。使用の単語よりかなり教養の高い武士であるが現代に名は残っていないようだ。

●#419. 用文章その三 重陽之節句 庭之菊花今盛に相成候
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その3は重陽之節句9月9日である。読み易い字である。ここは手紙に柴栗を贈り、返事では酒一樽ありがたく御礼をと書き合わないが実際の手紙でなく手本なので構わない。重陽は菊酒、栗御飯がその季節の食物である。旧暦だから今の10月である。「臨」、「美」はやや非定型。

●#418. 内股にしもつ出き又こうもんのきわにも出き 夫ゆへ西沢道安様へかけ申候所
彦根の母より彦根藩領世田谷代官所出張の武士明塚半蔵への長い手紙。「先便にて金子届きました、御礼申上ます。およしも内股に腫物(しゅもつ)ができ肛門のきわにも出たので西沢道安様にかかりましたが痔瘻というもので、内股は腫物(しゅもつ)ですとのこと。服薬、膏薬をもらいましたが同じく痛みます。大変困りました、近々には治らず長引きます。全身の気分が悪くないので心配はないとのこと。それで申上ませんでした。追伸:白砂糖を送っていただき重宝で悦びました。また毎月にしていただけば悦びます」。およしさんの痔のことが中心である。#351にも掲載の通り西沢道安(西沢道庵)は彦根瓦焼町の有名な医師であり現代に名が残る。およしは半蔵の弟の嫁らしい。半蔵の妻はきわである(#250参照)。本文の意味は把握できるが最後の細字部分は不明の部分がある。字は全体に個性のあるもので難字が多い。

●#417. 用文章その弐 八朔之慶賀にて御座候
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その2は八朔である。上巳(桃の節句)、端午、七夕、重陽の節句と違い八朔は地味な慶賀の日である。旧暦8月朔日に農家で早稲(田の実)を贈る習慣があった、後に武家も「頼み」の人に贈り物をするようになった。特別な贈り物はない、五明(扇子)など贈った。ここは行器1つ贈っている。従:より。「互」と「楽」を示したが、文脈で判断が重要。

●#416. 暑中伺書面之趣 及被寄候処入念仕候
谷越後守より御門主への暑中の返事の手紙。左上の宛先は切られていた。令披見候は相手を下にみた表現。御門主は上位の僧に違いない。文末は「御書に也恐惶謹言」、「お書きになり恐れ畏まります」との意味だと思う。ここの「主」、「色」、「越」は難字であった。谷時亮越後守はおそらく京都の公家で、娘は伊丹久子(1829-1918)という男爵夫人である。

●#415. 女筆手本その十 初はるの御寿めてたく候
女筆の手本その10。「江田小さい」の記述は初めて見た。自分は小さいとの謙譲語に違いない。御しうし:御祝詞。これで江田きしらが写した女筆手本は終了である。きれいで読み易い字であった。実際の手紙はこんなにきれいにわかりやすく書いてはくれない。別に女筆手本の本を所持するので追々掲載予定。

●#414. 山崎万右衛門 三 御上様への文化四年調達金にて御座候 貴公解読被成候哉
遠江国掛川の豪商4代目山崎万右衛門の店おろし帳(資産帳)の実例を掲載する。1807年=文化4年の掛川藩主への調達金の記載と計算を示した。金1473両であった。記載の暗号は計算に合致した。これは勿論4代目山崎万右衛門の自筆である。ここの永は利足を記入しているようだが、計算には計上していない。その他の村貸し、諸方漬込みなども同様式で記載されている。ここの市右衛門は遠江国佐野郡宮脇村(現掛川市宮脇)に住む人で万右衛門の掛川西町とは極めて近い。3代目山崎万右衛門のことは論文にも掲載がなく全く不詳である。だが進物帳の字は達筆で商人らしい分明な字でしっかりした人で手代などにも尊敬されていた。以上で4代目山崎万右衛門の店卸し帳と3代目山崎万右衛門の進物帳の掲載は終了である。私は大きに大きに広範な知識が勉強になった、3代目と4代目山崎万右衛門さんに万謝申し上げたい、おおきにおおきに。参考論文:「掛川市松ケ岡プロジェクトの背景と構想」。

●#413. 山崎万右衛門進物帳 九 鍋嶋様は肥前小城藩の御殿様にて掛川を御通行被成候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。九は肥前小城藩主鍋島氏よりの受納品である。さらに4代目が鍋島氏に計300両の調達金をしていた。記載のように東海道を通行中に懇意になったに違いない。小城藩は7万4000石で現佐賀県小城市。

●#412. 山崎万右衛門進物帳 八 井上様は月岡陣屋様にて茶を能被下置候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。八は月岡陣屋井上氏よりの受納品である。計6回茶の品があり多かった。井上氏は4000石の旗本で寄合であった幕臣である。

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●#411. 山崎万右衛門進物帳 七 浜松様より受納は大きにも調達金は無利足にて御得意様にては有間敷候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。七は浜松藩よりの受納品である。計8回あり多かった。しかし4代目の卸し帳では無利息もあり調達金は年々減少した。大鶴や大鳥の記載が3度もあり鶴は食用とされていたことがわかる。あまりおいしくないので殿様への献上品を廻されたのではないだろうか。

●#410. 山崎万右衛門進物帳 六 受納も様々有之候処 尼崎斎田様より殊に珍重物頂戴致候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。六は受納品である。様々な品がある。ここの越州は確かに越前であった。

●#409. 山崎万右衛門進物帳 五 旦那様色々御用向御座候て御苦労に御座候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。五は手代が書いた旦那様の藤枝、堀之内、相良、平川と長期(計8日間)に廻られたと書く。また掛川藩主など50名が立寄られた際の饗応の記述である。

●#408. 山崎万右衛門進物帳 四 お登り御下りの御武家様への献上にて御座候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。四は摂津尼崎藩、豊前中津藩、日向延岡藩、丹波国篠山藩の御家中の武士が掛川周辺に宿泊したらその武士に葛粉、袴地などを献上した。他に福井藩士や諸々の武士、江戸の遠州屋が通った時にも献上した。

●#407. 山崎万右衛門進物帳 三 年始は松平、内藤、奥平、西尾、太田の各様江戸屋敷へ進物に御座候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。三は年始の江戸屋敷への御挨拶である。進物帳の冒頭に書かれている。下の5軒に限られた。遠江横須賀藩、遠江掛川藩は主な仕事先である。摂津尼崎藩、日向延岡藩、豊前中津藩は遠方で直接の取引はないが、参勤交代など藩士が掛川に宿泊した時は挨拶していた。このように舟便で送って各江戸屋敷に葛粉を献上するがおそらく日本橋の遠州屋嘉兵衛を介したのであろう。仕事で交際が深かった藤枝田中藩がないのはなぜだろう。

●#406. 山崎万右衛門進物帳 弐 太田様、横須賀様、田中様御家中は御挨拶欠く間敷候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年=寛政9年までの計13年間の進物の記録。弐は進物の御家中で遠江掛川藩、遠江横須賀藩、駿河田中藩の家老始め有力な武士への進物である。この3藩へは年末、暑中など年数回の贈答は毎年欠かさなかった。解説は図に加えた。三河吉田藩は1度だけの進物である。

●#405. 山崎万右衛門進物帳 壱 主人繁吉若旦那参上 白砂糖素麺真綿は定番にて御座候
遠江掛川の豪商山崎万右衛門3代目の進物帳。乙巳=1785年=天明5年から次の巳年=1797年の計13年間の進物の記録であり詳細に記されており大変興味深い。ここは進物した店の人名、進物品である。若旦那は4代目である。

●#404. 山崎万右衛門 弐 差引総資産にて御座候 すえひろのめでたさ丸にて御座候
遠江国掛川の豪商4代目山崎万右衛門の店おろし帳(資産帳)から暗号解読と年度別差引総資産の推移を記載した。これは最も分りやすい部分を示したが実際はもっと長いものが多い。1807年=文化4年だけ資産は前年より減少したが他の年は着実に資産が増加していることが明白である。

●#403. 山崎万右衛門 壱 身体取広け不申様 驕奢をはぶき家業無油断心掛け質素に暮し候事
遠江国掛川の豪商4代目山崎万右衛門(1773-1828)の店おろし帳(資産帳)6冊があるがこのうち1807年=文化4年だけ資産は前年より減少した、そしてこの年35歳の時のみ文章を書き残した。勿論4代目山崎万右衛門の自筆である。「右のように店おろし勘定で総金高は減少した。昨年は上様(掛川城主太田氏)へ上金もあり田地の買受もあった。総体も相応に大きくなった。今後金が増す事は好まない。堅く商いして特にはもうけようとせず総体を広げないことが大事。仮に総体が減っても、地道にして質素に倹約する事。金高が増えたら施しをする、親類の困窮の者、故郷の隣人の宜しい人などに平等に施しをする。心して「みやらもん」にならない事。驕りをはぶき油断なく質素にすれば「増し」は出るだろう。これは非常時の手当てにし貧窮の者を救うことである。万一凶年、飢饉があれば限りを尽して世人を救うこと。私は「仏参自性居士」を生きがいとするよう心掛ける」。さすがにすばらしい文章である。総資産は金6069両3分で前年正月より331両1分減少したと書かれている。身体(総体)は太い。辻:合計、結果。「辻」とは交差点で人の合流する所である、そして合計の意味に使われたとある(国立歴史民俗博物館研究報告google books)。また「高辻帳」とは江戸時代に村の石高合計を記した帳簿とあり同じ意味。つむじ(旋毛)は辻の語源であるが周囲の髪が合流している。様々な単語が勉強になる。 山崎家は元油商で4代目は大きな資産を持って掛川城主太田氏や横須賀城主西尾氏を援助した。8代目は明治時代の掛川町長で掛川銀行を設立した。資産は数字をかなで置き換えてあるが解読したので総資産など次回に紹介する。

●#402. 百四拾五枚今日積送り申候間 着之節御受取可被下候
いといや長之助より近江屋治兵衛への手紙。内容は下の#401の手紙の関連であるので近江屋は伏見の材木商長嶋屋治兵衛に違いないと思う。内容もやや理解しにくいが、商売の事で他の書類もなく仕方ない。茨木屋徳兵衛の買い入れた145枚の商品をそちらで受け取ってほしいようだ。やはり茨木屋徳兵衛と長嶋屋治兵衛は深い関係に違いない。

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●#401. 銀子壱貫目又々十日頃迄 相待呉候様御申越候 大に迷惑仕候
村上屋勘左衛門より伏見材木商長島屋治兵衛への手紙。「向暑の節御家内様益々御安康で御目出度いです。さて茨徳様より平守方への銀1貫目のお渡しがなく大いに迷惑です。書面で催促し、手代がお会いしていますが困っています。貴家様よりこの書状を送って下さい。急いで銀子を下される様取り計り下さい。先月晦日、当月3日、10日と延引です。追伸:尚平守の書状を御覧下さい。長治様へお頼みしましたので御相談下さい」。手紙の結語は頓首と思う。手紙の相手は茨木屋嘉兵衛と徳兵衛だが差出人は長島屋治兵衛。茨木屋は長島屋の親類に違いない。長嶋屋治兵衛については#130、#127などに文書あり。

●#400. 女筆断簡 とよこまのあふらは きつうきつうからしきにて御さ候
女筆の断簡で文頭である。「からしき」という言葉が「からっきし」の意味で2ヶ所に使われているのが興味深い。語源では「から」=「からきし、からっきし」の一般に知られない用法があることが広辞苑でわかった。当初からし(辛し)かと思ったが、これは自分や人がつらいという意味で異なった。ここでは「とよこまのあぶら」が「きつうきつうからしき(から敷)で(だめだ)」と書いていてユーモアがある。匂いがよくないのだろうか。女性に「あなたはきつうきつうからしきにて御さ候」とは言われたくないものだ。あぶらは灯火以外に整髪料によく使用された。ともしさえ「からきし」とは整髪料としては全然なっていないの意味と思う。「さ」がややユニークな形。なおこれは1750年前後の京都の手紙である。

●#399. 女筆断簡 殿方様にも御しうき仰上られされましやう
女筆の断簡である。右は文末、左は追伸である。「文、仰、た、られ」など独特で参考になる。また「よりも、かしく、して、上れ」などを後で練習書きしている、矢印で示した。

●#398. 飴屋七兵衛殿への杉丸太杉四分板杉皮の覚にて御座候
材木屋市兵衛より飴屋七兵衛への覚。飴屋七兵衛は材木をたくさん購入していた。飴を付ける木の棒などに使うのだと思う。杦=杉と松が似るがここは「同」があり松と判る、字の右側(つくり)の1画目の入りが杉は深い。商品の計算は合っている。長さ1寸=10分=3.03cmであり、「4分板」とは厚さが4分=1.21cmの板に違いない。1間=1.82mである。単位は銀で最後の両に変える計算(両戻し)は未記入。松屋七兵衛は美濃国羽栗郡竹ケ鼻村の人で飴屋はよくはやっていた。

●#397. 老母に御香奠に預り 被入御念候義忝奉存候
山添利右衛門より大和国高市郡醍醐村庄屋の森村庄左衛門への手紙。「皆様御揃で御安全御目出度いです。先達て老母の死去において遠方より御香奠くださり忝いです。忌明けとなり軽少ですが蕨1袋進上致します。高取の米田庄九郎様よりも御香奠に預りました。別に書状は差上ませんので御ついでに御礼申上て下さい」。高取:大和国高市郡高取村(現奈良県高市郡高取町)。香典への礼状で簡潔で明白な典型的な手紙である。

●#396. 御書面之趣委細承知仕り 当廿二日は無間違参上仕候
大和国高市郡曲川村の清三郎より同国十市郡新賀村庄屋森村佐右衛門への手紙。「御書面拝見しました。秋冷の季節御家内揃って御安全御目出度いです。当方も無事です。御書面の趣き承知しました。22日間違いなく参上します。右につき了解し御返事まで」。両村とも現橿原市で近所で幕府領であった。他の手紙の持主高市郡醍醐村の森村庄左衛門の所持した文書なので森村佐右衛門とは近縁だったようだ。手短に要点をまとめた読み易い手紙である。

●#395. 女筆手本その九 そそろうきたつはるけしき 山遊なといかか
女筆の手本その9。弥生の心浮き立つ春に山遊びはいかがでしょうかとの手紙である。図中に解説。

●#394. 米も日々下落にて諸所共少し下落 金詰りにて被案事申候
増田屋又右衛門から喜三郎への手紙。主人から船主へのもので内容は多岐にわたる。正恵丸彦左衛門が無事帰着したこと。喜三郎が船頭を探していること。又右衛門が橋立村の者で通昌丸の親仁役を探していること。親仁は船長と思われる。最後に粕(鰊粕、肥料)の売買なく米が下落して他の諸品も値下げでまた金の利息は月2分と高いのでどのように商売して行くか思案中と書く。デフレだと需要が少なく高値では売れないので資本金の利息分を引いて船員の給料、船の修理代などの金が大変そうである。海難事故の危険を押して商売する利点が薄いと辛い。増田屋又右衛門は加賀国橋立の豪商で北前船の主人であった。喜三郎はおそらく増田姓で身内である。明治の初期ころの手紙で、大将の増田屋又右衛門筆の手紙はこれのみである。北前船は#366などに掲載、#129、#119、#69には好景気の頃の文書がある。海難の手紙は#116にあり。

●#393. 私共博奕等は致し不申候得共 早々心得違致し申候
1861年=万延2年に3名の者が村役人に出した請書。何か不謹慎なことをした侘書である。博奕に近い心得違いなことをしたに違いない。この年は凶作で御求米があったことが明記されているが幕末の騒乱の少し前である。万延2年は正月より2月19日の文久に改元までの期間である。

●#392. 不相替蝋燭御注文 被仰付難有仕合奉存候値段左の通
中野富右衛門より須田七之助への手紙。「幸便啓上します。極寒の時ですがいよいよ御安康にされ歓喜です。さて先日私にすばらしいお餅を下され有難いです。御一同様に宜敷お伝え下さい。以上御礼のみ。追伸:いつも蝋燭(ろうそく)を注文いただき幸せです。値段は左の様です」。商品の「蝋燭」が読めたのが大変うれしい、これが古文書読みの楽しさである。中野富右衛門の住む金津村と須田七之助の蔵主村は近く、両方越後国蒲原郡で新発田藩の支配であった。須田七之助は同藩の武士に違いない。

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●#391. たいこ壱つ拾九両に取組 出来上り下し可被下候
庄左衛門から増田又右衛門への手紙。「追伸です。一山中の行に右手の小のかわやにある2尺8寸(84cm)の太鼓1つを昨冬1貫匁位で取組する所あなたが積出しするなと申したので見合わせたが、太鼓位積出しても大事には至りません。価額は金19両でお書き下さい. よろしくお頼みします」。おそらく村の行事のために寺に保存の太鼓を出して修繕して使いたいとのことのようだ。修繕の費用は銀1000匁、金19両。増田又右衛門は加賀橋立の北前船の主、庄左衛門は村役に違いない。

●#390. 妄心倖心之御教諭難有承知仕候 讒者佞奸と歟申者也
倫十郎より武士須田元七への手紙。内容は通常の手紙とはやや異なっている。讒者、讒言する者の話で様々な同義語が表れて勉強になる。そして倫十郎は当地で繁多にしており心痛で疲れていると書く。須田元七は越後国蒲原郡白根村近辺に住んだ武士である。両者は親しい間柄に違いない。

●#389. 女筆手本その八 庭の虫しの音々おもしろき 御子様かた御つれまし御入願まいらせ候
女筆の手本その8。夕暮れの虫の音で初秋の手紙。「音々」の当時の人の読み方は「ねね」だろうか、音が複数である。つれまし:御つれになりまして。書き方の練習に使われたもので字も文も分り易い。薄い小さい文字のものは太い大きな字の後に読む。

●#388. 与平殿無事着御尊状難有拝見仕候 委細承知可仕候
北前船乗船中の増田清治郎より主人増田又右衛門への返事の手紙。内容は身内同士の通信で固有名も多いが、大方は理解できる。なによりも無事の航海であることが重要で仲間の与平が無事で到着で喜ばしいと書く。米や酒粕が北へ下りの荷とわかる。船は末広丸、通力丸、通昌丸と3船名がある。船のかじが故障したようで修理を依頼しているようだ。ここの「子」はやや特異だがこの書き方は存在する。幕末から明治に入って間もない頃の手紙。

●#387. 女筆手本その七 ははかりおふく候得とも お気もし思召被下へく候
女筆の手本その7。女筆の散し書きと呼ばれているものである。武家の妻青木波万という女性の筆である。まず太い大きな字を読む。次に番号順に上、下の小さな文字を読む。御寿き:おことぶき。千里もおなし事に:遠く離れていても同じように。御とりとりさま:御取々様、皆様。かはりなふ:変りなく。ははかりおふく:憚り多く。御気もし:御気もじ(文字)、気持ち。例文:御気もじ易思召被下候。文は「易」がないが同じ意味に違いない。2種類のまいらせ候が出ている。ここでも#382と同様に正月の挨拶に「若葉の春」がある。

●#386. 重宝之品々御贈被成下候 忝幾久敷慶納仕候
武士の谷文六から大和国高市郡醍醐村(現奈良県橿原市醍醐町)の大庄屋森村庄左衛門への返事の手紙。「御手紙拝見しました。御手紙の如く新年御目出度いです。いよいよ御家内様揃って御壮健で年を迎えられ御目出度いです。当家もつつがなく加年しましたので御安心下さい。さて年頭の御祝詞と重宝の品々御贈り下され忝いです。文末ですが御一家の方々によろしく御伝言下さい」。典型的な新年の挨拶と贈物への礼状である。高市郡醍醐村は大和高取藩主植村氏の支配地であった。森村庄左衛門は近辺10村余りの長で大庄屋だった。御祝詞は#382にあるように「ごしゅうし」と読んだ、現代は「ごしゅくし」でも構わない。比較的読み易い手紙である。

●#385. 忰新助と申者慥成者に付壱ケ年切之奉公にて 給銀九拾五匁に相極め申候
1856年=安政3年12月息子新助を銀95匁で1年間奉公に出すとの請状である。出したのは大和国葛下郡下田村の為O郎で相手は大和国葛下郡五ケ所村庄屋の与次兵衛である。両村は隣村同士で大和郡山藩領である。銀95匁は安政年は1.5両くらいである。奉公人証文、他所の1例を比較した。

●#384. 凶作打続修理専一折柄 代銀仕送り御承知被下仕合奉存候
慶応3年の借用書である。見本なので「相場、米1石が銀1200匁」の間違いはそのままで廃棄されなかった。凶作が続いて金に行き詰まった上の借金とする。ここの「代」はやや難字である。この借用書は長い丁寧な文なので様々な単語が学習できる。

●#383. 用文章その壱 七夕に遣す状 天河双星之祭願之糸梶葉之供物等世上賑敷
1850年=嘉永3年用文章を倉田茂惣次さんが書写したもの。その1は七夕である。「七夕の御祝詞御目出度いです。今晩は牽牛織女の会う時さぞ賑やかに手向け成されると存じます。よって微細なものですが乾麺1折を進上します。御喜びまで」。返事:「御手紙通り御祝事です。曬書(7月7日)夕方は双星の祭で願の糸(五色の糸)、供物(茄子やきゅうり)など世上は賑やかな時です。さてまた本願寺の籠花の見物にお越しとか私も御供したいです。すぐに参ります」。私の幼少時昭和30年代はまだ茄子やきゅうりの馬型を作った。この手紙からは七夕は素麺、野菜の供物、願いの糸、梶の葉に和歌、本願寺籠花見物、郝隆曬書、乞巧(巧夕)と関連する事柄が多い大変盛大な節句であったことがわかる。

●#382. 女筆手本その六 御とりどり様御機嫌よくはるを御迎させ遊はし おめでたくまいらせ候
女筆の手本その6。改し:あらたまりし。御寿:御ことぶき。申籠:もうしこめ。御とりどり様:皆様。御しうし:御祝詞(ごしゅうし)。おもしなから:乍憚(はばかりながら)、乍慮外の意味にちがいない、失礼ながら。睦月(むつき):旧暦1月、新暦2月で正月は初春、春の始まりとされる。ここの「若葉の春」はやや早いようだが、春への期待を込めて江戸時代はこのようなあいさつ文を使っていた。小さい文字のものは太い大きな字の後に読む。ここの「へく候」と「まいらせ候」は違いが大変わかりやすいが形だけでなく文脈で理解すべきである。「うれしく」は女筆特有の難字の1つで下に解説した。

栞380 

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●#381. 女筆手本その五 月の夜もさそさそさやかに詠候はんと おしはかり参らせ候
女筆の手本その5。さやか:清か、明るい。詠候はんと:和歌を詠んでおられるだろうと。御けんに入る:御見に入る、お見せする。葉月:はづき、旧暦8月、新暦9月で秋の始まりとされた。薄い小さい文字のものは太い大きな字の後に読む。

●#380. 今日は是非出勤仕度存罷在哉 御尋に付御紙面之趣深奉畏候何分昼後出勤仕候
上醍醐寺慈心院駐在の奉行岸本内記が部下鈴木釆女から受けた手紙。「御手紙拝見しました。御機嫌良く御安全で御目出度いです。私の病気の所を尋ねられ忝いです。御用多い時病気が長引き恐れ入ります。追々快方で今日は是非出勤するかとのお尋ねに付深く畏れ入ります。昼過ぎに出勤しますので御沙汰下さい」。内記の部下は休暇や遅参をよく取っている。#299、#295、#277、#269、#265、#230に同様の手紙がある。ただ内記は部下に出勤催促の手紙をよく出しているようでそれへの返事である。

●#379. 無拠御咄にて 御出不被下候ては相成不申候義に御座候
安曇郡松川村の庄屋一柳七郎右衛門への手紙。「御無礼ですが他にどうしようもない御話を申し上げたいので明日12日昼までに私方迄お出下さい。お待ちしています。御苦労ですがお出で下さらなくてはあいなりません。何分何分お待ちしています」。差出人は武士ではない、他村の庄屋と思う。無拠な事柄なのだろうが文面には真剣さ悲惨さはなくむしろユーモアがある。七郎右衛門さんはおそらく出不精な人だったのではないか。無拠:他にどうしようもなく重要な。無令:無礼のことと思う。

●#378. 閏十一月朔日は文化拾酉年の書翰に御座候
信濃国安曇郡松川村の庄屋一柳七郎右衛門が受け取った手紙の断片2通である。一柳七郎右衛門は1814年=文化11年頃活動の記録がある人。差出人の勘兵衛は安曇郡木崎村の山田屋の商人、源四郎は不明。木崎村は松川村に近い。内容は気候と健康の挨拶とで特にない。源四郎の茂(も)が難字。閏月の記載があると年号は限られる。1814年前後で閏11月があるのは1794年、1813年、1832年。よって1813年=文化10年に勘兵衛の手紙が出されたと思われる。

●#377. 寅年より未年迄出入り 決算は壱分弐朱と五拾五文過分にて御座候
江戸時代の陸奥国会津の武士大嶋仙之助と御用商人の湊屋長次郎の5年間の貸借を覚に書いたものである。未年の10月武士仙之助は商人長次郎に言った。「5年前の寅年から貸借している金を整理して清算して見せて欲しい。拙者が納めた米と今年4月に貸した5両も含めて」。翌日湊屋長治郎は早速算盤を弾いてこの「覚」を持参した。かし:貸し。代:代り。所へ:相手からの納入、そこへ入る。右へ:相手へ渡す分。過分:相手からの支払いの過剰分。二口〆:2つの合計。り:利足。改めて:新しくして。借用:相手からの借り。惣差引て:すべてを差引。解説は図中に示した。交換率は記載ないが、計算で金1両=銭6640文、金1両=米10.41斗であった。標準相場は大体1両=銭6000文、1両=米1石=10斗なので標準といえる。金の計算は4進法でまた銭との換算もあって複雑になる。大坂中心に関西で10進法の銀が使われたのも理解できる。この覚はやや複雑だがまず読みを別紙に写して数字をながめて計算すると内容と略語もわかり解明できた。湊屋長次郎は途中20文の違いの損のみで他は正確な計算であった。計算機なしで桁数の大きな割り算など難しそうに思えるが。実に良心的な商人である。

●#376. 信濃国桑原村村役文書 その三 清助儀死骸御見分与事件経過詳細に御座候
三河国加茂郡挙母竹生町の広助の次男清助が神社仏閣廻りの旅行先の越後高田付近の越後国頸城郡四カ所村で病気になり宿村継で搬送されるが北信濃桑原村で病死した。その3は文書④村役による清助の死体の見分書。文書③の事件の報告書、文書②の医師の容体書と共に郡役所へ提出された。最後の文書⑤は郡の手付役の役人が清助の検死をした後に経過を詳細に報告するよう命令したので村役人が書いた報告書である、最後に報告に偽りがあったら、いかなる処罰を受けても恨みませんと書く。清助の病気は不明だが清助は携帯の米が無くなっていた、また歩行が不能となった。栄養不足なども考慮されよう、特に脚気は神経障害で歩行不能になり心停止(衝心脚気)を来すので大いに考慮される。鈴木梅太郎がビタミンB1(オリザニン)を発見し実用化される昭和初期まで脚気は大きな国民病であった。江戸時代は米と塩と水があれば足りており他1汁1菜もあれば充分というもので栄養学的に大きな誤りがあった。この点は「冥加訓」やここの「僧の作品」黙堂純の作品からも理解できる。有名な禅僧白隠に参禅した多くの若い僧侶が厳しい修行に耐えられず入寂し、沢山の墓が白隠の墓の周囲に造られている。また疱瘡などの感染症や眼病もあって寿命は短かった。持物に金の事が書かれていないのが気になるが、金もなかったか搬送中に盗まれたのであろうか。以上で明治維新程なくして旅で病死した29歳の清助と信濃国桑原村村役の文書は終りである。

●#375. 信濃国桑原村村役文書 その弐 清助儀桑原村迄罷越候処 病気難症絶脈相果候
三河国加茂郡挙母竹生町の清助が神社仏閣廻りの旅行先の越後高田付近の越後国頸城郡四カ所村で病気になり宿村継で搬送されるが北信濃桑原村で病死した。その2は信濃国桑原村の村役人が作成した文書と医師の容体書である。幕末期に医師は意識不明で絶脈の患者に気付救命丸を使ったことがわかる。明治3年の文書だが信濃国の支配はやや複雑で隣村はどちらも支配が異なっているようだ。

●#374. 信濃国桑原村村役文書 その壱 三河国清助儀神社仏閣拝礼中越後高田にて病気伏し居候
三河国加茂郡挙母竹生町の広助の次男清助が神社仏閣廻りの旅行先の越後高田付近の越後国頸城郡四カ所村で病気になり宿村継で搬送されるが北信濃桑原村で病死した。信濃国桑原村の村役人はその際6種類の書類を作成し郡役所に提出した。その書類の写しは以後の参考のために保管された。明治3年の廃藩置県の前年のことで江戸時代と考えてよい。その1では事件の概要と越後国頸城郡四カ所村で作成された送り状である。解説は図に示した。

●#373. 右八箇当着罷在候処 内壱箇盗賊入紛失致候
柴屋長助より近江屋善蔵への手紙。「益々御勇健で御目出度いです。さて先日類焼の節は御尋ねと御品を下さりありがたく御厚礼申上ます。この度い尾印の差し出した荷物11個の内8個伏見に着きました。その内1個が表口より盗賊が入り失いました。心配で申し訳ないことです。早速御役所に願い出ました。調べて盗賊がわかるでしょうか。他の荷物もその内着くでしょう。紛失の詳細など面倒ですが、書附申上ます。市原屋様も上京されるのでお断り申上ますがとりあえず右申し上げまで。お会いした時にまた申上ます」。柴屋長助は伏見阿波橋(現京都市伏見区阿波橋町)、近江屋善蔵の店は京都市内堺町六角である。伏見港は京都の南で宇治川辺にあり下流は淀川で大坂にまた東高瀬川で京都木屋町二条に連絡する商業地である。荷物が盗難にあっていたことがわかる。手紙は一点物で他の手紙などなく詳細は不明である。また字は難解なもので誤読はありえるが手紙の総意は問題ない。

●#372. 此度荷物之儀は又三郎様へ御相談申上候て揚置仕候度積り御座候
通力丸清次郎より加賀橋立の船主への手紙。「米木六左衛門便に付、一筆啓上します。暖気催していますがそちら御家内様御機嫌よくされて御目出度いです。私は当所へ船中無難に着きました。この度荷物は又三郎様へ相談してあげ置する積りです。引当金も又三郎様へ相談して私はすこし下りたく思います。又三郎様へ詳細は申上ますの御承知下さい。住屋清七様と城下の事と上田屋書状は作ってから差下します。先に貴方へ預けた御送り状と書状はすべて同人(又三郎)が入船の時お渡しください。ここから持下りの品は通栄丸へ積んで下りますので御承知下さい」。船主は増田家又右衛門と思われる。商売の詳細はこの書状だけでは不明であるが北前船航路でがんばっている。#136にも通力丸が掲載。

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●#371. 九百五拾両封之侭弐箱に入て 木曽路十日指登申候
彦根から彦根藩領世田谷代官所に大金、その他書類を運搬することを記した文書である。書くのは彦根在住の武士で受けたの江戸世田谷勤務の明塚半蔵という賄方の侍である。ここでは10日程かけて中仙道を通って運んでいる。見張り役の武士がいるが実際の運搬の役は別にいたと思われ、このように950両も運ぶと途中で7-10両盗まれたことが書かれている。浅草海苔は献上品として彦根から運ばれた。守真院様という井伊家の未亡人の事が書かれる。他は関所通行手形、側女の御暇願、領内百姓の縊死の検視書であった。小さい字は後で記入されたようで訳していない。

●#370. 横浜之義西洋人相手にて洋銀取引之義 〆切禿敷取引を仕居候
大黒屋邦蔵より穀屋庄兵衛への手紙。「一筆啓上します。冷気の時節です。御家内の皆様益々大慶です。さて私も長くごぶさたし心痛でした。周旋も特にありませんが、仕事はうまくゆく事もあります。西洋人相手の洋銀で少し取引しています。しかしながら近々の内に片付て帰宅して御仕様金、御恩金の事相談致します。もっとも出先での取引もあり丸印を持参し筆で申します。右のように横浜で長く在居しています。追伸:尚々此品は麁抹ですが御受取下さい。また奥様によろしく御伝言下さい。別紙1枚は毎日の売買高を書出し、意見を出し、判に刷って横浜の問屋に毎日1枚廻しているものです。この紙で大体のことがわかります」。穀屋庄兵衛は武州粕壁(現埼玉県春日部市)の有名な米穀屋であった。大黒屋邦蔵はここから横浜へ派遣されて弁天通3丁目に店を出している。手紙は封筒が残っており、多くの情報がわかった。従横浜:横浜より。この手紙から江戸時代に「より」は「から、from」と「へ、to」の両方の意味で使用されたことがよく理解できる。

●#369. 御手船連不残御無難にて 御廻船被成候半哉と奉察上候
増田又助より増田御姉様への手紙。「一筆啓上。向寒の時節です。御家内皆様益々御壮健で御目出度いことです。私も無異にしています。さておまき様昨月御安産で両人御健康で同慶です。拙宅ではあなたに種々御世話になっており有難いです。御手持船の連中は御無難に廻船成されていますか。米は満作の所が案外高値なので困ります。私は4、5日で東京の蒸気船が当所に着船するのでそれに乗り込みます。右御見舞までこの如くです」。御手船とあるので増田御姉様は増田又右衛門の妻に違いない。そして増田又助は増田又右衛門の弟と判る。増田家は加賀国江沼郡橋立の北前船の豪商である。出産したおまき様は又右衛門の息子の嫁であろう。明治に入っており東日本の太平洋側は危険な廻船でなく蒸気船が活躍していたことがわかる。

●#368. 女筆手本その四 いく万年も御はんしやうの御事といわい入まいらせ候
女筆の手本その4。岩根の松:岩の根元に生えた松、幾年も不動。はんしやう:繁昌。御しうき:御祝儀。御てもし様が不明。そもじ(そなた)、おもじ(母親)、かもじ(母、妻)あたりが合うが字が違うようだ。てもじは非常に高位の人を指すようだ。「宇」にも似るがうもじは全く不明。家か商店を新築した祝いの手紙である。薄い小さい文字のものは太い大きな字の後に読む。

●#367. 女筆手本その三 和歌に御心移なふ蛍を集め候よし 面白おはしまし候
女筆の手本その3。和歌に御心移なふ:和歌から他へ心が移らない。蛍を集めし意:熱心な意志。例文:蛍の光で本を読む:熱心に学習する。嘸と:さぞと、そうであろうと。はもし:は文字、はずかしい。ちと:ちょっと。喜し:きし、名前。番号を付けた薄い小さい文字のものは太い大きな字の後に読む。

●#366. 人気米相場如何御座候哉 私下野関置米何卒宜敷御願申上候
北前船の船主が加賀の橋立の主人に出した手紙。「冷気の節です。そちら御尊公始め両船中の皆様揃って御機嫌よく登られると存じます。私も船中皆無事で先月17日函館を出航し当月8日こちらへ入りました。御安心ください。さて私が下関に置いた米どうか宜敷御願いします。津軽、南部、仙台辺りは大きく不作のようで、(東北の)東辺は米相場が上昇するのでそちら(橋立)も少しは値段が上がると思います。しかしそちらの人気米の相場はどうですか。よろしく取り計り下さい。もし両船共に登らない考えでしたら私が登って積込ます。まずは無事着の御安心まで。これから江戸表から細々と申上ます」。主人は加賀の北前船の増田家か大家家である。米、魚、昆布が大坂への登り、衣服、塩などの日用雑貨品を北の各地へ運ぶ。よって北前船は大坂から下関、さらに加賀など日本海沿岸で商売しながら箱館や松前に至る航路であるが、ここの船は南部から仙台より江戸港へと行くやや危ない稀な航路のようだ。字は書き慣れた達筆で読み易いものである。

●#365. 新任御聞合之義 新参のひよっ子へにても被仰候て片付度申候
弥惣作から上醍醐寺慈心院駐在奉行岸本内記への手紙。「別紙で御意を得ます。本殿に勤めているしもべの与市という者2年余首尾よく勤め当期も勤めを申付ました。しかし8年近く当地勤めしたので今より当分当地には住まぬとのことを他より内々に言って来ました。それにつき六坊西往院殿が岳西院の家来まで玉田氏をと言っております。そちらでの御奉公でもあり、聞き合わせのためそちらの新参の部下でも立てていただき片付たいと思います。この節そちらは御普請なので新参のひよっ子でも派遣して下さい。この際京へ帰られることはないと思いますがどうか当地へ留まって下さい。保証人はこれ迄同様でやります」。ひよっ子は古くからある言葉と判る。「何承度」、「八年以前之義」は下に解説した。弥惣作は内記の御用係りであるが下回りのしもべの者がいた。この与市は7、8年前から当地(醍醐寺近辺)に居る、内2年は弥惣作の下で働いた。ここで故郷に帰るようだ。保証人の事が最後にあるが日本は昔から保証人を立てる習慣だったと判る、村落、5人組社会だからね。与市の後任候補玉田氏を内記に承認して貰いたいとの手紙である。

●#364. 大嶋黒砂糖向後御用等 幾重も幾重も御相談被遊可被下候
別の砂糖問屋より美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛への手紙。「まず初めて(私達の商品を)引合せしたく書中で尋ねています。おこし屋などへ砂糖を入れていますが、あなたもおこし類に関心されればよいと思います。手前の若者を差し向けましたが貴方は無関心です。さてその地の伊勢屋十吉左衛門殿へは以前より大嶋類(黒砂糖)を売っております。貴方の御用もしたく願上ます。もっとも喜八殿も貴方へ御礼など何度も申されるでしょうが、万事幾重もこちらに御用を願上ます。(中断)御用を仰付られれば大変仕合(しあわせ)です。私共は黒砂糖も1000樽も扱っています。御相談くださるよう幾重も御願いします。代金のあらましは次のようです」。何度も丁寧に当方に御用をと繰り返している。呉々様被申候:何度も申される。「呉々」の語源について調べた、呉る(くる)が「他人が(動作を)する」の古語で、呉々が「何度も(動作を)する」である。現代語では呉れる(くれる)が「他人が(動作を)する」意味である、例:助けてくれる。漢字の「呉」にはこの意味はない。ここの相場を#363の又兵衛の取引価額と比較してみた。

●#363. 黒砂糖1貫は銀五匁之値段にて御座候 御得意様にては割引可申仕候
下の砂糖問屋又兵衛の美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛に黒砂糖販売の実例である。黒砂糖は樽販売で1樽75kgであった。2人でやっと運べる量である。6樽分の総重量から14.5%分を丸引きした。そして黒砂糖1貫(3.75kg)は銀5匁の値段で計算した。最後に総値段からさらに14.1%を差し引いた。当時の金への両替は金1両=銀61.9匁で江戸時代の標準的なものであった。又兵衛の屋号は近江屋で近江出身で名古屋に店を出し(#361)活躍していたことが判る。

●#362. 砂糖御引合御注文被仰付可被成候 大坂表段々高値に御座候
名古屋砂糖問屋又兵衛より美濃竹ケ鼻村の飴屋七兵衛への手紙。「そろそろ御入用の節であろうと思います。入用でしたらこの者に問合せ、御注文下さい。相場は段々高値になるので働くようにします。上物が1両で53斤(31.8kg)、次物は54斤(32.4kg)です。なお黒(砂糖)も追々高値です。ここで御注文下さい。右お尋ねまで。他はこの節取込にて早々」。「働く」:「勉強」と同様に安くするよう努力する意味であろう。砂糖では斤の単位が使われていたが、1斤=600gで重量の単位である。

栞360 

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●#361. 大嶋黒も有之通御帳面御扣置可被下候 御注文被仰付可被下候
名古屋砂糖問屋又兵衛より美濃竹ケ鼻村の飴屋七兵衛への手紙。「一筆啓上します。その後御疎遠にしています。そちら皆様御安康でしょうか。当方はよくしており御安心下さい。手前の若者が薮入りですのでそちらに寄せさせました。大嶋黒もありますので御帳面に控えておいて下さい。又注文をお待ちしています。追伸:大和屋弥左衛門殿問合せの22両お揃え受取ました。その帰路貴意を得る所を小者に申付ましたが多忙で失念しました。御無沙汰し幾重も御免下さい。またこの度はお尋ね下さった所(当方が)不調法で御用捨下さい。尚この者今後そちらに遣します。御見知り置下さい」。御得意様への大変丁重な手紙である。飴屋七兵衛の店は大変繁盛していたようで砂糖屋の競争もあったがその後の店の継承はなかったようだ。

●#360. 爰許無事にて御奉公仕候間可御心安候
四五右衛門より身内への手紙。「便にまかせ一筆啓上せしめます。そちらは皆さん御堅固なされていますか。我等も殿様の少しのお叱りがありますが、今は留主で御普請ですので少しも気遣しないで下さい。(中断)。そちらも弥々息災であると承りたいです。こちらも無事で御奉公しており安心下さい。そちらの他の者にもお伝えください」。爰許:こちら、自分。其元:そちら、あなた。令啓上:啓上せしめ。「令」があるのは相手を自分より下とみている。ここは身内なので構わない。同は相手の名字と同じの意味なので宛先はないが「名字名前様」と書いている筈である。たぶん息子か弟だろう。番号は最後まで読んだ後戻って読む所。

●#359. 断簡三通 其後は御物遠に奉存候、御病気御快能御座候哉
美濃国竹ケ鼻村の飴屋七兵衛の所持した手紙の断簡3通。いずれも読み易い文章である。時節と健康の挨拶にも様々あり断簡でも生きた文章を多数読むと力が付く。「御物遠」(ごものとお)はやや稀な表現。「御病気御快能」は「おこころよく」と読むのだと思う。一般的には「御快方」が多い。

●#358. 此肴他より貰申候故進上仕候 御内室様も宜敷被仰上可被下候
仁兵衛より美濃国竹ケ鼻村飴屋七兵衛への手紙。「いよいよ殿方にも御勇健なされ御目出度いです。さて御内室様はその後御気分は快くなられましたか。承りたいです。さてこの肴(川鱒)を他から貰いましたので進上します。御内室様に宜敷と私の妻も申上るようにとのことです。急便にて草々。尚々この肴は薄塩をしていますが近日中に御使い下さい」。気色:病後の気分。最後の「申残候」は「不尽」や「不宣」と同様文章で言い尽していないとの謙譲語である。仁兵衛さんの中嶋郡小薮村と七兵衛さんの羽栗郡竹ケ鼻村とは大変近い、合せて羽島で新幹線岐阜羽島駅の場所である。様々な形の「も」を集めて比べてみた。

●#357. 壱人参上仕候 御目見被仰付候はば呼に上げ候如何と奉存候
部下の武士よりかなり高位の上司への手紙。「御目見えを願う一人が参上しています。いまだ御判断がありませんが仰せ付られたらお会いに上るよう待ち合わせしています。私は早い方が宜しいですが貴公様は如何ですか。重要な用事との手紙でしたが外出されるのでしょうか。承りたくこの如くです」。難解な語がなく字は丁寧で読みやすい。面会の人がいるので様子を窺う手紙の典型である。

●#356. 女筆手本その弐 水菓子遣り下され 御とりとり様えよろしく御礼たのみ上まいらせ候
女筆の手本その2。暑中見舞いに水菓子を送った手紙とその礼状。「御見舞」を「御見廻」と書くのはよく見られる。まいらせ候、そんし、様、めてたくかしくがしっかり出ている。番号を付けた薄い小さい文字のものは太い大きな字の後に読む。

●#355. 女筆手本その壱 中元の御しうきまてに指上まいらせ候
女筆の手本その1。中元の御祝儀の手紙とその返事。文月:ふみつき、陰暦7月、新暦8月頃。習字の練習にした字なので読みやすい。

●#354. 毛附に付御繁雑之御中 御煩は敷可被思召候
林田弥右衛門より井伊家世田谷代官所勤務の明塚半蔵への手紙。「秋冷えの時です。いよいよ御安泰で勤られ御目出度いです。当方の御宿所様安泰で留守で目出度いです。毛付の書で御面倒をお掛けし繁雑で煩わしいものですが何分御願いします。若狭屋忠右衛門が毛付のことで急用の手紙を寄越しましたのでご連絡します。平常は御無沙汰ばかりで用向にはこのように御願いしています。悪しからず御容赦下さい。追伸:忠右衛門がその地に入れ違いになりました。あなたがそちらに居られる間に忠右衛門が参ります、よろしく願います」。不悪:あしからず。真平:まっぴら、ひらに。「真平御用捨」とよく使われる。明塚半蔵は世田谷代官所支配の村の年貢の毛付の書を作っているようだ。毛付:各村の年貢収納量を調べ決めること。前年の貸借などもあり書類作成は繁雑に違いない。忠右衛門は米を扱う商人だろうと思う、早急に半蔵に面会したいようだ。番号は追伸の部分で最後に読む。

●#353. 歳末之為御祝儀品々 被懸御意忝祝納仕候
願正坊から美濃国羽栗郡竹ケ鼻村の飴屋松屋七兵衛がもらった手紙。「再報拝見しました。余寒強いですがいよいよ御家内お揃で故障なくされている旨を御家来より詳しく聞き大慶です。当方も相変らず異常ありません。なお歳末の御祝儀の品をいただき忝いです。取込中意に懸けられ忝いです。七次郎殿も随分達者に暮されて宜敷存じます。遣わされた金二歩は落手しました。年内余日なくつとめて御堅勝に仕舞をし下さい。追伸:御堅勝にお過しください。皆様に宜しく述べてください」。歳末の御祝儀への感謝の手紙で全体に奇異な表現もなくきれいな文言である。最初の3行は追伸である。七次郎は七兵衛の息子で#158に七次郎の書いた手紙がある。

●#352. 御上屋敷も御普請も追々御出来に相成 正月は御上屋敷にて相祝義申上候
彦根の明塚清右衛門から江戸井伊家世田谷代官所に勤務の明塚半蔵への手紙。「甚しく寒い時節です。皆様お揃いで御堅固になされ御目出度いです。奥様にも宜敷御見舞を申しあげて下さい。その後は無音で遠くなっていました。さてこの度文三郎殿も道中異常なく到着され御目出度いです。私も無難に勤めていますので御安心下さい。御上屋敷も普請が出来上がり20日には引越しになりそうです。正月は上屋敷にて御祝義となります。この品は軽少ですが御見舞にお目に懸けます。寒中見舞いで御意を得ます。後は拝顔の時申上ます。追伸、次第に寒くなります。(体を)おいとい下さい。21日法事で急に用事が多くなりますので今日手紙を出します。年内も少なく御仕舞仕度してください。正月の来陽御目出度いです」。この人も半蔵の親類であろう。彦根藩上屋敷は江戸城桜田門に至近にある。

栞350 

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●#351. およしは痔疾余程六ケ敷 煎薬膏薬等被呉養生致居候
彦根の明塚精右衛門から江戸井伊家世田谷代官所に出張勤務の明塚半蔵への返事。「日々冷たくなっていますが貴殿障りなく御勤御目出度いです。こちらは親類も異常なしです。中屋敷の川口氏に行って用事をいわれたら失念されていたとのこと。先1両送りましたが入手されたとのこと御礼了解しました。三上への礼状の件了解しました。およし(妻)が内股の腫れ物と痔疾で彦根瓦焼町の西沢道庵にみて貰いましたが、痔は難治で気長に養生とのことで膏薬と煎薬を貰いました。痛みがあり困ったことです。富永吉次郎様も来年四月江戸勤務とよい仕合です。1包の白砂糖送っていただき大悦でした。米相場1両8斗で高値とか。こちらは(1俵)銀25匁位です。松茸が佐野から来たが匂いが少ないとか。こちらでは沢山は出ていません。銀1匁で350匁以下で高値です。書外は次回の便で申します。追伸:次第に暖かになりますが御自愛下さい」。松茸の栃木県佐野市には彦根藩の支配地と堀米陣屋があった。最初の3行は追伸である。おそらく2人は兄弟か従兄弟であろう。解説は図中に入れた。

●#350. 熊野之医師之記録 その六 野呂元丈ら自江戸薬草御尋に新宮到着
熊野医師連の記録の続きである。1721年=享保6年野呂元丈という幕府の薬草研究家が夏井松玄、本賀徳運と共に熊野に来て薬草採取する。この事は「野呂元丈伝」などに記載があるが日程などの詳細は不明である。「辛丑=享保6年7月23日奉行衆より江戸幕府から野呂元丈、夏井松玄、本賀徳運が薬草採取に熊野に来るのでその際医師連から見習いの者を付けるようにとの年寄衆の意向があると伝達があった。さらに7月30日確認として宗恕に相手を勤めるようとの伝えがあった。(野呂元丈らは)閏7月14日新宮を出発し同日北山大野村へ到着。閏7月23日に我々は源次(野呂元丈)に逢った。24日新宮に到着、御暇乞いをして終わった。領内各所では見習いの者は付かなかった。その後御会所で年寄衆からの金子の御礼を受けた」。以上11日間の野呂元丈らの熊野での薬草採取に地元の医師連が面会し関与した文書である。他の記録に残る「伊勢、吉野、熊野方面の採薬」の旅行日程の一部分に違いない。本賀徳運を「木賀徳運」と記した記録があるようだが、ここは明らかに「本賀」である。最後の2行はこの文書が奉行と医師連の交際で重要な記録であるため筆記で写した記録である。明和2年=1765年の奥田養元は切支丹改役人であった医師兼任の武士であり、その壱の口上願書にもその名が出ている。文政8年=1825年の堀宇仙は新宮の医師である。以上で熊野医師、大石宗恕さんの記録は仕舞であるが文書は御覧のように損傷が著しい。壱から四の医師と奉行衆とのやりとりは迫力があるので是非これを掲載して置きたかった。

●#349. 熊野之医師之記録 その五 紀州藩主、新宮藩主御成の記録 藩主御前は木履脱申様
熊野医師連の記戴の続きである。ここは4度の御成である。①辛卯=1711年=正徳元年。城主3代目土佐守は水野重上(紀伊新宮藩藩主兼紀州藩附家老、1634-1707)で正しいが、年号が正確ならこの人は死亡しており次の4代藩主水野重期(1695-1740、淡路守、1707年より藩主)である。丁子はスパイスで漢方薬。丁子丹は丸薬。御目見えして丁子丹を差上げた。②癸卯=1723年=享保8年。大恵院様は徳川宗直(紀州藩6代藩主、1682-1757、1716年に藩主)である。この時は4名の医師連が対応した。さてここで最後年寄衆から謝礼の金子を受けたが1名の医師が不審とされた。松本随益が下駄を脱がなかったことである。ある侍が指摘したので後で年寄衆頭(その壱参照)の矢田市左衛門に尋ねた。「先年別の医師に申付けたが年寄衆は当所では殿様の銘代なので年寄衆が草履の時は木履(下駄)を脱ぐようにと申した。年寄衆が木履ならば脱がなくてよい。他の役人には木履を脱がなくてもよい」。危なかったね、松本随益は知らなかったのだろう。「無礼者、切捨て御免」にならなくてよかった。③1794年=寛政6年。紀伊様は徳川治宝(紀州藩10代藩主、1771-1853、1789年に藩主)である。この時は4名の医師連が熊野国の各所に詰めて御世話をし御目通りをした。そして4名は金子を拝領した。年寄衆頭であった矢田市左衛門の子らしい矢田八左衛門が奉行で登場。④1799年=寛政11年。紀伊太真様は徳川重倫(紀州藩8代藩主、1746-1829、藩主は1765-1775、1775年隠居し後剃髪して太真と号した)。熊野御成で医師連は御用勤をした。なお松本氏古随益、矢田氏古市左衛門の表現の「氏」「古」は敬称と思われる。

●#348. 熊野之医師之記録 その四 口上:和歌山之御評諚之上札場へ薬種代之儀引替申様被仰出候
前回医師連の口上願書(薬草購入のための正銀調達)は3月1日奉行が直に受け取ることになった。続きである。「まず医師連は同日両奉行に御礼に参上した。そして3月1日医師3名(宗恕、宗元、意斎)は奉行古川勇右衛門へ願書を渡した。同日意斎が呼び出されて2点言った。1、町奉行の「町」が「耳」にみえるので御奉行所と書く様に。2、「医者中」の「中」である。最近「廻船中、問屋中」との書は手前を上げているので以後「廻船共、問屋共」と書く様年寄衆が指導した。よってここは「医者共」はどうか。これは医師仲間へ持ち帰って相談した。医師連の長、宗元が頭を振りそのまま「医者中」で是非出すようにとした。同日願書を提出した。3月2日宗元、意斎が呼び出され、銀札引替は奉行が声懸りしても解決しないので待つように奉行は言った。医師は御礼申し上げた。3月9日奉行会所へ宗元、宗恕が呼び出される。年寄衆は願書が尤なる事とした、当地(熊野)では昨年不作で銀が払底困窮して薬種代も引替不能になった。年寄衆は医師連を気の毒に思い取訴して江戸屋敷の成田八太夫に願書が行った、さらに成田八太夫より和歌山へ願書は行った。そこで評定されて当所の札場へ薬種代は引替するよう、今は銀子が払底でこれから和歌山に銀子が送られるので着いたらすぐに銀札を銀に引替るよう達しが出された。医師連は上々様の御賢慮に感謝の意を表した。そして両奉行へ御礼をした、年寄衆への御礼を伺うとそれは不要となった」。紀伊熊野の医師連の願書は江戸屋敷の重鎮からさらに和歌山城の評定にかけられて願いは聞き届けられることになった。よかったね。年寄衆は今後病気になった時、診察と薬の処方が必要になるから医者連に協力したのはよく理解できる。また「医者中」を「医者共」に替えてはどうかとの奉行の指摘には完全に否定して医師連の名誉を重んじた、今から300年も前より日本の医師は矜持と自信を持っていたわけである。今後の奉行とのやりとりのための例にこの文書は宗恕によって詳細に記されて保存された。次回はこの書の残りの記載である。

●#347. 熊野之医師之記録 その三 口上:身をすてて推返し推返し御願申上候処御結構言仰付有
前回19日奉行連が医師連に会い口上願書(薬草のための正銀調達)は銀の両替のことで奉行直々でなく町役人に提出するようにとのことで受取を拒否された。続きである。「20日医師3名(宗恕、宗元、意斎)は再度奉行柳瀬宅へ参上したが昨日の通りでとのこと。医師連は以前願書を出した時奉行渡辺杢右衛門に直に差上げた前例を話す。柳瀬は同役古川勇右衛門へもその旨を話すよう言った。すぐ奉行古川宅へ参上したが頭痛との事で会えなかった。さらに古川はその後は切支丹改めに懸った。さて切支丹改めも終り26日古川宅へ参上して先例の事など話したが医師達が申し上た項目をすべて消去した、古川は願書は受け取らないと言った。30日柳瀬が医師連を呼び寄せた。医師連の意向はもっともであるが町役人に出すのも間違いとも言えない。そこで年寄衆(奉行衆の上役:「その壱」に掲載の矢田、源田、桜沢各氏)へ相談したが医道においては願書や御用は奉行が直に受けて、申し渡す様にとのことだった。これは町役人へも申し渡した。宗恕は最近医師仲間が薬草の件を町会所で大年寄(庄屋や組頭や年寄が集合した会所の長)に話したが、大年寄はそれは医道のことで奉行直々に行うべきと言ったと説明した。さて柳瀬は明日から奉行の月番が替るので古川へ願書を持参するよう言った。医師連は取り持ちをありがたく感謝した。帰って各医師達へ連絡した。3医師が身を捨てて推し返し推し返して何度も願書を出し、結構な達しを得たことは末代迄の好例である。今後公用筋で支障ないように勤めよう」。18日に作成した医師連の願書は次月1日奉行が直に受け取ることになった。次回は医師連が古川に提出する場面。奉行は2名中1名が月毎に交代するようだ。

●#346. 熊野之医師之記録 その弐 口上:引替筋之儀に候へば先町役人え出し候様にと被仰候
熊野地方の太地から有馬村に住した医師が1733年=享保18年役人に提出すべく用意した奉願口上を「その壱」に掲載した。ここでは口上の提出先の奉行とのやり取りである。「医師3名(宣安、宗恕、宗元)が2月18日奉行の柳瀬庄左衛門宅へ見せに行く。町役人方へ提出するように言われた。我々は以前よりのしきたりにより医役の事は御奉行直々の取次や申し渡しですと言った。柳瀬庄左衛門は同役(もう1人の奉行古川勇右衛門)にも行くようにと言った。即刻古川宅へ行くが野辺へ出て留主だった。柳瀬宅へ戻って話したが明日の御会所へ持参するようとのことで医師連は帰宅した。2月19日宣安と宗恕が会所へ口上書を持参した。奉行衆(柳瀬と古川)はこの度は(銀の)引替のことなのでまず町役人に出すようにと言った。宗恕は先々より医役に付御用筋は奉行様直々であると言った。奉行はこれまでの例があるか我々の了簡で取次はできないといった。19日夕に宗恕、宗元、意斎で願書持参で柳瀬宅へ行くが用事で不在で会えなかった」。先規:前からのしきたり。御会所:おそらく奉行が支配地の民と会う所、ここでは2名の奉行が医師連に会っている。口上願書は銀の両替のことなので奉行に直々でなくまず町役人に提出するようにとのことで受取を拒否された、また奉行が両替の願書を直に扱った前例があるのかと居直られた。続きは次回。

●#345. 熊野之医師之記録 その壱 口上:役所正銀之御引替無之に付薬種取寄之儀不及力候
熊野地方の太地から有馬村に住した医師の記録である。まず1733年=享保18年に役人に提出された奉願口上である。「銀札通用につき銀札から正銀の引替がないので薬店や三方での薬種の調達ができず払底です。医者仲間で相談して札場へ出て願出ても埒明しませんので当所御公儀へ願書をさしあげます。三方へ銀子を登らせることができず注文しても薬種が取寄せできません。不足品の種類も多く治療の手が出ず迷惑しています。これでは尊卑の人々共に病気の危難でも手を束ねるだけです。薬種は他と違いわずかの銀ですので奉行様より声懸けして正銀の引替をできるようにして下さい」。銀札:銀貨に引替の対象として発行された紙幣、ここは藩発行の札のようだ。三方:大坂の薬種中買仲間と見られる。埒明ない:決着が付かない。払底:品切れ。数多:あまた、数多く。手支え:てづかえ、手の出し様がない。尊卑:尊い人と卑しい人。手を束ね罷有:空しく手を束ねたままにする。この口上の結末は次回以後。

●#344. 上醍醐寺慈心院年預雑掌之引継にて御座候 宥円、俊応、澄翁
上醍醐寺慈心院年預雑掌が各年9月朔日に交代する引継の文書である。山上山下、上醍醐寺、下醍醐寺両用の仲間灌頂道具をしっかり管理する。醍醐寺各院の継承者を決める儀式で盛大に花を撒いて祝福する。この灌頂道具の講銀もあるが慈心院座主と俊応が握っているようだ。読経に必要な普門品もある。木材や瓦、桧皮も引き継ぐ。用語は図中に説明。米国の大学同様9月朔日切である。これにて上醍醐寺慈心院文書は一区切りである。

●#343. 余力ある時は手習よみ物第一に志を失ぬこそいみしかるへし
上醍醐寺慈心院座主延順の和歌と文。「白紙を汚すお笑い文で粗末で失礼とのあなたの思召も考えず深山の住まいのつれづれに文をなします。3才のみなし子も知っている掟の法の道、言わなくてもよいことを一筆にて暇を尽くして書きます。余力あれば手習い、読物をして志をなくさないようにするのが大変重要である。中の言葉を人の事でなく自分のためとするべし。父は遊ぶとき遠くへ行くなと教えた。金言である。君に仕えるとき君の言葉を返したり悪口をいえば衆人による非難がある。その独りの時慎むべし。主君に3度諌め言をしたら主君と離別することになるのは世の常。しかし古い金言も見限れば、天が与えたわが玉の光は輝かない。我玉は人問えばどう言うべきか。足し金は撒かれるべきで新しい道を直すものである。宮仕えで見聞するよい事があれば共に喜ぶ。周りが麻のように真直ぐな草の中では(曲がりやすい)よもぎ(蓬)の草も真直ぐになる。賢いあなたがあざけりと聞くことを恐れる。しかし眼が千里を見通すことができても我が睫毛(まつげ)は見られない、私の言葉も参考にしてほしい。この言葉をもって「おすもじ」とまいらせ候」。おすもじ:過ごす。いみじき:はなはだOOだ、ここは非常に大切だの意味。三度諫めて身退く:礼記(紀元前200年頃の儒学の書)の中の言葉。麻の中の蓬:曲がり易い蓬も周囲が真直ぐな麻なら真直ぐに育つ(「荀子」)。和歌一首「賀茂川の 岡のへにすむ よもきくさ いつれをあさと わきてひくらん」。わく:別く、区別する。賀茂川の岡の辺りに住むよもぎ草、どれを麻と区別して引き抜くことができるのだろうか。自分のことをかけている。1750年頃は徳川幕府の盛りの中で儒教が盛んな頃で「忠臣」が重んじられた、中で主君に咎められることになっても読物を読んで正しい古言、金言を学んで自分の玉を磨く事は大切と説いた。字は流暢で読みやすく書き慣れている、和歌の文字としても充分通用する知性あるものである。この人の「ぬ」は下側を右に走るやや稀なもので勉強になった。

●#342. 延紙白銀そうめん弐升樽むしかにて御座候
上醍醐寺慈心院で入用の様々な商品の覚書きである。白銀:銀貨で平たい楕円形で、紙に包み贈答に用いた、銀一枚は161g。延紙:21cmX27cmの紙、江戸時代の高級な鼻紙。奉書紙:楮の丈夫で軽い手漉き和紙。そうめんは1巴30文のようだ。弐升樽:酒樽。むしかは蒸し菓子で饅頭など。饅頭:小麦粉、米粉、そば粉などの皮で各種の餡(あん)を包んで蒸した菓子。

栞340 

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●#341. 断簡小報九報 御寺内人少に可有之候間 諸事御心附専一候
上醍醐寺慈心院関連の断簡小報九報である。①落手:入手。神無月:旧暦10月。②高免:御容赦。③長門斎中正院:不明、おそらく寺の名。慈心院には人が少なくなっているようだ。④乍序:ついでながら。⑤六ケ敷:むつかしき。乍慮外:失礼ながら。⑥これは慈心院座主の手紙の原稿である。⑦覚であるが商品不明。値が銀2.4匁で長さが1丈7尺=5.1mである。布ではないだろうか。⑧必ずお逢いしないようにと書いている。⑨は女筆である。嶋は縞柄の布である。

●#340. 断簡文末集六報 期永日之時萬々可申上候
上醍醐寺慈心院関連の断簡文末集計6報である。すべて前は切れている。①期永日之時:次にゆっくりお話できる時。③亀君は未調査。この時代長寿を願い亀の幼名の方は多い。④医師の返事だろうか。⑤随西は#298にもあるが慈心院座主延順と仲が良かった。上醍醐寺からの下山には1時間かかる。⑥後円成寺様は一条兼香(1693-1751)ではないか。一条兼香は従一位関白左大臣。三宝院門跡の良演(1746-1760)は一条兼香の子息であった。#241参照。

●#339. 断簡小報五報 風邪御難儀承意候得共乍御大儀御下山頼入度候
上醍醐寺慈心院関連の断簡小報五報である。①西岳は下醍醐寺子院岳西院と思われる。上醍醐寺から下醍醐寺へは1時間かかる。②慈心院駐在の奉行岸本内記の弟より内記へのもの。母も同居していた。③尼僧より慈心院座主へのもの。きかまほし:聞きたい。④⑤岸本内記の部下へ会計係りの武士から入金の覚。受落=受取。#288に同様の文書を掲載。

●#338. 弐匁四分らうそく、七分御せん、弐匁五分御入用にて御座候 
いそのが上醍醐寺慈心院に売った覚である。前が切れているが、ろうそく、御せん(線香)など57.7匁を計上して最後正して2.6匁割引した。これは0.045=4分5厘の割引であった。

●#337. 御逝去に付従去る三日至来る十八日 女御様御慎に候
飯田大和守より御年預の龍光院御房への手紙。「御逝去につき3日より来る18日まで女御様は御慎みになります。このように伝奏より申し来ました。この事は衆中へ御伝達下さい」。御慎み:外出や活動を避けて身を慎む。従:より。至:いたる。女御:天皇、皇太子、上皇などの妃、有力公家の子女が多い。ここは逝去した貴人の妻と考えられる。伝奏:朝廷の書を伝達する役で公卿の職。御房:僧の尊称。醍醐寺は門跡で朝廷との関係は当然深い。門跡:皇族や公家が門室の寺やその人。#241に醍醐寺門跡を掲載。飯田家は醍醐寺近辺の南小栗栖村の支配をした家で醍醐寺三宝院門跡の坊官家で法印、#286にも記載。坊官:家政を担い門跡に近侍する僧侶。記述の逝去された貴人は不明。1750年前後の旧暦9月2日頃に死去した方である。妻は16日間御慎みである。

●#336. 先方思ひ入も御座候故 年輩之方へ申遣し候方宜存候
仲間の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「この書面は御願いというよりこれを御認め下さいというものと思います。このように認められるのが宜しいです。仏乗院は若輩ですので先方へは年輩の僧を派遣する方が宜しいでしょう」。ここは派遣する僧が年輩の方が宜しいとの意見である。

●#335. 銀十弐匁壱分壱厘 此米弐斗弐升壱夕を未進の内へ引申候
善兵衛の未納の年貢を計算し処理した書附である。段落がなく読みにくいので並べ直した。勘兵衛はおそらく庄屋である。治部卿とは治める僧の頭でつまり年預り雑掌のことと思う。「ア」を「部」と読むのは#190武士の名前の民部や兵部を参照。まず未納の米の総量から免引(免除)を2割分(0.207)行った。米、銭、金、銀で今まで払ってきたものを銀に換算して合計した。最後に差し引くと銀12.11匁おつりが出る。これは米に換算して米2斗2升1夕で将来の未進の米から差し引くとした。計算は合っている。金1両=銀67.2匁=銭5169文となり#308、#288ほど銭も弱くない。米はここは金1両=1.22石である、米1石=金1両が標準なので2割ほど米は金に対し弱かった。なお上左は1775年=安永4年未年に慈心院雑掌が醍醐村よりの年貢米を請け取った証である、「升数合」と書く。

●#334. 断簡小報六報 御冬酢之儀御仰被下筋小徳利六つ差上候
断簡と小報6つ。すべて上醍醐寺慈心院関連のものである。戒法:仏、法、僧の三宝に帰依する約束を誓う。入魂:思い入れ、意向。理解しやすい内容なので詳細は省略。

●#333. 断簡四報 改暦之御吉兆際限御座目出度申納候
断簡四報。①下醍醐寺岳西院より上醍醐寺奉行岸本内記へ。東寺での法事と1月8日からの御修法について書く。御修法は#198、#238、#328参照。②山下年預の成身院より山上年預慈心院へ。山下は下醍醐寺のこと。親王(嫡出の皇子)へ祝儀を行う手紙。十帖は白紙帳と思われる。持参して献上する惣代も必要。③慈心院座主への手紙。時候と健康の挨拶。④僧の友人から上醍醐寺慈心院への返事。改暦の時である。渾家:こんか、家内全部。渾:水が濁る、すべて。例:渾身。吉兆:よいことの兆し(きざし)。際限:物事の極み。通常は御吉兆の次に「際限あるべからず」と使用されるが、ここは僧は改暦前の時間の際限が来たと使用した。だが一方慈心院座主はこれを訂正して「不可有際限」とちゃんと訂正している。矢印の2字は座主が例によって「兆」を練習して書いた。一見「地」にみえるからね。「仰」が「命」に似る形のものは時にみられる。

●#332. 尚々城主御対顔之事如何候哉 無心元若し
下醍醐寺の僧何翁から上醍醐寺慈心院の僧俊応への手紙。「(旅中の)伏見から手紙で念を入れられ安心しました。喜ばしく追付あなたの帰山時分にたくさん承ります。よって多くを書きません」。追付:近日中。帰峯:帰山、ここは醍醐寺に帰る事。不能多筆候:手紙の最後に「多くを筆で書きません」の意味で使われる。他に「不能一二候」もあり同じ意味である。追伸「尚城主に対面の事は如何ですか。こころもとないです。この度支障で長期滞留になったらどうなるのでしょう。私が下る時分には申上ます。京都に入府の前に申上ることはよろしいこと御もっともです。この度は私はどこへも足を進めませんので宜しく申上げて下さい。ここの弥勒堂も今日中に瓦師が来て、外大工、桶工、附師等が私に普請の希望を聞きに来ます。何分道中の無事と御帰山を願っています。餞別など差上げるためのたばこ等忘れないようにと上から申し付けられています。私は異常なく勤めています」。無心元:こころもとなく、こころが落ち着かない。若し:ごとし。俊応がおそらく和歌山の旦那衆や城主に会うため旅行中であり、伏見から無事の手紙を書いた。それに対する返書である。城主への面会がどうなるか不安だと何翁は書く。この度は何翁が和歌山に行く可能性があったが、俊応が行くので城主に会って無事に帰って下さいと書いている。また弥勒堂(三宝院の本堂)の普請で大工や瓦師が普請の希望を聞きに来ると書く。最後に土産用のたばこを忘れず購買するように依頼する。やや解読が難しい手紙だったが、様々な表現が勉強になった。

栞330 

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●#331. 此壱袋麁末之品に御座候得共 円成坊登山仕候御印に進献仕候
傘下の寺より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「永々御所労と御難儀と察し申し上ます。しかしながら次第に全快されて御目出度いです。さてこの1袋は粗末の品ですが円成坊が登山する印に進上します。追伸:円成は報法様の所へ参るように大方定まりました、御安心下さい」。所労:病気。併:しかしながら。麁末:粗末。登山:ここは醍醐寺に登る。円成坊は修験道の修行で醍醐寺に来るのかもしれない。報法様とはその指導者だろうか。右2行は追伸である。

●#330. 暑候へとも弥御堅固暮被成候哉 御承度奉存候
友人の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「一筆啓達致します。段々暑くなっていますが、いよいよ御堅固に暮しておられまか、承りたいです。慈心院の気分はいかがですか。近くの勤めであれこれとあるだろうと思います。先達て書状を差しあげました所」。

●#329. 今日より上京仕候 年預代龍光院へ相頼置申候
上醍醐寺慈心院の年預の僧より慈心院座主への手紙。「向暑の時節ですが、いよいよ御安全で御目出度いです。さてよんどころない用事ができましたので今日より上京します。年預は龍光院へ代行を頼みました」。無拠:よんどころない、他に頼れない。#295と同様やはり「無拠」はとても強い。

●#328. 当春は八日より十四日迄御修法にて御座候
醍醐寺の子院の1つから上醍醐寺慈心院在の奉行岸本内記への手紙。「右の通り例年より寒気が甚しいですが私は少しの障りも無く暮しており御心配なさらないで下さい。当春は御修法の参りますので」。障:さわり、障害、とくに病気の意味でよく使われる。#198、#238に記載のように醍醐寺には御修法と呼ばれる行事がある。御修法:正月8日より14日まで7日間、東寺で天皇の安寧や国家安穏を祈る真言密教の儀式、空海以来1200年近く続いている。これに行くので食料などの費用を出してくださいとの連絡である。

●#327. 助三郎方迄態飛札を以 為持指上申候
おそらく下醍醐寺子院より上醍醐寺慈心院座主への報せ。「そちら両所より先頃御報せを寄こされましたのでこちらから助三郎までわざわざ飛脚をもって持参差上ます。この節特に取り込んでいて早々御通知この如くです」。爰元:こちら。態:わざわざ。手紙に対し何かを持参し差上げたときの報せ。

●#326. 極密用、当薬御減之上は又々御大事に候間 何卒御無難も祈る義に御座候
懸りつけ医師から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記へ内密の手紙。「極内密に申し上ます。本文の通り承知置下さい。さてこの薬は御減らしの上はまた大事になりますのでどうか御無難をお祈りします。減量すべきとのことでも法印様に懸かるその夜に法印様のおっしゃるように薬を減量しない方がよいか。この段深く御賢慮御願い上ます」。法印様は上級の医師のようで薬の減量を言っている、他方普段の懸り医師は薬を減らすなと言っている。これを極密で伝えている。法印様には1月に1-2度とかで懸かるようだ。当然ながら江戸時代でも医師同士の間で意見が違うことがあった。

●#325. 明廿三日御使左右田氏被相勤候 態御入魂被致候
部下より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。さて明日23日の御使いは左右田氏が相勤めます所わざわざ意向を入れられた事。そのように申し下します」。入魂:思い入れ、意向。左右田氏は「左右田掃部」が姓名で「そうだかもん」と読む、やはり岸本内記の部下である。#190に「掃部」など様々な武士の名前を記載。

●#324. 年始惣代等之算用書相渡候
醍醐寺子院座主より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「御手紙拝見しました。さて年始の総代などの算用書の文を御渡しする折でいかがでしょうか。来院早々ですが御再答下さい」。算用:見積り。年始の総役などの計画書を廻すので都合を聞かせてほしいとの文である。#238に記載のように醍醐寺には御修法と呼ばれる行事がある。御修法:正月8日より7日間、東寺で天皇の安寧や国家安穏を祈る真言密教の儀式。「年始の総役」は当然必要であっただろう。

●#323. 利足は月弐分年弐割四分にて 元利〆六拾五匁八分九厘に御座候
上醍醐寺慈心院への御用商人の記載である。「御安康で御目出度いです。ここに銀子を下げくださり慥に落手しました。左に御勘定いたしましたので差上げます」。慥:たしかに。落手:入手。金1両=銀64.6匁の両替率は他の醍醐寺文書と同じ位。「り」利息は下の計算より月2分、年2割4分に違いないと思う。江戸時代は年利2割前後だった。#74では2割4分、#174で1割8分、#56で2割であった。幕末には1割2分と法定されるが、この文書は1750年前後のものである。

●#322. 御苦労に存候得共 是非共貴院御下向無御座候ては
同門傘下の寺から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「わざわざ飛札で御意を得ます。さて先だって申入ました通りこの度の事は我々一門の重要なことで内では難渋しています。近日中に御苦労ですが是非こちらに御下りくださらないと」。態々:わざわざ。飛札:飛脚便。得御意:あなたの私に対する心をよくするために。一類:同じ仲間。同門傘下の寺が困った状況で難渋しているので是非来てくださいと言う。今後はどうなるのだろうか。

栞320 

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●#321. 母様も此間少々御気に御中り 御薬御服用成候処
親しい武士から上醍醐寺慈心院奉行の岸本内記への手紙。「一筆啓上します。時分冷気の頃です。まずそちら益々御勇健に成され御目出度いです。こちらも無異にしております。しかしながら御母様はこの間少し病気になられ、御薬服用されて当分。追伸:尚々(奥様は)随分御堅勝に成されて宜しい事申上げ下さい」。爰元:ここもと、私。併:しかしながら。御気に御中り:御病気におあたり。この親しい武士は母様と御がないので弟かもしれない。

●#320. 米五斗代三十匁 天満宮出銀三匁三分にて御座候
上醍醐寺慈心院の御用商人が計算した覚である。緑線の右は入金。金1両=銀60匁と全く標準であったとわかる。緑線の左は支出で4項目を合算している。屏風の中張りにて中央が剥がれていて見えないが青字で想定して記入した。間違いないと思う。米価はどうか。一般に米1石=10斗=金1両が標準。米5斗は金0.5両=銀30匁が標準となり、記載の「30匁米5斗」は全く標準的価額であったとわかる。1750年前後の相場である。#308、#288では銭は標準の1.5倍以上も金銀に対し弱かった、一方米は弱くなかった。それにしても御用商人の算盤計算はすごい。3桁の割り算でも正確にさらさらと行っていた。「天守」は二条城天守のことかも知れない。

●#319. 五日発駕之早船帰城申候 借申付珍重奉存候
上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「滞りなく免れてこの五日発駕の早船で帰城しました。借りを申し付け御目出度いです。これも貴意を得る為で千代と人夫と遣わしました。この時節柄ですので日雇いもひとり用いました。大変気の毒なことと御無沙汰をしました。御容赦下さい」。発駕:出発。御無沙汰:ここは長時間掛った意味。岸本内記が船で人を遣して、何かを借りに行かせた。その帰りに事件があったが免れて無事に早船で帰った。おめでたいことだったが千代と人夫ともう1人必要だった。人件費も時間もかかり気の毒だったが御用捨下さい。このような意味だろう。

●#318. 御ひふ飛色壱つ 右急々御仕立可被成候
上醍醐寺慈心院の服仕立の注文書。萌き:色名で黄緑色。飛色=鳶色:赤ワイン色。御裏:袷の裏。ひふ:被布、着物の上に着る羽織。綸子:模様を織り出した厚くてつやのある絹織物、#303参照。帯はこの時「筋」で数えた。急いで仕立してくださいと書く。当初ひふは下着かと思っていた。おそらく醍醐寺の中に仕立の所があるのだと思う。

●#317. 其地只今道中之御儀に候へば 何にても御答のみ罷成候
旅の道中の上醍醐寺慈心院座主宛への留守番の僧からの手紙らしい。「あなたは今道中なのでとにかく答のみ為して下さい。先にあらましを申しましたのでお忘れの事もあるので追々答を下してください。そちらは御里元ですか。こちらには高松菴という方が尋ねてきて拝礼のことをいわれましたがあなたより高松菴方へ何の連絡もないとの事です。又去年より御焼香の」。其地:あなた。爰許:ここもと、私。留守番役の僧も大変である。高松菴が来て礼拝を依頼したがそれに付座主は回答していない。

●#316. 御太刀馬代金壱枚 縮緬三巻二種壱荷献上
おそらく上醍醐寺慈心院座主の新任の醍醐三宝院門跡への書類の原稿。「(門跡に)御取立られた事で格別の事に思われるでしょうからいかにも礼法に相応の取計が必要でしょうか。礼法の時期はあなたの勝手良い何日でも申し出られたらよいでしょう。(朝廷より)許容があれば早々参上することは先例がありますが、醍醐寺子院の我々も12月下旬は御行法で多忙です。参殿いただいてもこちらからの御願いはありません。(朝廷より)地跡の許容が済みましたら先ず代役でもって(我々に)礼を申して下さい。御本人は年明けの御参上でもよいでしょう。紀伊大納言(紀伊藩大名)様よりの御使の事は「地跡兼帯下事」です。御口上の使者を派遣が必要でしょうか。以上お尋ねにつきお答えし御意を得ました」。「地跡兼帯下の礼式の覚。御太刀馬代金壱枚、縮緬三巻二種壱荷、以上献上。銀十五枚、以上惣家来え奉納」。「地跡兼帯下事」は紀伊大納言の使者が進物をするので返礼に御太刀馬代として金1枚、縮緬3巻、二種一荷を贈る、家来へは銀15枚を贈るという意味だろう。兼帯:2つ以上の役を兼ねること。御太刀馬代:古くは太刀と馬を贈ったがその代用で金銀を贈る。例文:御祝儀相兼御太刀馬代銀三枚被進之。縮緬、二種一荷も定番の進物。縮緬:ちりめん。二種一荷:2種の肴(例:昆布、干鯛)と1荷(樽酒)。上醍醐寺慈心院の旦那頭は紀州藩の加納氏と鈴木氏であり紀州藩と醍醐寺は深い関係であった。

●#315. 用事無之候ても世間外聞も不宜候間 一度は必御下り被成候
おそらく傘下の寺の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「数々とかく力ないことでした。随分息災にしていますので御心配されないようにしてください。来月には何卒こちらに御下りなさるようにお待ちしています。用事は特になくても世間の外聞がよろしくありません。近日中一度は必ず御下りくださる御事万端」。ふいふん:おそらくずいぶん(随分)の意味。息才:息災。被成下ましく候:なされないようにして下さい。あまりにこちらに来ないと外聞が悪いですよと書いている。このように傘下の寺から近日中に京都から下って来てほしいとの手紙がしばしばみられる。よって上醍醐寺慈心院座主は人気があったように見える。#307では尼僧にもきてくださいと書かれている。

●#314. 小左衛門より只今人差越候 則来状相廻し候鳥渡返書相認候
おそらく上醍醐寺慈心院座主への手紙。「小左衛門よりただいま人を寄こし手紙が来ました。そして来た手紙を廻します。ちょっと返書を書きましたのでこれもお目にかけます。返書も使いの者にお渡しください。追伸:尚明後日の所はいかがですか。宜しく御取はかり下さい」。則:そこで、すぐに(即)。小左衛門から醍醐寺に来た手紙と返書を各院に廻状しているようだ。

●#313. 乍御苦労是非御下向可被下候 御不審御気遣と存候得共
おそらく傘下の寺の僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「閑を待っていますがとにかく今回は簡単に済まない事です。今月末に及び難儀な事と察しますが近い内御苦労ですが是非御下向下さい。きっと不審な事と思われるでしょうがこの度の事は手紙に申上難い事です。とりあえずこの如くです、もっとも」。傘下の寺で難儀なことが起ったので是非こちらに下ってくださいと書く。大寺の僧も大変苦労があるようだ。

●#312. 松尾寺無宿当役 三輪山見分相済候段御届之趣
上醍醐寺慈心院座主から僧への手紙の原稿。「御手紙見ました。お手紙のように少し暑い季節です。弥々御無難に御法勤御目出度く存じます。さてこの春杉50本伐木を御願いしましたが聞かれている所です。松尾寺無宿の者が三輪山を見分し終えている事を御届済の趣でそちらの席に沙汰があると思います」。翰=書翰:手紙。法勤:僧の勤め。無宿:宗門人別帳から名前を外された者、「上州無宿文次郎」などと出身地を冠せられて呼ばれた。ここの「松尾寺無宿」は元松尾寺に籍があって後事情で無宿となった人である。醍醐寺は現奈良県桜井市の三輪山に土地を持っていたようだ。三輪山平等寺という寺があって醍醐寺と深い関係を持った修験道の霊地がある。三輪山平等寺の住持に宛てた手紙かも知れない。「披閲候」は開いて読むの意味だが随分目下の者に使う書式である。通常は「拝見仕候」である。この紙は原稿とする積りなのでこのように書いたのかも知れない。

栞310 

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●#311. 御間暇も候はば茶相催申候 御勝手如何に候哉
知人の武士より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「今朝宿に入った所です。昼までの内で御暇があれば茶を催します。御都合はいかがですか。内々ちょっと御尋します」。勝手:都合。内々:秘密で。鳥渡:ちょっと。様は女筆のさまを使っている。「勝手」がやや難だった。

●#310. 御双院様益御平康可被遊御座候 珍重不少奉存候
やや下位の僧からの上醍醐寺慈心院座主への手紙。「一筆啓上します。暖和な時節になってきました。御双院様とも益々御平康になされ御目出度いこと大きいです。私も家内も異常無く暮しています。慮外(無礼)ですが御安心ください。かつ御両家、伊兵衛」。下拙:げせつ、自分の謙譲語。尊上:あなたの尊敬語。典型的な手紙の挨拶文である。御双院と御両家は上醍醐寺の慈心院と龍光院だろう。

●#309. 倍御清福被遊御座承度奉存候 私無事息才にて相暮候
親しい僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「時分は暖気になって来ました。益々御清福になさっておられるか承りたいです。私は特に無事息災で暮しております。必ず御心配なさらないで下さい。そちらは何も変りませんか。当地は開帳もないのですがしかしながら」。倍:ますます。承度:承りたく、知りたく。息才:息災。御案事:御心配。被下間敷候:くださるまじく候、しないようにして下さい。併:しかしながら。下は別の紙が貼ってあったので見にくい。

●#308. 銀百六拾壱匁九分此替 銭拾七貫四十一文に御座候
上醍醐寺慈心院への御用達商人大黒屋の何かの計算書である。図の②、③の代銀の合計④を銭に換算して⑤に示している。銭の「貫」はしばしば〆と同じに書かれる。計算は合っている。両替の金1両=銀63.2匁は標準的。銭1貫=1000文=銀9.5匁は金1両が6650文となる。#288と同様に標準の4000文の1.5倍以上金銀が銭に対し優位である。③3.9匁は②158匁と比較して小さい額なので手間賃であろうか。大黒屋は#306にも計算書を書いている、御用商人がぱちぱち算盤を使って計算し書き慣れた字で携帯筆でさらさらと書き上げている様子が目に浮かぶ。この戌年は1742年または1754年である。

●#307. 京都に居候う迄は 御元のかほはかり存申上居候
尼僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「京都をまだ出ていません。右の京都での寺役の日のことなど深く思っていただけばここに御覧に御尋ね下さい。いつぞやには寺役の日は終えるはずなの所が京都に居候していてあなたの顔ばかりきよ路へと申上ています。このようなことも困っています。右の通です。さて私の事も御覧に」。いつぞや:先頃、はっきりしない日。つくと:熟と、深く。了:終える。尼僧は地元の寺に本来は住んでいるが、寺役日には京都の上級寺に詰めているようだ。その間慈心院座主と文通している。京都では御元の顔ばかり考えていますと書く。

●#306. 熨斗目作製五拾壱匁五分に御座候 手附金壱歩頂戴
大黒屋武助が上醍醐寺慈心院の奉行の部下羽岡左仲への計算書。奉行岸本内記が使う熨斗目は銀51.5匁であった。前金で1分=銀15.83匁を入れた。1分=0.25両。よって両替率は金1両=銀63.32匁であった。#243に大黒屋武助に手附金1歩を渡した旨が書かれている。なお#243ではこの注文はこの後岸本内記の了簡違いであったとのことで取り消しになったことがわかる。熨斗目:のしめ、麻裃の下に着用した礼服で腰のあたりは縞柄。

●#305. 大僧正様益御機嫌克被為成 め出度奉存候 讃岐金毘羅より
讃岐金毘羅より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「手紙で御意を得ます。暑くなりますが大僧正様益々御機嫌よくなされ御目出度いです。また無難に勤められ大変よいです。さて参上の節OO様が讃岐金毘羅においであそばされるに付」。克:よく。不少:少なからず。健康の挨拶が二重で丁寧である。讃岐金毘羅の宮司と慈心院座主は懇意の間柄であったことがわかる。また慈心院座主延順は大僧正で高位の僧であった。

●#304. 寺社方役人月番と寺扈従に御座候
上醍醐寺慈心院の文書2枚である。上は慈心院に寺社奉行の役人の月当番が記載されている。この役は他の役の当番と同様に2名居る。これは2名のほうが悪事が起こり難いことからだろう。下はおそらく高僧の侍従役の当番を記したメモである。八つ:午後2時。七つ:午後4時。七つ半:午後5時。扈従:こじゅう、貴人に付き従う者、ここは僧ではなく寺小姓の上位の者であろう。扈:従い伴をする。この「侍」は武士ではなく侍者と呼ばれる寺の雑用係であろう。扈従にも上中小がありここでは「御中扈従」と呼ばれたことがわかる。また「侍」にも時侍、准侍などランクがありそうである。

●#303. 僧衣注文 服、袷、襦袢にて御座候
上醍醐寺慈心院の僧の服、下着の注文書である。用語は下に解説した。服とはアウターウェアのことで光沢のある綿か絹の綸子であったことがわかる。

●#302. 美濃南光院儀御家来修験に可被加候 御礼式にて参殿可被下候
上醍醐寺慈心院から美濃の南光院への手紙の原稿。「美濃国南光院へ。貴院の僧が修験に参加してよい許可があったので御礼式などに戌年の何月何日までに紹介状持参で参殿して下さい」。文章は改変しているが元の語句もよくわかる。改変で全体に丁寧な表現になっている。最後の「醍醐寺」と書く所をこの紙が訂正で原稿となったので「醍、、」と省略して書いた。美濃国何之関とは関が原の不破の関のことである、これは本稿には書かれなかったものだろう。原稿は捨てられるのが前提なので本稿とは異なる点が興味深い。ここの戌年は1742年であろう。修験道南光院は1635年城主戸田氏鉄の尼崎から大垣への移封で美濃大垣に移された、今は大垣金刀比羅神社となっている。醍醐寺は修験道の修行で有名で#292には肥後熊本、#237では出羽黒川村からの修行者が来ていた。

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●#301. 十二日斎 こんにやく、白あへ、小いも、御飯等にて御座候
上醍醐寺慈心院の僧のある日の献立である。芋類:こんにゃく、小芋、甘藷と主流。大豆:白あえ(とうふ)、焼とうふと使用。他にしいたけ、こうこ、御飯。魚のすり身のちくわが動物性蛋白。斎:とき、僧の食事。白あえ:豆腐とごまを擂ってゆで野菜などと混ぜたもの。香物:漬物、大根など。1750年頃の京都の大寺での僧の食事の例で興味深い。

●#300. 近来到着大酒御持賞被下 忝奉存候
おそらく友人より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「先程は初めて参入しました。久々にゆっくり酒を賞味しました。近来到着のたくさんの酒をお持ち下され忝く存じます。さて帰宅したら沈酔しました。この品どうかと思いますが進上致します。御笑納ください。今晩参上したい所ですが少し疲れ尽くしています」。寛酒:寛いで酒を飲むこと。沈酔:酔いつぶれること。賞:上位者より下位者へ下さる意味の尊敬語。如何敷:いかがしき、いかがだろうかと。侭:ここは尽に同じ、極。疲侭:疲れ尽す、疲れの極。

●#299. 清水忠門私迄窺暇候 相叶候儀に御座候哉
部下の庄司より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「左の届に御窺いします。清水忠門この度伊勢へ下って、その地へ居ます。先に別紙の通り御願いの旨を申上て私へ暇を取る伺を出しました。これに付き出処はありますか。尋ねお願いすれば叶られますか」。暇:いとま、休暇。暇乞(いとまごい)は永遠の別れの意味でも使われる。庄司は忠門より上、内記より下で中間管理役だろう。内記の部下は休暇や遅参をよく取っている。#295、#277、#269、#265、#230に同様の手紙がある。

●#298. 無御別条皆様御在府も成候 珍重不少候
僧随西より上醍醐寺慈心院座主、延順への手紙。「あなたの御手紙拝見しました。大暑の時節です。弥岳法印、恵法印、仲山平治、庄兵衛皆様異状なくお暮しで御目出度いです。さてこの事ですが8日に松田氏も別状なくそちらに到着、誠に御無難で御目出度いです。春位殿にも8日に松田氏と対談され衆中共に別状なく御在府で御目出度いです。仲山家平治は無事ですが庄兵衛は少し病気を煩い服薬して春頃迄御世話とか。しかし会は早くなされ御目出度いです」。法印:僧の高い位。快:早く。無御遣:時間を使うことなく。多くの名前がでるが慈心院で大きな会合があるようだが準備は順調に早く出来ている。この手紙で慈心院座主の名が「延順大徳由章」であるとほぼ判明したのは大きい。「醍醐寺文書聖教目録」内での検索で記載がみられた、ここには「(仲山)平治」も記載あり。随西は同じ真言宗小野流随心院(醍醐寺の北隣の小野にある)の僧ではないかと思う。真言宗小野流は江戸時代まで醍醐寺も所属していた派である。文面より親しい仲間の僧であることは間違いない。他の文書より1750年前後の手紙である。

●#297. 賎母義御尋問被下忝弥達者に罷在 頃日清水開帳罷登候
おそらく紀州藩士で慈心院の旦那頭、鈴木吉左衛門より上醍醐寺慈心院座主への返事の手紙。「和歌山でも吉三之介殿の御用でも揃って変わりなく、私の方と母の尋問下され忝いです。母は達者で最近清水の開帳に登り1-2日以前に帰国しました。あなたの御手紙の事を申したら悦びました。さて紀伊中納言様は当地を通り。追伸:妻へ御ことずて下さり忝いことです。宜しくと申しています」。若山:和歌山。「和歌山」と「若山」とは混用されていたが、元禄年間ころに藩が「若山」に統一した。明治からは和歌山になった。賎妻、賎母:妻、母の謙譲語。御言伝:御ことずて。紀伊中納言殿;第6代紀伊藩主、徳川宗直(1672-1757)(紀伊藩主:1716-1757)。手紙からは鈴木吉左衛門はこの時は若山勤務のようだ。清水寺の御本尊御開帳は原則33年に1度らしい。

●#296. 故郷へ帰り申候 伏見は通不申候間を思召可被下候
紀州藩士で慈心院の旦那頭、鈴木吉左衛門より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「伏見は通りませんのでそのように思って下さい。さて吹上筋の御助力は勝手が宜しいですので御安心下さい。私はこの節親類の者の支配人同然で大変苦しく暮しています。所要が終われば故郷へ帰ります。書余は江戸より出します」。和歌山市吹上は城に近い武家屋敷。和歌山の武家からの援助が期待できるので安心するよう書く。鈴木吉左衛門は#160にて和歌山市宇治に住居あり。今は江戸勤務のようだ。江戸から和歌山へ帰郷するが醍醐寺に近い伏見は通らないようだ。#257の鈴木対馬守安貞は父であろう。

●#295. 恐入候得共何卒昼頃迄 御暇願上度奉存候
部下から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。さて重要な用事がありますので恐れ入りますが何卒昼頃までは御暇を願います。どうか宜敷お頼みします。済み終わり次第出勤し拝顔します」。無拠:よんどころない、他に頼れない、他にどうしようもなく重要な。弁次第:わきまえ、事が理解でき終り次第。#269、#277など同様の出勤が昼過ぎになるとの手紙である。「無拠(よんどころない)」というのは大変便利な言葉で上司に使えばこれ一発でそれに取り掛かるので出勤できない正当な理由になる。「得貴意」も短くて便利な言葉である。

●#294. 乍御苦労御上京可被下候 鷹司様之方出来九条様之方不出来
おそらく醍醐寺子院の僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙断簡。「今日か明日中近い頃御苦労ですが御上京なさって下さい。鷹司様は既に準備出来て宜しいです。しかし九條様は御取法しない」。ここでは鷹司家での祈祷の取法の準備は整った、そして九條家の取法は醍醐寺は行わない予定であった。しかし九條家は鷹司家と並ぶ有力な公家であり問題が生じたことがわかる。上醍醐寺慈心院座主はそのことで上京を急いで行うようだ。文書#241に掲載のように醍醐寺の頂の門主は特に鷹司家と一条家が多く主流であった。鷹司家と九條家は禁裏の南、丸太町側中央に堺町御門がある、この入り口の両脇に鷹司、九条両家の大きな敷地がありライバルであったと思われる。

●#293. 蓮華光院様被為承大僧正宣下 目出度思召候
上醍醐寺慈心院座主が書いた原稿。Aは蓮華光院の座主が大僧正に宣下が下ったのでお喜びの文。大僧正になると米何石か受取れるようだ。宣下:せんげ、天皇や将軍からの命令書、ここは大僧正任命書。Bは堺町御殿関白様と宛名のみ。Cは常盤井御殿禅官様と宛名のみ。それぞれ誰に相当するのか考察してみた。下に常盤井御殿は御所内の仙洞御所と書いたが、1750年当時の正確な場所は不明である、ただ御所禁裏近辺の建物には違いない。

●#292. 修験は冥加銀年之差出し可申候
醍糊三宝院末修験の肥後国熊本の仙勝院代行の慈験院よりの口上に対する上醍醐寺慈心院の回答。「考案しましたが修験道は右の御門への許可は冥加銀を毎年差出すべきです。差出しが無ければ修験道の寺の許可は差し止めです。昨年の申年の寺は各1両、1分、1分。一昨年未年は1寺は拝借、1分、2分」。「一昨年未年分」は永く拝借にすると書く。金1両=金4分(歩)。肥後国の仙勝院の傘下の寺から毎年3名が修験道の修行に来ていたことがわかる。掲載の寺院を調べたが7寺中現存は2寺で今でも真言宗醍醐派である。他2寺は醍糊三宝院末修験であったと確認できた。他の文書より申年=1752年=宝暦2年の文書である。

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●#291. ほうそうかろくいたし候様 御きとう被成可被下候
醍醐寺慈心院関連の女手紙である。若い武士の妻から夫への返事の手紙。「手紙をいただき大変喜びました。郷の方へもお知らせ下さり忝いです。なお吉太郎の事を思うにかわいくなっています。御目に懸けたいです。少しずつ足もでて大変丈夫になりました。皆で喜んでいます。ここではほうそうが大変はやっています。あなたが遠所に暮していますのでそれを案じています。また御苦労ですが、ほうそうに懸っても軽く済むように御祈祷なさって下さい。呉々も頼みます。平三郎夫婦は毎度来ますが世話しています。御安心下さい」。いたいけ:かわいい。かすかす:多く、大変。ちゃうふ:丈夫。ここもと:此許、こちら。ほうそう:疱瘡、天然痘のことで近年撲滅されたが、江戸時代の種痘のない時代死亡率は20-50%と非常に高かった。ここでは御祈祷で疱瘡が軽くなるように夫に依頼している。かろく:軽く。例文:わろく(悪く)致し。平三郎ふうふは近所に住む夫の弟夫婦ではないか。ここの「も」は下が切れて「X}になる「も」である、かなの中でも「も」は変化が多い字である。

●#290. 只今御代参相勤申候間 御家司宜御披露可被下候
醍醐寺子院の1つより上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。さて今より御代参を勤めます。御家司を(誰か)教えて下さい。宜しく頼みます」。代参:貴人の代りに御参りすること。「江戸後期-I」の姉小路に大奥の女性が将軍の代参で水神に参る記録を掲載。御家司:御家来、ここは自分の代参の世話役に付く侍の意味。三宝院門室の代りに何かの会に東寺などへ参るのかも知れない。ここで「只今」の所を「思今」と書いているが誤字であろう。

●#289. 醍醐寺御貸附の記録 〆銀弐拾弐貫五百九拾壱匁に御座候
おそらく醍醐寺の会計係が書いた覚え書2枚である。日野新坊、日野真乗坊に貸付た銀と支払い銀を計算している。計算は合っている。Aの銀23貫とは銀1貫=3.75kgであり、銀86.3kg、金383両(金1両=銀60匁)という莫大な金額になる。Bは銀6.3貫=金105両。日野村は醍醐寺に至近で文書#234のように深い関係にあった。「岩城家は梅本坊と称した日野法界寺坊官で、醍醐三宝院へ願書など出していた」。以上のような文書もあるので、「日野新坊」「日野真乗坊」は醍醐寺と極めて深い関係の寺に違いない。よってこの様に莫大な金額の基礎資金を提供している。この計算書では各年に返却して余りの残銀があったことがわかる。未年は1751年の文章である、そして貸付開始年の申年とは11年前の1740年となる。

●#288. 右引残銀受落可被成下候
部下の侍中村源五右衛門より上醍醐寺慈心院寺社奉行の岸本内記への清算書。おそらくどこかから(幕府、御所など)の入金3歩=0.75両があった。Bに記載の4項目9巴に分配した。巴=把で束(たば)と同じだろう。これは「指上る」とあり、おそらく醍醐寺門主や子院の座主に分配したのだと思う。そして分配後の残りの銀を奉行の内記へ差上げた。銀対金は1両=62.4匁、銀対銭は銭1000文=9.55匁。これは金1両=銭6534文となり一般的に言われる4000文の1.5倍以上も「銭」に対し「金銀」が優位であったとわかる。1750年前後の文章である。

●#287. 御門室様東上之儀如先報 広徘徊仕候様に御赦免
おそらく上醍醐寺慈心院座主より江戸の僧か武士への手紙の原稿。「御蔭で御門室様が江戸へ東上のこと先報のように広く徘徊できるように御赦免を広く取り持ち下さり忝く存じます。これまでの粗末な御挨拶御容赦ください。さて御苦労ながら」。下醍醐寺三宝院の門室が江戸に登ったので様々な所に見物できるようにしてもらったお礼状だろう。

●#286. 伽藍勘定帳御越 慥に落手御儀為趣致承知候
飯田大和守から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「御手紙拝見しました。さて伽藍勘定帳を寄越されて確かに受け取りました。内容承知しました。御意を得るべくの便りです。ただ今取り込み中で請取の御報まで、この如くです」。伽藍:寺の建物。慥に:たしかに。落手:入手。飯田家は醍醐寺近辺の南小栗栖村の支配をした家で醍醐寺三宝院門跡の坊官家で法印になっている。坊官:家政を担い門跡に近侍する僧侶。手紙では慈心院建造物の修繕にかかる勘定の帳面を受け取ったことが書かれる。

●#285. 四軒に割壱軒方 右当廿五日迄に持参可有候
人件費の負担を醍醐寺山下僧座、一言寺、岩中坊、椹木寺で4等分した覚。一言寺は下醍醐寺の近辺の寺で真言宗醍醐派、岩中坊、椹木寺が不明の寺。計算はほぼ合っている。醍醐寺山下僧座とは下醍醐寺の諸院のことである。

●#284. いよいよ御かりなく御入候や きかまほしく存候
女手紙でおそらく尼僧から上醍醐寺慈心院座主へのもの。「たよりに任せ一筆示します。暑さに向かいますがいよいよ御変りなくされていますか。お聞きしたいです。(私も)無事です。御安心下さい。さて7日、8日は上京です。11日は寺屋へ日(不明)で12日は月なみの日なので右の両日が済むまでは御上京」。きかまほしく:聞きたく。御かりなく:「御替りなく」の意味で口語調に「わ」を外したと思う。「一筆示し」の書式は勉強になった。紙の下方は貼ってあった別の紙を剥した後なので読みづらい。屏風の中張りになっていた手紙である。

●#283. いかさま五月中まては罷上り 緩々可得御意候
おそらく部下から上醍醐寺慈心院奉行の岸本内記への手紙。「上京致しません。2人が早く帰れば早く上京します。まだいつになるのか知りません。どんなになっても五月中には登りゆっくりと御意を得ます。内蔵太と定八の両人へもくれぐれもよろしく御聞かせ下さい。余寒の時ですがしっかりと御安体下さい。他は後の対面の喜びの時に」。いかさま:如何様、いか(どんな)になっても。緩々:ゆっくりと。得御意:あなたの私に対する心を良くする。部下は京都以外に居て内蔵太と定八の両人が京都に行くのでこの2人がここに帰ったら5月中には上京しますと伝える。「いかさま」の字を「已何様」と書いて練習している。「随分」の横には「侭(まま、尽くしてしっかりと)」と書いている。

●#282. 御寿何かたも同じ御よに御にきにきしく 祝納まいらせ候
女筆でお祝いの手紙、おそらく新春に若子が誕生したのだと思う。「仰せのように此間の御祝いに皆様同じ時代に賑やかにされ御目出度いです。まず皆様もお揃で御機嫌よく若々しい春は尽きることなきことです」。御にきにきしく:御賑々しく、華やかでよい。若生の:若々しい。尽しのふ:(佳いことが)尽きることなく。裏に字の練習をしてやや見づらい。女筆の様々なお祝い言葉が勉強になる。これは醍醐寺文書である。

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●#281. 御見舞殊に被預御世話忝奉存候
慈心院座主への御見舞を貰った御礼の手紙と思われる。「私は大変歓悦いたしました。先日御見舞で品を預けられ御世話になりました。早速手紙で御挨拶申上るべき所が特に取紛れて御無沙汰しました」。野子:自分の謙譲語。不斜:ななめならず、普通の程度でない。取紛れ:用事に忙しく。

●#280. 山上伽藍分出銀惣合
出費の覚で醍醐寺の子院での分担金を書いたもの。計算は合っている。圓明院、宝幢院、行樹院の負担は未計算で最後の「惣合」に記入の予定である。おそらく山上つまり上醍醐寺の子院がすべてと思われる。弥勒院と龍光院以外は、上醍醐寺の子院と確認できた。従って上醍醐寺の施設の為の出費に違いない。

●#279. 麻上下若し宿元へ帰り候はば 乍憚御登し可被下候
おそらく弟から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「一筆啓上します。いよいよ御機嫌よく帰山され御目出度いことです。さて絹の麻上下もし宿元へ帰りましたらお登らせ下さい。確かに金吾が持って行き入置したはずですが宿に帰ったのか、麻上下が来なければ登らせて下さるように願います。追伸。猶々御母様へも宜しく御伝え下さい」。能:よく。帰山:寺に帰る。麻上下:あさかみしも。慥に:たしかに。岸本内記が貴人に会うのに着る麻上下は金吾が持参したはずであるが宿元に戻ったようで殿に登らせて使って欲しいと書く。金吾は世話をする御用人だろう。

●#278. 近日紀伊郡三草山にて所司代組与力同心 炮術稽古被申付候有
部下の山添氏より上醍醐寺慈心院の奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。過刻飛脚便が到来しました。近日紀伊郡三草山にて所司代の組の与力や同心が炮術稽古を申付られたことです。音も災難ですが差支えはないでしょうか。明日昼までに「否」の口上書を入れることになりました。御門室も差支えありとのことです。小野御殿からも聞き合わせするそうです。年寄一統が来て大川筋大垣が入用で勘定帳を差し出しました。これは出費が懸る物で今月中に決めたいと言います。余程の出費で山(醍醐寺)も入用かどうかも加え難渋の件です。費用の内400匁程山上、山下諸院へ出費を願い出るのはどうでしょうか。これは急ぎませんが明日あなたのお答えを下してください。追伸。先日は御容体詳しく御教示承知しました。療養が重要です。年寄帳面本(勘定帳)の写しを添えて」。紀伊郡三草山とは山城国紀伊郡(現京都市伏見区を中心とした郡)の深草山でこの時代(1750年)は「みくさやま」とも呼ばれたようだ。深草山の東側には醍醐寺や随心院がある。京都所司代の家来が炮術稽古(おおづつ)を行うよう命ぜられたので醍醐寺では「否」の口上書を出すようだ。大きな爆裂音や人が負傷する可能性があり当然だろう。大川とは山科から南へ醍醐近辺を通って宇治川と合流する山科川のようだ。小野御殿は醍醐の北隣でここは随心院(真言宗小野流の開祖の寺)のことで地名に小野御所ノ内町が残る。醍醐寺は現在真言宗醍醐派とするがそれ以前は真言宗小野流であった。

●#277. 無拠用向出来仕候 昼迄之所御入魂御願申上度候
部下より上醍醐寺慈心院駐在の奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。弥々の御安全御目出度いことです。昨日下宿をしました。有難かったです。今朝早勤の所でしたが、どうしようもない用向ができましたので恐入ますが昼迄は(欠勤につき)よろしくその心積りにしてください。お願いします。その心積りでお願い奉ります。後刻出勤の時御礼をしっかり申上ます」。得貴意:あなたの私への心がよくなるように。無拠:よんどころない、他に頼れない、他にどうしようもなく重要な。入魂:ここは「心積り」の意味。#269同様に部下の出勤が遅れるとの手紙である。

●#276. 是十前後の注進并交右御道具目録
おそらく醍醐寺塔頭の座主より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「取り寄せられたら御席で廻して下さい。明春早々に認めをいれるべきもの10枚余り預かっています。この10枚の注進とこれに交えて御道具目録等がありますので年明けすぐに入用です。そのように承知なさってください。不宣」。注進:出来事などを上司に報告すること。交右:右に交えて。不宣:書簡の末尾の語、述べ尽くしていないとの謙譲語、not declare。年末なので注進書など書類を認めて年明けに早々門室や奉行に提出することを書いている。

●#275. 門室御挨拶被下候はば忝奉存候 御執成上御指図偏に奉願入候
上醍醐寺慈心院の座主が三宝院の門室に出した手紙の原稿と思われる。「兎角大変粗末な御挨拶で御用捨下さい。近頃御苦労ながら密番院殿、成身院殿、岳西院殿、照阿院殿、西往院殿へ御門室が挨拶されたこと忝いです。猶御門室様、出頭の願書を貴知の御方(御所の人か)に差進められたのでしっかり成す為我々に御指図下さい」。麁抹:粗末。御執成:しっかりつかんで成す。三宝院の門室がおそらく御所に何かの出頭の願書を提出した。三宝院の門室は記載の各子院に協力を仰ぐため挨拶に行った。慈心院座主は嬉しかったようで我々に御指図くださいと書いている。三宝院の門室と子院の座主は微妙な関係であったが、子院の座主同士は結束していたことがわかる。少し下がって挨拶したらされたほうは嬉しくて快く協力してくれるのは、現代と同じだね。

●#274. 大元帥御撫物申出候義付 御吟味之上四ケ院不都合之言上仕候
大元帥御撫物につき醍醐寺子院四ケ院等での廻状のようだ。「各々よくされていると存じます。今春大元帥御撫物を(朝廷に)申し出た事につき、これまで次第を我々に届けていないのでここに書く。御座主様で吟味し4ケ院共にこの前後は不都合と言上したことです。長々閉門され」。御撫物とは捧げ物でここは大元帥明王に祈祷を捧げる意味であろう。座主は子院の座主たちで反対したことがわかる。下の記録をみると1748年=延享5年、桃園天皇のために大元帥明王修行は施行された。おそらく三宝院門主と理性院座主が中心で行ったのだろう。前年に御窺書を提出し勅許が出ている。大元帥御撫物申出とはこの御窺書の事に違いない。理性院の本尊は大元帥明王である。なおこの文書は他の文書より1748年のことに違いない。下に大元帥明王修行につき解説。参考論文、森田龍僊氏「大元帥明王考」。

●#273. 昨日無滞相済候趣に承大慶不過に奉存候
義明という僧から上醍醐寺慈心院座主への手紙。「勝れない気候ですがいよいよ御元気に在院され御目出度いことです。さて昨日密教院様にも御入寺され滞りなく相済なされたと承り大慶これに過ぎるものはないことです。且この書状を万代様からの御返事が参っていましたら、ただいまこの者にお渡しください」。御鶴語:「御鶴声」は尊敬する人が一声出すと周囲が静まる位元気がある意味であるが、同義と思う。密教院は慈心院などと共に醍醐寺の塔頭の1つ、「蜜」は当字。慈心院で大きな祈祷会があり、密教院も入って協力して終了しお慶び申上ますという内容の手紙。

●#272. 商人良輔から父への長い手紙 その三
商人良輔から父への長い手紙。字は丁寧、上手で読み易いが、関連の他の書類のない一点もので不明が多い。3部は追伸である。本山資堂の話は不明、魚が父の地では高値らしい。こちらは魚は沢山あって惣菜にたべている。船荷で差上げますと書く。父が欲しがっていた地図を送ります。

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●#271. 商人良輔から父への長い手紙 その弐
商人良輔から父への長い手紙。字は丁寧、上手で読み易いが、関連の他の書類のない一点もので不明が多い。2部は父が具足を注文した。世間は物騒な空気で商人も武具を調達する。一休坂新太郎や藤江殿という不明の人のことが出る。幕府の剣術師範斎藤新太郎の事かもしれない。良輔は新太郎にまぐろ1本差上げた。父に衣類、梅の香を届けた。

●#270. 商人良輔から父への長い手紙 その壱
商人良輔から父への長い手紙。これは字は丁寧で読み易いが、関連の他の書類のない一点もので不明が多い。3部に分けた。1部は時候と健康の挨拶、賄として20両2か月分差上げる。しかし公儀から金の御用金が放出されて価値が低下するので延期する。徳川家茂の上洛の話がでて、この手紙が12月27日の日付でまさに徳川家茂の上洛への出発日であった。よって手紙は1863年とわかる。徳川家茂が蒸気船で出航するが周囲は厳重に警戒している。

●#269. 少し用事有之候に付 何卒暫遅参之義御願申上候
部下から上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。只京都より兄弟が着ましたので少し用事があります。何卒しばらく遅参でお願い申上ます。よろしく御沙汰ください」。暫:しばらく。遅参:遅れて出勤。沙汰:処置。このような手紙が多くみられ、遅れての出勤には融通が効いたがこのような手紙での一報で許可を得ることを要したようだ。1750年頃の文書である。

●#268. 年頭御門室様献上之十帖入用覚
年頭に醍醐寺三宝院の門室が御所へ献上品をする費用の覚である。計算は合っている。十帖はおそらく白紙の帖面の10冊分と思われる。立足と台はたぶん三方のようなものであろう。末広は扇子である。これらを取りに行く日雇いの費用も入れる。有住五ケ院とは住職がいてactiveな5つの子院で費用は分担する。裏に「禁裏」と記す。三宝院の御門室とは#241にあるように醍醐寺集団の総長であり朝廷の高位の公家の子息が着任した。このような費用は子院で負担したことがわかる。#255は前が切れているが類似の文書である。有住の塔頭は時代により替わるようだ。

●#267. 文久二年ものはそろへ その六 強そうて弱きものは「入むこのりきみに亀田しま」
壬戌=1862年=文久2年「ものは揃え」。越後新潟で書かれたもの。その6回目。下をいぢめる者は「仲方の違見に御定廻り之手先」。「仲方」は新潟の町の商家と奉行の間に立つ人で下に記載。御定廻りは奉行が町を見廻ることで岡っ引などを連れていたがいばっていただろう。値段の下らぬものは「すはまの政所に門徒坊主」。すはまは州浜(河口の州)で新潟にあったか否か不明。門徒坊主は金を要求してうるさがられたようだ。強そうて弱きものは「入むこのりきみに亀田しま」。婿入りした男の力んだ発言は強そうにみえるが弱いかも。亀田縞は越後亀田(現新潟市江南区)特産の縞模様の織物である。以上で「文久二年ものはそろへ」は完結である。このような文書を見る機会は比較的稀で面白くそして貴重だと思う。

●#266. 文久二年ものはそろへ その五 益の無ものは「揚屋の男に若後家の寺参り」
壬戌=1862年=文久2年「ものは揃え」。越後新潟で書かれたもの。その5回目。益の無いものは「揚屋の男に若後家の寺参り」。遊郭の揚屋にいる男は役に立たなかったようだ。若後家が寺参りするのも役に立たなかった。こわいけど面白いものは「満男にする塩、麦米」。満男は間男のようだ。「する塩、麦米」は不明。見てくれはよいが腹が汚いものは「たか店の商人に古町の花」。古町は新潟の繁華街でそこの遊女。たか店の商人は不明、高級そうだが安物を売っていたのだろうか。強いものは「加賀苧縄に山雀連助」。苧縄は苧麻という麻縄で強い。山雀連助はこれを書いた狂歌連中ではないか。弱きものは「越中傘に他門年行司」。仐=傘である、越中産は弱かったようだ。他門からの年行司は実地を知らないので物が言いつらいかも知れない。役に立ちそうで立たないものは「渡番所手代に捨読の三つ」。これは不明。

●#265. 上之思召にて休息帰り申候へ共 今日に至迄一日も休息は不致仕合に御座候
ある武士より上醍醐寺慈心院駐在の寺社奉行岸本内記への手紙である。「私は二月休息の暇をいただき久々に帰宅しました。家内の者も御想像通り喜びました。しかし江戸を出て持病の積(腹痛)が起こり帰宅でも上眼痛等で勝れず難儀です。さらに江戸表より御用を申され彼是扱いました。かつ又久々の留守で用事が多く家屋の破損も放置できず修繕し、次々難儀が涌き出しました。致し方なくあしき事でした。休息で帰宅しましたが一日も休めない仕合でした。この秋は御下向をされるように仰成されますこと久々にて貴意を得る機会と」。「上眼痛」は偏頭痛ではないか、視力低下を伴う重篤な病気ではないようだ。積:癪、しゃく、発作性腹痛、ここは一過性の軽症である。併:しかしながら。且又:かつまた。悪敷:悪しく、あしく、ここは上司に対し悪かった意味。仕合:廻り合わせ。仕合はしあわせと読み「幸運、しあわせ」の語源である。「よき仕合」から幸運になった。この文書の仕合は「悪い仕合」で一日も休めない廻り合わせ。致御知:下に知らされ。この武士は今は江戸勤をしている人で休みで郷里に帰宅したが病気や家内の用事等で多忙だったと述べる。岸本内記より若い懇意の武士と思う。最後は来る秋に岸本内記が江戸に下行するのでお世話する意味ではないか。よって江戸と京都の間に郷里があるのだと思う。

●#264. うみ山御はなし申上候へと存まいらせ候
女手紙でおそらく上醍醐寺慈心院奉行岸本内記宛。「数限りない多くの事を申したいです。私たちは体調よい事推量して(思って)下さい。久々(の手紙)にてどのように申上ましょうか。海や山ほど深く多くのお話を申上ようとしますが、あちらこちらの事がありそうでもありまた夢のようでもあります。申上事は山々残っています。さて御のもしへ」。かすかぎりなき:数限りない。すもじ:推量、ここは「思召し」。海山:深く多く。あなたこなた:あちらこちら。さふらふ:あります。やまやま:多く。女手紙の中でも文字は大変優雅で難度の高い手紙だけど特に様々な単語が勉強になるね。最後の「御のもじ」は何だろうか、気になる。「御かもじ」なら妻だけど違うようだ。#216と同様に芸者さんからまた来てほしいとの手紙だと思う。

●#263. 御上様ますます御きけんよく御入遊はし 御めてたく存上まいらせ候
女手紙断片2つ。手紙1「お願い上ます。こちらへは思わしい便りもないままです。何とぞ御頼み申上ます。めでたくかしく」。差出人の左の脇付は「申上給へ」と思う。手紙2は番号の行は追伸で最後に読む「一筆申入ます。寒に入りひえびえしています。上様増々御機嫌よく遊ばし御目出度いです。さて。中断。追伸:御世話忝かたじけなく尚そなたよりよろしくお伝え頼みます」。そもじ:そなた、あなた。

●#262. 右蔵本去方より相望申人出来仕候 甚こまり申候
同僚の武士からおそらく上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「わざわざ飛脚便を啓上します。まず皆様御堅固になされ御目出度いです。拙者も相変わらずです。先達ては御蔵本をいつものように奉仕していただき忝です。さてこの蔵本をさる方より所望を申入る人が出ました。大変困りました。それに付伊助を遣します。御大儀ながら寄り合い相談されること一入願上ます。御意を得たいですがその事で取り込んでいます。詳しくは伊助の口上をお聞き下さい」。態:わざわざ。去方:さる方の当字。大儀:大きい事、やっかいな事。一入:ひとしお、いっそう。江戸時代は本は頻繁に貸借していたようだが、これによる揉め事も多かった。

栞260 

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●#261. 銀札百六拾七匁三分八厘 当年より年壱俵之六ケ年賦に致置候
美作国英田郡下倉敷村庄屋より奉行に差し出す約束書。7年前からの借用銀を払わない百姓、久三郎と貸した徳兵衛の間の紛争の決着の奥書である。題「借用銀滞行縺内済取曖請書之事」、借用した銀の返却が滞行した縺(もつれ)の曖(不明瞭)を取り除き一同の内で完了した請書。書は3部に分かれる。書1は当事者と同じ下倉敷村小字畑沖の又兵衛、利三次が徳兵衛と久三郎へまとめと裁定を書く。「徳兵衛は7年前の未年から久三郎に貸した借用銀167.38匁を払ってくれるように村役に願い出た。一方久三郎は借用銀の事実は承認したが、内々の借金なので返済は年賦にするよう申出た。2名は御上様(村支配奉行)に次第を挙げ訴えた。恐多い事であった。私共が立入り挨拶(裁定)した。米6俵を今年(寅)より6年間未年まで年1俵にする。墓前の畑地で下作人幸蔵が作る1俵を徳兵衛に渡すこと。年貢は久三郎が払う。この間旱(ひでり)や風害で1俵に不足する時は久三郎が補充する。以上で双方得心したので了承願います」。書2は徳兵衛、久三郎、同じ棟の林兵衛が又兵衛、利三次に書く。「前書に挨拶(裁定)成されたこと忝く承知得心しました。これに少しも(毛頭)文句ありません」。書3は下倉敷村の庄屋武治郎が書く。「右の通り、我々一同のみで(解決を)為し届けます」。文章は題からしてユニークで相当に漢字の素養が深い文化人で庄屋武治郎さんに違いない。ここで銀167.38匁を米6俵と等価としたので1俵=銀27.9匁である。標準的には米1俵(4斗)=金0.4両=銀24匁となっている。よって文化15年の美作国での米相場は標準に近いがわずかに高値だった。ここは現群馬県の上野国沼田藩の支配であった、無論代官は近所に駐在したに違いない。ここの「挨拶」は現代のあいさつと異なることに注意。戊寅=1818年=文化15年6月の書類である。

●#260. 銀壱貫四百目に候 六拾壱匁六分五厘かへ
上醍醐寺慈心院への覚の代金請求である。金額のみの記載。解説は図に記載した。計算は合っている。金1両=銀61.65匁と細かい両替率は比較的稀と思う。催:催促、hurry、urge。催銀の正確な意味は不明だが、おそらく何かを至急で行うための代金と思う。寺の建物の修理か普請の費用ではないか。他の文書から戌年は1745年=延享2年と思う。厘は丁寧と簡略の両方記載あり、丁寧はやや稀である。分は♭(フラット)に似る。

●#259. 御りよもしなから御心やすくおほしめしも遣候
女手紙舟からの手紙でおそらく手本の写し。「御機嫌よくされ万事目出度嬉しく存じます。次に私舟のことつつがなく暮し、慮外ですが安心してください。少し日が明きましたが五日に参じ御話し申し上ようと思っていましたが折悪く雨天にて参じ申しませんでした」。まんし:万事。つつがなく:恙なく、異状なく。御りよもし:御慮文字、「慮外」の意味で他所に使用例はあり。慮外:無礼。「乍慮外御安意下さい」で「御無礼ながら御安心下さい」の意味で定型で使う。他所の文に「御慮もじ樣乍御きもじ安く覚し召下されたく候」。「舟」という女性名はあった。くらしの「ら」は誤字かもしれない。

●#258. ぜひぜひちかのうち御はなしのみ いのりまいらせ候
女手紙の手本の写しである。番号の行は最後に戻って読む。「此間参りましたが御見もせず御(心)残り多く存じました。此間参りました節お顔を拝しましたが言葉を交わすことも人目の席が支障で出来ませんでしたので、是非近いうち長くゆっくり御話のみと思います。この文着き次第御返事聞きたくぞんじます。まずは筆を置きます。めでたくかしく。追伸:飛札申上御心の程よく御頼みします。様々に一日も早くゆっくり御話をとこれのみ祈っております」。さへられて:支障によって。さふ:障ふ、遮られる、blocked。例文:「一生は雑事に障(さ)へられて空く暮れなん」。ちかのうち:近い内。中らく:「長らく」の当字と思う。きかまほし:聞きたい。文は重複もあり手本を写して練習したものであろう。紙は屏風の中張りである。

●#257. 加納為作殿仰日無相違心承仕候
紀州藩士で慈心院の旦那頭鈴木対馬守安貞より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「一筆啓上します。まずいよいよ御堅固に寺役を成されていますか。承りたいです。さて9日に加納為作殿が仰せの日は相違なく承りました。昨日元左衛門より聞きその思いで参上します。お願いします」。加納氏は鈴木氏と並んで慈心院の旦那頭で紀州藩家老である。加納氏が定めた旦那衆の会合の日を承知し、了解した旨の内容である。鈴木対馬守安貞は徳川吉宗の近臣で武芸を奨励する吉宗より弓道の研究と実践を命ぜられている。徳川吉宗:1684-1751、紀州藩主(1705)、第8代徳川将軍(1716-1745)。他の文書よりこの手紙は1750年前後のもので時代は合っている。

●#256. 次第に病気指重候 養生不相叶病死仕候
美作国英田郡下倉敷村(現岡山県美作市巨勢)の庄屋へ知り合いの病死を伝える手紙。「急いでご連絡します。福中屋7、8日前より健康が勝れない状態でしたが、次第に病気が重なりました。種々治療を受けましたが、養生も叶わず今朝暁に病死しました。葬式は今晩です。以上お知らせします」。病死の連絡の典型例とみられる手紙。

●#255. 白赤水引、末広六本等 六ケ院様割壱ケ院様分三匁壱分九厘つつ
醍醐寺でどこかにお祝いを差上げる費用を6つの塔中で等分に負担する旨を年当番が慈心院の雑掌に宛てた手紙。末広は扇で6本、紅白の水引を使う。計算は合っている。「圓戒録慈室」は手紙を出した僧で慈心院の雑掌が覚で書いたと思う。

●#254. 御行法の御香水入申付候処 漸々五つ御間に合由に候
弥惣作さんから上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「手紙で貴意を得ます。寒冷弥々増しています。お揃で御安静御目出度いです。昨日は来春の御行法の用事で請負の者2名参殿しました。御面談の上取成し下さって有難いと申しています。その節御香水入が要用ですが格好の物でこれまで御行法の勤の方に改めるよういわれました。急にといっても30-40日かかります。以前御宝にて焼いたようですが、ここでは清水で焼くようです。年内日数なく24、5日には上京なさることで御心付は如何でしょう。追伸:御香水入漸々5つ間に合いそうです」。行法:密教の修法をいう。 御行法という行事に請負の者が来た。御香水入を使うようで、調達に難があったが漸く5つ入手できる目途がついた。御宝焼とは七宝焼だろうか。

●#253. 薬倍御用ひ少々御験も御座候御事や 宜思召候はば又差上可申候
医師の左仲氏より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「先日は丁寧な書簡下し御念を入れられました。その後の御容体はいかがですか。この間追々ゆったりしておられますか。少しの薬をもっと使用して少しは験もある事でしょうか。宜しければ又差上申します。何分にも薬が的中したかを尋ね御見舞迄この如くです。気分の不勝がよくなるように体をお厭いください」。叮嚀:ていねい、丁寧。容体:病状の具合。ゆるゆる:ゆったり。御験:おしるし、ここは薬の効験。倍:増す。不勝:勝れない、病気。減気:病気が減ってよくなること。御厭:体を厭い大切にしてください。病気の症状は不明だが岸本内記の診療医師が薬の効果を尋ねている手紙。

●#252. 御飛札拝見皆て大に驚入候
上醍醐寺慈心院奉行岸本内記と深い関係の同等の武士からの返事。「至急便が午後6時頃門に鍵をした時に着でした。その貴書を上げて宵に書面を認めて只今暮に書を差下す所です。皆で大いに驚きました。万事は松より差上げる書中に申上ますのでそれについての御話する書は略します。よろしくお願いします。追伸、この節賊がよく出るので飛脚ともう1人差下された事恐れ入ります」。酉時:午後5-7時。宵:日が暮れてから深夜まで。岸本内記が至急で驚くべき事件の手紙を出した、それへのとりあえずの返事である。詳細は別便に書く。始めの3行は追伸で最後に読む。

栞 最後 

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●#251. 香水壺出来合に克合候壺被用候
部下の甚内内匠より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「先刻はお会いしてその節に仰せ聞かせられた半畳の事は了解しましたので相整えます。私は先例は阿闍梨の座の他に大放縁だとみます。御香水壺はお答えしたように出来合いのよく合う壺を用いられたらと思います。勿論調達して進上する者もないようです。右返答はこの如くです」。仰被聞候:おおせきけられ候。岸本内記が部下甚内内匠(たくみ)に畳半畳と香水壺の事を話した。それへの返答である。半畳は阿闍梨の常の座に使用していた話をした。阿闍梨:真言宗では一般の僧侶を指す。大放縁:不明。香水壺は寺の行事に使うようで他の部下にも話している。今のようにきっちりしたガラス瓶はない時代だからね。出来合いの何かの壺を転用したらと話す。

<文書番号とタイトルの一覧>       上に戻る BACK TO TOP
#251. 香水壺出来合に克合候壺被用候
#252. 御飛札拝見皆て大に驚入候
#253. 薬倍御用ひ少々御験も御座候御事や 宜思召候はば又差上可申候
#254. 御行法の御香水入申付候処 漸々五つ御間に合由に候
#255. 白赤水引、末広六本等 六ケ院様割壱ケ院様分三匁壱分九厘つつ
#256. 次第に病気指重候 養生不相叶病死仕候
#257. 加納為作殿仰日無相違心承仕候
#258. ぜひぜひちかのうち御はなしのみ いのりまいらせ候
#259. 御りよもしなから御心やすくおほしめしも遣候
#260. 銀壱貫四百目に候 六拾壱匁六分五厘かへ
#261. 銀札百六拾七匁三分八厘 当年より年壱俵之六ケ年賦に致置候
#262. 右蔵本去方より相望申人出来仕候 甚こまり申候
#263. 御上様ますます御きけんよく御入遊はし 御めてたく存上まいらせ候
#264. うみ山御はなし申上候へと存まいらせ候
#265. 上之思召にて休息帰り申候へ共 今日に至迄一日も休息は不致仕合に御座候
#266. 文久二年ものはそろへ その五 益の無ものは「揚屋の男に若後家の寺参り」
#267. 文久二年ものはそろへ その六 強そうて弱きものは「入むこのりきみに亀田しま」
#268. 年頭御門室様献上之十帖入用覚
#269. 少し用事有之候に付 何卒暫遅参之義御願申上候
#270. 商人良輔から父への長い手紙 その壱
#271. 商人良輔から父への長い手紙 その弐
#272. 商人良輔から父への長い手紙 その三
#273. 昨日無滞相済候趣に承大慶不過に奉存候
#274. 大元帥御撫物申出候義付 御吟味之上四ケ院不都合之言上仕候
#275. 門室御挨拶被下候はば忝奉存候 御執成上御指図偏に奉願入候
#276. 是十前後の注進并交右御道具目録
#277. 無拠用向出来仕候 昼迄之所御入魂御願申上度候
#278. 近日紀伊郡三草山にて所司代組与力同心 炮術稽古被申付候有
#279. 麻上下若し宿元へ帰り候はば 乍憚御登し可被下候
#280. 山上伽藍分出銀惣合
#281. 御見舞殊に被預御世話忝奉存候
#282. 御寿何かたも同じ御よに御にきにきしく 祝納まいらせ候
#283. いかさま五月中まては罷上り 緩々可得御意候
#284. いよいよ御かりなく御入候や きかまほしく存候
#285. 四軒に割壱軒方 右当廿五日迄に持参可有候
#286. 伽藍勘定帳御越 慥に落手御儀為趣致承知候
#287. 御門室様東上之儀如先報 広徘徊仕候様に御赦免
#288. 右引残銀受落可被成下候
#289. 醍醐寺御貸附の記録 〆銀弐拾弐貫五百九拾壱匁に御座候
#290. 只今御代参相勤申候間 御家司宜御披露可被下候
#291. ほうそうかろくいたし候様 御きとう被成可被下候
#292. 修験は冥加銀年之差出し可申候
#293. 蓮華光院様被為承大僧正宣下
#294. 乍御苦労御上京可被下候 鷹司様之出来 九条様之方不出来
#295. 恐入候得共何卒昼頃迄 御暇願上度奉存候
#296. 故郷へ帰り申候 伏見は通不申候間を思召可被下候
#297. 賎母義御尋問被下忝弥達者に罷在 頃日清水開帳罷登候
#298. 無御別条皆様御在府も成候 珍重不少候
#299. 清水忠門私迄窺暇候 相叶候儀に御座候哉
#300. 近来到着大酒御持賞被下 忝奉存候
#301. 十二日斎 こんにやく、白あへ、小いも、御飯等にて御座候
#302. 美濃南光院儀御家来修験に可被加候 御礼式にて参殿可被下候
#303. 僧衣注文 服、袷、襦袢にて御座候
#304. 寺社方役人月番に寺扈従に御座候
#305. 大僧正様益御機嫌克被為成 め出度奉存候
#306. 熨斗目作製五拾壱匁五分に御座候 手附金壱歩頂戴
#307. 京都に居候う迄は 御元のかほはかり存申上居候
#308. 銀百六拾壱匁九分此替 銭拾七貫四十一文に御座候
#309. 倍御清福被遊御座承度奉存候 私無事息才にて相暮候
#310. 御双院様益御平康可被遊御座候 珍重不少奉存候
#311. 御間暇も候はば茶相催申候 御勝手如何に候哉
#312. 松尾寺無宿当役 三輪山見分相済候段御届之趣
#313. 乍御苦労是非御下向可被下候 御不審御気遣と存候得共
#314. 小左衛門より只今人差越候 則来状相廻し候鳥渡返書相認候
#315. 用事無之候ても世間外聞も不宜候間 一度は必御下り被成候
#316. 御太刀馬代金壱枚 縮緬三巻二種壱荷献上
#317. 其地只今道中之御儀に候へば 何にても御答のみ罷成候
#318. 御ひふ飛色壱つ 右急々御仕立可被成候
#319. 五日発駕之早船帰城申候 借申付珍重奉存候
#320. 米五斗代三十匁 天満宮出銀三匁三分にて御座候
#321. 母様も此間少々御気に御中り 御薬御服用成候処
#322. 御苦労に存候得共 是非共貴院御下向無御座候ては
#323. 利足は月弐分年弐割四分にて 元利〆六拾五匁八分九厘に御座候
#324. 年始惣代等之算用書相渡候
#325. 明廿三日御使左右田氏被相勤候 態御入魂被致候
#326. 極密用、当薬御減之上は又々御大事に候間 何卒御無難も祈る義に御座候
#327. 助三郎方迄態飛札を以 為持指上申候
#328. 当春は八日より十四日迄御修法にて御座候
#329. 今日より上京仕候 年預代龍光院へ相頼置申候
#330. 暑候へとも弥御堅固暮被成候哉 御承度奉存候
#331. 此壱袋麁末之品に御座候得共 円成坊登山仕候御印に進献仕候
#332. 尚々城主御対顔之事如何候哉 無心元若し
#333. 断簡四報 改暦之御吉兆際限御座目出度申納候
#334. 断簡小報六報 御冬酢之儀御仰被下筋小徳利六つ差上候
#335. 銀十弐匁壱分壱厘 此米弐斗弐升壱夕を未進の内へ引申候
#336. 先方思ひ入も御座候故 年輩之方へ申遣し候方宜存候
#337. 御逝去に付従去る三日至来る十八日 女御様御慎に候
#338. 弐匁四分らうそく、七分御せん、弐匁五分御入用にて御座候
#339. 断簡小報五報 風邪御難儀承意候得共乍御大儀御下山頼入度候
#340. 断簡文末集六報 期永日之時萬々可申上候
#341. 断簡小報九報 御寺内人少に可有之候間 諸事御心附専一候
#342. 延紙白銀そうめん弐升樽むしかにて御座候
#343. 余力ある時は手習よみ物第一に志を失ぬこそいみしかるへし
#344. 上醍醐寺慈心院年預雑掌之引継にて御座候 宥円、俊応、澄翁
#345. 熊野之医師之記録 その壱 口上:役所正銀之御引替無之に付薬種取寄之儀不及力候
#346. 熊野之医師之記録 その弐 口上:引替筋之儀に候へば先町役人え出し候様にと被仰候
#347. 熊野之医師之記録 その三 口上:身をすてて推返し推返し御願申上候処御結構言仰付有
#348. 熊野之医師之記録 その四 口上:和歌山之御評諚之上札場へ薬種代之儀引替申様被仰出候
#349. 熊野之医師之記録 その五 紀州藩主、新宮藩主御成の記録 藩主御前は木履脱申様
#350. 熊野之医師之記録 その六 野呂元丈ら自江戸薬草御尋に新宮到着
#351. およしは痔疾余程六ケ敷 煎薬膏薬等被呉養生致居候
#352. 御上屋敷も御普請も追々御出来に相成 正月は御上屋敷にて相祝義申上候
#353. 歳末之為御祝儀品々 被懸御意忝祝納仕候
#354. 毛附に付御繁雑之御中 御煩は敷可被思召候
#355. 女筆手本その壱 中元の御しうきまてに指上まいらせ候
#356. 女筆手本その弐 水菓子遣り下され 御とりとり様えよろしく御礼たのみ上まいらせ候
#357. 壱人参上仕候 御目見被仰付候はば呼に上げ候如何と奉存候
#358. 此肴他より貰申候故進上仕候 御内室様も宜敷被仰上可被下候
#359. 断簡三通 其後は御物遠に奉存候、御病気御快能御座候哉
#360. 爰許無事にて御奉公仕候間可御心安候
#361. 大嶋黒も有之通御帳面御扣置可被下候 御注文被仰付可被下候
#362. 砂糖御引合御注文被仰付可被成候 大坂表段々高値に御座候
#363. 黒砂糖1貫は銀五匁之値段にて御座候 御得意様にては割引可申仕候
#364. 大嶋黒砂糖向後御用等幾重も幾重も御相談被遊可被下候
#365. 新任御聞合之義 新参のひよっ子へにても被仰候て片付度申候
#366. 人気米相場如何御座候哉 私下野関置米何卒宜敷御願申上候
#367. 女筆手本その三 和歌に御心移なふ蛍を集め候よし 面白おはしまし候
#368. 女筆手本その四 いく万年も御はんしやうの御事といわい入まいらせ候
#369. 御手船連不残御無難にて 御廻船被成候半哉と奉察上候
#370. 横浜之義西洋人相手にて洋銀取引之義 〆切禿敷取引を仕居候
#371. 九百五拾両封之侭弐箱に入て 木曽路十日指登申候
#372. 此度荷物之儀は又三郎様へ御相談申上候て揚置仕候度積り御座候
#373. 右八箇当着罷在候処 内壱箇盗賊入紛失致候
#374. 信濃国桑原村役文書 その壱 三河国清助儀神社仏閣拝礼中越後高田にて病気伏し居候
#375. 信濃国桑原村役文書 その弐 清助儀桑原村迄罷越候処 病気難症絶脈相果候
#376. 信濃国桑原村村役文書 その三 清助儀死骸御見分与事件経過詳細に御座候
#377. 寅年より未年迄出入り 決算は壱分弐朱と五拾五文過分にて御座候
#378. 閏十一月朔日は文化拾酉年の書翰に御座候
#379. 無拠御咄にて 御出不被下候ては相成不申候義に御座候
#380. 今日は是非出勤仕度存罷在哉 御尋に付御紙面之趣深奉畏候何分昼後出勤仕候
#381. 女筆手本その五 月の夜もさそさそさやかに詠候はんと おしはかり参らせ候
#382. 女筆手本その六 御とりどり様御機嫌よくはるを御迎させ遊はし おめでたくまいらせ候
#383. 用文章その壱 七夕に遣す状 天河双星之祭願之糸梶葉之供物等世上賑敷
#384. 凶作打続修理専一折柄 代銀仕送り御承知被下仕合奉存候
#385. 忰新助と申者慥成者に付壱ケ年切之奉公にて 給銀九拾五匁に相極め申候
#386. 重宝之品々御贈被成下候 忝幾久敷慶納仕候
#387. 女筆手本その七 ははかりおふく候得とも お気もし思召被下へく候
#388. 与平殿無事着御尊状難有拝見仕候 委細承知可仕候
#389. 女筆手本その八 庭の虫しの音々おもしろき 御子様かた御つれまし御入願まいらせ候
#390. 妄心倖心之御教諭難有承知仕候 讒者佞奸と歟申者也
#391. たいこ壱つ拾九両に取組 出来上り下し可被下候
#392. 不相替蝋燭御注文 被仰付難有仕合奉存候値段左の通
#393. 私共博奕等は致し不申候得共 早々心得違致し申候
#394. 米も日々下落にて諸所共少し下落 金詰りにて被案事申候
#395. 女筆手本その九 そそろうきたつはるけしき 山遊なといかか
#396. 御書面之趣委細承知仕り 当廿二日は無間違参上仕候
#397. 老母に御香奠に預り 被入御念候義忝奉存候
#398. 飴屋七兵衛殿への杉丸太杉四分板杉皮の覚にて御座候
#399. 女筆断簡 殿方様にも御しうき仰上られされましやう
#400. 女筆断簡 とよこまのあふらは きつうきつうからしきにて御さ候
#401. 銀子壱貫目又々十日頃迄 相待呉候様御申越候 大に迷惑仕候
#402. 百四拾五枚今日積送り申候間 着之節御受取可被下候
#403. 山崎万右衛門 壱 身体取広け不申様 驕奢をはぶき家業無油断心掛け質素に暮し候事
#404. 山崎万右衛門 弐 差引総資産にて御座候 すえひろのめでたさ丸にて御座候
#405. 山崎万右衛門進物帳 壱 主人繁吉若旦那参上 白砂糖素麺真綿は定番にて御座候
#406. 山崎万右衛門進物帳 弐 太田様、横須賀様、田中様御家中は御挨拶欠く間敷候
#407. 山崎万右衛門進物帳 三 年始は松平、内藤、奥平、西尾、太田の各様江戸屋敷へ進物に御座候
#408. 山崎万右衛門進物帳 四 お登り御下りの御武家様への献上にて御座候
#409. 山崎万右衛門進物帳 五 旦那様色々御用向御座候て御苦労に御座候
#410. 山崎万右衛門進物帳 六 受納も様々有之候処 尼崎斎田様より殊に珍重物頂戴致候
#411. 山崎万右衛門進物帳 七 浜松様より受納は大きにも調達金は無利足にて御得意様にては有間敷候
#412. 山崎万右衛門進物帳 八 井上様は月岡陣屋様にて茶を能被下置候
#413. 山崎万右衛門進物帳 九 鍋嶋様は肥前小城藩の御殿様にて掛川を御通行被成候
#414. 山崎万右衛門 三 御上様への文化四年調達金にて御座候 貴公解読被成候哉
#415. 女筆手本その十 初はるの御寿めてたく候
#416. 暑中伺書面之趣 及被寄候処入念仕候
#417. 用文章その弐 八朔之慶賀にて御座候
#418. 内股にしもつ出き又こうもんのきわにも出き 夫ゆへ西沢道安様へかけ申候所
#419. 用文章その三 重陽之節句 庭之菊花今盛に相成候
#420. 時節にて眺望も御座候間 茸狩旁御遊来之程奉待上候
#421. 女筆の版本 壱 みなみな様御そくもしの御ことふき 千とせまてもと祝入まいらせ候
#422. 何分非常之金詰 此後金融及諸下模様にて候
#423. 女筆の版本 弐 七種の御しうき沢辺の若菜つみはやし候半と存じまいらせ候
#424. 用文章その四 端午之節句 餝甲并御肴一折進上之仕候
#425. 不仕合相重り数千両之借金に相成 方々え申訳も無之候
#426. 用文章その五 中元刺鯖十指呈上之仕候 些御祝儀可申上験迄
#427. 御所鹿子 曙染 絞染 反古染 数もかきりもあらし吹品々持せ進しまいらせ候
#428. 当十四日下関表安着仕候間 此段御尊意易思召可被下候
#429. 用文章その六 新年御吉慶 御重歳目出度御儀奉存候 次当方無異加年仕候
#430. 益御勇健被為遊 御超歳乍憚目出度御義奉存候
#431. 女筆の版本 三 五もしたち御ひいなあそひ賑々しさ 菱あも一折送りまいらせ候
#432. 女筆の版本 四 結構成ひいな一対おくり下され 浅からぬ御礼申あけ候
#433. 折節任出来松茸壱籠令進覧候 寔音問之験計候
#434. 此地にては一銭は銀一匁三分にて 家賃は月に銀二拾匁にて御座候
#435. 別紙証文御加印被下度奉願上候 客来取込中
#436. 用文章その七 上巳之御祝詞目出度奉存候
#437. 本宅へ逗留いたし居候処 挨拶致候人多有之候
#438. 鰊笹目伊丹屋にて掛合漸々に売払仕候
#439. 女筆の版本 五 端午の御祝儀めてたく申おさめ候 くす玉かさり粽菖蒲
#440. 用文章その八 最早年内無余日候 随分寒気御厭可被成候
#441. 浅草のり御地そうにいたし候様 御登し被下山々悦まいらせ候
#442. 普門坊酒犯之義に付 此度は内分被成下候様御断申上候
#443. 庭訓往来挿絵 その壱 金銀銅細工、鍛治師、番匠、蚕養
#444. 庭訓往来挿絵 その弐 櫛挽、烏帽子折、沽酒、土器作
#445. 庭訓往来挿絵 その三 大津坂本馬借、醍醐烏頭布、小野炭、仁和寺眉作、西山心太
#446. 庭訓往来挿絵 その四 伊予簾、播磨椙原、備後酒、越後塩引、熊掌
#447. 庭訓往来挿絵 その五 蛍雪鑽仰之功不可捐
#448. 伊賀御歩行中杢御扶持方渡り 過不相納候に付御取立
#449. 文政拾三年五月 大洪水にて川越え頼み漸々越来候処 宮崎川支に付東根へ泊り
#450. 平安時代頃までの数の数え方 ももちあまりいそぢをかきあつめ
#451. 女筆の版本 六 七夕の御祝義牽牛織女の御ちきり
#452. 兼て御苦労に相成り候悴儀今に何共相分り不申 甚た心外に奉存候
#453. 女筆の版本 七 盆のめてたさ 御娘子様御成人にておとりの御装束もうつくしく
#454. 廿八両取逃其上上州より態々江戸表へ罷越
#455. 壱ケ年切之奉公相究尤借銀之儀は三拾五匁にて相際め 銀子只今慥受取
#456. 弟子純法義関東へ修学に差遣候 登山節万々御尋聞可被成候
#457. きんきんに一度御こし下されますよふに くれくれもたのみます
#458. 先日は御不快之由何様御困と奉推察候 御不沙汰に打過失敬至極に奉存候
#459. 伊八助右衛門両人今夕方及騒諍 助右衛門義疵所出来候
#460. 三つ具足義御世話被下忝奉存候 大ふりにして合候て宜御座候
#461. 其砌差上候大鳥居手足の形 御戻し被為下候様御入念候
#462. 慥成便無之候に付 手紙而已差上置候段恐入奉存候
#463. 此方へ御出勤被成候砌 私宅えも御立寄可被下候委細は貴面にて
#464. 女筆の版本 八 庭前の菊の花さきまいらせ候まま 二本おくりまいらせ候
#465. 川北久左衛門への短報三通 高誂灯七張繕出来致候
#466. 茨木様方銀子儀先定日より段々延引に相成候 御引見可被下候
#467. 平専殿壱貫目之銀子又々御延引 甚立腹仕居申候
#468. 御不快御心配 江戸之丸子御用ひ被懸金壱両壱朱御下し
#469. 椹値段如何程にて御売被成候哉
#470. 御茶屋之屋根御普請に参候 手伝も五人御申付可被下候
#471. 三橋屋方へ花十五俵御遣し被下候 あれ切にて入置候所無御座候
#472. 讃岐守様貴宅御滞留 如何御様子承度候
#473. 椹丸太有切御わけ可被下候 私は明より明後十八日之朝帰宅致候
#474. 御当地稲荷大明神御開帳大火にて延引に御座候
#475. 貴宿渡永之儀 代金別帋之通為持遣申候
#476. 久々乾候上大火に為可申勢之所 先弐軒にて治り候
#477. 珍敷一冊借用申候 寛々一覧大慶不少難有候
#478. 御親父様従御役被仰付 重畳目出度奉存候
#479. 売渡し申証文面にて候へば 村方へ持地仕度意趣にても御取用無御座候
#480. 御頼申置候登金之儀 未に貴公処迄相届不申候哉
#481. 無拠被頼候に付 三州西尾へ之便りに御届被下候
#482. 改年之御慶目出度申納候
#483. 常陸国鹿嶋郡梶山村 近隣の村同士の廻状等八通
#484. 此金子壱両少し切疵有之 御指替被下度候
#485. 竹田観音寺へ入法仕候間 乍序御吹聴申上候
#486. 御入金被成残り金高拾両に 御都合被成置可被下候
#487. 享保8年の濃州加茂郡野上村家大工御改帳
#488. 藤助如何相心得候哉 俄に致違変平襄所持之薮垣出張候
#489. 女筆の版本 九 紅葉も色を催し 高雄へ御伴ひ申度そんしまいらせ候
#490. 伊藤氏并松田屋え書状御届可被下候
#491. 御扶持米引け候哉と御尋に付 内分承候処引け不申候
#492. 布拾三反也 御銀〆百九拾六匁五分也
#493. 布五拾四反也 御銀〆七百八拾弐匁四分也
#494. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その壱
#495. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その弐
#496. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その三
#497. 正徳四年 新金銀御書附之写留 その四
#498. 鳥目四十八銅進候間 御入手可被下候
#499. 便栄儀御本山継目御目見へ 早速御取次被成下候
#500. 白子より干鰯荷物附送り御世話罷成 千万忝奉存候

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