南竹 Nanchiku
江戸時代の絵画、書、和歌、俳句、古文書
Since December 23, 2015

< 僧の作品 Art of Monks >

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僧の作品 Art of Monks.

澤庵宗彭、岸誉雲海、三江紹益、独吼性獅、提山祖鋼の長老。浄土真宗本願寺派を中興した蓮如。定円は園城寺(三井寺)の学僧。明堂宗宣、啓叔宗廸、普巌宗賢、萬仭宗岱、宙宝宗宇、大徹宗斗、真巌宗乗、宗般玄芳、円山要宗、大綱宗彦は臨済宗大徳寺の禅僧。鉄外呑鷟、海門禅恪、提宗慧全、弘巌玄猊、東嶺円慈、蘇山玄喬、松丘、敬冲文幢の臨済宗妙心寺派。曹洞宗は無学愚禅、瑞岡珍牛、鉄額泥牛、物外不遷。他に道本憲寿、慈雲飲光、黄檗来鳳、玉潾、千方楚牛(千方牛和尚)、環中禅機、維明周奎、六如慈周、豪恕、虚白(松堂慧喬)、義諦、浩然良雄、公巌、智暉、東資幻成の中堅所。
新しい所では松坂帰庵、丸山貫長、足利紫山、間宮英宗、辻井徳順、大洲鉄然、奥大節、関牧翁、如海、道重信教、建部快運と多士済々。名は残っていないが、断渓鬾岸、無笑妙哲、前権僧正、金國通人、紫水迂禅、一幻原阿、東厓の男性的観音様などは迫力の作品。他に龍門赤眉、蟠龍、宗誉龍去、豪観、陀々羅坊現生、寂然、龍潭為忠、忠誉。

●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション
Roman Cortes氏の遠近感あるcssアニメーション3D-Meninasを勉強し改変したものを作成した。中の画像はすべてNew York Public Library所蔵のposterで使用は許可されている、感謝して使わせていただいた。古い雑誌の表紙は大変美しい。
http://www.romancortes.com/blog/css-3d-meninas/
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●3D効果をマウス動作で見せるcssアニメーション 続編
これはズームでポスターを見ている像である。美しい中の画像はNew York Public Library所蔵のposterで感謝して使わせていただいた。
New York Public Libraryのサイトはhttps://digitalcollections.nypl.org/collections


●cssアニメーション
カンが回転しながら左右を移動する。画像の上のstartボタンをクリックして下さい。下のスクロールバーをスライドさせても動く。Román Cortés氏のcoke-canのアニメーションを改造したものである。
http://www.romancortes.com/blog/pure-css-coke-can/

 

●東資幻成 Toushi Genjou ?-?
東資幻成は不明の僧。書の作品は落款は東資幻成、印は幻成、無間修、鑵渓。鑵:カン、金属の容器。「録唐三蔵御語」、「樹心仏地 流情法海」と書かれる。玄奘三蔵(602-664)の大唐西域記の中の一節である。この句は親鸞が「教行信証」に取上げ「樹心弘誓仏地 流念難思法海」と修飾され門徒に大事にされた。また印の「無間修」も浄土真宗の言葉。よって東資幻成は浄土真宗の僧に違いない。この書は三蔵の原文に忠実な型でやや古い1700年代頃の作品だろうと思う。幕末に真宗大谷派に幻成(げんじょう)という僧がいたが現状ではこの作者と同一かは不明である。下に大意を記した。 参考サイト:大谷大学、大唐西域記の一部分の明解な訳文、http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000lsn.html。 Toushi Genjou was a Jodoshinshu monk who is unknown today.

●智暉 Chikun 1717-1784
播磨国加東郡三草村の生まれ。字は大幻、号は空々庵。真言宗の僧。宝蔵寺(現明石市)で出家。京都智積院、西明寺(京都の北西槇尾にある美しい寺)に学び、御室五智山蓮華寺の曇寂(1674-1742、寂厳の師でもある)に師事した。学問は成就し法楽寺(兵庫県神崎郡神河町)に住し熱心に大衆に教授した。68歳で寂。作品は落款は空菴、印は釈智暉印、大幻。「心源空寂」、太くやさしい滑らかな字であり「心」の丸さが特に佳い。150年頃成立の菩提心論の一節にして真言宗の根源を指す句である。真言宗の有名な僧には「空」、「寂」の付く人が多い。智暉は仏家人名辞書に掲載される程の学僧であったが今日はほとんど忘れられている。一方兄弟子の寂厳(1702-1771、江戸後期IIに掲載)の書は今日大変有名である。 Chikun was an erudite monk who belonged to shingonshu.

●建部快運 Kaiun Takebe 1897-1988
愛知県の生れ。真言宗の僧。1925年(28歳)甲江山鴨江寺(かもえじ、浜松市)の住持となる。1945年(48歳)鴨江寺は戦災で焼失。しかし鴨江洋裁学園、鴨江幼稚園と教育、復興に尽力した。書画作品は多い。1974年(77歳)京都岡崎に隠居。以後曼陀羅を自作し、高野山で曼陀羅展覧会を催す。1978年(81歳)高野山宿老。91歳で寂。作品は甲江山人、印は快運、鴨江寺主、郎吏天真。甲江山は鴨江寺の山号である。書は「一念慈和風甘露」。穏やかで和やかな字が続く。これは「菜根譚」の中の一句であり、章全体は心の動きを様々な宇宙現象と対比した文である。字は竹筆で書いたような線であるが柔かさが出て語句に合っている。作品には高野山の落款や印が無く、戦後鴨江寺の復興に尽力した若い頃の作に違いない。 Kaiun Takebe was a shingonshu monk who was good at calligraphy. He was active at Hamamatsu.

●敬冲文幢 Keichu Bundo 1825-1905
美濃国高富村の生まれ。臨済宗(妙心寺派)の僧で後に東福寺291世。号は斗室。11歳江戸済松寺で得度し漢詩を学ぶ、20歳美濃瑞竜寺で雪潭紹璞に印可を得た。36歳浅草海禅寺に歴住の後、瑞竜寺天沢僧堂師家となる。1881年(56歳)東福寺火災後、東福寺派管長に就任し復興に尽力する。二十余年在職の後海禅寺に退居した。博学、豪放な人で漢詩を能くした。著作に「斗室集」。82歳で寂。作品は落款は斗室老衲、印は文幢氏、敬冲之章。款記は甲申歳暮で1884年=明治17年、満59歳の作。自作の漢詩であるが不明の字が多く未解読である。参考書:黒田譲著「名家歴訪録」中編、国会図書デジタル。 Keichu Bundo was a zen monk who was active at Edo and Kyoto. He was good at the Chinese poetry.

●公巌 Kogan 1757-1821
越後国の僧の子、母は酒田浄福寺の住持の娘。号亀崎。出羽国酒田浄福寺(山号亀崎山、ききさん)の住職で高僧として有名であった。20歳より京都や畿内で華厳、真宗など学習、研究し、詩文では皆川淇園に師事。1794年(38歳)浄福寺を離れ京都に住む。1802年(46歳)浄土真宗大谷派(東本願寺)の経典の解釈で誤っていると糺された。1805年(49歳)帰郷。1812年(56歳)以後は順錫(各地を巡り教えを広めること)。大師流の書家としても有名になる。平安人物誌に1813年(57歳)掲載される。65歳で寂。作品は落款は亀崎、印は公巌。瓢箪の墨絵と書である。「不図出五斗米 千里駒応在中」。瓢箪はひょいと5斗の米を出し、日に千里を駆ける駒(馬)を中に持つ。「瓢箪から駒」である。落款「亀崎」は出自の地名亀ケ崎城(現山形県酒田市亀ケ崎)と寺の山号亀崎山から号としたに違いない、「かめがさき」と読んだのだろうと思う。参考書:日本佛家人名辭書、google booksより閲覧。 Kogan was a monk who was active at Sakata and Kyoto.

●松丘 Shokyu 1765-1833
生国不明。別名行慧、円水、紫陽和尚。和歌山吹上寺(すいじょうじ、臨済宗妙心寺派)の住職。山水画、禅画、紫陽花の絵をよく画いた。和歌山でよく知られた文人僧で谷文晁、木村蒹葭堂、田能村竹田、野呂介石など諸方の文人と交流があった。紀伊藩主徳川治宝の別邸の扁額など書にも長けた。69歳で寂。和歌山県文化財「芦雁図」。作品は落款はなし、印は松丘、行慧円水。この人の作品である。おそらく猫を後から画いたもので、禅画、抽象画の雰囲気がある。賛が無いのは見る人の印象と思考を尊重したためであろう。田能村竹田の「竹田荘師友画録」に僧松丘で掲載あり、盆植えの蘭があり部屋は幽玄な香に満ちていたという。描画を好んだ禅僧である。参考サイト:和歌山県立博物館ニュース「松丘」。 Shokyu was a zen monk who was good at paintings. He was active at Wakayama, Kii.

●大綱宗彦 Daiko Sogen 1772-1860
京都生まれの僧。臨済宗、大徳寺435世住持。6歳で大徳寺塔頭黄梅院に入り、融谷宗通(大徳寺409世)に師事。和歌をよくし書画にも優れた。茶人の吸江斎宗左、玄々斎などと交際。89歳で寂。日記に「黄梅院大綱日記」。作品は大綱の落款。甲寅=1854年、83歳の作。筑後国柳川藩主、立花鑑寛を讃えた和歌である。「くらゐ山 はやくのほりて たけき名の 雲井に高く にほふ立花」。雲井:雲のある大空。台命:将軍や皇族の命令。この人の作品は和歌のかな書きなどわかりやすいものが多く、大徳寺の住持の書としては異例である。茶道など風雅な粋な人であったに違いない。字は朴訥で同時代人気であった良寛(1758-1831)の書を意識していたのではないか。立花鑑寛:あきとも、1829-1909、8代藩主の子で柳川藩11代藩主、江戸深川沿岸の警備や長崎の守備を命ぜられた、戊辰戦争には新政府側に与し、会津若松まで転戦、従二位。この時26歳であるが武勇な人であったようだ。また他の柳川藩主は従四位下であり確かに高位である。 Daiko Sogen was a zen monk who was good at waka. He was a head of Daitokuji, Rinzaishu at Kyoto.

●忠誉 Chuyo ?-?
忠誉は不明の僧。作品は落款は功徳山二十八世忠与。梵字の名号である。梵字の読みは下に記載。「なもあみだばくだや」。漢字では「南無阿弥陀婆耶」で当字で釈迦如来の「仏」が「婆」になる。「南無」は拝礼、帰依します。「阿弥陀」は遍く光明。梵字は大体1字で1音でかなに同じ、漢字は当字である。右に2つ点がある字は特殊で1字で如来や菩薩を表す。多いのは参考に挙げた「なもあみだぶぅ」「南無阿弥陀仏」である。功徳山と称する寺は多く、忠誉または忠与は浄土宗の僧に違いない。3人ほど出るが絞れない。時代は1700年代と思う。

●浩然良雄 Konen Ryoou 1746-1815
薩摩川内の生まれ。真言宗の僧。9歳で薩摩興全寺で出家。京都智積院で書を学び研究。下野出流山満願寺(栃木市出流町)に住す。薩摩島津公に招請されるが受けず、書を娯楽とした。名家手簡に掲載される。70歳で寂。作品は落款は浩然、印は良雄、浩然之印、奇正比横変化如龍。「熏若春日気」。熏:くすぶる、または「薫」と同義で用いる。薫ること春の日の気の若し(如し)。「皎如秋水光」(明るいこと秋の水の光の如し)と対句になっている。若々しい句なので若い僧か若い旦那の為に書いたようだ。白居易の「池上有小舟」という詩の一節である。白居易:772-846、唐の詩人で別名白楽天。この句は本邦では一般的でなくほとんど使われていないようだが、「若い花々の香る春の気」はすごくよい元気が出る言葉。字は大変個性的で右上がりのやや強い御家流。この下の道本憲寿(1765-1858)は京都知積院、真言宗の僧で浩然良雄の同寺での後輩であるが字が大変よく似ている、浩然の書を参考にしたに違いない。仏家人名辞書によれば「良雄」は「りょうおう」と読む。 Konen Ryoou was a Shingonshu monk who was good at calligraphies.

●定円 Jouen ca.1230-? active 1247-1278
朝廷の歌人葉室光俊(1203-1276)の子。近江国園城寺(三井寺、天台宗寺門派本山)の権大僧都で学僧。また和歌の歌人で唱導三井寺派の祖。続古今和歌集(1265年完成、父葉室光俊が撰者に加わった勅撰和歌集)に入集する。一方独自の詠歌、唱導を創始し「三井寺派の祖」とされた。1278年(49歳)法隆寺の宝物を拝観後三十首の歌を詠む。唱導説教:節付説教ともいわれ聴衆に仏法を話すとき、文句(説教)に七五調の抑揚を付ける。唱導説教に天台宗山門派澄憲(1126-1202)、子の聖覚(1167-1235)の「安居院流」と寛元年間(1243-1247)に定円が創始した「三井寺派」がある。のち「安居院流」は浄土宗、浄土真宗に取入れられたとされる。作品は短冊で「草菴雪:あれはてし草の庵も しら雪の 降つもりては ちりたるもなし 定円」。草庵は荒れ果てているが、白雪は降り積もって塵はない。この人は園城寺の大僧都で草庵には住まないが、心が雑然としていることを「荒果てし草庵」としたようだ。我が心の塵は白雪が積もって無くなった。 Jouen was a tendaishu monk who lived at Miidera in Oumi. He was good at waka and shodo(religious song).

●豪恕 Goujo 1733-1824
近江国の生まれで天台宗延暦寺の高僧、豪恕の2作目。作品は落款は前大僧正豪恕謹書、印は豪恕、天台正宗。1作目の作品では「探題前大僧正豪恕八十八歳書」とあり探題(座主の次の地位)豪恕88歳の1820年の作であった。この作品はそれより少し前の84歳前後1816年頃の作と思われる。字は不明、抽象画とみなして筆の動作や墨の濃淡を鑑賞すればよい。それがこの型の書の作者の趣意であるから。ぐるぐる回転する活発な筆さばきで元気が出る。 This is the second presentation of Goujo. He was a Tendaishu monk who was good at calligraphy. The meaning of this kanji is unknown. This calligraphy was painted around 1816.

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●龍潭為忠 Ryutan Ichu ?-?
龍潭為忠は不明の僧。作品は落款は七十二翁龍潭道人篆、印は龍潭、為忠。篆は篆書体で書いた意味。字は「青松多寿色」、松の青は長寿の色。よく目にする語句である、この篆書の「色」は難しい字だね。さて関防印が特殊。「虚明自照 不労心力」。何もない所を自分で明るく照らし、労して心を用いることはない。僧璨の「信心銘」という長大な韻文の1行であり、坐禅修行の悟りの境地を示す言葉。脚下に光明を放つ。僧璨:そうさん、510-606、中国隋の僧で達磨、慧可に続く禅の第3祖である。また龍潭寺は伊予、浜松、彦根にあるがすべて臨済宗妙心寺派である、そして同派に龍潭元恕という禅僧がいた。随て龍潭為忠は臨済宗妙心寺派の禅僧だろう。下に三江紹益が「悟り」に至った時の表現に「脚下に大光明を放つ」がある。さてこの人は篆書体の巧者三井親和(1700-1782)に学んだ人に違いない。落款の字体や字の太さ、間隔が同じである。よって1700年代後半に生きた人である。 Ryutan Ichu is a zen monk who was good at calligraphy. He is unknown today. This type of calligraphy is Tenshotai.

●義諦 Gitai 1771-1822
越中の人。浄土真宗本願寺派の学僧。西本願寺御用僧となる。1813年(43歳)摂津三島郡(茨木市)慈明寺の住職。52歳で寂。著作に「本願成就文講義」。作品は落款は義諦、印は釈義諦章、字大癡。「右咏蘭:春時分与百花栄 秋節纔随九畹生 芳蕙縦令為伯仲 宁如独壇国香名」。咏:詩文。纔:わずか。九畹:蘭の花の別名。芳蕙:香の芳い草や蘭。縦令:たとい。宁:たたずむ、佇と同じ。独壇:独占。「蘭の詩。春の時期は百の花が栄えているが、秋はわずかに九畹が生ずるのみ。香の芳い草や蘭はたとい伯仲を為していても、香の名声では蘭が国中独占した如くにたたずんでいる」。九畹、蕙と蘭の別名を使い巧みな詩で内容もきれいな自作詩である。以下は蘭を九畹と称した起源と「九畹、蕙」を使った詩である。「余既滋蘭之九畹兮 又樹蕙之百畝」。楚(古代中国南方の国)屈原の作で「離騒」という詩の1節の句。「私は蘭を繁らすこと9畹(畹=12畝)、また蕙を植えること100畝」。畝は江戸時代の本邦では100m2だが、中国では667m2でつまり屈原は蘭を広大な土地に植えるのを好んだ。屈原:340–278 BC、楚の名門出だが秦によって楚が陥落したことに絶望し入水した、屈原作の「離騒」は楚辞(楚の詩)の代表とされる。「江戸後期-I」にも義諦の賛の作品あり。 Gitai was a monk who belonged to Honganji group. He was very good at kanshi.

●水原慈音 Jion Mizuhara 1835-1908
近江の浄土真宗の僧。号は虚谷。近江高宮円照寺(現滋賀県彦根市)の住職。維新後に超然や大洲鉄然らと共に教団改革に尽力し、西本願寺の要職に就いた。74歳で寂。作品は落款は虚谷録、印は慈音。「秋在松陰蘿影中」。蘿:つた、山かずら。秋は松の陰や蘿の影の中に在り。解釈は奥深いようだが、松陰は清い、蘿影は貴重なものの意味を持つようだ。秋は「とき」と読み五穀の実る最も重要な時を指す言葉でもある。別に印があるが城戸文吉と読める。京都の新門前通縄手東入は書画商の多い場所である。 Jion Mizuhara was a Jodoshinshu monk who was active at honzan Nishihonganji.

●普巌宗賢 Hugen Souken 1619-1700
大徳寺真珠庵の座主、普巌宗賢の2作目。落款は紫山普一子筆。中将姫山居語を漢字で書いたもの。「無男女境界無愛欲之思 無妻子眷属無養調之望 貧窮無福身無盗賊之恐 不断念仏行無聖教之望 木食草衣身不受諸人之煩 長夜闇無灯己心月為灯 独居住小菴造作之望 我見心仏則無絵木仏之望 深山人不通勤行無懈怠 雖西方程遠行者有眼前」。男女の境界がないので愛欲はない。妻子眷属がないので養い調える望みもない。貧窮で富貴もなければ盗賊の恐れもない。念仏を絶えず行うので聖教は望まず。木の実を食べ草を衣にする身なので人々からの煩いを受けない。夜は灯火なく己の心の月を灯となす。独居で小庵に住むので家の造作の望はない。我は心の仏を見るので絵や木の仏は望まない。深山人通わぬ所なので勤行は怠けない。西方は程遠いといえども眼前に行者が居る。以上10の文を書く。眷属:けんぞく、親族。眷:振り返り見る、恋する。懈怠:かいたい、怠ること。勤行:ごんぎょう、寺院で読誦を行うこと。不断:絶え間なく。聖教:ここは念仏と対比して学問として経典を学ぶこと。念仏:仏に祈る。後の空海(774-835)、空也(903-972)や法然(1133-1212)よりも古い奈良時代であることに注意。中将姫:747-775、藤原鎌足の曾孫の娘で才媛で信心深く美貌、5歳の幼少で母を失い、継母に苦しめられる。14歳大和日張山に住み念仏の生活、ここで中将姫山居語を書いたとされる。16歳天皇に後宮に請われるが辞す。16歳大和当麻寺へ入り尼となる。26歳当麻曼荼羅を織り上げる。29歳で入滅。伝説的な人であるが14-16歳で隠遁者のような枯れた内容の「中将姫山居語」を本当に著したのであろうか。中将姫は平安時代1012年頃から伝説は広まり、浄瑠璃の演目にもなって江戸時代には高い人気となる。普巌宗賢の生きた江戸時代前期にはこの文章は広まっていただろう。「中将姫山居語」が当麻寺に収蔵されているが、それはおそらくかな書きのようだ。青蓮寺住職の文章に内容が解説されている。今日漢文の「中将姫山居語」は検索では出ないが、今後出てくる可能性がある。参考論文:日張山青蓮寺住職森本順孝著「中将姫について」。 Hugen Souken was a zen monk who belonged to Daitokuji, Rinzaishu.

●虚白 Kyohaku 1773-1847
京都の臨済宗の僧で俳人の虚白の2作目。初冬の寂しい夜に坊庵に寄せた俳句と伝言。前文「初冬望 憚ながら殿万様へも宜敷御尋ねの声かけください」。俳句「無価致閑座 茶の花や 清くも見たれは 猶侘びし」。「夜前や笛せる息の灯にはける」。初冬:陰暦10月、新暦11月。千声:多くの声。無価(むか)には2つの意味がある:ただ、無料、価値を付けられないほど貴重な。閑座:閑静に座る。虚白は清楚な茶の花に侘しさを感じた句を詠んだ。また後の句も夜前に笛を吹く息が灯に流れて当る寂しい情景である。南禅寺管長で賜紫沙門と僧として栄光を極めた虚白にも寂しい侘しいときがあったのである。字もややか細く下の賜紫沙門の文体とは異なる。 This is the second presentation of Kyohaku who was a zen monk who was a head of Nanzenji. A couple of haiku was written here.

●寂然 Jakunen ?-?
寂然は不明の僧。三社託宣で落款は真言宗寂然七十一歳拝書、印は寂然。真言宗の僧である。三社託宣の中でも随分優しい文字であるのが気に入った。右側八幡は鉄玉を食べるといえども心汚れた人の物は受けず、銅の焔に座っても心穢れた人の所に行かない。左側春日は千日注連のある神聖な処でも邪悪の人の家には行かない、重い喪(忌)のある家でも慈悲の心を持つ人の室には行くべし。中央天照は謀計で眼前の利潤を願う者は神罰にあたる、正直で一旦は頼りの贔屓筋(ひいきすじ)が無くても最後は日月(神)の憐みを蒙ってよくなる。依怙:えこ、頼るもの。怙:たよる。熖=焔。重服:重い服喪、喪服。憐み:ここは「いとしい、愛しい」で古語「あはれ」である。蒙:こうむる、受ける。寂然は江戸時代後期の人と思う。 Jakunen is an unknown singonshu monk.

●道重信教 Michishige Shinkyo 1856-1934
長門国生まれ。浄土宗僧侶。1879年(23歳)知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年(29歳)宇部市松月庵の住職。1923年(67歳)増上寺第79代法主。教化を得意とし1900年(44歳)増上寺山内に仏学院を創設、諸大学生徒に仏教学を教授した。79歳で寂。作品は落款は大僧正信教、印は信教、三縁山主、演大光。「演大光」とは遍く光の教えを演(の)べる。演:水が広がり流れる、延べる、(教えなどを)広げ伝える。この印は仏教学を人々に教え広めることに熱心だったこの人らしい。「三縁山」は増上寺のことでこの作品は67歳に増上寺法主になった後に書かれた。「天之解人意」。之:これ。天はこれ人の意志を解す、人の意志を捌き理解する。この人は浄土宗だが、「自力本願」に重点を置く人であったようだ。「人事を尽くして天命を待つ」や「天は自ら助くる者を助く」に近い。意志ある所に道は開かれる。この人の「人の学ぶ意志」を大切にする姿勢は私は好きである。字も個性があって好きである。Michishige Shinkyo was a Jodoshu monk who was a head of Jojoji. He loved teaching pupils an academic Buddhism. The meaning of the calligraphy is as follows. "Heaven helps those who help themselves.""Where there is a will, there is a way."

●虚白 Kyohaku 1773-1847
京都の人。臨済宗の僧で俳人。別号に蔭涼軒、僧名は松堂慧喬。1807年(35歳)近江土山の常明寺の淡嶺の法を継ぐ。俳諧を高桑闌更に学び、成田蒼虬らと交わる。1835年(63歳)東福寺276世住職となった。1843年(71歳)将軍徳川家慶(1793-1853)より僧階最高の紫衣を賜った。同年南禅寺管長になる。清廉淡白で衆望が厚かった。75歳で寂。作品は落款は七十一翁蔭涼虚白、印は龍淵一滴、松堂氏、賜紫沙門。1843年=天保14年、71歳の作品である。「望節」とあるが、この節は徳川家慶に紫衣を賜った節に違いない。年号も一致している。前文で宝祚延長、つまり将軍の位が無窮に延長し、武運が長く久しくなることをお祈りしますと書く。歌は「君は君 臣は臣にて けさの春」。将軍の君は君らしく立派にして、家臣は臣らしく忠義をして今朝も春で安泰である。私は(将軍から)紫の袈裟(けさ)をいただき喜びの春である。歌は「爾」「帝」と堅い漢字が使われる。そして印の「賜紫沙門」(紫衣を賜った僧)が効いている。良質の絹本に書かれていて、この時は東福寺住持でおそらく二条城で京都所司代から紫衣を受けたと考えられるからそのときにこの書は献上されたと思う。なお虚白霊眞という1623年に東福寺住持になった僧がいるが別人である。高桑闌更の作品は「江戸後期-II」に成田蒼虬の作品は「江戸後期-I」に掲載。 Kyohaku was a zen monk who was a head of Nanzenji. He was also good at haiku.

●豪恕 Goujo 1733-1824
近江国愛知郡松尾寺村(現愛荘町)の生まれ。天台宗の僧。地元の金剛輪寺に学び、1749年(17才)で比叡山に入り修行。各種の要職を務め、1795年=寛政7年、63歳大僧正。のち延暦寺の一山正覚院の法統を嗣ぐ。平安人物志に1822年和歌で掲載あり。92歳で寂。作品は肉筆で落款は探題前大僧正豪恕八十八歳書、印は豪恕。浄土真宗などで十字名号とされるもの、「帰命尽十方無碍光如来」。无=無。帰命:神に帰服。尽十方:四方八方に上下で十方、遍く方向。無碍光:妨げられない光。碍:妨げる。如来:真理、仏。「遍く方角に照らされた真理(仏)の光に帰依します」。名号とは六字名号「南無阿弥陀仏」と同様個人の礼拝の対象に使われるもの。この作品は1820年=文政3年、豪恕88歳の時親しい信者に書き与えられた。なお天台宗も阿弥陀如来を奉る。探題とは天台座主の次のえらい人で座主が急変した時などに座主に上る人のようだ。4つ下の豪観とは落款が似ている。 Goujo was a Tendaishu monk who was active at Enryakuji, Kyoto. He was good at calligraphy and waka. The words mean the figure of Amidabutsu(阿弥陀仏). This paper was written in 1820 and was the object of worship which was given to an intimate believer.

●陀々羅坊現生 Dadarabo Gensho ?-?
陀々羅坊現生は不明の僧。作品は落款は現生、印は陀々羅坊、キンウ。現生は現実の生活。「天有り 天地あり 神ありて ひと有 仏ありてO 道払 はしは両国 花はうへ野」。丸Oが意味深い。浄土真宗の「阿弥陀仏に身をまるめられたる」。つまり天地と自然=阿弥陀仏に丸く包み込まれた人が居る。心の道をきれいに払って橋の名所両国や花の名所上野で現生を楽しもう。この賛は大変好きである。「日止」で「ひと=人」と読ませる。陀々羅坊現生は江戸の人ではないか。 Dadarabo Gensho is an unknown monk. The meaning of the writing is as follows. "There is a nature. There is a world. There is a human. The human is surrouded by the nature. Keep your mind clean and let us enjoy sightseeing the Ryogoku bridge and the Ueno sakura."

栞70 

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●六如慈周 Rikunyo Jishu 1734-1801
近江国の出身。号は無着庵。天台宗の僧で漢詩作者。1744年(11歳)に出家して延暦寺住。1746年(13歳)武蔵川越に住。漢詩を広く学ぶ。1757年(24歳)京都善光寺の住持。江戸の寛永寺にも住。晩年は京都に住む。交際は円山応挙、皆川淇園、伴蒿蹊、永田観鵞、沢田東江など広い範囲であった。維明周奎とは一緒に嵯峨野の観梅をしている。68歳で歿。「六如菴詩鈔:1797年刊、沢田東江校」には膨大な量の漢詩が掲載されている。作品は維明周奎の梅の画に六如慈周が漢詩を書いたもの、肉筆で落款は淡海六如、印は无(無)着菴主、硯北華南、孤蓬である。「水沈為骨玉為肌 依約華清出浴時 自咲自吟還自得 満窻唯有月明知」。この漢詩は「六如菴詩鈔遺編:1823年刊」(弟の苗村子柔が六如歿後22年後に残った漢詩をまとめたもの)に「題維明和尚墨梅」として掲載されていた。六如菴詩鈔と同遺編には維明周奎の画に六如が賛をした漢詩がこの作品の他に十数個掲載がある。これらの中で作品の所在と原画が判明しているものは少ないのではないだろうか。この人の画賛は1700年代後半の京都で大変人気があったようだ。円山応挙、池大雅、月僊、谷文晁など非常に多くの画家の画に賛として書き入れた漢詩が六如菴詩鈔と同遺編にある。円山応挙、永田観鵞、六如の合作を「江戸後期-II」の永田観鵞の所に解説。名家手簡にはこの人の書いた手紙が掲載され、「林泉院慈周」と自書しているので慈周の名も好んでいた。印の硯北華南の意味を調べた。参考論文:杉本欣久氏「江戸中期の漢詩文にみる画人関係資料」。 Rikunyo Jishu was a kanshi maker and a monk. He was active at Kyoto and had an intimate contact with Imyo shukei, Okyo Maruyama, Kanga Nagata, Kokei Ban and Tokou Sawada. There are so many kanshis of him at a book, Rikunyoanshisho which was published in 1797. A kanshi written on this hanging scroll is also shown in the book. The title is "a kanshi for the ume painting of Imyo Shukei".

●維明周奎 Imyo Shukei 1731-1803
臨済宗相国寺管長、維明周奎の2作目。この作品は落款はなし。印は周奎之印、維明で他所に掲載あるもの。上の六如慈周の賛が光る。おはこの梅の画である。 This is the second presentation of Imyo Shukei who was a zen monk. He was good at the paintings of ume trees. This painting is associated with a kanshi of Rikunyo Jishu, which is shown above.

●豪観 Goukan 1852 or earlier-1936
豪観は天台宗の僧で仏法山、薬王寺(千葉県成田市土屋:天台宗)に1936年の墓があり。作品は落款は叡岳沙門前大僧正豪観八十四歳書、印は遍照金剛、豪観之印。「念仏纔開口 池中結宝蓮」。纔:わずか。念仏(南無阿弥陀仏)とわずかに唱えると池の中に蓮の宝が結ばれる。念仏の素晴しさを説いた言葉で検索でも出にくい比較的稀な言葉である。しかし祇園南海(1676-1751)の詩の論文に記載、「江州僧某、以念仏纔開口、池中結宝蓮、為題請詩及画、聊賦一篇、且写一枝以贈」。つまり近江のある僧が「念仏纔開口、池中結宝蓮」の題に対し詩及画を南海に要請、南海は聊賦(わずかな詩)一篇と蓮一枝の画を写し贈った。南海の生存年より1751年以前の僧が知る言葉である。字からもまたこの言葉からも堅い真面目な人であろう。叡岳:比叡山延暦寺。南無阿弥陀仏(念仏)は浄土の各派だけでなく天台宗、真言宗でも唱える。池中結宝蓮とは極楽にある、「極楽浄土の池には荷車の車輪のような形の大きな蓮の花があって美しい光を放つ」:仏陀が弟子の舎利弗に極楽浄土のすばらしさを説いた。 Goukan was a Tendaishu monk who was active at Narita, Chiba. "If you say Namuamidabutsu, you get a beautiful lotus at a pond in the paradise soon."

●宗誉龍去 Shuyo Ryukyo ?-?
宗誉龍去は不明の僧。作品は落款は去月道人、印は宗誉龍去、明蓮社、中本願上人。「法身覚了無一物、本源自性天真佛」。永嘉真覚の作った證道歌の一節。法身(普遍の真理)を覚り終えるとそこには何もない、本源にある自分の天真の仏性があるのみである。何となく理解できるね。永嘉真覚:665-713、中国、唐の僧。天台止観(瞑想)に優れ、のち禅宗第六祖慧能に参じ、禅宗と天台との交渉を具現。確かにこの文章には禅宗の要素が含まれる。興味深いのは宗誉、明蓮社は浄土宗の僧の名であり宗誉龍去は確実に浄土僧であることである。宗誉龍去は天台と禅を統合した永嘉真覚の言葉を書写して、ここに浄土宗と禅を統合した思想を見せたようだ。確かに浄土宗は阿弥陀仏のことを法身(形のない真実)とするわけでこれをここの真仏とみても矛盾はない。禅宗の臨済の肉体上の無位の真人も同様である。名の「龍去」は「龍去雲散」で龍や雲が暴れたあとの静寂である。検索語は多いが同定できない現代で無名の僧である。浄土と禅宗といえば臨済宗の一休と浄土真宗の蓮如は仲良く交際していたので話題には共通のものがあったようだ。他力本願とは阿弥陀仏(形のない真実)の働きで、禅の仏法や真人、老荘思想の「道」、自然、mother natureと同じことのようであるから。この下方に蓮如の「方便法身」名号を掲載。 Shuyo Ryukyo is an unknown monk who belonged to Jodoshu. The meaning of the calligraphy is as follows; a natural mind of yourself appears after attaining Satori.

●龍門赤眉 Ryumon Sekibi ?-?
龍門赤眉は不明の僧。作品は落款は龍門満八十翁書、宇(?)栓普、印は赤眉。「慎独」。儒教の四書の内「大学」の言葉が以下:「君子必慎其独也」。しかし「慎」は分解すると真の心(忄:りっしんべん)で自然の真ごころでよい。別にいつも慎重でかちかちでなくても、ひとつ(単独)の暖かい真ごころがあれば充分素晴しいではないか。作者は印の1つに「頭陀」があるので僧には違いない。龍門という寺は多い。「赤眉」はこの僧を明確に示す固有名だが、検索では出ない。 Ryumon Sekibi was an unknown monk. He made this calligraphy at seventy-nine years of age. There are two meanings for this calligraphy; "my own sincere and warm heart" and "the carefullness of a gentleman when alone".

●蟠龍 Banryu 1741-1835 or later
蟠龍は不明の禅僧。作品は落款は松島法雲蟠龍居士書、印は松島、蟠竜。蟠:わだかまる、(蛇や竜が)どくろを巻いた状態。蟠踞:ばんきょ、とぐろを巻いてうずくまる、動かない。款記より乙未=1835年=天保6年2月晦日、95歳の作。松島法雲庵は松島瑞巌寺という臨済宗妙心寺派の大寺の傘下の寺。宮城県宮城郡松島町松島町内にある。「壽」の隷書と「具一切功徳 慈眼視衆生 福寿海無量」を書く。下の東厓に掲載の観世音菩薩に関する偈。長寿を祝われて是非一書題字を「壽」でと依頼されたようだ。さらさらと淡々と周囲も熟知の偈を淀みなく書いて依頼者に渡した。「壽」のみで長寿を意味する。松島瑞巌寺は別名青龍山、また盤龍、中原南天棒が在住していた。 Banryu was an unknown zen monk who was active at Matsushima, Oou. He made this calligraphy in 1835 when he was ninety-four years of age. The meaning of a big character is a long life(壽).

●東厓 Togai ?-?
不明の画僧、東厓さんの3作目。下のお釈迦さまと対の作品。落款は東厓薫沐拝写、印は東厓、雅楽。子安地蔵の画。子安地蔵は赤ちゃんを左手で抱えて、子供をお守りくださる姿である。総じてやさしそうな表情か無表情が多い。この子安地蔵は子を持つ母親が試練に会ったとき「この子はどんなことがあっても私が守るし手離さないからね」という感じで母性の強さを表す。小さな裸の赤子は外に抱えるのではなく懐に入れ、左手でそっと下から支える。小さな子は大きな地蔵さまの懐で安心の顔で手を合わせている。前作では男性的な観音様、女性的できれいなそして自信を持った出山釈迦、力強い母性愛で子を守ろうとする子安地蔵。どれもはっきり東厓さんの各像への考え方が表現された個性的な画である。そして東厓の画の共通点は「人間の力強さ」である。どれも素晴しい作品である。 This is the third presentation of Togai. This is a Koyasujizo(子安地蔵) deity who is the guardian of children.

●東厓 Togai ?-?
不明の画僧、東厓さんの2作目。作品は落款は東厓薫沐拝写、印は東厓、雅楽。釈迦出山を画いた。釈迦出山とは6年の厳しい修行後も悟りを得られず,山を出る釈迦の姿。釈迦出山図といえば大抵痩せ衰え無精ひげで衣装はぼろぼろ、表情は悲惨そうなものが多い。総じて好きになれなかった。だがこのお釈迦さんは髭も手入れをして口紅もありやや女性的な顔貌が気に入った。表情は自信があり「修行で悟りが得られなかったがそれがどうした。わしについて来い。」という感じで平然としていて大変よい。東厓さんの仏画は個性的だね。 This is the second presentation of Togai. He was a monk who was very good at the figure paintings related to Buddhism. This painting shows Buddha.

●蓮如 Rennyo 1415-1499
京都生まれ。浄土真宗本願寺派第7世存如の子。1457年(43歳)存如が入滅したあと蓮如が浄土真宗本願寺派第8世宗主となる。平易な文で民衆に説き、衰えていた本願寺派を再建した。1465年=寛正6年(51歳)大谷本願寺は延暦寺の衆徒により破却される。蓮如は北陸へ布教し、多くの門徒(一向衆)を教化した。さらに山科本願寺(京都市山科区)、石山本願寺(大阪市大阪城付近)を建てる。再建した山科本願寺で85歳で入寂。後に本願寺派は強い勢力を持ち織田信長と対決するまでになるが、蓮如はその基礎を作った。現在も浄土真宗本願寺派信徒694万人と最大勢力である。作品は「方便法身尊号」の名号。大谷本願寺釋蓮如、下に花押。「方便法身」とは阿弥陀仏の実像。「尊号」は礼拝の対象の意味。「方便法身尊号」で阿弥陀仏像と同じ意味。信徒の誰かに礼拝対象として書き渡された。「寛正五年甲申九月十七日」と記されている。年号は甲申=1464年=寛正5年9月17日、蓮如50歳。1465年に大谷本願寺が延暦寺の衆徒によって破壊されるその前年に書かれたものである。筆跡、花押は掲載されているものに一致。花押は「蓮+女+口」より成っているらしい。大谷本願寺は現在知恩院の塔頭のある場所にあった。その後の本願寺の本拠地につき下に示した。蓮如は禅宗の一休とは気が合い仲良く交際していた。尚この下の至徳の作品に教祖の親鸞の逸話あり。寛正:かんしょう。 Rennyo was a Judoshinshu monk who powerfully increased the Jodoshinshu believers. Now, the Jodoshinshu has the most large number of believers among the Japanese Buddhism, which was due to Rennyo's effort. The word(Hobenhoshin, 方便法身尊号) written on the top means the figure of Amidabutsu(阿弥陀仏). This paper was written at 17th, September, 1464 and was given to an intimate believer. The signature is consistent with his own.

●行慧玉扃 Gyoue Gyokukei ?-?
行慧玉扃は不明の僧。作品は落款は貧楽斎玉扃、印は行慧、月扃、臨済正宗。扃:けい、かんぬき、とびら。検索で特定できないので現代では無名となった僧だろう。行慧は真言宗高僧が出るが違う人。天保壬寅=天保13年=1842年以後の幕末の臨済宗の僧である。奢りを戒める文と最後に俳句を書く。俳句は「ひらくとも 其香を止め 冬牡丹」。きれいに咲いても芳香を外に発散せず内に止めなさい、冬牡丹よ。「進む者は退き易く、勢いに乗る者は弊害多くなる。天保十三年江邨が武士で農民の上に立つ官吏に命じられたのを祝って伝わった言葉だ。我はその武に傲るのを恐れた。我は大人物ではないとの言葉を胸にして農民に憐情を持ち、仁慈を施し、子孫栄久を祈ることを戒めとする」。士風:武士風。于茲:ここにおいて。渠:なに。械:戒め。胸襟:襟もと。鸞鳳:豪華で立派な霊鳥。仇覧:蒙求に掲載の人で鸞鳳のように才能は抜群だったが、就いた職は平凡だった。江邨:不明、田口江邨という人のことかもしれない。文章は江戸時代のお定まりの目立つな、奢るな、勢いに乗るなという価値観ですきではない。字は太い大字と細い小字のリズムがよく御家流の巧者である。 Gyoue Gyokukei is an unknown zen monk. The meaning of the calligraphy is as follows; do not outstand in the people. Those are the words at late Edo period, when humility was stressed so much. The meaning of a haiku is as follows; blooming camellias, keep the fragrance inside and do not spread the fragrance so much. I do not like the haiku.

栞60 

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●黙堂純 Mokudou Jun ?-?
黙堂純は不明の僧。作品の落款は黙堂純、印は釈純、秋渓、黙菴。丙寅仲春書之。丙寅は1806年=文化3年または1866年=慶応2年と見る。仲春:陰暦2月、新暦3月。「釈」より僧に違いない。福山黙堂という僧がいるが筆跡は異なる。現代に於いて無名となった僧は多いのでその1人だろう。「医(醫)薬施衣用 独禁外物侵 清究坡士語 養病在安心」。医薬は身体の衣に施すもので、単独では外物の侵入を禁ずるだけのものである、清い心で蘇東坡の言葉を研究して病気の養生をすれば安心である。詩は自作のようだ。精神の強さと高潔を強調する。禅宗の僧かも知れない。一方「臨済宗、白隠の元に多くの僧が参集したが、厳しい修行に若くして命を失った僧たちの多くの墓が白隠の墓を取り囲んでいる」。当然だが医薬、栄養を否定して精神だけ高潔に保っても早世(若い死)はあると現代の我々は銘記しておくべきだ。蘇東坡:1037-1101、別名蘇軾、中国北宋の詩人、書家。詩文は深い人間愛、正義感を表すとされる。なお詩の1行目「衣」と「用」の間に小さく「無」が書かれているが、無い方がよいと思う。 Mokudou jun is an unknown monk. The meaning of the calligraphy is as follows. Medicine is useful only for protecting the body from foreign bodies, while the poems of Su Dongpo(蘇東坡) are useful for the human soul and give a safety to the human core.

●一幻原阿 Ichigen Gena ?-?
一幻原阿は不明の人。作品は落款は一幻山人書、印は原阿之印、一幻、自足。「阿」は阿号と呼ばれ、浄土宗の僧侶に命名されるものである。知恩院や増上寺での修行を経て授かる。もちろん浄土宗の法然の言葉「南無阿弥陀仏」の「阿」である。従ってこの原阿は浄土宗の僧である。江戸時代に蝶夢幻阿弥陀仏(1732-1796;別名蝶夢)という浄土宗の僧の俳人がいた、「芭蕉翁発句集」など初めて芭蕉の俳句を集成した。さて字句は「本立而道生」。本に立つと道は生ずる。本:物事の本、元。而:その後。「君子務本 本立而道生」:論語の中の字句の一部である。解釈は読者に任されるが、君子でなくても迷って先の道が見えなくなった時は本に帰って立脚すれば生きた新しい道が見えて来るかもしれない、そしてその道を元気に歩んで行こう。以前すきだったBeatlesを聴いてみよう、すきだった本を取り出してまた読んでみよう、すきだった場所に行ってみよう、昔熱中していたことを再びやってみよう、みな貴方自身の故郷なんだから。難しく考えなくてもやれることは多い。この書は御家流の元気ある踊った字が大変よいね。横線を5本重ねる「書」の字は面白くてこの書に合っている。印の「幻」は上のひげが伸びて右下に下がると幻字の旁(つくり)になる。 Ichigen Gena was an unknown monk. According to his name, Gena, he was a Jodoshu monk. The meaning of the calligraphy is as follows. When you lose your way, come back to the origin. Then, you will find a new way to go. For example, you listen to the music which you liked. You go and see the land where you loved previously. You read a book which has been one of your favorites.

●円山要宗 Yoshu Maruyama 1871-1940
広島県福山市生まれ。臨済宗の僧。大徳寺488世。別名全提要宗。伝衣は室号。大徳寺管長広州の法嗣。1904年(33歳)岡山曹源寺住職。 1919年(48歳)大徳寺僧堂師家、1924年(53歳)大徳寺派第6代管長。70歳で寂。作品は落款は紫林伝衣、印は要宗。紫林は大徳寺を示す。款記は「此華開尽更無花」。唐の元稹の「菊花」の1節。元稹:げんしん、779~831、洛陽の詩人、白居易の親友、権臣におもねらず左遷に遭う。下に解説。繞:周囲を囲む、囲繞。遍:動作をもれなくする、遍路。偏に:ひとえに。菊を花は乾筆で、葉は潤筆の薄墨で画いた。葉のたらしこみ様の滲みが効いている。画の好きな禅僧のきれいな作品。 Yoshu Maruyama was a zen monk who was a head of Daitokuji, Rinzaishu. He was good at calligraphies and paintings. This picture depicting chrysanthemums was painted with the colorless sumi. The meaning of the writing is as follows; I love chrysanthemums because these flowers bloom last until spring has come.

●蘇山玄喬 Sozan Genkyo 1799-1869
肥後の生まれ。臨済宗妙心寺派の僧。肥後見性寺で出家。1851年(53歳)妙心寺535世住持。1862年(64歳)尾張藩主徳川慶勝に請われ、徳源寺僧堂へ移る。1866年(68歳)妙心寺に再住。1868年70歳で寂。作品は落款は前華園蘇山叟、印は正法山主、蘇山玄喬、曹溪一滴。華園は現花園で妙心寺のある場所名、正法山は妙心寺のこと。曹溪一滴:中国曹渓山宝林寺の禅僧慧能(638-713)のこと、この源から臨済(?-867)が出る、下の奥大節の項を参照。詩は愚堂東寔の作詩の前半。愚堂東寔:Gudo Toshoku、1577-1661、妙心寺137世住持で諡号は大円宝鑑国師。蘇山玄喬より大先輩の妙心寺の住持。松隠祖長信女が100年後のために偈(詩)を請願したのに応じて愚堂東寔が作った。「石女舞長寿 木人歌太平 還郷那一曲 方好唱無生」。「石女が長寿の歌に舞い、木人が太平の歌を歌う。百年後郷に還って来て一曲なす、まさに(方に)相変らず(無生)歌唱が好きなことよ」。木石: 木と石で感情変化に乏しい。ここの石女と木人は夫婦で歌唱と舞が好きで感情の起伏があまりない人だったようだ。なおこの時代は輪廻が強く信奉されており死が近いと高僧に100年後この世に還った時のために偈を依頼することも多かった。「長寿」「太平」がおめでたい言葉なので詩の前半がその後広く使われた。画も蘇山玄喬の作である。前華園なので妙心寺を離れた後尾張で書いた、1862-1866の間の作。参考論文:木村俊彦氏「中山寺蔵草稿に基づく大円宝鑑国師愚堂和尚語録」。 Sozan Genkyo was a zen monk who was a head of Myoshinji, Rinzaishu. He was good at paintings and calligraphies. This picture with a poem was made at a time between 1862 and 1866. The poem was originally made by Gudo Toshoku who was a senior Myoshinji monk. Gudo Toshoku(1577-1661) had been respected by peoples. "After a hundred year, you and your husband will come back here and enjoy dancing and singing." Gudo gave this poem to a long-lived lady who was supposed to die soon.

●雪豊眉年 Setsuhou Binen ?-?
雪豊眉年は不明の僧。以前曹洞宗の東光寺に住していた僧である。「曹洞宗の東光寺」は6つ以上あり、関東、秋田、仙台にあるが絞れない。円窓の僧の名は不明で脚艱(足が不自由)で87歳で寂した、そして円窓の僧は書いた僧の師匠であろう。款記の「公案現成」「眼晴」は曹洞宗の道元の正法眼蔵に掲載ある語。従ってこれらの僧は道元を尊敬し禅に厳しい僧であろう。落款の雪豊年はこの僧の略称で諱の眉年の「年」だけ記載、印は眉年印。鑑:かがみ。什麼:いんも、いかよう。倶:ともに。穆:おだやか。浤:こう、深い。艱:かん、難しく動きがとれない。画は丁寧に画かれ金泥で衣装の縁取りをしている。画の僧は顔貌がやさしそうでそこが大変気に入っている。明治初期頃の作品ではないか。 Setsuhou Binen is an unknown zen monk who belonged to Soudoushu. He wrote the poem. The man in the picture will be the teacher of Setsuhou Binen. According to the writing, the man died at eighty-seven years of age. The picture will also be painted by Setsuhou Binen.

●関牧翁 Bokuou Seki 1903-1991
群馬県甘楽郡下仁田町生まれ。臨済宗の僧。慶応大学中退。1928年(25歳)岐阜県瑞巌寺で得度。1930年(27歳)天龍寺管長関精拙に師事、1939年(36歳)関精拙から法を継ぎ、養子となる。1946年(43歳)天龍寺派8代管長。87歳で寂。自由奔放な禅僧であった。作品は落款は天龍牧翁、印は牧翁、龍門萬仭、臨済正宗。款記は「野火焼不尽 春風吹又生」。冬に野焼きで火を付けてもすべて焼き尽くすのではない、春風が吹いて下から新しい草が生じる。唐の白楽天の詩の一部。字は明るく、軽やか。画は春の山菜、わらび、つくしなどを朴訥に画く。爽やかな禅僧だね。 Bokuou Seki was a extroverted zen monk who belonged to Tenryuji, Rinzaishu. "Spring breeze has come and new grasses come and grow." The picture shows tsukushi and warabi.

●東厓 Togai ?-?
東厓は不明の僧。作品は落款は録普門品偈之末文并東厓謹写、印は東厓、峯雅之印。「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」。妙法蓮華経の観世音菩薩普門品偈の一節。お経の文句にあり。由来は鳩摩羅什が印度の経典を406年に漢訳したもの。鳩摩羅什:344-413、くまらじゅう、中国の西域の僧、中国後秦の時代(384-386)に長安に来て300巻の仏典を漢訳。意味は「観音様の大きな徳、民衆を見るやさしい眼、海の如く無量にある幸福、以上より皆拝礼をしなさいよ」。聚:あつめる。頂礼:頂上の礼。この観音様はひげが書かれて尊厳を持って男性的な表情に画かれる。東厓の趣向だろう。悪くないね。別に寒山拾得も画いているがこちらは観音様とは違って略画風である。大変画の上手な僧である。明治頃の人ではないか。 Togai was a monk who was good at paintings. This is a Kannonsama who looks manly.

●如海 Jokai ?-?
不明の禅僧。作品は落款は如海、印も如海。「無事是貴人」。平穏無事であるのは上品なことだ。禅語である、よって真言宗の僧の如海さんは違う人だろう。字は直線的で少し楊守敬に似るが、落款の字は丸い。個性的な字で気に入っている。最後の「人」が大きくて特によいね。印も自作らしいが「海」がさんずいを下に置くのは面白い。明治頃の人と思う。 Jokai was an unknown zen monk who loved calligraphy and seal. "A peaceful life is noble."

●奥大節 Daisetsu Oku 1888-1970
島根県簸川郡生まれ。臨済宗の僧。号は雲関窟。1906年(18歳)京都天竜寺僧堂にて修禅。1926年(38歳)大分萬壽寺住職。1946年(58歳)浜松市の方広寺派管長。1962年(74歳)欧米に道場を設立。82歳寂。作品は落款は雲関書、印は大節、曹源滴、蹹碓破衲。「無事」。曹源滴:中国山東省の曹渓山宝林寺の慧能(638-713)のこと。この源から臨済(?-867)が出る。また曹洞宗も出る。臨済から下って圜悟(1063-1135、宋の禅僧)が碧巌録を著す。さらに鎌倉時代に日本に臨済宗、曹洞宗が伝わる。蹹:踏、とう、ふむ。衲:僧衣。蹹碓破衲:碓の前で杵を踏んで穀物を搗き、破衣(粗末な僧衣)で素食をすること。印は意味深長な語が並び勉強になるね。私は方広寺管長と縁がある。間宮英宗、足利紫山、奥大節とすべて作品がある。下の作品には元より渡来の臨済宗竺仙梵僊(1292-1348)の縁起が記載。 Daisetsu Oku was a zen monk who was a head of Hokoji, Rinzaishu. "Peace."

●作者不明 Unknown artist ?-?
画は釈迦の花押で釈迦宝印とも言われるもの。文章は竺仙梵僊が主。上は北宋の真宗皇帝の文。「鶴が立ち、亀の形は勢いは止まない。五天の文字で鬼神は愁う。孔子の門には知る人無し。緑眼の外国の僧(釈迦)が首を前後に振って笑う」。下は竺仙梵僊が記した文。「義浄三蔵が印度から持ち帰った経にこの釈迦の花押があった。これに北宋の真宗皇帝が花押の所に賛を入れた。これを所持すれば諸天が仏の親族のように護り、安国、鎮宅、悪邪払いが頂戴できる。利益、福徳は無窮(きわまりなし)。因ってこれを上梓して永く流通するを期する。貞和丁亥3年(1347年)竺仙がこの伝を四方に摹刻し伝えた」。「応永庚辰7年(1400年)春重がこの結縁が中国より将来した所を彫る。尤も字と花押は臨時に書いたので又別の此方をよく判る者がいれば是也」。義浄三蔵(635~713):三蔵法師、唐の僧。真宗皇帝(968-1022):北宋の皇帝。竺仙梵僊(1292-1348):鎌倉時代末期に元から来日した臨済宗の僧、京都南禅寺、鎌倉建長寺の住持。五天:五天竺、東西南北と中央の天。点頭:首を前後に振ってうなずく。西天:インド。入梓:上梓、出版すること。摹刻:模刻、版木を刻む。春重(1400年頃)は不明の僧。上の賛は「大日本仏教全書 寺誌叢書 4巻」に掲載があった。下の賛は「古今要覧稿 屋代弘賢著 1821-42」に記載があった。最後に「これをよく知る者がいれば是である」と記したのが正直。この作品は要約すると1.インドにあった釈迦の花押を記した経典を義浄三蔵が中国に持ち帰った。2.北宋の皇帝が花押に賛を加えた。3.それを竺仙梵僊が日本に持って来て由緒を書いて版刻して刷り四方へ渡した。4.春重が再び版刻し刷り物を広めた。5.この作品の作者がその刷り物をみて画いた。作者は江戸時代で1800年以前の僧と思う。同様の図と賛で富岡鉄斎の作品を掲載、賛は「竺僊摹刻」までと短い。現在はこの花押は「釈迦宝印」として知られるが由緒はまず忘れ去られたようだ。私はこれを所持して利益無極、福徳無窮である。

栞50 

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●東嶺円慈 Torei Enji 1721-1792
近江生まれ。臨済宗妙心寺派の僧。9歳で出家。古月禅材、白隠慧鶴に師事しその法を嗣ぐ。伊豆に龍澤寺を開く。72歳で寂。著作に「宗門無尽灯論」。作品は落款は東嶺書、印は圓慈、東嶺。画はかわいい愛嬌ある達磨さん。有名な一休さんの肖像画を連想した。この人の他の画も愉快なものが多い。焼餅が膨らんだような花押も大変愉快。「直指人心 見性成仏」は有名な禅語で白隠の画にもある。下に道歌心能策に掲載の像と短歌。この辺の語句の解釈は読者の自在に。 Torei Enji was a famous zen monk who was a pupil of Hakuin. He belonged to Myosinji group of Rinzaishu. He was good at Zenga like this one. This picture of Daruma is cute. His signed seal looks like aswollen Mochi(餅) and is also cute.

●大洲鉄然 Tetsunen Oozu 1834-1902
周防国大島郡出身。浄土真宗本願寺派の僧。号は石堂。大島出身、同宗の僧月性に師事。月性と同様尊王攘夷討幕派。1864年長州征伐では護国団を組織して幕府軍と戦う。維新後同じ周防出身の島地黙雷らと西本願寺の改革。1921年本山の執行長。69歳で歿。作品は落款は石堂然、印は鐡然之印、石堂居士。款記に両全教社設置之歌謹呈。1875年(42歳)両全教社が島地黙雷と大州鉄然により設立された時の作品。この書を謹呈された日野直照大法兄は不明の僧。細めの続け字でさらさらと淀みなく筆が動く。経歴から予想されるよりもむしろ淡々とした人かもしれない。上手である。「明治以後」の上田桑鳩に似る。文は未解読。 Tetsunen Oozu was a monk of Jodoshinshu, Honganji. He fought against Tokugawa Bakufu.

●至徳 Shitoku ?-?
至徳は不明の人。親鸞と弟子の性信房の越後から東国に布教途中での逸話を画く。「聲なくはいかに それともしりなまし 雪降りかかる あし原の鷺」。"芦原の白鷺が声を出さなければ(白い雪の中なので)そこにいることは知り得なかった。声を出したので白鷺が居ることが分った"。親鸞の言葉で解釈は様々。落款はない、印は至徳、眞忠。作者は江戸後期の浄土真宗の僧だろう。かわいい鷺と明るい表情の僧が画かれる。2僧の顔はいかめしさがなく庶民的なのがよい。以下人物解説。親鸞(1173-1263):浄土真宗の祖。念仏の法然を師と仰ぎ教えを継承。他派の攻撃で1209年(35歳)越後国国府へ流罪。1214年(40歳)流罪の赦免後関東へ布教のため、性信房と信濃、上野、常陸と向かう。性信房(1187-?):19歳法然上人に帰依。法然は高弟の親鸞に指導を託した。以後親鸞に常随の弟子となり、親鸞の東国門弟中の指導者となる。  Shitoku is an unknown painter who will probably be a monk of Jodoshinshu. This picture shows Shinran and Shoshinbo who contributed to the progression of Jodoshinshu of Buddhism.

●岸誉雲海 Ganyo Unkai 1527-1640
相模小田原生まれ。京都、大坂で活躍した浄土宗の高僧。浄土宗の重願寺(大坂)、西岸寺(油懸地蔵:京都伏見)、石像寺(釘抜地蔵:しゃくぞうじ:京都市上京区)を開基、建立、中興した。他に西運寺(伏見)、浄久寺(長野県)も開山、中興。114歳で石像寺に寂す。浄土宗の知恩院、増上寺以下の寺は徳川家に重宝に保護された。作品は落款は七十一老翁岸誉書、印は岸誉在眞。慶長2年=1597年の作。「着手色命無一瞬時在」。手を着けると色(形)の命が一瞬無くなる時が在る。色即是空を実感したという意味のようだ。「色即是空」に対するこの時代の一高僧の考えかたが興味深い。まさに文字通りに解釈している。確かに「形は常に変化し無である」ならば「色是空」でよい。岸誉の言葉は「即」を「一瞬」で表現する。我々凡人の普通時の精神状態では理解は困難。中央の「無」がウインクした顔のようで目立つ。 戦国ー江戸初期の高僧の印は澤庵(このページに掲載)もそうだけど、壷印でかっこ良いね。 Ganyo Unkai was a famous monk who belonged to Jodoshu. The meaning is probably Shikisokuzeku(色即是空). "There is a transient time when a color or a shape of a material diaappears when you touch the material." This calligraphy was written in 1597.

●南溪顕孝 Nankei Kenkou ?-?
不明の僧。落款は松雲山主顕孝、印は南溪之印、顕孝之章。「一輪明月照禅心」。御家流の大変流暢で美しい作品。書が好きな禅僧だろう。一輪の満月は禅の心を照らし明らかにする。すごくよい言葉。月と心はともに静かという言葉もありますが、心が静かになると禅の心も明るい。幕末ー明治の人と観る。字は道本憲寿に似る。臨済宗、曹洞宗で松雲山と称す寺は京都府峰山町、埼玉県行田市にあるが不明。 Nankei Kenkou was an unknown zen monk. This calligraphy shows a beautiful Oieryu style. "A full moon makes zen mind clear."

●足利紫山 Shizan Ashikaga 1859-1959
愛知県一宮市の生まれ。室号は閒雲室。1866年(8歳)出家。1875(16歳)臨済宗学黌で内外典を学ぶ。1894年(35歳)大分市萬壽寺住職。1927年(68歳)方廣寺派管長。1941年(82歳)臨済宗十三派合同の初代管長。100歳で寂。作品は落款は間雲九十二翁、印は臨済官長、紫山、無門関。字は狂草で大きく崩す。線が細く寂しい良寛の字によく似る。1951年、92歳の作。未解読。 Shizan Ashikaga was a zen monk who was a head of Hokoji, Rinzaishu. He was good at calligraphy. His calligraphies look like the one written by Ryokan.

●間宮英宗 Eiso Mamiya 1870-1945
愛知県生まれ。臨済宗方広寺(浜松市)の僧。1918年(48歳)方広寺派管長になる。活動は台湾・朝鮮・中国にも及んだ。75歳で寂。作品は落款は沙門英宗、印は英宗、友雲、臨済正宗。この人は墨絵がすきだったようだ。左下の書き込みは昭和壬申=1932年=昭和7年の秋、印は栖賢寺。この時に同じ臨済宗で京都市上高野に在る栖賢寺の什物となったとみる。 Eiso Mamiya was a zen monk who was a top of Hokoji, Rinzaishu in Hamamatsu.

●玉潾 Gyokurin 1751-1814
近江の生まれの浄土宗の僧。京都永観堂の画僧玉翁に学ぶ。墨竹が秀でる。京都山科に住んだ。江馬細香の画の師。64歳で寂。作品は落款は玉潾写、印は玉潾之印、清風朝日。丁卯=1804年=文化4年初春、54歳の作。初春:正月。爽やかな墨竹がよいね。 Gyokurin was a monk who lived at Yamashina in Kyoto. He was good at the paintings of bamboos.

●道本憲寿 Dohon Kenju 1765-1858
信濃生まれの真言宗の僧。字は虎溪。1773年(9歳)出家して京都知積院へ。在山40年。1813年(49歳)佐渡蓮華峰寺。1823年(59歳)浅草大護院住持。94歳で寂。風格雄渾な御家流とされる。作品は落款はなし、印は道本憲寿、虎溪二上之僧でこの人の作。「寿山高萬丈」。寿命も山も三万メートルの高さ。1丈:3m。確かに悠々とした落ち着いた御家流。 Dohon Kenju was a monk who belonged to Shingonshu. He was good at calligraphies of the Oieryu style like this calligraphy.

●天游寛饒 Tenyu Kanjou ?-?
不明の人。落款は天游、印は寛饒杜多、天游道人、我見自心形如月輪。杜多は僧である。”真言宗は自心は白色にして円形なりという。金剛頂経に「我見自心形如月輪」と説く是なり”。以上より真言宗の僧らしい。「鶴舞千年樹」。御家流で堂々と書いている。続き字が好きな人。 Tenyu Kanjou was an unknown monk who was good at calligraphy of the Oieryu style. He might have belonged to Shingonshu. "Cranes are dancing on a tree of one thousand years of age." This tree is a pine tree.

栞40 

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●金國通人 Kinkokutujin ?-?、俊直 Shunchoku ?-?
金國通人は不明の人。款記は中峯派下前泉龍金國通人拝賛。臨済宗中峰派傘下泉龍寺で修行した人。この派は元代杭州の中峰明本(1263-1323)に学んだ遠谿祖雄(1286-1344、1325年丹波高源寺)を祖とする派で江戸時代以降には低調となる。「曲直説来天下喧 転捩輪室徹根宅 九年面壁作何享 此意問渠々不言」。(是非)曲直:物事の善悪。渠:なんぞ。享:うけとる。なお他に1200-1400年に栄西、道元など中国で修行した人やその弟子筋が臨済宗の各派(大徳寺派、妙心寺派など)と曹洞宗の日本での祖を成している。画家は印が俊直と観る。古画備考に融通念仏縁起二巻を画いた「俊直」(1380年頃の人)が掲載。関連は不明。作品は江戸以前と思う。この作品でずいぶん勉強になった。臨済宗中峰派の人の作品は稀と思われる。  Kinkokutujin is an unknown zen monk who belonged to Chuhoha, Rinzaishu. He wrote the poem related to Daruma. Shunchoku painted the picture of Daruma. He is also unknown today.

●松坂帰庵 Kian Matsuzaka 1891-1959
岡山生まれ。真言宗の僧。字は旭信。岡山三野法界院33世。書は自ら慈雲、寂厳の流を究める。温雅、高潔で「今良寛」と呼ばれた。68歳で寂。作品は落款は帰庵、印は旭信之印、帰庵、間雅。「和気萬家春」。和やかな気が満ちすべての家に春が来た。明るい言葉ですごくよいね。字は慈雲より線は細くやさしい。帰庵さんすばらしい。慈雲より好きだ。 Kian Matsuzaka was a monk who belonged to Shingonshu. He has been loved by a lot of people for his calm and kind character." Confortable air is prevalent in every house. Spring has come."

●宗般玄芳 Souhan Genpou 1848-1922
加賀の生まれ。臨済宗の僧。号松雲。熊本見性寺、大分円福寺を経て、1908年(60歳)大徳寺486世管長。75歳で寂。作品は落款は紫野松雲叟書、印は見性宗般、玄芳之章、松老雲間。紫野=大徳寺で書いた。「竹陰居」。作品は多く、書画が好きな人だったようだ。 Souhan Genpou was a zen monk who was a top of Daitokuji, Rinzaishu. He was good at calligraphies and paintings. "Live a calm life beside the bamboos."

●維明周奎 Imyo Shukei 1731-1803
若狭の生まれ。臨済宗の僧。相国寺管長115世。伊藤若冲に画を学び、墨梅が得意。池大雅、与謝蕪村と交友。78歳で寂。作品は落款はなし。印は周奎之印、維明。梅と石。風を巧みに表現。肖像からも禅僧としては温和な人であろう。 Imyo Shukei was a zen monk who belonged to Shokokuji, Rinzaishu. He was good at paintings of the ume trees.

●提山祖鋼 Teizan Sokou ?-? active ca. 1682
臨済宗妙心寺派の僧。1682年肥前唐津の松山禅寺などを臨済宗妙心寺派の寺として再興。落款は前妙心堤山賛、印は堤山。前妙心にて妙心寺で修行後、他へ移った後に書いた。画もたぶんこの人の作。「何度不放下 経巻在手中 咦 謾語誤脱空」。放下:執着を捨てる。咦:い(驚く声)=あれ。謾:いつわる。経巻にこだわると語を間違えて偏に執着してしまうぞ。画は寒山である。少し寂しそうな顔だね。 Teizan Sokou was a zen monk who belonged to Myosinji, Rinzaishu. The pictere depicts Kanzan who looks like a lonesome man.

●鉄額泥牛 Tetsugaku Deigyu ?-? active ca. 1820-1832
曹洞宗の僧。1820年頃石見永明寺、美濃大垣の全昌寺の首座を務めた。著書に「従容録弁解」。作品は落款は鐡額子拝寫。壬辰=1832年=天保3年秋の作。賛は画の観音様の説明である。「兀坐座頭 度生不休 観音三昧 雲行水流」。兀坐座頭:はだかの岩の頭に坐る。度生:人々を仏門に入らせる。 Tetsugaku Deigyu was a zen monk who belonged to Sodoshu. This picture depicts a Kannonsama and was painted in 1832.

●無学愚禅 Mugaku Guzen 1733-1829
愚禅さんの4作目。落款は九十二翁書而応求、印は無学、愚禅。旹(時)文政六癸未仲夏上浣。仲夏:陰暦五月。陽暦六月。癸未=文政6年=1823年、92歳の作。和朝久邇六歌僊の図。画家の方は未調査。文化文政の成熟した江戸文化の中多くの文化人が集まったのだろう。愚禅さんも楽しかったようだ。扇子を画いて周囲を朱で塗っている。 This is the fourth presentation of Mugaku Guzen. The calligraphy was written in 1832. Pictures were painted by eight persons.

●辻井徳順 Tokujun Tsujii 1864-1952
近江国野洲郡祇王村生まれの天台宗の僧。蒲生郡教林坊に住す。1932年(66歳)僧正。88歳で寂。作品は落款は天台沙門徳順、印は徳順之印、傳鐙一乗菩薩。「忍謙」。 Tokujun Tsujii was a monk who belonged to Tendaishu. He was active in Shiga prefecture. This is "humility".

●黄檗来鳳 Oubaku Raiho 1730-1817
黄檗宗の僧。来鳳は号、法諱は円密。別号に山陽山人。大鵬正鯤に師事し墨竹画を学ぶ。後長崎崇福寺に住す。88歳で寂。大鵬正鯤(1691-1774)は清より来朝の黄檗僧で後に宇治萬福寺の主。作品は落款は山陽来鳳写、印は圓蜜之印、来鳳。ユニークな形の墨竹画である。太い竹が堂々としている。 Oubaku Raiho was a zen monk who belonged to Oubakushu. He was good at the painting of bamboos.

●丸山貫長 Kancho Maruyama 1843-1927
信濃豊科熊倉の生れ。真言宗の僧。名は公雄。1851年(9歳)父に従い江戸の浅草大護院道本に書を学ぶ。1858年(16歳)僧籍、修行。1861年(19歳)から19年間、大和長谷寺で修学。その後奈良県室生寺住職を17年間勤める。後は奈良県宇陀郡大蔵寺住職となり、18年間勤める。84歳で寂。作品は落款は公雄書、印は唯一心、沙門公雄、空々。款記は高野山第四百六九世法印。「黙如雪」。雪だるまがかわいいね。 Kancho Maruyama was a monk of Shingonshu who lived at Nara. He was good at calligraphy of the Oieryu style. "Silence like snow." The snowboy is so cute.

栞30 

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●中巌慈暹 Chugan Zisen ?-? active ca. 1789、狩野友守 Tomomori Kano ?-?
賛は落款は天徳比丘中巌慈暹謹賛。画はこの人の頂相。臨済宗天徳寺は松山にあるが、不明の人である。比丘:びく、修行僧。印は中巌、慈暹之印、臨済正宗。己酉=1789年=寛政元年の賛。孟秋下浣:陽暦八月下旬。画は印は藤原、友守。藤原は狩野氏。狩野友守は不明の人。字の意味は「戒律を守ること厳重である。古今を通じて獨歩している。龍魔も帰服する。天神も喜んで奉じる。実の如来の使いである。心はまっすぐ。それは毘尼宗主と謂われる者だ。異国の殊な方向から風と聲が凛々としてきた」。毘尼:びに、戒律。凛:さむい、すさまじい。如来:釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来が四如来。椅子に坐るのは中巌慈暹、下に立っているのが毘尼宗主で如来の使いと観る。細密に画いている。少し寂しそうな顔。  Chugan Zisen was an unknown zen monk who belonged to Rinzaishu. He wrote a kanji poem. The picture depicts Chugan Zisen and was painted by Tomomori Kano. He looks like a lonesome man.

●断渓鬾岸 Dankei Gigan 1716-1802 or later
不明の人。落款は八十七翁断渓謹画賛。印は威音一箸、断谿頭陀、鬾岸之印。享和2年=1802年秋、87歳の作。画と賛ともにこの人の作。頭陀は僧である。断継慧水(臨済宗)が備後国三原にいた。断谿で宋の僧もいる。菡萏:かんたん、蓮。全文は未解読。すごく魅力的な観音様である。 Dankei Gigan is an unknown monk who belonged to Rinzaishu. According to the written kanji, he was eighty-six years of age in 1802 when he drew this picture. A beautiful Kannonsama is on a leaf of lotus.

●明堂宗宣 Myodo Sousen 1768-1837
大徳寺の明堂さんの4作目。落款は返照子、印は明堂。水仙の画がきれい。奥ゆかしさあり。賛は宙宝宗宇で下に記載。 This is the fourth presentation of Myodo Sousen. This narcissus is beautiful.

●宙宝宗宇 Chuhou Souu 1760-1838
京都生れの僧。大徳寺418世管長。晩年は芳春院内に松月庵を営み、退隠。能書家と称された。79歳で寂。作品は落款は龍峯山住松月老衲、印は宙宝。龍峯山は大徳寺。「清波仙子風姿美 艶素会香不染塵」。上の明堂宗宣の画いた水仙(仙子)の姿を賞賛している。 Chuhou Souu was a zen monk who was a head of Daitokuji, Rinzaishu. He was very good at calligraphy.

●環中禅機 Kanchu Zenki 1790-1859
周防生まれの臨済宗天竜寺派の僧。号は観雲。晩年に京都天竜寺栖松軒の住持。70歳で寂。著作に「紀元暦書」「須弥界四時異同弁」。落款はなし、款記(賛)の所の印は環中、禅機。画の印は下方にあり看雲であり号観雲であり画作もこの人と判る。すなわち賛、画共に環中禅機の作である。賛は未解読。味のある竹の図。この人の画作は一般的に知られていない。 Kanchu Zenki was a zen monk who belonged to Tenryuji, Rinzaishu.

●明堂宗宣 Myodo Sousen 1768-1837
大徳寺の明堂さんの3作目。落款は明堂、印は明堂、満目青山。すばらしい豪快な竹の画です。いいでしょう。 This is the third presentation of Myodo Sousen. This is a beautiful picture of bamboos. Just terrific.

●弘巌玄猊 Kogan Gengei 1748-1821
越後南魚沼生まれの臨済宗妙心寺派の僧。初め白隠に参じのち、その高弟遂翁元盧に請益。1784年(37歳)丹波高源寺に入寺し、教化に務め、両丹、播但の人士の追崇敬慕は衰えない。74歳で示寂。この人は落款なし、印は弘巌、O一聲。「座禅前無安心處」。座禅する前に安心できる所なし。ひょろひょろしたこの字が特によい。 Kogan Gengei was a zen monk of Myosinji, Rinzaishu. He was good at the cartoon-like paintings like this.

●海門禅恪 Kaimon Zenkaku 1743-1813
海門禅恪の2作目。落款は海門書、印は禅恪之印。これは三社託宣。天照皇大神宮(伊勢神宮),八幡大菩薩(石清水八幡宮),春日大明神(春日大社)の三社の託宣。江戸時代に床の間に飾られ庶民信仰として普及した。正直・清浄・慈悲を強調する。書全体のバランスがよい。海門の書は好き。 This is the second presentation of Kaimon Zenkaku. people adored this type of calligraphy, because the names of three gods are written togeather.

●真巌宗乗 Shingan Sojou 1721-1801
京都生まれの臨済宗の僧。大徳寺390世管長。1777年(57歳)品川東海寺輪番で江戸へ。81才で寂。作品は辛酉試筆 前大徳九々翁真巌。印は宗乗之印、真巌、栴檀葉香風起(栴檀の葉が香り、風が起る)。辛酉=1801年=享和元年、81歳(入寂の年)の作。前大徳にて東海寺で揮毫。九々翁は九々=81歳の翁の意味。年号と自署81歳が合致。「在松萬歳青」。松は万年青く在る。81歳で体力は落ちてもまだまだ青年と同じでわしは青く若いのだ。字のかすれがいいねえ、またことばが素晴しい、最高。 Shingan Sojou was a zen monk who was a head of Daitokuji, Rizaishu. This calligraphy was written at eighty-one years of age in 1801. "A pine tree has been green since ten thousand years ago." "Green" means "Young" here. He wrote that he himself had been having a young heart and a long life same as a pine tree.

●大徹宗斗 Daitetsu Souto 1765-1828
臨済宗の僧。大徳寺430世管長。1816年(52歳)尼ヶ崎栖賢寺。64歳で寂。落款は前大徳大徹野衲、印は大徹、蝸菴道人、正法眼蔵。「地獄」。「三界無安 猶如火宅」。三界無安:安住できる所がないこと。火宅:焼けている家屋。安心せずに苦しむばかりだと地獄だな。作品は前大徳にて1816年-1828年の作。 Daitetsu Souto was a zen monk who was a head of Daitokuji, Rinzaishu. "This world is a Hell if you have no peaceful mind." This calligraphy was written at a time between 1816 and 1828.

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●無学愚禅 Mugaku Guzen 1733-1829
無学愚禅の3作目。曹洞宗の僧。落款は八十五禅書、印は志僧、无(無)学。神社名などは木版画が多いが、これは肉筆。禅は愚禅の名。秋葉大権現(秋葉寺、静岡県浜松市)は神仏混淆の寺院。701年行基が開基。秋葉寺は真言宗寺院だったが、1625年に徳川幕府は曹洞宗へ宗旨替え。江戸時代中期、後期に秋葉信仰が大流行。明治6年(1873年)廃寺となり神道に属した。この事情から曹洞宗の愚禅がこれを書いたのもわかる。 The third presentaton of Guzen Mugaku. Guzen wrote this calligraphy at 1818, when he was eighty-five years of age. Akibadera had belonged to Sodoshu during the Edo period although it belongs to shinto now.

●千方楚牛 Senpo Sogyu ?-? active ca. 1764
伊勢松阪の観音寺(臨済宗、現在廃寺)の住職。1764年曾我蕭白が千方牛和尚として頂相(像)を画いている(右下)。従ってこの前後に活動した僧。落款は八十八老衲千方書、印は千方、楚牛之印。右の字は「事」かな? 「思ふ 火の用心と息きれと、損せ(勢)ぬやうに、人と中よく(能)」と親しい人とお別れの時に注意事項を書き贈ったものだろう。禅僧の書は漢字でいかめしいものが多いが、これはかなで筆跡も相手への大きな愛情が感じとれる作品。 Senpo Sogyu was a zen monk who lived at Matsuzaka, Ise. This calligraphy was probably given to a person whom Sogyu loved so much. "Take care of a fire and the dyspnea. Be a good friend of people there."

●明堂宗宣 Myodo Sousen 1768-1837
丹波篠山藩家老の子。臨済宗の僧。大徳寺429世管長。画を得意とする。作品は多い。70歳で寂。この作品は自画自賛。画は紫野獦獠画、印は宗宣。紫野は大徳寺のこと。獦かつ:おおかみ。獠りょう:狩。寿老人の画。賛は前大徳明堂再応需、印は明堂、放下着。内容は未解読。 Myodo Sousen was a zen monk who was a top of Daitokuji, Rinzaishu. He was good at paintings.

●啓叔宗廸 Keishuku Souteki 1671-1743
武蔵国生の臨済宗の僧。大徳寺309世管長。東海輪番を務める。73才で寂。酒田市文化財:絵画「啓叔宗廸筆 澤庵和尚像」。落款は前大徳啓叔叟書、印は一字啓叔、廸杜多である。「壽」。他は未解読。前大徳なので1729年=享保14年に品川東海寺(澤庵宗彭開基)に移って以後の作。 Keishuku Souteki was a head of Daitokuji, Rinzaishu. Ju(壽) means a long life. This calligraphy was written at a time between 1729 and 1743.

●無学愚禅 Mugaku Guzen 1733-1829
曹洞宗の僧。加賀大乗寺43世管長。この人は各地の寺の碑や額に大変多くの書を残す大人気の僧だった。97歳の長寿。落款は大乗寺愚禅書、印は愚禅、无(無)学。「道」。莫(?)渉岐。「二つの別れ道(岐)の間を渉り歩くこと莫れ」。たぶんこんな意味かな。加賀大乗寺に居る間、1789年ー1808年に書かれた。迫力あるね。 This is the second presentaton of Mugaku Guzen. He wrote this calligraphy at a time between 1789 and 1808. Michi(道) means simply a way. "Just take one way if you decide. Never look back."

●海門禅恪 Kaimon Zenkaku 1743-1813
周防光井(光市)生。臨済宗の僧。妙心寺管主440世。1755年(13歳)出家。1764年(22歳)豊前中津の自性寺提州禅恕に参禅。1778年(36歳)同寺を継ぐ。1804年(62歳)妙心寺管主。1813年寂、71才。作品は落款は前妙心海門書、印は海門、禅恪之印。恪:きまじめに身を持す。「水流元入海」。水は流れて元の海に入る。解釈は様々。字も言葉も大変良いね。 Kaimon Zenkaku was a zen monk who belonged to Myosinji, Rinzaishu. He climbed up to the boss of the group. He was very good at calligraphy. "Water flows into the sea, which is the mother of water."

●紫水迂禅 Shisui Uzen ?-?
不明の人。清峯寺が高山市にある。明治時代大徳寺に紫水和尚がいるが、関係は不明。落款は清峯迂禅、印は湘紫水、春風蕭。たぶん明治頃の人で紫水迂禅と思う。禅の字や達磨から臨済宗または曹洞宗。「一葉過揚子 九年坐少林 長年祖師迂 明月清風下」。 ”達磨は蘆の一葉に乗って揚子江を渡河。少林寺で九年面壁。長年祖師(達磨)は何と迂遠なこと。明るい月と清い風の下で”。味の有る賛ですね。内容が解ると全体もすごく良く見えて来る。 Shisui Uzen is unknown today. The kanshi shows a story of Daruma. "Daruma came to China after crossing the Yangtze River on a leaf of asi. He did zazen in front of a wall for nine years at Shorinji. What had he done there for so long time under a bright moon and a confortable wind?"

●覚道正和 Kakudo Seiwa ?-?
作品は印が覚道、釈正和印。釈は僧である。金剛峯寺座主38世覚道(1735-1810)という人がいるが不明。「覚」は真言宗の僧に多いようだ。後ろ向きに馬に乗ることを逆馬というようです。馬がどこに行こうが関知しない。この馬はおとなしいようだ。 Kakudo Seiwa is an unknown monk today. The act of riding a horse backwards means that I do not mind wherever the horse goes.

●萬仭宗岱 Banjin Soutai ?-? active ca. 1756-1760
臨済宗大徳寺派の僧。大徳寺264世陽岑宗昕(1704年51歳歿)の孫弟子。摂津般若寺を再興。大坂豪商鴻池直耕に書を教えた。萬仭道担(曹洞宗)、萬仭宗松(大徳寺)という別人に注意。宝暦庚辰=1760年及び宝暦丙年=1756年の作あり(右参照)。私の作品は落款は紫埜仭翁書、印は東明、壁立道人、岱印。「袋裏大来無尽蔵 柱杖頭上撃日月」。紫埜の大徳寺でこの作品を画いた。1760年の作(右下)も紫野壁立道人でこの年この人は大徳寺で修行していた。私のも同じころの作。かわいい布袋さんだ。 Banjin Soutai was a zen monk who belonged to Daitokuji of Rinzaishu. He was good at calligraphies and paintings.

●石城傳和尚 Sekijou Den ?-? active ca. 1830
禅僧。落款は石城傳頭陀。印は光瑛印章、一曰(いわく)仁寳。頭陀は托鉢僧。1830年頃愛知県知多市の栖光院に石城和尚(曹洞宗)がいた。この人かも知れない。「断続安隨風去来 清香遥識野梅開 禅林末守鼻端白 詩坐掃空心地埃」。風が断続的に来たり止んだりするのに任せて安心している。清らかな香が遠くの梅の開花を識らせる。禅林の末寺を守る者には鼻白(興ざめ)のこともある。心の埃を掃いて空にして坐って詩を作る。これはたぶん自作詩。「禅林」より曹洞宗または臨済宗の人。詩と力強い字はすばらしい。 Sekijou Den was a zen monk who was active at around 1830. Probably this kanshi is his own poem. This calligraphy is strong.

栞10 

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●物外不遷 Motsugai Husen 1794-1867
伊予松山藩士の長男。曹洞宗。5歳より寺で修行。西日本を中心に点々とする。1828年(34歳)尾道済法寺住持となり、以後生涯尾道で過ごす。剛力で武術に大変すぐれた。幕末には尊攘運動に加わった。74歳で寂。作品の落款は七十二翁物外題、印は冷暖生涯世間安楽、物外老人一号泥仏庵。「しら雲の上何もなし不二の山」。1865年=慶応元年の作。揮毫にかなを使うきさくな人のようだ。臨済宗の仙厓と好一対の僧だ。 Motsugai Husen was a zen monk who belonged to Sodoshu. He was very strong in power and judo. This calligraphy was written in 1865.

●澤庵宗彭 Soho Takuan 1573-1646
臨済宗の僧。但馬出石の生まれ。第154世大徳寺住持を3日務めたが、退いて堺、但馬の住持となる。出羽に流罪を経て徳川家光の要望で品川東海寺を開いた。書の人気は一貫して高い。落款、印より澤庵の作である。さて以下は私の解釈です。鉄鞋(てつあい)とは長年鉄靴が擦り潰れるほど探しても(悟りが)得られないの意味。無底飽風霜 帰来掛墻壁 阿錐是主 展開両手。「君は長い間飽くほど厳しい風霜に耐えた。だが今君はここの土壁まで帰って来た。阿錐が是に主となった。さあ両手を展開しなさい。」つまり”阿錐”の厳しい修行と悟りを称え、歓迎していると思う。墻壁:煉瓦、土などで築いた塀。 Takuan Soho was a zen monk who belonged to Daitokuji, Rinzaishu. He became a top of shinagawatokaiji at Edo according to a request of Tokugawa Shogun. The content written here is related to Satori; Asui, now you got a Satori and please come out to the sunshine here.

●三江紹益 Sanko Shoeki ?-1650 active ca. 1606-1650
雪山で寒苦六年、痩梅の一枝を与えられた。これを看ると大地に群生して、眼が豁開した。早朝吾は星を見て悟りの道に入った。是故皆に逢う毎に語っている。庚(=更=変わる=悟る)の7日前より座禅して不眠の工夫をした。天を仰ぎ明星を見て「悟道」と叫んだ。井戸を覗いて窺うときに天の傍らにいるのと似ている。黒面翁が突然出て言った。「若し星が無かったら、悟入る処もなかったのか。昏々処にこそ明歴々がある。定盤星を認めるなよ。(定盤星を認める=無駄なものに執着する)」吾は這裡(ここ)に言った。「そうではない。あるときは茅屋に定座して茶星が点ずるのを見た。あるときは花園に定座して陽星が点ずるのを見た。だが悟道に至らず。只遊山や玩水に同じであった。」黒面翁は笑って言った。「言うな。脚下を見よ。大光明が放っている。」卓一下云(高座から下の人に云う)。お咄(はなし)。偈(詩)を一つ、諸人聴取を乞う。冷坐苦行忘我形 天暁江上数峰考 夜来風雨是何事 洗出瞿曇氏(=釈迦)一星双眼。読みやすい文字なので、何とか読めたようです。印は三江、高水常久。「三江紹益 建仁寺295世。慶長11年(1606)入山。慶安3年(1650)寂。」 澤庵と同時期の建仁寺(京都 臨済宗)の住持です。 Sanko Shoeki was a zen monk, who was a top of Kenninji, Rinzaishu in Kyoto at early 17th century. The content is as follows; while he was doing zazens for 7 days under a cold climate, he suddenly got a Satori after just looking at a bright star(Venus) at dawn.

●独吼性獅 Dokku Shousi 1624-1688
中国福建省生れ。1654年隠元と共に来朝(31歳)。1661年宇治萬福寺へ隠元と共に移る。堂司として活躍し常に隠元を補佐。1672年(49歳)同寺の塔頭漢松院創建となり入る。1688年(64歳)死亡。落款は黄檗独吼道人書。印は独吼、西来一脈。作品は丙午之秋=1666年=寛文6年で42歳の書。かな様につなげて丸く書く所は本朝御家流的だ。隠元も独吼も影響を受けたと観る。未解読。 Dokku Shousi was a zen monk who came to Japan associated with Ingen. He lived at Ujimanpukuji in Kyoto. This calligraphy was written in 1666. A brush goes round and round. This style is originally a Japanese style like kana.

●無笑妙哲 Musho Myoutetsu ?-?
当初は全く読めなかったが、勢いがあり、元気の出る字で一見で好きになった。他に欲しい人はなく、送料だけの値段で購入。「興」(盛んになる)。「毎次花開 作華自来」(年毎に花は開き、華を作る時は自然に来る)。意味がわかって、増々大好き。無笑妙哲は不明の人。1300年頃に大同妙哲という臨済宗建仁寺の人がいたので同じ臨済宗と思う。 At first glance, I loved this calligraphy so much without knowing the meaning of the content. Musho Myoutetsu is unknown today and probably was a zen monk who belonged to Rinzaishu. "Flourishing(興). Flowers naturally come up in every year. Do'nt worry about blossoming."

●普巌宗賢 Hugen Souken 1619-1700、伯映 Hakuei ?-?
落款は龍阜普一子画、印は宗賢、普。龍阜は大徳寺のこと。普巌宗賢は臨済宗大徳寺派の僧で大徳寺塔頭の真珠庵15世になった。なお真珠庵は一休宗純開祖。画を好み、狩野安信に学ぶ。82才寂。賛の伯映は臨済宗妙心寺派円通寺(京都市左京区)の僧で同じ頃活躍した。この釈迦は丸々したやんちゃ兄のようでおもしろい。 Hugen Souken was a zen monk who belonged to Daitokuji, Rinzaishu. He was a pupil of a Yasunobu Kano's school. This Buddha has a round face and looks like a fatty man.

●鉄外呑鷟 Tetsugai Donsaku 1592-1679
臨済宗妙心寺派の禅門の人である。再吟の書があり有名な僧であったに違いない。鷟=おおとり。落款は鉄外叟書。”因果は明らかでありそれは暗くない。今ここに百回野狐に生まれ変わったままの野狐が百丈和尚(唐時代の禅僧)に尋ねた「禅の修行が良くでき大悟徹底した人でも、因果の法則を免れることはできないのですか?」と。百丈が言った「因果の法則を免れることはできない」と。そのとおり汝は野狐に百回生まれ変わる前は是誰だったのか”。このような内容です。この話は続きがあり、「野狐は百丈の言葉により大悟し、礼拝して退去した。翌日百丈は寺の裏山で死んだ狐をみつけ、荼毘に付し火葬した。つまり大悟にて野狐の身を脱することができた。なおこの作品は乾筆とかすれが大いに意趣を添えている。右に禅僧一休の書を示す。他呑鷟和尚の発言を著した本がある(右下)。 Tetsugai Donsaku was a zen monk who belonged to Myosinji, Rinzaishu. The written content is related to a karma. "No one can escape a karma.

●提宗慧全 Teishu Ezen 1592-1668
黄檗宗の僧。姫路藩主池田輝政の家臣臼井家の出身。池田家の菩提寺龍峰寺で出家、のちに住持となる。師と共に妙心寺天球院に住したが、その後黄檗隠元に参じ傾倒。黄檗派に帰した。画技に長じた。示寂、77才。落款は龍峰住山翁提宗筆并賛。印は慧全之印、提宗、慧全。賛は未解読だが男の描写を書いている。 Teishu Ezen was a zen monk who belonged to Obakushu. He was born in Himeji and became a top of a temple supported by a governor of Himeji, Ikeda.

●慈雲飲光 Jiun Onkou 1718-1805
真言宗の僧。大坂の高松藩蔵屋敷で生まれ、13歳に摂津法楽寺で出家。梵語、儒学、禅、各宗派を熱心に学ぶ。1744年(27歳)河内長栄寺、1758年(41歳)生駒雙龍庵、1776年(59歳)以後河内高貴寺。梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。88歳歿。書は大変人気あり。作品は無落款。印は慈雲、払塵除垢。「打月」は月を見れば月に当れの意味。「不昧」は「昧:暗い」で明るいこと。たぶん若書きと思う。下に別作品の印など。「垢」字は彫を後で加えたかも。 Jiun Onkou was a very famous monk who belonged to Shingonshu. He was very good at learning Sanskrit and calligraphy. His calligraphies has been favored by people. His works and seals taken from the other sites are shown below.

●瑞岡珍牛 Zuiko Chingyu 1743-1822、 無学愚禅 Mugaku Guzen 1733-1829
瑞岡珍牛。肥前生まれ。曹洞宗の僧。肥後東向寺で出家。江戸青松寺など歴任、尾張万松寺に落ち着く。晩年は尾張慶雲軒に退隠。画をよくした。80歳で寂。印は字曰瑞岡、珍牛印。無学愚禅。武蔵生まれ。曹洞宗の僧。加賀大乗寺43世。書が得意。印は愚僧、無学。この画につき以下引用。『百丈野鴨子』 馬祖道一が百丈を供に畦道を歩いていると、野鴨が飛び過ぎた。馬祖「あれはなんだ?」。百丈「野鴨子です」。馬祖「何処へ行った?」。百丈「向こうに飛んで行ってしまいました」。答えを返す百丈に、馬祖は百丈の鼻を掴みねじりあげた。百丈は忍痛の声を上げた。馬祖「飛んで行ったというが、野鴨はここにいるぞ」と迫った。百丈はこの一言で悟りが開けた。無学愚禅84歳、1816年の賛。瑞岡珍牛は74歳である。曹洞宗コンビの爽快作。 Zuikou Chingyu painted this picture. Mugaku Guzen made a kanji title. Both are zen monks who belonged to Sodoshu. The picture shows that Basodoitsu screwed Hyakujo's nose. Soon after the event, Hyakujo got a Satori.

栞 最後 

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●前権僧正 Zengonnosojou ?-?
前権僧正とは僧の階級を示すもので、固有名詞ではありません。印も読めず、不明の人。題は「風」。「吹枯木晴天雨有照木砂夏夜霜」。左の文も理解が今1つ。だけど好きでお気に入りの場所に常駐。江戸前期以前の作と思う。 Zengonnosojou(前権僧正) is a rank of a monk. The proper noun of this monk is unknown today. A right big character is Wind(風). This work anyway is my favorite. While I look at this calligraphy, my mind is so comfortable.

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