南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
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古文書 #1-#250,Old Writings #1-#250


ここはこれまで読んできた「古文書 #1-#250」です。手紙、証文、借用書、覚え書など多様な江戸時代の文書がありますのでゆっくり楽しんで下さい。
Here are Japanese old writings #1-#250. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧(上) 文書番号とタイトルの一覧(下)

●不相かわら 御引立を願升 = 相変わらずお引き立てを願います。 Thank you very much for your continuous visits. Please come and see my website again.

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これは2階から1階へ段々降りてきてポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

 

栞250 

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●#250. とふそとふそ私に内々にて少々はかり 小使下しおかれ候やうにくれくれ御願上
近江の妻きわから井伊家世田谷代官所に勤務の夫明塚半蔵への手紙。「暖気に向かい御機嫌よく勤められ前と同然に有難いです。こちら御両親様もいつも御機嫌よく生活され有難く喜んでいます。金太郎は無事に暮し御安心下さらないようにしてください(文脈上は間違い)。襦袢と足袋は入用までに届きます。金太郎は健康で越後縞ちりめんを下されて大きに有難く着せて御礼申します。おびただしくされてゆっくりされたいのに有難いです。浅黄ちりめんは少し余計で結構で御礼申上ます。おおいにお気の毒ですがどうか台所入用の小遣いを次の便で少し遣して下さるように願上ます。それは内緒で急ぎはしませんので登りのついでの便で宜しく願います。どうか私に内緒で少々ばかり小遣いを下さるように呉々も願います。金太郎もこの頃は丈夫に歩きだしのらりくらりと付け歩きします。喜んでください。投簡毎々有難いです。またご返事下さい。めでたくかしく。返す返す仕舞に暑さに向かいます。随分体調よく暮らされるよう祈りあげます。かしく」。有難くは9回出るし「大きに大きに」「とふそとふそ」などが多く、また「御安心下さらないようにしてください」と文脈的な間違いもある。教養あふれた女性にはみえないが一所懸命に書いている、まだ若いからね。財布は夫が握っていたが、きわさんは歩き始めたばかりの1歳位の子がかわいいなどと上手に内緒でのお小遣を頼む。お小遣の下し置の依頼は重要で3度繰り返す。このように若い下級武士の奥さんの生活での手紙は文も全体に口語体が容易に想像できそうで興味深い。女性手紙特有の表現を最後に示した。この人の「れ」は最後が下に大きく伸びる特有なもの。時代は他の手紙より文政から幕末である。

●#249. 次後御出京も候はば 必々御逗留も候様奉存候
おそらく近在の僧より上醍醐寺慈心院座主への手紙。「追て啓上します。早春は御出京と承りました。問合せすべき所私事甚だ用が多くできませんでした。もしか御入来もあるだろうと申置していますが、次の御出京では必ず御来駕ください。兵衛殿が御存知の通り御客人から申上ていることは御用捨ください。是非御逗留くださるように願上ます。精しくは兵衛殿にお聞き下さい。取込にて早々再筆です」。追啓:追伸。候半と:そうらわんと、であろうと。何も:いずれも。精は:くわしくは。親しい僧が次回京都を出るときは是非逗留をと書く。大変丁寧な語調なので以前慈心院座主が指導した僧かもしれない。「追啓」の「追」がユニークなので例によって字の練習をしている。

●#248. 此品時候御尋問之印迄に致進上之候
上醍醐寺の塔頭宝幢院(ほうどういん)より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「厳寒の季節です。いよいよ御安全に御勤役をなされ喜ばしいことです。この品時候の尋問の印までに進上いたします。他は対面のとき申上ます」。尋問:様子を尋ね問う、特に贈り物を伴うとき使われる。「酒一器御恵被下賞味仕候 且又預御尋問候」。猶期後音:なお他は後の面会の時期に。宝幢院は比叡山にもあったがここは醍醐寺の子院。今はどちらもなくなった。

●#247. 余り長髪にも御座候は甚以失礼之至に御座候
下醍醐の岳西院より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「御来客で御機嫌よく一献なされたと存じます。私は今日は少々体調もよろしくなり剃髪して御見舞を申上ようと思いました。しかし医者が来て相談しましたがまだ邪気熱があり剃髪は見合わせしました。余りに長髪なので甚だ失礼です。そのことを宜敷おっしゃって下さい。密番院に行く事も亦お断りを頼みます。さてもし御酒入用でしたら遠慮なく仰せ付けください」。一献:酒のふるまい。能:よく。野僧:僧の「自分」の謙譲語。剃髪の「剃」が「刺」に似ている、刺髪という単語はない。密番院で祈祷があるが病気で行けないと書く。ここでは風邪の養生のためには剃髪せず髪があるほうがよいと経験で知っていたことがわかる。寒いからね。一休さんは長髪でも堂々としていたね。岳西院では献上で酒が余っていたようだ。

●#246. 紅紫之二色相除諸色之内 晴之儀にて情格別に何色を着用
おそらく部下の僧衆が上醍醐寺慈心院の院主への口上。第一「兼業院家の衣体について。白衣着用。この白衣とおっしゃるのは素結または直綴の事ですか。この事先刻より御意見を承たいです」。院家:門跡に次ぐ各塔頭のこと。衣体:僧の衣装。塔頭や各寺院の座主の一般着についてのことであろう。第二「さて先方よりお尋ねがあったことに対し、紅紫の2色を除きその他の色の衣を着用されるとの事。右の内晴の事で思い格別の時は何色を定められるか。また何を晴と定めて着用するのかお答え下さい」。情:思い、とくに喜び。晴の席では格別の情があるが、紅紫以外の色では何色がよいのかまた「晴」とはなにかの議論。第三「現朝廷の推許で僧正の勅許の席では紅紫を着用されるとの事。紫は(着て)苦しくないでしょうか。また直綴の所はいかがでしょうか」。僧正に推されて勅許の席では紅紫がよいといわれるが、紫はまずいのではとの議論。以上塔頭の慈心院の座主に部下の僧衆が僧の衣装につき議論を投げかけている。江戸時代は僧正などの職は各宗門跡の推挙に朝廷が勅許していた。

●#245. 明日一言寺之御祈祷之御札 例之通差上候
下醍醐寺の子院岳西院より上醍醐寺奉行の岸本内記への手紙。「いよいよ御安全と存じます。さて松平敦之介様が御逝去に付御門室より諸司代へ使者を遣されたとのこと。内々これに付御聞合わせ申したいです。尚々明日一言寺の御祈祷の御札をいつも通り差上げます。料紙をお返し下さい」。松平敦之助:1796-1799、将軍徳川家斉の五男で清水徳川家(御三卿の1つ)当主、夭折であった。よってこの書状は寛政11年=1799年のものであろう。一言寺:醍醐寺の下の本山で真言宗醍醐派である、寺は下醍醐寺に極めて近い。「仏にうそはなきものぞ 二言といわぬ一言寺かな」とここの御札は人気が高かったようだ。御門室とは三宝院に居る門跡のことで醍醐寺集団の頂で子院とは微妙な関係であった(#241参照)。

●#244. 繁丸容体書 大弁も一日に壱度つつ能々通仕申候
慈心院の僧が書いた使用人か繁丸の容体書の原稿。「大便は1日1度よく通じています。勿論小便も宜敷通しています。腫物はあいかわらず出ています」。大弁は朝廷の太政官の職名であり、通常はこの意味では使われないようだ、よってここでは当字で使用している。小水は現代でも使われる言葉。腫物:はれもの、腫瘤から浮腫まで様々に使われた。繁丸、茂丸両方書いており、漢字の使用は鷹揚だったことがわかる。右下に「種」と書いて「腫」の字の練習をしている。茂丸の「丸」がよくないと思って繁丸の「丸」に変えたためこの紙は廃棄された。繁丸の「丸」の方が一般的だが最後を上げて回す茂丸の「丸」もあり間違いではない。

●#243. 熨斗目の義御了簡違御座候間 未申付候はば見合可申旨
部下の尾崎左仲より上醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙2通。一通目「御機嫌よく還られ恐悦です。かつ貴所様へ先日来御苦労様でした。滞なく帰山なされ御めでたいです。さて御頼置なされた熨斗目のこと今朝大黒屋武助を呼び寄せ御注文通りに申付ました。出来ましたら私へ来ますので後に御合わせします。手附金は1歩渡しましたので別に請負書を取って差上げます。貴意を得る為以上です」。二通目「祝儀の通認め置しましたが、御書簡拝見しました。のしめの事了簡違いとのこと、未だ申付ていませんので見合わせること承知しました。呼び寄せ話し聞かせます。今朝の話しですから取り消します」。熨斗目:のしめ、麻裃の下に着用した礼服で腰のあたりは縞柄。部下もなかなか大変である。出入の御用人がいたことがわかる。下の加賀藩京屋敷の千丸屋作兵衛さんと同じだね。なお#306に計算書を掲載している。

●#242. 御出下され候もと入まいらせ候
女性からおそらく上醍醐寺慈心院の岸本内記への手紙。「ちょっと申上ます。未だことの外余寒強いですが、いよいよ揃って御機嫌よくされていますか、お聞きしたいです。そのように思いましてこの文を出しています。御世話ながら京都へ便りの節お届けください。なお段々暖かになってきますのでお出でくださればと思います。<中断>なおその内お目にかかりたいです。めでたくかしく」。先に大きい文字を読んで、最後に番号の付いたやや小さい行を初に返って読む。鳥渡:ちょっと。御せもじ:御世話。御めもじ:お目にかかる。ここの「おはしまし」や「ぞんじ」と「し」が上に上がって書かれるのにも慣れてきた。

栞240 

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●#241. 醍醐は往古差障も有之候由 御許容無之趣に相聞候
上醍醐寺慈心院座主が三宝院門主への口上。「広隆寺は京都7ケ寺の中にあり他の諸本山に受衆は無いことをどう考えられるか。中世に既に本山受衆に加わった事を聞及んでいます。醍醐寺は往古より差障があり許しが出ないと聞いています。これは先年嵯峨法輪寺が堂供養した時三宝院門主の准三后義演上綱が務められた頃本寺の一同の前に出て(法輪寺の堂供養に)表向出席は叶い難いので末席に出仕すると言われた。弘法大師九百年忌は太秦預(広隆寺)で御室(仁和寺)が」。切れがあり不明な点はあるが、広隆寺で真言宗の諸寺の門跡を招く会がある。そこに三宝院門跡が正式に出席することに関する意見を子院の慈心院主が述べている。醍醐寺は往古より特殊で許容されない、以前義演門跡が嵯峨法輪寺での堂供養への正式の出席は取りやめにして単に出仕のみ行ったとして、現門跡が広隆寺での会に正式出席することに反対している。経費もかさむのかもしれない。文章最後での弘法大師九百年忌は1734年のことであり言及している。義演:1558-1626、醍醐寺座主、准三后、東寺長者。天皇、豊臣秀吉、豊臣秀頼の援助を受け醍醐寺三宝院を復興、醍醐寺中興の祖とされている。上綱:僧官の上位職。准三后:太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じた処遇の者の称号。御室とは仁和寺、太秦とは広隆寺のことである。この時代の京都7ケ寺は正確には不明であるが京都の真言宗の主要な寺派と本山か否かを下に示した。この文書に記載の法輪寺、広隆寺、東寺、仁和寺そして醍醐寺などは皆京都における主要な寺である。この文書も#231と同じ1749年ころの慈心院座主の文章であるがこの時の門跡は幼少の良演で力関係が微妙な時期だった。また醍醐三宝院門跡はすべて高位の公卿の子息の就任であり、寺の実務を担当する子院の座主やさらにその下の僧衆とは微妙な間柄であったと推定される。

●#240. 房君様御誕生御祝餅 御頂戴被成可被下候
山縣楊笠より上醍醐寺慈心院奉行の岸本内記への手紙。「御手紙で御意を得ます。御所労はいかがでしょうか。かれこれと御無沙汰しています。さて房君様御誕生御祝いの餅を送ろうと思いました。御請取下さい。以上御意を得る文面です。尚私の家の慶事もお蔭に依り別条なく整いありがとうございました」。得貴意:あなたの私に対する心をよくする。所労:病気、苦労。別場:別条。房君様:おそらく御子息様に同じ。房:奥の部屋。御誕生御祝餅:おそらく誕生して1年後の祝い餅と思う。山縣楊笠は岸本内記と同等の武士だろう。

●#239. 二条御城天守火災の関東御機嫌伺い惣代入用
慈心院年預の僧が雑支出を書いた断片で3部に分かれる。「松O院様の御焼香の最初から終りまでの入用費用で御給物にて勘定するべきといわれ勘定は7ケ院に割り53.53匁づつになります」。「35匁2度分:二条城から御給物を受け取る役の物が二日間御礼を伝奏(申伝える)するのに入用、7ケ院に割って5匁づつです」。「14.4匁は二条城天守火災で関東(将軍)の御機嫌伺いに総代が出た時の費用。28.1匁は大御所様(天皇)への御機嫌伺いに総代が出た時入用であった費用」。二条城は将軍の京都宿舎として1602年建てられた。天守は1606年である。天守は1750年=寛延3年に落雷で焼失した。私の所持の他の文書は1750年前後である。二条城天守の焼失の記載よりまさにこの文書も同じ頃のものと判る。天守は以後再建されなかった。他にこの文書は上醍醐寺が二条城(将軍)から御給物を貰ったことや天皇に御機嫌伺いの贈り物をしたことがわかる。そして上醍醐寺に7ケ院あり費用は等分割で勘定した。文書の上半分は貼られた紙を剥したため字が薄い。

●#238. 来春御修法御参勤之義に付 舎利守御頼被申候
上醍醐寺山の下院の座主より慈心院座主への返事。「厳寒の時ですがいよいよ御安康に務められて御目出度いです。さて来春御修法に御参勤内々に勤められるに付、舎利守を頼まれること。念をいれて手紙くだされたこと手前で仕える願書を貴山は御差問していません。御苦労ですが御参殿してください。山下衆中の厚意もないだろうと思います。衆中にも御紙面を書かれるべきです」。御修法:正月8日より7日間、東寺で天皇の安寧や国家安穏を祈る真言密教の儀式。この際仏舎利を持つ「舎利守」という僧が必須である。おそらくこの僧が舎利守を勤めるに当り下醍醐寺三宝院の御門室に参殿して依頼の手紙を出して承認を取って欲しいという事だと思う。#231に見るように御門室と下院の座主とは微妙な間柄であった。御修法は現在も毎年東寺長者と真言宗各派総大本山の山主が行っている、密教の儀式であり公開は無論ない。

●#237. 当御末流修験に相違無之候に付 願之通院号宝蔵院御許容被下候
上醍醐寺慈心院の座主が修験道の修行を終えた僧に持たせる修了証の原稿。「さて多河郡黒川村宝蔵院2代がこの度入峰修行のために参殿面会して官職を願った。1代 の御添状を持参のところ、信州善光寺で1宿中夜に出火があり、御添状は焼失したとのこと。これに付正しいか調べた所当末流修験に相違なし。願い通り院号宝蔵院錦地袈裟衣権大僧都の御許容を下され帰国した」。さて善光寺の火事は「寛延4年2月19日、西之門から出火、900戸焼失、大本願、釈迦堂、西方寺、十念寺等が焼ける」と確かである。この書は寛延4年(1751年)である。他の書類の年号もこの前後なので合致する。出羽国田川郡は多河郡と書かれることもあった。醍醐寺は歴史的に修験道の修行と関連深いが、修了者に持たせた許状がよく理解できる。がんばって修行して胸を張って帰国したことだろう。だけど黒川村(山形県鶴岡市黒川)にあった宝蔵院は現在はもうない。

●#236. 人命大切之御事に奉存候に付 非人相果て候にて御届申上候
醍醐寺の僧が寺社奉行に出した口上。「およそ以前より非人に相違ない者が領内で死亡したときは御届けせずに取り成しをしました。しかし誠によくよく考えれば一人の命に関する大切な事であります。引き延ばしましたが右の御届け申上ます。この所どうか御了解の上でお聞き取り下さい」。凡所:およそ。相果候:あいはて候、死亡した。能々:よくよく。延引:引延し、遅れ。了簡:りょうけん、考え。下に年預の雑支出の一部を示した、年間計5名の非人が醍醐山領内で死亡し始末に1人に付米1斗を支出した、雑用者に年間に扶持米4斗を支給した。ここの非人は「無宿非人」とされる者で人別帳に入らない路上生活者、山間の非定住者に違いない。山間の非定住者の死亡も今後はしっかり届けますと記す。

●#235. 開山大師八百五十年忌来る丑の年也 依之諸役人下行米半減に定置候
上醍醐寺慈心院の年預方の僧が己巳=1749年=寛延2年に書いた記録である。「8年後の開山大師(聖宝)850年忌での御用金を貯蓄するため寺の諸役人や年預の扶持米(給与)を半減して、銀564匁分を蔵に入置いた。さすがに僧たちの開山大師への強い愛情が感じられる。そしてこの寺が経済的に余裕があったこともわかる。「より」にはここの筆順と別の筆順との2種類あるようだ。なお記載よりこの時は銀54匁=米1石(=金1両くらい)の相場であった。

●#234. 立木千本御払下 年賦弐石壱升宛十ケ年分無相違上納可致候
1751年の日野村百姓より上醍醐寺年預への証文。「以前1737年に醍醐山の立木合計1000本払下があった。年米2石1斗の代金で10年分(合計21石)の上納であった。百姓は1747年にさらに払下を希望していたがそのままになっていた。今年1751年醍醐山の立木合計1000本払下が決まった。1756年まで6年間までの分。但し年米2石1斗の代金で10年分(合計21石)の上納をすることをこの証文で確認する」。つまり以後6年間で1000本の木の伐採を許可したが代金は以前に同じ年米2石1斗の代金で10年分(21石)を払うことの確認である。従:より。年預とは上醍醐寺内の会計係の僧で1年毎で交代する。山城国宇治郡日野村は醍醐寺に極めて近いがやはり醍醐寺の支配であったことが確認できる、現京都市伏見区日野である。細かい字の部分は重要ではないので省略した。

●#233. 右六町昼前収納可致候事 御蔵入次第帰宅致させ可申候事
醍醐寺所領地の百姓から年貢米の蔵への収納の時管理の侍から奉行岸本内記への手紙である。「名前を示された中では67人ばかりはよい返事でした。しかし私がふと考えましたのは早く来るようにして時間をつめても昼頃でなければ来ないので左のようにすればどうでしょう。昨日醍醐村は皆済数口で混雑しました。今回右六町は昼前頃の収納で蔵入後は早く帰宅させる。別右六町は昼後早く収納させる。このように時間を縮めても少しの時間超過で色々なことになるでしょう。賄はどこへ申上ましょうか。一応御家司に伺うのは悪いでしょうか」。約:つまやか、縮め減らすこと。賄:見張りの侍の昼飯。家司:食事など家政を掌る人々。監視する侍は67人が出席可能とのことであったが百姓の収納の時間を昼頃に集中にて時間と人数を短縮したいようだ、侍の昼食はどこに依頼しようかと書く。記載の町はすべて醍醐寺近辺であった。

●#232. 雨一向ふり不申殊の外ひでりに御さ候 知行所なとは川水空に候
在醍醐寺慈心院寺社奉行への手紙。「今日までは雨が一向降らず、特別ひでりであります。私の知行所は川の水が空ですが田の方は別状ありません。御心配無用です。そちらの知行では風雨の難儀はありませんか。うかがいたいです。拙者は格別息災でありますが」。殊の外:格別。知行所:領地に同じ。被成間敷候:なさるまじく候、なさらないで下さい。其元:あなた。難義=難儀:困難なこと。息才:息災の当字。武士の手紙だがかなが多く使われ口語に近い。仲のよい友人のようだ。

栞230 

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●#231. 此度菊之御紋遠慮可仕旨 五ケ院え従御門室仰渡候
慈心院の座主が上部の御門室に出す口上書の原稿。「この度菊の御紋を遠慮するよう五ケ院へ三御門室より仰せ渡されました。何れも畏まります。さて再度そのように答えられましたが(五ケ院は)御請すること申し済です。しかしながら里元(門室)は返事がないことを不審に思われこの事を尋ねられました。抑々我々四ケ院僧主は何の支障も無いが我々はまだ御門室へ出頭願も出していませんので今後すべて隠密で取り計ることが重要です。殊に僧衆より難点が出ていて私は難渋しています。この度連名書を作成する所私の名は除いて下さるよう願います。もっとも(御門室へ)出頭した後では構いません」。従:より。抑:そもそも。野僧:拙僧。併:しかしながら。菊の紋は以後使用を遠慮するよう醍醐寺の門室から醍醐寺内院へ達しがあった。つまり1750年頃から皇室の菊の紋を遠慮して使用を避けることを門室が決めたことがわかる。上醍醐寺内5院(慈心院、岳西院、宝幢院、密乗院、成身院か)などはこれを請け入れる事は申し合わせた。しかし門室へ返事は未だしていない。門室は返事がないので不審に思い連判状を作った。そこでこの口上書である。上醍醐寺慈心院の座主はまだ御門室へ出頭して面会していないのでこの連判状から名を除いてほしいと書く。そして部下の僧衆からは(菊の紋不使用に)難点が出ているので隠密で行ってほしい、そして門室に面会後は了解しますと。さて三御門室とは三宝院の座主と思われる、寛延年間は三宝院門跡は良演(1746-1760)で一条兼香太政大臣の子息で1750年にはまだ幼少であり指導者がいたかもしれない。内院は上醍醐寺の5院(上記)と下醍醐寺にも内院が沢山ある。内院の座主の連名の例を下に示した。これらの内院は会計などは独立していた、日本仏家人名辞書にも慈心院など内院の僧が多数掲載されている。この口上書で御門室と各内院主と部下の僧衆の関係は微妙であったことがわかる。

●#230. 廻向のみ早々帰山奉存へく存候所 此間京着より腹薬又工面あり
親族の回向で留守の部下より上醍醐寺慈心院住の奉行岸本内記への弁解の手紙。「今日庄兵衛が御手紙を持参しましたので拝読しました。皆様御別状なく勤務され御目出度いです。さてこの間は親孝行の手向け1つ執行の用事で14日には早く帰山の覚悟でした。しかしこの間御話しました客が来て段々月末にまで及び、心のままにならず帰山できずでした。まず当地において右お許しの程を。回向のみで早々帰山の所、京に着より腹薬を飲んで今日は帰山の筈と決めていました。折節取立てが参った様子、寂谷にも不埒申上ました。さてさて気の毒なことをしました。昨日は(寂谷を)下げられて御苦労でした」。抑:そもそも。廻向=回向:死者を追善のための仏事法要。手向:仏や死者の霊に物を供えること。帰山:ここは寺に帰ること。御噂:ここは御話に同じ。不任心底:心のままにならず、これで熟語として使う。宥:許す。早く帰山を促す手紙にこの返事を託した。14日に回向後早々帰山の予定が月末になっても帰山しない。おそらく会計係りをしていて寂谷という僧が金の入用で取立てに来たがひとまず下げた。客が来たり、腹痛で薬を飲んだりと理由を記す。

●#229. 甚麁末之品殊に風味如何敷存候 任手製に進上仕度候
上醍醐寺慈心院の僧が誤字で出さなかった手紙。「厳寒の時です。いよいよ御安康になされていますか?承りたいです。拙官は恙なくしていますので御安心下さい。さてこの一笑のもの粗末の品で特に風味がいかがかというものですがこの時節に手製に任せて進上します。この時期の御一興の験に(差上たく存じます)」。拙官:拙僧。無恙:つつがなく、病気なく。麁末:粗末。如何敷:いかがしき、いかがだろうかと。験:しるし。「御壱興(1つの楽しみ)」と書くのを「御壱向」と間違えたようで、この手紙は廃棄され屏風の中張りになった。「如」はしばしば「女、め」と書かれる。厳寒の手製の品で風味があるものは何だろう。ここは標高452mの醍醐山。実は私は商人の贈答品の記録を所持している。食べ物は砂糖、酒、葛粉、ようかん、大根、山芋、鴨などである。ここでは干し柿、大根の漬物など考えられる。下の#228はたけのこだった。手紙には具体的な品名は書かないことも多いようだ。

●#228. 被任例笋一折被為差出候処 甚満足致候
湊内匠(たくみ)より上醍醐寺慈心院への手紙。番号は最後に返って読む。「御手簡改め拝受しました。いよいよ御勇健なされ御目出度いです。さて前例のように笋(たけのこ)一折を差出し為され、従って御紙面も披露されました。相変らず送り為され我々一統共甚だ満足しています。詳しくは(お会いしてお話します)。追伸:我々一統皆機嫌よくありますので御安意下さい」。笋=筍:たけのこ。笋1折はたけのこ5本くらい。「笋一折献上也」の表現もある。帋=紙。委曲:詳細。「被任例笋一折被為差出」の意味として「被任例一通注進候」との文が検索で出た。「被任例」:前例に任され、前例のように。「一通注進候」:一通注進しました。例貢:例年のように貢ぐ。例:決まったならわし。則:ここは「従って」の意味で「即」、following、andに同じ。

●#227. 嘉永六年之往来手形 此度信州善光寺并日光山富士山為順拝罷出申候
1853年=嘉永6年の往来手形である。「大和国郡山松平甲斐守領分の葛下郡五ケ所村与次兵衛1人。この度信州善光寺、日光山、富士山を順に礼拝に出る。代々浄土宗で当麻寺奥院の末寺葛下郡下田村林法寺の檀那である。諸国、関所様、間違いなく通行させて下さい。万一右の者他国で病死の時は御域法で取りなしてください。当方よりは御届けには及びません。後日の為の往来手形はこの如くです。庄屋、年寄」。往来手形(別名関所手形)は旅行中のパスポートである。同村庄屋、年寄名で発行している。この往来手形は領分の支配者名を書き完全な形の丁寧なものである。支配者松平甲斐守は柳沢保申(1846-1893)で1848年大和郡山藩第6代藩主となる。与次兵衛さんは1851年(2年前)までは庄屋をしていた人で家督を譲って隠退し、ここで1人で大旅行する。当麻寺(たいまでら)奥の院、林法寺は共に浄土宗の寺として現存する。「或」はここでは「域」の意味である。

●#226. 太郎兵衛儀鉄炮疵受候に付 悴半次郎仕業是有間敷候
半次郎の親が村役に出した書類である。所持したのは大和国葛下郡五ケ所村庄屋である。「五ケ所村藤兵衛の下人太郎兵衛が鉄炮疵を受けたことに付御調べの使いでお越しなされました。私共を召出し尋ねられましたので事の次第を申上ます。今月9日太郎兵衛、主人藤兵衛、下人源三郎が同道で藤兵衛の持山で下草刈取に行った所どこかより鉄炮を打ったのが太郎兵衛に当った事話されました。その日から私の悴半次郎が外出したので悴の仕業かとの事尋ねられました。悴は川の雑用はしましたが鉄炮を取扱うことは一切ありません。悴が外出後家内を改めましたが怪しい物はありません。もし鉄炮など隠し置きし、後日に顕れれば如何様の(仕置も受けます)」。歟:か(疑問)。持山の草刈中に鉄炮疵を受ける事件があった。このような物騒な事件もあったのである。時は文化文政以後の江戸時代である。ここの「れ」は「九、く」と区別できない女文字の形である。

●#225. 種粕六五也頂戴 代銀弐拾七匁五月後迄払いに御座候
大和国葛下郡下田村(奈良県香芝市下田)平三郎より同郡五ケ所村与次兵衛への証文。丁丑=1817年=文化14年12月。なんと菜種油粕を借りている。不作で百姓仕事に困ったようだ。利足は月1割3分とやや高いが、5ヶ月間である。種粕は菜種油を絞った後の油粕で肥料に使用された。種粕65が銀27.3匁に相当とは27.3匁÷6.5=4.2と割り切れたので、おそらく銀4.2匁=油粕重量100匁の意味と思う、逆の計算でgにしたら種粕重量89.3g/銀1匁(図に解説)。油粕の江戸時代の値段は検索ではわからなかった。この油粕はこの後肥料として使用されると思う。#108ではやはり油糟が取引されており貴重品であったことがわかる。なお両村とも大和郡山藩支配であった。

●#224. 御日柄よろしく御五もし様御婚姻到候事 御めでたくまいらせ候
数が少なく貴重な女手紙である。番号の付いた細い文字は最後に元に戻って読む。「わざわざ文を登らせお喜び申し上ます。お日柄よろしく御娘様が御婚姻に到られ、首尾よく整われました。千鶴万歳御繁昌され幾久しく御めでたいことです。さぞ皆様歓びなさっておられる事と思います。(追伸)なお貴家賑やかになごやかになられることが将来尽きることなく御めでたいことです。皆様へ深く私共のお悦びを申上ください。めでたくかしく(恐れ入ってかしこります)」。御五もじ様は文脈から御娘様に違いない。態:わざわざ。千鶴万歳:千年も万年も。幾久敷:いくひさしく。嘸:さぞ。何も様:いずれも様。取々様:皆々様。尽しなふ:尽きることなく。ここにも重要な「まいらせ候」、「めでたくかしく」、「様」、「そんし」がすべて出る。そんしは「ん」の次の「し」が「ん」に重ねて書かれる。丁寧語が様々に異なり大変興味深いね。

●#223. 屏風之義被仰下候 年中は余日御座なく春早々仕置差上度候
表具屋さんから上醍醐寺慈心院座主への手紙。「甚だ寒い季節です。旦那様いよいよ御機嫌よろしくなさり大悦です。さて先日仰せられた僧経でき上りました。御受取下さい。屏風のこと仰せられましたが今年中は余日もなく、新春早々に仕事にかかります。そのように思召下さい。書のこと畏まります。即席の紙本御覧にいれますので気に入らなければまた他の紙を」。僧の経を注文していたのが表装が完了した。屏風も注文しているがこちらは年明け後からの仕事になる。最後字と意味がやや不明の箇所があるが墨跡を依頼されて紙本を持参するので気に入らなければ他の紙本に替えますとのことだろう。上醍醐寺の慈心院座主ともなると他の手紙でも画讃などを依頼されている。表具屋さんとの緊密な関係が窺える興味ある手紙である。この手紙は裏で字の練習をしておりさらに屏風の中張りに使われたものである、そしてこの表具屋さんが年明けに作製する屏風の中に入ったのだろう。

●#222. 明日東寺へ行向ひ候 御輿并召連候者之弁当三つ願上候
下醍醐寺塔頭の岳西院より上醍醐寺寺社奉行の岸本内記への手紙。「今日はうっとうしい天気です。いよいよ御堅勝に御勤役をなされ御目出度いです。さて明日東寺へ行き向かいます。御輿と召し連れの者の弁当3つを拝受したく存じます。なお後刻人夫をさし上げます。よろしく御取はかり頼みます。召し連れの者は侍2人、中に御持1人です」。欝陶敷:うっとうしき。御輿:みこし、僧の移動に使用した輿であろう、下に一休が使用した御輿の写真を掲載。岳西院塔頭が東寺へ出向の御輿と護衛の侍の弁当を依頼している。寺社奉行は寺の普請や諸費用を歳出するが細かい支出も支配していたことがわかる。東寺:醍醐寺に同じ真言宗の京都の総本山。

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●#221. ほしたら茶能書掛御目申候
弥惣作さんから醍醐寺慈心院奉行岸本内記への手紙。「追加で御意を得ます。ほしたら茶の能書御目に掛けます。御一見の上で作治郎を用いて申しますのでよろしければ御申し越下さい。早く調えて調達します」。ほしたら茶はおそらく「たらの木」の皮や葉を干したものを煎じて飲用するのだと思う。たらの木:別名楤木(そうぼく)、薬用植物で効能は血糖降下、鎮痛、腎機能、消化器改善とされる、江戸時代の本草綱目啓蒙(1803刊、小野蘭山著)にも掲載。また「たらの芽」も食用にされる。

●#220. 金一両は銀六拾弐匁にて御座候 大工は一人四匁之賃金
阿波屋三右衛門が大家屋又四郎に材木と大工賃を請求した覚え。商品には不明の箇所が多くある。商品の合計は合っている。銀で計算した代金は金に両替して表示。1両=62匁なので嘉永5年(1852)より前の頃のものである。大家屋又四郎は加賀橋立の北前船船主である。大工の賃金は1人4匁。船大工と木材は北前船の修理に欠かせないものであった。他の北前船の文書も掲載している。

●#219. 賦十一月中無滞急度可皆済 絶人於有之は百姓辨御年貢可納所
戊申=1848年=嘉永元年の免定である。「右のように免(年貢)を定めた。上は庄屋、年寄、小百姓、出作まで寄合で田畑に差別なく賦を割付した。来る11月中に滞りなくきっと皆済すべし。もし死失や絶人があれば残りをなす百姓がわきまえて年貢を弁済し納めるべきものである」。免定:めんじよう、税を定める。出作:別の支配地域の田畑を耕作する百姓、入作も同義。寄合:寄り合い話し合う。無甲乙:甲乙を付けることなく、差別なく。令:しむ、させる。賦:税。急度:きっと。若:もし。皆済:税を払い終える。辨:弁、わきまえる、弁済。絶人:年貢不納者を指す鳥取藩での特殊用語。これは因幡国高草郡細見村(現鳥取市細見)の文書で鳥取藩支配地である。#7近江の記録と同様だが死人や年貢不納者の弁済を弁えてやるよう厳しい書式がやや特異。#19越後の年貢皆済目録と同様武士の名は大きく書き百姓の名は小さい、けじめを付けている。村方文書は様々な単語が勉強になる。

●#218. 徳右衛門山御引受被成下候様に願上候処 早速御引受被成下千万忝仕合
猿田村肝煎萬之丞さんより大森村亥之松さんへの手紙。「さて先に徳右衛門の山を引受下さるようお願いしましたが、御引受下さり忝しあわせでした。三月中に手形を認めて置ましたが、取り紛れ遅れました。よって今日手形を差上ます。御受取ください。名前は据えていません。差上ますのでそちら様で入山守に頼んで下さい。そのように頼みます。また安堵銭は表通にして残りにお入れ下さい。余は拝顔の時申上ます」。相居へ:「相据え」の当字と思う。且亦:かつまた。猿田村、大森村は出羽国平鹿郡で現秋田県横手市大森になっている。赤川亥之松(1793-1876)は1812年(20歳)で田畑、山の永代渡証文を所持していて以後土地を買い続けこの地方で有名な地主になってゆく。ここでは徳右衛門の山を買入れた。安堵銭は山を売った代金のことである。入山守は山の世話をする人(#51、#36に説明)。下に猿田村肝煎萬之丞が大森村亥之松に書いた証文の1例。

●#217. 慈心院方へ之書状之返事今に相届不申候
加納吉兵衛より井筒屋九十郎への手紙。おそらく井筒屋は慈心院に出入りの商人である。「一筆申入ます。段々暑くなってきましたが弥々無事にお暮らしか、承りたいです。先に御頼した慈心院への書状の返事が今に届きません。右の書状は滞りそちらに届かないのか又は届いても返事が滞っているのか。便りはないので心もとなく暮らしています。御世話ですが又々この状をお届け頼みます。尤も先日の返事で慈心院(座主)は病気で京を出て養生中とのことでしたが、どこで養生中か不明です。御世話ですが場所を尋ねこちらに届けください。よく廻していただき御世話は申しにくいですが、他に伝手なく御無心しています」。無心:人に頼む。おそらく加納吉兵衛は慈心院の旦那衆の頭である紀州藩家老加納平三郎と関係の人である。手紙の返事が来ないので手紙の返事の有無と慈心院の養生先を尋ねている。

●#216. 御きけんよくいついつ迄も相かわらす御出可被下候
女手紙でおそらく醍醐寺慈心院の奉行岸本内記へのもの。黒1-13の後最初に戻って赤1-10を読む。「この度はおいででしたが早々お帰りでした。奥様にならわしいよいよ御きげんよく遊ばされ御めでたいことです。それでしたらそのようになにか物語りしますのでいかがと思いました所、ご理解いただきかたじけないです。今後も心おきなく御出下さるよう御願上いたします」。「追伸。御機嫌よく御暮しになりいついつ迄も相変らず御出くださること、大きな御恩かたじけなく存じます。尚近日芝居見物のためゆるゆると御世話いたします」。御かもじ様:御奥様。おそらく芸者さんよりの手紙でこんな手紙を貰ったらまた置屋に通いたくなるに違いない。

●#215. 御頼申上候絵讃之事 御世話不浅忝候
和歌山近辺在住の僧から京都市伏見区醍醐寺慈心院住持への手紙。「和歌山に来られたら鈴木様宅へお越しの趣承知致しました。かつ先日御頼みしました画讃の事つぶさに承知しました。彼是と大変お世話になり忝存じます。急ぐ事ではありませんので何分お頼みします。知門様も和歌山へ来られるそうで和歌山へお越しの時お会い申上ます。且また私も両所へ参ります」。若山:和歌山の当字。鈴木様:#160に掲載の慈心院の大旦那の1人で和歌山在住。具に:つぶさに、詳細に。不浅:浅からず、ここは御世話が深いの意味。日外:先日。爰元:ここもと、私。両所:慈心院住持と知門のこと。慈心院の住持ともなると画の讃を依頼されたことがわかる。

●#214. 養子庄三郎婚礼相仕候 友人や血縁の者を交えた宴にて御座候
大和国高市郡醍醐村の大庄屋森村庄左衛門さんの養子庄三郎の婚礼の宴会の招待状の写しである。これは友人や血縁の家族を招いての宴である。下の地域の庄屋連の招待は1月25日正午であったが、こちらは2月5日正午であった。同者:修行者。而来:来る。孰方様:いずかた、どちら様。招待の人々の書式で注目は最初の戸主は「様」が丁寧である。一方妻や母、子は一段下げて「さま」は女文字の「様」を使う。妻は「御内室様」で娘は「御娘子様」と書く。母は「御母公様」、ここに戸主の父が記載ないが単に居なかったためだろうか。来場した人の右にやはり縦線を入れている。大庄屋の跡取りの婚礼の宴はこのように2度行っていたのである。人物では高橋平助は1791年「大和名所図会」を著した人である。よってこの文書もこの頃のものである。

●#213. 養子庄三郎婚礼相仕候 依て来る廿二日麁酒進上仕候
大和国高市郡醍醐村(現奈良県橿原市醍醐町)の大庄屋森村庄左衛門さんの養子庄三郎の婚礼の宴会への招待状の写しである。下の招待の村はすべて大和国高市郡の村で庄屋に違いない。九つは昼12時である。麁酒:粗い酒、謙譲語。次第不同:順序に規準がない、順不同。醍醐をたいこと仮名で書いている。人の右の線は出席した時に入れた印だろう。婚礼の招待状はこの様なものであると判る。

●#212. とよ次事たんたん御世話とも忝存候 あらまし右近に御きき可被成候
おそらく醍醐寺慈心院の住持が尼僧へ出す手紙の下書き。文は女性ではないが、かなを多く使って書いている。「今日また手紙を出します。右近遣し一筆申上ます。まず余寒の節、いよいよ御変りなくなされ目出度いことです。こちらも無事の暮しです。御安心ください。さて先頃は右近に申し遣した豊次の事、まずだんだん御世話になり忝です。全体これは最初よりの訳、あらましを右近に聞いてください。詳しくは私が上京の時申入ます。ただ私も役をしており近日出京するので先に今日便りをして趣意をたいがい左に書き記します。御覧ください」。書き間違いをして別に書き直して書状を出したのでこの紙は下書きになった。その後屏風の下張りに使われた。御入之由:お暮しのようで。日外は「いつぞや」と読み「先頃」の意味。あらまし:大体のこと。

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●#211. 御地御婚礼首尾よく御調遊しまし目出たく存まいらせ候
妙円から森村庄左衛門への手紙。江戸時代の女性の手紙解読に必須の「まいらせ候」、「さま」、「目出たくかしく」、「べく候」、「あらあら」がすべて出ている。「一筆差上げます。いまだ余寒厳しい時ですが皆様御機嫌よくされていること目出度いことです。さて婚礼順調に行き、昨日はお嫁さまを迎えられ目出度いことです。私共皆お招きいただきかたじけないです。手のかかることですが伊助を車夫(?)にお使い下さい。御酒一樽進上いたします。ご祝儀の印です」。少し不明の箇所もあるが、このような意味である。最後の4行は追伸で手紙の最初に小さい文字で書かれたもの。「尚々、憚ながらどなた様も宜しく御祝に行き寄られますように」。此もと:私共。かもじ:かか、妻、母。造作ながら:手のかかることですが。他の女性手紙と比較して大変読みやすい。「べく候」はここでは「へ具候」で読みやすいが「まいらせ候」と同じ形のも多い。森村庄左衛門は他の書類より大和国高市郡醍醐村の大庄屋で婚礼とは養子庄三郎の婚礼式である。

●#210. 緋無地壱速丈けにても為御染被遊被下度候
作兵衛さんからモ御印店への手紙。「一筆啓上致します。迎暑の節ですが益々御勇健で御目出度いです。さてこの間はこの者を連れてそちらに行き御世話になりました。厚く御礼申し上げます。御主人様へ特別にお伝えください。武佐宿伝四郎と申す人へ信州筋で越後嶋そして尾州様守山宿より御帰城のこと呉々頼みましたが聞き取りされましたか。一昨日より天気続きで絹への灰付けが具合よく行きました。以前よりお願いの緋無地1束だけでも染めてください。値段はそちらで定めて色は常くらいで願います。無礼なことを申上ますがこの者へご返事下さい。粗品ですが1丸差上げますので御笑納ください」。武佐宿、守山宿あたりは尾張公など貴人の宿泊関係のことらしい。武佐宿、守山宿ともに近江国である。後半の灰付けは布に灰をつけて天日に晒して灰色に染める作業である。緋色に染めるのはモ印店の仕事のようだ。蘇芳や茜が用いられた。仁:人、御仁。訳けて:わけて、特別に。無体な:無礼な。壱速:1束。粗品一丸は不明、どんな贈り物だろうか。この手紙は他の関連の手紙などがないので詳細不明であるが、近江国で染色と宿泊を兼業している店同士の遣り取りではないか。

●#209. 貯石御置米御見分 御越無成候に付人足御数六厘要用
美作国西北条郡真経村太郎右衛門さんの小日記の一部。支配の侍が貯蔵米の見分などで村より村に行く際人足をつけるが予定に反して来なかったときは御数(食事のおかず)6厘を村から支出した。上斎原は北の県境である。河西村は天保国絵図の1838年には下田邑村になっているのでそれ以前の文書である。

●#208. た葉粉等舟荷弐固相届不申候 不調法成事甚敷御座候
北前船の業者同士の手紙。「大坂から下る船に乗せた8か18個乗せた荷物の内2箱目的地(御屋敷)に届かなかったです。送り状は舟問屋井上重左衛門方へ置いていた間が延びたようです。たばこは確かに積込んだ様に中衆が吟味しましたので、荷物が空になったのは旦那の船頭のうち甚はだ悪者であることで、こんな不調法なことはしないと思います。しかしもし不真実なことをやったなら近日中噂を聞くこともあろうと思います。舟の日数はかからなかったようです。これは彦三様へおっしゃって下さい。私も最近やや健康が乱れ引込んでいますので手紙で申上ます。書中御一家中も御堅固に成され御目出度いです」。甚者:甚だ悪い者。た葉粉:たばこの当字。不調法:不始末。追付:おっつけ、そのうち。頃日:最近。乱:ここは健康が乱れた意味。重左衛門=十左衛門だろう。「彦三様」は業者の頭領だろう。別の文書からも船荷の一部が盗まれることや貯蔵中に盗まれることが多かった。幕末は庶民の生活も貧乏で貪欲になっていて物騒な時代だったと思う。この人の「御」は省略が著しい。

●#207. 切売のすいくわに無官のあつもりにて御座候
上醍醐寺慈心院の僧が同所の寺社奉行の若侍のことを書いている。松本藤之助は切売のすいか。色美しい。栬はかえでのことらしいがここは色と同じと思う。野崎塔之助は在方の森のくすの葉。問うて一度は他を表す。在方:村方。楠の木は「なんじゃもんじゃ」など様々な別名がある。名はなんじゃと問われて他の名が出る意味か。尾上菊五郎は大仏の釣鐘。東大寺の鐘は音はよくなかったようだ。この侍も本音が出ない。佐野川市松は無官の平敦盛。平敦盛は一ノ谷の戦いで死んだ平家の武士で美男で有名。能狂言の題目にある。「世界の図」とはサボテンのことで地球儀に似ているから。しかし意味が不明。大寺は僧と武士の世界で男色が盛んだったと想像できる。

●#206. 此度無別条相続被仰出候段 当方も歓喜不過之仕合に御座候
宇治慈心院門主から和歌山加納平三郎への手紙の下書き原稿。「御家内御安康に勤務されていますか承りたいです。さて平三郎様加納家の家督相続首尾よく仰付けられたことお聞きしました。当方も歓喜これに過ぎるものはありません。先より書中で早々御挨拶すべき所、無拠繁多の時節でした。吹上(和歌山武家屋敷)より御書面が来て愈々事大にて前後首尾を成就しこれまで延引しました。これより以後は万端申しつけ引き廻し頼みます。旦那頭は遠くに住居されていて及ばないこともありますが御頼みします。御意を得たく御礼申上ます。当方衆中人少なく御無沙汰し他行できずおりました。当年中にはそちらに下向のつもりです。御相続のお悦この如くです」。歓喜不過之:歓喜はこれに過ぎるものはない。無拠:よんどころない、他に頼めない重要な。引廻:指図して働かせる。和歌山武家屋敷の吹上車坂に住む加納平三郎は上醍醐寺の旦那衆の頭である。紀州藩家老加納平次右衛門家(4千石)ではないだろうか。この度家督相続するようだ。近日中には慈心院門主も宇治から和歌山へお祝いの挨拶に下向する意向のようだ。この文章は単語が大変勉強になった。#160に慈心院から加納平三郎への使者の文書あり。

●#205. 持病之痔強く差替え 御撫物之義は難勤故断申候 伴僧は請申候
別の寺院より慈心院への返事。「仰下されることは承知しました。先日も当方へ頭院より御撫物と伴僧を催すことになり連絡がありました。しかし持病の痔が悪く差替えしました、御撫物は担当できず断り伴僧は院内に4人居て僧が欠けても当院内にて出来そうなので、伴僧のみ請けました。そこに貴院よりの御書面ですけど」。撫物:なでもの、穢を除くための祈り、この時代は狐付などを除く祈祷を僧がおこなっていた。伴僧:導師に従う僧。頭院:上位の寺院。この前の手紙で慈心院より僧を派遣する依頼をしたようだ。それに対する返事で頭院の依頼の節痔が悪く撫物は断って伴僧のみ引き受けたことを書く。そこで伴僧のみはなんとかなりそうだとの返事のようだ。撫物のような悪鬼邪霊を除く祈祷はベテランの導師でないと難義であったようだ。長時間しゃべって祈祷するのは痔病があると大変であっただろう。#195では慈心院の僧がやはり痔病のようである。

●#204. 文久二年ものはそろへ その四 こわそうてこわくなへものは「御足軽の威光に古町の居声」
壬戌=1862年=文久2年「ものは揃え」。越後新潟で書かれたもの。その4回目。つまらぬものは「御廻りのすし詰に蟹番所」。鮨詰め:多くの物が詰めて入っている。意味は不明。せわしそうてひまのものは「仲番所の御役人に江戸逗留の小天狗」。番所で見張りの役人は忙しそうで暇もあったようだ。小天狗は伊庭八郎のことかもしれない。こわそうてこわくなへものは「御足軽の威光に古町の居声」。足軽は武士の下っ端である。古町は新潟の花街である。足軽の掛け声や花街の呼び込みの声もこわそうで案外こわくなかったのかもしれない。居声:「威勢」のようだ。早廻りするものは「一久の船のり廻りに貧ほう問屋之掛取」。船のり廻りは遊覧船で早く廻って次の客を乗せていたようだ。貧乏な問屋は早く金集めに回るだろう。ちへさくなったものは「仏前の花立に源八入道」。仏前の花立は小さくなったようだ、飾る花が少なくて済むから。源八入道は不明。すたつたものは「矢車錦袋圓に平沢の一眼」。すたった=すたれた。錦袋円:1664年からある江戸の勧学屋が売った丸薬で痛み止め、気付け、毒消しなど万病に用いられた、宝永年(1704-1711)よく売れた。文久年にはやや廃れていたようだ。平沢の一眼は不明。

●#203. 親は抱そたて少も病有ては神に祈り身もかはりたきほとに思ひ 子の息災にして成長を願う
父母の気持ちを誠によく表した文章である。「父母の恩よく思うべきである。10ヶ月の懐妊より母は苦しむ。生まれ出ても幼少なので父母ともに昼夜艱難辛苦をいわず、荒い風を防いで抱き育てる。少しでも病気になれば神に祈り医者に連れて行き、苦しむ子をみれば自分が代わってやりたいと思う。そして子の無病息災に成長するのを第一に思う。子が年長になればよい先生をつけ、芸事を習わせてよい人になれよとこいねがう」。息災:災害をふさぐ。息:ふさぐ、停止する。あらき風:悪い空気(病気)。幼少の時発熱が続いて母に背負われて病院へ行ったこと、大学入学を喜んでくれたこと、子供が病気になって大変心配したこと、一家で旅行したことなど思い出は走馬灯の如くに駆け巡る。200年前の人が書いたこの文章は今でも大変感動的なものである。「一病息災」で1つ位病気があってもそれが他の災難を塞いでくれるのだという言葉が好きである。

●#202. 芸州不動院より御達し 貴公様のを私ひらき大くに失礼御用捨可被下候
藤井大膳より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「先日はお困りなされたと察し申上げます。さて芸州不動院よりの御達しを間違えて貴公様のものを私が開いてしまいおおいに失礼しました。御用捨下さい」。これをみて驚いた。上醍醐寺奉行といえるのは岸本内記だけと思っていたが他の寺からの手紙を開くことができる部下または同僚がいたからである。不動院は広島市東区にある真言宗別格本山の寺院である。芸州=安芸で現広島県の西半分である。浄土真宗安芸門徒で有名だが真言宗も活躍しているようだ。#159に浄土真宗安芸門徒。

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●#201. 難有御沙汰頂戴仕候 御文庫之内壱折三十本御恵投忝奉存候
上醍醐寺塔頭より上醍醐寺奉行岸本内記への手紙。「御手紙かたじけなく拝誦しました。御示教の如く厳寒の節、弥々御安全に御勤役なされ目出度いことです。さてこの度有難い御沙汰を頂戴し御祝いに御文庫の1折30本御恵投ありがたいことです。ここに別段に芳報申上べき所、先ずとりあえず略紙で御礼申上ます」。示教:示し教える。御恵投:恵み与える。扨々:さてさて。従是:これより。後音:後の手紙。修理したり普請するときは財政を握る奉行の沙汰(判定)が必要であった。よい沙汰をして貰い御祝いに文庫の1折、30本を御恵投してもらった。これは紙の1巻30本ではないだろうか。

●#200. 御吉慶千里同風重畳目出度申納候 御用向何分なり共無御遠慮御申越可被下候
おそらく高松藩の武士多田百禄よりおそらく義理の伯父であろう入倉宇八郎への手紙。1枚の紙を折って片方に読み易い行書体で新年の挨拶。他方に用事を書いた。「春寒去り難いですが皆様御安泰御目出度いです。小生も無事です。冬には手紙いただき、早急に返事する所、御無沙汰で御用捨ください。さて松助も無事加年し勤めています。(松助)は当春帰国の筈でしたが、良斎殿も夏迄勤務、よい同伴人がなく延引です。来る夏に渡辺水斎という達者が帰国するので私から頼んで同伴で帰国の予定です。御伯母様へ呉々も御伝声下さい。私は多分来年春までここに逗留ですので皆様へ御伝言ください。他は後便で書きます。春寒御自愛専一です。御用向があれば御遠慮なく申越下さい」。高堂:尊家。重畳:重ねて。御吉慶千里同風目出度:吉慶の気が千里(4000km)先まで同じ風に吹いていてめでたい。永日:日長の時。松助は入倉宇八郎と御伯母様の子で筆者のいとこで年下のようだ。良斎殿は別の伯父ではないか。やはり皆同藩に勤めているようだ。現代と違って荷物の管理が必要で1人旅は当然無理だった。

●#199. 右の手こふしを握り頭も砕けゆと六つ七つ叩き給へ突倒し座を立つ
絵本太閤記を武士が書写したものであるが1枚のみである。織田信長が諫言した明智光秀を捕まえて殴る迫真の場面。信長が甲斐を攻めた時甲斐の武者をかくまった恵林寺を焼き尽くすという信長に対し光秀は諫言をする。恵林寺の僧の追放に止めよと。しかし信長はこの後恵林寺を中の僧とともに焼き尽くした。住持快川紹喜は「心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残したとされる。1582年の話である。諫言:かんげん、いさめ言葉。髻:もとどり、頭髪を束ねた元。つい立つ:勢いよく立つ。礑と:はたとにらみ 、鋭く見すえるさま。細川刑部太輔藤高:1534-1610、別名細川幽斎または 細川藤孝、和泉半国守護細川氏養子で信長の家来となる。嫡男の細川忠興の妻が光秀の娘細川ガラシャである。足下:あなた。ここの「勢=せ」は「決」にみえる。青い部分は補ったもの。明智光秀が甲斐の恵林寺焼き討ちの前織田信長に諫言し頭を打たれたことは今日では案外知られていない。絵本太閤記の記述は迫力がある。

●#198. 御修法毎日御食料之儀 其須御入魂難有御座候
新春に醍醐寺の塔頭の1つから上醍醐寺慈心院在の奉行岸本内記への手紙。「春暖の季節愈々安全に御勤務御目出度いです。さて先日の御修法では中日と毎日の食料につきその時お世話いただきました。その御修法の後仰せられた旨承知しました。どうかこの度そのように取計りください」。愈:いよいよ。御修法:毎年1月8日-14日真言宗各派の重鎮により東寺で天皇安穏、皇祚無窮、国家鎮護を祈願する国家的行事で、空海以来1200年近く続いている。須=時。入魂:熱心に行う。得貴意度:きいをえたく、あなたの私に対する心をよくする。御修法には当然真言宗の醍醐寺の各塔頭の長が参加していたことがわかる。その際の食事や御馳走などは寺の担当奉行が準備していたわけである。「御修法の後仰せられた旨」は不明だが食事の準備の方法を少し変更することではないか。御修法中の中日は特別に御馳走が出たのだろうと思う。手紙は1750年前後のものである。

●#197. 貰候子は先親元へ差帰候 猶御出勤之上御談申取計候
醍醐寺の塔頭の1つより上醍醐寺奉行の岸本内記への手紙。「今朝御家の務めの方へ申上ましたが、最近貰った子供は親元へ差帰しました所、年長になるまで預かるよう仰られました。しかしそのようにはきっとならず年長後も前段申しました通り容易なことであります。あなたが御出勤後相談し御意見も承ます。今日の次第を早速御知らせしました。尚当方へ3つお尋ねのことはお答え置しました」。急度:きっと。寺院が奉行の紹介で子供を預かったが早々に帰した。奉行は年長になるまで預かるようにと言うが、そうはならないだろうから後でお話しに参ります。子供にも様々な性格があるし、寺院の修行と雑務は厳しい所もあろうから、全く合わないこともあろう。生身の人間同士である。馬にも全く訓練できない暴れ馬=悪馬があるのだから。

●#196. 此壱封乍御世話 御指出し被下候様御頼
伊勢久居の大福寺から上醍醐寺慈心院への手紙である。西村与助は取次ぎ役の人である。「一筆啓上します。残暑強いですが、御家内御安全に成されお目出度いです。去冬は芝居の立見でご一緒し大慶でした。さてこの一封御世話ですが差し出しくださるよう御頼します。急用の早飛脚で出しますから着き次第御殿へ御持参下さい」。立見:芝居を立って見ること。この一封は金だろう。御殿は他の書類から「醍醐御殿」で奉行がいた慈心院のこと。久居は久居市だったが現在は三重県津市の一部、大福寺は現存しないようだ。比較的読みやすい字である。

●#195. 貴僧様先頃より御痛所にて 被成御難義候由
岳西院などの他の塔中から慈心院門主への返事である。「御手紙拝誦しました。貴僧様先日より痛い所があって難儀されているとのこと。そして29日御通の時下山難儀にて御使僧(代わりの部下の僧)を私たちに差し向けることを御尋のこと承知しました。これは御使僧には言わないでください。貴僧の苦労も知らず連絡しませんでした。御保養が専要です。23日までに下山されるか否か処断下さい」。御通:おそらく長時間法要で仏前に座し発声すること。門主は痔ではないだろうか。

●#194. 皆川之御摹写 好も猶御工夫御願上候 粉本お渡し申候
小隠から竹涯への手紙。「拝復。厳寒凌難い時、益々御清過御目出度いです。さて差上置しました粉本、お持ちになってください。皆川の模写好いのですが、猶粉本を見て(もうひとつ)工夫を願います。24日に御提出ください。待上しています。印もその節に出来ます。お目に懸って万々(報酬を)お渡しします。御使者をお待ちします」。臘月:十二月。粉本:手本。皆川淇園の模写の作品を作成しているようだ。小隠は皆川淇園の粉本を竹涯に渡してよく模写できた作品を24日までに依頼した。印は別人に作成を依頼しているようだ。小隠、竹涯は不明の人。皆川淇園の書は人気があった。このような書状がよく残ったと思う。

●#193. 大伝馬町三丁目大丸屋より馬喰町三丁目下野屋へ 〆壱貫百拾六匁七分九厘請取
大丸屋から下野屋内篠崎氏への請取状である。大丸屋呉服店は1717年下村彦右衛門が京都伏見に創業した。1743年には日本橋大伝馬町3丁目に江戸店開業。一方下野屋は馬喰町3丁目に清助という元百姓が開業した店で呉服、太物を販売、行商していた。記載の商品に不明のものもあるが、計12件銀立てで計算した金額はぴったり合っていた。それに金で支払いが成されたが、交換率はほぼ金1両=銀60匁だった。よって金が高騰する嘉永5年(1852)より前のものであろう。大きな「現金札付かけねなし」の判は大丸屋下むらのもので有名なものである。ここの「三」は上2つの点がなく特異なものである。立付:たっつけ、短い袴に脚絆を縫い付けたもの。糸錦:金糸、銀糸などで柄を織り出した布。#162に大丸屋の文書掲載。

●#192. ゆほびかなる池に蓮のいとうるはしきか 目もあやに所せきまて咲出たり
今はなき巨椋池(おぐらいけ)から見た景色を色彩感覚鋭敏な女性が記した文章。明治8年のことである。江戸時代生まれの女性の文だがすでに「そうろう文」でなく、読み易い。大くらは巨椋だがこの池は大池ともいわれた。目川、東目川は巨椋池の東岸の村。一口(いもあらい)は西岸の村。いさなふ:誘ふ。寅の刻:午前4時。ほのめく:仄めく、かすかに見える。さしも:然しも、あれほど。ゆほびかなり:広々とした。せき:狭き。おもひきや:思っていただろうか、いや思わなかった。蓮の花の盛りの八月に一口村の老翁の舟で池を横断した。色彩感覚は鋭い、文章からして教養豊かな女史に違いない。

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●#191. 啓蟄、無射、春分、太簇、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、臘月 古い月名にて御座候
遠江国長上郡上石田村の犬塚小平治さんが学習した月名。ここに275年前に書かれた月名は現代でもよく確認できた。難漢字のものは多くは十二律(日本音楽の12標準音)の名から来ている。二十四節気といって1年に24の節を付けたものの内20が掲載される。旧6月を「律、りつ」とするのだけは現代では確認できなかった。だけど六の「りく」がしばしば「りつ」と発音される(例:六気、りつき)のと、12音の雅楽音のうち6つを六律というのと両方から了解はできる。古い時代のものだから現代と少しの違いがあって当たり前。なお誤字と思われるものは訂正した。無肘は無射ぶえき。敬蟄は啓蟄けいちつ。江戸時代は漢字の当て字は頻回にみられる。

●#190. 掃部、帯刀、靱負、修理 人名にて御座候
#189の遠江国長上郡上石田村の犬塚小平治さんが学習した人名。百官名に掲載される武士名として、主税、斎、勘解由、左馬、修理、右京、内膳、内匠、左門、左近、内記、釆女、木工、主水、内蔵、蔵人、隼人、刑部、式部、図書、帯刀、民部、宮内、玄番、掃部、兵部、靱負、兵庫、主膳。別に伊織、数馬、縫殿はよくみるもの。身近の人らしいものが、永庵、策庵、保庵、常味(常見)、是弁、弁之内、友之介。是弁、弁之内は特に稀だろう。「部」のくずし字が「ア」や「刀」のようで驚いた。「解」は翁によく似る。兵部の右に「竹」を書いているが本人も「竹刀、しない」と書きかけたようだ。犬塚小平治さんは名字はあるが武士ではないようだ。

●#189. 書置も方見となれや 筆跡残には何国に住むとも見て候らわん
遠江国長上郡上石田村の犬塚小平治さんが学習した書状上書、人名、月名。年号は壬戌=1742年=寛保2年卯月(4月)。御内者:貴人の従者。侍者御中は僧侶によく使われたらしい。尊答:尊答を拝謝します。人名、月名は後に紹介。寛保3年には表紙を書く。「千秋万歳目出度申納候」。これから千年も万年もおめでたいことが続くことです。さて中に下の記載がある。「書置も方見となれや・・」。「この書置きは(夫の)形見となった。筆跡が残っているので、私がどこの国に住むことになってもこれを見て夫を思いだそう。人の死後の行方に山の精になる等という也。それならまた出て来ることもあろう」。形見:身内の死後の遺品。山の精を解説した。1740年頃は人の死後山の精になると一部で信じられていたようだ。無論これは犬塚小平治さんの妻が記したものである。夫への愛情があふれていて感動的な文章であると思う。275年前の文章である、最近私の所有となったが是非これを紹介したかった。

●#188. おにじりは香の事に御座候
いわや弁蔵さんより井村庄屋の直之助さんへの覚え書である。紙3丈=9m、色紙5枚、線香3ばい。さて「にじり、おにじり」とは御香のことである。にじる:膝頭を畳に付けて前に進む。仏壇ににじりより粉の香をつまんで鉢に入れる。ここからおにじりは「香」になった。さてここに専助さんの署名を見る。左の「作州西北条郡井村庄屋」とほとんどはこのように書く。右の「作州西北条郡百谷村内井村分」は正式の通帳に記入したものである。wikiには右の百谷村内井村分と記載されるが公式の名称がこれであったと確認できる。

●#187. 御勤人惣代様 銀九百三拾三匁 井村より上納にて御座候
美作国西北条郡井村庄屋直之助さんより越畑村御勤人惣代の孫兵衛さんへの覚書の写し。井村の戌年の上納銀933匁=金15.6両である。#173では父の専助さんの時、銀1536.78匁=金25.6両であった。税の計算法、特に小物成や税率などの違いがあるだろうが、大まかなこの村の租税額はこの当りである。

●#186. 右之衆八名連状を以羽出村庄屋へ申来り候 徒党同前にて無拠御吟味
おそらく西西条郡羽出村の庄屋から西北条郡百谷村井村分庄屋専助さんへの手紙。「右の8名が馬喰中間の羽出村喜三郎が中間付会で和合せず宜しからずと連判状を持って組頭源次郎に来ました。さらに源次郎より私に来ました。我々では力不足です。長引くと徒党を組んでの事態とみなされて厳しい吟味となるのでここに叩き上します」。手紙は切れているが大体の事情はわかる。馬喰中間:牛や馬の仲買商。中間付会:仲買商が農家からの牛に値を付け合う会。ここは中国山地のなだらかな丘陵で牛の放牧が盛んだった。特に西西条郡羽出村(津山藩領)は郡の北の方である、さらに行くと分水嶺の上斎原である。牛の仲買の値付けなどで揉めると郡の筆頭庄屋などに届くのだとわかる。なお下段は手紙の始まりから行間にかけてやや小さい字で書かれている部分で手紙の最後の部分である。

●#185. 当村清蔵一件之義 御心配被成忝仕合に奉存候
美作国西北条郡井村分庄屋の直之助さんが西北条郡小原村庄屋の喜兵衛さんへ出した手紙。「態々飛札で御意を得ます。愈々御堅勝に勤められ御目出度いです。さて当村の清蔵の件で御心配成され有難いことでした。その時要用の注文品の16.4匁と村の者の下宿して書類料8匁で合計24.4匁を持たせますので御落手下さい。軽少ですが麁酒1樽進覧します。御受納下さい。そちらの御村方には同席の時御礼申上ます」。態:わざわざ。飛:飛札、急ぎの手紙。落手:手にいれる。麁:粗い、謙譲語。令進覧:進覧せしむ。井村分など同郡寺和田村以北は幕府領だが、同郡小原村など津山城に近い村は同藩領であった。支配は異なるが、村人の世話などで交際があったことがわかる。この手紙は大きな訂正があったので別に清書して出され、原稿は直之助さんが保持した。始めの2行は追伸である。

●#184. 御出立御延引を願上申候 日切にても道中腹痛と御断申上 可相済奉存候
美作国井村の庄屋専助さんが受けた手紙。「今日生野へと出立の御積りの所ですが代官様の御用向がやや判り難いのです。少しの3-4日間延引下さい。御頼みします。生野では御用向は定免の御下知と思われ少々日限が過ぎても、道中腹痛になったと理由を申上れば済みます。御叱りはありません。3-4日どうか御延引下さい。わざわざあなたが生野へ出られて私共が迷惑となれば困るので御願します」。日切:日限、約束の日を限ること。下知:言い渡し。定免:年貢の割合を毎年一定の率にすること、江戸時代後期は主に定免だった。延引:引き延ばす。専助さんが支配の代官に会って定免の言い渡しを受けるため生野へ出発するが、これを3-4日延引することを依頼している。日限を過ぎても腹痛があったと理由を言えば御叱りはありません。これは近隣の別の村の庄屋が情報収集や代官に手紙と贈答をするための時間が欲しいということのようだ。理由はもちろん定免の税率で手加減を加えてほしいから。専助さんは下(#183)のように西北条郡の当番の庄屋も勤めた。腹痛との理由を言えばお叱りはないとのことが面白く、賢い延引の理由である。

●#183. 越銀段々延引仕候 此度差送り申候
美作国西西条郡塚谷村庄屋の善右衛門さんより美作国西北条郡井村庄屋仙助さんへの手紙。仙助=専助で漢字の当て字はおおらか。「手紙で御意を得ます。甚寒の節に御堅勝に勤められ御目出度いです。私も無異です。さて其郡(西北条郡)へ当郡(西西条郡)よりの越銀が294.7匁ある所段々延びていました。ここに差送りますので御受取下さい」。得御意:あなたの私に対する心をよくする。延引:延びる。年末につき郡の間の借金分を清算している。この年はこの2人が各郡の当番の庄屋であったのだろう。郡は隣同士で村の間の距離も近い。

●#182. 帳面殊之外応々相成候段 何卒貴所様にて御調可被下候
美作国西北条郡越畑村庄屋国助さんより井村庄屋専助さんへ手紙。「御堅勝に御勤役御目出度いことです。さて他日意外に帳面が応々になった件何卒そちらで調べて下さい。印形送りますから宜敷頼みます。寺和田に控えがあります。勤居が今日廻って来なかったのでそちらで取り替えて下さい。お聞きの通り大取込中で困っています。余儀なき事情にてお願いします」。余日:他日。殊の外:意外に。応々:おうおうと承諾する。印形:いんぎょう、実印。無拠:余儀なき事情で。書類、帳面の印鑑などが応々でいいかげんになったので奉行から注意が出て調べた上で書類を差上るようだ。越畑村は一連の香々美川沿いの村では最上流で事務の印石などは最下流の寺和田村に預けているようだ。武士も寺和田に駐在しているのではないか。取り込み中の事情もあるようだ。越畑村の三役人の印形を添えるから書類作成の仕事はそちらでしてほしいと依頼する。

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●#181. 先何事も永日得御意可申上候
美作国西北条郡真経村平六さんから百谷村井村分の庄屋専助さんへの手紙。「御廻状拝見しました。年始で御門様目出度ことです。さて御上納銀と越銀承知しました。今日銀20匁の有金を使い年始勤め銀4匁、越銀16匁へ入れます。残りの銀は追々出します。そのように思って下さい。他はお会いして申上ます」。越銀:年を越えて払う銀。永日:えいじつ、日永(ひなが)、ゆっくりお会いしたとき。年始銀や越銀についての廻状への返事の手紙である。

●#180. 野子無異在然候 乍恐御心安思召可被下候
上醍醐寺慈心院のおそらく僧が1750年頃受けた手紙。時候と健康の挨拶と最後に筆三本進上した手紙。野子:自分の謙譲語で下拙に同じ。ここの僧(おそらく雑掌)は重要でないと判断した文書ははさみで部分を切り取る習慣があったようだ。この文書は屏風の中張りにあったものでいわば捨てられていたもの。赤い字は不明の箇所。

●#179. 伊勢津飛脚問屋矢野屋吉三郎手代差扣へ居申候 御返翰出し如何
伊勢津飛脚問屋矢野屋の手代が上醍醐寺慈心院へ飛脚便を持ってきて控えている。慈心院の雑掌が座主に伝言。「伊勢津飛脚問屋矢野屋の吉三郎という手代がこの手紙をわざわざ持参しました。御返翰出されますなら待ちますと私方へ控えています。右失礼ながら(御伺いいたします)」。態々:わざわざ。手代:使用人。返翰=返簡:返信。扣:控え。特定の飛脚便の場合は返事があれば待合せしたことがわかる。この後は切れている。

●#178. 困窮村方にて人少き村方に御座候 町場市場にては無御座候
美作国西北条郡井村の庄屋専助が所持した書類。おそらく支配の代官が交代して村の概要を尋ねられて書いたもの。ここは天領で代官は但馬国生野に居た。「入会地はありません。百姓が所持の林は21カ所あり8町1畝で、運用銀50.21匁上納しています。荒地は7石3斗4升3合で銀10.16匁上納しています。町場、市場はありません。奇特な高持ち百姓はありません。御林はありません。新田や起返はありません。検地帳はなく、名寄帳を使用しています。右に間違いや無名の田などありません。困窮で人少ない村方です」。入会地:山林(用材、炭、落葉)と草刈場(茅など)で村の共有地。御林:幕府や藩主の直轄林。起返:洪水や耕作放棄のため荒廃した田を復興すること。名寄帳:各自の持つ田畑、屋敷の一覧。

●#177. 何卒不苦候はば此次弐三冊 拝借可奉願上候
上醍醐寺慈心院の奉行岸本右近に田中乕之進からの手紙。「雷鳴の後に晴れるかと思いましたが、そうならずうっとうしい天気です。さて昨日拝借した御本7冊返却します。御落掌下さい。今朝約束で置いた手紙通りに何卒よろしければこの次2-3冊までお貸しください 草々」。落掌:手に入れる。欝陶敷:うっとうしく。不苦:苦しからず。少し下位の武士だろう。この時代書物の貸借は盛んであったようだ。

●#176. 御廻米江戸大坂予州金岡湊入用 追加割にて御座候
他の文書と同様美作国西北条郡井村の庄屋が保持していた文書である。米の運送における追加割負担があったこと記す。美作国の吉井川からの米の積み出しの各村に追加割当があり代表の西西条郡山城村吉右衛門が銀90匁の負担をした。吉井川の河口西大寺金岡湊にて美作の米を御廻米として舟でおそらく大坂へ運ぶ予定が風待日が多くて筑前湊から90日余48日かかりその間の船員や米貯蔵などの負担が多く。金岡湊を使う各村が負担を強いられた。後年の例にならず今年だけの事であると書く。美作3郡東北条郡、西北条郡、西西条郡(すべて現苫田郡)の積み出しの米の割合を書く。おそらくこの割で負担を割出す。最後に御廻米江戸大坂予州金岡湊入用と記した。河口湊までの運送費負担は農民だが、その後の海路での不都合の際の負担も求められたことがわかる。伊予には米湊がある。

●#175. 借金は五拾目残すが佳き也 今津屋孫十郎殿へ
美作国西北条郡井村の庄屋専助さんの今津屋孫十郎への戌年正月での決算。ここでは千助となっているが専助と同じ人。このように漢字の違いは江戸時代は非常に多く当て字も含めて極めておおらかであった。借用と払いを繰り返した事がよく判る。1年間に調達した総額は銀1532.9匁=金25.5両であった。この戌年正月での1年分の清算で専助はやはり銀50匁だけ借金を残した。前年は40.5匁残していた(#174)。おそらくすべて借金を払い終えることはできるが付き合いで40-50匁残したのだと思う。

●#174. 借金利足は月一分五厘に御座候 御京印米請取申候
美作国西北条郡井村の庄屋専助さんの今津屋孫十郎への借金の酉年正月での計算。解説は図に記入。利息は年18%、月1.5%であった。1841年頃までの江戸時代の貸金業者は年率15%前後だった。米で借金を払っている。米1石=金1両=銀60匁ならば1俵=4斗=銀24匁となる。しかしこの時は銀が高値だったようで銀20匁分を払うにつき米1俵に少し銀を加えている。中央上が切れていて残念。米の右にある「御京印」は米の信頼性を示すもので貨幣に交換可能の米を示すのだと思う。最後に銀40.5匁が借金として残った。

●#173. 生野御掛屋へ 御上納銀壱貫五百三拾六匁七分八厘御改可被下候
美作国西北条郡井村の庄屋専助さんが御上へ上納した記録。ここからは銀山のある生野は近いのでここの商店に年貢を上納していた事がわかる。銀1536.78匁=金25.6両である。美作国西北条郡井村は2つ下に示したように幕府領である。そしてこの時の実質支配は生野代官所の奉行であった。

●#172. 美作国井村の平右衛門四国辺路に被罷出候所 伊予国井内村にて病気養生
美作国西北条郡井村の庄屋が受けた手紙。「貴村の平右衛門と申す者去八月四国遍路に出た所伊予浮穴(うけな)郡井内村で病気になり養生するが変化ない状態です。付いては帰国して庄屋が世話すべきです。委細は伊予からの手紙口上をお聞き下さい」。態:わざわざ。これ以後が残念だが切れている。おそらく庄屋と村役、同組頭が迎えに行き連れ帰ると思われる。四国遍路は弘法大師の足跡、八十八ヶ所の真言宗の霊場、寺を廻ること。下のように真言宗の宗徒が美作国西北条郡には多いのでこのような事態は想定内であったろう。適切で迅速に処理が行われたはずだ。伊予は与州と書かれることがあった。

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●#171. 院主出立にて上京参殿被致候 留主中死去人在候節他寺にて御世話
美作国西北条郡寺和田村の円通寺の座主が上京するので西北条郡の各村へ廻状を出した写し。井村の庄屋直之介さんが所持していたものである。座主が留主をする時はその間の代役を立て、檀家に死者が出た時のため各村の庄屋へ廻状を出したことがわかる。文章は屏風剥がしにて中央部が欠けている。なお同郡市場村には現在は寺院はないようだが、苫田郡鏡野町には真言宗の寺院が非常に多い。円通寺は現存している。さて最下部は別の時代の同じ村々への廻状を各村へ廻す時の付箋である。井村の庄屋、直之助の父専助さんが持っていたものである。年は閏十二月で江戸時代後半(享保以後)では1746年、1765年、1776年のどれかである。そしてこの時は大町村と井村は西分と東分に分かれていた。おそらくこの辺は広々としていたので東端と西端では相当な距離があったのだろう。

●#170. 荷物売様何連も当てに相成不申 きみあしき事に奉存候
加賀の北前船業の増田家の又吉より家主又七郎への手紙。「当地の問屋片山、田付2名共海商社門許可で不都合も存外多くあり。この不都合を申立ますが当惑しています。御尊家が出立のときこの成行を京都へ申上げるべきですが余度々の難事なのでさし控えています。海商社門許可は上からの事であり、いつ家財が海商社附立になるか解らないので心配です。荷物を預けるのに確かな人に付替えすべきです。当面乕次屋へ五厘(0.005)を用捨して預けています。御上に付立にするとそこで区切りになり心配です。売り方もあてにならず気味が悪いことです」。 付立:帳面に付けること。廉:かど、こと、事。用捨:用い捨てる。仕切:取引、記帳を締切ること。抔:など。明治に海商社という官立の組織を作って海上の商業を管理し始めたのだろう。海商社は「船主別日本船名職員録」という本を発刊している。荷物を預けるのに自由がなくなり海商社のラベルを付けることで荷物がどうなるか心配で気味が悪いと書く。売る値段も管理がかかってきたようだ。周囲の業者も大混雑している。明治中期以後北前船は急速に廃れた。

●#169. 千菊丸殿へ 釈迦達磨をも下部となす程の人に成り給へ
幕末に井伊家世田谷代官所に勤務の明塚という武士が学習した内容を書写したもの。内容は一休の母の一休への遺書、一休の言葉、その他和歌5首。一休の母の言葉は解りやすい。「よい出家(坊さん)になりなさい。その眼で私が地獄に落ちるかどうか仏に常に寄り添うか否か見ていてください。釈迦や達磨をも奴(やっこ)とするほどの人になればよいです。学問で理屈ばかり語る人は糞世虫(こがねむし?)と同じ事。莫妄想。千菊丸殿へ、無死無生より」。歌:これはかりそめではない。別れたあとの私の形見としてください、私の筆跡を。わが子が素晴しい禅僧に育ってほしいとの願いが母親らしい。浜松市の秋葉山舘山寺に原文がある。不断:とだえない。下部:しもべ。莫妄想:妄想する莫れ。かりそめ:重要でない。次に一休和尚の言葉を書写。「地獄遠きにあらす」やや難解だが、食事、家業を成し酒を飲んで寝たら極楽とはこの人らしい言葉である。遠嶋:島流し。慈悲:菩薩が人に楽を与えること。和歌5首はわかりやすいものと解かりにくいものがあるが、個人的には読人不知の2首がすきだね。「つくつくと思へば」:生きやすい世を我が身が辛いと嘆くのが人間だ。つくづく:熟、よくよく。浮世=憂き世:つらい世の中。「人はたたあかれぬ」:人と遠ざかることはある、名残惜しさを思い出にして別れるのも良いものかもね。

●#168. 我常山記談を書写仕候
幕末に井伊家世田谷代官所に勤務の明塚という武士が「常山紀談」の第1巻12段目を書写したものである。「那須の臣大関夕安深慮の事」。下野国宇津宮の軍勢が那須に寄せて来たのを打ち破り大将を討ち取るかという時、那須の大関夕安は兵をまとめて宇津宮軍が逃げるのを追わなかった。人は皆宇津宮を破ってしまうべきであると言うのを夕安は聞いて言った。「雲を払い去った秋風は松に残して月を眺めよう」という歌がある。味方にはまだ根本の固めがない。宇津宮を滅ぼせば、小田原北条氏は那須を直接の敵とする。宇津宮を残せば小田原は宇津宮に敵対する。その暇に蔕(ほぞ)を固くして那須(なす)をしっかりと守り固めて強くして将来小田原と敵対できる位に強くしたい。人々は感心した。蔕:へた、ほぞ、果実のがく。北:そむく、にげる。大関氏は那須七騎の1つで那須氏の重臣である。だが大関夕安が実在かは不明。常山記談は備前岡山藩士で儒者の湯浅常山(1708-1781)が戦国武将の逸話をまとめたもので1801年発刊。最後に小さく書かれた短歌3首は次の13段目に書かれている歌で訳は省略する。参考図書:「常山紀談」湯浅元禎 大正15年(国会図書デジタル)。

●#167. 拙寺身内之僧 何卒一席御法座御勤被下度奉願上候
照光寺より蓮浄寺への手紙。両者とも和歌山県北部紀の川沿いの所の寺である。「わざわざ粗墨であなたの意を得ています。残暑ですが皆様御機嫌よく寺務めされ喜びひとかどならずです。当方も無異です、安心ください。長くご無沙汰で申し訳ありません。1人身内の僧が来て拙寺に泊まって法座を勤めています。在住のことは知らずと(奉行より)指図を受けました。詳細はこの者にお聞きください。当面寺廻りを致したくあり、尊寺にも法座を一席設け勤めさせてください。そちらに私が参上すべき所ですが寺に人がいないので、この書状でお願いしています。寺の方々に宜しく御伝達下さい」。態:わざわざ。麁:粗い。容捨:容赦。不斜:ななめならず、ひとかどならず。両者とも浄土真宗本願寺派である。#90の手紙より1837年=天保8年頃のものである。

●#166. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その六
出羽国慈恩寺最上院の僧が弘化3年=1846年頃に書き留めた女房言葉。かみそりは「おけたれ」。かみそりの女房言葉はけたれ(毛垂れ)またはおけたれ(広辞苑)。かみそりで髪の毛を削ぐと毛が垂れて落ちる意味だろう。ぼた餅は「萩の花」。ぼた餅(牡丹餅)はおはぎ(御萩)である。御萩は萩の花とも言われた。広辞苑では「萩の花:柔かい飯を盛って小豆の粉をかけて食べる物」とあった。いかきは「せきもり」。いかき(笊籬):竹で編んだ籠、ざる。古語辞典に「せきもり(関守)はいかきの女房詞」とある。「関守」は関所の番人で「人やものの通過を妨げるもの」の意味があり、ざるが水は通すが水以外を遮り掬い取るからだと思う。面白い発想である。せつかいは「うくいす」。せっかいはすりばちの擂った中のものを掬い取る道具、しゃもじを縦に半分に切ったような形、スプーン。 広辞苑にうぐいすは鶯でせっかい(狭匙)の女房詞とある。鶯は短いスプーンに形が似ているようだ。すり鉢は「らいぼん」。らいぼん(擂盆)はすりばち(擂鉢)のことと広辞苑。しかし女房詞とは認めていないようだ。擂盆を「すりぼん」と訓読みせず、「らいぼん」と音読みしたものであるから。水は「おひや」。おひやは御冷である。くきは「くもじ」。くもじとは「茎」から菜の茎の漬物の女房詞と広辞苑。だが逆に「くき」は漬物でなく単に「茎」のようだ。竹の子は「たけ」。竹は筍の女房詞である。うこきは「うのめ」。うこぎ(五加)は葉や芽が食用で根が強壮薬と広辞苑。うのめはうこぎの女房詞と古い本にあるが、古語辞典、広辞苑にはなかった。しかし春に芽を食用にしたので「め」は「芽」であろう。しるは「おつけ」。みそ汁はおつけ(御付)、おみおつけとある(広辞苑)。かずのこは「かずかず」。かずの子の女房言葉はかずかず(数数)(広辞苑)。くしらは「おさくり」。鯨はおさくりと「女房詞の系譜:杉本つとむ氏」に掲載があり存在は間違いない。そのおさくりの更なる意味の理解はできなかった。以上で女房言葉は終わりだけど、この勉強は楽しかった。広辞苑と古語辞典がなかったら、漢字は判らず深い意味はわからなかったことは確か。この女房言葉のかな文字を読んでいて、終戦後に小学校や文章一般で漢字を捨ててかなやローマ字だけにする案があったけどそうならなくて本当によかったと改めて思う。

●#165. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その五
出羽国慈恩寺最上院の僧が弘化3年=1846年頃に書き留めた女房言葉。さけは「くこん」。酒の女房言葉はくこん(九献)である。語源は九献=杯に三回ずつ三度の計九度酒を差す、三三九度。献:酒を献ず。こめは「うちまき」。うちまきは「打ち撒き」で悪魔払いに米をまき散らすこと。後に御所で米一般を指すようになった。みそは「むし」。味噌の女房言葉は「蒸し」である。大豆を蒸して作ったから。あま酒:あまくこん。甘酒は「甘九献、あまくこん」。五斗みそは「ささぢん」。五斗味噌:①大豆、ぬか、米麴、酒粕、塩を一斗ずつ混ぜ熟成した味噌。②ぬかみそ。「ささじん」は糠味噌の女房詞と広辞苑に記載。古くは糠味噌を糂汰(じんだ)と言い、酒か酢を加えて食べた。古語辞典には「ささじん」が掲載され「酒糂」と漢字で宛てる。糂:じん、米の粉、ぬか。こぬか:まちかね。小糠=ぬかの女房言葉「まちかね(待兼)」は「来ぬか」から「待ち兼ね」となった。すごい転換である。もちは「かちん」。餅の女房言葉は「かちん」。かちいい(搗飯)から転換。搗:つく、かつ、もち米をついてこねる。ごほうは「ごん」。ごぼう(牛房)の女房詞はごんである、ごんぼうから転換。かうの物は「かうかう」。香の物の女房言葉は香香(こうこう、こうこ)。香の物とは漬物のことである。するめは「するする」。するめの女房詞は「するする」。さいは「おかつ」。菜は「おかず」。さい=そうざいで総菜である。おかずのほうが一般的である。白はしは「ねもじ」。葱の女房詞は「ねもじ」。白葱のことを関東以北で白はしと言っていたようだ、白端だろう。ねぎの端は白い。女房詞は単に優雅なだけでなく、御所の歴史があるんだね。

●#164. 内記様へ 御茶之品御見舞得貴意候印迄
上醍醐寺の塔頭、密乗院より上醍醐寺の奉行の長、岸本内記への手紙。「手紙でもって貴意を得る所です。余寒戻り厳しくあります。御安康に御役勤められめでたいです。当寺の伽藍の件で厚く苦労して御沙汰を下されかたじけなく存じます。お陰で追々世間に義理が立ちます。この御茶はこの時節の品で御見舞いで、貴意を得る印に進上します。近々面会を調整します」。帋=紙。御陰:おかげ。義理が立つ:面目を保つ。ここには「得貴意」が3度も出る。訳は「あなたの私に対する心がよくなるように」の意味。①は手紙で、②は御茶進上で、③は近々面会にて。密乗院は岸本内記に大変気を遣っている。伽藍の整備でよい沙汰(判断)をしてもらって御蔭で面目を保ててうれしかった。下の母よりの手紙とは対照的。

●#163. 内記へ母より 飯米、炭、茶を御取寄被下候やうに願上候
1750年頃上醍醐寺の慈心院に住んだ醍醐寺とその塔頭、岳西院、密乗院、成身院などを管理する奉行の最上位は岸本内記であった。その人の母から内記への手紙である。「飯米2-3日の内に補充して増やしてください。炭も中頃には無くなるので申上ます。茶も少しも無いので10日過ぎに取寄せください。柔かい炭は火が付き易いと言われたのであなたが調えてくれれば1俵50文高値で目方も下であり気の毒ですが申上ます。みすみす損なことです。よくないですが、三俵ほど取寄せ下さい。段々に暖かになってくるのでこの春中に三俵あれば安心します。右申上ます」。みすみす=見す見す:解っていながら。最後の宛名の敬称は母からの手紙では「殿」が多いが、ここでは付けていない。力強い毅然としたお母さんである。炭には黒炭と白炭があって「柔かい炭」というのを初めて知った。確かに以前火鉢で見た炭は硬かった。焼肉の炭はたどんのように柔かく着火しやすい。炭1俵は15kg(4貫)で銀3匁=210文位だったらしい。ここでは1俵当り黒炭が白炭より50文高値であったと判る。女性のかな手紙は解読難が多いが、これはやや難はあるが大方読めた。

●#162. 越後屋大丸屋行事 値段相下候様厚可心掛旨 被仰渡奉畏候
江戸の呉服問屋行事越後屋と大丸屋が勘定奉行(上は老中)に出した御請書の写し。「様々な商品の値段が昨年6月より段々上昇している。そこで今般引下げを我々に諭された趣をわきまえ、今年5月精を出して売捌値段を引下ることを申上ました。それぞれ御取調べで当面はこの値段で了解され有難いです。今後も掛け合い等の値を下げてゆくよう仰せ渡され恐れ奉ます。差上げの御請書は此如くです。月行事の布治へも右は達しています」。諸色直段=様々な商品の値段。諭:さとす。弁:わきまえ。掛合:2人が声を掛け合うこと、ここは市場で値段の掛合で物価上昇に関係。越後屋は三越で三井財閥の源流、大丸屋は現大丸である。どちらも日本橋にあった。大丸屋、越後屋は白木屋とならび江戸の三大呉服店とされた。丑年は1853年または1865年のようだ。幕府が呉服問屋行事を通じて物価を下げることを命じていた文書である。他の同様の文書が三井家記録文書に掲載がある(下に記載)。なお行事は呉服行事で大店、月行事の布治は小店ではないか。

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●#161. 先日は寛々預御馳走難有仕合
小右衛門から侍の須田七之助への手紙。「先日はゆっくりと御馳走になり仕合せでした。皆様へよろしく御礼をお聞かせしてください。さて今晩粗相の夕飯を差上げたいので多用御繰り合わせていらしてください。書き余はお会いして申上ます。尚失礼ながら御使者はありませんので昼飯後じかにいらしてください」。不得尊意:あなたの意に適っていない、手紙、贈物などしていない。寛々:ゆるゆる。仕合:幸せ。麁相=粗相:そまつな。神無月:旧暦10月、新暦11月。

●#160. 道中にて間違為急変等御座候はば 紀州近きは連名方へ 上方は醍醐表へ
上醍醐寺慈心院雑掌が和歌山へ一人旅する使者に持たせた覚え書である。「この者は(御遣に)適合したといえない用事で和歌山の鈴木吉左衛門、加納平三郎殿へ遣わす人です。万一道中で間違いがあり急変があれば紀州の連名の方へ持っている書状を渡してください。急変がもし上方に近い所なら醍醐表迄お知らせ下さい。一人旅のことで御世話になることも考えられ念の為この書附を持たせます。伏見八百屋相右衛門方から出発し舟に乗ります」。この使者は病気があるのか使いに適さないと判断される人であったようだ。和歌山市に宇治、吹上という所はあり市街地である。「未壬」年は存在しないので別の文書よりこの年は辛未年=1751年=寛延4年であると思う。この時の慈心院雑掌は俊応である。慈心院雑掌は九月朔日に交代する。夏休み後の交代で英米の新学期と同じだね。この覚が醍醐寺慈心院に存在したことはこの使者が和歌山まで無事到着そして帰路も無事だったことを示すと思う、よかったね。雑掌:雑事掌握。不叶兼:叶いかねざる。難計:はかりがたく。為念:念のため。印は「證」あかしである。

●#159. 木仏尊像壱躰御札御染筆 難有安置可有之候也
浄土真宗の管理者下間大進より安芸国眞行寺門徒の文左衛門宛の書状と札である。きれいに表装されていた。「これは偽書ではない。今般願いにより木仏尊像1体、丈は六寸(18.2cm)及び御染筆の御札を下された。有難く安置するようにすべきものである」。年号は丙午=1786年=天明6年7月4日である。札には冥加金21両1歩を納めた事と木仏尊像と記される。下間家は戦国時代、顕如が織田信長と大坂石山本願寺で対決した時も門徒の指揮を執った家柄である。この下間大進はやはり西本願寺門主の側近であろう。大進は叙爵後の従六位あたりの官名である。法場:寺のこと。 1786年の時の宗主は法如(1707-1789、本願寺派第17世宗主西本願寺住職)である。安芸国(広島県西部)には「眞行寺」は安芸高田市高宮町と広島市中区寺町にある。「安芸門徒」は現在安芸国の主に西本願寺を本山とする浄土真宗の門徒で戦国時代は毛利氏を支えて信長に対抗し、江戸時代も藩主浅野氏と良好な関係を保った。1976年の調査では広島県民の57%が浄土真宗門徒であった。

●#158. 乍慮外御心安可被下候
ほとんどかすれがない、堅い字で普段手紙を書き慣れていない人だろう。七治良さんは飴屋の七兵衛さんの息子ではないだろうか。どこかに奉公に出ている若者かもしれない。爰元:ここもと、自分。慮外:無礼。ここでは乍慮外で乍憚と同じ意味。文章は典型的な時候と健康の挨拶である。

●#157. 御子息様えも宜被仰上可被下候 毎度御不音仕候段御免
この武家の手紙は本文が欠けて追伸のみがあり。「昨日申上た時、御目通なされお厭な様に思いました。御子息様へも宜敷おっしゃってください。母からも宜敷申上るように言われました。毎度音沙汰なくしまして御免下さい」。御不音:音沙汰せず、連絡せず。文字がひょろひょろして独特である。人物は不明。

●#156. 正月の餅はたべ候てもくるしからすが
美濃国羽栗郡竹ケ鼻村の飴屋松屋七兵衛がもらった手紙。差出人は不明。「正月の餅はたべ候てもくるしからすが 御しらせ可被下候」。正月の餅を食べても苦しくないですか?次に魚の川はえを食べても苦しくないですか?また牛房、芋は食べても苦しくないですか?お知らせください。牛房:野菜のごぼう。相当親しい人からの手紙だろうね。大変愉快である。はえは私が小学生のころよく釣った。屏風の剝がしなので本文6行目の上と下は切れていた。

●#155. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その四
出羽国慈恩寺最上院の僧が弘化3年=1846年頃に書き留めた女房言葉。そうめんは「そろ」。そうめん(索麺)は女房言葉ではそろである。広辞苑には「ぞろ」とある。あさづきは「あさあさ」。これはつけものの浅漬けであり、女房言葉であさあさである(広辞苑)。すしは「すもじ」。寿司はすもじ(す文字)。いがは「いもじ」。いか(烏賊)はいもじである。東北弁が入っているようだ。かつほは「かか」。鰹はかか。今は鰹節で削ったものをおかかというのは一般。ゑひは「ゑもじ」。海老は女房言葉でえもじである。たこは「たもじ」。 鮹(たこ)はたもじ。小鯛は「小ひら」。これは鯛一般のことをおひら(御平)と女房詞でいった(広辞苑)。かやは「かちやう」。かやは蚊帳(かちょう)。蚊帳は一般語になっている。めしは「ぐこ」。めしの女房詞はぐご(供御:広辞苑)である。供御は元は天皇の食事をいった。赤飯はこはぐごであった(その弐)。女房詞は広辞苑に随分助けられている。検索で不明だったものが補えて、そして漢字がわかるのがすごい。

●#154. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 拾一終章
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の終章である。この本の大部分を書き終えた1817年=文化14年春以後の記録で詳細なものはない。勤務の士はやはり1-2年で交代する。疱瘡の見舞で禁裏に使者が派遣される。使者の宿は三條筆屋で三条富小路東入ルにあった。この辺は風情があり京都のおしゃれな人々が行き交う所。奉行(御留主役)青木喜太夫には才許が伴う。才許:裁許、上司や上部組織に許可された者。ここでは御供が許された人。了:了解する。これですべての記録を掲載した。千丸屋作兵衛7代目の1819年=文政2年卯の4月以後の動向は不明、家督は譲って隠居したと思われる。この後は千丸屋作兵衛8代目=正助が書き嗣ぐが、後日発表とする。多様のことが記載され、面白い内容であったが、やはり「馬在」は石高に加えて武士のステータスシンボルであったことは間違いない。

●#153. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その拾 殿様の御男子御誕生、前田主税様叙爵
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の拾である。まず作兵衛が断じて受けなかった三度飛脚を北国屋源兵衛が5人扶持の給料で受け持った。次に1817年=文化14年藩主の男子が生まれた。前田斉広:1782-1824、11代藩主。前田斉広の次男、他亀次郎(1817-1825)である。この男児はこの後わずか9歳で夭折した。勝千代様と同腹である、出産した女性は側室で栄操院といい家臣の娘である。斉広の正室鷹司氏の姫、夙姫(その壱に記載)との間に子はなかった。勝千代とは後の前田斉泰、第12代加賀藩主(1811-1884)で長寿であった。さて加賀藩八家筆頭家老前田主税(本名前田直方、1748-1823)が叙勲となった。やはり前の横山監物と同様本人は上京せず、名代に前田姓の小姓昌五郎が来京。宿は十一屋源兵衛殿方(二条木屋町下る:その弐参照)。2月5日京都着、同14日儀式は無事終了して前田直方は土佐守と改名した。次に作兵衛は文化14年2月より1.5ヶ月間の金沢表への旅にでた。途中山中温泉で休息、金沢に逗留して御家中諸士を廻った。なお中村恒之丞という士が御留主居に就任したがこの人は2年前御留書役で屋敷勤務した人である、そしてなんと4ヶ月前に金沢に帰国したばかりで再び上京である。しかし今度は屋敷のトップとして上京である。旧臘:陰暦12月、新暦1月。扶持:扶助すること。口宣:くぜん、叙位の勅命を伝奏に口述すること。記載の金沢惣宿町は宗叔町に違いない、場所は金沢城の西、金沢駅の南にあり、現在は芳斉、玉川町である。

●#152. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その九 芳春院御法事にて御上京之御役人多数
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の九である。その四と七で芳春院昭堂及び本堂仮屋が再建され、いよいよ芳春院様200回忌の法事である。加賀の国表から多くの武士が上京したようである。ここには最上位の武士竹田掃部(かもん)と与力脇坂平作を記す。竹田掃部(かもん)は2500石であるwikiには3530石と記されている寺社奉行である。京都の東の入口蹴上まで作兵衛はお迎えに出た。また見送りにて御馬荷物を才領に名札を付けて渡した。才領:道中の運行を指示する人。竹田掃部は中立売新町、脇坂平作は中立売小川通に宿泊、どちらも御所の少し西で互いに極めて近い。次にその六で登場した加賀No2の家老前田主税も上京、11000石と大名並である。金沢を7月1日出発から京都に7月7日着そして芳春院200回忌の法事を終えて7月19日に京都を出発した。作兵衛は宿泊地の近江国草津(大津よりやや東)まで前田主税の出迎えに行っている。さて芳春院法事は7月9日と18日の間に行われた。その七に記載の阿部甚右衛門(甚十郎)も5月から芳春院普請で在京中で7月の法事に出席、記録に芳春院法事御用とみえる。法事の詳細などは別冊に記載があるが、私は所持していないのが残念である。見立:見送り、鑑定。

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●#151. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その八 当春太子様御降誕 御進献物にて御参内
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の八である。1816年=文化13年5月のことである。皇子誕生の御祝詞に加賀藩から御使者が進献物持参で上京した。前日に所司代より申参りがあり、奉行と使者が対応。当日5月26日は午時(12時)参内、御目録を御使者が持参し式台迄上る、京都加賀藩屋敷御留主居役(奉行様)は差添役。御進献物は御台所に納めた。中宮御所(皇后の御殿)、東宮御所(皇太子の御殿)にも進献物を納めた。七つ(午後4時)に終了した。その後休息所で昼飯を烏丸黒川常陸殿方で摂る。大変遅い昼飯だがその様に記載されている。烏丸黒川常陸殿方は場所、人物とも不明だが、御所へ進献の時の定番の休息所で御所近くの烏丸通に面してあると思う。翌27日には御勅答が伝奏山科氏(山科忠言、その弐に掲載、武家の奏請を朝廷に伝達する公卿)よりあり、御留主居役と使者で応対。使者は無事役目を終えて6月朔日京を旅立った。太子:皇位を嗣ぐ皇子。先手:先に進む武士。発足:旅立ち。この皇子は第九皇子悦仁親王で文化13年1月28日欣子内親王(よしこ:中宮)が光格天皇の皇子を出産した。しかしこの皇子はこの後6歳で夭折された。

●#150. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その七 芳春院御仮屋御普請 芳春院様弐百回忌にて御座候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の七である。1796年の芳春院の焼失のあとそのままなので仮屋の普請に役人が上京。これは1816年=文化13年が芳春院(まつ:1547-1617)の200回忌に当るので行われた。作事奉行は阿部甚十郎1500石の石高とある。この人は阿部甚右衛門忠喬として知られる。加賀藩士の作事奉行1500石の家督を相続し1827年に歿。その間1816年=文化13年に紫野芳春院御普請御用、芳春院様御法事御用をしており、この資料の記載に一致。「阿部甚右衛門」がこの家の代々の正式名。そして「阿部甚十郎」はこの家系の代々の幼名だろう。孫の名前は阿部甚十郎で1864年から1910年活躍。この芳春院の普請は本堂である。1816年=文化13年の芳春院の200回忌に先立って仮屋が建築された、期間は同年5月7日より7月25日であり加賀藩の武士の主導でなされた。これは「阿部甚十郎史料」でも確認できる。検索では本堂は1868年=明治元年の再建としている、これは本建築がなされた年なのだろうか、それとも廃仏毀釈の寺の難儀の中で明治天皇に対し媚を売ったのだろうか。芳春院昭堂再建(その四)の1815年4月からに引き続き、ここに1816年4月から芳春院本堂仮屋の再建は加賀藩の主導で成されたことは銘記すべきである。参考図書:金沢美術工芸大学所蔵「阿部甚十郎史料」。

●#149. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その六 前田主税様御館入之儀不相叶も献上品差上
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の六である。1815年12月前田主税様御館入を希望した事の成行を記載。前田主税(ちから):本名前田直方、1748-1823、加賀八家筆頭の前田土佐守家当主で1万千石。前田土佐守家は初代加賀藩主前田利家の二男の家系。加賀藩主の次にえらい大名並の石高の人である。①主税様御館入のすべての橋渡し役は田中武兵衛(前京都屋敷御留書役:その弐に掲載)。②1815年12月家臣広野五郎蔵へ書状出し。田中武兵衛より御館入は不可と連絡。③1816年2月笹井三郎右衛門(家老?)という侍が代りに対応と連絡あり、笹井三郎右衛門へ書状出し。④1816年3月15日主税様御用人山口次内が上京の用事。笹井氏より千丸屋作兵衛の話が伝わる。⑤1816年3月29日作兵衛、正助が山口次内へ挨拶と献上品を差上げた。顧みるとこれは作兵衛にとって大成功である。前田主税は加賀藩主の次にえらい筆頭家老で前田家の血縁の武士だから「館へ出入りは無理」は当然である。しかし山口次内は検索でも出る前田主税の側近の部下である。この人へ献上品を差上げたのは大きい事である。実は1817年正月に前田主税の土佐守への叙勲(後述)があるので山口次内はこの用事で上京したようだ。さて水野源兵衛様(元京都加賀屋敷御留主居役)が1815年5月から謹慎になっていた(その四)が1816年1月御会所奉行に復帰した、作兵衛は恐悦の書状を出した。この人は作兵衛が江戸直便飛脚と日用御用に復帰した時の御留主居役でお世話になっている(その三)。

●#148. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その五 金沢大衆免より中心へ家千弐百余焼失致候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の五である。ここに文化12年亥年と記され芳春院昭堂再建(その四)の亥年は1815年とわかる。武士から伝聞した金沢の大火を記載した。1815年の3月大衆免火元と7月天野町組屋敷火元と書く。両方「金沢大火年表」に記載されている。ただ後者は足軽町から出火とあり天野町の場所は不明、そして家老や武士の屋敷が焼失しており火は金沢大学医学部付近の足軽町から西北西の武家屋敷へと拡大したようだ。記載の前田修理、前田織江はいずれも前田斉広(第11代加賀藩主、1782-1824)の家老である。また京都加賀藩屋敷の御留書役奥田九右衛門と田中武兵衛の家も焼けた。大衆免のほうは焔硝蔵(硝煙蔵、火薬庫)に火が付いて大火となった。別には落雷から村井又兵衛の家が全焼。村井又兵衛:1776-1827、別名村井長世、加賀八家村井氏で加賀藩年寄。 火事は恐ろしい。その間も京都加賀藩屋敷の勤務は1年位で次々交代する。御留主居の就任には御出迎えをしている。養母の病気で帰国する武士もいる。参考資料:金沢市立玉川図書館近世資料館「金沢の火事と加賀鳶職」。

●#147. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その四 紫野芳春院昭堂再建 加賀表御武家十七名御登り
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の四である。大徳寺の塔頭、芳春院の照堂(昭堂)再建。芳春院は1608年加賀藩の祖前田利家の夫人まつが建立、まつの法号芳春院よりの命名で以後加賀前田家の菩提所。芳春院昭堂:芳春院内にある二重楼閣で1617年第2代藩主前田利常の親友小堀遠州による創建だが1796年焼失した、現建物の再建は1798年、1804年または1815年などとされ明確でない。洒落た堂で金閣、銀閣、飛雲閣と並び京の四閣の1つで別名は呑湖閣。この私の文書は昭堂(照堂)が1815年4月より9月の5ヶ月間で再建されたことを明確に示す、つまり露盤宝珠銘から1815年の再建としたWikiの記載を支持する。露盤宝珠:建物の天辺の宝珠(写真)。加賀からは作事奉行小堀牛右衛門が派遣された。小堀牛右衛門:小堀遠州公の孫小堀新十郎が加賀藩第2代藩主前田利常に召し抱えられて以来子孫は小堀牛右衛門と名乗る。つまり1617年昭堂を建立した小堀遠州の子孫小堀牛右衛門が200年後の1815年昭堂の再建を指揮した、すごいね。牛右衛門の宿泊場所は大徳寺の末寺、大源庵、廃寺になり今はないが大徳寺の北の北山通付近である。侍は牛右衛門の外16名の加賀の侍が再建を指導した、記載の与力、大工頭、御目付とその家来である、侍達の宿泊は大徳寺塔頭雲林院と大徳寺表門前の宿、紫竹街道の宿である。別に加賀の大工棟梁が4名で内1名は病気で帰国した、大工棟梁の宿は大徳寺裏門前である。「御大工」とは大工棟梁の前に書かれ、家来が2名おり武士のようだ。手足となる手下の大工達は京都で雇い記載されていないのだと思う。なおここに記された小堀牛右衛門と同姓の「小堀中務」とは小堀正徳(?-1826:600石旗本)で1680年以後代々京都代官(京都所司代支配下)として禁裏の作事を担った小堀仁右衛門家の当主、祖先は小堀遠州の異母弟の仁右衛門正春(政春)である。書いた作兵衛はその事情は知らなかっただろう。さて最後に作兵衛7代目の養子正助が誓詞と血判をした事とこの時御留書より100年前の享保元年に作兵衛の先祖が書いた誓詞があることを記す。さらに作兵衛の復帰でお世話になった御奉行役水野源兵衛様が江戸出身としていたが間違いであったため問題となり謹慎の上帰国されたと述べている。不時: 思いがけない時。忌服:きぶく、親族の死亡で喪に服する事。なおこの文書の連続より記載の亥年は1815年=文化12年に間違いない。

●#146. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その三 江戸直便飛脚と日用御用は難有仕合、三度飛脚は御断
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の三である。正助は作兵衛の養子で8代目。壱で1814年(文化11年)4月江戸直便飛脚が御国飛脚仲使所担当、日用御用は北国屋源兵衛担当となり任から外れたことを記したが、ここで1815年(文化12年)4月に江戸直便飛脚と日用御用の両方の御用に復帰したときの状況を記す。加賀藩邸の武士に千丸屋には公用の御用、三度飛脚を勤めさせようとの強い意向があった、これにはおそらく幕府の意思もあった。三度飛脚:大坂、京都、江戸の間に公用の一般の手紙の飛脚を毎月3度送った、担当の飛脚問屋は京都に10数軒あった。一方「三度飛脚」は荷物量が多くなり混雑して配達が遅延する問題があった。三度飛脚は官営で定価であり利益が低く希望する飛脚問屋は少なかったようだ。千丸屋作兵衛は1年後には元の江戸直便飛脚と日用御用に戻ることが前以て文書で約束されていただろう、壱の文書には「日用御用に何等の不調法も無かったこと」も述べられている。三度飛脚は江戸直便飛脚とは違って千丸屋の希望する仕事ではなかったので強硬に断っている。江戸直便飛脚は京都加賀藩屋敷から江戸方面(藩屋敷や幕府)への直便であり、いわば私営の飛脚便。御国飛脚仲使、森屋半兵衛は千丸屋の復帰する日用御用の仕事を受注するつもりで上京していたようだ、当惑している。この人は1年間京都加賀藩屋敷からの江戸直便飛脚を千丸屋の代りに担当した人である。御国飛脚仲使とは文字通り加賀国からの各地への飛脚を担当した人々であろう、この森屋半兵衛は加賀と京都方面の間の飛脚の担当だろう。最終的に千丸屋作兵衛と正助の要望は叶った。最後に御世話になった役人名を書いているが、京都加賀藩邸の中だけでなく加賀国表の役人の協力があったことを記す。もちろん酒宴、酒肴の進上などが必要だった。三度飛脚につき何度も役人から説得とおどしを受けるが、最後まで断るくだりは迫力である。恐々:恐れ恐れ。一入:ひとしお。扣:控え。身悦:我が身の喜び。低:てい、体。抔:など。叮:何度も問い詰める。何角:なにかと、あれこれ。頭取:一般に年寄のこと、小竹次右衛門は京都加賀藩邸で地位は最上位ではないが最高齢なのだろう。北源殿:1年間千丸屋作兵衛の代りに日用御用を受け持った北国屋源兵衛のこと。ここでは江戸時代の飛脚制度につき勉強になった。

●#145. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その弐 御留守居役は最上の御奉行様にて御座候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の弐である。交際の重要な人物、御留守居役2名が最上方、御横目附1名、御算用方2名、御留書方1名、外足軽、小使衆からなる。記載の如く役職は大方1-2年で交代して行く。知行取:家臣が藩主から知行地を充てられ管理できる役。御馬持=自家用車持できるのは450石取以上の武士のようだ。病気で御暇願いを出して、帰国する侍も記載あり。また御内室の病気のために帰国もある。そして京都加賀藩屋敷で死亡した侍もあった。この時代は結核、コレラ、麻疹、疱瘡など慢性から急性の様々な病気が多くあった。横山監物(けんもつ)という加賀八家の家老が叙勲を受けた。名前を「物監」と記すが誤記と思う。代役の小将=小姓が上京するが宿泊の十一屋源兵衛旅宿は場所が木屋町二条下ルで京都加賀藩邸に極めて近いと判る。十一屋は「といちや」と読むだろう。小将は伝奏役の山科氏という公卿に参内する。10日在京で帰国した。御留書方1名では多忙にて2名に増員された。最後に1814年(文化11年)4月江戸直便飛脚が御国町飛脚仲使所担当に日用御用は北国屋源兵衛担当となり任から外れたことを記す。そのため御留守居役が交代で就任しても御挨拶ができなかったようだ。文化文政期の京都の藩屋敷の様々なことがよくわかる。扣:控え。

●#144. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その壱 作兵衛の先祖は加賀の仁、高瀬に百年仕申候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録である。まず作兵衛の出自など子孫へ伝えるべき序文で興味深い。記述はかなり正確である。先祖は加賀の産である。万治年(1658年頃)から京都加賀藩邸に仕えた可能性もあるが、確実なのは1698年(元禄11年)前田綱紀第5代加賀藩主の6女直姫が京都の二条家(二条吉忠:公卿)に嫁いだ時に4代目作兵衛が姫のお供で上京したことである。以後江戸直便飛脚、地廻り、日用御用を京都加賀藩邸より受けている。繁盛し一家を持ったが1737年二条吉忠の死去以後仕事が減って借家になった。1788年天明の大火で家財、帳面は焼失。6代作兵衛は末子ながら名跡を継ぎ倹約し住宅は借家だった。しかし名跡を継ぐ者なく、当7代作兵衛が養子で相続した。号は千丸屋。1807年公卿の鷹司家姫君夙姫が前田斉広加賀11代藩主に輿入になり御用繁多にて繁盛し小さな我家が建った。だが1814年5月より1815年4月の間は江戸直便飛脚が御国飛脚仲使所持となり日用御用は北国屋持となった。その後はお許しですべて受持ちに戻った。無調法なく、油断しないことが肝要。勤めには誓紙に書判、血判することが大切で屋敷には享保の時よりの誓紙がある。我7代作兵衛の子供は幼少にて正助という者が養子となる。そして1814年(2年前)正助が誓紙を出した。最後に京都加賀屋敷詰の方、国表(加賀国)の方で懇ろにすべき方へは附け届け、お手紙を欠かさないように。年寄:年より、よくみる当て字。御咎:おとがめ。都て:すべて。言伝:ことずて。扣:ひかえ。捧:ささげる。懇ろに:ねんごろに、親しく。于時:「ときに」と読む、現在の意味。于:う、at。干:「ほす」ではない。横目:監視する役。京都加賀藩邸は江戸初期高瀬川沿に作られ1788年の天明大火で焼失、その後再築された。高瀬御小屋とも呼ばれたようだ。参考論文:千葉拓真氏「近世後期の加賀藩前田家と摂家」。

●#143. 伊勢講御当番 如何敷候得共御懐中矢立進上
これは手紙例文集からの文でAとBは違うもの。Aの文は単語が面白いが後が切れているので別の参宮の文Bと組み合わせた。「今度伊勢講の当番で伊勢に近々御出発とのこと。太儀ながら弥々登られるので、如何しきものですが、懐中矢立と三尺手拭。粗品ながら進上します。御餞別の印です」。伊勢講:伊勢神宮の参詣を目的に集った村の講、参詣の費用を各講員で積立て、年の当番の者が伊勢に行く。太儀:重大なこと、転じてやっかいなこと。如何敷:いかがわしく、いかがかと思われる。ここでは進上品の謙譲語。懐中矢立=矢立:筆と墨を持ち運ぶ文具で旅先で使用した。筒は筆、丸い所(写真では瓢箪)は墨に浸した綿がある。三尺手拭:長さ91cmのてぬぐい。麁品:粗い品、謙譲語。餞別:せんべつ、旅行前の人に贈る品。

●#142. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その三
出羽国慈恩寺最上院の僧が弘化3年=1846年頃に書き留めた女房言葉。やき飯は「おしなめし」。おしな:押し菜、大根の間引き菜の糠漬。おしなめし:押菜飯、おしなと飯をまぜて焼いたもの。よめかはけが「よめな」。女房言葉の嫁菜のほうが一般的、よめがはぎは別名。嫁菜は野菊で食用になり「よめなめし」(嫁菜飯、嫁菜と飯を混ぜたもの)もある。写真では春菊と小松菜の中間のような葉である。のりは「のもじ」。のもじは糊である。海苔は京でも単に「のり」。ほしなは「ひば」。ほしな、干し菜の類語は「ひば、干葉」とある。おそらく菜の葉に塩をして(青菜に塩)干して揉んで飯のふりかけにする。大こんは「からもの」。大根は「辛物」で今より辛かったようだ、女房言葉で「おからもの」や「おだい」とも言ったようだ。大根をおろしてそのまま食べると辛いのがあるね。べには「おいろ」。おいろは御色で紅のこととある。歌かるたは「ついまつ」。ついまつは続松で「たいまつ」である。斎宮の上の句に在原業平がたいまつの消し炭で下の句を書いたという伊勢物語の故事がある。これから歌かるたをついまつと呼ぶようになった。以上は「古語辞典:小学館」の記載。これは奥深い語だね。すり木は「こがらし」。すりきはすりこぎのこと。こがらしは木枯しで初冬に吹く冷たい風、こがらしは女房詞ですりこぎのこと(一説にその音からの称)。以上は「広辞苑」の記載。これもなかなか奥深い。しやくしは「しやもじ」。杓子はしゃくしでしゃもじ(杓文字)のこと。今はしゃもじは一般的な語。おひは「おもじ」。おひはおび、帯で女房言葉はおもじ。多くの女房言葉が標準語になっているね。

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●#141. 御入船途切物気配克 御入船在之物嵩少々行当り気味
北風荘左衛門さんよりおそらく増田又右衛門への手紙。「冷気の節です。益々御安康御目出度いです。さて大坂米先成書状後値段は直り、昨日は左のようです。右の相庭も私が成した先の書状後に入船が途切れのものでは(値段の)気配がよろしい。この後新報が入るまでこの模様です。花が面白く高下しないかと思っています。肥やしものは先の書状後も絶えずよいです。入船のあった物品はやや行き渡って余り気味です。現状の外は見違いありえます。次に変化した時1便を差上げます」。爰元:ここもと、わたし。相庭:相場。克:よく。肥やし:干し鰯、干し鰊など、#136参照。不絶:たえず。加賀の北前船主人の増田家は大坂表の値段を常に注目していたことがよくわかる。印と名前の「北風荘左衛門」は迫力あるね。

●#140. 新春之御慶重畳目出度申納候 御越歳珍重御儀
田嶋景之進から慈心院への手紙。「新春のお喜び大変お目出度いことです。弥々御壮健に越年で珍重奉ります。私も無異に加年にて御安心下さい。今は兵衛殿も登山中なので御祝詞申上ます。尚後日お会いできる時を期待します」。重畳:重ねて。貴慮:あなたの思い。易:やすく。慈心院は京都市伏見区の醍醐寺である。醍醐寺には三宝院などのある下醍醐と上醍醐とがある。慈心院のあった上醍醐は標高450mの醍醐山頂付近にあり、まさに「登山」である、国宝の薬師堂、清瀧権現拝殿、五大堂などが立ち並び、近くで「醍醐水」が今も湧き出る。「上醍醐寺慈心院」と文書にあり、上醍醐の実務の所だったようだ。江戸時代ここには寺社奉行の武士が駐在していた。内容は典型的な新年の挨拶の手紙であり、他の文書より1750年頃の文書である。

●#139. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その弐
出羽国慈恩寺最上院の僧が弘化3年=1846年頃に書き留めた女房言葉「御所大和言葉」。なすびは「なす」。だんごは女房言葉「いしいし」。いしは「おいしい」意味と広辞苑、古語辞典にある。赤飯は「こはぐこ」、現代も赤飯をおこわと言う。めしの女房言葉「ぐご(供御)」。ちまきは「まき」。ちまき(茅巻)の女房言葉はまき(巻き)と広辞苑。しんこ(新粉)の細工でねじったものをしんこまたはしんこ餅というが、やや長くねじったお菓子のことを女房言葉で「しらいと」、現代でも白糸餅という。しんこは現代の上新粉で米を粉末に挽いたもの。糝粉(しんこ)と書く。「糝」とは米の粉に水を加え煮立てたもの(雑炊)。とふまはとうふのことで女房言葉「おかべ」。おかべは御壁と広辞苑。とうふ(豆腐)は白壁に似ている。でんかくは「おでん」。田楽(でんがく)とは豆腐を縦長に切って串刺にし味噌をつけて火にあぶったものと古語辞典。今はおでんは一般語。ぼた餅は「やわやわ」。やわやわは柔柔である(広辞苑)。

●#138. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その壱
出羽国慈恩寺最上院の僧が弘化3年=1846年頃に書き留めた女房言葉「御所大和言葉」。記述は正確で現代でもほぼ追跡できた。小袖の「ごふく(御服)」は「おめし」とも言われる。御服は元は天皇の衣装をいった。わだ=わた、綿で「おなか」。おなかは御中と広辞苑。布団などの中に入れたから。「よるのもの」は夜着。どんすかやは「どんちょう:緞帳」、厚い織物の帳(とばり)。「にゃく」は蒟蒻(こんにゃく)。とふまかすはとうふを作った後のかすで「おから」のこと。ここの「おかべから」は「おから」に同じ。とうふは「おかべ(御壁)」。ゆのこは湯の子で茶の湯で懐石の終わりに出す釜底の焦げ飯を粥にしたもの、女房言葉で「おゆのした」。しょうゆの女房言葉「おしたち」は「御下地」である、現代のおひたしに名が残る、ゆで青菜に醬油とかつ節をかけたもの。広辞苑「下地:したじ、だし汁で特にしょうゆ」。

●#137. 左八郎六三郎文四郎永井姓にて彦兵衛白井姓
名主井深六三郎さんより児島弥四郎さんへの手紙。「先日の御手紙拝誦しました。東組は1姓にて1人ですが、別枠分を頂戴した者は別格です。よって左八郎、六三郎、文四郎は永井姓、彦兵衛は白井姓、又兵衛倅秋右衛門の五人は16日の出会に出ます。そちらの組はいかがかと御相談申上ます。決まりましたらこの者に仰ってください」。姓=苗字をすべての国民が持つことになった時に庄屋が別庄屋にあてた手紙である。ここで原則1人1姓とされていたことがわかる。貴人などから姓を賜った者は「升様」と別枠としたようだ。この平民苗字必称義務令は明治8年=1875年に出された。なお井深六三郎は大野郡更地村(岐阜県)の庄屋で1863年の文書が岐阜県歴史資料館にある。幕末から明治に生きた人である。この更地村は美濃大垣藩領である。

●#136. 肥しもの頓と引立不申大いに心痛
通力丸幸作より御主君様、増田又右衛門への手紙。「余寒強いですが御主君様始め皆様お揃で益々御安静おめでたいです。私は帰国する心積りですが不快(病気)で薬用しております。御容赦下さい。通力丸(船)も外廻りは終わり、内廻りに入りました。大阪港は大工賃が上がり皆大阪へ出てここは大工不足になり未だ船の修繕が済まず当惑です。大阪表などもむしろO(豊作)で肥やし物がとんと引き立ちません。商品の相場はこの如くです。粕は得は65銭位ですので御承知ください」。壱応:いちおう。一入:ひとしお、いっそう。心痛:こころ痛い。加賀の北前船通力丸が大阪に着いて兵庫あたりにいるようだ。船大工による船の修繕は大切であった。加賀から大阪へは外廻り、大阪から加賀へは内廻りとよぶ事がわかる。酒粕は灘や伏見の酒造からの仕入れだろう。この値段に65銭足して売るようだ。明治初期の頃である。肥やしは干し鰯、干し鰊が有名だが、ここのはへ乾は川魚のはえだろう。

●#135. 御達之趣事済大慶 案文之通調印出来候
東月院より如意輪寺への手紙。「御手紙拝見しました。おっしゃるように寒冷の季節です。いよいよ御安泰で御目出度いことです。さて先にあった御達しのことは済まして大慶です。案文の通りに調印してできあがり、証文をこちらに遣され、確かに入手しました。ここにより御手紙に返事までこの如くです。追伸:なによりの一品贈られかたじけないことです。お会いして御礼申述べます」。調印:双方の代表が署名して印を押すこと。落手:入手。因茲:これによりて。慥に:たしかに。東月院は浄土宗で名古屋市千種区、如意輪寺は真言宗で愛知県知多郡南知多町の寺と思う。内容はおそらく寺社奉行から「お達し」が下ってきて、寺側が証文を作り寺々で調印のため証文を廻しているのだろう。最後の4行の下の文字が韻のように同じ形で面白い。

●#134. 厚紙壱束銀三拾六匁五分に御座候
美濃大垣五蔵屋嘉助さんの紙の販売の覚、相手は中村文平。時は未年の極月=12月。年末に1年分の販売の請求である。様々な種類の商品があり、大手紙、薄紙、半紙、切手、中紙、厚紙、白手切、水引、のし紙。商品は安いものは銭(文)で高いものは銀(匁)で表示。支払いは金1両2分(1.5両)で全額ではない。両替は計算すると1両は銀51匁である。よってこれは江戸時代でも1800年より以前のようだ。また銀1匁は銭60-80文である。

●#133. 在人別出離之宗旨之義 写し取置可被申候
寺社奉行より村々の庄屋への達し書。「別紙のように人が村から出るに付、(寺社奉行より)宗旨のことを披露するので村へ写して取り置きするように。村の在人が村を出るのは御定めがあり、容易ではないことは心得るように。たとえ8歳未満で寺の宗旨に判がない者でもその村の人別に違いない。宗判がない幼年の内に町方へ養子に遣わす時は人別上は村から離れ出てないのだが、違所へ越え出た者である」。頃日:このごろ。8歳未満の幼年で養子に出た者は元の村ではどうしたのだろうか?おそらく村の庄屋に取り置く宗門改帳の写しに記載するのだろう、だからここで村に写しを取り置きするように命じた。8歳で宗門改帳に記帳するのは一般的であったようだ、松浦昭氏「支配形態と宗門改帳記載」”和歌山藩では8歳になって初めて宗門改帳に登録した”。宗門改:1670年頃より本格的に実施された、民衆は所属の旦那寺から宗判を受けた、結婚や養子で他所に住む時は寺が宗旨送り一札を出す。#90に宗旨送りの掲載あり。

●#132. 相場村之分計上四五分迄受取申候
米屋禄元より須田七之助への手紙。「秋冷深く成ました。弥々御壮栄で大変御目出度いです。現今相場村の分計上し先の金はは4-5分までに受取ました。此者へ思召下さい。私が参上する筈の所、私に用事が少々あって遣わして申上ます」。不斜:ななめならず、たいへん。須田七之助は武士でおそらく村から年貢米や銀の取立てを行う役。村からの残金が4-5分になる迄に米屋禄元が人に依頼して徴収したようだ。分:10分の1を意味する。この手紙の持参者は徴収した人らしい。

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●#131. 壱枚にても御出来之程奉願 年越兼申候
高松大三郎さんより明塚清右衛門さんへの手紙。「あなたの手紙拝見しました。出来ないとのこと。仰付の御用が多い中恐入ますが、当惑で心痛しました。この事を工夫して1枚でもできるようにお願いします。できなければ私は年越しかねます。是非1枚できるように御願します。私も出向いて御願すべきの所が多用で出来ず、手紙で御願します。29日に人を差し向けます。幾重にも工夫御願します」。両者とも武士である。「貴札被下拝見仕候」や「人を指し遣わす」また「はじめの時候や健康の挨拶がない」ので高松のほうが地位はやや上のようだ。「1枚にても出来」は何だろうか?絵画か書ではないだろうか?小判借用ではないと思う。

●#130. 桧三間丸太與鳥居様弐本 大急ぎ御積登し被下度候
熊野屋三郎兵衛さんから材木商長嶋屋治兵衛への手紙。「向寒の節ですが、益々御安康で御目出たいことです。この間はたいそうにねぎをたくさん送っていただき忝です。御内室様にお礼を申上てください。さて今淀より船便6箇積み入れました。着きましたら京都へ積み登しください。桧4間(7.2m)大丸太1本は御地に預けです、京都よりの連絡後に積み登しください。鳥居様へ2本と1471番桧3間(5.4m)丸太六月ものは大急ぎで積み登しください。それ以外の桧(2本)も急ぎ京都へ積み登しください」。桧を淀港から伏見港さらに東高瀬川と堀で長嶋屋へ運ぶ連絡である。この後さらに東高瀬川から京都木屋町へと桧は運ばれる。弥敷:いやしく、いよいよ、たいそうに。弥:いよいよ、たいそう。祢義:「ねぎ」のことと思う。

●#129. 苧類案外高値 作事船数多に大金入用当惑
末広丸又兵衛から御隠居などへの手紙。御隠居は増田又右衛門と思う。「苧類案外高値で困ります。私共の仕事もとても千両や千五百両では出来ず、大金が入用で当惑しています。特に今年は新造の船や作事船が数多あり大工が不足。私達の船も修繕が来年4月まで掛かるかということです。早く船を登らせ仕事に取り掛かれるようにしたいです。以上皆様にお伝えください」。苧:からむし、苧麻。迚:とても。作事:仕事。数多:あまた。ライバルの船が多いことや船大工が不足していることから、幕末の北前船の全盛期と思われる。苧の生産地の越後、出羽の最上川あたりに末広丸はいるようだ。これから加賀に戻り大坂方面へ登るようだ。字は丁寧な達筆で読みやすい。

●#128. 拾三両三本積入 御改請取可被下候
徳七さんから伏見の材木商長嶋屋治兵衛への手紙。「寒気の節ですが益々御安康なされてよいです。さてこの間OO様の分を積出しました。そちらに着いたら宜敷請取ください。また送り状の外に13両のを3本積み込んでいます。送り状に記載ありませんが、御改の上請取ください。御面倒ですが3本手抜はありませんので御記入ください。ロ印3本、392番、393番、394番」。おそらく3本13両の木は桧だろう。手紙は屏風の裏張を剥したものなので中央が切れている。

●#127. 御仲間衆中右之商い仕候 池甚弐百九拾九匁
京都伏見堀詰町の材木問屋、長嶋屋治兵衛が山元の御仲間衆へ京都の各材木商からの注文金額を書いた覚。単位は銀である。木は印より樫などで必要な材木の太さや長さは材木商の名前で決まっているので記載はない。下に伏見、京都の材木の流通を記載した。この覚は注文Aに相当する。

●#126. 愚妾様明日芝居見物 貴家御内君御同伴御誘
杉之堂から守平有大君への手紙。「ようやく快晴です。妾様が明日は芝居見物に行きたいようで、御内君様外出できるようでしたら御同伴していただけたらとちょっとお誘いしました」。漸:ようやく。御内君:奥様。鳥渡:ちょっと。明治時代はお妾(めかけ)さんと呼んでいた時代である。

●#125. 増寿丸作事相済下り物積入候 当年高値に困入申候
増寿丸佐平さんより増田御内室への手紙。「緒は弥生の時節です。御家内様御機嫌よく御目出度いことです。私共も無事ですので御安心ください。増寿丸は仕事も済み下りの荷物を少々積み入れました。4月3日出帆です。山エ印の舟では皆病気になり戻りました。早速養生されます。次に山一印には火の用心を申付ました。御見舞かたがた以上です。今の相場は左の如くです。今年は大高値になり困り入ました」。御内室:おかみさん。弥生:4月。緒は:手紙の始まりに。御類方:同類の方々。四敷:よろしく。当時:現在。さとは砂糖と思う。回大刻棉は不明、単位が重いので割木のようなものかもしれない、12貫目=45kgで18円余の品物。おそらく佐平が居るのは大坂近辺の上方でそこの相場を知らせた。これから下り加賀橋立の増田本家へ向かう。下り物は大坂付近で仕入れる生活品で高値だと加賀や東北、北海道で売れないので困るだろう。逆に鰊、昆布などの海産物は北海道からの上り物で高値は大歓迎であった(#119の記載)。時は明治に入った頃。

●#124. 御願申上置候米 今日此ものえ御渡し可被下候 Please hand over a pack of the rice grains to this man. I will pay for it at your shop four or five days later.
因和さんから宮本屋への手紙。「入梅の季節です。皆様益々御安全で奉賀します。先に御頼して置いた米を今日この者へお渡し下さい。代金は4-5日中に私が参り清算します。その様に御承知下さい。文略御免ください」。

●#123. 先日廿貫計御残之荷 御帳合御印替可被下候 Please carry back 75kg of the timber woods which I sent you.
「御安清で御目出度いことです。木組ができたので少しでも御登りください。先日20貫(75kg)ばかりあなたが残されたものを荷持の人が向かいの土屋方へ置いています。私の送りです。御帳合し御印をください。間違いがあると気の毒です。少しでも出来たものはお越しのうえ納めて下さい」。おそらく相手が注文していた木組ができたので送ったが、相手が20貫残しているので荷持の人が向かいの家へ置いている。帳合して納めてほしいとの手紙である。材木屋か船主への手紙。書いた人は勿論男性だが手紙に比較的かなをよく使う人である。貫が「メ」、は(盤)が「る」に似る。手紙の始まり部分が少し切れている。

●#122. 上円苫百枚三拾五匁 金弐歩に羽銀弐匁五分慥に受取 A hundred of the straw mats costs you 131g of silver.
加賀橋立の酒屋小三兵衛が大家屋又四郎に出した覚書。上の丸い苫100枚で35匁である。両替は1両が銀65匁なので嘉永5年(1852)より前の頃のものである。「羽銀」とは金で支払った後の残りの支払いの銀のことである。苫は菅や茅を粗く編んだ筵で北前船の商品の1つであった。#76に苫の販売の覚、#115に筵の運送がある。

栞120 

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●#121. 芳札致薫誦候 暑中為御見舞御儀忝存候 Thank you so much for your gift at the midsummer.
越後守からの手紙。「あなたの芳札を薫の中で読みました。甚暑い時御堅固にお凌ぎ成され御目出度いことです。暑中御見舞を為され、入念なことでかたじけない。また対面の時を期待しています」。芳札:ほうさつ、あなたの手紙、尊敬語。薫誦:くんしょう、手紙の香の中で読むの意味だが、「芳札致薫誦候」は定型句である。誦:読む。谷越後守は別名谷時亮である。この人の娘は伊丹久子(1829-1918)という男爵夫人。従って谷時亮は1800年頃の生まれで幕末頃の武士である。進藤加賀守は平安人物誌(1852年)に和歌で掲載、藤原為周の別名である。他の人も官位があり、京都近辺の武士や公家ではないか。手紙は丁寧に書かれており相手はかなりの富裕な商人ではないかと思う。身分の随分下の武士が相手なら挨拶は略式で字は極端に大きな字や小さい字で書くようになる。

●#120. 今日御暇出御帰郷 目出度存候 It is a good news that you come back to the hometown today after the firm work.
古い短い手紙文を筆写し保存したもの。「御手紙開き見ました。かつ巻物の事は承知です。貴殿の御考えをしっかりと頼んでみます。少しの間も急ぐことです」。披見:開いて見る。了簡:りょうけん、考え。片時:短時間。「書道に長年御執心と感じ入ります。秘蔵のこの本を送りお目に懸ます。早々不備」。入木道:じゅぼくどう、書道のこと。王羲之が木に書いたら筆力が強く墨が三分(0.91cm)に達した、「入木三分」は強い筆力。執心:心が引かれる。年来:長年。さし(差)越す:送りよこす。不備:手紙の最後の語。「長年首尾よくつまやかに勤め今日御いとまで出られ帰郷とのことおめでたいことに存じます」。約:つまやか、勤務を細かく行うことでよい意味である。御暇:おいとま。

●#119. 鯡類高値喜悦罷在 久遠より江差迄新網立ち I feel so happy to hear that the price of herrings rose so much.
若山久兵衛さんよりおそらく増田又右衛門さんへの手紙。「向寒の時御尊家様御一同様御清栄にて御目出度いことです。当方も一同無事です。此頃は御窺いもせず申訳ありません。乗船の皆様も無事に大坂に登られ、また鯡が高値で喜悦しています。鯡取が流行し、来年は久遠から江差まで新網が50も立ち、当地鯡取雇い人も60円よりと前代未聞です。来年はどうか貴下も御下り下さい。寒いときは御達者にお過し下さい」。鯡:にしん。茲:ここ。久遠:くどう村、えぞ地の地名。御鶴声:鶴の一声。何連:いずれ。北前船の主力商品の鰊は高値で喜ばしい。加賀から北海道行きは「下る」で大坂行きは「登る」である。

●#118. 鳥渡申上候四本物四寸角に相成不申候 I will send you seven oak timbers. The price is 188g of silver.
吉次さんより長嶋屋治兵衛(長治)さんへの手紙。樫の木材を売る覚。「5尺丸太を4本、1本4匁。5尺丸太を2本、1本7匁。1間の角材2本、1本10匁。ちょっと申上ますが、4本のは4寸角にはなりません。2本物と角2本は切ってあるものです。値段は替えています。右の通にお願いします」。5尺=151cm、1間=182cm。4寸角(12.1cm)希望らしいが4本は細いのだろうか、できないらしい。よって単価もやや安い。合計50匁である。長嶋屋治兵衛は下にあるように京都伏見の材木商である。

●#117. 大同様之代呂物 値段何程も御買取可被下候哉 A timber merchant asks Jihei for the purchase price of cheap timbers.
高瀬近徳より長嶋屋治兵衛への手紙。「堺與殿のい印、ろ印は御支家様が買取と承知しました。大同様の代呂物は堺湊にありますが、値段どの位で御買取下さいますか。成丈け利口に買取しますので御返事下さい」。支家:貴家または支店。代呂物:商品で安物や疵物。成丈:なるべく。長嶋屋治兵衛さんの住所は京都の南の伏見でここは豊臣秀吉が作った京都の玄関であり、大坂とは淀川と宇治川で舟で結ばれていた。治兵衛さんの店は材木商人である。川を下ると堺港ともつながる。堀詰町は丹波橋町より少し上る堀添にありこの堀は宇治川に連絡する。

●#116. 江指表大出火蔵三つ落 松前烈風破船数多 There was a big fire in Esashi. Three warehouses were burned down.
寅寄丸の又助より増田祖父様への手紙。増田祖父は橋立の豪商増田又右衛門である。「寒冷の砌、皆様御揃で御壮健にて恐賀奉ます。私も船中無事で当所へ到着しました。御安心ください。さて御兄様早々に江指表を出立の筈でしたが、江指で大火事があり丸二印様の蔵3つ類焼で落ちました。気の毒千万です。兄様の銀子も延引でしたが、近日漸く発送です。御承引下さい。なお当月3-4日烈風で松前にて難船、破船多数。山ユ印様の船通保丸が破船で驚き、また気の毒です。それでも荷物半分ばかり取揚ましたが格別の損をされました。当方は災難がなく大慶でした」。倍:ますます。頃日:けいじつ、近頃。漸く:ようやく。延引:引き延ばし。数多:あまた、多数。乍去:さりながら。而已:のみ。江指:江差。格別:例外の。北前船での商売も大変である。江指で大火事で蔵の焼失、松前で烈風による船の破損。様々の危険があっても各湊での仕入れと販売で商売が成り立っていた時代であった。#85に「けんのんな(危うい)ものは箱館の用立に松前行の早出帆」。明治中期には鉄道の発達などで北前船は150年の歴史を閉じることになる。

●#115. 松前表出帆仕候 筵包四箇安宅米屋殿え差送 We are shipping the straw mats from Matsumae to Ataka, Kaga.
北前船朝日丸の船主より橋立の増田又右衛門への手紙。「冷気の砌。御尊家様益々御機嫌克くされ恐悦です。私共舟中も別条無く松前を出港し、当地に着きましたのでご安心ください。増田又左衛門様買付け筵包4個安宅米屋弥三兵衛殿へ差送中です。また樽2つ別家又三郎様の分も差送り中です。これら御承引ください」。克:よく。朝日丸は増田又右衛門配下に違いない。増田又左衛門や増田又三郎は別家で支店である。米屋弥三兵衛の加賀国能美郡安宅村(現石川県小松市安宅町)は橋立村に極めて近い。ここも安宅湊で港である。このような手紙は他にもみられ、北前船の親方は強い力を持っていたことがわかる。#76に朝日丸与市が苫の筵を購入した覚がある。よってここの手紙は最後が切れているが与市が出したものと思う。

●#114. 来四月朔日江戸詰被仰付 有難仕合奉存候 It was ordered that you should work at Edo from coming April. Congratulations!
富永吉次郎さんから明塚半蔵さんへの手紙。武士の手紙である。「秋冷の砌です。御安康に御勤め目出度ことです。当月(9月)11日御書面で来る4月朔日より江戸詰め仰付られたこと有難い幸せと存じます。拙者は無事です。御安心ください。吹聴の時御見舞いかたがた愚札はこの如くです」。吹聴:ふいちょう、言葉が多く聴かれる。九月のこの季節は来年からの勤務が噂される時のようだ。明塚半蔵が来年4月より江戸の藩屋敷に勤務と命じられたことは幸せなことだったようだ。江戸は都会で華やかであり興味の対象も多いから、現在と同じ様だね。右端の「猶々」以下は追伸だが、未解読。専要:最も大事。手紙の字は読み易く丁寧な好感の持てる手紙である。時候挨拶も丁寧で脇付は貴下なので同僚への手紙であろう。 This letter was sent from a samurai to a samurai friend. Because Edo was a city, there heve been a lot of interesting stuffs.

●#113. 丹波屋手代惣治郎 諸事取計正月より桂材木屋御仲間へ A timber merchant, Sojiro will leave us and will join your shop stuff after four months later.
丁酉=1837年=天保8年9月、惣治郎さんが丹波屋手代を退き、天保9年正月より桂材木店で働くに付書かれた一札。丹波屋店主惣兵衛と庄屋が差し出す証文(A)と丹波屋手代惣治郎の文章(B)と2つあり。(A)の引受人に「丹波屋惣兵衛様」と様があり、筆跡は同じでおそらく京都市右京区京北辻町(辻村)の庄屋寛兵衛の書いたもの。惣治郎が12月末までに丹波屋での諸事を片付けてから勝手(暮らし向き)にて正月より桂材木屋で働くことを桂材木屋御仲間衆に約束する一札を書いた。3ヶ月余の間桂材木屋御仲間衆は入魂(好意)で待ってくれる。是迄:これまで。暇遣し:暇つかわし。此侭:このまま。入魂:じっこん、好意。勝手:暮らし向き。急度:きっと。手代:頭のための実務役。

●#112. 御たつねあらまほしく候 I hope you to come soon because I am ill today.
短い手紙文を筆写し保存したものである。女性から「久々病気で蟄居しており、心引かれるので御訪ねがあって欲しい」。男性の返事「この度はお見舞いしない考えでして外に差上げる事柄もありません。さて御懐へ戻す手紙を今書き終えました。以上」。不快:病気。蟄居:室内にこもっていること。床しい:ゆかしい、心引かれる。一くれ:ひとくれ、ひとつ。あらまほしい:あってほしい。為差:さしなす。所存:考え。子細:くわしい事柄。平安時代の女性らしい手紙である。

栞110 

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●#111. 北前船荷物味噌七拾貫百 弐百六拾九匁六分也 An invoice of miso, ropes, woods and wages of the sailors.
津軽青森の藤林源右衛門さんから加賀橋立の増田六三郎さんへの費用の覚である。水主:かこ、船の乗員、船乗り。賄料:船乗りの食事代。御役方:青森港を管轄する役人(武士)。増田家は幕末から明治中期に活躍した加賀橋立(現石川県)の北前船の船主で豪商。青森港では味噌を大量に仕入れて日本海を大坂に上るようだ。縄、割木は北前船には不可欠のものであった。水夫は松前か箱館から青森までの船員で青森付近在住の者だろう。計算は正確である。印の屋号「父二」は藤林のふじである。源右衛門さんの「四」はくるくると丸めたユニークな面白いものであり、この人の「五」とは区別できるが、一般の「五」と紛らわしい。両替は金1両=銀104匁で幕末から明治に入る頃である。#101、#94、#69、#55に北前船関連文書がある。

●#110. 先日粗御物語候茶入墨跡之懸物 御才覚資入候 I would like to borrow a hanging scroll of a calligraphy.
短い手紙形式の武家の文章を筆写し保存したもの。下拙:自分、謙譲語。謡講:能楽の詞の朗読会。不得御意:貴下の御心を得ず。無異:異常なく。無音:連絡なし。御窺:おうかがい。才覚:入手。資入候:頼みいりそうろう。最後の文は前に「御安泰」、「御壮健」などがあるが欠けている。

●#109. 其御領所之留治と申者 当領分二口境と申所より相越儀死居候 A merchant was struck on the head after getting in Baba, Oou from Murayama, Dewa. He died after several hours.
幕末に近い時の、仙台伊達藩の奉行役人丹野利兵衛(茂永)から出羽国村山郡慈恩寺村(現寒河江市)最上院の寺役人への長い手紙である。「留治という慈恩寺村の住民が出羽と仙台藩領の境の二口境で雪原で死亡しているのが見つかった。調べるとその10日前に事件があった。留治は以前から商品を背負って伊達藩領に持ち運び販売する渡世である。二口境から15km東の馬場(現仙台市太白区秋保町大字馬場)に百姓の久吉の宅がある。事件の時は久吉は留守で女房のさきがいた。留治は止宿を頼んだのでさきが洗足桶を持参したが、直後久吉の手代の者が不義であるとして留治を取り押さえた。少しして久吉が戻り見咎めて割り木で留治の頭を打擲した。すぐに留治は逃げ出した。久吉は109mほど追い駆けたが見失った。留治の死骸を吟味したが着物1枚着るのみで外傷の跡は見られなかった。よって久吉が留治を殺した後で死骸をここに捨てた可能性はない。久吉の家から15km(24里)離れた二口境の雪原に来て倒死したのである。留治の兄の仁左衛門が来て説明を求めたので詳しく説明した。慈恩寺の役人(武士)の方々も特に苦情がなければ双方内分で久吉は我国(伊達領)の国法で処理します。留治の荷物は調べた後に置いてあるので受取人を呼ぶようにしたいのでこれで同意してください」。打擲:ちょうちゃく、なぐる。最上院は慈恩寺の中の三院の1つで役人(侍)が常駐し慈恩寺村(慈恩寺領)を支配していた。江戸時代は各藩の自治が原則で他藩の領民の取り込みや移動は禁止されていた。松平陸奥守は仙台藩主伊達氏でありこの時は第13代伊達慶邦であろう。松平陸奥守家内の丹野利兵衛は仙台藩の町奉行で仙台市若林区の皎林寺に墓がある、この時は仙台市馬場を管轄していたに違いない。さて江戸時代、頭部などに外傷がみられなかったので頭部打撲と死は無関係とするのも致し方ないが、現代の知識ではこれは頭部外傷による亜急性硬膜外血腫(又は亜急性硬膜下血腫)であろうと推測されるだろう。意識清明期は15km歩いているから数時間以上あったのでその時間をかけて頭蓋内で出血が大きくなり、脳ヘルニア(脳幹が下に強く押される)を起こして死亡したのである。頭蓋骨骨折も併発していた可能性は高い。10日後死体が見つかった時までに大方の着物は剝ぎ盗られたと思う。丹野利兵衛の字では「も」が独特である、英語の筆記体の"r"に似る。手紙の始まりの前1行が切れているが解読に支障はない。女房の名前は「さき」、「ふさ」と2つあるがどちらかが誤記である。なお丹野利兵衛には丹野茂永名で「旅のしぐれ」(東北大学図書館蔵)あり、1847年=弘化4年に命にて仙台を出発し、安積山、郡山、白川を経て日光道中を南下し、利根川を渡って松戸から我孫子、鹿島を通って、名取川を過ぎて帰郷した日記。この時の伊達藩主は第13代藩主伊達慶邦(よしくに:1825-1874)であり1841年に藩主になっている。丹野利兵衛はこの藩主に重用されていた。

●#108. 九拾六匁之油糟 御預り也 I will keep the oil cakes for a while.
水沢町の油屋芳賀長吉が次丸村伊東熊蔵から油糟96匁=360gを預かった記録である。この地域は「伊達桑」という桑の栽培と養蚕が盛んで肥料の油糟が使用された。岩手県江刺郡次丸村は仙台伊達藩領である、明治8年には玉里村になるので、それ以前の記録である。同じく仙台伊達藩領である岩手県水沢町とは近い。油糟はアブラナから油を搾り取った残渣である。それにしてもこの字は極端な右上がりで個性的、楷書に近い。印は「水沢大町油屋」と見える。 The oil cakes have been used for the fertilizer of mulberry trees.

●#107. 過日は御来駕忝候 他行折節之義鳥渡御尊来 I am sorry you came to my house during my absence. Please visit my house now.
短い手紙形式の武士の文章を筆写し保存したものである。来駕:来訪。折節:おりふし、その時(折)。鳥渡:ちょっと。尊朝:尊朝法親王の書式の御家流の書。掛物:掛軸。早速返上:早急に返却。羽織:着物の上に着る短い上着。致御資候:おたのみいたしそうろう。そんし候:存じ候。文章はやや古い言葉で1700年代中頃かそれ以前と思う。庭訓往来や大坂状のような現存の本からの文章ではないようだ。

●#106. 松兵衛殿取扱被下候上は毛頭故障之筋無御座候 I will not complain about anything related to Soemon and Ei. Mr. Matsubei takes care of them hereafter.
辰吉の元に勤めていた惣右衛門とゑひがこの度曲師町松兵衛のもとで面倒を見られることになり、辰吉が入れた一札。場所は宇都宮市の市街地の小伝馬町、曲師(まげし)町、百目鬼(どうめき)通りなので商店の人々に違いないと思う。商店の勤め先を変るとき元の雇い主の書式がわかる。他の文書より丁卯=1867年=慶応3年10月とみる。

●#105-II. 寺替に致様に色々言立淹立させり 凶作難渋弥増に相成百姓永続難仕候 Please command the farmers not to change the temple registry.
#105-I狩宿村の蓮乗寺の寺旦那が多く光明寺に寺替えした件。ここでは井坂皮田村惣代、庄屋、肝煎が直接村の奉行に訴える文書を提出。狩宿村と井坂皮田村で蓮乗寺での諸入用道具費用など仮藉して使用し凌いで来た。光明寺の旦家の者が寺替にするように色々言立淹立した。近年は凶作なので、狩宿村の者が多く蓮乗寺の寺旦を離れると諸入用の凌ぎが難しいので百姓の永続が困難となる。双方の村が立ち行くように御慈悲でなさって下さい。淹:いれる、茶を淹れる。言立淹立:いいたていれたて。藉:かす、貸す。仮藉:一時的貸借。おそらく役人は寺旦那に必要の費用など調べて村での経済がうまく行くように再び裁定するだろう。#105-Iの文章から狩宿村には以前光明寺の寺旦であった者がたくさんいるのでそれらの者の言分聴取も必要であろう。どちらにも正当な言い分がある、さあどうなるのだろうか?

●#105-I. 諌計勧め拾弐軒猥に寺替致し 千萬歎ケ敷奉存候 Several farmers recommended other farmers to change the temple registry from Renjoji to komyoji.
紀伊国那賀郡狩宿村の門徒が以前より光明寺と蓮乗寺との旦那の関係で出入があり揉めている。蓮乗寺から寺社奉行への願書である。寺社奉行が以前狩宿村の80軒の者に光明寺旦那から離れ、蓮乗寺門徒に命じた。しかしこの度光明寺の門徒が諫計を勧め12軒が光明寺に寺替した。宗旨送り一札は出して無いので相対的に寺替えにはなっていない。猥りに寺替えは御定法に洩れることで歎かわしいので寺替しない様仰付ください。寺旦:寺の旦那。往古:昔より今。諫計:咎めらるべき計画。戴許:許可いただく。不得止:やむをえず、止めず。断も無:ことわりも無く。歎ケ敷:嘆かわしき。此侭:このまま。糺:正す。相対:単独にでなく、他と関係づけて捉えること。恐不顧:恐をかえりみず。庄屋と肝煎も多くの檀家が離れると役回りなどより困るので最後に加判している。地図で見ると両寺は距離が近い。そして両方浄土真宗本願寺派である。狩宿村はその間にある。#105-IIでは村の惣代からの願書を掲載。「僧の作品」には浄土真宗本願寺派中興の僧、蓮如の名号を掲載。

●#104. 御境御名産鮎柿ゆす送り被下 千万忝 Thank you so much for giving ayus, kakis and yuzus as a gift.
鮎、柿、ゆずを送ってもらったことに対する礼状である。紀伊国那賀郡井坂村(現和歌山県紀の川市)の寺への手紙である。ゆず、鮎、柿は同地の名産である。手紙は誰かに遣して渡されたようだ。懇書:丁寧な手紙。慮外:無礼な。無御替り:お変わりなく。

●#103. 三十六歌仙一両日中 御拝借仕度奉願候
赤川茂吉より高橋専松へ「三十六歌仙」を拝借との手紙。「当日は佳い天気で悦びの席に伺いました。先日よりお願いしました三十六歌仙を二日間拝借どうかお願いします。すべては御礼に伺うつもりです」。三十六歌仙:平安時代の和歌の名人36名。ここでは悦びの席に伺った時高橋専松の家で飾ってあった屏風だろう。赤川茂吉家でお茶席などするので拝借したいようだ。且:かつ。懸御用:茶席などの掛軸などの用。

●#102. 利息十月十二日着に相済候様急々御願申候 Please pay the interest by the twelfth, October.
商人より武士へ利息払込みの依頼状である。「内々金子の義は御主様が御手紙通りに利息を渡してくださることになっているので、9月中に払済様に私がお伝えしています。それに相違う事(のお手紙)なので千治を遣わそうとした所、お出での上万事口頭にて言われました。私は迷惑しますから、急いで利足を払済くださる様に御世話お願いします。10月12日着に御済ください」。内々:内で、表立てず。「利息」は古文書は「利足」が多いがここは利息である。最後の「様」はわかりやすいが他は「候」に似た特異な形。武士からは利息の払いの延期を希望する手紙が出されて店に来て万事口頭で希望を言った。それに対し商人は前以っての約束は9月中に払込になっている。改めて10月12日までに払込お世話くださいとの依頼状である。

栞100 

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●#101. 太縄之壱貫は銀七分三厘にて御座候 This is a report of selling ropes to a ship owner.
京弥さんが大家屋又四郎さんに太縄と不明の商品を販売した覚である。2種の商品はどちらも1貫が0.73匁(銀7分3厘)であった。両替は金1両=銀64匁であった。大家屋は幕末から明治中期に活躍した加賀橋立(現石川県)の北前船の船主で豪商であった。印より京弥は兵庫津(現神戸の中心三宮より少し西)の商人。計算は正確である。加賀橋立の地理は#55に記載。

●#100. 山村信濃守様御見番候得ば埒明 A samurai in Edo sent a letter to his previous follower in Kyoto. The trouble will be cleared up after the involvement of a Bakufu governor at Kyoto.
読みづらい武士の手紙であるが大意はわかる。「先日の一件は山村信濃守様が御見番になるので埒明になろうと江戸幕府に申上があった。今後どんなお願いがあろうと念に私方へ御知らせください。また上げるのを止める時にもその事を早速御知らせください」。山村信濃守1729-1797:別名山村良旺、旗本。1773年京都西町奉行となり、同時に従五位信濃守に叙任。1778年勘定奉行(幕府の財政の頭)、1784年江戸南町奉行。文面より江戸表の高官が元部下の京都に勤務している武士に出した手紙だろう。山村信濃守の京都在任より1773年-1778年の間の手紙。このように極端に大きい字と小さい字を交えた読みづらい文字はかなり上位の武士が下位の武士に出した手紙によく見られる。始の挨拶はなく、最後も恐惶謹言ではない。鳥渡:ちょっと。埒明:決着がつく。内容は元部下の武士が上申した事件について江戸幕府よりの命で京都西町奉行の山村信濃守が解決に乗り出す事になるので決着する旨である。そして今後共どんなお願いがあろうと私方へまず御知らせくださいと念を押す。

●#99. 箋注蒙求并秘事百撰 御返却申居候 Now, I send back two books which I borrowed from you.
清水氏より山地氏への手紙。本を互いに貸借している。「御恩借中の箋注蒙求と秘事百撰を御返却いたします。御落掌ください。さて先年用達した茶式湖水集を御覧済なら返戻してください。尚私たちの長兄も無事に到着しましたので御安念ください。東遊の折は此に御光来をお待ちします」。為手:手で為す。恩借:拝借に同じ。蒙求:中国の偉人の物語と教訓集、「蛍雪の功」や「漱石枕流」など故事を収録し平安時代に伝来された。秘事百撰:智徳斎(舩越敬祐)が1827年刊行した、100種の料理、妙術、生活の智恵などを収録。落掌:手に入れる。茶式湖水集:不明の茶の本。茶式:千利休が大成した茶の作法。茶式湖月抄という本があるが関連は不明。滞着:滞在。

●#98. 油は高価に御座候 壱升銀二拾六匁頂戴 Oil was very expensive at late Edo period.
油2升8合販売の記録である。様々なことがわかる。油1升(1.8リットル)は銀26匁であった。1合=180mlでは2.6匁=銭173文であり、1文=現代の20円位なので1合が3460円の勘定。検索では油1合が6-14匁とあり、ここの取引2.6匁よりもっと高値らしい。とにかく高価な貴重品であったに違いない。上様は金で支払った。両替は金1両=銀60匁と標準的。しかし8掛けで銀48匁と銀高値の時のもここに記載された。つりの下には「過」と書いている。なお油徳利とは2.8升が入る大きいものなんだね。

●#97. 文久二年ものはそろへ その三 無てこまる者わ「金銀にうちのかか」 
壬戌=1862年=文久2年「ものは揃え」。その3回目。わるそうでよへものは「去年の満し役に金持隠居のかこかき」。よへ:よい。満し役は不明。隠居した金持ちの籠かき、すなわち自家用車運転手はずるいことをしそうだが、よい人が多かったようだ。有て無益のものは「こつじきに門徒寺の子供衆」。こつじき:こじき。こじきは役にたちそうにない。寺の門徒の子供衆は金も出さないのに大きな顔で寺の中で暴れていたかもしれない。無てこまる者は「金銀にうちのかか」。わかりやすい。財産と家事をする人は必須である。噂ほとも無ものは「御台場の普請に八百八後家」。台場:異国船の見張りの高台。八百八後家:新潟古町周辺の私娼のこと。台場の普請は噂ほど大工事ではなかったようだ。八百八後家も噂ほどではないらしい。すげしそうでぬるへものは「御役宅の武芸に白山からのましん、産業の武器掛り、若隠居」。すげしは「ぬるい」の反対で「すごい」だろう。役宅:奉行役人の仕事場と一体の住宅。役宅での武芸はきつくなかった。白山からの麻疹(はしか)や産業の武器掛りは案外きつそうだが、きついものではなかったようだ。若隠居は金に困りきついかもしれないがやはりそうでもなかったようだ。大体は理解できるね。

●#96. 御郡代様明日御成 紋付之羽織は何方に留置候哉 The governor of Mino will visit this village tomorrow. A representative of the village is searching for a formal samurai dress.
美濃郡代が明日見分に大月村に来る。代官が村に貸渡していた紋付の羽織を探して大至急で明朝までに大月村に差置ように。右の各村にあるはずなので、明日代官が差支えないように調べよ。見分:けんぶん、見て調べる。糺:ただす、とり調べて正す。美濃郡代:江戸時代4ヶ所(関東・美濃・西国・飛騨)に設置された郡代の一つ、美濃国周辺の幕府直轄領の民治を司る行政官、郡代は身分が代官よりも上である。関ヶ原の戦い後、幕府が美濃国を重要地として10万石未満の多数の藩と幕府直轄領(美濃国の3割)に細分した。南屋井村、北屋井村、石神村、大月村、更地村は美濃国大野郡にあり、大垣藩の領地である。代官は村々を支配していた大垣藩の役人。幕府領支配の郡代だが外様大名支配の村の視察をすることもあったことがわかる。美濃は重要地だからね。その際大垣藩の代官は紋付上下の礼服を着用したわけである。美濃郡代の陣屋は羽栗郡笠松村(現岐阜県羽島郡笠松町)にあり大月村は近い。

●#95. 三拾両借用人無所勘当 加印人拾両に利足三ケ年で払申候 A surety is making a new contact with a creditor for the thirty-ryo dept. The surety should pay ten ryo within three years.
丙寅=1866年=慶応2年12月。鶴屋角蔵さんが期限に30両返済できず勘当、所払いとなった。借用書に加印した半田屋ふきの文書。取り敢えず10両に利足を加えた分を3年後までに払う証文を書いた。借用人が借金の返済ができなかった場合、加印した保証人がどうなるかの1例である。ここに江戸時代の幕末には保証人には借用人不払いの借金全額でなく部分的な返済の契約を改めて行っていることが注目される。近年(おそらく明治後半以降)は連帯保証人は借金全額を文句なしに背負う。この本邦特有の連帯保証人制度は見直す時期ではないか。ふきさんは商家半田屋のおかみだったので女性でも漢字の素養があるかもしれないが、書いたのは証人の石郎かもしれない。字は細い字を続けるやや特異なものである。西原町、茂破町(現在西原1丁目)は隣町で共に現在宇都宮市である。上右はふきの夫半田屋富蔵がまだ生存の時の別の借用証文の部分である。角蔵の借用の加判人となっている。また富蔵の印がふきの印と同じとわかる。

●#94. 木の販売は銀壱匁で以て購買出来る重量が単位にて御座候 A timber merchant sells the woods to a ship owner. The unit price was the wood weight per a monme(3.75g) silver in the late Edo period.
名前はないが他の文書などより、北前船の船主に木の販売をした計算書である。北前船は大坂から下関、さらに加賀など日本海沿岸で商売しながら箱館や松前に至る航路。船主は越前、加賀、能登出身が多かった。米、魚、昆布が大坂への登り、衣服、塩などの日用雑貨品を北の各地へ運ぶ。船の修理に木材と船大工は欠かせないものであった。 #69、#76、#78も参照。割出:木から材木を挽出すこと。浅木:節の多い粗末な材木。木の販売は銀1匁当りで購買できる木の重量で示す。上割出は5.7貫、浅木は7.5貫であった。数字が大きい程安い価額の商品である。浅木の総重量の貫以下の数「五」は貫の下にそのまま書く。両替は金1両=銀64.5匁であった。一般に1両=60匁とされるが、幕末は金が高値となる。漢字「卅」:三十は実際の文書では見るのは稀。この木の販売覚書での計算は極めて正確である。

●#93. 立后御用一冬御表番 半右衛門壱領 A samurai, Hanemon was appointed as a guard of a newly nominated empress in 1781.
辛丑=1781年=安永10年2月5日。「立后御用で一冬御表番を半右衛門が掛番で一領。麹塵雲立脇の衣装で。御下行七百五拾六匁」。立后:りっこう、妃を皇后に立てること、通常改元と同時期に行われる。この時は4月2日の光格天皇の即位と「安永」から「天明」への改元の直前である。掛番:かかり番。一領:貴人から拝領。麹塵:きくじん、灰色がかった黄緑色、別名山鳩色。雲立脇:くもたちわき、雲立涌、蛇行曲線の中に雲の形を描いた文様で親王、摂政、関白の着物などに用いられた模様。麹塵雲立脇:山鳩色(greyish yellowgreen)の雲立涌模様の衣装。麹:こうじ、ここでは普通に見られる餅などでんぷんに付くアスペルギルスなどの黄緑色のかびと同様の色。塵:ちり、砂塵は灰色。従って「麹塵」で文字通りの灰黄緑色になる。なお役職には銀756匁(金12.6両)が下賜された。この1枚は最近やっと解読できたもの。数行書かれた1枚の紙が235年後の今日まで残存したのは、この番を仰せ付けられた半右衛門さんが名誉な事としてこの紙を大切に保存したからである。

●#92. 御膳料理五人前 〆弐圓廿七銭也 This is a bill for eating and drinking at the restaurant in the Meiji period.
明治時代の御膳料理、酒、蒲鉾、鮒さしみなどが並ぶ。総額2円27銭。2円は奥様の市様が支払い済みで残り27銭の覚書きである。1円=100銭。鮒のさしみはこの時代一般的であったようだ。やや不明な箇所もあるが、大体の御膳料理の内容がわかる。円は旧字の圓で銭の2種類の書き方がわかる。各項目の一は紛らわしいので省略して記載した。

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●#91. 宗門改にて寺送り宗門一札 躮種吉妻に縁組 Please stamp your temple seal on this wife's name in the register. The samurai officials will check the temple register soon.
この未年は1859年=安政6年より以前。1873年=明治6年には宗門改めは廃止される。「当寺旦那の娘が貴寺旦那せがれ種吉に縁組に付、当年未年の宗門改では貴寺で御印を成てください。当寺には構は無くします。御法度の宗門と申したらこちらで申訳します」。躮:せがれ。抔:など。宗門改:諸藩の寺社奉行の宗門改役が寺の宗旨人別帳を改め、切支丹、不受不施派など御法度の邪宗門を取り締まる。この文書は何寺や何村などの記載より雛形であるが、小泉村、与五左衛門、種吉など固有名もある。場所の特定は出来なかった。天保12年の寺社奉行の御役料と宗門改の文章を上右に掲載。 The samurai officials periodically checked the temple register to search for the believers of prohibited religions.

●#90. 縁付の宗旨送り 浄土真宗に紛無御座候 Please enter the wife's name into the husband's family written in the temple register.
丁酉=1837年=天保8年の宗旨送り文書。「伊都郡柏木村利助の娘かめが那賀郡井坂村佐右衛門に縁付で宗旨は紛れなく浄土真宗です。本人がどのように申出しても、私が申開してはっきりさせます」。申開:事情を説明。宗旨とは江戸時代に寺の檀信徒であることの証明である。現在の戸籍の役割を持っていた。蓮乗寺は浄土真宗本願寺派の寺で現和歌山県紀の川市西井阪にある。和歌山県伊都郡にあった道場の寺は不明。かめの現住所と嫁ぎ先の住所は図のように近い。 In the Edo period, the temples holded a list of the families belonging to the temple.

●#89. 質物米一俵此者尓御渡可被下候 Please give the servant one hyo(72 litres) of rice grains as a pledge. The lending money should be paid back by the third March.
巳年は小山瀬村(明治7年消滅)から1869年=明治2年より以前である。「先日は饗応の座にあずかりありがとう御座いました。その時御預けした米一俵此者に渡してください。来る3月3日切で清算してください。12月24日」。時日:先日の時。勘定:清算、金を払う。佐様:左様、さよう、そのように。源蔵さんが侍に米1俵を質に金を貸している。美濃国石津郡時山村は現大垣市上石津町時山。小山瀬村は大垣市上石津町前ケ瀬。米1俵=米4斗は銀24匁、金0.4両。今の4万円位である。

●#88. 寳国寺様御講伎会は何頃相勤候哉 Would you please let me know when the temple lecture is held?
武士の口状。口状=口上:口頭の代わりに意向を書いた文書。奉希上:こいねがいあげたてまつり。同僚の武士へのもので武士同志の手紙は総じて短い味気ないものが多い。「御宿寺」がはっきりとはわからないが相手の武士は寳国寺に長期に宿泊しているようだ。江戸時代は寺の講演会は娯楽として期待されていたようだ。

●#87. 弘法大師御除極悪日 Those are the days when everything goes wrong and evil. Kukai suggested not to do anything special, like marriages, moving house or travels.
出羽国大森村の百姓(1793-1876)が所持していたものである。空海:弘法大師(774-835)は真言宗の開祖。内容は記載の通り。何をしても悪いことばかりの日である。須礼者(波):すれば。乎:を。旧暦では真言宗の信徒には重要なことだったと思われる。七難とは火事、水害、旱魃、病気などを指す。「婚礼すれば生き別れ。旅立ちすれば二度と帰らず。戦すれば萬人に一人も不残」。なかなか厳しいね。3月21日が入っているが、今は大師会の日である。「弘法大師御除極悪日」を検索しても今日では何も出ない。おそらく明治6年太陽暦が導入されて完全に消失したのだろうと思う。

●#86. 出羽国八沢木道悪道に御座候故 普請致度候 Farmers wanted to fix a Yasawagi road which had been notoriously a very bad road in Dewa.
己丑=1829年=文政12年。出羽国平鹿郡大森村より八沢木村仁王門まで道普請の申請の文書。概要「大森村町端より八沢木道で保呂羽山仁王門まで1935間(3522m)を高低を平均、左右に関を通して水はけを良くし、砂利を盛り普請します。人足1737人、1人120文です」。区間1「大森村より上溝村境まで、520間のうち150間砂利を敷き、1人が2.5間普請」。以後区間9まであり(省略)。1間=1.82m。詳述「八沢木道は当国6郡にない悪道で米を濡らし、馬を痛め、迷惑する者多し。なお道は保呂羽山道にて参詣の人々の往来が絶えない。人々は悪道と言うので気の毒に思い往還のようにしたいと思っていた。普請すれば難儀がなく保呂羽山へ行く人々も増える。本年中に半分位作りたい。本庄、矢嶋、亀田領は道が丈夫になった。我領も丈夫にしたい」。潰:つぶす。難義を凌:なんぎをしのぎ。遁れ:のがれ。拵へ:こしらえ。御昜筋:ご用すじ。偏に:ひとえに。「䀞」は現在使われない字だが、斗、計で「はかり」の意味だろう。船沼村の十内さんが役所に訴えた。平鹿郡はすべて久保田藩(秋田藩)領で藩主は佐竹氏。この後実際に道普請が行われたか否かは不明。現在は八沢木、上溝、大森3村は横手市大森町に属す。船沼村は横手市雄物川町薄井船沼。猿田村はお手伝い、横手市大森町猿田。本庄、矢嶋、亀田は同じ出羽国の他藩領。江戸時代の村の名はどこでもほとんどが残っているね。一方市街地の町名は昭和39年(1964)頃の住居表示事業の実施により半分以上が消失した。

●#85. 文久二年ものはそろへ その弐 けんのんなものは「箱館の用立に松前行の早出帆」
壬戌=1862年=文久2年「ものは揃え」。その2回目。あつへものは「厳暑の演行に風下の火防」。あつへ:熱い。酷暑の舞台演技や火の風下は熱い。けんのんなものは「箱館の用立に松前行の早出帆」。けんのんな:剣呑な、危うい。津軽海峡は潮の流れが変化しやすく危険だった。箱館、松前共に蝦夷地。あふなえものは「火消のまとい持に古町仕送りの呉服屋」。まといに火が付くとあぶない。新潟古町(芸者街)の呉服屋と思うが、ここで服を誂えるのはなぜあぶないか不明。仕事がずぼらなのだろうか?俄にこまるものは「家根ふきの俄かぜに大晦日に金ぬすまれた人」。屋根を葺く時急な風が吹くと困る、大晦日に金がないと急に困る。尻が出てもかまわぬものは「金持の一人悴に入湯の人」。風呂では尻が出てもよい。金持ちの一人息子が尻が出るほど大借金をしてもお構いなしの意味だろうか。きのもめるものは「町役人に荷船の風待」。どちらも気が揉める仕事だろうね。

●#84-II. 我仕合崇忝仕候 逐従上下并名字御免許 A farmer shows gratitude to a samurai who allowed him to be a follower having a family name.
庚辰=1760年=宝暦10年。文書B:「前の村の参会での上下着用は御迷惑を懸けました。野崎九兵衛様に相談し、私の先祖勘十郎が野崎様御先祖より逐従、上下、名字を御免許されました。大変仕合でその節作法は古来の通に御家頼と同じにするよう下知されました。崇忝畏れ入りました。今後子孫まで野崎様に背かないよう伝えます。違反があれば名字は削り、上下は剥ぎ取って下さい」。家頼:けらい、家来。逐:後を追う。逐従:後に付従う。仕合:しあわせ。崇忝:すうてん、崇めかたじけなく思う。上下:かみしも。ここでは侍の野崎九兵衛へ家来と認めてもらった感謝を述べて締めくくる。子孫に違反があれば名字は削ってくださいと書く。村の参会のように公の場では上下着用は今後は不可だが、上司の侍に挨拶に行く時などは着用できる。侍から貰った七郎次の一家の名字は「出村」であった。野崎九兵衛は大垣藩の高位の武士だろう。この村は美濃国大野郡屋井村で大垣藩領であった。屋井村はこの頃は北と南に別れていた。 Most of farmers were not allowed to use a family name in formal writings during the Edo period.

●#84-I. 我于村参会紋付上下着用 向後我侭御改申候 A farmer wore a formal samurai dress at a village meeting. The Edo authority did not permit it.
庚辰=1760年=宝暦10年。文書は全5枚のうち2枚のみだが内容は充分理解できる。百姓が村の参会で紋付上下(かみしも、武士の礼服)を着用。それは公儀へ証拠書類と共に届けられた。文書A:「私共が我侭と御公儀様に書附を上られ、その御会議で私共に落ち度があり手錠の上吟味せよと極められました。御尤もで至極誤っておりました。紋付上下や古来の証拠を会議で極められた上で私共の落ち度と決定ですので今後上下は着用しません。すべて村法に随います」。我侭:わがまま。越度:落ち度。下知:上からの指図。背:そむく。北屋井村の七郎次さんが書いた証文である。紋付上下着用に付、先祖が武士の家来であったとの書附けを公儀に提出したが通らなかった。公儀も「武士の家来だった百姓」を武士同様に判定すると多くの百姓が農事から脱落する事になるので許可しなかった。釘抜紋はsimpleでかっこいいね。

●#83. 甚御面倒様 手紙着次第親共御達願申候 Soon after receiving this letter, please tell my father about it.
商人の短い手紙。「寒冷の時節益々御勢健おめでたいです。さて甚だ御面倒ですが、この手紙が着き次第に親共に御達しください」。御勢健:いきおい健やか。例文「御勢可被入之事」、いきおいを入れられるべきの事。商人は年老いた後も勢力を維持し商店の主権を持つことが多かったようだ。他の手紙からもよくわかる。

●#82. 山陽先生之詩書高値にて売候 A note of selling prices for the paintings and calligraphies in the late Edo period. Here, Sanyo Rai was highly evaluated.
京都書画屋、越前屋の書画販売目録。三清図:松、竹、梅を画いた画。文昌帝:中国の文章を司どる学問の神。山陽:頼山陽。春琴:浦上春琴。介石:野呂介石。梅逸:山本梅逸。霞外:小山霞外、1785-1864、下総古河の書家。百谷:小田海仙、1785-1862、京都で活躍の画家。竹渓:中林竹渓、1816-1867、京都、尾張で活躍の画家。蘭月:梶浦蘭月、幕末の尾張の画家。雪堂:不明。孫億: ?-?、明末から清の画家。王子逸:不明。下に作家と価額をまとめた。1両が7-10万円の価値である。頼山陽の作品は明治に入る前にすでに大変高値であったと解る。また通常の画家の作品は1-2両であった。野呂介石は評価が高い、扇山水は怪しい作のようだ。なお山陽以外の書は安いようだ。幕末の書画販売は京都でも両単位の金勘定である。

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●#81. 乍御苦労今日中御成必々奉頼候 In a letter, a samurai, Shichinosuke asked Gensuke to make sure of coming to his house.
下級武士の須田七之助より源助への手紙。「寒気の節ですが皆様御堅固でおめでたいです。差進る用事があり、御苦労ながら今日中に御成ください。必々頼み奉ます」。堅固:安康に同じ。指進=差進:さし進める、例に「御見合差進」。御成:お出で、尊敬語。必々:必ず、必ず。最後の「Z」に中央点の「以上」が典型的。江戸時代の相手に御成を依頼する時の様々な用語が学習できる。

●#80. 我書籍を好む 次十冊斗頼申す I would like to borrow ten books related to old China.
岡さんが京都の書画商の越前屋新兵衛から本を借用している。欝々しい旧暦5月、現在の6月の梅雨時である。「先日の書籍は通鑑したので返却します。御落手下さい。それではまた面倒ながら次10冊程この者にお渡し下さい」。通鑑:通して詳しく観る。斗:ばかり。落手:手に受取る。本は梁記(502-557:梁書)、陳記(557‐589:陳書)、隋記(581-618:隋書)。中国の各王朝の記である。岡さんの住む古門前通は少し西へ鴨川のほうに行くと古書画、骨董の店の多い地区である。大変読みやすい手紙である。

●#79. 豆腐三拾文に候 五丁宅迄御届申上候 A note of Tofu deliveries in 1867.
丁卯=1867年=慶応3年。年末の豆腐、あぶらけ配達分の請求書。とうふは常識で商品名の記載なし。とうふ1丁=30文、あぶらけ1枚=24文である。豆腐は1回に5丁以上で配達する。3月-4月、9月-12月に配達の分。5月-8月は他店に注文したようで競争があるようだ。豆腐1丁は現代(300-400g、販売の1パック)の4倍位。「夫」は「それ」で下に配達人を記す。#26の酒と同じ。時は他の文書より確定。腰のしっかりした豆腐は旨いね。

●#78. 商品重量と金換算 僅之違有間敷候 Selling ropes to an owner of ships.
大坂のなわ重が商品の縄(?)を通吉丸の船主に販売した代金を記載している。各数字の意味はほぼ解明できたので下の説明の1-4と読んでください。「六七弐」と書き、1両=銭6720文の交換率であった。また金を表す架空単位「永」は通常1両=1000文で「文」で表す。文書中の「永2匁9分7厘」は本来の永の単位(文)と異なる奇妙な表現だが、銭200文と等価であった。そして永100匁=1両であった。これは大坂流の表現のようだ。商品の縄(?)は重量単位の販売で1貫=3.75kg当り200文と280文の2種があって右上の小数字で示されている。縄の太さが違うのかなと想像する。小さな商品販売の1枚であるが、内容は豊富であり数字は驚くべき正確さである。江戸時代の大坂商人は文章も巧みに書くし数字も正確でさすがによく訓練されている。印は大坂、寺嶋、松重とある。大坂寺嶋は場所を示しここは現在の空堀商店街で大阪市の中心である。商人の印はかっこ良いね。

●#77. 拙者之相撲番付 御落手可被成下候 Two samurai love to make a ranking of Sumo wrestlers.
私の相撲番付を御覧あれ。「薄暑の時節、皆様御多福に成されおめでたいことです。恵比須講の相撲番付を見せていただき親切な御意ありがとうございます。こちらも早速進上の予定でしたがかれこれして延引で御用があり、やっと御落手いただけます。御目に懸申上ます。また拝眉(面会)の時申上ます」。薄暑:初夏の軽い暑さ。深切:親切。彼是:かれこれ。落手:入手。拝眉=拝顔。2人の武士が相撲番付に熱中している。幕末頃は相撲は大きな楽しみだったようだ。#66も参照下さい。

●#76. 苫百三拾枚代金慥受取 両替六八夕に御座候 Selling woven Kayas to a ship owner.
山鳥屋深蔵が船主の朝日丸与市に苫を売った。100枚は苫、30枚は帆苫。代金より苫1枚=38文、帆苫1枚=70文である。1文=今の20円位。苫:菅や茅を粗く編んだ筵(むしろ)で和船や家屋を覆って雨を凌ぐのに用いる。帆苫は舟の帆の代替の筵か、たぶん大きいと思う。苫といえばこの句である-「いほの苫をあらみ我が衣では露に濡れつつ」:苫の編み目が粗いので、我が衣の袖は露に濡れていく。銭(文)を両替して金での支払いであるので、交換係数を計算した。「両かへ六八夕」とあるが、1両=6800文であった。「夕」:せき、積=かける、 つまり両替六八夕は両に68をかけるの意味。一般に江戸時代は1両=4000文といわれるが幕末は金の価値が上る。小さな覚え書でも勉強になる。

●#75. 文久二年ものはそろへ その壱 有そうて無ものは「二本さしの通人に揚屋の身上」
壬戌=1862年=文久2年に書かれた「ものは揃え」。沢山あるので分けて掲載します。よき風の吹くものは「御林の旦那に風見のからす」。御林:おはやし、江戸時代の幕藩の領主の管理下に属した山林。御林の旦那:幕藩から山林の管理に派遣された代官。山だから風通がよい意味か。屋根で風に吹かれるカラスはよき風。御苦労なものは「大問屋年行司に松ケ儀の番所詰」。問屋年行司:問屋仲間の調整役で1年交代。松ケ儀の番所詰:おそらく正月の番所での当直。有そうで無ものは「二本さしの通人に揚屋の身上」。武士の通人(粋な人、趣味に精通した人)や揚屋(客が花魁を呼んで遊んだ店)の財産は案外少なかったようだ。なさそうで有ものは「小町の袖の下に清僧の大黒」。芸者など美女(小町)が密かに金を貰うのはあったようだ。僧の大黒さん(僧の隠し妻)も案外多かったようだ。値の下ったものは「余座のOにセメンシーナ」。前半は不明。セメンシーナは回虫駆除の薬、ヨモギから造る。大きくなったものは「竹輪かまのまん中竹に又上身上」。竹輪かまは今の竹輪のことで中心の竹が大きくなったようだ。又上は腰廻りから股までの長さ、身上は体の表面または財産。わかり難いものもあるが面白い。

●#74. 丑の年寄八年 銭利相済不申候はば御死配を Borrowing money for 8 years with the interest rate of 0.24/year.
辛丑=1781年=天明元年6月。宇都宮茂破町の屋鋪証文である。「間口2間2尺の屋鋪を質地に銭4貫文借用します。1ヶ月に利息80文。年限は丑年より酉年まで中7年です。年明に銭利息済まぬ間は御死配ください。若し元利払い済めば御返しください。万一難しいことがあれば口入の者が埒明します」。埒明:決着する。間口2間2尺=4.2m。#73と同様ここでも奥行きの記載はない。奥行きは町家は町内皆同じであり常識であった。また町家の課税も間口で決まって、奥行きは課税の対象ではなかった。利息は年率0.24=2割4分である。「中7年」は「今年と最終年を除いた間が7年」で8年間のようだ。後より4行目の始め3字の誤字はその2行前と同じ文を書きかけた後変えた。当字の「御死配」と「年寄」が強烈。最後の村名「下戸上村」は「下戸祭村」に違いないと思う。仮に奥行きを20間とすれば2.2X20=44坪=1.45アール。銭4000文=銀60匁=225g。質流れで「御死配」したら225÷1.45=155g銀/アールとなる。田畑と異なりこの土地は質流れまでは金貸主は使用できない。だが利息が付いている。妥当な取引だね。

●#73. 金5両之質地成共 建家十二年借用申候 Selling a land of a merchant area in Utsumoniya.
癸亥=1803年=享和3年閏12月の質地証文に添られた証文。「私所持の屋敷を質地に5両借用した別紙の証文につき、私の家が建込みの分は年季中借受します。年季は本年より12年。年季明けに質流れの節は家を破り土地を相渡します」。広さは間口5間3尺5寸4分=10.16m。場所は宇都宮の町家である。間口5間なら大きな間口である。奥行は町家は16-30間と想定される。奥行を仮に20間とすれば5X20=100坪=330m2=3.3アール。5両=銀300匁=銀1125g。取引は1125÷3.3=341g銀/アールである。丹波國桑田郡辻村では田畑で56-175g銀/アールであった。丹波國の田畑と比べて2-3倍位の値である。宇都宮の商業地だから妥当と思う。土地の完全引渡しは12年後という条件があっても茂破町と六道町は隣接の町なので甚兵衛さんには充分メリットがあるのだろう。商品の保管などに使用できる。文書の「閏」は当初読めなかった。 The price was 341g of silver per 100m2 of land.

●#72-II. 癇症躰、無正気の栄助の召出、吟味、取調は御免願上候 不都合之儀而已 Because Eisuke has a serious disease, dementia now, it is useless to search Eisuke for the paper more.
桑田郡小国五カ村の現惣代庄屋が役人に提出の書。前後に別れた「後」。「一、中江村の先庄屋栄助を召出して吟味するとお聞きしました。しかし栄助は今も癇症で正気でなく、我々村役が静かに尋ねても、しかと受答えができず不都合な(意味不明な)ことのみ申します。召出ても意味不明なことを言うだけです。よって(召出は)御免ください。一、書附についてこの上調べ様が無いのに(書附を)尋ねたいとの事です。これまで栄助の家の中残らず調べ、栄助に静かに尋ねても、意味不明なことのみ申すので、4年前の書附の事は分りません。栄助が将来快気(病気回復)になることも測り難く、本人にこの上に吟味して探し出す手段もありません。恐入りますがこれも何分御免ください。右はお役人のお尋ねに対し申し上ることに相違ありません。小国五ケ村惣代大野村庄屋又左衛門」。聢と:しかと、確かに。而已:のみ。「前」に対して役人は「栄助を召し捕らえて吟味し、様子を聞きただす。そして役人の手で古い書附を尋ね出す。」とした。これに対する回答がこの「後」である。この書の提出後の経過は不明。江戸の旗本の「殿様」は書附を書いて上京した新惣代又左衛門さんに新書附(惣代庄屋任命書?)を渡したと思う。栄助さんは本当の認知症か否かは不明だが仕置は遁れ、以後は完全に引退であると思う。惣代庄屋まで務め、本来知力は充分あった人であるから、やはりアルツハイマー病である可能性が高い。早ければ65歳あたりから発症し認知症は徐々に進行する。小国五ケ村の現村役はよくがんばって前惣代庄屋を支えている。

●#72-I. 惣代庄屋栄助四年前の江戸直印御書附紛失 癇症にて何事も相分り不申候 A representative of farmers, Eisuke lost an important paper given by a land governor.
丹波国桑田郡小国五カ村の5名の現庄屋が役人に願出の書。前後に別れた「前」。「4年前(1806年=文化3年寅年)に御仕法替えで江戸御役人直印の御書附をたしかに中江村庄屋栄助(この時五カ村の庄屋の頭=惣代庄屋)が江戸に出て受取りました。さて1年前(1809年=文化6年巳年)次の年限の時には前の書附と引替に新しい御書附をお渡し下さるとのことで前の書附を所持して江戸に登るべきとの事でした。しかし栄助は2年前(1808年=文化5年辰年)癇症を発症し何事もわからなくなりました。大切な以前の御書附を同人発病にて我々が吟味してみましたが、当人紛失等閑にしてこの御引換の時になりました。大変不調法なことで猶予をいただき深く吟味しても栄助は一向に正気に成りません。御憐愍で新書附をいただければ有難い幸せです。五カ村庄屋」。将又:はたまた。癇症:認知症に同じで正気でないこと。等閑:なおざり。1年前に江戸の旗本は惣代庄屋の栄助さんに4年の年限明けに前の書附を持参せよ、交換に新しい書附を渡すと言った。だが栄助さんはこの古い書附を紛失した。ここで五カ村は話合い栄助さんは癇症(認知症)として引退とし、惣代庄屋を交代して調べたが、古い書附はみつからない。そこで古い書附は紛失したので新惣代に新しい書附を渡してほしいと江戸の旗本に嘆願している。さてこの御書附は惣代庄屋の任命の書附ではないかと思う。4年の惣代庄屋の年限が切れるので江戸で新任命書を貰う予定だったと観る。我々でも昇進時に任命書を貰うが、大切に保存することもないかもしれない。しかし江戸時代はこれは大変なことだったと判る。この小国五カ村(大野村、比賀江村、中江村、辻村、下村)は旗本領である。旗本:徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式で将軍の席に参列できる者。世間的には「殿様」で江戸定住であった。従って江戸の「殿様」が支配の丹波の惣代庄屋に書附を渡すわけである。

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●#71. 丹波国桑田郡辻村周辺の田地譲渡手形のまとめ及び讃岐國との比較 Comparison of rice fields in Tanba and Sanuki.
今回丹波国桑田郡辻村周辺(京都市右京区京北辻町)の5資料を提示してここまで提示の資料と共に田の種類と面積あたりの石高の係数(斗/畝)を計算した。この数字はすべて驚くべき正確さであり、上田は1.4、中田は1.3、下田は1.2、上畑は1.0、残畝は1.0であった。1畝=100m2、1斗=18リットル。ここで残畝を除き丹波の14と讃岐の28の田のデータを比較した。上田、中田、下田の石高の係数(斗/畝)は丹波がすべて高い。つまり係数(斗/畝)は地域により明らかに異なる。しかし江戸時代1750年以降を通じて係数(斗/畝)は変化はなく同じであった。

●#70-II. 讃岐の田地譲渡手形 下田は九掛けに御座候 An evaluation of low-ranked rice fields in Sanuki.
癸巳=1833年=天保4年12月。中田と下田の譲渡で銀2貫610匁を受取った。各田の石高は記載は無いが石高の合計の記載がある。下田の係数(斗/畝)を仮に0.9として計算してみた。合計は下記のように計算は合うので下田の係数(斗/畝)は確かに0.9である。これで田の係数は上田1.3、中田1.1、下田0.9と判明。文章は題目の「田地譲渡」を含め#70-I(16年後)と全く同じ。しかし1849年(16年後)と異なって「庄屋」の名字はまだ記載なしである。明治2年に事務方より嘉次郎にこの文書を譲渡した時に墨で線を入れた。

●#70-I. 讃岐の田地譲渡手形 石高計算は八拾弐年前に無相替御座候 An evaluation of rice fields was same as the one made 82 years ago.
己酉=1849年=嘉永2年2月。中田と上畑の譲渡で銀4貫963匁5厘を受取った。ここには各田の石高は記載は無いが石高の合計の記載がある。#56の1767年=明和4年、即ちこの時より82年前の中田、上畑の係数(斗/畝)1.1、1.0として計算してみた。合計は下記のように計算は合ったので係数(斗/畝)は82年前と比べて不変である。一方82年前と違って「政所」は「庄屋」になり、庄屋には名字が付いた。また82年前は田地は売却不可だったので質物であったが、幕末は譲渡となった。讃岐の文書であり、明治2年に事務方より嘉次郎にこの文書を譲渡した時に墨で線を入れた。

●#69. 鱒荷商内新登に御座候 下野関置米案居申候 I am shipping trouts as a main cargo to Osaka.
函館出航の北前船の船主が大坂に着いた別の船主に宛てた手紙。「無難に登られて御気張りでしょう。当方は箱館を出航し漸く当地へ無難に着きました。肴は各地切れた様子を承て鱒荷商売で登って参ります。他の商品も申送りをします。さて当夏に私が下関に置いた米は如何成ましたか。案じています。その地(大坂から下関辺)の米相場人気を考慮ください。当地東通辺(日本海航路の東北辺の港)では米人気は宜しい。津軽(青森県西部)、南部(青森県東部から盛岡辺り、#11に地図)も不作、仙台辺は水害で5、6分の出来。米相場は一段上がると存じます。宿の清七郎様や御衆中にも伝言ください」。北前船とは大坂から下関、さらに加賀など日本海沿岸で商売しながら箱館や松前に至る航路。船主は越前、加賀、能登出身が多かった。米、魚、昆布が大坂への登り、衣服、塩などの日用雑貨品を北の各地へ運ぶ。ここではこれから登る船主が鱒荷商売を中心にすると大坂にいる船主に手紙。そして夏にこの船主が下関に置いた米を心配している。この秋は津軽、南部、仙台が不作なので米相場が上がるので北へ積み下すことの考慮を促す。御機嫌克:ごきげんよく。日柄:ひがら、株相場が落ち着くまでの日数、ここでは箱館から入港までの日数。商内:あきない。最後が1行切れている。#55では能登から加賀橋立への船荷として昆布、のり、塩漬け魚が配送されている。

●#68. 御一代之事 田地蔵立喜ひ有長命 A farmer received a judgement of good fortunes at 41 years of age in 1833.
癸巳=1833年=天保4年3月。41歳の出羽国平鹿郡大森村(現秋田県横手市大森町)の百姓が京都で観相判断を受けた。天中:髪の毛の生え際の中央。凶し:わるし。くろふ:苦労。平:たいら、起伏なし。大体内容は判りやすい。徳しつ:得失。願ひ目上に有ぢよぢよ:徐々にゆっくり願が叶う。長命下行:天から長命を与えられた。官相=観相。観相師は印より津守加常、京都梅ケ路は梅小路のことと思う。寿命は80才迄とあるが、実際は1793年生まれ、1876年(明治9年)死亡で数えで84歳迄生きた。また金運に恵まれ多くの田地を買い蔵が立った。この人相判断の紙は何度も見返したと思われる。紙の表面は毛羽立ったビロードのようになっている。神社のお札も多数残されており信心深い人であった。確かに年齢別の項目を読むと味わいがある。「鏣」は容器の名らしい、日本ではまず見ない字。 Actually he got a happy life and big property and lived until 84 years of age.

●#67. 大借不仕合凌方六ケ敷 養子娘養育料十五両受取 An adoptive father received 15 ryo as a fee of upbringing his daughter.
己酉=1849年=嘉永2年9月。「私は近頃不幸にて、大借金のしのぎが難しい所です。さて養子の娘はこの度草津宿の川端屋源蔵殿に以後一生無関係の約束で遣わします。この娘いちはすでに貴殿(金沢治郎右衛門)と内縁で心配の所、養育料を源蔵殿名義で15両確かに受取ました。表向きに貴殿から直接15両渡すのは差し支えあり源蔵殿を介して仕置されました。今後は貴殿のほうで縁組に成ろうが、縁組なく妻様にそのまま置かれても差支えありません」。不仕合:不しあわせ。凌方:しのぎかた。六ケ敷:むつかしき。由縁有:関係あり。譬:たとえ~でも、当字。金沢治郎右衛門と内縁になっている養女いちに関して川端屋源蔵を仲立ちに15両受け取って今後一切口出ししません。との親、井筒屋喜助の約束証文である。金沢治郎右衛門は近江草津の有名な餅屋の主人だった人。直接に15両井筒屋喜助に渡す形はなぜ憚られるのかは不明。別に娘いちが川端屋源蔵に奉公した形の正式書類があるのだろう。

●#66. 相撲興行に御方様連中来臨 Sumo wrestlers will come soon. A highly ranked samurai will also attend.
「西永寺境内で8月25日より3日間地方相撲興行があります。江戸相撲より来るにて面白いでしょう。米次郎方様連中が来臨で、御待上あるについて御使いお願いします。追啓上:御家内宜敷お願いします」。相撲興行に御成があるので貴殿の御家内も出席し御仕えいただきたいとの手紙のようだ。相撲興行や相撲の番付予想は地方では大きな娯楽であった。

●#65. 新餅與松茸弐本進上仕度候 I would like to give you mochis and matsutakes as a gift.
同輩の武士への手紙。打続:うちつづき。仕度:つかまつりたく。「以上」は「Z」に中央点はよく見る。比較的読みやすく内容も平易な手紙。宛名は巻きたたんだ後に記入しているので文の右方裏側にある。宛名の脇付は「貴下」だろう。

●#64. 村税は商家規模に随而是違可有者也 A note of tax payment from merchants to a village in 1867.
丁卯=1867年=慶応3年、村役の庄屋が商家に村入用で税を徴収した記録。村入用:村役の給料、事務経費で村民より徴収。座頭米:座頭、こぜの救済米。田方入用:道、川、用水の普請費。一匁(?)米:収入(高)に応じて徴収の米のようだ。ここの祐一郎は宮本屋の旦那、むらは小規模の商店経営だろう。祐一郎とむらで税額の違いを表にしたが、むらは祐一郎の税額の2.3-4.4%で村入用、座頭米、田方入用、一匁米のすべてが収入割(高割)とわかる。つまり頭割はなし。

●#63. 我当字之名手也 山売葉出堂座八両受取 I love using Chinese characters as phonetic symbols.
山林売渡証文である。この要蔵さんはユーモアたっぷり。当字(あてじ)の名手である。売羽出=売渡。ちゃんと「売渡」と使っているところもあるから、確信の当字である。堂座=当座。御子配=御支配。売葉出=売渡。タイトルから終りまで当字があり。さてこの山林は銀8貫目(銀30kg)=8000匁=133.3両に違いない。10月22日金8両=銀480匁受け取ったので、残りの7520匁を12月28日までに受取る。大金であり相当大きな山で#59のような檜が多く育っているようだ。年は子年で他の書類より1840年か1852年らしい。山に有る地蔵さんは売り渡さない。場所は京都市右京区京北辻町、同鳥居町。今は京都市だが少し前まで北桑田郡京北町だった。山のある長合登ケ尾は栂ノ尾(とがのお)かどうか不明。寛兵衛さんは辻村の庄屋である。

●#62. 随分吟味の上かれ物書頼上候 Please bring me a specially selected calligraphy of an old-fasioned style.
短い手紙。「御健勝、目出度く存じます。さてかれ物書資上ていた処、未だ欠いています。明日にでも御登りください。此段頼みます。随分随分吟味成されてよろしく品たのみます」。極月=12月なので正月に向けて書の掛け物を注文したようだ。「随分随分吟味を」と念を押している。”かれ物”が不詳、その時分よりももっと古いスタイルで書かれた書軸ではないだろうか?「次」に近い字は「資」=たのみだと思う。

栞60 

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●#61. 農馬悪馬に成候 借金に難渋 A farmer is annoyed by a dept after buying an unruly horse.
「萩生田村、百姓常右衛門の農馬が悪馬になりました。馬の料金は支払いましたが、金銭に難渋しています。次の馬は購入予定はなし。当場足(お金)が足りないので借用したい。別紙の通願書を出していますので減分無く御貸し下さるよう取計らいください。この段深くお願い申し上げます」。左久馬氏は苗字があるので肝煎か下級武士で支配の上級武士に宛てた願書と思う。悪馬:性格が悪く扱い難い馬、暴れ馬。足:お金、おあし。斗:計り。帋:紙の異体字。減分:分を減らす。場所は出羽国東置賜郡萩生田村である。#13、#30も東置賜郡の文書である。

●#60. 出作不足の散田年貢米 肝煎は難儀に御座候 A village's due of a tax payment for a rice field where no farmers cultivated in 1697.
1697年=元禄10年11月。耕作人がいなくなった散田一筆、支配侍の散田の年貢の請求に対して差し出した証文。「銀納めは及ばないので諸役何成共仰せ付け下さい。村を通して急度(きっと)相済します。何でも御催促下さい」。肝煎が書いたもの。税率は4.05斗(税)÷19.11斗(石高)=0.21であった。さすがに2割1分の税率は通常の半分位である。肝煎(村の代表)は大変、肝臓を火で煎られるようだ。耕作しなかった田の年貢も村全体の責任にされて侍に責められる。

●#59. 檜六本六両弐分也 高値に候 A cost of 6 hinoki woods was 6 thousand dollars in 1865.
乙丑=1865年=慶応元年九月、檜6本を6.5両で売り渡している。手附金1両請取ったので残りは今月中に急度受取予定。急度:きっと。檜1本1両=7-10万円である。江戸時代は「檜一本、首一つ」といわれて高価であった。現在は檜の柱1本4000円位らしいので随分安くなっている。場所の記載はないが、間兵衛さんは現京都市右京区京北辻町の庄屋だった人である。

●#58. 底引網之肴 抜売仕間敷事 Permission of catching fishes with a drag net.
文書は2部に別れる。前半は丁丑=1757年=宝暦7年正月。「坂井紋左衛門が底引網を依頼した漁師文七への覚え書き。網が出来るまでの仮のこと。川の内は上老松札場まで免(ゆる)した。それより上流は網は使わないように。鰡(ぼら)や鰯が集まって網を下ろしたら、分をわきまえ他の妨げにならぬように。網が入用の時はいつでも用立てする。底引きで得た魚は法の相場をもって商売すること。一切抜売しないこと。きっと以上守ること」。後半は甲午=1774年=安永3年8月に町老宛への文。「許可した底引網は右の前法通である。魚の米換算での10分の1を遅滞なく役人に納めること。底引漁をする時は行う場所をその都度届けること。但し月の内8、12、22日は届出はなくてよい。附記:場所の届出の儀は安永3年8月に改めた」。高札場:法度や掟書を掲示した板札の場所。随分:分に随って、分をわきまえて。抜売:仲間の申合せを出し抜いて売ること。急度:きっと。1774年に底引網をするに当り、その前1757年のルールを示し同様にするようにとの覚えである。納税額10%は農作よりずいぶん安い。上老松札場は愛媛県大洲市長浜町上老松が河口の少し上流にあり、大洲藩の所領であった場所でここと思う。武士の大変読みやすい字。

●#57. 廣太之御慈悲を 焼失ではたか麦5石は延納に歎奉 Please show mercy to prolong a tax payment because of a fire in our village in 1849.
己酉=1849年=嘉永2年6月。「乍恐御歎奉申上候」多数の者が火事で難渋。昨年夏に大麦10石借りを返納にはだか麦5石でと仰付られましたが返納は来年に延ばして下さるよう御憐愍、御慈悲をください。乍恐:おそれながら。歎奉:我々の歎きを奉じる。場所は播磨国市場村(現宍粟市山崎町市場)。文書#12、#39は同じ筆跡。筆に墨を浸けた後の太い字が特徴。文書#20、#26は同じ宍粟郡の文書である。下村猪太郎氏は播磨安志藩1万石の侍だろう。#39の能倉村、#20杉田村もこの市場村も播磨安志藩支配である。ここは1716年に立藩で小倉藩藩主小笠原忠基の次男が養子で藩主になった所。この文書は百姓の名がたくさんあって勉強になる。江戸時代の村の名は現代でも最後にほとんど残っているね。しかし都市部の町名は沢山失われてしまった。

●#56. 田の石高計算は誠に正確にして違有間敷候 A record of giving rice fields as a pledge in 1767.
丁亥=1767年=明和4年12月、大量の田畑を質物にした状況が詳細に記される。 米13石8斗8升が1年で採れる田を質物に銀3貫目(11.25kg)受け取った。10年切とは10年で返す意味らしい。1ヶ年2割宛之払手形とは年利息2割だろうか?ここで多数の上田、中田、畑の面積と米の収穫高が記載されているので計算してみた。斗/畝は下のように1.3、1.1、1.0であり全く正確だった。1畝=100m2=30分。1斗=18リットル=10升。江戸初期は1反(10畝)の田の収穫量1石(10斗、大人1人の年間消費量)とあり計算は合う。逆にいえば上田と分類されたら必ず1.3斗/畝を適用して石高、年貢を計算。これが定免で石高に税率4割を掛ければ毎年一定の年貢量となる。多く収穫されたら百姓の取分も大きい。なおすべての田の分が3で割り切れる数字である。この村の検地は計算しやすいよう意識的にこのようになされたのだと思う。政所:所領の事務を扱う人、庄屋に同じだろうか。讃岐の文書である。明治2年に事務方より嘉次郎に文書を譲渡した時に墨で線を入れた。石高、広さの読みは始めだけ記載。讃岐は村名を証文にいれないようだ。こういう質物の証文も地域により文に違いがある。

●#55. 船荷の送り状 目形改慥積入荷送 A note of shipping Konbus, salted fishes and silver.
辛未=1871年=明治4年8月の送り状。大家屋又右衛門は加賀国橋立の船主で富豪として知られる。能登国福浦村の浅次郎が荷を確認して又印をつけて加賀国橋立の大家屋又右衛門に送った。箱入りの荷は銀ではないかと思う。切込はぶつ切りの魚を塩漬けにしたもの、黒のり、江差出荷の花折昆布など13品。重さの1貫は3.75kg。慥:たしかに。文書はこの前が6品目分欠けている。途中で荷が盗まれたりしないよう慎重である。船は加賀国白尾村の大三郎所持の永福丸。橋立は大聖寺藩前田家の外港であった。

●#54. 幕府の御家人が積聚で急死 承祖は除き遠縁に相続を願申す Inheritance of a samurai's property after his death with acute abdominal pain in 1838.
1838年=天保九年、武士が急死したあとの跡目相続に遠縁の者をと関係上司に出す願書。「佐々布八郎左衛門組の武田多冲66歳が積聚の症を煩い4月24日病死した。跡式は切米が三切で銀12匁8分。扶持米4人分。多冲が生存中急病になり養子を願っていた。多冲の母方三廻りの従弟の大森良助17歳に跡目相続下されるよう願いたい。この者は伊達織部殿家老大森英馬の三男です。多冲の孫善太郎が4歳に成るが、生れつき虚弱で痲症を煩い薬用しているが、さらに病気が加わり成長がよくない。相続の見詰が立たず承祖は除いてください。多冲は善太郎が今後成長したら、良助の養子にと願っていたが、書を出す前に病死しました。以上拙者と親類の連判をもって御憐愍でお願いします」。積聚:せきしゅう、腹に塊が出来て痛み腫れる病気、腹部腫瘤など。見詰:みつもり、見積。生付:生まれ付き。承祖:直接に祖父から孫に家督を継ぐこと、嫡孫承祖とも言う。不被仰渡内:仰せ渡されざるうち。扶持米:給料、年に米5俵が1人扶持分。切米:賞与、三切(年に3期)に幕府直属の御家人に与える蔵米(古米)、ここでは代りに銀支給。痲症:小児癇症(かんしょう)、少しの刺激で興奮や怒る気質。伊達織部:陸奥国柴田郡川崎(宮城県柴田郡川崎町)に2000石を有す仙台藩支藩の大名で伊達家の血縁。差出人佐藤吉右衛門は陸奥国(宮城県)栗原郡一迫村の商人らしい。よって武田多冲は陸奥國の幕府の御家人だったようだ。提出先は旗本御家人の相続の願書は幕府になる。なお武家諸法度では「当主が数え年17歳未満で死亡した場合は養子は許されず家は断絶になる」という決まりがあった。従ってここで虚弱な5歳の孫に相続(承祖)しないで、遠縁の男に相続をというのは理に適う。「4人扶持」は4人前後の家来や使用人を雇っているので、お家断絶は家来、使用人の浪人、失職という問題もある。幕府はこの願を受理した可能性が高い。

●#53- III. 御一戦之御覚悟 横浜より川崎迄の海岸也 A note after Namamugi jiken.
生麦事件関連文書。筆跡は#53- IIに同じ。「この度江戸表へ異国軍艦(英国)が来て、3月8日迄待ち賠償金を得ねば戦争に及ぶとの申上の書があり。これを承引する筋は無いので一戦が有るに付いては横浜より川崎迄の海岸の警衛を仰せ付けられた。そして早く人数をこの為に出して防御を粉骨致すよう言われた」。これは英国との開戦の見解を持った将軍か最高位の侍の言葉を書写したものであろう。3月8日は#53- Iに記載の2月19日より20日後の期限日である。周囲の者の緊張が読み取れる。承引:承諾し引き受けること。警衛:警戒し衛る(まもる)こと。この情報は他の2つの文書と共に書写されて周囲へ即刻伝達されたに違いない。「英国と戦争になるぞ」。このことはwikiのジョン・ニールの項に以下の記載。「幕府と英国の間に戦闘が開始されるのではないかとの噂が流れ、横浜の日本人は恐慌状態となり、多くが横浜を脱出した」。この後の実際の流れは#53- Iに記載。今回これらの文書を入手して幕末の緊張の一端がよく学習できた。

●#53- II. 速兵端を開候哉も 蕃屏之任の者備えよ A note after Namamugi jiken.
生麦事件関連文書。「横浜湊へ英吉利軍艦渡来。生麦で島津三郎家来が英吉利人を殺害に及ぶに付、島津三郎はいずれの要求も聞き難いとその趣で応接するとの事。即戦争で兵端を開く事も計られる。これを記銘し蕃屏之任にある者はそれぞれ向手を備えよ。我々もこのように心得を達すべし」。この文書は江戸表の開戦派の意見で江戸周辺での戦争の準備が必要と説くもの。薩英戦争を後に起こすように薩摩は一貫して戦闘を辞さず強気だった。島津三郎:島津久光、薩摩藩主。哉も:やも。難斗:はかり難し。蕃屏:拝殿の前の衝立状の塀、ここでは前線で戦う兵士。蕃屏之者は塀になって頑張れといっても将軍は知行地のような褒美を準備できるのだろうか?江戸時代の家は紙と木でできていて燃えやすいのだ。世界一の人口密集地、江戸の街中に軍艦から多数の砲弾が炸裂したら、怖しいことにまさに#53- I書簡の「江戸を焼払い申す」である。

●#53- I. 生麦事件後 英国書簡の大意 A summary of a letter from UK government to Tokugawa Bakufu after Namamugi-jiken in 1863.
生麦事件関連文書。「2月19日英国書簡の大意 生麦で英国の高官殺害については島津三郎と一類の者の処刑を求む。この儀の処置が困難ならば賠償金50万ポンド・ステルリングを幕府より差出すべし。その上に薩摩鹿児島に廻り、殺害された妻子の養育料30万ドル請取申す。拒否したら戦争に及ぶので日本政府より重臣を検使に英国軍艦に寄こすべし。以上本日より20日後までに返答すべし。この刻限を過ぎたら即刻軍艦を廻し、大坂、長崎、箱館、他の諸湊の出入りの船を奪い申す。また江戸を焼払い申す。これは英国の記章と条約に対する日本政府の落度でこのような事になり候」。然とも:しかれども、しかしながら。越度:落度。生麦事件(1862年8月21日島津侯の大名行列に混入した騎馬の英国人を、藩士が殺傷)に対する英国書簡の大意と題された文書。この文書とWikiの記載との違いを記した。ポンド・ステルリング=pound sterling=英貨ポンド。当時1ポンド=4メキシコドルなので記載の30万ドルは7.5万ポンドである。wikiによるこの後の経過:「幕府は期限の延長をした。4月6日に4月28日より分割支払いの文書が交わされた。しかしその4月28日朝廷と将軍とで攘夷実行を5月10日より施行との決定が成されたため支払い中止。英国公使ニールは軍事行動をキューバー提督(英国艦隊の主)に委ねた。戦争直前6月24日老中小笠原長行(唐津藩主)の判断で11万ポンドが支払われた」。きわどい状況である。この後の薩摩でのことは薩英戦争(1863年8月15日)を御覧あれ。この文書は私が骨董市で偶然入手したもの。文書の書式は幕末の文書に合っているが、内容に関する信憑性は全く不明。ただし以下の2つの文書と共に周囲へ伝達され拡散したものと思う。その間に内容が少し誇張されたかもしれない。

●#52. 当村長右衛門旅人を泊め置候 乍恐御陳書 A farmer stayed travellers and passers. It was a violation of the law in the Edo period.
「当村の長右衛門は村役の書付を委曲して旅人を差置する事を見聞きします。川隅村は飯豊山往来の道筋です。急情にて代官様の権限を用いて言い下しください。参詣の人から平常の通行の人までも差置することが無ければ、村中有難く覚えます」。委曲:細かく曲げて。差置:泊置。迚:とても、までも。百姓が旅人などを宿泊させるのは禁じられていた。村役としては事件が起って、連帯で処罰されたら困るだろう。村支配の代官に陳書を出した。当然の行為だろう。まさか博打はしてないだろうが。場所は川隅村。現喜多方市山都町木幡西向甲である。他の古文書があり確定である。

栞50 

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●#51. 幕府領管轄武士の山守への許状 許状如件 A certificate of a guardian who takes care of the hill for a village in 1670.
庚戌=1670年=寛文10年11月25日。南條金左より下総国千葉郡飯山満(はざま)村の山守の弥兵衛への許状。山守は世襲で特権を持って山の世話をして来た。この文章に仕事内容が詳しく書かれている。「見回って猪、鹿、野火の害を防ぐ。村の者を指導して草を刈らせる。土地を開いて作物を試作する。実生の立ち木の世話をする」。忠信:忠実で信頼できる。日後:今後。進退:今後の身の処置。草からせ:草加羅世とやや稀な漢字をあてている。さて南條金左である。群馬県立文書館に「上野国大戸馬場村御年貢可納割付之事」という寛文10年12月及び同様の寛文12年の文書がある。ここは幕府領。別に「上野国大田町御年貢」の文書もある。ここも幕府領。そしてこの飯山満村がやはり幕府領である。よって南條金左は幕府領管轄の役人で関東を担当した武士である。南条金左衛門の名で武蔵、下総の幕府領の支配もしている。「焚山」の場所は不明だが飯山満にあった丘陵地の山に違いない。弥兵衛さんはこの許状をもらって嬉しかっただろうね。文書は天災や戦乱にも耐えて346年後にも残りましたよ。山守関連文書は#13、#30、#36にも掲載。

●#50. 商家番頭より旦那へ難渋 金欠永30貫文 I could not get funds to supply the deficit for the time being. A letter from a staff to a boss.
時候と健康の挨拶は丁寧。足用金の不足を補う金の用立てを任された番頭の旦那への手紙。他からの入金が6月上旬になるので、則金欠永30貫文となる。講から100両3口借用をいわれたが、難渋し無理だったので御免ください。始末は会って申します。講から金を得る時は利息をあげて他の希望者と競争になる。押して:しいて。得貴意度:あなたの意に添うため。永30貫文=30両の不足に300両用立てる。相当大きな商家のようだ。番頭さんの苦労がわかる。

●#49. 大麦畑を質地に南鐐銀16枚請取 Borrowing Nanryo-silvers for a barley field as a pledge.
庚午=1810年=文化7年9月。内容は#25質地証文に同じ。大麦7升の畑を質地に3年間2両借用。返金したら畑は戻してもらう。南鐐銀は南鐐二朱銀ともいわれ精錬された銀の貨幣で2朱なので8片で1両。大麦7升は3年で21升=2.1斗。米換算で1.68斗。貸金2両=米8斗より畑の収穫量は随分少ないが、これで土地が質流しても計算は合うのだろうか?それにしても南鐐銀は美しい貨幣だね。装飾品として銀を身に付ける若者も多いが理解できる。これのペンダントや腕輪、耳輪は売れるのでは。

●#48. 御廻米御届代1.49両請取申所実正 A cost of carrying rice grains to a storage house.
甲申=1764年=宝暦14年6月の記録。御廻米を積出し湊の蔵に運んで届けた代金を受取った。村の名主がおそらく商人に記したもの。御廻米:江戸や大坂に船で回送する米。御廻米を6月3日から6月19日に5回納めた分の代金は合計で1.49両であった。金1両=金4分=永1000文。「此諸」の但書の意味が不明だが、既に受取っていた分だろうか。名主なので東日本の村。この運賃は農民負担の所もあるようだが、地方によって異なったのだろう。

●#47. 武家の最高級の上司への元旦の挨拶 参人々御中 A letter of greeting a new year from a samurai to a highly-ranked samurai.
読みやすく丁寧に書かれた元旦の挨拶。千里同風:世の中が治まって平和。年甫:としはじめ。当方無異儀加年仕候:私は異変なく加年しました。乍憚:言うのが憚られますが。御安慮思召可被下候:ご安心なさってください。期永陽之時:えいようのときをごし、日ながの時にゆっくり会える時を期待して。恐惶謹言:手紙の最後の文句、おそれつつしんで申し上げました。参人々御中:貴方に参る部下の人々の御中へ、最高級の人への付言。#5と同様の丁寧なご挨拶。

●#46. 此書御覧の上、早速奉還有べし This book should be returned back soon after reading.
江戸時代の本の最初と最後の紙に書かれた文章。最初「かりたなら ほんとなれは 早よ返せ 長置きすれば もめる種なり」。短歌になっている。ほんとは「本当」と「本と」を懸けている。最後「此書何地え(江)参上仕候共 御覧之上 早速奉還可有き也」。この本がどこへ行っても、御覧になったら早速還すべきなり。"奉還"を大きく強調している。"何地(いづち)え参上仕候共"がとくに面白いね。この本は今私の元に参上つかまつっていますが、此許がよくて他所へは循環はしたくないそうです。道歌心能策、天保4年(1833年)に刊行の本。 These writings were written at the top and last pages of a book published in 1833. Even if this book wanders to any place, you(book) should come back to me after someone reads.

●#45. 村中の談事で永代屋敷取替に支障なし Allowing an exchange of rice fields between the two farmers in a village.
庚申=1860年=安政7年7月。「忠兵衛の土地2畝15分+銀100.4匁(377g)を惣助の土地4畝12分と交換。村中談事の上取替地は実正。忠兵衛は1両2分を打置いたので成立し両方支障なし」。屋敷:家なしの畑地にも使われた用語。1畝=30分=100m2。銀1匁=3.75g。談事:事を談ずる。打置:そのまま置く。為致申間敷候:いたさせもうすまじくそうろう。故障:支障。銀100.4匁と金1両2分(1.5両)を同じ価値とすると、金1両=銀66.9匁となる。これは正しい相場である。 

●#44. 御尊君様の早朝御出向を頼上候 Would you please go there at an early morning on my behalf?
「先だっては差上お世話になりかたじけないことでした。さて来る13日受人のことですが、御尊君様他に差支えなければ早朝に御出向お頼みします」。侍の上司が早朝からの受人の出向を部下に依頼する手紙。差上:たぶん貴人に何か差上げたのだろう。萬:よろず、すべて。忝:かたじけない。然は:しからば。受人:保証人。差合:差つかえ。出張の代行など今日でも会社などでよくあることですね。江戸時代は上下の身分の違いは今より厳しかったから、先だってと同じく今度も当然受けるしかない。頼み事の依頼の時は部下でも、「御尊君様」と書いているのが人間的で面白い。 

●#43. 薮を少与囲うは心得違いと村方衆より申下し I made a fence to my own bush land. Representatives of the village complained about it.
己巳=1809年=文化六年。「七兵衛から譲受けの薮ちょっと薮に囲いをしました。村方衆より心得違いと申下されましたので薮の囲いはやめます。 今後は少しでも我まましません。村方で入用の節はいつでも100枝を差出ます。後日のため書付いたします」。少与、少と:ちょっと。相屋め申候:あい止め申しそうろう。江戸時代の村では個人所有より村方入用は優先される。心得違いだね。薮の木は燃料や竹として使われた。

●#42. 美濃國内記村庄屋の借金返済 次又何時借金か A letter to reimburse the dept of 10 ryo.
伊藤又吉は美濃國内記村庄屋を少なくとも1844年ー1865年の間勤めた人。金銭にしばしば困っている。伊藤松之助は又吉さんと懇意で金を貸している人。岐阜県歴史資料館に下記の如く多くの同様な文書がある。この手紙は又吉さんから伊藤松之助さんへ、「先日2口4両2分借用したがここに10両返すので改めて御請取ください」という内容。庄屋は年貢のことやなにかと大変な仕事だった。それを承知して伊藤松之助は気持ちよく金を工面している。親類だろうか?麁書:粗い書、謙譲語。砌:みぎり、時。

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●#41. 長州藩士小幡高政の御達書 宰相所持の軍艦2艘で大砲数発攘夷実行 A report from Choshu to Tokugawa Bakufu writing about Shimonoseki jiken.
癸亥=1863年=文久3年5月19日。長州萩藩士小幡高政がたぶん幕府へ向けて出した御達書の写しである。「5月10日亜墨利加國(アメリカ)の蒸気船が飄来(風に吹かれる如く来た)。豊浦郡府中へ碇泊しているので宰相所持の軍艦2艘に家来が乗り組み、ふと(不図)彼船に出会ったので大砲数発打った。すると何処(どこか)へ逃げ去った。行方は不明。赤間関(下関)に出張の家来がこのように私に申し上げた事である 小幡彦七」。不相分:あい分らず。小幡高政(1817-1906):別名彦七。長門萩藩士。この時江戸留守居役(各藩江戸屋敷に常駐し、幕府と折衝をする役)であった。毛利敬親(1819-1871):長州宰相、長州(萩)藩の第13代藩主。この事件は下関事件と呼ばれている。以下wikiより引用。「下関事件:朝廷の要望で将軍徳川家茂は1863年(文久3年)5月10日を期して、攘夷実行を命令。攘夷開始期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主、長州藩の支藩)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、ペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷から褒勅の沙汰があった」。田ノ浦は長府の対岸。この記載の”ふと出会ったので砲撃”が異なるが事件の大筋は合っている。この事件後1ヶ月後の6月に長州宰相が所持の軍艦2艘はアメリカ艦隊により撃沈される。さらに翌年8月 にはイギリス・オランダ・フランスを加えた四国連合艦隊に陸の砲台も破壊、占領された。ここに長州藩は攘夷は不可能と知らされた。なお小幡高政は維新後小倉県参事など歴任し、90歳の長寿であった。

●#40. 伊豆三嶋神社の大塔宮奉納太刀 A sword dedicated to Mishima jinja in Izu.
伊豆三嶋神社(静岡県三島市)の大塔宮奉納太刀を見て図説したもの。刀の部位の名称や長さがわかる。大塔宮:護良親王(1308-1335)建武の親政頃の人。後醍醐天皇の皇子で武勇に優れた。切羽:刀の鍔両側に添える薄い金物。綿頭=柄頭。ほか図に解説。長さ1寸=3.03cm、1尺=30.3cm。この刀が現在も同社に存在するのかは不明。

●#39. 国蔵の御領内立入許可を歎願 廣太の御慈悲を Please permit to get poor Kunizo back to the territory.
辛酉=1861年=文久元年8月。「領内立入禁止の国蔵。老年の親、幼少の子供を抱え(召連)農業ができ難いので我々も心配しているが、国蔵も年長になって先非を悔いています。御領内立入を許し遊ばす旨成下されますよう歎願いたします。そうしていただくと廣太の御慈悲を有難い仕合せと存じます」。御遊免:許しあそばす。抑:そもそも。歎願:嘆かわしい状況でお願いする。先非:前のよくないこと。廣太:広く太い。文書は前が少し欠けている。国蔵は何らかの事件で御領内立入禁止となっているようだ。先非を悔いているので許してやって欲しいという歎願。能倉村は播磨国宍栗( しそう)郡にあった。#12と同じ筆跡で庄屋の鉄三郎さんが両方に署名。字は巧い。江戸時代は田舎の村にも鉄三郎さんのような能書家が居る。「庄屋」の庄が縦に長い字で面白い。

●#38. 拙者、娘と離別後5ヶ月、双方は破談とす I divorce my daughter. I do not make contact with her anymore.
丙寅=1866年=慶応2年11月。「娘、秀と6月より離別でしたが、双方心得違いがあり。龍泉寺様の取扱で双方破談になりました。こちらから執心がましいことは致しません。もし他から何かあれば、私が取分(処理)します」。娘は寺に駆け込んだのだろうか?寺が仲立ちしている。秀の身内に執心の者がいるかも知れないので父が一札入れた。この一札は下の文章(#37)を書いた角蔵宛。従って秀はこの後角蔵と結婚するのかも知れない。百目鬼とは「どうめき」と読み、体に多くの目がある妖怪の名である。宇都宮には百目鬼通りという地名があり。伊之助さんは百目鬼通りの商店の人である。これは読みやすい文章。

●#37. 妻と熟談にて離縁、御憐愍で宗旨除を I divorce my wife. Please change the registration.
丙寅=1866年=慶応2年9月。「妻と熟談の上離縁し、6月里方へ戻しました。御憐愍のうえ宗旨除き下さい。以上聞かれてそうしてくだされば仕合せです。御役所様」。憐愍:れんみん、憐と思って。宗旨:宗門帳、戸籍と同じ。「前書きの通り相違なく印を押し差上げます 名主」。茂破町(現宇都宮市西原1丁目)の角蔵さんの文書。字が上手で文書の構成も巧み。商人としてよく訓練された人。

●#36. 境界を越えて松の木を伐採 我は伐主 I am sorry for cutting five pine trees of yours.
辛酉=文久元年=1861年。「桶の用材に山中で松5本伐採しました。堺を間違えて貴殿の持分でした。憐と思ってこの5本の木を下され有難いことです」。不相弁:あいわきまえず。山堺は水落:水の流れ方で決まった境界。分水嶺:雨水が異なる方向に流れる境界で山の稜線。「伐主:きりぬし」の表現が借用書の「借主:かりぬし」のようでおもしろい。肝煎:きもいり、名主、庄屋に同じ。最後に山守が「重ねて心得違いをしないよう篤と(徳度)申し付ける」と記す。山守:山の持主の代りに木を育て、世話をする仕事の人。この村の名は未確定。様々な江戸時代の用語が知識になる。

●#35. 父の村役就任には座敷不足と武士の住居占有 善処を願上候 My father can not be one of village representatives because we have only small lands.
庚申=1860年=安政7年正月。「父の忠兵衛がこの度村役になるが、座敷が狭い。その上小屋織日様に住居を提供して、百姓仕事ができかねる。惣助と畑を取替する筈、これは寄合で村方が取り究めたことである。」これらの事情を支配の武家役人に差出す。村の惣代がゆきと清助に読み聞かせて(対読)、代りに記述し作成した書類。江戸時代は農村で公文書が書ける人は少ない。庄屋などの村役はなにかと大変。清助と清介と2ヶ所で違う字だが、このような漢字違いは古文書ではよくある。今よりおおまかだったのですね。

●#34. 天保15年、42両の借用 無拠要用 A signed acknowledgement of a debt.
甲辰=1844年=天保15年7月。銀1貫=1000匁。総量銀2500匁=金41.7両である。相当な大金を12月まで借用。利息の年率は記載はないが10%前後だろう。無拠:よんどころない。要用=入用。慥:たしかに。仍而如件:よってくだんの如し。1両=10万円くらい。塔村、中江村、辻村:京都府北桑田郡の近隣の村、現右京区京北塔町など。 The dept is 41700 dollars. The lending period is five months. The interest is about 10% per year at around 1844 in the Edo period.

●#33. 宇都宮市の所有地の覚書 2反歩鶴田鳥 A note of lands owned by a man.
まさに走り書の覚えである。1反=10畝(せ)=300坪。1畝=100m2=30坪。畝を「せ」とかなで書いている。加領は不明だが鶴田に後に加えられた領地の意味か?鶴田鳥は鶴田町と思う。鳥度を「ちょっと」と読むに同じ。弐反歩の「歩」はなくてもよいがきりのよい数字でしばしば加えられる。3貫を3貫目と書くに同じ。それにしても土地は広い。茂破町が510坪、池上町が360坪、鶴田町が600坪。茂破町は明治になってすぐに茂登町になるのでそれ以前の文書である。短い文書だけど面白いし知識になる。

●#32. 常陸国を江戸時代の子供が記述 ひたちなめ川村 A child studies about Hitachi which is now Ibaraki prefecture.
子供が寺子屋で「ひたち」を学習。常陸国小見村の9歳未満の子とみる。小見御村と「御」の記載および近くの立原村の文書を所持。明神:今の神社。くわんおん:観音。作場:さくば、耕作地。羽鳥村、那賀村には神社がある。下総国香取郡津宮村は利根川の北側にも土地があり、常陸国と接し関係が深い。読みは「つのみや」である。常陸は現在の茨城県。各所の現自治体名は村名、郡名で簡単に分る。右に江戸時代の6歳の子の筆跡を掲載させていただきました。この文書の学習は時間がかかったけど大変楽しかった。

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●#31. 四名の者未納の年貢の一部金も不払 払及兼候 Four farmers did not do a partial payment of the tax due last year.
戊戌=天保9年=1838年。用語解説。許借金:未払いの年貢を借金として許可する。上納不借:借金させない。徳度:篤と、念入りに。観定之通:見定めのとおり。払及兼候:払い及びかねそうろう。砌:みぎり、時期。2人の老百姓は村の世話役なので年貢の不払の者の面倒をこのようにしてみてやるのだとよく理解できる。差出す相手は支配する侍。この短い文書には「完済」という語が7回も出る。 Two old farmers who took care of the village paid the money instead of the four farmers in 1838.

●#30. 垣根修理用の杭と柴、ぼけの採取命令 柴420本、杭140本 A record of preparing wood poles, brushwoods and Boke used for the fence of a storehouse.
「#13 棚杭の木を伐採」と同じ出羽国東置賜郡上和田村。3尺の柴420本、7尺の杭が140本、ぼけ8荷(60本詰)である。一荷:いっか、棒の両端にかけて肩に担い運べる荷物の量。1尺=30.3cm。蔵の垣が破損したので修理のため村の管理する林で調達の命令。写真はぼけの木と垣根。3月25日は農閑期だろうけど大変きつい作業である。山守:山の持主の代りに木を育て、世話をする仕事の人。今回は字の誤読もあると思いますが、文の解釈は問題ないです。 samurai demanded the inhabitants of the village to prepare 140 of wood poles, 420 of brushwoods and 60 of Boke trees used for the fence of a storehouse.

●#29. 正徳4年、儂の長期送りに差出す状 不調法の極 A note of a man who may be exiled to somewhere in 1714.
1714年=正徳4年、「をくり」をいわれた人が差し出す請状である。「をくり、国送り、神送り」とあるが同じで他の地へ追放のことだろう。役人と取引で「をくり」は無しの筈であったが、「をくり」になると昨晩いわれた。後日管轄奉行から正式の言い渡しがあるのだろう。判決に背きませんと最後に書く。この短い文書には「をくり」が6回も出る。勿論「をくり」は大変いやだろう。正徳ー享保(1711-1747)は伊豆七島送りの最盛期であった。儂:わし、自分のこと。弐之者:主犯でない。勘かへ不:考えず。不調法:行き届かない。御成:貴人の臨席。有出も:ありても。

●#28. 末寺の困窮にて御輪番所に申請 一紙半銭では無理 A monk of a temple is asking a boss temple to do a financial support.
文書はこの前があると思うが抜けている。智障さんは住職の名。惣門徒はこの寺の総ての門徒。少ない門徒が殊更(ことさら)に経済的に困窮し、自分らの力計(ばかり)では届かない。他の宗門に寄付(奉加)を要請も考慮。一紙半銭のわずかな寄付も維持困難。御輪番所:浄土真宗本願寺派で末寺を管轄する上級の寺。これには交替があり輪番というようだ。従ってこの文書は浄土真宗本願寺派の末寺の経済的困窮に対し上級の寺に援助を訴えている。甲子=1864年=元治元年5月の文章と見る。

●#27. 明治3年、母への家出の書置 後は宜敷取計を A letter left to the mother at his runaway from home.
庚午=1870年=明治3年正月。母への家出の書置。角蔵さんは宇都宮市茂破(もやぶり)町(現西原1丁目)の商店を経営する人(別の文書より)。この前年に40両の借金がある。金銭に差詰まった上の家出である。文章からはつらい状況と母親への愛情が読み取れる。2-5行目ではこちらも泣けてくる。古い時代の感動的な文章だね。無據(拠):よんどころない、やむをえない。不悪:あしからず。跡々の處:あとあとの所。思召可被下:おぼしめしくださるべく。取計:とりはからい。無至儀:至らざる儀。被遊候様:あそばされそうろうよう。就ては:ついては。勘弁奉願上:かんべんねがいあげたてまつり。夫の様:そのよう。 A merchant had borrowed a huge amount of money one year ago. Now he is leaving home and is writing a goodbye note to his mother. "I will leave home soon. Please do not feel bad about this and do things properly afterwards. I feel sorry so much for this runnway. Just forgive me. Please take care of your health later. To my dear mother. From Kakuzo." This happened in January, 1870.

●#26. 弘化4年、酒の通帳 拙者大酒家に非ず A record of ordering sake wines in 1847.
丁未=1847年=弘化4年の酒の通帳。播磨國加東郡横谷村の佐吉さんと美嚢(みのう)郡上松村の常治郎さんは隣接している。用語説明。慥:たしかに。午年算用不足分:昨年算用していなかった分。晦日:みそか、30日。夫:それ。夫主:主人がその酒を納めた。夫倅:せがれが納めた。夫与三郎:与三郎が納めた。1.73合/日の酒量消費は健康だが、別に酒屋や料理屋で飲んでいる分があるかも。なお「一」は紛らわしいので最初以外は記載していない。 Tsunejiro consumed 311ml of rice wine per day. It is healthy amount.

●#25. 明和5年質物畑証文 何角六ケ敷儀非ず A record of giving a wheat field as a pledge in 1768.
質物の状況が詳細に記されよくわかる。戊子=1768年=明和5年11月。麦畑で1斗2升が採れる。桑も採取した。養蚕地方だろうか。この畑を質物に金2両を受取った。「今年の年貢の払いに行き詰りました。子年の5年後辰年明けまではこの地に掛かる年貢や諸役は貴殿で行ってください。畑につき何方からも難しき事を申すことはありません。年季が明けたらこの金は残らず返します。その時は畑と証文共にお返しください。もし年季が過ぎても返金できなかったら、畑で何年でも貴殿が手作りしてください」。指詰:差し詰まる。茂:-も(助詞)。構無:かまいなく。何角:なにかと。六ケ敷:むつかしき=難しき。 A field can make 21.6 litter of wheat grain. He got 2 ryo(2000$) as a pledge of the field. He can get back the field if he can pay the money after 5 years later.

●#24- III. 寛政10年の田地譲渡証文 A record of selling a rice field for money in 1798.
戊午=1798年=寛政10年12月。9畝29歩=9.97畝の田を銀175匁で売る。1畝(せ)=30歩(ぶ)。1畝はほぼ1アール=100m2。1匁=銀3.75g。銀175匁=656.3g銀である。656.3÷9.97=65.8g銀/アールである。場所は同じ京都市右京区京北辻町。解読文は省略します。#23、#24が寛政年でほぼ同じ内容。 The price was 65.8g of silver for 100 m2 of rice field.

●#24- II. 寛政6年の田地譲渡証文 A record of selling a rice field for money in 1794.
甲寅=1794年=寛政6年12月。#24の1年後で内容はほぼ同じ。1反18歩=10.6畝の田を銀160匁で売る。1畝(せ)=30歩(ぶ)。1畝はほぼ1アール=100m2。1匁=銀3.75g。銀160匁=600g銀である。600÷10.6=56.6g銀/アールである。この値はこれまでで最も安い。下田は収穫量が低いからか?筆者は#23に同じ庄屋の忠助さん、場所は同じ京都市右京区京北辻町。解読文は省略します。#23、#24が寛政年でほぼ同じ。 The price was 56.6g of silver for 100 m2 of rice field.

●#24- I. 寛政5年の田地譲渡証文 A record of selling a rice field for money in 1793.
癸丑=1793年=寛政5年12月。#23の1年前で内容はほぼ同じ。9畝29歩=9.97畝の田を銀274.49匁で売る。1畝(せ)=30歩(ぶ)。1畝はほぼ1アール=100m2。1匁=銀3.75g。銀274.49匁=1029g銀である。1029÷9.97=103.2g銀/アールである。この値は#23は94、#18は131、#15は176、#10は102だった。筆者は#23に同じでたぶん庄屋の忠助さんだ。年寄より左は切れている。本帳=地籍は「六左衛門」である。 The price was 79.4g of silver for 100 m2 of rice field.

●#23. 寛政6年の田地譲渡証文 A record of selling a rice field for money in 1794.
甲寅=1794年=寛政6年12月。8畝21歩と3畝9歩の田、合計12畝=12アールの田を銀300目(匁)で売る。1畝(せ)=30歩(ぶ)。1畝は1アール=100m2に非常に近い。1匁=銀3.75g。銀300匁=銀1125gである。1125÷12=93.8g銀/アールである。この値は#18は131g銀/アール、#10は102、#15は176だった。これも京北町辻村(現京都市右京区京北辻町)である。本帳:元の帳簿。ここの地籍は「半右衛門」である。 The price was 93.8g of silver for 100 m2 of rice field.

●#22. 明和8年の年貢請取帳の表紙 A surface of a note recording annual tax from the farmers in 1771.
辛卯=1771年=明和8年10月7日より。根岸村の名主石山権太郎さんが百姓から受け取る年貢を記録する。「御永方」:金で納める年貢。「永」:1貫=1000文=金1両に相当。「欠方」:おそらくこの年に各百姓が米で納めるべき年貢の内で未納の分を書き留めてゆくもの。「寅納不足」:これは各百姓が昨年寅年に納めるべき分で不足していた分を書き置く。「永」は金の単位で主に東海、関東でよく使用された。#9は名古屋、#19は越後。関西は#7、#15のように米と銀が使用された。この年貢請取帳は来年辰年の10月まで記録されただろう。中身は無いが名主さんの仕事の一端がよくわかる。

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●#21. 戦闘準備をして登城之事 腰兵根持参の事 Every samurai should come up to the castle. Do not forget temporary foods.
合図があれば戦闘準備し腰兵根を持って登城、受持ちの場所へ集合との確認文書である。江戸時代前期またはそれ以前の文書だろう。他国の兵の城への攻撃が始まれば、元服後の侍はすぐ集合し戦闘態勢に入る。足軽は月当番の足軽長屋へ集合。一番手、海岸防備の二手は即座に持場に集合するようだ。城内では炊出しを開始する。字は丁寧に崩されていて読み易い。用語説明。惣:総、すべて。前髪:15歳前後に元服する前の者。着具:防具を着ける。腰兵根:兵が持つ携帯食料で普通3日分までの食料。給人:城の周辺に住み馬乗を許された上級武士。焚出:大釜で飯を炊く。一番手:一番に敵と戦う部隊。文書のこの後は所持していない。 Every samurai should come up to the castle after getting a sign. Each samurai should have arms and temporary food.

●#20. 元禄7年、年寄役就任はお断り申す 御断此如善処を A record of deciding an elder who takes care of the village in 1694.
甲戌=1694年=元禄7年3月。播磨国宍粟郡安賀村の年寄役就任を断る治右衛門さん。庄屋の吉右衛門と組頭は管轄の侍に治右衛門さんに年寄役をさせるよう判断を依頼。この侍は杉田村の木久右衛門氏。現代でも自治会でありそうなこと。今から322年も昔のことである。宍粟郡:しそうぐん、現兵庫県宍粟市。安賀と杉田は地名が残っていて距離は近い。 Farmers asked Jiemon to be an "elder" of the village. But he cancelled. People asked a samurai who governed the village to command Jiemon to be an "elder".

●#19. 寛政7年、年貢皆済目録 A record of a complete payment for the farmer's tax in 1795.
乙卯=1795年=寛政7年。越後高田藩の年貢皆済目録の最後の部分のみ。新潟県立文書館に同様の文書があり。実に年号、目録を出した侍も同じである。村名は違うはず。御物成:田畑にかける税。小物成:御物成以外の雑税。高懸物=高掛物:石高を規準に村毎に賦課される付加税。 永:架空単位で1貫=1000文=金1両に相当。文、分、厘は10進法。包分銀:つつみぶぎん、越後高田藩で年貢を納める際の追課税。侍の名が最後の「庄屋、組頭、惣百姓」より大きく堂々としているのが印象的。「包分銀」「高掛物」は新潟県立文書館の解読に依っています。 This is the last part of the record. The name of a samurai is bigger than the name of farmers.

●#18. 宝暦12年の畑売渡証文 何角申仁非ず A record of selling a rice field for money in 1762.
宝暦12年=1762年=壬午正月。8畝17分4合=8.58アールの田を銀300匁で売る。1畝(せ)=30分(ぶ)。1畝は1アール=100m2に非常に近い。1匁=銀3.75g。銀300匁=銀1125gである。1125÷8.58=131.1g銀/アールである。この値は#10は102、#15は176だった。譲り主は清兵衛さん、畑を買う人は庄屋の頼兵衛さん。何角:なにかと。仁:ひと、御仁。 The price was 131.1g of silver for 100 m2 of rice field.

●#17. 浜松藩家臣の尾張藩主への奉書 御旅館江罷出候 A greeting of samurai of Hamamatsu to a governor of Owari.
主要人物を記載。徳川斉朝(1793-1850):1800年(8歳)尾張名古屋藩第10代藩主となる。1808年(16歳)尾張中納言。1827年(35歳)藩主を辞める。水野忠邦(1794-1851):1812年(19歳)唐津6万石藩主。1817年(24歳)浜松6万石藩主。1834年(41歳)老中。1845年(53歳)山形に転封。徳川斉朝が旅行で浜松の本陣に宿泊。その際奉書して御挨拶したのは、浜松藩主水野忠邦の家臣団。家老の拝郷(江)縫殿(はいごうぬいと)と年寄の柘植平助は顔見せと御挨拶、浜松町奉行の青山頼母、秋元天兵衛は御用伺。麻上下=麻裃:あさかみしも、武士の礼服。江戸よりこの旨の申越があった。拝郷(江)縫殿は水野忠邦が唐津藩主の時から山形藩に移るまで一貫しての腹心の家老で千四百石禄高。この奉書は家臣団の顔ぶれより1818年ー1825年(文政元年ー文政8年)の間のことである。徳川斉朝が26-33歳名古屋藩主、水野忠邦が25-32歳浜松藩主で老中になる前。可被仰聞候:おおせ聞けらるべくそうろう。

●#16. 延享2年の年貢未納分の約束手形 御年貢に指詰 A missionary note for the delayed payment of tax in 1745.
延享2年=乙丑=1745年。用語説明。演手形=延手形(のべてがた):金をある期間繰り延べて払う約束手形。叓: 事の異字体。未進:納税しない事。指詰:約束の厳守に行き詰まる。急度:きっと。判人:証人で判を押した人。同断:前者に同じ。5人組の連帯責任として組頭が書いたもの。庄屋も記名。裏には大庄屋の裏書もある。様々の江戸時代に使われた単語が出てくるのが知識になる。

●#15. 宝暦10年の田地売渡証文 御勝手に支配を A record of selling a rice field for money in 1760.
宝暦10年=1760年=庚辰11月。2畝8歩=2.27アールの田を銀106.5匁で売る。1畝(せ)=30歩(ぶ)。1畝は1アール=100m2に非常に近い。1匁=銀3.75g。銀106.5匁=銀399.4gである。399.4÷2.27=175.9g銀/アールである。#10より高い。譲り主は辻村の清次郎さん。田を買う人は辻村の勘七さん。村の代表として庄屋、年寄、頭百姓が署名。銀の分が虫食いであるが「五」と観る。辻村の場所は他の文書より判明している。京都府北桑田郡京北町(現京都市右京区)である。昭和52年頃花背から京北町をよくドライブした。木が多くて空気がきれいだった。懐しい。 The price was 175.9g of silver for 100 m2 of rice field.

●#14. 寛政元年の柴山を売る証文 我等取持候処 A record of selling a hill in 1789.
寛政元年=己酉=1789年2月。柴山一ヶ所を銀31匁6分で売却。銀118.5gである(銀1匁=3.75g)。#10で1832年田は100m2=1アールが102.1g銀であった。従ってこの山は田1アールに近い値段である。兵蔵さんは善蔵さんのようです。 A hill was sold for 118.5g of silver in 1789. The price was close to the value of 100m2 of rice field.

●#13. 元禄12年の治水用棚杭の木の伐採命令 207本は根伐 A record of preparing wood poles used for the guard of people from a river in 1699.
己卯=元禄12年=1699年の記録。棚杭:たなぐい、縦に打ち込む杭。川除(普請):水防のための河川の工事。木実方:きのみかた、江戸時代に櫨(はぜ)の実を絞ってロウソクを作る事業。木実役人は管理する士(さむらい)だろう。根伐:木の根部から伐ること。棚杭用の木の伐採を命じられた民が根伐を減らすよう要請。資:たのみ。それを請けて役人が作成し直した証文である。木の太さや長さも細かく規定。279本のうち207本は根から伐る。大変な作業だね。最後の「日の入山守」はその日に入山の山守。山守:山の持主の代りに木を育て、世話をする仕事の人。場所は山形県東置賜郡高畠町(もと上和田村を含む)、米沢市(もと木和田村、長手村を含む)である。裏貼りの紙に「山形県羽前国東置賜郡 和秀小学校」とある。東置賜郡:ひがしおきたまぐん。川は最上川上流。 A governor demanded the inhabitants of the village to prepare two hundred and seventy-nine wood poles used for the guard of people from the river.

●#12. 安政6年、御憐愍で歎ケ敷困窮者に金を請願 Asking a help for the poor farmers.
安政6年=1859年2月。組の年寄が困窮者、三太郎としやうの夫婦の状況を説明し金を請願。下地:本来の素地 。一両年:1-2年。已前:以前。不仕合:ふしあわせ、不幸。歎ケ敷:なげかわしき。世話行届兼:世話ゆきとどきかねる。既飢命におよび:既にうゑ(飢)が命に及び。乍恐:おそれながら。御憐愍(れんみん):あわれと思って。憐:あわれ。愍:みん、あわれ。御枚:銀何枚=お金。親類与而茂:親類とても。介抱仕罷有候得共:かいほうつかまつりまかりありそうらえども。兼帯庄屋:1村の庄屋が2-3の村の庄屋を兼ねたもの。重病で農業もできず、2人共に打ち臥し、うゑ(飢)が命に及びと説明。宛先はおそらく村を支配する武士に宛てたもの。福田組は5人組の名前だろう。この文書は播磨国宍栗郡能倉村のこと(#39参照)。

栞10 

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●#11. 宝永5年の南部馬飼育所の馬飼料請求 A cost for nourishing horses in 1708.
戊子=1708年=宝永5年6月、南部馬飼育所で馬32頭飼育の費用を計上した文書。記載された人物を解説する。南部備後守は南部藩第6代藩主、南部信恩1678-1707。宝永4年(前年)に30歳で死亡している。この人の馬だった青毛馬「駿星」が飼育所に戻って来た。御馬方諏訪部文九郎は宝永元年(1704)に岩手より公儀御買馬を首尾よく江戸に納めた人。従って南部藩で藩主の馬の世話をする人。松平陸奥守は陸奥仙台藩第5代藩主、伊達吉村1680-1752。宝永5年は29歳である。栗毛馬を飼育所より購入した。松平左兵衛督(さひょうえのかみ)は不明だが伊達藩主の御馬方であろう。この時代馬は現代の自家用愛車。維持費はかかる。大体馬1頭年10両かかるという。この文書記載の馬1頭1ヶ月分、米3斗5升だと3.5x12=42斗/年=10.5両/年である(1両=米4斗)。ぴたりと合っている。10両は今の100万円。南部地方は古来より馬産地として有名。容積は10進法で勺18ml、才1.8mlである。この文書で大変勉強になった。 A cost for nourishing a horse was ten thousand dollars for a year in 1708.

●#10. 天保3年の田畑譲渡証文 A record of selling a rice field for money in 1832.
天保3年=1832年=壬辰12月。14.7畝=14.7アールの田を銀400匁で売る。1アール=100m2。1匁=銀3.75g。銀400匁=銀1500gである。1500÷14.7=102.1g銀/アール。この型の文書が多いので向後比較できる。譲り主は辻村の平八さん。田を買う人は同村の栄治郎さん。請人庄屋とは保証人で庄屋。他に村の代表として年寄、頭百姓が署名。 The price was 102.1g of silver for 100 m2 of rice field.

●#9. 大金94両借用、餅米270俵と仙台大豆55俵は質物に A record of taking rice grains and soy beans as a pledge.
癸酉=1693年=元禄6年5月。金94両(小判1枚=1両)借用と質物の記録。解説は以下参照。5月28日ー6月28日まで1ヶ月借用。大金である。利息は金2分と銀12匁3分。金2分は0.5両である(1両=4分)。銀は匁、分、厘で10進法。1匁(もんめ)=銀3.75g。金、銀の換算は金1両=銀60匁。従って銀12匁3分を金に換算すると0.205両。1ヶ月の利息の総額は0.5+0.205=0.705両。0.705÷94(貸出金)=0.0075/月=0.09/年。利息の年率は9%である。さほど高くない。なお幕府は幕末(1842年)に年率12%と定めた。金1両=現代8-12万円位。名古屋市には戸田町、船入町、蛯屋町(えびや町、図の右端)のすべてがある。質物の餅米と仙台大豆の価値は後に調べるつもり。 This is a record of taking rice grains and soys beans as a pledge in 1693. Interest rate of borrowing 100 thousand dollars was 0.09 per year here. If the borrower can not return back the money and interest within a month, he loses rice grains and soy beans.

●#8. 能「花月」の始まりの段 我が子はいずこへ The beginning of "Kagetsu" of Nou.
能の遊狂物の一曲。半俗半僧の少年花月(シテ)と諸国一見の僧(花月の父、ワキ)の再会を花月の遊芸を交えて描く。以下はあらすじ。「父は元筑紫国英彦山の人、左衛門である。彼は7歳になったわが子が失踪したことに世をはかなみ出家し、諸国を巡っている。清水寺に参詣した際近所に面白いものはないかと寺男にきくと、門前に面白い遊芸をする少年(花月)がいるとのことである。寺男の勧めでその少年の舞を見ると、まさに我が子であることに気付く。聞けば花月は天狗に攫われ諸国の山を巡ったという。再会を喜んだ父子は一緒に修行の道を歩む。」 ここでは始まりの父の名乗りを掲載。江戸時代の能の本は骨董市で安く購入できる。 This is the beginning of "Kagetsu" of Nou(能). A monk is wandering various places. He is arriving at Kiyomizudera(a temple), Kyoto. Soon after this, he will meet his son by chance.

●#7.宝暦13年の年貢計算と請求の記録 相違有間敷者也 A record of farmer's tax in 1763.
癸未=1763年=宝暦13年11月。近江國日野周辺の村の年貢の記録である。解説は順に分けて記載。場所の記載はないが判明している。滋賀県蒲生郡日野町の文書に下の記載があり。由比平内さんが水野藤左衛門さん、武永傳太夫さんと共に宝暦14年(1764年)の朝鮮通信史の御馳走役(接待役)になって近江八幡へ出張している。朝鮮通信史は宝暦14年5月に兵庫津に来ているので、由比平内さんはこの文書に署名した6-7ヶ月後に近江八幡で朝鮮通信史接待役をした。相違あるまじきものなり:違うことがあってはならないものだ。 A record of annual farmer's tax in 1763. The tax rate was 0.32. Rice grains(2/3) and silver(1/3) were payed for the tax.

●#6.武家の手紙、居候の供左衛門引き取り申す A letter from a samurai to another samurai.
江戸時代の武士の手紙である。「一筆啓上します。弥々御勇勝のことおめでたいことです。それではお世話をしてくださった居候、供左衛門を拙者の方へ引取りたく、お世話ながら手紙を送って遣し下さる様に願い奉ります。恐惶。5月11日」。おそらく供左衛門さんは青木宗兵衛さんの肉親で、斎藤重次郎さんの口利きで別の人の所へ居候(いそうろう)しているのだろう。居候:他人の家に世話になり食べさせてもらうこと。これは同格の武士の手紙。 This is a letter from a samurai, Sobei Aoki to another samurai, Jujiro Saito. "I want to take care of my relative, Kyozaemon who lives with someone else." Jujiro probably introdeced Kyozaemon to someone else.

●#5.江戸時代の武家の上司への手紙 A letter from a samurai to his boss.
やや厚手の紙に書かれたもので、武士から上司の武家への手紙だろう。勿論御家流の字の典型である。最近解読できたので掲載します。最後の恐惶謹言は定型の手紙の末尾の言葉。惶:こう、おそれ。候:そうろう。愈:いよいよ。随て(したがって)の「て」は而。可被下候:くださるべくそうろう。乍憚:はばかりながら。然は(しからば)の「は」は者。罷:まかる。茂:助詞「も」。同僚や肉親への手紙は薄い紙で走り書きが多くもっと読みづらい。 "Spring has come. I think your family members are doing fine. I am fine too. Therefore, you just please feel tranquility about my health. I am sorry I do not go to greet you. Sincerely yours." Letters written in the Edo period should be read vertically from upper right to left.

●#4.大倉好斎 Kosai Okura 1795-1862
京都生まれ。京都の古筆鑑定家、即ち鑑定のプロである。号は古昔庵。1830年(36歳)紀州公に仕えた。1851年(57歳)法橋。1830年ー1852年平安人物志に掲載あり。68歳で歿。これは江戸末期の鑑定書。落款は古昔庵好斎。庚子=1840年=天保11年冬、46歳に記載。「竪(たて)物 鯉図 有印 右 山田道安正筆」。「縦長の鯉の画で印があり、これは山田道安の筆に成る」。右上に割印がある。右の「鑑定」は鑑定書を包む紙の表書き。山田道安の作品は私は所持していない。 Kosai Okura was an appraiser of paintings and calligraphies in the late Edo period. He made this written statement in 1840 for someone who holded a painting. He lived at Kyoto and belonged to a governor of Kishu, Tokugawa.

●#3.英一笑 Isshou Hanabusa 1804-1858
江戸末期の極め書きを例示する。英一笑は江戸後期の画家。英一蝶→佐脇嵩之→高嵩谷→英一珪→英一笑。5代目となる。高嵩谷の子または孫。55歳でころり(コレラ)で歿。「さからぬうちにちりました 英一笑」と詠んだらしい。「極札、一蝶五代英一笑」。「紙地拾弐枚職人合之図。古英一蝶正筆御座候。以上」。天保十己亥秋九月。印は英氏。割印。天保10年=1839年、 36歳の極書。この「候(そうろう)」はやや稀と思う、左の3に近い。1は上の武士の上司への手紙でもっとも丁寧。1の人偏を点で略したのが3で、この点も無くしたのがここの候。4は上の手紙にありよく見る。あと5もよく見るがもっとも略したもの。 Isshou Hanabusa was a painter who was a successor of a Hanabusa school. Here, he made this written statement in 1839 for someone who holded paintings made by Itcho Hanabusa. He was not a professional appraiser of paintings. Various types of sourou(候) are shown on the left.

●#2.民画三点 Three Minga.
幕末頃の民画3点。すべて肉筆で25X20cmの小品。中央は象の上に乗る普賢菩薩。右は天神様。左の女性は不明。象の変わった顔、馬の大きな目が面白い。左を除いて子供が画く様な画だけど、好きだ。 Minga(民画) is the paintings which were produced by amateur persons. However I love some Minga so much. Look at the funny face of an elephant.

栞 最後 

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●#1.御家流の書と唐様の書 The Oieryu style and the karayo style of calligraphies.
上段は御家流。下段は唐様。御家流は丸い。唐様は比較的尖っている。 The Oieryu style(Japanese style) is round and smooth(upper half). Karayo style(Chinese style) is relatively rough(lower half).

<文書番号とタイトルの一覧>       上に戻る BACK TO TOP
#1. 御家流の書と唐様の書
#2. 民画三点
#3. 英一笑の極書
#4. 大倉好斎の鑑定書
#5. 武家の上司への手紙
#6. 居候の供左衛門引き取り申す
#7. 宝暦13年の年貢計算と請求の記録 相違有間敷者也
#8. 能「花月」の始まりの段 我が子はいずこへ
#9. 大金94両借用、餅米270俵と仙台大豆55俵は質物に
#10. 天保3年田畑売渡証文
#11. 宝永5年の南部馬飼育所の馬飼料請求
#12. 安政6年、御憐愍で歎ケ敷困窮者に金を請願
#13. 元禄12年の治水用棚杭の木の伐採命令 207本は根伐
#14. 寛政元年の柴山を売る証文 我等取持候処
#15. 宝暦10年の田地売渡証文 御勝手に支配を
#16. 延享2年の年貢未納分の約束手形 御年貢に指詰
#17. 浜松藩家臣の尾張藩主への奉書 御旅館江罷出候
#18. 宝暦12年の畑売渡証文 何角申仁非ず
#19. 寛政7年の年貢皆済目録
#20. 元禄7年、年寄役就任はお断り申す 御断此如善処を
#21. 戦闘準備をして登城之事 腰兵根持参の事
#22. 明和8年の年貢請取帳の表紙
#23. 寛政6年の田地売渡証文
#24. 寛政5年の田地譲渡証文
#25. 明和5年質物畑証文 何角六ケ敷儀非ず
#26. 弘化4年、酒の通帳 拙者大酒家に非ず
#27. 明治3年、母への家出の書置 後は宜敷取計を
#28. 末寺の困窮にて御輪番所に申請 一紙半銭では無理
#29. 正徳4年、儂の長期送りに差出す状 不調法の極
#30. 垣根修理用の杭と柴、ぼけの採取命令 柴420本、杭140本
#31. 四名の者未納の年貢の一部金も不払 払及兼候
#32. 常陸国を江戸時代の子供が記述 ひたちなめ川村
#33. 宇都宮市の所有地の覚書 2反歩鶴田鳥
#34. 天保15年、42両の借用 無拠要用
#35. 父の村役就任には座敷不足と武士の住居占有 善処を願上候
#36. 境界を越えて松の木を伐採 我は伐主
#37. 妻と熟談にて離縁、御憐愍で宗旨除を
#38. 拙者、娘と離別後5ヶ月、双方は破談とす
#39. 国蔵の御領内立入許可を歎願 廣太の御慈悲を
#40. 伊豆三嶋神社の大塔宮奉納太刀
#41. 長州藩士小幡高政の御達書 宰相所持の軍艦2艘で大砲数発攘夷実行
#42. 美濃國内記村庄屋の借金返済 次又何時借金か
#43. 薮を少与囲うは心得違いと村方衆より申下し
#44. 御尊君様の早朝御出向を頼上候
#45. 村中の談事で永代屋敷取替に支障なし
#46. 此書御覧の上、早速奉還有べし
#47. 武家の最高級の上司への元旦の挨拶 参人々御中
#48. 御廻米御届代1.49両請取申所実正
#49. 大麦畑を質地に南鐐銀16枚請取
#50. 商家番頭より旦那へ難渋 金欠永30貫文
#51. 幕府領管轄武士の山守への許状 許状如件
#52. 当村長右衛門旅人を泊め置候 乍恐御陳書
#53-I. 生麦事件後 英国書簡の大意
#53-II. 速兵端を開候哉も 蕃屏之任の者備えよ
#53-III. 御一戦之御覚悟 横浜より川崎迄の海岸也
#54. 幕府の御家人が積聚で急死 承祖は除き遠縁に相続を願申す
#55. 船荷の送り状 目形改慥積入荷送
#56. 田の石高計算は誠に正確にして違有間敷候
#57. 廣太之御慈悲を 焼失ではたか麦5石は延納に歎奉
#58. 底引網之肴 抜売仕間敷事
#59. 檜六本六両弐分也
#60. 出作不足の散田年貢米 肝煎は難儀に御座候
#61. 農馬悪馬に成候 借金に難渋
#62. 随分吟味の上かれ物書頼上候
#63. 我当字之名手也 山売葉出堂座八両受取
#64. 村税は商家規模に随而是違可有者也
#65. 新餅與松茸弐本進上仕度候
#66. 相撲興行に御方様連中来臨
#67. 大借不仕合凌方六ケ敷 養子娘養育料十五両受取
#68. 御一代之事 田地蔵立喜ひ有長命
#69. 鱒荷商内新登に御座候 下野関置米案居申候
#70-I. 讃岐の田地譲渡手形 石高計算は八拾弐年前に無相替御座候
#70-II. 讃岐の田地譲渡手形 下田は九掛けに御座候
#71. 丹波国桑田郡辻村周辺の田地譲渡手形のまとめ及び讃岐國との比較
#72-I. 惣代庄屋栄助四年前の江戸直印御書附紛失 癇症にて何事も相分り不申候
#72-II. 癇症躰、無正気の栄助の召出、吟味、取調は御免願上候 不都合之儀而已
#73. 金5両之質地成共 建家十二年借用申候
#74. 丑の年寄八年 銭利相済不申候はば御死配を
#75. 文久二年ものはそろへ その壱 有そうて無ものは「二本さしの通人に揚屋の身上」
#76. 苫百三拾枚代金慥受取 両替六八夕に御座候
#77. 拙者之相撲番付 御落手可被成下候
#78. 商品重量と金換算 僅之違有間敷候
#79. 豆腐三拾文に候 五丁宅迄御届申上候
#80. 我書籍を好む 次十冊斗頼申す
#81. 乍御苦労今日中御成必々奉頼候
#82. 山陽先生之詩書高値にて売候
#83. 甚御面倒様 手紙着次第親共御達願申候
#84-I. 我于村参会紋付上下着用 向後我侭御改申候
#84-II. 我仕合崇忝仕候 逐従上下并名字御免許
#85. 文久二年ものはそろへ その弐 けんのんなものは「箱館の用立に松前行の早出帆」
#86. 出羽国八沢木道悪道に御座候故 普請致度候
#87. 弘法大師御除極悪日
#88. 寳国寺様御講伎会は何頃相勤候哉
#89. 質物米一俵此者尓御渡可被下候
#90. 縁付の宗旨送り 浄土真宗に紛無御座候
#91. 宗門改にて寺送り宗門一札 躮種吉妻に縁組
#92. 御膳料理五人前 〆弐圓廿七銭也
#93. 立后御用一冬御表番 半右衛門壱領
#94. 木の販売は銀壱匁で以て購買出来る重量が単位にて御座候
#95. 三拾両借用人無所勘当 加印人拾両に利足三ケ年で払申候
#96. 御郡代様明日御成 紋付之羽織は何方に留置候哉
#97. 文久二年ものはそろへ その三 無てこまる者わ「金銀にうちのかか」
#98. 油は高価に御座候 壱升銀二拾六匁頂戴
#99. 箋注蒙求并秘事百撰 御返却申居候
#100. 山村信濃守様御見番候得ば埒明
#101. 太縄之壱貫は銀七分三厘にて御座候
#102. 利息十月十二日着に相済候様急々御願申候
#103. 三十六歌仙一両日中 御拝借仕度奉願候
#104. 御境御名産鮎柿ゆす送り被下 千万忝
#105-I. 諌計勧め拾弐軒猥に寺替致し 千萬歎ケ敷奉存候
#105-II. 寺替に致様に色々言立淹立させり 凶作難渋弥増に相成百姓永続難仕候
#106. 松兵衛殿取扱被下候上は毛頭故障之筋無御座候
#107. 過日は御来駕忝候 他行折節之義鳥渡御尊来
#108. 九拾六匁之油糟 御預り也
#109. 其御領所之留治と申者 当領分二口境と申所より相越儀死居候
#110. 先日粗御物語候茶入墨跡之懸物 御才覚資入候 
#111. 北前船荷物味噌七拾貫百 弐百六拾九匁六分也
#112. 御たつねあらまほしく候
#113. 丹波屋手代惣治郎 諸事取計正月より桂材木屋御仲間へ
#114. 来四月朔日江戸詰被仰付 有難仕合奉存候
#115. 松前表出帆仕候 筵包四箇安宅米屋殿え差送
#116. 江指表大出火蔵三つ落 松前烈風破船数多
#117. 大同様之代呂物 値段何程も御買取可被下候哉
#118. 鳥渡申上候四本物四寸角に相成不申候
#119. 鯡類高値喜悦罷在 久遠より江差迄新網立ち
#120. 今日御暇出御帰郷 目出度存候
#121. 芳札致薫誦候 暑中為御見舞御儀忝存候
#122. 上円苫百枚三拾五匁 金弐歩に羽銀弐匁五分慥に受取
#123. 先日廿貫計御残之荷 御帳合御印替可被下候
#124. 御願申上置候米 今日此ものえ御渡し可被下候
#125. 増寿丸作事相済下り物積入候 当年高値に困入申候
#126. 愚妾様明日芝居見物 貴家御内君御同伴御誘
#127. 御仲間衆中右之商い仕候 池甚弐百九拾九匁
#128. 拾三両三本積入 御改請取可被下候
#129. 苧類案外高値 作事船数多に大金入用当惑
#130. 桧三間丸太與鳥居様弐本 大急ぎ御積登し被下度候
#131. 壱枚にても御出来之程奉願 年越兼申候
#132. 相場村之分計上四五分迄受取申候
#133. 在人別出離之宗旨之義 写し取置可被申候
#134. 厚紙壱束銀三拾六匁五分に御座候
#135. 御達之趣事済大慶 案文之通調印出来候
#136. 肥しもの頓と引立不申大いに心痛
#137. 左八郎六三郎文四郎永井姓にて彦兵衛白井姓
#138. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その壱
#139. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その弐
#140. 新春之御慶重畳目出度申納候 御越歳珍重御儀
#141. 御入船途切物気配克 御入船在之物嵩少々行当り気味
#142. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その三
#143. 伊勢講御当番 如何敷候得共御懐中矢立進上
#144. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その壱 作兵衛の先祖は加賀の仁、高瀬に百年仕申候
#145. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その弐 御留守居役は最上の御奉行様にて御座候
#146. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その三 江戸直便飛脚と日用御用は難有仕合、三度飛脚は御断
#147. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その四 紫野芳春院昭堂再建 加賀表御武家十七名御登り
#148. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その五 金沢大衆免より中心へ家千弐百余焼失致候
#149. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その六 前田主税様御館入之儀不相叶も献上品差上
#150. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その七 芳春院御仮屋御普請 芳春院様弐百回忌にて御座候
#151. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その八 当春太子様御降誕 御進献物にて御参内
#152. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その九 芳春院御法事にて御上京之御役人多数
#153. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その拾 殿様の御男子御誕生、前田主税様叙爵
#154. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 拾一終章
#155. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その四
#156. 正月の餅はたべ候てもくるしからすが
#157. 御子息様えも宜被仰上可被下候 毎度御不音仕候段御免
#158. 乍慮外御心安可被下候
#159. 木仏尊像壱躰御札御染筆 難有安置可有之候也
#160. 道中にて間違為急変等御座候はば 紀州近きは連名方へ 上方は醍醐表へ
#161. 先日は寛々預御馳走難有仕合
#162. 越後屋大丸屋行事 値段相下候様厚可心掛旨 被仰渡奉畏候
#163. 内記へ母より 飯米、炭、茶を御取寄被下候やうに願上候
#164. 内記様へ 御茶之品御見舞得貴意候印迄
#165. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その五
#166. 出羽の僧侶も女房言葉を学習 その六
#167. 拙寺身内之僧 何卒一席御法座御勤被下度奉願上候
#168. 我常山記談を書写仕候
#169. 千菊丸殿へ 釈迦達磨をも下部となす程の人に成り給へ
#170. 荷物売様何連も当てに相成不申 きみあしき事に奉存候
#171. 院主出立にて上京参殿被致候 留主中死去人在候節他寺にて御世話
#172. 美作国井村の平右衛門四国辺路に被罷出候所 伊予国井内村にて病気養生
#173. 生野御掛屋へ 御上納銀壱貫五百三拾六匁七分八厘御改可被下候
#174. 借金利足は月一分五厘に御座候 御京印米請取申候
#175. 借金は五拾目残すが佳き也 今津屋孫十郎殿へ
#176. 御廻米江戸大坂予州金岡湊入用 追加割にて御座候
#177. 何卒不苦候はば此次弐三冊 拝借可奉願上候
#178. 困窮村方にて人少き村方に御座候 町場市場にては無御座候
#179. 伊勢津飛脚問屋矢野屋吉三郎手代差扣へ居申候 御返翰出し如何
#180. 野子無異在然候 乍恐御心安思召可被下候
#181. 先何事も永日得御意可申上候
#182. 帳面殊之外応々相成候段 何卒貴所様にて御調可被下候
#183. 越銀段々延引仕候 此度差送り申候
#184. 御出立御延引を願上申候 日切にても道中腹痛と御断申上 可相済奉存候
#185. 当村清蔵一件之義 御心配被成忝仕合に奉存候
#186. 右之衆八名連状を以羽出村庄屋へ申来り候 徒党同前にて無拠御吟味
#187. 御勤人惣代様 銀九百三拾三匁 井村より上納にて御座候
#188. おにじりは香の事に御座候
#189. 書置も方見となれや 筆跡残には何国に住むとも見て候らわん
#190. 掃部、帯刀、靱負、修理 人名にて御座候
#191. 啓蟄、無射、春分、太簇、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、臘月 古い月名にて御座候
#192. ゆほびかなる池に蓮のいとうるはしきか 目もあやに所せきまて咲出たり
#193. 大伝馬町三丁目大丸屋より馬喰町三丁目下野屋へ 〆壱貫百拾六匁七分九厘請取
#194. 皆川之御摹写 好も猶御工夫御願上候 粉本お渡し申候
#195. 貴僧様先頃より御痛所にて 被成御難義候由
#196. 此壱封乍御世話 御指出し被下候様御頼
#197. 貰候子は先親元へ差帰候 猶御出勤之上御談申取計候
#198. 御修法毎日御食料之儀 其須御入魂難有御座候
#199. 右の手こふしを握り頭も砕けゆと六つ七つ叩き給へ突倒し座を立つ
#200. 御吉慶千里同風重畳目出度申納候 御用向何分なり共無御遠慮御申越可被下候
#201. 難有御沙汰頂戴仕候 御文庫之内壱折三十本御恵投忝奉存候
#202. 芸州不動院より御達し 貴公様のを私ひらき大くに失礼御用捨可被下候
#203. 親は抱そたて少も病有ては神に祈り身もかはりたきほとに思ひ 子の息災にして成長を願う
#204. 文久二年ものはそろへ その四 こわそうてこわくなへものは「御足軽の威光に古町の居声」
#205. 持病之痔強く差替え 御撫物之義は難勤故断申候 伴僧は請申候
#206. 此度無別条相続被仰出候段 当方も歓喜不過之仕合に御座候
#207. 切売のすいくわに無官のあつもりにて御座候
#208. た葉粉等舟荷弐固相届不申候 不調法成事甚敷御座候
#209. 貯石御置米御見分 御越無成候に付人足御数六厘要用
#210. 緋無地壱速丈けにても為御染被遊被下度候
#211. 御地御婚礼首尾よく御調遊しまし目出たく存まいらせ候
#212. とよ次事たんたん御世話とも忝存候 あらまし右近に御きき可被成候
#213. 養子庄三郎婚礼相仕候 依て来る廿二日麁酒進上仕候
#214. 養子庄三郎婚礼相仕候 友人や血縁の者を交えた宴にて御座候
#215. 御頼申上候絵讃之事 御世話不浅忝候
#216. 御きけんよくいついつ迄も相かわらす御出可被下候
#217. 慈心院方へ之書状之返事今に相届不申候
#218. 徳右衛門山御引受被成下候様に願上候処 早速御引受被成下千万忝仕合
#219. 賦十一月中無滞急度可皆済 絶人於有之は百姓辨御年貢可納所
#220. 金一両は銀六拾弐匁にて御座候 大工は一人四匁之賃金
#221. ほしたら茶能書掛御目申候
#222. 明日東寺へ行向ひ候 御輿并召連候者之弁当三つ願上候
#223. 屏風之義被仰下候 年中は余日御座なく春早々仕置差上度候
#224. 御日柄よろしく御五もし様御婚姻到候事 御めでたくまいらせ候
#225. 種粕六五也頂戴 代銀弐拾七匁五月後迄払いに御座候
#226. 太郎兵衛儀鉄炮疵受候に付 悴半次郎仕業是有間敷候
#227. 嘉永六年之往来手形 此度信州善光寺并日光山富士山為順拝罷出申候
#228. 被任例笋一折被為差出候処 甚満足致候
#229. 甚麁末之品殊に風味如何敷存候 任手製に進上仕度候
#230. 廻向のみ早々帰山奉存へく存候所 此間京着より腹薬又工面あり
#231. 此度菊之御紋遠慮可仕旨 五ケ院え従御門室仰渡候
#232. 雨一向ふり不申殊の外ひでりに御さ候 知行所なとは川水空に候
#233. 右六町昼前収納可致候事 御蔵入次第帰宅致させ可申候事
#234. 立木千本御払下 年賦弐石壱升宛十ケ年分無相違上納可致候
#235. 開山大師八百五十年忌来る丑の年也 依之諸役人下行米半減に定置候
#236. 人命大切之御事に奉存候に付 非人相果て候にて御届申上候
#237. 当御末流修験に相違無之候に付 願之通院号宝蔵院御許容被下候
#238. 来春御修法御参勤之義に付 舎利守御頼被申候
#239. 二条御城天守火災の関東御機嫌伺い惣代入用
#240. 房君様御誕生御祝餅 御頂戴被成可被下候
#241. 醍醐は往古差障も有之候由 御許容無之趣に相聞候
#242. 御出下され候もと入まいらせ候
#243. 熨斗目の義御了簡違御座候間 未申付候はば見合可申旨
#244. 繁丸容体書 大弁も一日に壱度つつ能々通仕申候
#245. 明日一言寺之御祈祷之御札 例之通差上候
#246. 紅紫之二色相除諸色之内 晴之儀にて情格別に何色を着用
#247. 余り長髪にも御座候は甚以失礼之至に御座候
#248. 此品時候御尋問之印迄に致進上之候
#249. 次後御出京も候はば 必々御逗留も候様奉存候
#250. とふそとふそ私に内々にて少々はかり 小使下しおかれ候やうにくれくれ御願上

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