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< 加賀藩京都屋敷,Kyoto Branch of Kaga-han >

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加賀藩京都屋敷,Kyoto Branch of Kaga-han

ここは加賀藩京都屋敷に出入りした御用商人千丸屋作兵衛7代目の記録です。1807年(文化4年)から1819年(文政2年)のものです。上から下の順になっています。ゆっくり楽しんで下さい。参考論文、千葉拓真氏「加賀藩京都藩邸に関する一考察」。
Here are documents of Kyoto Branch of Kaga-han. Please enjoy reading the writings.

文書番号とタイトルの一覧

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●立ち位置を動いて対象を見るcssアニメーション
位置を動いて対象を見ている像なので、やや立体的にみえる。外枠は撮影して中央を透過にしたもの。上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。有名なRomán Cortés氏のcoke-canのアニメーションから改造したもの。

 

●#653. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 壱 御所女御様若宮様御降誕 御使者御上京
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。これまで記載済の7代目の養子である。1817年より1848年の31年間であるが記事は少ない、字はかっちりして読み易い。1820年(文政3年)仁孝天皇(1800-1846)の男子(安仁親王)を女御鷹司繋子が出産した時に加賀藩より使者が上京。その次第を書いている。なお安仁親王は翌年死去された。京都加賀藩邸の奉行はたいていは2名いた、ここは九津見氏と村田氏。

●#654. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 弐 御国表何事に不限諸事厳敷御省略に被成候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1823年(文政6年)加賀の国元より何事も厳しくするように達しがあった。三度飛脚で不首尾があり役人の遠慮があった。荷物の封印や目方も厳しくなる。京屋敷の1人も役御免で即刻帰国した。

●#655. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 三 白銀五枚作兵衛儀御屋鋪日用方御用大切相心得勤候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1824年(文政7年)加賀の国元よりお達しがあった。作兵衛が京都御屋鋪の日用雑用と江戸直便を倦怠なく勤めたので毎年白銀(丁銀)5枚の褒美と決まった。金で3両位である。決定は長甲斐守(3.3万石、加賀藩の財政の長)が下した。

●#656. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 四 御隠居肥前守様御病気より御逝去被為在候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1824年(文政7年)6月20日加賀の国元より肥前守様(前藩主前田斉広)がはしかの余毒の診断で国の医師処方の薬を飲んでいるが効果がない。京都の名医荻野徳輿に来てもらってほしいと京都加賀藩屋敷に飛脚便が入った。荻野氏は丁重に断った、相談が進み医師竹中文啓が7月1日に金沢へ向けて出発した。国元ではやはり御典医の荻野氏にと再度要望、公家の鷹司氏と相談するが荻野氏はならず代りに御典医の福井氏が7月15日に出発する事となった。一方竹中氏は7月6日に金沢に到着。診察して脚気(かっけ)の診断であった。竹中氏の処方も甲斐なく7月12日前田斉広は死去した。脚気は神経障害で歩行不能になり心停止(衝心脚気)を来し昭和初期まで国民を大変苦しめた病であり、ビタミンB1欠乏症である。ここの3名の医師はすべて検索で名が出たが、特に荻野氏は有名な医師であった。竹中氏は35名で金沢へ下った。

●#657. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 五 一統無是非三ケ年之間壱割引致候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。1833年=天保4年は国元により加賀藩京都屋敷勤務の全員が給料1割減になった事を記す。1835年=天保6年は加賀藩京都屋敷の筆頭役の奉行は従来2名であったのが1名になった。こうした事情は藩の財政が逼迫したために違いない。以上で 千丸屋作兵衛8代目の記録は終了である。1817年より1848年の31年間の永きに御用人を勤めて次代に継いだ。次代は1852年までの4年間加賀藩京都屋敷の役職方の記録のみおこなった。

●#658. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 六 二条新地おやまに落込借金出来欠落
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛8代目の記録。屋敷役人の交代の記録の部分を提示する。御奉行は御留主居役で2名である、1年勤めて金沢へ帰国した。ただ田辺九兵衛は京都詰人とされる程頻繁に奉行に任命された。1835年より1842年まで7年間は藩財政の悪化より1名となった。これをもって京都加賀藩屋敷の文書は終了である。

●#144. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その壱 作兵衛の先祖は加賀の仁、高瀬に百年仕申候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録である。まず作兵衛の出自など子孫へ伝えるべき序文で興味深い。記述はかなり正確である。先祖は加賀の産である。万治年(1658年頃)から京都加賀藩邸に仕えた可能性もあるが、確実なのは1698年(元禄11年)前田綱紀第5代加賀藩主の6女直姫が京都の二条家(二条吉忠:公卿)に嫁いだ時に4代目作兵衛が姫のお供で上京したことである。以後江戸直便飛脚、地廻り、日用御用を京都加賀藩邸より受けている。繁盛し一家を持ったが1737年二条吉忠の死去以後仕事が減って借家になった。1788年天明の大火で家財、帳面は焼失。6代作兵衛は末子ながら名跡を継ぎ倹約し住宅は借家だった。しかし名跡を継ぐ者なく、当7代作兵衛が養子で相続した。号は千丸屋。1807年公卿の鷹司家姫君夙姫が前田斉広加賀11代藩主に輿入になり御用繁多にて繁盛し小さな我家が建った。だが1814年5月より1815年4月の間は江戸直便飛脚が御国飛脚仲使所持となり日用御用は北国屋持となった。その後はお許しですべて受持ちに戻った。無調法なく、油断しないことが肝要。勤めには誓紙に書判、血判することが大切で屋敷には享保の時よりの誓紙がある。我7代作兵衛の子供は幼少にて正助という者が養子となる。そして1814年(2年前)正助が誓紙を出した。最後に京都加賀屋敷詰の方、国表(加賀国)の方で懇ろにすべき方へは附け届け、お手紙を欠かさないように。年寄:年より、よくみる当て字。御咎:おとがめ。都て:すべて。言伝:ことずて。扣:ひかえ。捧:ささげる。懇ろに:ねんごろに、親しく。于時:「ときに」と読む、現在の意味。于:う、at。干:「ほす」ではない。横目:監視する役。京都加賀藩邸は江戸初期高瀬川沿に作られ1788年の天明大火で焼失、その後再築された。高瀬御小屋とも呼ばれたようだ。参考論文:千葉拓真氏「近世後期の加賀藩前田家と摂家」。

●#145. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その弐 御留守居役は最上の御奉行様にて御座候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の弐である。交際の重要な人物、御留守居役2名が最上方、御横目附1名、御算用方2名、御留書方1名、外足軽、小使衆からなる。記載の如く役職は大方1-2年で交代して行く。知行取:家臣が藩主から知行地を充てられ管理できる役。御馬持=自家用車持できるのは450石取以上の武士のようだ。病気で御暇願いを出して、帰国する侍も記載あり。また御内室の病気のために帰国もある。そして京都加賀藩屋敷で死亡した侍もあった。この時代は結核、コレラ、麻疹、疱瘡など慢性から急性の様々な病気が多くあった。横山監物(けんもつ)という加賀八家の家老が叙勲を受けた。名前を「物監」と記すが誤記と思う。代役の小将=小姓が上京するが宿泊の十一屋源兵衛旅宿は場所が木屋町二条下ルで京都加賀藩邸に極めて近いと判る。十一屋は「といちや」と読むだろう。小将は伝奏役の山科氏という公卿に参内する。10日在京で帰国した。御留書方1名では多忙にて2名に増員された。最後に1814年(文化11年)4月江戸直便飛脚が御国町飛脚仲使所担当に日用御用は北国屋源兵衛担当となり任から外れたことを記す。そのため御留守居役が交代で就任しても御挨拶ができなかったようだ。文化文政期の京都の藩屋敷の様々なことがよくわかる。扣:控え。

●#146. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その三 江戸直便飛脚と日用御用は難有仕合、三度飛脚は御断
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の三である。正助は作兵衛の養子で8代目。壱で1814年(文化11年)4月江戸直便飛脚が御国飛脚仲使所担当、日用御用は北国屋源兵衛担当となり任から外れたことを記したが、ここで1815年(文化12年)4月に江戸直便飛脚と日用御用の両方の御用に復帰したときの状況を記す。加賀藩邸の武士に千丸屋には公用の御用、三度飛脚を勤めさせようとの強い意向があった、これにはおそらく幕府の意思もあった。三度飛脚:大坂、京都、江戸の間に公用の一般の手紙の飛脚を毎月3度送った、担当の飛脚問屋は京都に10数軒あった。一方「三度飛脚」は荷物量が多くなり混雑して配達が遅延する問題があった。三度飛脚は官営で定価であり利益が低く希望する飛脚問屋は少なかったようだ。千丸屋作兵衛は1年後には元の江戸直便飛脚と日用御用に戻ることが前以て文書で約束されていただろう、壱の文書には「日用御用に何等の不調法も無かったこと」も述べられている。三度飛脚は江戸直便飛脚とは違って千丸屋の希望する仕事ではなかったので強硬に断っている。江戸直便飛脚は京都加賀藩屋敷から江戸方面(藩屋敷や幕府)への直便であり、いわば私営の飛脚便。御国飛脚仲使、森屋半兵衛は千丸屋の復帰する日用御用の仕事を受注するつもりで上京していたようだ、当惑している。この人は1年間京都加賀藩屋敷からの江戸直便飛脚を千丸屋の代りに担当した人である。御国飛脚仲使とは文字通り加賀国からの各地への飛脚を担当した人々であろう、この森屋半兵衛は加賀と京都方面の間の飛脚の担当だろう。最終的に千丸屋作兵衛と正助の要望は叶った。最後に御世話になった役人名を書いているが、京都加賀藩邸の中だけでなく加賀国表の役人の協力があったことを記す。もちろん酒宴、酒肴の進上などが必要だった。三度飛脚につき何度も役人から説得とおどしを受けるが、最後まで断るくだりは迫力である。恐々:恐れ恐れ。一入:ひとしお。扣:控え。身悦:我が身の喜び。低:てい、体。抔:など。叮:何度も問い詰める。何角:なにかと、あれこれ。頭取:一般に年寄のこと、小竹次右衛門は京都加賀藩邸で地位は最上位ではないが最高齢なのだろう。北源殿:1年間千丸屋作兵衛の代りに日用御用を受け持った北国屋源兵衛のこと。ここでは江戸時代の飛脚制度につき勉強になった。

●#147. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その四 紫野芳春院昭堂再建 加賀表御武家十七名御登り
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が1807年(文化4年)から1819年(文政2年)に仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の四である。大徳寺の塔頭、芳春院の照堂(昭堂)再建。芳春院は1608年加賀藩の祖前田利家の夫人まつが建立、まつの法号芳春院よりの命名で以後加賀前田家の菩提所。芳春院昭堂:芳春院内にある二重楼閣で1617年第2代藩主前田利常の親友小堀遠州による創建だが1796年焼失した、現建物の再建は1798年、1804年または1815年などとされ明確でない。洒落た堂で金閣、銀閣、飛雲閣と並び京の四閣の1つで別名は呑湖閣。この私の文書は昭堂(照堂)が1815年4月より9月の5ヶ月間で再建されたことを明確に示す、つまり露盤宝珠銘から1815年の再建としたWikiの記載を支持する。露盤宝珠:建物の天辺の宝珠(写真)。加賀からは作事奉行小堀牛右衛門が派遣された。小堀牛右衛門:小堀遠州公の孫小堀新十郎が加賀藩第2代藩主前田利常に召し抱えられて以来子孫は小堀牛右衛門と名乗る。つまり1617年昭堂を建立した小堀遠州の子孫小堀牛右衛門が200年後の1815年昭堂の再建を指揮した、すごいね。牛右衛門の宿泊場所は大徳寺の末寺、大源庵、廃寺になり今はないが大徳寺の北の北山通付近である。侍は牛右衛門の外16名の加賀の侍が再建を指導した、記載の与力、大工頭、御目付とその家来である、侍達の宿泊は大徳寺塔頭雲林院と大徳寺表門前の宿、紫竹街道の宿である。別に加賀の大工棟梁が4名で内1名は病気で帰国した、大工棟梁の宿は大徳寺裏門前である。「御大工」とは大工棟梁の前に書かれ、家来が2名おり武士のようだ。手足となる手下の大工達は京都で雇い記載されていないのだと思う。なおここに記された小堀牛右衛門と同姓の「小堀中務」とは小堀正徳(?-1826:600石旗本)で1680年以後代々京都代官(京都所司代支配下)として禁裏の作事を担った小堀仁右衛門家の当主、祖先は小堀遠州の異母弟の仁右衛門正春(政春)である。書いた作兵衛はその事情は知らなかっただろう。さて最後に作兵衛7代目の養子正助が誓詞と血判をした事とこの時御留書より100年前の享保元年に作兵衛の先祖が書いた誓詞があることを記す。さらに作兵衛の復帰でお世話になった御奉行役水野源兵衛様が江戸出身としていたが間違いであったため問題となり謹慎の上帰国されたと述べている。不時: 思いがけない時。忌服:きぶく、親族の死亡で喪に服する事。なおこの文書の連続より記載の亥年は1815年=文化12年に間違いない。

●#148. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その五 金沢大衆免より中心へ家千弐百余焼失致候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の五である。ここに文化12年亥年と記され芳春院昭堂再建(その四)の亥年は1815年とわかる。武士から伝聞した金沢の大火を記載した。1815年の3月大衆免火元と7月天野町組屋敷火元と書く。両方「金沢大火年表」に記載されている。ただ後者は足軽町から出火とあり天野町の場所は不明、そして家老や武士の屋敷が焼失しており火は金沢大学医学部付近の足軽町から西北西の武家屋敷へと拡大したようだ。記載の前田修理、前田織江はいずれも前田斉広(第11代加賀藩主、1782-1824)の家老である。また京都加賀藩屋敷の御留書役奥田九右衛門と田中武兵衛の家も焼けた。大衆免のほうは焔硝蔵(硝煙蔵、火薬庫)に火が付いて大火となった。別には落雷から村井又兵衛の家が全焼。村井又兵衛:1776-1827、別名村井長世、加賀八家村井氏で加賀藩年寄。 火事は恐ろしい。その間も京都加賀藩屋敷の勤務は1年位で次々交代する。御留主居の就任には御出迎えをしている。養母の病気で帰国する武士もいる。参考資料:金沢市立玉川図書館近世資料館「金沢の火事と加賀鳶職」。

●#149. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その六 前田主税様御館入之儀不相叶も献上品差上
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の六である。1815年12月前田主税様御館入を希望した事の成行を記載。前田主税(ちから):本名前田直方、1748-1823、加賀八家筆頭の前田土佐守家当主で1万千石。前田土佐守家は初代加賀藩主前田利家の二男の家系。加賀藩主の次にえらい大名並の石高の人である。①主税様御館入のすべての橋渡し役は田中武兵衛(前京都屋敷御留書役:その弐に掲載)。②1815年12月家臣広野五郎蔵へ書状出し。田中武兵衛より御館入は不可と連絡。③1816年2月笹井三郎右衛門(家老?)という侍が代りに対応と連絡あり、笹井三郎右衛門へ書状出し。④1816年3月15日主税様御用人山口次内が上京の用事。笹井氏より千丸屋作兵衛の話が伝わる。⑤1816年3月29日作兵衛、正助が山口次内へ挨拶と献上品を差上げた。顧みるとこれは作兵衛にとって大成功である。前田主税は加賀藩主の次にえらい筆頭家老で前田家の血縁の武士だから「館へ出入りは無理」は当然である。しかし山口次内は検索でも出る前田主税の側近の部下である。この人へ献上品を差上げたのは大きい事である。実は1817年正月に前田主税の土佐守への叙勲(後述)があるので山口次内はこの用事で上京したようだ。さて水野源兵衛様(元京都加賀屋敷御留主居役)が1815年5月から謹慎になっていた(その四)が1816年1月御会所奉行に復帰した、作兵衛は恐悦の書状を出した。この人は作兵衛が江戸直便飛脚と日用御用に復帰した時の御留主居役でお世話になっている(その三)。

●#150. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その七 芳春院御仮屋御普請 芳春院様弐百回忌にて御座候
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の七である。1796年の芳春院の焼失のあとそのままなので仮屋の普請に役人が上京。これは1816年=文化13年が芳春院(まつ:1547-1617)の200回忌に当るので行われた。作事奉行は阿部甚十郎1500石の石高とある。この人は阿部甚右衛門忠喬として知られる。加賀藩士の作事奉行1500石の家督を相続し1827年に歿。その間1816年=文化13年に紫野芳春院御普請御用、芳春院様御法事御用をしており、この資料の記載に一致。「阿部甚右衛門」がこの家の代々の正式名。そして「阿部甚十郎」はこの家系の代々の幼名だろう。孫の名前は阿部甚十郎で1864年から1910年活躍。この芳春院の普請は本堂である。1816年=文化13年の芳春院の200回忌に先立って仮屋が建築された、期間は同年5月7日より7月25日であり加賀藩の武士の主導でなされた。これは「阿部甚十郎史料」でも確認できる。検索では本堂は1868年=明治元年の再建としている、これは本建築がなされた年なのだろうか、それとも廃仏毀釈の寺の難儀の中で明治天皇に対し媚を売ったのだろうか。芳春院昭堂再建(その四)の1815年4月からに引き続き、ここに1816年4月から芳春院本堂仮屋の再建は加賀藩の主導で成されたことは銘記すべきである。参考図書:金沢美術工芸大学所蔵「阿部甚十郎史料」。

●#151. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その八 当春太子様御降誕 御進献物にて御参内
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の八である。1816年=文化13年5月のことである。皇子誕生の御祝詞に加賀藩から御使者が進献物持参で上京した。前日に所司代より申参りがあり、奉行と使者が対応。当日5月26日は午時(12時)参内、御目録を御使者が持参し式台迄上る、京都加賀藩屋敷御留主居役(奉行様)は差添役。御進献物は御台所に納めた。中宮御所(皇后の御殿)、東宮御所(皇太子の御殿)にも進献物を納めた。七つ(午後4時)に終了した。その後休息所で昼飯を烏丸黒川常陸殿方で摂る。大変遅い昼飯だがその様に記載されている。烏丸黒川常陸殿方は場所、人物とも不明だが、御所へ進献の時の定番の休息所で御所近くの烏丸通に面してあると思う。翌27日には御勅答が伝奏山科氏(山科忠言、その弐に掲載、武家の奏請を朝廷に伝達する公卿)よりあり、御留主居役と使者で応対。使者は無事役目を終えて6月朔日京を旅立った。太子:皇位を嗣ぐ皇子。先手:先に進む武士。発足:旅立ち。この皇子は第九皇子悦仁親王で文化13年1月28日欣子内親王(よしこ:中宮)が光格天皇の皇子を出産した。しかしこの皇子はこの後6歳で夭折された。

●#152. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その九 芳春院御法事にて御上京之御役人多数
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の九である。その四と七で芳春院昭堂及び本堂仮屋が再建され、いよいよ芳春院様200回忌の法事である。加賀の国表から多くの武士が上京したようである。ここには最上位の武士竹田掃部(かもん)と与力脇坂平作を記す。竹田掃部(かもん)は2500石であるwikiには3530石と記されている寺社奉行である。京都の東の入口蹴上まで作兵衛はお迎えに出た。また見送りにて御馬荷物を才領に名札を付けて渡した。才領:道中の運行を指示する人。竹田掃部は中立売新町、脇坂平作は中立売小川通に宿泊、どちらも御所の少し西で互いに極めて近い。次にその六で登場した加賀No2の家老前田主税も上京、11000石と大名並である。金沢を7月1日出発から京都に7月7日着そして芳春院200回忌の法事を終えて7月19日に京都を出発した。作兵衛は宿泊地の近江国草津(大津よりやや東)まで前田主税の出迎えに行っている。さて芳春院法事は7月9日と18日の間に行われた。その七に記載の阿部甚右衛門(甚十郎)も5月から芳春院普請で在京中で7月の法事に出席、記録に芳春院法事御用とみえる。法事の詳細などは別冊に記載があるが、私は所持していないのが残念である。見立:見送り、鑑定。

●#153. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その拾 殿様の御男子御誕生、前田主税様叙爵
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の拾である。まず作兵衛が断じて受けなかった三度飛脚を北国屋源兵衛が5人扶持の給料で受け持った。次に1817年=文化14年藩主の男子が生まれた。前田斉広:1782-1824、11代藩主。前田斉広の次男、他亀次郎(1817-1825)である。この男児はこの後わずか9歳で夭折した。勝千代様と同腹である、出産した女性は側室で栄操院といい家臣の娘である。斉広の正室鷹司氏の姫、夙姫(その壱に記載)との間に子はなかった。勝千代とは後の前田斉泰、第12代加賀藩主(1811-1884)で長寿であった。さて加賀藩八家筆頭家老前田主税(本名前田直方、1748-1823)が叙勲となった。やはり前の横山監物と同様本人は上京せず、名代に前田姓の小姓昌五郎が来京。宿は十一屋源兵衛殿方(二条木屋町下る:その弐参照)。2月5日京都着、同14日儀式は無事終了して前田直方は土佐守と改名した。次に作兵衛は文化14年2月より1.5ヶ月間の金沢表への旅にでた。途中山中温泉で休息、金沢に逗留して御家中諸士を廻った。なお中村恒之丞という士が御留主居に就任したがこの人は2年前御留書役で屋敷勤務した人である、そしてなんと4ヶ月前に金沢に帰国したばかりで再び上京である。しかし今度は屋敷のトップとして上京である。旧臘:陰暦12月、新暦1月。扶持:扶助すること。口宣:くぜん、叙位の勅命を伝奏に口述すること。記載の金沢惣宿町は宗叔町に違いない、場所は金沢城の西、金沢駅の南にあり、現在は芳斉、玉川町である。

●#154. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 拾一終章
京都加賀藩邸の御用町人、千丸屋作兵衛7代目が仕えた間の重要な事項や重要人物を記した記録の終章である。この本の大部分を書き終えた1817年=文化14年春以後の記録で詳細なものはない。勤務の士はやはり1-2年で交代する。疱瘡の見舞で禁裏に使者が派遣される。使者の宿は三條筆屋で三条富小路東入ルにあった。この辺は風情があり京都のおしゃれな人々が行き交う所。奉行(御留主役)青木喜太夫には才許が伴う。才許:裁許、上司や上部組織に許可された者。ここでは御供が許された人。了:了解する。これですべての記録を掲載した。千丸屋作兵衛7代目の1819年=文政2年卯の4月以後の動向は不明、家督は譲って隠居したと思われる。この後は千丸屋作兵衛8代目=正助が書き嗣ぐが、後日発表とする。多様のことが記載され、面白い内容であったが、やはり「馬在」は石高に加えて武士のステータスシンボルであったことは間違いない。

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#653. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 壱 御所女御様若宮様御降誕 御使者御上京
#654. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 弐 御国表何事に不限諸事厳敷御省略に被成
#655. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 三 白銀五枚作兵衛儀御屋鋪日用方御用大切相心得勤候
#656. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 四 御隠居肥前守様御病気より御逝去被為在候
#657. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 五 一統無是非三ケ年之間壱割引致候
#658. 続京都加賀藩屋敷の御用人記録 六 二条新地おやまに落込借金出来欠落
#144. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その壱 作兵衛の先祖は加賀の仁、高瀬に百年仕申候
#145. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その弐 御留守居役は最上の御奉行様にて御座候
#146. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その三 江戸直便飛脚と日用御用は難有仕合、三度飛脚は御断
#147. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その四 紫野芳春院昭堂再建 加賀表御武家十七名御登り
#148. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その五 金沢大衆免より中心へ家千弐百余焼失致候
#149. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その六 前田主税様御館入之儀不相叶も献上品差上
#150. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その七 芳春院御仮屋御普請 芳春院様弐百回忌にて御座候 
#151. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その八 当春太子様御降誕 御進献物にて御参内
#152. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その九 芳春院御法事にて御上京之御役人多数
#153. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 その拾 殿様の御男子御誕生、前田主税様叙爵
#154. 京都加賀藩屋敷の御用町人の記録 拾一終章

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